五十八

 管理人は学生たちにインスタントコーヒーを出し、思い出話をした。
「おばさん、むかしはきれいだったのよ。いまはシワだらけの大年増になっちゃったけどね。年月というのは、人にいろんなことを運んでくるから―」
 学生たちは一様にニコニコ笑うだけで、応えようがない顔つきだ。私には、〈いろんなこと〉というのが落胆と幻滅だとわかっていた。彼女が玄関の外でぼんやり煙草を吹かしている姿を何度か目撃していた。

  煙草をくわえ 新しい一日を呼吸する
  世界は古いままだ 

「新宿、池袋、男を連れてよく遊び歩いたわ。一橋大学のそばの喫茶店でウェイトレスしてたから、学生たちによく声をかけられてね。よりどりみどり。キンゼイ報告、性革命。そういう時代だったのね」
 山口がまずいコーヒーをすすりながら、
「性革命は、ベトナム反戦運動や公民権運動がきっかけになって広まったものです。ビートルズ、長髪、ミニスカート、ヒッピー。ぜんぶその象徴です。文化、風俗、スローガンの型に嵌まって情愛行動をとるというのにはさびしいものを感じますね」
 私は山口の言葉に異を唱えるように、
「山口、それは言いすぎだよ。管理人さんの行動は型どおりじゃなかったはずだ。たとえ型どおりだったとしても、型どおりに生きるのも一種の充実なんだ。古い月日が充実していると、新しい毎日は残酷なものになる。残酷なものにしないためには、古い月日の充実を忘れるしかない。ぼくも新しい毎日に没頭しながら、そうしようとがんばってる。現在が過去の残り滓だと思うのはあまりにもやるせないから」
 管理人はびっくりして私たちを見た。ほかの学生たちも私たち二人に視線を集めた。
「あなたたち、十六歳よね」
「はい」
「ませてるのね。古い月日に何があったのかしら」
「充実していたと感じるできごとです。幸運のせいでいまはもっと充実してます」
 そう言うと私は、ニヤニヤしている山口を見つめながら立ち上がった。山口も立った。
「さ、勉強。ごちそうさまでした。先輩がた、失礼します」
 山口の部屋でうまいコーヒーを飲む。
「おばさん、目を丸くしてたぜ。学生たちなんか、意味不明ってありさまだ」
「彼女の憂鬱の原因が見えたからね。若いころの愉しい恋愛だよ。亭主とは関係のない恋愛だと思う。むかしが輝いて見えるのは気の毒だ。何十年も忘れられないなんてね。精神的に何の対処もしないで忘れないことは、つまり、苦しむこともなくロマンチックな気分に浸りながら忘れないことはある種の怠惰だから、彼女は自堕落になってしまった」
「そんなところだな」
「取り戻せない思い出は、金箔を貼って後生大事に飾っておくんじゃなくて、現在を充実させるために、捏(こ)ね直して、それ以上のものを再生産しなくちゃいけない」
「文句なしだ……」
 山口はきょうも聴き慣れない曲を弾きはじめた。歌も入れたので、弾き終わるまで目をつぶって聴いた。
「いい曲だね。それに、意外なほど山口は喉がいい。びっくりした」
「さっき言ったビートルズの『ジス・ボーイ』だ。自分の女を奪っていった男のことを唄ってる」
「ビートルズにもこんないい曲があったとはね」
「やつらは素朴に古典を踏襲してる。これからもどんどんいい曲を創るはずだ」
「うるさいだけだと思ってたけど、これからは心して聴いてみるよ。……太宰治を読んで寝る。大家のものはあまり気が進まないけどね」
「太宰は大家じゃない、大芸術家だ。―また寝坊してしまうな。起こしてやろうか」
「いや、いい。朝のアパートのあわただしさが何とも言えず好きだ」
「勝手にしろ。猛勉も朝の〈行事〉を楽しみにしてるようだしな」
 寒い部屋の机に座り、全集の第一巻を手に取って、見返しをめくった。表扉に晩年と記されていた。オムニバスに編んだ一冊の本の名前なのか、一篇の小説の題名なのかわからなかった。
 最初の小説の題名は『葉』という変わったもので、三行詩が鮮やかに目に飛びこんできた。首を氷のかけらで撫ぜられたような気がした。

  撰ばれてあることの
  恍惚と不安と
  二つわれにあり


 衝撃的な文章がつづいた。

 死のうと思っていた。今年の正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

