七十三
 
 朝の寝床の枕もとに山口の顔がある。
「学年末考査、きのう最終日だったんだろ。調子はどう?」
「最悪だ。おまえがこんな状態じゃ、頭なんか回らないよ。じゃ、朝めし食って学校いってくる」
 ガラス戸の外に雪が降っている。ときどき強い風が吹き、庭木をしならせた。埃のような雪が舞い上がるのが寝床から見える。食わなければこのまま快復しないで寝こんでしまうだろうと思い、起き上がって食堂へいった。拾い物の命を少しでも生き延びさせなければならない。学生たちが無言で朝めしを食っていた。めしどきにしか見かけない顔ばかりだった。テーブルにつくと、端っこの席にいた山口がびっくりしてやってきた。
「だめだ、寝てなきゃ!」
「きょうは、いけそうだ。ただの風邪だよ。動いて治す」
「……わかった。教室では目を離さんぞ」
 山口はテーブルに戻り、鮭の切り身を箸でほぐすと、飯といっしょにかつかつと噛んだ。私はやはり食欲がなく、味噌汁だけを飲んだ。
 山口に押入の教科書をカバンに詰めてもらった。始業の鐘が鳴る寸前になってから、山口といっしょに登校した。熱のせいで寒さを感じなかった。雪の中を学生たちの群れが掃除機に吸われるように校舎へ入っていく。よろよろするからだで学校に出ることに、不思議な喜びを感じた。
「うれしいな、生きてることって」
「ああ、うれしい。……押入に紐で縛った本がどっさりあったが、捨てるつもりだったのか」
「ああ、もう要らないものだ。これからは、たまたま手にした本を読もうと思う」
 カズちゃんや山口の高みへどうやって昇ればいいのか、その方法がわかるまでは、とりあえず律儀な習慣を遵(まも)りながら健康を取り戻そう。それからじっくり考えよう。終業式まであとひと月と少しだ。春休みに入ったら、何日でもゆっくり寝ながら考えられる。
「だいじょうぶか、神無月! 何だ、その顔は! ダンディが台なしだぞ」
 西沢は無残に痩せた私の顔を一目見て、思わず教壇から下りた。クラスメイトたちは最初驚きの目を剥いたが、すぐに視線を逸らした。見つめていられない顔だったのだろう。
「しばらく風邪で寝こみました。もうだいじょうぶです」
 一時間目は英語の特別教室への移動だったけれども、からだが大儀だったので、西沢に申し出て、そのまま五組の一般教室に置いてもらった。平常クラスの授業を新鮮な気分で受けた。同じ教科書のリーダーなのに、無意味な暗誦もなく、懇切丁寧に文法中心の講義を進める教師の態度を見て、クラス替えをしたいと思うほどの感銘を受けた。しかし、せっかく真剣に聞いていても、頭と目に力が入らず、ときどき肺の奥から気持ちの悪い咳が出た。快復の近い、芯のないものに思われたが、はたの気持ちを考えて、かならず掌で口を塞いだ。
 二時間目、三時間目、漢文、地理とつづき、だれとも口を利かず、授業も夢うつつの中で聞いた。授業ごとに、生あくびの回数が増え、からだの具合が悪くなっていった。山口は口を出さずにその様子を見守り、ほかの生徒は、授業の遅れを取り戻すあたりまえの態度として黙殺していた。
 昼休みの時間になって、木谷千佳子が保健室から葛根湯(かっこんとう)という漢方薬をもらってきて、
「これ、飲んでけへ」
 と、差し出した。コップの水も用意していた。
「どしたの? 首」
 赤黒い首の輪を指差して訊いた。木谷以外、教師も生徒もだれ一人訊かなかったので、私はありがたく思い、素直に答えた。
「首吊りに失敗しちゃってね」
 木谷は私の目を見て、どう反応したらいいかわからず、ただ微笑した。
「早ぐ帰って寝たほうがいいと思る。あったかぐして」
「だいじょうぶ。ひさしぶりの授業が楽しいんだ」
 私は礼を言い、指一本動かすのも億劫な手で薬包を開き、コップを握って飲んだ。即効性の薬ではないようで、一向に具合はよくならなかった。
 午後になると、脂汗が流れはじめた。目を開けても閉じても、頭がぐらぐらして吐き気がする。暗い教室に蛍光灯が点いた。トランペットの千葉がスイッチのそばから離れ、照れくさそうに自分の席へ戻っていく。窓に蛍光灯の弱々しい光が反射した。なぜか古山が窓際の席に移って私を見つめている。風邪を移されたくないとでも申し出たのだろう。視線に妙な仲間意識がある。
 きれいに剃りあげた丸顔に大きな黒縁の眼鏡をかけた相馬が入ってきた。古山が大儀そうに号令をかける。
「起立、礼、着席」
「はい、おはようさん」
 相馬は出席をとって返事を確かめ、プリントを配りはじめた。
「さあ、遊びの時間だよ。きみたちは英語や数学でくたびれちゃってるから、国語の時間ぐらいは息抜きしないとね」
