四

 すまし顔の妹が、腕に子犬を抱えて入ってきて、長い髪を指で梳きながら私を蔑むように見つめた。こしらえない服装のリサちゃんとちがって、妹は派手な色のスカートを穿き、唇が紅でも塗っているようにいやに赤い。リサちゃんよりも大きな切れ長の目をしている。
「汚い手でレコードいじらんといてね」
 お高い調子で言い、レコードのかたまりを足でそっと襖のほうへ押しやった。
「そんなもの、興味ないよ」
「あんた、事務所の賄いさんの子でしょ。お上品ぶっちゃって。へんに白いし、やかんみたいで気持ち悪い」
 飯炊きより人夫頭のほうが偉いと言わんばかりだ。毛並の良さは日本人の好むところだけれど、人夫頭が毛並みと言えるほどのものだろうか。
 妹は隣部屋の仏壇の前に坐ると、マッチで線香を点けた。細い煙が立った。髪の黒いお婆さんの写真が飾ってある。彼女は犬を膝に置き、両手を合わせて目をつぶった。耳にリボンをつけた白犬は、たえずからだを震わして、濡れ雑巾みたいにみすぼらしい。それにしても、わざわざいま、仏壇に手を合わせる必要があるのだろうか。
 妹は犬を抱き上げ、テレビの前にやってきて、無遠慮にチャンネルをがちゃがちゃやりだした。バカヤローという気持ちで、その背中を見つめた。妹は気配を感じて振り向き、ふくれっ面になった。
「そんないやらしい目、せんといて。お里が知れるわよ」
「お里ってなんだ。ぼくの家は士族だぞ」
 思いもしなかった言葉が口をついて出た。恥ずかしかった。
「なに、それ。馬鹿みたい」
「そうさ、馬鹿には馬鹿をぶつけるにかぎる。いい気になりやがって」
 これも思わぬ言葉だった。名古屋にきてから、私は変わってきている。
「お父さんに言いつけてやる」
「ほんとにただの馬鹿だな。帰る」
「もう、こんといて!」
 私が腰を上げると、リサちゃんはあわてて私の背中について表に出た。地下足袋履いた茶色い皮膚の男たちが、うろうろと労務者棟に出入りしている。
「ごめんね。あの子、人をかまうでかんわ。いつも一人でレコード聴き散らかして、だれにもさわらしてくれへん」
「よう、リサ、デートか」
 バラックの前庭で落葉を焚いていた中年の土方が、手拭で首筋をしごきながら呼びかけた。煙がゆらゆらと立ち昇り、青い空へ溶けこんでいく。土曜の夜にかならず事務所へ麻雀にやってくる後藤さんだ。
「そんなんであれせん」
 リサちゃんは弾んだ声で返事をした。
「うまくやれよ」
 顔を皺だらけにして手拭を振る。事務棟とちがって、酒井棟の飯場には、夏は薄汚れたシャツ一枚、冬はカーキ色のジャンバー、そうして年がら年じゅう地下足袋履いた男たちがたむろしている。私は外見で人を軽蔑することはなかったし、それどころか、鉄のようなからだをした渡り労働者たちをいつもまぶしく眺めていたけれども、見たところ、どんな素性とも知れない彼らを、足腰立った肩書つけて暮らしている事務所の社員たちと比べて、なんとなく気の毒に感じていた。彼らが世間並みの稼ぎをしているようには見えなかったからだ。だから社員たちを優遇する会社と彼らのあいだには、何かひどい横暴な仕組みが働いているような気がしたのだった。
「後藤さん、酔っぱらうといつも、なくした指の愚痴を言うの」
「ぼくにも見せてくれたことがあったよ。親指と小指しかなくて、蟹のハサミみたいだった」
「そう、ワイヤーに挟まれたんやて。あ、ロバのパン屋さん」
 潤んだ目をした毛づやの悪いロバが、顔を上下させながら近づいてくる。

