七十九

 山口は微笑みながらギターを弾いている。カズちゃんと聞いて、ヒデさんはちらっと目をテープレコーダーに投げた。
「神無月は強靭な器だよ。どんな水も入りこませる。自分を自分以外のものにしようとしないで、ただ自分のまま受け入れる。無意識にね。目新しい人たちや環境を淡々と受け入れて、いっしょに混ざり合いながら、その温度と比重にすっかり身を任せる。まねできることじゃない。まねしたら器が壊れる」
「人と環境に合わせて自分のままでいるんですね……」
「神無月が自分のままでいるだけじゃない。水が冷たければ、器も冷たくなるし、熱ければ器も熱くなる。水が不幸なら器も不幸だし、幸福なら器も幸福だ。それをともにするんだ。俺が神無月といるときに幸福を感じるように、神無月も俺といるとき幸福を感じているんだよ」
 山口という男は、もの心ついたころからしてきた観察の結果をするどい頭で緻密に分析し、それをしっかり記憶しているので、どんな事柄もそれの応用問題になり、解答をしゃべりはじめると止まらなくなるのだった。ヒデさんは目を充血させた。
 日が暮れてきたので、山口といっしょにヒデさんを青森駅の改札まで送っていった。
「また暖かくなったらきます。山口さん、神無月さんをお願いします。今度もっとギターを聴かせてください。それから、すばらしいお話も聞かせてください」
 ホームへの階段を昇っていく美しいヒデさんに二人で手を振った。
 帰り道、山口が憂い顔で言った。
「刺身のツマならいつでも買って出るけど、それ以上のことは荷が重いな。和子さんみたいに、おまえと一心同体の女は二人といないわけだし―。おまえに近寄ってくる女に無差別にいい顔をできるほど俺も熟してないんでな」
 乾いた笑いをした。
「春休みに、三人で名古屋へいこうって、カズちゃんに誘われた。二十九日から四日間だけど、どう?」
「うほ! いくいく。神無月の青春の土地、見ておきたかったんだ。パンツとシャツを買わんといかんな」
「カズちゃんがたっぷり持ってるよ。出発まで、まだ二週間もある」
「そんなのはあっという間だ」
「ぼくはそのあいだに、二十四日にミヨちゃんとデートだし、二十六日の土曜日には、もと同居人の合格祝いで葛西さんちに呼ばれてる」
「忙しいこった。まあ、がんばってくれ。名古屋かあ! ヒツマぶしだろ、きしめんだろ」
「まず、食い物か」
「待て待て、テレビ塔だろ、名古屋城だろ、それから、千年小学校と、宮中学校と、牛巻病院―」
 胸にきた。
「山口……そんなところまでいく必要ないよ。名古屋城の桜は観にいこう。絶景らしい」
「ようし、最後の羽を伸ばしてくるか。新学期になれば、おまえは野球が始まるし、俺は受験勉強が始まる」
「ぼくだって、勉強しなくちゃ。野球だけやってられない」
 山口はやさしく微笑み、
「俺も東大はやばい。ふつうのがんばりだと、どこかの二流三流大学に潜りこんじまう。別に俺はそれで構わないんだが、おまえから少しでも離れることになるのはつらい。無理をしても東大に受からないとな。それでようやく、おまえと足並揃えて生きていける。足並揃えるだけじゃ足りない。おまえを守らなくちゃいけない。二流三流の道を歩いて、坦々と時雨(しぐ)れていられないんだ」
「……心中させちゃったようなものだね」
「あってなきがわが人生だ。おまえがわくわくする人生にしてくれた。この人生を失いたくない」
 健児荘の住人全員で食う豚汁はじつにうまかった。大鍋二つがすっかり空になった。亭主までお替りをしていた。一升炊いた大きな電気釜も空になった。おばさんがうれしい悲鳴を上げた。
「これが若い人のほんとの食欲なのね。神無月さんのお客さんが持ってきた豚肉なんですよ。野辺地の種畜場でつぶしたばかりの肉ですって。市場で買えば、とんでもなく高い豚肉でしょうね。いつもこんなに新鮮なものを食べさせてあげれなくてごめんなさい。これからはなるべく、少ない品目で、新鮮な材料で作るようにします」
 深夜二時を回って、やはりおばさんが忍んできた。ローブのようなものを全裸のからだにまとっている。きょうからユリさんと呼ぶことに決めた。
「ユリさん、病気のときはほんとにありがとう」
「あら、名前を呼んでくれた。うれしい」
 私は立ち上がり、裸になった。机の抽斗へいき、
「徹夜までしてくれたんだってね。お医者にいくらかかったかわからないけど、十万円渡しとく。女神からのお金なので断っちゃだめだよ。ご主人に何か言われたら、向こう一年分先払いしてくれたって言えばいい。ほんとにありがとう。ユリさんが医者を呼ばなければ、肺炎を起こして死んでたかもしれない」
