百三十

 私はその場で全裸になって風呂場にいった。たっぷりとした湯に浸かる。両手で顔を洗う。
 ―ああ、何もかも終わった。十六対十七か。そんな試合をしたことが信じられない。
 三時間四十分があっという間に感じられた。ストライーク! ボー! アンパイアの声が耳に甦る。整列したとき、審判団の目が赤くなっていたのを思い出した。
 風呂の戸が開いた。山口の顔が覗いて、
「スコアボードを越えたホームランな、目を疑った。あれ、物理的法則に反してるんじゃないか?」
「そんなことを言いにきたのか。もうしばらく野球は思い出さないことにする」
「思い出さなくても、からだは疼くぞ。そういうときは、草野球でもやって憂さ晴らしをしろ。ハンバーグ、俺の好物でさ。スタンドにいたときから和子さんにリクエストしてたんだ」
「おまえの送別会だ。気にするな。カズちゃんのハンバーグはぼくも好物だ」
「背中流してやる。しばらく泣き別れだからな」
 山口はズボンの裾をまくって入ってきた。私は床几に腰を下ろして背中を向けた。
「山口」
「ああ?」
「おまえと離れて暮らしているうちに、会話言語を忘れてしまったらどうしよう」
「そんなものどうでもいい。文字言語さえ忘れなければ」
「そうかな」
「そうだ」
「不安というよりも、さびしいんだ」
「……サンキュー。俺しか話し甲斐がないという意味だな」
「うん。おまえの言葉にはいつも圧倒される。快楽だ」
「ありがたいな、俺の言葉ごときを快楽にしてくれて」
「きょうのいちばんの快楽は、空や、音や、スタンドの色を記憶することだった。隅々まで記憶した。人間も記憶しようとして見つめた。カズちゃんと山口と葛西さん一家とチームメイトと、レフトスタンドの人たち。……それから、ホームランの軌道を記憶した。他人のホームランは憶えていても、自分のホームランは意外と忘れてしまうから」
 山口は無言のまま桶で湯を掬って背中にかけた。
「……じつは俺も、きょうの空を記憶したよ。押しかぶさるような、いい雨空だった」
 山口が出ていくと、私は頭を洗った。名古屋へいったら、なるべく眼鏡をかけようと思った。
 新しいランニングとパンツのまま居間にいく。食卓が用意されていた。卓に、湯気の立ったハンバーグと、どんぶりに盛っためしと、ビール瓶が二本載っている。山口がみんなにつぎ、乾杯をした。カズちゃんが音頭をとった。
「キョウちゃん、山口さん、お疲れさまでした!」
 山口がコップを掲げた。
「出発!」
 私がコップを掲げた。
「永遠の友情に!」
 もう一度グラスを打ち合わせた。飲み干した。
「この夏は何本ホームラン打ったの?」
「十一本だったかな」
「十二本だ。打率は六割超え」
「ホームランて、怖いぐらい美しいものね」
「ですね、ボールが遠くへ飛ぶだけのことなのに、いわく言いがたい美しさがある」
「野球用具は、カズちゃんの荷物に入れといてね。ときどき取り出して手入れしたいから」
「はい、ユニフォームはきれいに洗って、アイロンをかけとくわ」
「背番号は取り外しておいて。無番のユニフォームを東大の練習着にする。二年も先のことだけど」
 山口が首をひねり、
「全国的な有名人になっちまったから、向こうの高校でもちやほやされるんじゃないか」
 私は笑いながら、
「いや、野球に興味のあるやつ以外、だれにも正体がわからないだろう。プロ志望届を出さなければ、来年のドラフトの時期になっても、取り沙汰されない。新聞記者や野球関係者が学校にこなけりゃ、まずだれも気づかない。静かに暮らせる。飯場にきたら、おふくろという強力な撃退の武器がある」
「この子には勉強させます、か」
「そう。……大学で野球ができなければ一巻の終わりだ」
「シナリオどおりいくといいなあ」
 山口はコップを一口傾け、
「……なあ神無月、野球をやっていないあいだ、勉強ばかりしてて、へんな思索癖がぶり返してこないか。おふくろさんとの角逐も相当なもんだろうからな」
「だいじょうぶ。真意を隠すという冒険が、生活をドラマチックなものにしてくれると思う。とにかく、お説ごもっともを通してるかぎり波風は立たない」
