三十一

 クラウン到着。
「すみません、菅野さん」
「なんの。旦那さんもきましたよ」
 主人と、魔法瓶を提げたカズちゃんが降りてくる。
「神無月さん、名古屋の初練習、見物させてもらいにきました」
「どうぞ。のんびりやるので、見映えはしないですよ」
「いやいや、ご謙遜」
 菅野は車のトランクを開け、ライトブルーのユニフォーム一式とグローブ、ライトブルーの帽子を取り出す。その場でパンツ一丁になって着替える。四人で、グランドへ入っていく。ワッとスタッフと部員たちが押し寄せる。三人の重立った男と握手する。二十代後半の男が、
「監督の高江です。よろしくご指導ご鞭撻のほど、お願いいたします」
 四十代の男が二人、
「部長の渋山です」
「副部長の小森です」
 握手する。
「ぼくは練習するだけです。指導はしません」
「承知しております。どうぞご自由に練習してください」
「シートバッティングとフリーバッティングには少し参加させていただきます。それを指導代わりにしていただければ幸いです。どうかよろしくお願いいたします」
 深く頭を下げる。
「は! こちらこそよろしくお願いいたします!」
 監督たちに倣って部員たちも帽子を取って深く辞儀をする。
 カズちゃんたち三人を簡便なベンチに座らせ、グランドの周回に出る。バックネットは青高程度。グランドを取り囲む二メートルほどの金網フェンスの外を眺めると、レフトが枯れ草の短い土手、ライトはサッカーか何かの練習場になっている。両翼百二十メートル以上。センターは金網の直角の交点になっているので百五十メートルはある。少しいい当たりが出ても、ほとんど飛び出す心配はない。自転車レーンと県道に見物人が溜まる煩わしさもまったくない。心置きなく打てる。
 ゆるゆる三周する。センターの隅で三種の神器。部員たちは周回をつづけながら見守っている。三種の神器を終え、ホームベースに駆け戻る。監督が私の走ってくる姿を見て、
「美しい!」
 と感嘆した。つづけて部員たちに向かって叫ぶ。
「キャッチボール!」
 対になってバラバラとグランドに散る。
「選手のどなたか、三十メートルほどの距離で、五十球お願いします」
 気骨のありそうな中背の一人が進み出て、私に向かい合って立った。前腕と肘だけで山なりのボールを投げる。二十球。相手はテルヨシのように強く投げ返してくる。軽く肩を使って投げる。二十球。相手は焦れたようにさらに強いボールを投げてくる。
「じゃ、いきます!」
 最後の十球を、肩と肘を回転させて、力はこめずコントロールを意識して投げた。相手のグローブが高らかな音を立てた。
「ヒャー!」
「すげえ!」
「速え!」
 部員たちが叫ぶ。相手も懸命に投げ返すが、山なりのボールに見える。ベンチの三人が拍手している。高江監督が飛んできて、
「さっそくですが、バッティングを見せていただけますか。この時期、芯を外すと掌に響くでしょうが」
「だいじょうぶです。バットを貸してください。素振りを五十回します」
 部長二人で十本ぐらいバットを持ってきた。高江が、
「おーい、まず小林、投げてくれ。次、戸沢いけ。全員守備について!」
 軽く振るために短くて重いバットを選ぶ。軽く二十回、中程度に二十回、強く十回振って、手にバットを馴染ませる。補欠部員全員ファールグランドに立ち並び、興味津々の目で見ている。バッターボックスに立つ。小林というピッチャーが五球ほど練習する。最速百二十キロ半ば。ふつうの弱肩の高校生だ。
「二十本打ちます! なるべくストライクを投げるようにしてください」
 部長、監督はじめ、選手全員が固唾を呑んだ。十四球中、十球がストライクだった。外角をサードライナー、ショートライナー、レフトライナーを打ち、内角をセカンドライナー、ファーストライナー、ライトライナーを打った。
「すげえ!」
「手品かよ!」
 大拍手が上がる。残りの四本をレフト金網へ一本、センターの頭越えに一本、ライト金網へ二本打った。
「なんじゃ、こりゃ!」
「ぜんぶホームランだがや!」
 シャッターの音がしはじめた。振り返ると、数名の学生が、
「マスコミじゃありません、校内新聞部です!」
 と応えた。監督が、
「戸沢いけ!」
 ピッチング練習を見ると、百三十五、六キロの本格派だ。エースピッチャーのようだ。