 山口の部屋へ走っていった。戸を開けると彼は机に向かっていた。
「山口、一週間、学校を休む。何か適当に猛勉に言っといてくれ。髄膜炎とかなんとか」
「髄膜炎?」
「どんな病気か知らないけど、重病の感じがするから。盲腸でも、インフルエンザでも何でもいい。とにかく適当に頼む。この十一冊を読み切りたいんだ」
「気に入ったのか」
「うん。すごいものだ。輝いてる。まぶしいくらいだ。とにかく、一気に読みたい。この作家に誠実な態度で接したい。頼む」
「わかった。三日ぐらいで出てきたほうがいいぞ」
「三日じゃ無理だ。じゃ頼んだぞ」
「おう」
 徹夜した。葉、思い出、魚服記、列車、地球図、猿ヶ島、雀こ、道化の華、猿面冠者。そこまで読み終えて昼まで寝た。ランニングを怠ったことが頭をよぎったが、すぐに忘れた。逆行、彼は昔の彼ならず、ロマネスク、玩具、陰火、と読んでいく。三時過ぎ、学校から帰った山口がコーヒーを差し入れにきて、テーブルに置くとすぐに戸を閉めて去った。西沢にはうまく伝えてくれたようだ。
 深夜まで、めくら草紙、ダス・ゲマイネ、雌に就いて、虚構の春、狂言の神、とこれで一巻を読破し、倒れこむように寝た。何時かわからなかった。寝る直前に山口がジャムパンとコーヒーを差し入れて、また声をかけずに戸を閉めた。
 ほとんどが異様な傑作だったが、とりわけ魚服記と逆行とロマネスクは人間業と思えなかった。なかでも逆行には、不安というものに対する求心力や、虚無から出発しようとする勇気と冒険や、精神的な黎明に向かって執拗に探求する心が満ちあふれていた。しかも、そのあまねく満ちあふれる精神の光は、子供のように幼い肌色の有機的なものではなく、紙のように緻密に凝縮して熟した大人の白い無機的な光だった。
 緊張が三日つづいた。山口に低頭して頼まれたのだろう、管理人が三日間、昼に握りめし三つと味噌汁を差し入れた。
「話は聞きました。思い切ったことするんですね。あんまり無理をしないように」
 ふと好意が芽生えた。
「ありがとうございます。おにぎりは二つでいいです。山口もパンを差し入れてくれてますから」
 四巻を終えて体力の限界にきた。半日ぶっ通しで眠って、四日目に突入し、蒲団に横たわったまま五巻を読み進んだ。待つ、正義と微笑、禁酒の心……。
 この男は思想詩とはちがうものを書いている。時代と流行の中で生きるいわゆる〈似非(えせ)芸術家〉ではない。彼はどんな環境にまぎれこんでいても真の芸術家の普遍的な魂を堅持していて、特殊な時代や流行を学習する人とはならない。彼の作品には人間だけがあって時代がない。その思いがページをめくるごとに強くなっていった。夜中にふたたび机に座り直した。背筋を正す。第六巻。
 考えてみれば、どれほど詩に没頭していても、ときおり息抜きをしたくなり、詩人の感覚とは別の種類の魂を仲立ちにして世の中を見たいと感じていた。最初、詩人以外の魂で世の中を経験することは不安な喜びだった。つまり、あるとき、おそらく谷崎を読んだことを契機にして、詩人への陶酔に疲れがきて、散文が響きはじめたのだった。言ってみれば、それは思想の熱のこもった部屋の中へ、官能的にのびやかな太古からの外気を入れるのに似ていた。
 短編で編んである新釈諸国噺を先に読む。貧の意地、大力、猿塚、人魚の海、破産、裸川、義理、女賊、赤い太鼓、粋人、遊興戒、吉野山、竹青。竹青が胸を抉った。
 五日目も蒲団の中で第六巻を読みつづけた。右大臣実朝を苦労して読み終え、大きく伸びをし、散華にさしかかった。ついに、体力ばかりでなく、神経の限界にきた。仰向けになり、目をつぶって自分の感覚を確かめた。太宰治が吹きこんだ空気はあまりにも新鮮でさわやかだった。すでに不在の人となっている彼の顔写真から発せられる悲哀は、私の部屋の空気に粒子のように拡散し、信じられないほどの明確な質量を持った。
「おーい、からだ、だいじょうぶか。いいかげんに無理はやめろ。声をかけてくれれば、いつでもパンとコーヒー差し入れるぞ。きょうはカツサンドだ」
「ありがとう。まだ六巻の途中だ」
「そろそろ、あしたから学校にいこうぜ」
「うん、そうしよう。そうしたほうがいい。くたくただ」
         †