「私もしっかり秘密を守らなくちゃ。お母さんには生涯会えないわけだから、ほんとにキョウちゃんのクロコに徹しないと。……私がキョウちゃんの女だなんて知ったら、今度こそキョウちゃんは一巻の終わり」
 山口はハンバーグをかじり、コップを傾け、
「野球の鍛練もうまく秘密にしないとな」
 うん、うん、と独りでうなずいた。
「さ、キョウちゃんも食べて」
 うまいハンバーグだった。山口も私も、どんぶり飯を二膳食った。
「山口さん、荷物は?」
「今夜の八時くらいに、運送屋が引き取りにきます。蒲団は手がつけられないほど煮染(にし)まってるので、今夜一晩それで寝たら捨てていくことにしました。和子さんは?」
「三十日にぜんぶ送って、夜はキョウちゃんとホテルに泊まるわ」
「ぼくも三十日に、蒲団から何からほとんど野辺地に送る」
「三十一日は飛行機ですね」
「そう。お昼。八月七日が転入試験だから、キョウちゃんには、五日の夕方まで北村席にいてもらって、名古屋西高のあたりを散歩したり、食べ歩きをしたり、それから、トモヨさんのところにも泊まってもらって。あまり早く飛島にいっても、お母さんや初対面の人たちと何日もすごすのは気まずいでしょうから」
 山口は二杯目のビールをみんなにつぎ、
「五日の夜から神無月は飛島建設の寮に落ち着くわけだ」
「そうだね。五日に社員たちとちゃんと顔を合わせて、七日が試験、何日かして発表。その日のうちかもしれない」
「私は五日から家を探すわ。こじんまりした一戸建」
 夢見るように目を宙に泳がせる。
「俺は西荻窪の実家。家族四人だ。おやじ、おふくろ、妹、俺。戸山高校にもそこからかよう」
「和子さん、戸山高校に受かったらこの夏休み中に名古屋にいきますから、おトキさんによろしく伝えてください。八月下旬になると思います」
「ほんと? おトキさん喜ぶわ」
「ぼくもそのとき、北村席にいくよ」
「飛島建設に顔を出さなくちゃな。俺といっしょに北村席で一晩すごすには、俺の顔が必要だろ」
「うん。必要だ」
「……ちなみに、和子さん、転入試験が二人ともうまくいかなかったときは、俺たちはまた青高に戻って、そっくりもとからやり直しですからね。そのことも頭に置いといてください」
「重々承知よ。しばらく旅行をしてきたと思えば何ということもないわ。また楽しんで家を探せばいいだけのこと。でも、二人とも落ちたら当然そうなるでしょうけど、キョウちゃんだけ受かったら山口さんが戻り、山口さんだけ受かったらキョウちゃんが戻ることになるわけね?」
「いや、俺だけ受かった場合は、二人とも戻ります。俺が入学手続をしなければいいだけのことですから。向こうへ転入を決意したのは、一メートルでも神無月のそばにいるためですよ。神無月だけが受かった場合は、残念ですが俺だけ戻ります。神無月が入学手続をしないで、こちらに戻るのは不可能でしょう。母親の計画が成功したわけですから、手綱を握る態勢は万全ですよ。―心配ありません。そうなっても、一年半後に、俺は確実に神無月のそばにいきますから」
「二人が戻れば、青高は大喜びね。勉強と野球のホープだから。でも、どう見積もっても二人が落ちる要素はないでしょう。あら、雨がきた。そろそろ帰ったほうがいいわ。キョウちゃん、ワイシャツとブレザー一揃い買っといたから、それ持ってって。このジャージ着ていきなさい。傘差してってね。幼稚園はもう退職したから、名古屋へ出発するまでずっとここにいるわ。何か用事があったらきてね。食事は朝食と夕食を用意してもらえるんだから、無理に食べにこなくていいのよ。お昼にお腹すいたらいらっしゃい。とにかく勉強してね」
「うん。合格したらもう一度里帰りして野辺地に顔を出さないと」
「たぶん、そんな暇はなくなるわよ。いまのうちにいってきなさい。青森に戻ってくる可能性があることは言わないほうがいいわ。希望を持たせるのは酷。まず実現しない希望だから」
「わかった、月火水のどれか泊まりがけで二日間、野辺地に帰ってくる」
 アパートに戻り、山口が玄関に荷物を出すのを手伝った。ユリさんが顔を出し、どやどやと四、五人の学生もやってきて進んで手伝う。たとえ一度なりとも親しく口を利き合った仲なので、名残惜しそうにしている。