 ユリさんは薄っすらと涙を浮かべて受け取り、
「……自殺したのね。そして、山口さんと北村さんに助けられたんでしょう? どういう事情があったのかはわからない。山口さんも、神無月に訊かないようにしてるって言ってました。神無月さんが助かったということに比べれば、どんな事情も関係ないって。これからは強く生きてくださいね。神無月さんが生きてるって思うだけで、私も生きる励みになりますから」
 私はユリさんをやさしく抱き締めた。
「長いあいだご無沙汰してたから、かなり乱れると思うわ」
「中年の乱れようは、花園の奥さんで知ってる」
「安心。うんと乱れるわ」
「声を抑えてね」
「はい」
 キスをする。煙草くささの中に歯磨き粉のにおいが混じった。股に手を差しこむと、しとどに濡れていた。中腰で顔に跨らせた。両手を握り合わせて支えてやる。早く昇りつめたそうだったので、舌を上手に使った。
「ああ、好き、神無月さん、イク……」
 静かに達した。クリトリスが何度か鼻面をこすった。唇を吸ったまま横たわる。
「ごめんなさい。……がまんできなくて」
「わかるよ。中年の熟れたからだって、若い女よりずっと性欲が強くなるんだ。素直になればいいよ」
 ユリさんは私の胸に顔を埋め、
「ありがとう……」
 と囁いた。女のからだは、野球に劣らぬほどの愉悦と神秘にあふれている。山口に救われた命の使いどころと決めたものの一つだ。神秘は神秘にまかせるしかない。研究の必要はなく、追求すればいいだけだいじょうぶ。挿入し、何も考えずに動きはじめる。強いアクメが繰り返される。そうして、彼女ではなく、膣が射精を促す。私はそれに従う。私も彼女にとっては神秘なのだろうか。ユリさんは陰阜を打ちつけ、包みこみ、また打ちつける。からだを離して仰向けに並ぶ。
「春休みに名古屋に帰ってくる。カズちゃんと山口といっしょに。三月二十九日から四月の一日まで。新学期は四月四日からだから、余裕だね」
「いってらっしゃい。……北村さんの美しさは人間離れしてます。きっと、心も人間離れしてるんでしょうね。よろしくお願いしますって言って、私の手を握ったんです。一生懸命お世話します。ちゃんと栄養のあるごはんを作ります。あら、もうこんな時間。ほんとにごめんなさい。帰ります。お休みなさい」
「お休み」
 ユリさんはローブを巻きつけて出ていった。
         †
 三月二十四日木曜日。曇。気温三度の松原通を長靴でドタドタ走る。排便。朝めし。
 講堂で終業式と離・退任式が行なわれた。姿勢を正して行動の椅子に坐ったが、詳細はよくわからなかった。一年時の教師に異動も離・退任もなかった。一年五組の連中とこれでお別れとなった。新二、三年生の写真撮影と教室移動は四月初旬とのことだった。終業式と言っても、ふだんどおりの授業が三学期の最終日に当たるというだけのことで、最終四コマの授業はきちんと行なわれた。ただし半ドンだった。
 山口といっしょに下校し、部屋にカバンを置いて、裏庭で素振り百本。手にも足にも力がみなぎる。確実に生きているという実感がうれしい。硬くなった雪にあごを接しないように腕立てを五十回。きょうはこれでオシマイ。
 ほかほかと陽が照りだした。と言っても、まだ気温は五度にならない。きちんとワイシャツにブレザーを着、長靴ではなく革靴を履く。心配顔で式台に出てきた山口が、何時ごろ帰るかと尋くので、九時ごろと答えた。
「まだ体調万全というわけじゃないんだから、寒空の下を無理して歩き回るんじゃないぞ。帰ったら、俺の部屋でコーヒー飲んでから寝ろ」
「うん。ありがとう」
 滑らないように注意しながら、松原通りを歩いてミヨちゃんが待っている堤橋に向かう。生き延びて倫理観が麻痺したわけではないけれども、どこかおかしいという思いが常にある。生き延びたからだの使いどころをシンプルにし、流れのままに生きるという姿勢に芯張り棒を通したのは野球であって、女との交わりではない。だからといって、女たちの求めに倫理観で応え、醜聞によって下される社会的制裁から身を守るという生き方が正しいとは思えない。それが人間として成熟した生き方とは思えない。
