五

 千年(ちとせ)小学校の野球部が軟式ボールだということは、ひと月ものあいだ放課後の練習をバックネット裏から眺めて知っていた。ソフトボールより二まわりも小さい軟式ボールは、ややこしく跳ねまわり、捕まえにくそうだったけれども、バットでひっぱたけばどこまでも飛んでいくように思えた。
 数えた部員は補欠を入れて十五人。よく名前を呼ばれる左ピッチャーの長崎と、キャッチャーの吉村だけは暗記した。目立った強打者は一人もいない。だだっ広い校庭なので、センターの後ろにかなりの余裕ができていて、女子ソフトボール部の連中がうろちょろしている。彼女たちは毎日早めに練習を切り上げてしまうから、大してじゃまにはならない。
 十一月の末、私は放課後いったん飯場に戻ってトレパンに着替えてから、小山田さんにもらったタイガーバットを手に提(さ)げ、意気揚々とグランドへ出かけていった。ちょうどフリーバッティングの最中だった。いつもなら、このあと服部先生という人が出てきて、守備練習のノックが始まり、それが終わるとキャッチボール、ベースランニング、最後に選手全員で校外へ走り出ていく。
 左ピッチャーの長崎がオーバースローで速球を投げこんでいる。何度見てもほんとうにフォームが美しい。彼のボールは手もとで伸びるので、たいていのバッターがきりきり舞いしている。感心しながらじっと見ていると、長崎もこちらを見つめ返してきた。
 ―このくらいのスピードなら打てる。
 ソフトボールのピッチャーが近い距離から全力で投げるボールは、人が思うよりもずっと速い。長崎程度の速さではない。それにしても、どのバッターも空振りが多すぎる。
 ―無茶振りしてるんだな。最後までちゃんと球筋を見ないといけないのに。
 ときどきまぐれでバットに当たっても、つまった打球がファールフライになるか、内野にフラフラ舞い上がるのが関の山だ。長崎は打ち取るたびに、胸を張ってえらそうにする。いままであの鼻柱はへし折られたことはないようだ。私は一塁側の花壇前で威勢のいい声をあげている補欠部員たちのほうへ近づいていった。
「野球部に入りたいんですけど」
 キャッチャーの吉村が立ち上がって、
「なんだ、なんだ、そのトレパンは。じゃまだ!」
 と怒鳴った。思ったとおりだ。えらそうなレギュラー選手に近づいていっても撥ねつけられると予想したのは正解だった。補欠部員の一人が、
「ちょっと待っとって。服部先生を呼んでくるで」
 と言うと、職員室へ走っていった。やがて彼に連れられて、ノックバットを持った服部先生がやってきた。白いジャージのはだけた襟から固そうな胸をのぞかせながら、私の前に立つ。
「入部したいって? 何年生だ」
 服部先生は私のからだをゆっくり上から下まで眺めた。私の身長はほかの連中に較べるとかなり低かった。
「四年生です」
 服部先生は短髪を指でしごいた。木製のベンチに腰を下ろす。
「あのね、クラブ活動は五年生からだよ。来年きなさい。どうせ十二月から二月までは大した練習もしないし」
 私は門前払いを食わされたのが意外で、
「横浜では、強打者だって言われてました」
 毅然として言った。
「横浜? なるほど、転校生か。あっちは、四年生でもクラブ活動をしていいの?」
「はい。一年生からいいんです。ソフトボール部ですけど」
 ソフトボールと聞いて、部員たちの遠慮のない笑い声が上がった。
「ソフトね……。うん? そういえば、きみ、寺田と―」
「はい。転校した日に、喧嘩しました」
「なかなか勇敢だったよ」
 それ以上の感想は言わず、
「で、軟式野球はやったことないんだな」
「はい。でも、打つのは得意です。テストしてください」
 ここが正念場だと思った。毎日野球をして生きていきたいのだ。来年まで待っていられない。二度、三度、服部先生の前でタイガーバットを振ってみせる。ブンと風を切る音がする。
「ホウ、左利きか。いいスイングだ。すると、なにか、きみは軟式をやるのはきょうが初めてということか?」
「はい。やったことありません」
 服部先生はあいまいな表情を浮かべ、ベンチに座ったまま、あらためて私の全身をつくづくと眺め回した。吉村が迷惑そうな顔で寄ってきた。
「守備練習の時間ですけど」
「わかった。なあ吉村、この転校生がね、四年生らしいんだけど、なかなか手首の効いたスイングしてるんだよ」
「四年生なら、来年からでしょう」
「そうなんだが―」
 服部先生は長崎を見やって、よし、と小さく言い、片手で膝頭を叩いた。
「おーい、長崎、投げてみろ。軟式は初めてらしいから、ボールのスピードを見せてやってくれ」
 マウンドにいた長崎がこくりとうなずき、見くびったふうに微笑した。彼は吉村をしゃがませて、二、三球、びしびし速球を投げこんだ。