「蒲団は今夜寝たら捨てていくのでよろしく。神無月も三十日に荷送りするので、よろしくお願いします」
「わかりました」
 十五分もしないうちに運送屋のトラックがきた。小雨に打たれながら、机や書棚をみんなで、うんしょ、うんしょと運び上げる。ユリさんも段ボール箱をせっせと積んだ。亭主は最後まで顔を見せなかった。
 食堂で、ユリさんのいれたインスタントコーヒーをみんなで飲む。新しい扇風機が回っていた。例の野球好きの学生が、
「神無月さん、すごい試合でしたね。ホームラン三本、しっかり見ました。あと二点で甲子園でしたね。ぼく、あしたの新聞、一生持ってますよ。でも、来年から青高は荷が重いなあ。へたに野球で有名になっちゃったから」
 ほかの学生も、
「あのセンター場外、たまげだじゃ」
「ライト場外もな。あのピューッていう一直線、忘れられね」
 きっとレフトスタンドから見ていたのだ。
「ご主人はどうしたんですか。挨拶したいんですが」
 山口がまじめな顔で言う。最後の礼を尽くしたいという表情だ。
「弘前に住職さんの友だちがいるの。傑作のアイディアが湧いたって、ひと月ほど前からそこの寺にこもって小説を書いてるわ」
 学生の一人が、
「え! 旦那さん、小説家ですか。すごいな」
「小説家志望よ。死ぬまでその夢を捨てないんでしょう」
「夢のない男よりマシですよ。おばさんが支えてあげなくちゃ」
 山口が平凡な言い回しをすると、
「まっぴら。女は支えてもらいたい生きものよ」
 と平凡な言い回しで返した。ユリさんはチラリとこちらを見た。雨が激しく庇を叩きはじめた。山口はユリさんが私を流し見た気配を察して、
「俺はもう寝る。応援でくたくただ。神無月、きょうはゆっくり寝ろよ。あしたはここを十時ごろ出よう」
 と言って立ち上がった。学生たちも、
「じゃ、山口さん、お元気で」
 と言って引き揚げた。ユリさんと二人きりになった。
「火曜から、野辺地へ二日間出かけてくる。祖父母とお別れ。三十日は野辺地へ荷物を送って、夜は空港のそばのホテルに泊まる。カズちゃんといっしょに。ご主人の帰る予定がないなら、二十七日の夜から二十九日の夜までのあいだ、いつでも都合のいいときに」
「……はい。ありがとうございます。あの、今夜は……」
「わかった。あとでいきます」
 私はカズちゃんに渡された濃紺のブレザーと水色のシャツを衣紋掛に吊るすために、いったん部屋に戻った。それからすぐにユリさんの離れへいった。


         百三十一

 ユリさんとからだを洗い合う。彼女は無言で、耳の後ろから足の裏まで丁寧にシャボンを使った。雨音がずっとしている。
 ユリさんは風呂から上がると、寝室の鏡台に向かって、薄っすらとシミの出かかった顔に丁寧にクリームを塗った。寝室に新しい扇風機がゆるく回っていた。私は彼女の肩越しに鏡を覗きながら、裸の乳房を揉んだ。
「ありがとう」
 と彼女は言った。
「何もできなかったわ。この一年」
「じゅうぶんなことをしてくれた」
「私がしてもらっただけです。何年かかっても、ご恩返しをしなくちゃ。いまは何も思い浮かばないけど」
 股間に手を伸ばし、指に湿りを記憶する。唇を求めてくる。ユリさんは私の舌を吸いながら、少し腿を広げて気をやる。布団に仰向き、私のものを手で求めるので、腰に寄せてやる。愛しげに握る。私も乳房を握る。促され、挿入して、じっとしている。
「ああ、神無月さんを感じる」
 動く。やがて、ウーン、とうめいて、からだを丸くする。またじっとして、ふるえる腹に掌を当てながら、内部の脈動を感じる。脈動はしだいに治まる。私が動くとふたたび脈を打ちはじめ、声を上げ、うごめきに激しい収縮が加わる。みぞおちまで引き攣る。じっとしていると、勝手にユリさんの腰が動きだし、何度も腹を縮める。私も近づく。ユリさんは私の背中を抱き締め、陰部を押しつけて射精を促す。吐き出す。陰丘が激しく往復する。こらえきれなくなるまでそれを繰り返し、飛び離れて丸くなる。切なそうにふるえている。尻を撫ぜるとふたたびふるえる。この快楽と別れ、来月から彼女はどうやって生きていくのだろう。ユリさんは徐々にからだを伸ばしながら、