「十球投げてください。ストレート、変化球、何でもいいですから、得意球で打ち取ろうとしてください。全方向に打ち返します」
 ストレート五球、カーブ三球、シュート二球、すべてストライクだった。センターライナー一本、レフト場外へ三本、ライト場外へ三本、センター直角地帯へ三本打って終了した。
「神技だ!」
 割れんばかりの拍手が立ち昇った。ベンチに下がって、カズちゃんの差し出したコーヒーを飲む。主人が、
「―まぎれもなく、怪物ですな。鳥肌が立ちました」
 菅野が、
「超弩級の天才ですよ。マスコミがいなくてよかった。練習どころでなくなります」
 カズちゃんが、
「キョウちゃん、また身長伸びたわよ。からだも大きくなった。ユニフォームを着てわかったわ」
「あと二、三センチほしいね。来週はバットも持ってきて」
「はい」
 OBの助手らしき大柄と小柄の男二人が走ってきて、
「十分ほどシートノックをしますが、守備につかれますか」
「はい、レフトに。それが終わったら引き揚げます」
 レギュラー九人、控え九人がベンチ前へ走ってきて、それぞれ自分の名を私に告げて走り戻る。補欠がぐるりとフェンスに居並ぶ。私も走ってレフトの守備位置へいった。各守備位置に二人ずつ立っている。小柄な助手はサードから始まって時計回りにキャッチャーまでゴロを打ち、一塁へ送球させる。なかなか手慣れたノックだ。ただ、内野手の肩が弱く、ポロリエラーも多い。
「二塁送球!」
 レフトフライから始まる。私がイの一番だ。肩をフルに使わないようにして低いノーバウンドをセカンドへ返す。ストライク。
「ウォー!」
 補欠たちが拍手する。もう一本、ストライク。喚声と拍手が大きくなる。センター、ライトと二本ずつ。肩が弱く、山なりだ。ふたたび内野ゴロ。二塁から一塁へのゲッツー。外野ゴロ、バックホーム。これも肩を強く使わないようにして低いワンバウンドで返す。喚声が極点に達した。ほかの外野手の返球が哀れに見えるが仕方がない。三たび内野ゴロ、バックホーム。コントロールが定まらない。キャッチャーフライを打ち上げて終了。まったくの素人チームだ。万年一回戦ボーイだろう。ベンチに戻り、コーヒー。主人が感嘆して首を振り振り、
「何をか言わんやですな。何百年に一人の逸材ですよ」
「肩を慣らすために、徐行しました」
 菅野が、
「見ていてわかりました。二、三年、日本プロ野球界は大損失です」
 しみじみと私を見つめる。カズちゃんはベンチ脇の水道で浸したタオルを差し出す。
「週に一度でも、この程度の練習をしておけば、大学までだいじょうぶね」
「うん。肩を衰えさせないための練習だから、この程度でいい」
 ベンチ前に全員集まってきた。一人ひとりが質問する。
「肩を強くしたいんですが」
「フェンスの三十メートルぐらい手前から、思い切り金網の下に二十本ぶつける。それと腕立て百回。毎日」
「バットスピードを上げるには?」
「内角、外角、真ん中をイメージして、素振り五十本ずつ。腰の溜めを意識する。毎日」
「ミートがへたなんです」
「空振りしたっていいという気持ちで思い切りバットを投げ出す。勇気とは、窮したときの品格である―ヘミングウェイ。バッティングセンターへいって、バットを振らずにボールを見るだけという方法もある。お金がかかるから、ときどきね」
 和やかな笑いが湧く。
「フリーバッティングで振らずに十本というのもいいね。選球眼を鍛えることにもなる。ぼくの場合はブルペンの投球練習をよく見た」
 監督が、
「よければ、うちのユニフォームと帽子を使ってください」
「いや、この格好で。補欠を含めて選手名を覚えたいので、来週までにメモをください」
「わかりました」
「来週からは適当に紛れこんでやりますから、注目しないようにしてください。親に知れてはならない事情を抱えてるので」
 渋山部長が、
「新聞、週刊誌等で、事情はわかっております。ご安心ください。都合の悪い週は、適宜不参加にしてください。私どもは、神無月さんの人知の及ばない技量よりも、精神面の影響力があればじゅうぶんですから。土手の見物、校内新聞部等はよろしいでしょうか」
「かまいません。大手のマスコミが採り上げないかぎりだいじょうぶです。そうならないように細心の注意をお願いします」