 翌日、山口といっしょに学校へ出た。読み差した太宰治全集の第六巻をカバンに入れた。
「げっそりしたなあ」
「そろそろ六巻を読み切るからね。休み休みだったけど」
「十一巻一気にいかないと、太宰に対して不誠実な態度じゃなかったのか?」
「体力と神経がもたなかった。あとはコツコツ読む。あと一週間かかる。あしたから走らないと」
「それにしても、すごいスピードだ。俺は半年かけたぜ」
「学校のほうはどうなってる?」
「仰せのとおり猛勉に伝えたよ。笑ってた。信じてないな。ホームルームで、たぶん何か言われるぞ」
 愉快そうに笑った。案の定、西沢は開口一番、
「ダンディくん、全快おめでとう。アイ・ミス・ユー。髄膜炎で生き延びたとなると、十中八九知能低下を起こすそうだから、もう学校に出てきてもむだじゃないか?」
 と、気の毒そうに言った。これまででいちばん大きい爆笑が起こった。
「ほい、期末試験の成績表。クラス一番、全校四番。髄膜炎に罹る前だから、この成績は信用できる。ホームランほどじゃないがね」
 今度はいっせいに拍手が立ち昇った。
         †
 三人のクラスメイトが別々に三日連続で部屋にきた。初日は靴屋の藤田、二日目はガリ勉古山、三日目はチンバ目の小笠原。三人とも放課後、私の講堂のランニングが終わるのを見計らって勝手についてきた。おかげで三日間、素振りができなかった。
 初日。藤田は戸を背にどっかりあぐらをかき、眼鏡の奥の小さな目を卑しく光らせながらクラスの女のことばかり話していた。雑誌を棒のように丸めたり開いたりしている。平凡パンチという活字が見えた。
「梅津は美人だたて、人格が怪しな。けっこう遊んでんでねが」
「三上はイナカッペだ。頬っぺたが赤すぎる」
「花田はいいとこのお嬢さんだず。高嶺の花だべ」
「下山は、顔がデカい。色は白いたて」
 私にわかるのは、これがくだらない話だということだけだった。山口がわざわざ顔を覗かせて、
「馬鹿が利口に話を聞いてもらってるのか」
 するどい目で言った。藤田は動じない。私は、
「ぼくがすぐに顔を思い出せるのは、木谷千佳子と、味噌っ歯の鈴木睦子だけだ。そのほかの女は話を聞いてても、さっぱりわからない」
「やっぱりそういう話か。いいかげんに引きあげろよ。神無月は暇人じゃないんだ」
 そう言って山口は戻っていった。藤田は腰を上げようとせず、うつむいて、苦しげな表情になると、
「春の入学写真、ねが」
 と言った。抽斗から捜し出して渡した。
「ハサミ、ねが」
 ハサミも渡すと、やおら写真の最前列に写っている九人の女生徒を一かたまりに切り取り、細かく切り刻んだ。つづけて男子生徒も正方形に細かく裁断する。私は呆気にとられた。
「きみが持ってる写真を代わりにくれるんだろうね」
「オラのは、とっくに処分した。イイ男にはオラの気持ちはわがらねべ」
「ぼくがいい男? ま、いいや。だれが憎くて、切ったの?」
「それは言わね」
 立ち上がると挨拶もしないで帰っていった。まるで写真を切るためだけにやってきたようだった。


         五十九

 翌日、教室から断りもなくアパートまでついてきた古山にこのことを話すと、
「藤田は福島にふられたすけ」
 彼も戸を背にだらりと寝そべった。福島という女生徒の顔は浮かばなかった。
「それがぼくにどんな関係があるんだろう」
「おめみてなイイ男には、あれの気持ちはわがらね」
 藤田と同じことを言う。
「じゃ、どういう気持ちだ」
「心から追い出せねがら、写真を切って捨てる」
「はあ? 心を切って捨てればいいだろう。ほかの女に惚れるなりして。そんな理屈にもならない理屈、なんでわかってやらなきゃいけないんだ」
「……ンガのこどが気に食わねがったんだべ」
「なぜだ」
「アダマはいいし、野球はうめし、女にはもでるし」
「人間はちがうんだ。それがあきらめきれないなら努力しなくちゃいけない。努力できないならあきらめなくちゃいけない。ところで、いま言った三つのうち、当たってるのは野球だけだ」
「みんなおめの噂してるど。とぐに木谷がご執心だ。おめにじっと見られると、ふるえるってよ」
 ―じっと見る? 彼女が童話の本をペラペラやっていたときに見つめたことか?