「一回、一回、大切な思い出。八月一日は月曜日。私の出発の日。……いつまでも待ってます」
 痛切なものが胸に迫る。何年後かに私がここにくることがあるだろうか。機会を作らないかぎり、まずないだろう。
「今夜はありがとうございました。すぐ寝てくださいね」
 離れようとしない。
「愛してます―」
 私は応えず、無言で唇を合わせた。
「気にしないでね。愛してるのは私だけの気持ち。この家で神無月さんをずっと待ってます。思い出といっしょに、ずっと」
 ユリさんは立ち上がって、風呂場へいった。濡らして絞ったタオルを持ってきて、私のものをやさしく拭いた。私は服をつけ、もう一度キスをしてから部屋に戻った。まだ雨音がしていた。
         †
 二十二日金曜日。山口を起こしにいき、びっくりされた。
「おまえに起こされたのは初めてだな。よっぽど寝覚めがよかったのか」
「ああ、七時に飛び起きた」
「おばさんはほんとうに果報者だ。人生の輝かしい思い出になるだろうな。名古屋にいったら、いよいよ、和子さんとトモヨさん二本槍の生活になる」
「うん」
 二人で庭に出て、水道の水で顔を洗い、歯を磨いた。雨上がりの湿った庭土に下駄の歯が食いこむ。
「きれいだな、真っ白い花が。この木は何ていうんだ」
「エゴノキ。幼木だね。山に生える木だ。この四、五倍の高さになる。実に毒があって喉を痛める。エグイという言葉はそこからきてる」
「この真っ赤な、プロペラみたいにでっかい花は?」
「モミジアオイ。真夏の花だ。コウショッキとも言ってね、中村草田男に『紅蜀葵(こうしょっき)、肱まだとがり、乙女達』という句がある」
「肘が尖る? 夏服から尖った肘が出てるということか?」
「たぶんね。初々しさと、とげとげしさの同居ということじゃないのかな」
「相変わらず植物博士だ。底が知れん」
 学生たちといっしょに朝めしを食う。きのうの夜のうちに帰省した学生もいるので、私たちのほかは二人しかいなかった。その彼らも、めしのあと、ユリさんに帰省を告げて出ていった。
「お別れね。山口さんは東京のどちらへ?」
「杉並区の西荻窪です」
「すてきな街ね。私たち夫婦は落合というところに住んでたんですよ」
「ああ、東西線の。早稲田近辺ですね」
「そう。神田川沿いのガランとした街。なつかしいわ」
「ものみな、なつかしき。老いた感興だな。まだまだ年とっちゃだめですよ。ユリさんはじゅうぶん若い」
「親切ごかしはいいの。これからの私は未来志向なんです。いつか神無月さんが訪ねてくる日を待つの」
「こいつはアテになりませんよ。勝手にどんどん恋愛したほうがいい。ミサオを立てる必要はない」
「神無月さんのすばらしさを知らない女の生き方ね。ミサオなんて堅苦しいことは考えてません。待つのが喜びなんです」
「こいつのすばらしさは百も承知ですよ。じゃ、待ってればいいです。人に応えようとする神無月のことだ、何かの折に、ひょっこり現れるかもしれない」
「そう、ひょっこりね」
 底抜けに明るく笑った。
「東京に持たせるお土産ないけど、いい?」
「もちろん。荷物になるだけです。じゃ、最後に神無月の歌を聴いておきたい。おばさんのリクエストは?」
 山口はギターだけは肌身離さない。これを持って飛行機に乗るのだ。
「……港が見える丘」
「平野愛子ですね。昭和二十二年、俺たちの生まれる二年前だ。神無月、いけるか」
「一番だけなら」
「一番だけでいいです。一番が好きだから。二番は別れ、三番は空しい思い出。一番だけが出会いの詩なんです」
 山口はうなずくと、瓢箪型のケースを開けて、ツヤのいいクラシックギターを取り出した。調弦する。美しいイントロが流れはじめる。リズムに呼吸を合わせて唄いだす。

  あなたと二人できた丘は 港が見える丘
  色あせた桜ただひとつ さびしく咲いていた
  船の汽笛むせび泣けば チラリホラリと花びら
  あなたと私に降りかかる 春の午後でした

 行き届いた後奏を入れて締めくくる。ユリさんが泣いている。山口も頬を拭った。
「よかったですね、神無月の声が聴けて。こんな不思議な声はおいそれとは聴けないですよ。じゃ、神無月、いこうか」