 なるほど不当に非難され、嘲笑され、野球ができなくなくなれば落胆するだろう。母の倫理観に蹂躙されて、野球ができなくなると恐怖しただけで、世をはかなみ死のうとしたくらいなのだから。しかしどちらも、命を懸けるほどの落胆なのだろうか。笑い飛ばすべきことではないのか。ありのままに生きることが私の価値だと言ったカズちゃんの言葉と、ありのままに生きている姿が格好悪いから信頼できると言った山口の言葉を反芻する。二人とも、母の手紙のことを言い出さないのは、そんなものは窮地などと認めず、笑い飛ばしているからだ。
 自分に何かできるならするべきだと信じている。たしかに命まで落としかけた落胆だったけれども、物事が起きるのには理由がある。合理的な説明が見つからない場合は、対処するしかない。臆病になってはならない。どの自分が顔を出すのか、本性と根性が問われる。結果はすべてを表わさない。たしかに私はまだ階段の途中にいるにすぎず、階段を上る途中で落胆から命を落としかけたとは言え、せっかく生き延びた命を臆病風で汚染してはならない。このままの生き方でとにかくたどり着こうと努力し、残されたすべての人生を甘受しなければならない。野球を引きずってはいけない。野球はゲームであり、スポーツであり、それ以上でもそれ以下でもない。
 堤橋のたもとに、ミヨちゃんが暖かそうな赤いオーバーを着て立っていた。手に傘を提げ、焦げ茶のローファーを履いている。冒しがたい清純な雰囲気がある。
「お待ちどお!」
 寄り添う。
「午後からずっと雪になるんですって。傘を持ってきました。映画なんか観たくない。時間がもったいないです。三時間でも四時間でも、郷さんの顔を見てるほうがいい」
「うん、ぼくもミヨちゃんの顔を見ていたい。じゃ、きょうはセックスもしない?」
「します!」
 二人で声を出して笑い合う。
「じゃ、その前に腹ごしらえだ。タンメンというやつを食ってみたい」
「塩味の野菜ラーメンですよ。私はふつうの中華そば」
 駅前の中華そば屋に入る。このごろは支那ソバとか中華そばと言わなくなってきた。味も落ちたように思う。クンとくる独特のにおいがない。ここはちがった。店内に鹹水のにおいが充満している。
 横浜を思い出し、タンメンはやめて、ミヨちゃんと同じシンプルな中華そばにした。なつかしい雷紋の鉢で出てくる。シナチク、チャーシュー、ナルト、ホウレン草、板海苔一枚。胡椒をたっぷり振って食う。
「うまい! 中華そばという暖簾に惹かれて入ってよかった」
「おいしい!」
 横浜とは微妙にちがう味だけれども、チャーシューもシナチクもうまくて、二人ともしっかりぜんぶ食った。
「中学生用の参考書を買いにいこう」
「え、もう!」
「スタートは早いにかぎる。意気ごみさえあれば、勉強はジワジワできるようになっていくんだ」
 ジワジワの記憶はない。とつぜんだった。だから教え諭すことに信憑性がない。店を出て、柳町の金華堂という大きな書店に入る。手当たりしだいに中一用の各教科の参考書を二冊ずつ買う。
「こういうのは選んでちゃいけないんだ。問題集は、いずれ自分でじっくり買い揃えればいい。活字が目に快適なものをね。辞書も買っておこう。中学生用の英和辞典、いちばん厚いやつ。中三になったら、高校生用のを買うんだよ」
 やはり信憑性のない意見だ。私は飯場の人からもらった大人用の英和辞典を使っていた。ミヨちゃんはまじめに聞く。
「そして、三年後には青高ですね」
「ふつうに受かるよ」
 本代を払い、紙袋を提げて通りへ出る。
「ありがとう、神無月さん」
「どういたしまして」
「しっかり勉強します」
「がんばってね。ぼくは四つ年上だから、ミヨちゃんが青高に入るときはたぶん東京にいってるけど、勉強の進み具合や進路なんかをときどき知らせてね」
「はい」


         八十

 雪が落ちてきた。ミヨちゃんの傘を受け取り、二人の上に差す。柳町から本町通りを歩き、浜町稲荷の町並に入る。例の路地のある十字路に、二階家の旅館が建っている。カズちゃんが言ったのはこんな旅館のことだろう。玄関の雪掻き跡がすがすがしい。
「ここがいい。ものを食べてすぐというのが、あたかも動物っぽいけど」
「人間は動物です。男は複雑な気持ちになるんでしょうけど、女は、好きな人とのセックスはとてもうれしいものなんです」
 肩を並べて入る。ブレザー姿に、高校生ふうの赤いオーバー。二人が若すぎるのを見咎めたというのでなく、好奇心が動いたという感じで、帳場の女が見た。すぐに五千円札を出して、
「二時間」
 と言うと、まじめそうにうなずき、ほかの女に二階へ案内するよう言いつける。こういう場所柄なので難なく上がれたけれども、ホテルなら断られたかもしれない。