 実際彼は、試験問題でも毎回息抜きの一問を混入する茶目っ気があって、入学してすぐの中間試験で、穴埋め問題の記号を並べ替えたら《ソウマセンセイヨイセンセイ》になっていたことがあった。みんな種明かしを聞かされたあとで爆笑したものだった。
「きょうは、外国の詩だ」
 若くて元気のいい相馬は、野球部ではこれっぽっちも指導的な態度をとらず、あれほど部員たちに親身に溶けこんでいるのに、授業では面相が一変して、ほかの教師たちの型どおりの教え方を軽蔑しているふうを隠さない。自分はもっと新味のある授業ができることをわからせようという、我の強い講義をするタイプなのだ。
 彼の授業は毎回、自分の過去の知的な逍遥から拾ってきた文学作品を生徒に読み上げさせる形をとった。その日配られた藁半紙には、ヒメネスの『青春』という詩が、活字のようにきれいな手書きの文字でガリ版刷りしてあった。教室の中がさらに翳り、雪が窓をよぎりはじめた。
「まず、黙読」

  
あの日の午後 女に言った
  私は町を出て行くと
  女は悲しげに私を見た―そのいとしさ!
  ほのかに笑みを浮かべて
  女は言った なぜいってしまうの?
  私は言った この谷の静けさが
  私に経帷子(きょうかたびら)を着せるから
  私が死者ででもあるかのように

  ―なぜいってしまうの?
  私の胸が叫ぼうとしているのを感じた
  この沈黙の谷間の中で
  私は叫びたい だがだめだ
  女は言った どこへいくの?
  私は言った 空がもっと高く
  私の上でこんなに星が
  輝いていないところへ


 経帷子と星。男は女の生ぬるい愛撫を嫌い、社会的な成功者としての高みへ向かって旅立とうとしている。利己的な向上欲までで思考がストップした男の話だ。脂汗がひどくなってきた。こめかみの動悸がハッキリ感じられ、吐き気寸前のめまいといっしょに絶えず生あくびが昇ってくる。
 私たちが黙読を課されているあいだ、相馬の指が名簿の上をなぞっている。それは形ばかりになぞられるだけで、当てられるのはいつも女子生徒の中の一人だ。鈴木睦子の名が呼ばれた。
「おまえなりの解釈で、読んでみろ。座ったままでいい」
 鈴木睦子は緊張した声で読みはじめた。感情がこもり、いやなふるえ方をする。相馬はそれを感激と受け取ったらしく、満足げにうなずく。
 味噌っ歯の鈴木は、私の上でこんなに星が輝いていないところへ、というところまで読んで中断した。頬を拭っている。これは泣くような詩ではない。せせら笑うか、それとも無視するかしなければならない詩だ。社会的成功者としての高みを求めて、退屈な愛撫から〈より高い〉世俗の地平へ〈逃亡〉しようとする男の詩だ。
 ―こんなに星が輝いていないところへ。
 いままさに一人の女が、男の単純な焦慮の生贄に供されようとしている。それだけの詩で、人間の深く美しい魂は謳われていない。こんな詩を読んで泣くのは、失恋という一般的な男女の恋愛事情に対するセンチな雷同だろう。せせら笑ったり無視したりするのは尊大な反応ではあっても、豊かな精神的経験に研ぎ澄まされた神経のふるえだ。それがわからないということは、彼女が精神的鍛錬のないゆるんだ人生の中にいて、あさはかな焦慮の被害にも遇わずに、どこかで助かってきたからだ。
 私の頭に、夜の森を映していたあの瀞のような、ぬめぬめとした性器が浮かんだ。詩の表現の狡猾さから、この男は別のぬめりの中へ立ち去ろうとしているとクラス連中に誤解されていた。恋人は男に無理な告白を強いていると誤解されていた。彼女は男の好色の予感に戦いていると誤解されていた。男の好色がもたらす嫉妬を、精いっぱい、誇りに満ちた悲しみに変えようとしていると誤解されていた。私はあなたが去ったら死ぬ、と言っているだけなのに。
 別れを告げられたこの女は死ぬだろう。男にいっとき愛された瀞の性器を抱いて。林檎の樹のミーガンのように。
 字がかすんで見える。早退しようか。
「睦子、早く読め。もう少しだ」
 相馬の声がした。鈴木睦子は微笑むようなふりをして、最後のスタンザにかかった。

  
女はかなたの無人の谷間に
  黒いまなざしを沈めた
  そして悲しげに黙っていた
  ほのかに笑みを浮かべて


 氷のようなものが心臓に触り、抑えようもなくからだがふるえはじめた。もし森で死んでいたら、別れを告げていたら、私はカズちゃんを殺すところだった。たまらない恥ずかしさが襲ってきた。空しさに甘えて、こんな簡単に、彼女から愛されている命を見かぎろうとした恥ずかしさだった。私には、みっともなく愛に甘え、命にこだわり、じっと留まる根気が必要だった。もし死んでいたら、私の根気のなさをカズちゃんがせせら笑い、黙殺しただろうか。したはずがない。ただあとを追ったのだ。私は沈黙の谷間へ戻っていってカズちゃんを抱き締めなければならない!