 そういえばこのごろ読書疲れのせいか、眼に力を入れないと焦点を合わせられないことがある。朝方はスッキリ焦点が合うので、近眼が進んだせいとは思えない。
「目に力を入れるのは、近眼だからだよ」
「近眼てか? 眼鏡かけたらいがべせ」
「かけたくない」
「そういうわげにもいがねべ」
 古山は黒縁の眼鏡を外して私を見つめた。大きな潤んだ目をしていた。いくらか飛び出して見える。
「どんだ? 俺の目も色気あるべや」
「ぼくは忙しいんだ。きみたちほど勉強の根性はないし、いろいろ頑張らなくちゃいけないこともある」
 食うものねが、と訊くので、机にあった夜食用の食パンと、ばっちゃの送ってくれたホタテの貝柱を渡すと、むしゃむしゃ食いながら、ひとしきり昭和初期の歌謡曲について薀蓄を語った。私は聞いていなかった。どいつもこいつも、あつかましいにも程がある。
 古山が帰ると、私は机に向かってひたすら太宰を読みつづけた。日が翳ってくると、いつものように、文字が読みづらくなり、窓の外の景色が霞んだ。
         †
 三日目についてきた小笠原は、
「一晩、ナどいっしょの部屋で寝てみたかったんず」
 と言って、押入の上の段に蒲団を延べて横たわった。彼には少し心を許した。これまでの二人よりは話がまともにできるとわかっていたので、藤田の件を話題に出してみた。
「写真を切るのが目的でながったんでねが? きっと、ナが憎かったんだべな。思い余ったんだべ。だども、切ってるときは幸せだったべなァ。間接的に復讐したんだすけ」
「だれに? ぼくにじゃないだろう」
「おめにもよ。もでるすけ。おどごの写真も切ったべや」
「お門ちがいだ。しかし、いやに藤田に同情的だね」
「オラには経験ねェけんど、好きだった女をそごまで憎むのも、なかなかできることでねェでば」
 一般的な美談にしようとする。ムカムカしてきた。
「ぼくは好きな女を憎むことはしないな。何をされても」
「そら、マゾだ。小説の世界だべや。現実の人間がこっぴどくやられたら、憎むこともあると思うど」
 平凡な人間のわずらわしさを感じた。彼の家にいったときから感じていたことだった。
「きみもぼくが気に食わないんだね。ぼくに合わせてたのか」
「おめに合わせることはでぎねじゃ。天才だすけ」
 補習の帰り道で、垣根のない付き合いができそうだと感じたのは錯覚だったのだろうか。あまりにも早く彼の家を辞去したことが気に障ったのかもわからない。
「ワ、来年から野球部に入ることにしたじゃ。オラぐれの力でも、青高ならいずれレギュラーになれるべおん」
「それはどうかわからない。きみのボールはたしかに速い。エースも狙える。でも、来年から青高はレベルが上がると思う。なかなかレギュラーには入りこめない。ぼくが推薦してあげようか」
「推薦しなくていじゃ。自力で勝ち取るすけ」
 野手同士のキャッチボールならあの程度でもかまわないが、ピッチャーとなるとボールの力とノビが要る。おまけに小笠原はいまのところ百四十キロ以上出せる肩ではない。
「大学でも野球やりてな」
「大学といわず、ノンプロ、プロ、と昇っていけよ」
「それは無理だじゃ。オラの野球は素人だ。数学を勉強しながら、趣味としてせ」
「趣味か……。それなら野球部には入らないほうがいい。自分で素人と言ってるようじゃだめだ。来年は、青高は本気で甲子園を目指すつもりだからね」
「また、おめだげのチームになるんでねが? 今年はフロックだべや」
 血が冷えた。
「そんなふうに思ってたとはね。たぶん、それがみんなの気持ちなんだろう。それじゃ部活動も応援も、娯楽になってしまう。きみのような人間が現れて当然だ。帰ってくれないか。ぼくは真剣に野球をやってるんだ。来年だめなら、再来年もがんばる」
「がんばってどうすんのよ」
「がんばるだけだ。それがぼくの人生だ。再来年がだめなら、大学でがんばる」
「プロでねのな」
「高卒だと、親の妨害が入る。だから、がんばりつづけるしかない。妨害が入らない状況になるまで、それとも妨害をあきらめてくれるかしないかぎり、プロにはいけない」
「プロに入るのをじゃまする親が世の中にいるもんだってが。大出世だべに」
「いるんだ! 野球なんかバカのやることだと信じてる人間が、この世にいるんだ! 東大こそ、この世の最高価値だと信じてる人間がいるんだ! だから、東大の入学証明を取ってからプロにいかなくちゃならないんだ」