 案内された部屋は八畳ほどのこぎれいなものだった。暖房はなく、冷気がこもっていた。海からかなり遠いせいで、打ち寄せる波の音は聞こえない。仲居は簡単に部屋の備品の説明をし、穏やかな様子で茶をいれた。部屋の奥に薄っぺらい蒲団が敷かれていた。仲居はチラとそっちへ目をやり、
「ごゆっくり」
 と言って立ち上がった。動物の心を持ってやってくる人びとへの決まった作法なのかもしれない。何の感情も表さない彼女の顔に、長く生きてきた人間のひっそりとした度量を感じた。女が去ったあと、ミヨちゃんは雪を吸った私のブレザーを鴨居の衣桁にかけた。自分もオーバーと上着とスカートを吊るし、シュミーズ姿になった。はち切れるような胸の谷間が覗いた。私たちは湯呑と魔法瓶が載ったテーブルに向かい合って坐った。私はおどけたふうに笑ってみせた。輝くような笑顔が応えた。ミヨちゃんは熱い茶の入った茶碗を両手でもてあそびながら、深く息を吸いこんだ。
「郷さんが遠くへいってしまいそう」
 一瞬、心臓のあたりに波が立った。
「……郷さんにとって、ほんとにこれでいいのかなって思って」
 私はミヨちゃんの態度を注意深く見守っていた。
「いいに決まってるさ。ぼくたちはおたがい好き合ってるんだから」
「私が好きなんです……もう、言いません。ごめんなさい」
 私はぼんやりミヨちゃんの胸のふくらみを見つめた。彼女は視線に気づき、立ち上がってシュミーズを脱いだ。私は立っていって、ミヨちゃんを抱きしめた。胸を触った。パンティの上から窪みを押さえた。彼女は唇をきつく結び、快感の期待に頬を染めた。蒲団の枕もとに、丁寧に畳んだ二つの浴衣が置いてあった。私たちには必要のないものだった。ミヨちゃんは慈しむように私を見た。年上の女の顔だった。彼女はおもむろにパンティを脱いだ。そうして静かに蒲団に入った。
 私は、なぜかいつもとちがって性欲の湧かない裸体を彼女のかたわらに横たえた。部屋の調度は貧しくて、鏡台のほかは、テーブルと小さな冷蔵庫と粗末な白黒のテレビ一台きりだった。その寒々しい部屋の中で、ミヨちゃんの愛情だけが清潔に輝いていた。
「六年後に、かならず郷さんのそばへいきます」
 私は唇を吸い、胸を吸い、局部を吸った。ミヨちゃんは悦びにふるえながら、彼女の母親がするように私のものを握り、萎えたものに力を呼び寄せるために起き上がって口を使った。彼女の背中をなぜているうちに生気が回復した。
「うれしい。脈が拍ってます。この脈は私の中でも聞こえるんです」
 私たちは一時間のあいだに二度交わった。それからシャワーを浴びて汗を流し、さらに浴槽で一度交わった。それからたがいの顔を見つめ合ったまま湯船に沈んで息を鎮めた。
「なんて愛してるんでしょう。私、郷さんを失ったら、生きていけない」
「失うはずがない。……でも、ぼくの周りにはたくさん女がいる」
「何十人いてもかまいません。郷さんは一人です」
 飽かず同じことを言う。いじらしい。たがいに石鹸でからだを洗い合う。
「来月から、いよいよ公式戦ですね。七月のトーナメントが楽しみ。春の選抜は東奥義塾になってしまいましたけど、今年こそ雪辱してくださいね」
「夏は一回戦負けの予感がするんだ」
「あり得ません。でも、それでもいいじゃありませんか。郷さんはかならずホームランを打つんですから。みんな郷さんのホームランを観にきてるんです。優勝じゃなく」
 パンティをつける前に、両脚を開かせ、尻を抱えながら舐め上げる。もう一度気をやるまで舐め、胸を吸う。ブラジャーをつけるのを見守る。
「ありがとう、郷さん。きょうもたくさんイキました。いまもお腹に湯たんぽが入ったままです」
 八時。ランタンの寿司屋に入り、特上チラシを食う。
「夢みたいにおいしい。郷さんの顔も夢みたい。郷さんがここにいるのも、ものを食べているのも夢」
 傘を差しかけて堤橋まで送っていく。オーバーの下のふっくらとした胸のあたりが、くどく私に誘いをかける。あの小雨の日に、形のいいふくらはぎを見つめたときから、私はこの少女に欲望を抱きつづけている。この欲望がしっかりした愛情に変わる日を辛抱強く待っている。
「許してくださいね。郷さんを好きになってしまって、どうすればいいかわからないうちに、こんなおかしな形で……」
「おかしな形だなんて思ってないよ。小学生と高校生。その形をかえって喜んでる。愛し合うのに年齢は関係ない。もともと肉体は道徳から外れたところにしか存在しないものなんだから、人間が持ってる背徳的なところをこっそり確かめ合うことで、人間らしい心のバランスをとってると思えばいい」