「先生、帰ります。ちょっと体調が……」
 教室がざわめいた。横になって泣きたいという強い衝動を抑えられなかった。 
「おお、帰っていいぞ! さっきから具合が悪そうだな。天才ホームラン王も風邪には敵わないか」
 私はふらふらと立ち上がった。呼吸が荒くなり胸が波打った。脂汗まみれのからだの中を熱に炙られた血がめぐり、立っていられなくなった。崩れるように横倒しになった。カズちゃんの家の玄関でより激しく倒れた。
「神無月、だいじょうぶかあ!」
 一キロも遠くから山口の声が聞こえた。
「山口、すまなかった、ぼくは生きるぞ!」
 横たわったまま叫んだ。こらえていた涙が流れ出した。どやどやと何人もの足音が駆け寄ってくる。
「わいはあ、真っ青だっきゃ! 保健室へいぐべし」
 木谷千佳子がしゃがみこんで言った。私は、だいじょうぶ、と唇だけで応えて立ち上がろうとした。
「だいじょうぶなはずねがべ!」
 と木谷は強い調子で言い、私のからだを抱き締めるように支えた。山口が飛んできて木谷を脇へ押しやり、私の腕を肩に引き上げた。相馬もあわてて教壇から降りてきて、
「早く帰って寝ろ! 最近へんに痩せちまったぞ。美男子が形無しだ。しかし、なんだか安心するよ。神無月も人間だったんだな。山口、同じアパートだろ。頼むぞ。たぶんインフルエンザだ。四、五日寝れば治る」
「わかりました!」
 木谷が私のカバンを持った。山口がそれを奪い取った。木谷は身も世もない顔をしている。彼に支えられて廊下に出ると、大急ぎで古山があとを追ってきた。
「ワもいぐじゃ。酒コ、買ってける。飲んだほうが寝れるど」
「心配しなくていい。しかし、酒は名案だ。俺が買って帰る。そばに寄るな、インフルエンザが移る」
 山口は平然と言った。古山は私たちに卑屈に笑いかけた。
「だいじょうぶだよ、古山。ありがとう。あそこでお土産もらってきちゃった」
 山口がキョトンとすると、古山はニヤニヤしながら、
「おめも人間だすけな」
 と言って廊下を引き返していった。


         七十四

「あいつに売春宿の土間で遇った」
「そうか。俺は佐久間にぶつかったことがある」
「山口がときどきいくのは、あそこか」
「ああ、あそこにある三棟のうちの一軒だ」
「顔の小さい、五十くらいのおばさんと寝たことは?」
「うーん、ないな。……きょうの詩が引き金か、具合が悪くなったのは」
 ひっそりした廊下をおぼつかない足取りで歩きながら、私は言った。
「わからない……でもいい詩だった。無能な人間が本質的に抱えている抜き差しならない卑怯さが胸にきた。森に入るまでのぼくが抱えていた卑怯さだった」
「抜き差しならない卑怯さか……。いい表現だ。俺は、女に自分を重ねた。抜き差しならない恐怖。おまえを失いかけたときの恐怖だ。おまえがいなくなるのは悲しみどころじゃない、恐怖だ。さっきおまえが生きるぞと怒鳴ったとき、危うく泣くところだった。叫びたいくらいうれしかった。みんなおまえのウワゴトだと思ったみたいだな。やつらにおまえの何がわかる。べたべたとくっつきやがって。やつらに和子さんを見せてやれないのが残念だ。見せたら、腐れマンコなんか近づけなくなるぞ」
 私は数日ぶりに声を上げて笑った。山口も仕方なく笑って言った。
「俺が惚れてる神無月郷という人間は、有能とか、無能とか、そういう範疇にいる人間じゃないんだ。ひたすら失うのが恐ろしい存在だ。残念ながら、そういう人間にも心臓や血管があるから、下手すると死んじまう。殺さないようにしなくちゃな」
 雪の降る校庭に出た。水気を含んだすがすがしい空気に包まれた。学生服の前ボタンを外した。山口は私の赤い首の輪を痛々しそうに撫ぜた。野球グランド沿いの一本道を通って門を出る。車が雪のベールの中を通り過ぎる。泥しぶきを避けながら道を渡った。
 山口は関野商店で事情を話し、酒を売ってくれるように頼んだ。店主は笑いながら四合瓶を山口に渡し、
「持ってげ。玉子落どすといいど」
 と言った。アパートまで山口の腕に腰を巻かれて歩いた。部屋に入ると、山口は畳んであった蒲団を敷き直し、まるで子供をあやすように、いそいそと雪にまみれた学生服を脱がして下着姿にした。押入れから余分な毛布を引きずり出す。それから所在なく立っている私を無理やり寝かしつけて、毛布の上から何枚も蒲団を掛けた。