「うん」
 ギターケースと小さなボストンバッグを提げた山口と玄関を出る。沓脱ぎに、合浦でいっしょに泳いだ夜に藤田の店で買った彼の下駄が置き捨ててあった。
「お元気で。年賀状くださいね」
「はい。折々ハガキを書きますよ」
 ユリさんが玄関で手を振る。山口は頭を下げた。松原通へ革靴で歩みだす。私はカズちゃんの買ってくれた京都の下駄を履いた。
「きょう気づいた。和子さんほどじゃないが、おばさん美人だな」
「そうか。伝えとく」
「伝えるな。またおためごかしと思われる」
「……鈴木睦子が東大を受けると言ってた」
「やつは受かる。受かって東大野球部のマネージャーになる。百パーセントな。味噌っ歯治しただけで、あの変身ぶりは尋常じゃない」
「心映えがいい」
「何にしても、一年半後だ」
「うん」
 ゆっくり青森駅まで歩き、空港バスに乗る。私はシラカシの並木を見つめながら、
「街並は目に納めたか」
「納めた。二年暮らした街だ。ちょっと後ろ髪引かれた」
「いつかいっしょに遊びにこよう。カズちゃんとおトキさんを連れて」
「いいな、それ。大学へいってからだな」
「うん」
「東京、か。どんな都会だ」
「背の高い街だ。都会は石の墓場で、人間の住むところじゃないってロダンが言ってるが、おまえには似合ってる。カチンとした哀愁がただよってる」
「山口、ぼくは憂鬱な人間かな」
「気質は正反対だが、病気として飼ってる。治療しないほうがいい。生きるバネが弱まる。ま、治らないな。不治の病だから」
 空港の土産物店で、山口は南部煎餅を二袋買ってボストンバッグに詰めた。ギターケースは搭乗入口で検査を受け、輸送荷物のほうへ回された。彼はゲートで手を挙げ、
「じゃ、しばしの!」
「お別れ!」
 手を振り合った。山口は照れくさそうにさっさと搭乗通路へ姿を消した。
         †
 七月二十三日土曜日。昼近くまで寝た。暑さに蒸されて起きた。洗面、歯磨き、ふつうの排便。痼疾になった耳鳴りは激しい日と穏やかな日があるが、きょうは穏やか。睡眠の多寡に関わらず音質は一定だ。金属をこするシャーという音。
 部屋で三種の神器。裏庭で素振り。人に会いたくないので、ランニングには出ない。ユリさんの焼いてくれたトーストを齧りながら、食堂で東奥日報を読む。

      
義塾執念八回に七点!
            
昨夏につづいて青高力及ばず
                   
神無月訣別の三ホームランも
 東奥義塾は土俵ぎわまで追い詰められていた。十五対十、ほぼ青高の優勝決定の様相で迎えた八回裏、先頭の八番バッター川崎(三年)が左前打で出た。つづく佐々木(二年)がレフト線へ二塁打を放ち、無死二、三塁とする。盛り上がる東奥ベンチとスタンドの応援を背に、一番奈良岡(三年)がライトへ深い犠牲フライを打ち上げ、川崎ホームイン、佐々木三塁へ進塁。二番三上(三年)デッドボール。ワンアウト一、三塁となったところで、三番清藤(三年)は、ここまで十点も取られながら力投してきた青高一年生エース小笠原の投じたワンスリーからの外角ストレートを、みごとにセンター前へ打ち返して佐々木を還した。勢いに乗った義塾は、ワンアウト一、二塁から、四番杉山(二年)が乾坤一擲、ライトスタンドへスリーランホームランを打ちこんで同点とした。気落ちする小笠原に相馬監督は続投を命じた。彼で負ければ悔いがないという気持ちからだ。つづく五番打者小笠原(三年)がライト前へヒット、六番三上(三年)のフルスイングの打球は無情にも神無月の頭上を越えていった。一挙七点。十七対十五。この奇跡の大逆転でほぼ決着がついた。
 九回表、小笠原の代打四方(一年)がレフトスタンドへソロホームランを打ちこんだときは、一瞬青高ベンチにふたたび甲子園出場への希望が燃え上がったが、柳沢は後続の吉岡を三球三振、金を三球三振、すべて剛速球でねじ伏せ、ゲームセット。最終打者の金は三振した直後、帽子を脱いで柳沢に深々と礼をし、この熾烈な血戦にユーモラスな心温まる印象を残した。