「バランスはどうかわかりませんけど、郷さんが喜んでるなら私はじゅうぶん幸せです」
「幸せというのは予期できないものだから捕まえにくい。追いかければ逃げてしまう。ミヨちゃんはそれを本能的に知ってるみたいだ」
「ぼんやり待ち受けて、追いかけない。郷さんがそういう人だから、見習ったんです」
 私は傘を閉じ、ミヨちゃんに手渡した。しっかり抱き締める。
「じゃ、二十六日に」
「はい、これ差していってください。私はすぐそこですから」
 ミヨちゃんは傘を差し出すと、手を振りながら早足で帰っていった。健児荘に戻るとまだ五時半だった。山口の部屋に寄る。
「おお、あまり疲れた顔をしてないな」
「うん。でも四カ月ぶりだったから全力を尽くした」
「何でも全力だな。あしたから春休みだ。ゆっくり休め。二十六日でお勤めも終わりだろ」
「ああ、そしたら名古屋だ」
「のんびりしてこようぜ」
「うん」
         †
 二十六日の五時に、赤井と私と葛西家全員がテーブルに集まった。ステーキを中心にした豪華な食卓だ。赤井はこざっぱりとしたジャケットを着ていた。ヒゲがきれいに剃ってある。
「入江塾にいってきました。先生にお礼を言って、ヤツハシを渡してきました。これ、同じものだけど、どうぞ」
 奥さんは赤井を抱き締めた。赤井も力強く抱き締めた。主人が目を丸くしている。
「合格したら抱き締めてあげるって、約束してたんですよ」
「ほんだな。驚くでば」
「去年の夏、青高がベストフォーに残ったとき、仕事から帰ってきたとたん思わず神無月さんを抱き締めてしまったの。そしたら赤井さんが、自分もって。だから京大に受かったらって約束したんですよ」
 ビールとコップが運びこまれる。奥さんが主人と赤井とサングラスにつぐ。ミヨちゃんと私には、バヤリースオレンジが瓶ごと置かれた。
「おめでとう!」
 赤井は一家の祝福に素朴な笑いで応えながら、コップを掲げた。さっそくステーキにナイフを入れると、細い目を輝かせてみんなを見回した。
「こんなことまでしてもらって、ありがとございます。なんとが受かりました。勉強ばりしてきた甲斐がありました」
「新聞に名前が発表されてらった。東大七人、京大一人、東北大八十七人、北大百十人。京大はたった一人だど!」
 主人に肩を叩かれる。
「オラしか受げにいがねかったから。数学、六問中四問解げだのが勝因でした。ほかの学科はふつうにでぎたすけ、ギリギリで受かったんでねがな。神無月くん、京都はいいど。海は裏日本までいがねば見られねけんど、山も川も雄大だし、古びた町並にはむがしの面影がそのまま残ってるし、あっちゃこっちゃ有名な寺も仏像もある。特に念仏寺や石峰寺(せきほうじ)の五百羅漢は見ものだど。京都も寒い風は吹ぐ。雪も降る。青森と似でる。遊びにきたとぎは、こごさ寄れ。これ渡しとぐじゃ」
 名刺を何枚か出して一家に配る。主人が、
「名刺作ったのが。学生の分際で」
「いま学生が名刺作るの流行ってるんですよ。アルバイトするにも便利だんだ。履歴書のいらねアルバイトも多いすけ。ちょっとこれ渡すだげで、だいぶ待遇がちがる」
「もうアルバイトしてるんですか」
 奥さんが尋く。
「はい、教育機器のセールスのバイトしてます。肉体労働です。ほとんど玄関払いだはんで、何軒も回らねばなんね」
 ミヨちゃんにステーキを切ってもらっていたサングラスが、ビールをすすり、
「何だ、その教育キキってのは」
「文房具とか、机とか、コピー機とか、自習用ドリルといったもんです。ドリル教材が目玉で、年間教材は何十万円もする。一つ売りつけると、二割のリベートが入ります」
 悲壮な感じがした。
「もっと確実なバイトしたらどんだ。売れなかったら、くたびれ損だべ」
 主人の諫めに、
「仕送りが下宿代ぐらいしかねすけ、そごいらのバイトだばやっていげねんです。食費も教科書代もかがるし。北海道さ帰ってくるのも、その相談も兼ねてるんです」
「親は子供に不安を与えないように育てる義務があるわ。大学の学費と生活費ぐらい出せないようでは、親失格よ。それに、赤井さんとこ、お金持ちでしょう」
 ミヨちゃんが言う。
「まあ、そんだけんど。親さ意地張らねばなんねワゲがあるのよ」
「どんな?」
「いろいろよ。オヤジに嫌われてるすけ。性格が合わねんだ」
 奥さんは身を反らせて驚き、
「そんなこと、理由にならない。京大にまで受かって、何遠慮してるの。うんとふんだくってやればいいの」