「でたらめだァ。そたら親がいるもんだってが。おめが東大さいきてだげだべ」 
 小笠原はフンと言って立ち上がると、足音荒く廊下を去っていった。一瞬、この高校にいたくないという気持ちが湧き上がった。その気持ちはすぐに治まった。昇りかけた階段の途中で降りるわけにはいかない。それに青森高校には、山口がいる。
 私はパンツ一丁になり、バットを持って玄関を出ると、裏庭へいって息が上がるまで素振りをした。
          †
 十二月八日水曜日、雨音のする深更、太宰治全集十一巻を読み終えた。
 巻数が進むにつれて、少しばかり感激が薄れてきたことに驚いた。彼が打ち出している苦悩の根が浅いと感じたことと、スノッブな姿勢が鼻についたことが原因だった。ただ彼が文章の天才であることはまぎれもなかった。谷崎と比べて、魂や肉体の重みといったものは伝わってこなかったが、文章の技巧には舌を巻くものがあった。それはたしかに、最初に感じたとおり、官能的で清新な外気だったけれども、普遍的な精神ではなかった。じょうずに取りこんだ時代や流行の気配があり、普遍を求めるほんものの詩人たちの豊かな精神の熱を凌駕するものではなかった。エセ詩人の趣があった。私は詩魂に対する情熱をあらためて温め直し、もっと丹精こめて詩を書かなければならないと思った。
 それからしばらくのあいだ、トレーニングと学校の勉強と併行させながら、和洋の現代詩の本質を見つめ直し、基礎的な知識を吸収するために、詩に関わる本を読むことに精を出した。書店で目につくかぎり現代詩に関係した雑誌を買い漁って読みこむ。
 現代詩はとりたてて刺激的なものではなかった。心の奥底に響いてこなかった。詩を学術にすることだけを一つの関心事にしていて、言葉の色合いに愛が感じられなかった。
 私はこれまで、詩を書くことが何を運んでくるのか、という問いには答えたことがなかった。ぼんやりと、愛だと思っていた。私は自分にとってこの世でもっとも崇高だと思われるもの、自分の天職と感じるもの、芸術家として名誉を約束してくれるかもしれないもの、つまり山口の言う〈精神と言葉の力〉は、愛の表現手段だと信頼し、身を委ねてきたのにちがいなかった。そしてその力はきっと私の眼光を鋭くし、私の蒙昧を啓き、骨のない言葉を見破る慧眼の者にしてくれると信じてきたのにちがいなかった。
 ―でも、詩を書くことが人間の普遍的心情を杓子定規に表現するだけで、愛する者への架け橋にならないとしたら?
 そう考えると恐ろしかった。現代詩人たちは、自分の普遍的心情を表現することさえせず、情緒的な他人との関わり合いも葬ろうとあくせくしていた。中原中也は一人もいなかった。
 彼らにとって詩とは、心情世界から遠く切り離された、同類たちの音信の玩具であるらしかった。ある現代詩人Aの見るところでは、ある同朋の詩人Bには才能もあれば、欠かせない教養というものもあり、それが芸術を広く見る目を与えていると言うのだった。

 ……何よりも目覚しく見えるのは、この詩人自身の魂にひそんでいる創造力の現れである。詩の中のどんな微細な点にも詩人の魂が浸透しており、すべてに法則が遵られ、内的な力がこもっている。これは明らかに、すべて外界から抽出してきたものを、ひとまず自分の心魂の中に取りいれ、それを過去の詩人たちの軌跡を範に、改めてある調子の整った荘重な歌として魂の底から謳い出したものにちがいない……。

 私にはこの文章が何を言っているのかさっぱりわからなかったけれども、伝統を忘れず独創するという山口の言ったようなことなのだろうと考え直した。しかし、実際にBの詩を読んでみても、独創性も言語を駆使する才能も感じなかった。それ以前に美しくなかった。となると、AがBの才能を信じていると口に出すのは、ひとえにBが見返りを期待して、どこかの雑誌でAの作品や思想を誉め、是認しているせいとしか考えられなかった。文学界というのは、おたがいに誉めたり助けたりしなければ成り立たない仕組みになっているのだろう。ビートジェネレーションの小説を読んだときに覚えた違和感と同じ気持ちの悪さだった。こんなものが才能と教養にあふれたものと規定されるなら、そしてこんなものを書かなければ詩人と認識されないなら、私は詩人である必要はない。