 この決勝戦は神無月郷の訣別の試合でもあった。この試合を最後に、二夏にわたって青森県の高校球界に強烈な光輝を降り注いだ〈天馬〉は、二年連続三冠王という輝かしい記録を置き土産に、ふるさと名古屋の空へ去っていくことになった。そこが目的地だからではない。いっとき隠棲してひそかに翼を休め、ふたたび地上にくだって羽ばくためである。
 彼が羽ばたいた行路に残されたまばゆい光輝を私たちは忘れない。その光に浴しつづけるためには、共に宙空を旅しなければならず、天馬ならぬ私たちには無理な相談である。われわれはただ首を長くして彼の帰還を別の地上で待つしかない。しかしあてのない地上ではない。休息後、彼が舞い降りる予定の地は大学野球のフィールドだと仄聞(そくぶん)している。
(本誌スポーツ部 浜中)


 夜中まで数学と日本史の勉強をした。社会科の勉強のもっと細かい要領を教えてやると約束していた山口は、それをすっかり失念して上京してしまった。



         百三十二 

 二十四日日曜日。一日雨。ランニングなし。三種の神器のみ。名古屋に落ち着いてからふだんどおりの鍛練に戻すつもり。転入試験は英国数だけだと山口が言っていたことを思い出し、古文研究法をやれるだけやった。
 夕方、窓を開けると、雨に湿った風が入ってきた。二階でゴトゴト物音がするのは居残っている学生だろう。そいつといっしょに晩めしを食うのは気が進まないので、少しずらすことにする。
「神無月さん、お客さんよ。いつか看病してくれた女の人」
 ドアの外からそう言ってユリさんが戸を開けた。
「はい、ありがとうございます」
 玄関に出てみると、夏物の紺のワンピースを着て白いハイソックスを穿いた木谷千佳子が立っていた。
「木谷さん! どうしたの」
「スタンド敷き編んだはんで、持ってきた。……名古屋さいったら、私だと思ってそばさ置いでほしくて」
 こんなに間近から木谷の顔を見るのは初めてだった。彼女はベンチでも私をまともに見ないようにしていたが、いまはしっかりと見つめている。目が涼しく張り、少し長い顔の頬が豊かだった。ただ、ふだん思わなかった新しい話を作りあげて、一から関係を築き上げるのは面倒だと一瞬思った。それは女というものに対する初めての感覚だったので、長い鬱屈になるかもしれないと予感した。
「十日もしないうちに名古屋にいく。思い出に残る会話ができればいいんだけど」
「……はい」
 食堂からユリさんが廊下に首を出したので、私は、
「同級生の木谷さんです」
「どうぞ、上がって」
 木谷は黒いローファを脱いでむこう向きにきちんと揃え、式台に上がった。私は彼女を食堂へ導いた。ユリさんがお茶の用意をした。
「スタンド敷きを作って持ってきてくれたそうです」
「神無月さんのこと、好きなのね」
 やさしい口ぶりだ。木谷は赤い顔をうつむけた。
「お二人でお話するの、こんなところじゃなく、お部屋がいいんじゃない? あとで夕食を食べていらっしゃい。離れで食べる?」
「いえ、食事はけっこうです。すぐ帰りますから」
 木谷は明るく言った。もともと玄関で帰るつもりだったようだ。
「おばさん、上でゴトゴトやってる学生は?」
「ああ、山本くん。税務署の採用試験を受けるためにがんばってる子。この夏は帰省しなかったみたいね。じゃ、私、離れにいますから、何かご用があったら呼んでくださいね」
 木谷と蛍光灯の下の明るいテーブルに向かい合った。木谷は手提げ袋から薄い紙箱を取り出して開け、青と白の市松模様の四角い布切れをテーブルに広げた。落ち着いた色合の厚布だった。折り畳んだ一枚の便箋が布の下に覗いた。手に取って読んだ。

 いつまでも、いつまでも、神無月くんのことを忘れません。
 スタンド敷、一所懸命編みました。これを勉強机のスタンドの下に敷いて、ときどき私のことを思い出してください。
 神無月郷さま                         木谷千佳子


「ありがとう。ぼくも木谷さんのこと忘れないよ。これはきれいなものだね。敷物にするのはもったいないな」
「ひと月かけて編んだんだ。いづもそばに置いてください」
「そうする。きみを偲ぶよすがとせん、だね」
「……首の跡、すっかり消えだね」
「うん……。秋からのマネージャー業、がんばってね」