「汗を搾り出したほうがいいな」
 そう言ってストーブを点けた。布団の掛け具合を確かめてうなずき、廊下へ出ていった。
「おばさん! 玉子一個ください!」
 と呼びかけている。やがて戻ってくると、私の首をもたげ、卵を落としたコップ酒を一気に飲ませた。ゲフッとうめいて呑みこんだ。すぐに胃のあたりが温かくなった。
「目をつぶれ」
 山口はしばらく枕もとで私の寝顔を見守っていた。意識が朦朧としはじめ、すぐにからだが瘧(おこり)でも起こしたようにわなわなふるえはじめた。歯がカチカチと鳴った。ときどき、まるで氷に包まれたような寒けに襲われた。それなのに顔全体がほてった。
「だいじょうぶか、神無月!」
「顔が熱い―」
「いま、冷やしてやるからな。おばさんに氷嚢借りて、雪を詰めてくる」
 山口の足音が遠ざかった。
 閉じた目の奥で、焔(ほのお)の帯がもつれたり、ほどけたり、いろいろな奇怪な模様になって渦巻いた。がまんのならない焔が消えるやいなや、時おり、机のスタンドの光で照らされた部屋全体が現実の視界に戻ってきて、新しい緊張感をもたらした。ぐしょぐしょと冷たい汗をかいている。相変わらずふるえが止まらず歯が鳴っている。そんなふうに悶え苦しんだかと思うと、また頭の中に火焔が戻ってきて意識が薄れていく。密度の薄くなった空中を火花が飛ぶので、無理に目を開ける。
「どうした、苦しいのか、神無月!」
 その声を最後に、まったく意識がなくなった。
 しらじらと窓が明るくなるころ、熱に蒸された血の騒ぎが静まり、目を閉じたままでいても意識がどんよりしなくなった。ときどき、せせらぎのように快い睡眠が私をさらっていき、夢を見させた。
 カズちゃんや山口をはじめとする、他人の去就に無関心でいられない親切な仲間や隣人たちの顔が、やさしく私を見つめた。彼らは心をこめて見つめていた。なぜか私は、彼らとともに龍飛岬行きの観光バスに乗り合わせていた。私は笑ったり、周りに話しかけたりしていたが、じっと重石(おもし)のように動かない感情が心の中にわだかまっているように感じた。でもその感情は、笑ったり話しかけたりするたびにふやけて液状になり、親愛という名の海綿に吸われていった。
 歌声が起こり、驚いて見回すと、クラスの連中が歌っているのだった。山口がギターを弾き、西沢先生や、古山や、千葉や、武藤や、女生徒たちが朗らかに唄っていた。笑いながら振り向いた運転手は、黒目の開いたあの盲目のオジサンだった。
 かすかに光が強まっていく気配のせいで、バスが夜のトンネルから夜明けの中へ出たことがわかった。ずっと遠くの丘の稜線から太陽が昇りはじめた。車窓から広々とした景色が眺められた。林も田圃も畑も川も見えた。あちこちに残り雪が点じ、冬の光にかすんでいた。垂れこめた空が田の水に映り、時間のない世界に深い沈黙が支配していた。
 光の中へ泳ぎ出た。話し声がして、蒲団のかたわらに山口と並んで、古山があぐらをかいていた。額に氷嚢が吊られ、首に細く撚(よ)った濡れタオルが巻いてあった。すでに午後の陽射しだった。窓の外にあるかなきかの粉雪が舞っている。夢の中とはちがう四角い灰色の空が見えた。山口が窓を開け、切れ長の目を私に向けた。
「一晩、添い寝をしたよ。なかなか快適だった」
 私は山口の最初の一瞥を好んだ。その目には、何かしっかりした、すべてを見通すような親しみがあふれていた。私はこの男と友人だったことを心から喜んだ。
「ずっといたのか」
「あたりまえだ」
「学校は」
「いくわけないだろ。おまえはよっぽどインフルエンザに弱い体質だな。医者が言ってたよ。年とってこの体質のままだと、昏睡して死んでしまうこともあるそうだ。おばさんがわざわざ、医者を呼んでくれてな。注射を打たれたのを覚えてるか」
「いや、ぜんぜん」
「おまえがひどくいやがるんで、医者も手を焼いてたよ。このままだと肺炎を起こすかもしれんと言うから、必死でおまえを押さえつけた」
「ワも、学校終わってすぐきたんで。きのうの晩げもきた。山口と酒コ飲んで、ンガの顔見てらった。酔っぱらったでば」