 第二の階段の先の、愛する者たちが潜む断崖に架かる橋などない。私の作品の発表場所はない。発表場所がない以上、私は愛する者たちに作品を示すことはできないだろう。私は〈なる〉かもしれない野球選手になりおおせたら、すでに私の中に〈ある〉かもしれない詩人の可能性を探ることはできず、〈なったもの〉でありつづけなければならない。
 私は椅子に背を丸めて考えこんだ。文学界に対する絶望から、人生最初の宿命的な沈思が始まった。何の解決も見出せない沈思……。窓の外に薄白く八甲田山がそびえているのが見え、風のざわめく音が聞こえた。神経を齧られるような悲しみが、ちょうど心臓の鼓動や呼吸のように心の奥深くに芽生え、私のからだの底に根づいた。


         六十 

 十二月九日木曜日。窓の外に粉雪がチラついている。十一時を回ったばかりだった。首にタオルを巻き、パンツ一枚になって、裏庭で深夜の素振りをしたあと、便所の水場で足を洗い、濡れた足をタオルで拭いた。部屋に戻って、部室から持ち帰っていたグローブにグリースを塗りはじめた。長い期間にわたった読書の深い疲れを感じながら、これをやり終えたら蒲団に入ろうと思っていた。ようやくタオルで乾拭きを終え、机の上に置いてふと振り返ると、管理人の女が戸をそっと引いて入ってきた。何もかも忘れて好色であろうとすることを決意したような表情だった。
「グローブのお手入れ?」
 意識して声を殺している。
「はい」
「……夫は寝ました。二日ぐらい夜通し書いていたので、もうグッスリ」
 とつぜん抱きついてきた。求めてくる唇を避け、
「わかりました。一度だけしましょう。横になってください。妊娠はだいじょうぶですね」
「もうアガッてます」
「隣の部屋はだいじょうぶですか」
「上級生に混じって上で麻雀やってます。朝まで」
 彼女は服を着たまま万年蒲団に横たわり、胸に手を置いて目をつぶった。私はパンツを脱いだ。厚手のスカートをめくると、下には何もつけていなかった。
「お風呂に入ってきたからきれいです」
 陰毛は美しい縦型で、濃かった。腹を指先でさすり、太腿をさする。管理人はかすかにため息をつき、
「慣れてるんですね。よかった。遠慮がなくなりました」
 彼女はみずから開き、顔を手で覆った。いつもの観察はしなかった。年齢のわりにはきれいな性器に見えた。膣に指を入れると腹をクッと引っこめ呼吸を止めた。よく濡れていた。指を動かすと、感覚に集中する女らしい表情が現れた。
「あなたも慣れてますね」
「若いころはよく遊んだ口。でも、恥ずかしいですけど、もう十年以上してないんです」
 指を入れたまま、小陰唇からクリトリスを舐め上げる。思わず声を上げ、まくり上げたスカートの裾を口に持っていって噛みしめた。何ほどもしないうちに、息を弾ませて果てた。アクメの声は上げなかった。ゆっくり挿入する。よく濡れているが包んでこない。カズちゃんにするように深浅の抽送を繰り返す。上壁にかすかな引っかかりがあるだけで、膣全体に何の変化も起こらない。彼女は横を向いて目を閉じたままだ。長くかかりそうだ。
 ―どんなときも出すようにしなさい。
 カズちゃんの声が聞こえ、自分だけの射精を意識しながら摩擦の弱い洞を大きく往復する。ふと女の眉根に皺が寄った。とたん、膣壁が狭まった。戸を開けて入ってきたときの好色な面持ちがすっかり溶け、快感のことだけを考える顔になっている。引きこするように往復すると、いよいよ膣壁が狭まり、眉根の皺が深くなった。無言のままだ。アクメに達しようとする膣特有の収縮が感じられたので、深浅のスピードを上げた。壁が迫ってきた。射精できそうだ。彼女は私の汚れた枕でしっかり口を塞いだ。目がきつく閉じられる。アクメを待ち構える表情から初めての感覚ではなさそうだとわかって、私は安心し、管理人の腰をしっかり押さえて射精した。ブルッと両脚が伸びたかと思うと、枕を咬みながらグーとうめいた。私は律動を前後運動にして伝えた。
「アッア、イッ!」
 陰茎と握手するように膣が収縮する。何度も反射的に陰阜を押しつけてくる。強烈でリズミカルな膣の緊縛を陰茎に受け止める。嵐が去るまで、動かず結合したままでいる。管理人はもう一度強く痙攣して腹を縮めた。プハッと荒く呼吸し、咬んでいた枕を離し、ブラウスの胸を抱きかかえた。結合したまま下腹を止めどなくふるわせている。