「はい。きょうの新聞読みました?」
「うん」
「神無月くんのこどばりですね。来年のドラフトは、ほとんど全チームが名乗りを上げるらしいです」
「ぼくは関係ない」
「もったいね。いろんな新聞に、身内の反対と書いてらったども、信じられねです」
「だろうね。だいじょうぶだよ。じゃまには免疫ができる。しばらく野球を忘れて、騒がれながら暮らすような一本道から少し逸れたら、かえってもっとたくさんのことを経験できるかもしれない……」
「もっとたくさんのこと―」
 木谷の目が少し宙をさまよった。
「野球以外のこと。人と語ること、人を観察すること、人に感動すること」
「人ばりですか」
「うん、人間だけ。人間への愛着は、すべて一本道の追求でないがしろになってしまうものだからね」
「そんですね。だども、一本道をいく張り合いがねど、それもうまぐいがねんでねの」
「そう。だからぜったい野球はあきらめない。……去年は楽しかったね。龍飛。いい思い出だ」
「あの……」
「何?」
「睦子さんはきましたか」
「こない」
「……ムッちゃんは、神無月くんのこと、うだでぐ好きだはんで……。将来付き合ってけろって告白したってへってました。ワはそんなのいやです。だって、先のこと約束したって、もう一生会えないかもしれねのに」
「約束ってそういうものじゃないかな。保証がないからするものだろう? しないよりしたほうがいいと思う」
 木谷は手帳に何やら書きつけて破り、
「これ、うちの電話番号です。こっちさ遊びにきたら、連絡ください。約束―」
「わかった」
 私は受け取ると、
「ちょっと待って」
 部屋に戻り、木谷のメモを手帳に挟みこんだ。それから、押入にしまってあった洗濯したてのユニフォーム一式を取り出して紙袋に入れた。もう一度食堂へいって木谷に手渡した。木谷は紙袋を覗きこみ、
「こたらに大切なもの!」
「いいんだ、あと二着あるから」
 木谷は私に思わず抱きついた。私は軽く腕を回した。
「スタンド敷き、ほんとにありがとう」
「かならず敷いてくださいね。ワダシ帰ります。向こうの住所を石崎先生に聞いて、手紙コ書ぎます」
「住所はわかってるから、いま書くよ」
 私は木谷に手帳を出すように言い、彼女が開いたページに飛島寮の住所を書きつけた。
 関野商店まで送って出た。その短い数分のあいだ、紙袋を提げた木谷は私に寄り添って腕を組み、頭を預けて歩いた。
「来年の夏休み、名古屋さ遊びにいってもいいですか」
「それは無理。監視の目がきつい。監視されるために戻るようなものだから。手紙を書けばいい」 
「わがった。そうします」
「今度の里帰りまでのお別れだ。元気でいてね」
「はい。家でこのユニフォームを着て勉強します。さよなら」
「さよなら」
 木谷は私と握手すると、しばらく早足で歩き、大きく手を振りながら桜川のほうへ曲がっていった。紺のワンピースのスカートが揺れ、白いハイソックスが目に鮮やかに焼きついた。
         †
 娯楽部屋からテレビの音がした。戸を開けて覗くと、ユリさんがホームドラマを観ていた。
「お帰りなさい。早く帰しちゃったんですね。嫌いな子なんですか?」
「そういうわけじゃなくて、一から恋愛関係になっていくのを面倒くさく感じた。いままでにない気持ちだった。木谷は青高でいちばん最初に好きになって、それからずっと好きな女だった。でもどうかしたいと思わなかった。案外これから先、女に慎重になりそうな気がする」
「ふふ。女の人が放っといてくれればね。お腹すいたでしょう」
「うん」
「赤魚の煮付けと、ホタテバター、そんなものでいいですか?」
「ごちそう! 上の男は?」
「夕食はいらないって。ひさしぶりに息抜きに映画に出かけるんですって。夕食がすんだら、すぐ勉強してくださいね」
「そうする」
 食堂へ戻る。味噌汁も温め直して、ユリさんもいっしょに食べた。ときどき見つめ合い、微笑み合う。
「きれいだね、ユリさんは」
「いやだ。そんなまじめな顔で。シミだらけのお婆ちゃんよ」
「山口が言ってた。素直に信じたほうがいい」
 会話が馴染んでいる。
「勉強してくださいね」