 古山はすぐに笑いを収め、眉根に影を作った。
「ンガは、モテるな。すぐ女が寄ってくる。まいったじゃ」
「きのうの夜、古山もついに決定打を食らった。木谷が見舞いにきて、おまえの首に愛しそうにタオルを載せた。その赤くはれてるやつにな」
「そうか……」
 私は首に巻かれたタオルをはずして、しみじみ眺めた。
「やあや、相当まいったじゃ。仕方ねな、どことっても、おめに敵わねすけ。男は退きぎわが肝心だ」
「退かなくていいよ。ぼくは彼女たちに関心はない。いや、あるかな。竜飛で木谷のスカートがめくれたとき、下っ腹がズキンとした」
 山口がおかしそうにからだを揺すった。私は心から彼らに笑いかけた。古山が首を見つめている。
「予想はつくだろうけど、くだらないことをやっちゃったんだ」
「女たちが、おめの冗談だってへってらったども、気になってたんず。訊いたらヤベよな気がしてよ」
 山口がうるさそうに、
「だれだって、一目見ればわかる。わかることは訊かない。おばさんも、医者も訊かなかった。訊くのは怖いからな。背負えないことは訊かないという本能は、だれでも持ってる」
「汗をかいた。山口、風呂にいかないか。なんだかすっかり腹がへった。帰りにラーメンでも食おう」
「おお、そうするか」
「オラもいぐ」
「きょうは遠慮しろ。おまえがいると、俺と神無月の大事な友情の時間が減ってしまう」
「友情ってが。ある意味、オラんどの友情のほうが深えど」
「下腹部の友情は、頭より下にあるだけ下等だ。思想がない」
「そう邪険にすなじゃ。ワもラーメン食いて」
「代わりに食っといてやる。そろそろ塾にいく時間だろ。しっかりやらないと、梅田クンや一戸クンに負けてしまうぞ」
 古山は頭を掻きながら、
「ワの成績も風前の灯だべや」
「まあ、そう言うな。おまえたち勉強人間は学校のホープなんだから。しっかり勉強しろよ。じゃ、風呂のしたくしてくるわ」
 山口は古山の肩を押すようにして、いっしょに出ていった。私は起き上がって蒲団を畳み、机に向かおうとした。めまいでフラついた。ストーブを消し、雪のちらつく窓を閉めた。肘で擦れてニスの剥げた机や、壁に貼られたまま黄ばんでいる読書計画表が目を慰めた。すべてのものが意味を持っているように思われた。その意味は単純で慎ましかったけれども、勤勉な命の具体的な行動の軌跡だった。
 押入を開けて、いのちの記録を取り出す。何を書きつけようというのでもなかった。ノートの律儀な文字を見ているうちに、心が落ち着いてきた。私はノートを閉じ、あらためて机の抽斗に戻すとき、奥のほうに母の手紙に並んで分厚い封筒が隠れているのに気づいた。十万円を引き抜いた残りの金だった。
 ―机の上に置いたはずだ。
 風呂道具を抱えると部屋を出た。
「……山口、おふくろの手紙読んだのか」
「読んだ。おまえを和子さんに届けた朝にな。すまん、抽斗漁ったら出てきた。和子さんにも読ませた。……心配するな。俺たちは一蓮托生だ。しばらく静観しよう。……どうにかなる。俺たちはおまえが言い出さないかぎり何も言わないことにした。いいこと教えてやる。転入試験はどんな高校も、二学期直前と三学期直前しかやらない。春は入試で忙しくて、募集をかけないんだ。その二学期三学期にしても欠員がある場合だけだ。野球をやってることはまだバレてない。猛勉ががんばってくれてる。少なくともあと半年は野球ができるぞ」
「ほんとうか!」
「ほんとうだ」
 山口は腹の底から愉快そうに笑った。
「山口、ぼくは、ぼくを愛してくれる人たちに愛を返すために、生まれ変わったつもりで野球をやるよ。生きてることがうれしいと伝えたいんだ」
 山口はただ潤んだ目でうなずいた。
 一日は一度に一回しか訪れないことを、いまの私は心の底から感じていた。大切なのは希望ではなく、いま目の前にある一日なのだ。昼が夜に替わり、あしたがきょうになるまで、大事なのは、きょうという一日なのだ。目立たないけれどもけっして欠かすことのできない日常生活の中の人間同士の交感。その交感の中では何一つ馬鹿げたものはなく、一人ひとりは果たすべき重要な役割を担っているのだ。