「あああ、クウウウ!」
 口から吐く息が歯磨き粉くさい。私の背中を強く抱き、坊主頭を引き寄せる。私は即座に引き抜き、机に置いてあるティシュは間に合わないと見て、私のパンツを当ててやった。蒲団を汚さないためだ。女の腹の筋肉がいつまでも収縮する。私は机の椅子に座って自分のものをティシュで拭いながら、管理人のからだがしだいに落ち着いていくのを見守っていた。やがて彼女は、つぶっていた目を開き、
「幸せ……ありがとう、神無月さん。ものすごく気持ちよかったです。十何年ぶりかで気持ちよくなりました。ほんとにありがとう。このパンツ、洗濯してお返しします」
「捨ててください。届けようがないでしょう」
 管理人はさびしげな面持ちで、スカートを膝まで下ろすと、快楽のほてりを包んだ半身を起こし、何気なく私のものを見た。驚きの色が一瞬目に浮かんだが、視線を逸らし、
「……うらやましいこと。野球ができて、勉強ができて、セックスがじょうずで。……これからは、せいぜい健康管理に気をつけてあげますね」
 丁寧な言葉遣いになった。
「お願いがあります。ぼくの朝帰りをとやかく言わないことと、ときどきここに訪ねてくる女の人を無視すること」
 管理人は微笑し、
「わかりました。お盛んなのね」
「いえ、話し相手です。あなたは青森にきて初めてセックスした女です。……素人の女です」
「ほんとうですか。……信じます。お暇なとき、たまにきていいですか?」
「いいですよ。ただし用心に用心を重ねてください。もめごとが起きそうになったら、ぼくはここを出ていきます」
「そんなことにはぜったいならないように気をつけます。安心して。私のことは道具みたいに思ってくれればいいですから」
「あなたの名前は何と言うんですか」
 視線に茶目っ気を含ませ、
「名前を聞いたら責任重大よ。大人が名前を知り合う仲になるってことは、結局は恋人同士になるってことでしょう? ふふ、冗談です。百合子、羽島百合子。〈おばさん〉でいいです。〈あなた〉はやめてくださいね。他人行儀で突き放されてる感じ。……神無月さんが高校を出るころには、私は五十歳ですね」
「足し算して年齢を考えていると、その年齢が思い出になる高齢者になったとき、悲しみが大きいですよ。ユリさんは四十七歳、ぼくは十六歳で出会った。それだけでじゅうぶんです」
「ユリさん……うれしい。じゃ、私、帰ります」
 パンツを丸めて握り、入ってきたときと同じように、そっと戸を開けて出ていった。
         † 
 翌日、学校の廊下で山口に、
「きのうの夜遅くおばさんがきた。ことが終わったあとで、これからもたまにくるけどいいかって訊くから、用心してくれるならいいよって答えた」
「やっぱりきたか。ここのところ、女の目をしてたからな。まあ、性処理だと思ってがまんしろ」
「そうだね、妊娠しないというのは安心だ。道具だと思ってくれと言ってたけど、そういう意味だよね」
「妊娠しないというより、もろに性処理用という意味だ。南極一号というのは南極に持ってったダッチワイフだからな。あのおばさん、そこまで割り切ってるんだな。旦那はどうなってるんだろう」
「十年以上抱いてもらってないと言ってた」
「そりゃ、この先永久にということだぜ。おばさんも切実だな。しかし、長い孤閨の果てに、畏れ多い男に抱いてもらえたんだから本望だろう」
 帰宅すると、漂白したように真っ白くなったパンツが机の上に畳んで置いてあった。
         †
 十二月十日の金曜日のホームルームで猛勉が、クラス旅行とやらをみんなに諮った。何ごとかと教室がざわめき立った。彼は糊の効いた開襟シャツから細い首を突き出し、尖った喉仏をひくつかせながら言った。
「三日ぐらい天気だったせいで、すっかり雪が解けてしまったな。本降りの雪がくるのは下旬からだ。よかった、よかった。今年もバス遊山に出かけられる。毎年秋にやってたんだが、今年は野球で盛り上がったこともあって、ボーッとしているうちに秋と言うより冬にかかってしまった。とにかくいこう。あさって十二日、日曜日、朝九時校庭集合。これは私が勝手に決めた恒例の行事だ。旅費の心配はいらない。目的地はおまえたちが話し合って決めてくれ。次の時限は私の数学だから、それもぜんぶ使っていいぞ」