 ロバのおじさん
 チンカラリン チンカラリンとやってくる
 ジャムパン ロールパン 
 できたて焼きたて いかがです


 リサちゃんは呼び止めて、三角の玄米パンを二つ買った。
「お山へいって、食べよ」
 まばらに生えた草を分けて、二人肩を並べるようにして築山へ登っていく。尻を左右に振って歩くリサちゃんのズボン姿が、スカートよりハイカラに見える。ズボンがほんとうに好きなのかもしれない。
 キチキチバッタが草の中から飛び上がった。リサちゃんが驚いたふうにからだをすり寄せてきたので、私は思わず気兼ねして離れた。気兼ね? 性と、年齢と、常識に―。リサちゃんはふとさびしい顔になり、築山へ登っていった。私はついていき、いただきに並んで腰を下ろした。粘土の香りが立ちこめている。
「はい」
 リサちゃんが玄米パンを差し出した。私は遠慮なく受け取って頬張った。西のほうの黄色い空がだんだんピンク色になり、冷たい紫に変わっていく。民家や事務所の黒いシルエットが浮き上がってきた。リサちゃんの横顔を見ると、うなじのうぶ毛が淡い光の中できらきら輝いている。パンを噛む唇が湿っている。
「見たい?」 
 小さい目が気弱そうに私を見つめた。
「何を」
「リサの脚」
「脚? 脚が、どうかしたの?」
 リサちゃんは最後の一口を指で押しこむと、両手をぱんぱんと叩き、あたりの気配を確かめながら、ズボンの片方を股のつけ根までまくり上げた。薄闇の中に、ふくら脛から太ももにかけて深くえぐれたケロイドの溝(みぞ)が、幾筋もはっきり見えた。
「うわ! それ、どうしたの」
 縄のようによじれた残酷なケロイドの畝(うね)に、視線が貼りつこうとする。
「小一のとき、轢かれたんよ。信号を渡ろうして、左折したトラックに巻きこまれてまって。こんだけ大きい傷だと、包帯で隠せんでしょ」
 もっとよく見るようにと促す。
「なんでもないよ、そんなの」
 リサちゃんはズボンを下ろした。私は気に留めていないふうに、少しずつパンを噛みつづけた。胸がドキドキしている。
「がっかりしたでしょ。中学生になったら、手術をするの。うまくいくかどうか、わからんけど」
 リサちゃんの声が悲しそうにふるえた。
「うまくいくよ。たいした傷じゃないから」
 嘘を言う自分に後ろめたさは感じなかった。不幸でない人は、不幸な人を救うことなどできないのだから、せめて慰めたり励ましたりしてあげなければいけない。ミナマタ病の人たちをテレビで観たときも、そう感じた。私は、不幸に苦しんでいる人を見ると、憐れみより先に、畏敬の気持ちを起こすタチだ。不幸な人のほうが幸福な人よりも立派だと思ってしまう。だから、自分が慰めのつもりで言った嘘が、立派なリサちゃんを辱しめたのではないかと不安になった。
「なんでもないさ。ほら、ぼくも、顔に傷があるよ。かあちゃんが言ってた。顔に傷があるのは半端に生きてきたしるしで、それだけで意味もなく人を恐がらせるから、まっとうに扱ってもらえないんだって。顔はズボンじゃ隠せないからね」
 私は、横浜でときどき母に言われたことを思い出しながら言った。そしてリサちゃんに顔を近づけ、自分の鼻の脇を指差した。
「……ひどいこと言うね、お母さん。嘘つきやわ。ぜんぜん目立たんが」
「目立つよ。いつも鏡で見てるからわかる」
 リサちゃんの顔からさっきまでの悲しい影がたちまち消え、怒ったように頬が紅潮した。
「ちっとも気にならんわ。鼻糞みたいなものやないの。もっと深い傷のある人、いくらでもおるが。お母さん、嘘つきやわ」
 嘘つきと繰り返されて、サーちゃんの一件が蘇ってきた。同時に、母の最近の口ぶりも思い出した。きのうも、ほかの生徒のように、正門前の駄菓子屋でトコロテンを食べてみたいと思って、十円くれと言った。
「トコロテンだって? 身のほどをわきまえなさい。買い食いできる身分じゃないでしょ。ふつうの小学生みたいに甘えた根性でいたらだめだよ。不満なら、いつでもとうちゃんのとこに戻っていいんだからね」
 十円のトコロテン一つで、身分? 甘えた根性? 父のところへ戻れ? たしかに嘘つきだ。母が戻っていいなんて思っているはずがないし、私が戻れるはずもない。母の白々とした物言いは癪にさわるけれども、私はいつも黙って聞きすごし、言葉や表情で報いるようなことをしない。このごろでは、私が五分でも寝坊をしたり、給食袋を出すのを忘れたりすると、
「だらしない子だね。オヤジにそっくりだ。ああ、いやだ、いやだ!」
 とヒステリックに言う。いい加減うるさいと思うようになってきた。飯場の人たちと寺田康男がいれば、母はいらない―そんな突き放した気持ちになることさえある。だから最近は、学校のできごとはもちろん、社員たちや康男との生活に紛れこんでくる印象的なできごとも、母に報告するという習慣をまったくなくしてしまった。
「おばさん、もう少しキョウをかわいがってやんなよ。オヤジにそっくりだなんて言ったらかわいそうだよ」
 クマさんが言ったことがある。彼もときどき母から悪人の父の話は聞かされていて、彼にしてみれば、いろいろ突き合わせてみると、実際私の気質がかつて彼女の夫だった男に少しも似ているようには思われないのだった。小山田さんまでが加担して、
「おばさんの気持ち、わかるけどね。だいたい、片親である女には二つの難しい務めがあって、母であるとともに、父親でなければならないもんな。しかし、つい息子に向かって憎まれ口を利いてしまうというのは、女にとって、賢母となるより良妻となるほうがどれほど簡単なことであるかの証しだろ」
 そんな簡単なことができない人間に、賢母となることなどできないと言いたいらしかった。母は苦い顔になって沈黙し、カズちゃんは小山田さんの意見にうなずいていいものかどうかわからずに、遠慮した様子でうつむいている。小山田さんはさらにつづける。
「息子を背負うという難しい道を選んだんだから、そんなふうに息子を責めてもしょうがないんだよ。キョウちゃんには身に覚えのないことなんだからさ。と言っても、二親の役割をよく心得て見事にやりおおせるだけの健気な女なんて、めったにいやしないんで、おばさんに無理を言うつもりはないんだがね。男の俺にだって無理だろうな。無理なことはがんばりすぎないで、ぼんやりして放っておくがいいよ。とにかく、あるがままのキョウをかわいがってやってくださいよ。いい子だよ、キョウちゃんは。ほんとは父親に似てるんじゃないの」
 ようやくパンを食べ終わり、リサちゃんを真似て、手をパンパンとはたいた。あたりはすっかり暗くなり、冷たい風が吹いている。
「手術って、どうやるの」
「お尻から皮膚を切り取って、貼りつけるんだって……」
「うまくいくといいね」
「うん。そしたら神無月くん、リサのこと、好きになってくれる?」
 私は彼女のことを別に嫌いというのではなかったけれども、好きだと思ったこともなかった。
「……ねえ、好きになってくれる?」
 私はそろそろ居心地が悪くなってきたので、いい加減なおあいそを言った。
「ずっと前から、好きだよ」
 リサちゃんはうれしそうに大きい目を絞って笑った。

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