 主人がふところから封筒を出し、
「赤井くん、これお祝い金、教科書代にしてけんじゃ」
 赤井は躊躇なく受け取り、
「ありがとございます。役立てます」
 中を覗いて、
「二万円も入ってら! 年間の学費より多いでば」
 薄くまぶたが赤らんだ。
「四人分足した金だ。みんなの寸志だよ」
「オラは出してねど!」
 サングラスが言う。食卓に明るい笑い声が上がった。
「赤井さん、これ、ぼくからも。一万円入ってます。受け取らないとだめですよ」
 封筒を差し出した。奥さんが、
「まあ、神無月さん、ひと月分の仕送りでないの」
「金を使わないタチなので、貯まってしまって」
 赤井は相撲取りのような手つきで受け取り、
「他人にこったらにしてもらって……。このこともオヤジさ話して、しっかり交渉するじゃ。おふくろはいい人間だばって、財布の紐握ってねすけ」
 ミヨちゃんがみんなにビールをつぎ足す。私もコップを出すと、
「神無月さんはだめです。うんと食べてください」
「コップ一杯ぐらいいがべ」
 サングラスが瓶の先を私に差し出す。私はコップを添えてこぼれないように受けた。主人がその瓶を受け取り、サングラスにコップを干すように促した。継ぎ足してやる。


         八十一

 赤井が葛西家にきた当初からの思い出話になった。一家で浅虫に海水浴にいった話やら、彼が京大受験を決意するきっかけになった関西遊山の話やらが出た。知らないことばかりだったけれども興味深く聞いた。
「しかし、赤井くんといい、神無月くんといい、いい下宿人を持った。こんなことは二度とねな。もう当分、下宿人は置がねことにするよ」
「マコトちゃんからお話があったときだけにしましょう」
「野辺地から青高さいぐような子はいねべ」
「……いないでしょうね。それに、もう神無月さんほどマコトちゃんが親身になってあげる子も現れないでしょうしね」
 私は、
「奥山先生は分け隔てをする人じゃありませんよ」
 赤井がフライドポテトを口に放りこみ、寺田康男のように目をすがめた。
「神無月くんはおもしれ人だ。この世にあまりいねタイプの人間だべおん。こだわりとが価値観とが、ハッキリしね人間だ。おっかね能力を見せつけるのも、気まぐれだべな。神無月くんは野球選手になるべし、東大さもいぐべし。すたども、大会社には入らね。政治家にも、役人にも、医者にも、弁護士にもならね。たんだ気に入った人のそばで、いつもポツンといるんだ。……キリストよ」
 奥さんとミヨちゃんが洟をすすった。サングラスがじっと私に虚ろな視線を当て、眼鏡の下の頬を拭った。
「いずれ、余儀なぐ、オラんどのそばさいられなぐなんだ。だども遠くから見守ってくれるべおん。そう思れば、オラんどの気持ちも安らぐし、支えにもなるべ」
「見守るのは私たちよ、おじさん。寄り添うのも私たち。遠くへいっても大勢の人が、いいえ、わずかな人でも、私たちの代わりに寄り添うはずよ。何年かしたら私も……」
 母親がミヨちゃんの手を握った。
 会食が果物のデザートとコーヒーで締められると、赤井が、
「旧制第三高等学校寮歌!」
 と一声上げて、クレナイモユルを高らかに唄った。釣られて亭主が、三本木農業高校の校歌を大声で唄った。
 九時を過ぎて、赤井は玄関で挙手の礼をすると、電話で呼びつけたタクシーに乗って夜の中へ消えていった。
 それから一時間ばかり、私たちはくつろいだ話をした。旭町の開かずの踏切、集団就職列車を見送るホームの人混み、ニコニコ通りの露天商、コロンバンの店員の清楚な制服。柳町の若者のたまり場『どん底』。
「善知鳥神社裏の芝楽の釜飯はうめな。天ぷらもうめ。篠田のツシマもうめ」
 ミヨちゃんが、
「おとうさん、また〈めぇもん〉? 芝楽でおいしいのはソフトクリームよ」
「四年前に火事で燃えて、二カ月でまたすぐお店を出したのはすごかったわね」
「あそこのエスカレーターもめずらしな」
 知らない固有名詞が多かったので、私は聞き役に徹した。それからやはり野球の話になった。奥さんが、
「今年こそ優勝だって主人は言ってますけど、神無月さんにとって、野球は優勝とかそういうものじゃないようですね。赤井さんの話で感じました」