「くどいよ。心配しないで。失敗したほうがおふくろは心の底で喜ぶと思うけど、意地でも失敗しない」
「どういうこと?」
「複雑だから説明できない。その必要もない。この世にはわからなくていいことがたくさんある。能天気に生きてないと寿命が縮まる」
「ホホ、縮めようとしたくせに。さ、ひさしぶりに街に出て、買い物したりして、ぶらぶらしてこようかな」
 山口はいまごろ、古巣の町を浮きうき歩き回っているだろうか。それとも、戸山高校の下見なぞをしているのだろうか。出発! そう言って乾杯した彼の顔が浮かんできた。勉強しなくてはいけない。特に数学だ。一問失敗すると、大幅な減点を喰らう。二問失敗したら、取り返しのつかないことになるだろう。
 部屋に戻って数学Ⅰの教科書を開いた。深夜まで、教科書ガイドで解答合わせをしながら、三角関数の章末演習問題をやった。
         †
 翌月曜日の昼近く、ユリさんに起こされて、二人で堤川沿いを散歩した。アパートの裏手から出て、細い土手道を上流に向かって歩いた。ユリさんは白いシャツに黒いタイトスカートを穿き、小ざっぱりした感じだった。
「あ、歯を磨かなかった」
「平気。神無月さんは、口も、からだも、ぜんぜんにおいがしないから」
「においの問題じゃなく、不潔さの問題だ。特に口の中は、人間のからだのなかでいちばん汚い。だから、よほど好きな女とでなければディープキスはできない」
「ま、うれしい。私とは何度もしてくれてるわ。神無月さんは足もにおわないのよ。知ってた?」
「うん。足の裏と手のひらに、汗腺や皮脂腺がないようだ。夏も冬もカサカサしてる。バットを握るのがたいへんだけど、中学時代はストッキングを一度も洗わずにすましたこともある。そういう捨てがたい便利さもある。背中と腋の下には多少汗をかくし、頭と顔と腹にはびっしょりかく」
「そういえば、あごからしずくが落ちてたことがあったわ」
「なんだか、ロマンチックな会話じゃないね」
「とにかく、汗をかこうと、歯を磨くまいと、におわないということよ」
 あの森にそっくりな森がある。立ち止まって、じっと眺めていると、
「……どうして死にたくなったの」
「怒りがあるうちは、人は死なないものだ。ぼくは何年か前、ひどく怒ってた。それがどういうわけか、怒りが悲しさに変わった瞬間があってね。怒りは理由があるので錯乱じゃないけど、悲しみは正体のわからない錯乱だ。怒りを悲しさに変えてしまった人間は死ぬ。そのとき、ぼくは生きながら死んでたんだ。それからは、いつも自分の死に場所を探してた感じかな。首吊りは念押しだね」
 ユリさんはうつむいて歩きながら、
「なんだか、よくわからない。何か、それなりのできごとがあって、怒ったんでしょう? 小さいころからいつも怒ってたわけじゃないわよね。……神無月さんが、もっと小さいころに、一回、命をあきらめたことがあったんじゃないかしら。偶然怒りが悲しみに変わったんじゃなくて、命をあきらめた記憶がずっとこびりついてて、何かあるたびにそれが甦ってきて、無性に死にたくなってしまうってことは考えられないかしら。……もともとなかった命だったんだって」
「ユリさんて、するどいことを言うんだね。思い当たらないけど、そのとおりかもしれない」
「いまはもう、死にたくないんでしょう?」
「そうなんだ。自分の苦しみとか、人生の根っこを考えるとか、そういうものは、自分でない人間の魂に感動することに比べたら、取るに足らないものだと思うようになった。……あ、あそこの暗がりにしよう」
 薄暗い木陰になっている草地を指差す。
「はい……」
 ユリさんすぐにうなずいた。あたりを覗うようにしながら二人落葉を踏んでいく。
 ……………………
 ユリさんは下腹に内蔵された柔らかい手のひらで私をしごき、一滴余さず搾り取りながら私の背中を抱きしめた。
「ユリさん」
 二度、三度と呼びかける。
「……はい」
「だいじょうぶ?」
「はい……」
 応え、目を開ける。涙が溜まっている。
「愛してます」
 やさしく笑い、涙を目尻の皺に滴らせた。


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