 腹の底から力が湧いてきた。それは周囲の人間への信頼と感謝が源になっていて、そこから生まれる思いは以前と比べて静かで、ゆったりしていた。牛巻病院から毎晩遅く帰ったり、滝澤節子と夜の神宮で口づけしたり、松葉会の部屋で義侠の男たちに感銘したり、浅野に殴りかかったりしていたころは、この瞬間のためなら世界じゅうでもくれてやるという、燃えさかった気持ちだったけれども、その八方破れの日々に燃えていた火は、いまは胸の奥深くしまいこまれ、落ち着いた生活の底で燃えているボイラーのような役目を果たしはじめた。


         七十五

 山口といっしょに粉雪の中へ出た。不意に寒気がきて、小便をしたくなった。山口と路の肩に並んで雪の上に立小便をする。二つの深い黄土色の穴があいた。雪が顔に気持ちよく当たった。
「ぼくは、自分だけ幸福になりたがっていた卑しい人間だったような気がする。自分だけ幸福になりたくて思いを遂げようとする人間て、自分が苦しいことに繊細になって、どんどん神経が細くなって、ちっちゃな悩みが出てきたぐらいで、すぐ逃げたくなるし、死にたくなってしまう」
「早くチンボをしまえ。そのへんてこな形をしたものが霜焼けになっちまう。おまえは卑しいエゴイストじゃないよ。本物のエゴイストたちに排斥されただけだ。この世には、おまえみたいに、通念に冒されない血が体内を循ってる野蛮人と、俺のように洗練された文明族がいるんだ(彼は照れくさそうに鼻の下をこすった)。この二つの人種の中間に、かならず、趨勢であれ反趨勢であれ、通念や流行の側へくっつこうとする中間層が存在するんだな。やつらには好みの人生がなく、自分が属する側に対立する側の人種を恐れて排斥する。それだけのことだ。自分を責めるんじゃない」
「ありがとう……。山口とカズちゃんのおかげで、生きてきた意味よりも、生きていく意味が知りたくなった」
 山口はいつものように高らかに笑いながら、
「きのうの夜、女神を呼んできた。二時ごろだ。夜中でもおまえが目を開いたときに彼女がいれば、病状が落ち着くだろうと思ってな。あんまり具合が悪そうだったんで、居ても立ってもいられなくてさ。そしたら、おまえ、一瞬目を開いたんだよ。彼女が帰るとき俺は、廊下に出てきたおばさんに、神無月の女神だって紹介したよ。何度も顔を合わせてるのに挨拶し合ってなかったからな。和子さんにじっと見つめられて、あまりの美しさに、おばさん、あごが外れそうになってたぞ。よろしくお願いしますって、おばさんに礼儀正しく頭下げて帰っていった。―とにかく死ななくてよかった! 俺の一生の手柄だ。おまえは生きなくちゃいけないんだ。おまえと出会ったすべての人間のためにな」
 とふるえる声でつけ加えた。目頭を拭っている。
「管理人のおばさんも起きてたのか」
「食堂とおまえの部屋をいったりきたりだ。何日も寝てない。いい女だ。見直したよ」
「……ぼくはなんだかわけもなく、一所懸命がまんしてきた気がする。がまんするのが趣味みたいに。でも、もうがまんしない。感謝を捧げなくちゃいけない人を殺してしまう」
「おお、どんな理屈でもいいから、がまんなんかしないでどんどん暴れろ。おまえは人に迷惑をかけないタチだから、どれだけ暴れてもだいじょうぶだ。ただ、どんな理屈の通った乱暴も、乱暴と聞いただけで許せないやつがいる。そいつらとうまくやっていくのもがまんだ。……生きてきた意味と、生きていく意味と言ったな。この土地、この学校、この人間の絆、どこにいたっておまえは、過去や未来の意味を求めて精いっぱい生きる人間だ。抜き差しならない恐怖があると俺は言った。おまえを失うことはもちろんだけど、おまえががまんして生きることだ。……死人を相手にしてることになるからな」
 しきりに目を拭う山口の前を、粉雪がゆっくり転がっていく。風呂屋の煙突が見えてきた。山口は強く私の肩を叩いた。
「生き延びたからって、フニャフニャの〈いい人〉になるなよ。そんなやつを生かしたくて女神や俺が必死になったんじゃないんだからな。……おまえを殺そうとしたものを忘れるな。目先の憂鬱や倦怠や空虚じゃなく、それを引き起こしたものを忘れるな。それに対して怒(いか)ってくれ。あきらめずに、俺たちに率先して怒って生き延びてくれ。おまえが生き延びることが、どれほど大勢の人間を救うか。おまえが怒って排斥しようとしたものに俺たちも同じように腹を立てて、それを精いっぱい排斥するつもりだ。一蓮托生でな」