「野球そのものは自分の命にも匹敵するものだと思ってますが、ぼくに関わる人間より大事なものとしては捉えてません。単なるゲームだし、スポーツですから。いちばん関心があるのは、ホームランを打つ楽しさだけです。プロ野球に入ってからもきっと同じ気持ちのままなんでしょう。それじゃ職業人としてスムーズにやっていけないでしょうね。なぜなら、プロアマかぎらず野球人の関心は、結局勝ち敗けにあって、個人プレーにはありませんからね。でもスムーズにやっていけなくてもいいんです。野球ができるあいだは、執念深くホームランに拘るつもりです。今年の夏も一本でも多くホームランを打って、自分も楽しみ、観る人も楽しませようと思ってます」
 サングラスが、
「神無月くんは社会性がねえって、よぐ人に言われるみてだけんど、自分が野球界にとってどたら存在か、そういう意味で大した社会的責任を背負ってら」
 私は、
「個人的には、人はだれにも発見されていない特技があるものです。社会的責任などというのは、メディアが作ったうわべだけの肩書です。ぼくを監視するためのものですよ。そんな肩書をつけられると、ほかの人のために無理をしてしまいます。ぼくのどこがそんなにえらいか、ぼくはただの野球選手です。大勢の人が言うとおり、社会性はありません」
 亭主が、
「神無月さん、あんたが何を考え、どう感じ、どんなふうに生きていく人だとしても、オラんどはあんたを慕ってる。いづまでも変わらね。そのことを覚えでいでほしんだ」
「忘れません」
         †
 生き延びた命、と心に唱えながら、赤井の暮らしていた部屋で奥さんを抱いた。奥さんは〈気力で〉イッているのにちがいないと確信させるほど快楽を貪った。
「あ、いっしょに、いっしょに、ああ、熱い、またイク、またイク、ああ、気持ちいい! イックウウ!」
 陰茎をしごいて精液を搾り取る。いつまでも私の律動に合わせて腹を絞る。抜き去ると、品のいい裸体を長々と横たえる。
「二年後にお別れするのは、身を切られるようにつらいです。東京にお訪ねするなんてことはとても主人に言い出せませんし、結局、六年後にミヨ子が神無月さんのおそばにいってくれたら、ときどきお伺いすることができます。でもそのころは、もう私もとっくに四十を越えてますし、神無月さんに抱いてもらえるかどうか。それに、こんなに気持ちよくなれるかどうかも自信ありません。……あと二年の逢瀬だと思ってます」
 しみじみと私を見つめる。亭主の顔をまたくどく思い出した。目尻の笑い皺に、人付き合いの苦労と性格の良さが隠しようもなく表れている丸い顔。
 奥さんは自分の言葉に異様に興奮したようで、ふたたび上になり下になり、強く、激しく達しつづけ、私が二度目の射精すると、白目を剥いて気を失った。
 それから私たちは正体なく眠った。
 目覚めると、柱時計が五時を指していた。奥さんは私の胸に手を置いて眠っていた。幸福そうな顔をしていた。生活や戦いのにおいのしない男に抱かれることこそ、女の理想なのかもしれない。そういう男の役割は、ほとんど張り形に似ている。私が張り形と危うい一線を画しているのは、曲がりなりにもものを考え、口を利き、女の有機的な反応に美を感じる心があるからだろう。カズちゃんのような人間の愛情は一段高いところにある。肉体に愛情の基盤を置かず、子供を愛するように私を愛している。彼女のような女がこれから先、私の前に一人でも現れるだろうか。
 奥さんはやがて目覚めると、
「神無月さんにご迷惑はけっしておかけしませんからね。あと何回かわかりませんけど、神無月さんの都合のいいときに、せいぜいかわいがってくださいね。東京に出るまで……」
 と言った。私は奥さんの手を取ってうなずいた。彼女はもう一度私のものを含んで愛撫し、私と両手を重ねると、〈気力〉でゆっくりと跨った。
         †
 二十九日火曜日。六時半起床。寒い。名古屋へ出発する日だ。
 私も山口も学生服を着る。学帽はなし。朝から水っぽい雪が降っている。二十七日から春休みに入ったせいで、健児寮に学生たちの姿がない。人けのないアパートの食堂で山口と軽く朝食を入れる。紫蘇入りの玉子焼と板海苔とわかめの味噌汁。ユリさんが、
「飛行機だいじょうぶでしょうか」
「雨だろうと雪だろうと、上空は関係なし」
 山口が答える。
「一週間、亭主と二人きり。うんざりするわ。買物でもして気を紛らせようっと」
「生徒はいないの?」
「そういえば、帰省しない子が一人いたわね。暗い子で、口を利いたこともない」
 山口が、
「親しい絆が築けるよ」
「冗談は言わないで」
 邪気なく睨みつける。
「とにかく無事に帰ってきてくださいね」
「うん。心配しないで」
 ボストンバッグを提げた山口とカズちゃんの家に向かう。私は手ぶらだ。すべてカズちゃんにまかせてある。