 西沢が教卓の脇に置いてある椅子に腰を落ち着けると、議長を買って出た室長の松岡が全員に命じて円卓を組ませた。仲間たちの顔がほとんど間近に見える。山口が私の隣に坐った。
「やつらのバカ面をあらためて見た感想はどうだ?」
「面と向かうと、なんか恥ずかしい感じだ」
「いい機会だ、おまえの言う異能者とやらの目鼻立ちをとっくり観察しておけ。女もな」
「山口、旅行のとき、ギター持っていきなよ。みんなに聴かせてやろう。あの腕前を隠しておくのはもったいない」
 ―きみは芸術家になってくれ。ぼくの代わりに。音楽界は文学界とちがって、真の技芸、真の感化力に頭を垂れるだろう。
「聴かせるチャンスがあるかな。ま、持っていくだけは持っていこう。流行歌の伴奏ぐらいなら簡単だ」
 二学期もおしまいに近いというのに、私がなんとか顔と名前を結びつけられる男子生徒の数は十人に足りなかった。チビタンクの中島に似ている松岡。S学会の信者で、きみも立派な青年になれるというのが口癖だ。英語の鬼古山、虎の巻男佐久間、写真切りの嫉妬屋藤田、片チンバ目の凡人小笠原、数学の裸足男奥田、地学の異星人小田切、膝の水自慢野郎武藤、ペンキ屋のトランペッター千葉―この男は授業中いつも目をつぶって腕組みをしている。当てられると目をつぶったまま、わかりません、と言う。ジャズ部のトランペッターだという噂だ。聴いたことはない。
 女となると、きょう初めて見ると言っていい顔ばかりだ。どことなく媚態のある女、福笑いのような目をした女、頬の赤いおかっぱの女、眉毛の濃いギョロ目の女、色白で角面の女……。藤田を振った福島という女はどこだ。知っている顔もいる。水泳大会に出ていたグラマーな味噌っ歯の女は、副室長の鈴木睦子だ。そして、そして私に見つめられてふるえたという木谷千佳子。すらりとした体格と鹿の脚。彼女の表情には、ほかの女子には見られない何か漠とした明るい世界が感じられる。その木谷が立ち上がって提案した。
「十和田湖は、どんでしょう」
 訛りがきつかった。照れくさいのか一語発するごとに自分でクスクス笑う仕草は煩わしかったけれども、それだけいっそう慎ましさが強調されていて魅力的でもあった。
「月並みだし、遠いですね」
 松岡が一蹴した。
「〈立派な青年〉は木造中学の出身だから、目的地をなんとか地元に近づけようという魂胆だ。やつがいきたがってる場所を提案すれば、一発で決まる」
 山口が耳打ちした。武藤が得意げに周囲を見回し、
「仏ヶ浦へいってみるが。恐山回ってよ」 
「さっき言ったように、遠いところは避けましょう。日帰りですから。この時期、下北の景色は美しいでしょうけど」
 また山口の耳打ち。
「うさぎ跳び野郎、長患いのオヤジが死にそうだって言いふらしてやがる。わけのわからん神経だ。父一人子一人なんだそうだ。それがどうした? オヤジが死んで天涯孤独の身になるかどうか、恐山で占ってもらうつもりか。巫女は預言者じゃない。死んだやつを呼び出す役回りだぜ」
「山口は、よっぽどみんなのことが気に入らないんだな」
「おまえ以外はな。ありもしない知力体力を懸命につけようとしている連中の仲間である自分を恥じらいつつ、自他ともに冷言を呈しているというしだいだ」
「複雑だね。ところで、福島というのは?」
「ああ、左端にいる。ほら、眼鏡かけたり外したりして、気どって薄笑いしてるだろ。笑いだけじゃない、顔も薄っぺらい。だいたい、人に想われる顔じゃない。藤田もよくあんなのを。ま、馬鹿にはお似合いか」
 藤田は女の群れから顔を逸らし、憮然とした表情で天井の一点を見つめている。ダメを出された木谷も含めて、女子生徒はもうだれも案を出そうとせず、ぼんやりと成りゆきを見守っていた。頭を掻きながら山口が立ち上がった。
「浅虫は近すぎるか?」
 わざと木造から離れた場所を提案する。
「温泉につかるなどという贅沢なことはできません。あくまでも費用は西沢先生が自腹を切って捻出なさるんです。それに、浅虫には自然らしい自然がありませんね」
 山口はドスンと腰を下し、
「な、図星だろ。あとは、蟹田か、龍飛か、大鰐にしぼられたぞ」


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