 私が怒らなければならない相手は、自分自身だ。私を絶望させたのは私という存在なのだ。やさしい山口はそれに思い至らないのではなく、私を愛しすぎているせいで、怒りの対象として、あえてこれまでの私の障害となってきたものを槍玉に挙げて見せる。そんなものはもう障害物ではない。戦う体勢はできている。どんな手段をとっても戦い抜く。何よりも大事なのは、私を愛する人びとのために、ひそかに自分と戦いつづけながら、できるかぎり延命するということだ。
 風呂屋の洗い場で山口は几帳面に私の背中を流した。背中を流されるのは、受験宿で奥山にしてもらって以来だった。
「ぼくは野球をやる。倒れるまで」
 カランを見つめながら私は言った。
「そうだ、おまえは野球をやらなきゃいけない。どうして野球をやるかなんて、ボンクラに長い説明をしてる暇はない。ボンクラは何を聞いたって、どういうつもりで話を聞いたか、そんなことまで忘れちまうんだからな。野球はおまえにとって命懸けの芸術なんだよ。説明不要だ」
 思いがけず、合船場の雪道に鮮やかに映えた山田三樹夫の顔が浮かんだ。声に出して呼びかけたいほどなつかしかった。
 ―山田くん! ぼくは生き延びたよ。きみは生き延びられなかったね。ぼくはきみの無念を忘れず生き延びるよ。
「山口、助けてくれてありがとう!」
「俺は自分の身を守っただけだ。おまえの生き死には、俺にとって死活問題だからな」
 彼の言葉から紡ぎ出される感情はいろいろだったけれども、その中に冷笑が混じったことはなかった。彼の言葉は山田三樹夫のそれ以上に、まじめで、硬くて、私に必要なものだった。
 私は山口の背中を流した。彼は背中のまま言った。
「女神はおまえの生き死にを問題にしない。おまえの心臓だから問題にできない。もちろん俺だっておまえの心臓になりたいよ。おまえと同じテンションで夢中で生きたい。だいたい人間なんて、夢中になってるように見えて、案外醒めたところがあるもんだ。そういうのって、格好よさそうに見えるけど、一皮剥けば道化の一種だ。根が真剣じゃない。おまえは憂鬱な人間かもしれないが、醒めてない。真剣だ。格好悪い。俺はおまえの心臓になりたい。真剣に、格好悪く生きたいんだ」
 私は山口の石鹸まみれの背中に頬を押し当てた。
 風呂から上がり、私は脱衣場の大鏡を見た。私のからだはやつれて、青白い色をしていた。数日の熱に精錬されて純化し、生まれ変わったようだった。首に赤い輪がネックレスのように貼りついている。鏡の中から夢見るような眼で見つめている十六歳の高校生の顔に、私はしみじみと好感を抱いた。いままで自分に抱いた憎悪を思い起こすと、こういう自己愛の確認は、この数日の変化の中でもいちばん重要なできごとのように思われた。
「青くてきれいなからだだ。化けの皮じゃないだろうな」
 肩口から覗きこみながら山口が言った。
「山口、おまえはほんとうにいいやつだね! おまえの言うことを聞いてると、自分がなんとかなりそうな人間に思えてくる。ぜったいそうじゃないって思っても、そう思えてくるんだ。がんばるよ。化けの皮を剥がされないように、がんばる」
 風呂屋の戸を引いて表に出ると、雪はすっかり上がり、歯が沁みるほど空気が冷えこんでいた。山口はとつぜん、大声で『エーデルワイス』を唄い上げた。おまえも唄え、と誘ったけれども、私はその歌を知らなかった。
「死にもの狂いで勉強して、俺も東大へいく。そして、イタリアのギターコンクールで人生最大のマグレを起こしてやる。そこから先の目標も幸運とマグレで達成する」
「ぼくも本気で勉強しなくちゃ」
「勉強とホームランだ。おまえは目標を据えるな。ただ夢中でぜんぶやれ。もともと目標なんてものは持ってないだろう」
 二人は湯上りのほてったからだをシバレる空気で冷やしながら、ラーメン屋の提灯をめざして歩いていった。
「ほら! おもしろいだろ」