 玄関で待ち構えていたカズちゃんと、呼びつけてあったタクシーで青森空港に向かう。山口が不安そうに、
「俺、飛行機、初めてだぜ」
「プロペラの音がうるさいぞ。落ちたら百パーセント死ぬ」
「神無月といっしょに死ねるからいいだろう。未練はない」
「私も」
 カズちゃんがニッコリ笑った。
「九時十分の飛行機よ。一日四便しか飛んでないから、それを逃すと午後になっちゃうの」
「空港までは?」
 運転手がハンドルをいじりながら、
「二十分チョイ。奥野から県道二十七号線で一本です」
「空港に着いてもたっぷり時間があるね」
「うん。予約をとってるから、心配なし」
 山口が、
「名古屋までの時間は?」
「一時間二十五分。十時四十分には着くわ」
 十五分もしないうちに、タクシーは堤川の上流に沿って走りはじめた。集合住宅がポツポツあるだけの初めて目にする風景だ。いや、二度目にちがいない。カズちゃんと名古屋へいくのはこれで二度目だから。遠く八甲田山系が見えるの単調なアスファルト道。堤川から離れ、農道をいく。ほとんど車とすれちがわない。やがて両側を田圃に挟まれた道へ曲がりこみ、すぐに緑深い林道に入る。
「あと五分です。標高二百メートルもある場所なので、山の真っ只中なんですよ」
 林道を抜け、広大な畑の広がる寂れたを通って青森空港に出た。小牧空港と同じくらいの大きさの焦げ茶色の建物だった。先回は何も見ていなかったのだ。横長の建物の上空に灰色の雨雲が垂れこめている。運転手がカズちゃんから料金を受け取りながら、
「神無月選手、夏の高校野球、応援してますよ」
 と破顔一笑して走り去った。山口が、
「なんだ、話しかけてくれれば退屈しなかったのに」
「そういうの苦手だって知ってたからでしょ。親切だわ」
 ビルに入ってすぐ、青森漁協の直営店が営業しているのに驚いた。帆立貝をキロ売りしている。ラウンジの大時計を見ると離陸時間三十分前だ。カズちゃんは制服姿の女子従業員のいるカウンターで予約搭乗券を買う。三人で保安検査場を通過する。出発ロビーの椅子に座ってキョロキョロ見回す。土産屋で賑わっている。カズちゃんは一軒の店に近づき、オーソドックスに南部煎餅の詰め合わせを買った。
 青森空港は特殊なボーディングブリッジがあるおかげで、バスや徒歩で移動することなくターミナルビルから搭乗できた。ブリッジはプロペラ機のためのものだとカズちゃんが言った。このことも憶えていなかった。
 青い椅子が通路を挟んで二列ずつ並んでいる狭苦しい機内に入る。座席の上の物納れも小さい。七十四席ほぼ満員だ。カズちゃんと並んで座り、前列の窓際に山口が座る。窓にチラチラ雪が見える。
 離陸した飛行機の窓から市街地を見下ろす。朝から悪天候の青森市内が霧に霞んでいる。山口はめずらしそうに小窓の外を眺めた。私はカズちゃんの手を握り、
「……カズちゃん、おふくろから手紙が……」
「だいじょうぶよ、その話は夏が近づいてからにしましょう」
 私の手といっしょに話をそっと振り切った。
 山口が聞き耳を立てている。
「この世で眺める景色の中で、いちばん殺風景だな。見納めする景色じゃない」
 彼は椅子の背の網に挟んであるパンフレットをペラペラやる。
「これまた殺風景だ。文明のにおいがプンプンする」
 スチュワーデスが救命具の使い方を説明するのを山口はにやにや見ている。
「海に落ちたことしか考えてないわけだ。どこに落ちたって助かるわけないだろ。機内の風物詩か」
 見下ろすと、しばらくは箱庭のような絶景だ。すぐに飽きる。
「青森と名古屋じゃ、やっぱり早くいけるという条件がないと、かなり旅の意欲は失せるな。和子さんは野辺地には汽車できたの」
「そう、キョウちゃんと同じ気持ちを味わうために」
 静かな機内私たちの会話だけが響く。飛び立って三十分もしないうちに、窓に降りかかる雪が消え、からりとした青空になった。雲海の上を飛んでいく。今回もプロペラの音と振動に心地よく癒されて、うとうとすしたとたん、
「さ、お弁当よ」
 軽い朝食だったので、たしかに腹が減っている。鮭のおにぎり、甘い玉子焼き、塩コショウで炒めた赤ウィンナー。黄金の三点セット。三人でもりもり食う。食い終えると、カズちゃんばかりでなく山口もコックリコックリしだした。私はずっとカズちゃんの手を握っていた。



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