「左対左だ、打ちにくいかもしれんぞ」
 服部先生が私の背中に声をかける。激しい緊張を覚えながらバッターボックスに立った。脚がガクガクする。とにかく青木小学校のときのように、自然に打ち返せばいいのだ。大人用の長いバットを左胸の前にゆったりと構える。長崎は片頬をゆがめて笑った。部員たちが野次を飛ばす。
「バッター、格好だけよ!」
「チビ、バットを長く持ちすぎやぞ」
 高く構えたバットをもう一度胸もとへしっかり引き寄せた。素振りの練習を繰り返すなかで、しっかり身につけた手順だ。部員たちは相変わらずからかうような調子で、私の大人びた構えに茶々を入れる。
「じゃ、いくよ」
 長崎は一声かけると、高く振りかぶり、見くびるように山なりのボールを投げてよこした。大根切りで思い切りひっぱたいた。いつもそうしてきたように、打球を眼で追った。低く伸びていくライナーが、ライトの上空で加速して浮き上がり、三階校舎のガラス窓にズボッと突き刺さった。ガラスは割れないで、丸い穴が開いている。一瞬静まり返った部員たちがたちまちどよめきはじめ、奇妙な喚声が上がった。服部先生が叫んだ。
「ヘエ! 九十メートルはいったか! いままであの校舎まで飛ばしたやつはいないぞ。きみ、ほんとうに四年生か」
「はい!」
 ソフトボールはあんなふうに加速しないし、ガラスもあんな割れ方をしない。まるでピストルの弾丸(たま)だ。反発のいい小さな軟式ボールはその秘密をすっかりさらけ出して、私を夢中にさせた。
「長崎、馬鹿にするからこうなるんだ。これじゃ引っこみがつかないだろ。うんと速いのを投げてやれ。遠慮しなくていい」
 服部先生が興奮したようにあごを撫で回した。長崎の顔色が変わっている。彼はユニフォームの胸もとで手のひらを拭うと、ふたたび大きく振りかぶった。膝を胸もとにぐいと引き寄せ、腕を強く振り下ろす。スピードの乗った直球が膝のあたりに来た。私のいちばん好きな内角低目だ。肘を畳んで、利き腕を絞りこむ。フォロースルーがいちばん滑らかにまとまるスイングだ。バットの先がボールをしっかりつかまえた。
「いったァ!」
 服部先生のわれを忘れた声だ。白いボールが空高くまっすぐ伸びていき、三階校舎の屋根の上で滑るように弾んで消えた。
「ウッホー!」
「ヒェー!」
「なんじゃあ、あれ!」
 遠慮のない喚声が上がった。ベンチから立ってきた服部先生が私の両肩に手を置き、高辻先生と同じことを言った。
「きみは天才だね」
「前の学校でも、そう言われました」
「ふーん、その小さなからだは、どんな仕組みになってるのかな。よし、仮入部ということにしよう。おーい、みんな集まれ!」
 いかにもさばさばした顔で校舎の屋根を見つめていた長崎が駆け寄ってきて、握手を求めた。吉村も同じようにする。大柄な一塁手につづいて、内外野の全員と補欠の全員が走ってきて私を取り囲んだ。みんな驚きと尊敬の表情を浮かべている。
「神無月郷です。よろしくお願いします」
「まだ四年生だが、部員として練習に参加させてやってくれ」
「ハイ!」
「みんな、目にもの見せられたわけだ。五年生から神無月には四番を打たせるぞ。文句ないな」
「ハイ!」
 服部先生はみんなに練習に戻るように言い、胸を張って立っている私の肩を毛深い手でやさしく叩いた。私は天にも昇る気持ちで、ボールの飛んだ距離をあらためて目測した。
「トレパンじゃサマにならん。ユニフォームとスパイクを用意しなさい。千年の用品店で一式売ってるから」
 私が黙っていると、服部先生はすぐに察して、
「部室に先輩が置いていったユニフォームとスパイクが二、三組ある。からだに合うやつがあったら、それを使えばいい。左用のグローブがあったかな。きみが不便でなければ、今年は右利き用のやつで間に合わせとけ」
「はい」
「守備の希望は?」
「どこでもいいです。でも、できればセンターかレフト」
「じゃ、あしたから外野の練習に合流だ。レギュラーは来年の二月まで五年生で確定してるから、補欠ということになる。四年生は春までは試合に出られない。そのつもりでね」
「はい」
「私は六年生を教えている服部だ。きみの担任は?」
「下椋先生です」
「きみが加わったら、来年の千年は、ひょっとしたらひょっとするよ」
 服部先生はノックバットを手にホームベースの横に立った。守備練習に入った上級生たちを尻目に、私は飯場までの道を走った。こんなに骨の髄までわくわくする気分は一度も味わったことがなかった。叫びたかった。


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