 山口がタオルをぶんぶん振って硬く凍らせて見せた。私は彼がする仕草をまねて、寒空にタオルをくるくる回して振った。あっというまにそれは硬い一本の棒になって天を指した。
         †
 教室で木谷千佳子にしっかりお辞儀をしながら礼を言った。
「なも、オラだっきゃ、たンだ……」
 真っ赤になって鈴木睦子のところへ逃げていった。山口と古山が笑っていた。
 体操の時間が柔道一本やりになった。体育館の青いビニール畳を踏む素足が、冷たさを越えて痛いほどだ。受身の指導を上級生の柔道部員がやっている。彼らを相手の乱取りになると、みんな小気味よく投げ飛ばされる。私も必死でがんばったけれども、すぐにふわりと宙に放り出された。からだが畳に叩きつけられる瞬間、指導員がタイミングよく襟首をギュッと引き上げるので、受け身をする手にも足にもまったく衝撃がない。
「こったらに強く投げられても、なんも痛くねじゃ。さすがだな」
 慣れない柔道着をつけた仲間たちが、口々に感嘆のため息を洩らした。私は浮遊するように着地する感触を味わいたくて、何度も組みついていって投げ飛ばされた。神宮奉納相撲を思い出し、あのときと同じように腹の底から笑った。
「まじめにやれ、北の怪物」
 と叱る指導員も、私の笑いに思わずつられて笑った。
 下校のとき、関野商店の店主にお礼の挨拶をした。
「いぐなったのな?」
「はい、おかげさまですっかり。玉子酒が利きました」
「痩せだでば。いいおどご台無しだァ。じっぱど食(か)ねば。あんた、北の怪物だべ。今年もケッパレじゃ。応援してるすけ。ほい、コロッケとメンチ持ってげ」
「はい、ありがとうございます」
 ユリさんにもお礼を言いに食堂にいった。
「心配しました。あのまま死んじゃうんじゃないかって。ほんとによかった。最愛の女神さん、こんなそばに住んでたんですね。申しわけありませんでしたって謝ったら、これからも遠慮しないで幸せにしてもらいなさい、キョウちゃんに幸福にしてもらえるのは、さびしさを隠さない勇気を持った捨て身の女だけなのよって言ってくれて、腰が抜けるくらい驚いて、手を取って泣いてしまいました」
「よかったね」
「はい―毎日かよってきてました。女の鑑です。感激しました」 
「これ、メンチとコロッケ。関野商店のおじさんがくれた」
「こんなに! みんなのおかずに付けてあげます」
         †
 二月の最終週から、三月一日の卒業式を挟み、さらに三日の入学試験にかけて続々と休日がつづき、その後の三日間も採点などのために休校になった。その間の授業は二月の末にたった三日しかなかった。
 これを機会に体力回復に着手した。長時間の読書を控え、努めて食い、七時間は眠るようにしたので、ぐんぐんからだに肉がつきはじめた。長靴を履いて駒込橋までのランニング再開。長靴が錘(おもり)の役割を果たして、脚力の回復に役立った。腹筋、背筋、腕立て、百回ずつ。この筋トレを『三種の神器』と呼ぶことにした。内・外・中、高・中・低、組み合わせて九コースそれぞれ二十本ずつの素振り、合計百八十本。
 母から届いた現金封筒に《春の転入試験はなし。もうしばしの辛抱を乞う》というメモが入っていた。辛抱? くだらないことで危うく命を落とすところだった。とにかく、野球生活が半年生き延びた。その先の方針もおのずと定まるだろう。
 ―流れるままに。
 何よりも、山口勲と北村和子に対する報恩の気持ちを忘れないこと―それは私の生涯の戒めだ。
         †
 三月九日水曜日。新一年生合格発表。朝めしのあと、山口と二人で見物にいく。不思議に晴れ上がった青空。六日ぶりの快晴。正門前に受験生や父兄たちが神妙な面持ちで蝟集していた。九時近くになり彼らが動き出したので、二人でくっついていった。九時ちょうどにラグビーグランドの掲示板に合格者番号と名前が貼り出されると、あった! おっしゃ! という歓声が上がった。しきりに親たちがシャッターを切っている。
「いくか」
「うん。何ごとも希望の達成はすばらしい。いいものを見た。ドキドキした」
 一本道を帰る。グランドは雪野原。桜はまだまだ。



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