「わかりました。部の連中にも新聞部にも、緘口令を敷いておきます。土手の見物はまず集まる環境じゃありません」
「新聞部の発表は大学入学後にしてください。どうしても大手に嗅ぎつけられますから。勉強で暇のない身分なので、大会には応援にいけません」
「ああ、お気になさらずに」
「好きなときにこのグランドで素振りとランニングをしていいでしょうか。自分用のバットを置いておきますから」
「もちろん遠慮なく。では、今後ともよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
「お願いしまーす!」
 選手たちが声を合わせて礼をした。監督が、
「よーし、ベーラン!」
 車寄せでユニフォームを脱ぎ、学生服に着替えた。主人が、
「いやあ、とことん堪能させていただきました。攻走守、見たことも聞いたこともないプレイでしたわ。まさに人知の及ばないものですな。これで練習なんですから驚きます。またときどき見にこさせていただきます。神無月さんの将来が一直線に見えましたよ」
 菅野が、
「山口さんサマサマです。死んでたらたいへんだった」
 カズちゃんと小鳥のキスをして、自転車に跨った。
         †
 二月十九日日曜日。朝方零下四度。底冷えのする一日。
 河合塾主催高二模試のため、名城グランドの練習はお休み。
 英・国・数三教科。八時半英語開始、十時半まで。十五分休み、十時四十五分から国語開始、十二時四十五分まで。四十五分の昼休み、餡パン一つ。一時半数学開始、三時半まで。終了。ふつうの手応え。八割強か。


         三十二

 二十六日の日曜日から河原の練習再開。きょうの参観は菅野とカズちゃんのみ。周回と三種の神器と素振り。バッティング練習と守備練習には参加せず、球拾いをしながら外野の金網へゆるい遠投五十本。肩を作ることに専念。
 ユニフォームとグローブを受け取ったクラウンが去ったあと、トキワのビーフシチューを昼めしに挟んで、二時まで図書館で勉強。
 二月の下旬から三月下旬の春休み開始日にかけて、河原のグランドでの練習が順調につづいた。監督以下チームメイトとの交流もスムーズなものとなり、トンボ整備や、最後のベーランに加わることも多くなった。心配していたマスコミの嗅ぎつけはまったくなかったが、日曜日ごとに土手のいただきにいくつか床几が並び、斜面に腰を下ろす見物人が増えていくのを穏やかでない気持ちで見つめた。
 土曜日ごとの、あるいは月に何回かの日曜日の遅い帰宅は、母にまったく怪しまれなかった。生活のリズムの安定からやってくる無聊の感覚に堕ちこまないように、毎晩いのちの記録を数行書き、二ページでも文学書を読み、届いた手紙にはなるべく返事を書くようにした。平板に流れる時間に挿す栞(しおり)のつもりだった。
 定期的に手紙をよこすのは、山口と、祖父と、そして意外なことに、古山だった。古山はよく、東奥日報の新聞記事の切り抜きを同封してよこした。そこには私に関わりのあったさまざまな人びとのインタビュー談話が、八月から毎週一回、日曜版に連載されていた。
 祖父母、野月校長、奥山先生、中村まさちゃんといった野中の教師たち、小野校長、西沢先生、相馬先生、石崎先生といった青高の教師たち、葛西さんの主人、健児荘のユリさん、古山、木谷、鈴木睦子といった同級生たち。青高チームメイト、マネージャー、応援団団長。だれもかれも野球と勉学と人柄に関わることを飽かずしゃべっていた。連載は祖父母と奥山先生と西沢先生と相馬先生と葛西さんの主人が二回ずつ、その他十八人の人びとは一回ずつ計二十八回で一応終了し、三月からは一カ月に一度の特集にすると予告してあった。
 とにかく彼らの手紙はほぼ定期的に届くので、義務感が誘発され、週に一回、花の木から戻った土曜日の夜を一時間ほど手紙書きに費やした。
 カズちゃんの話では、節子の母親のアパートには不定期に水曜日の午前に自転車で出向いて、話をしたり茶を飲んだりしたりするとのことだった。
「文江さん、キョウちゃんの話をしながらよく泣くのよ。二十五歳で節子さんを産んだんですって。去年四十七で月のものが上がったばかりらしいわ。キョウちゃんさえいやでなければ、いつでも訪ねてほしいって」
 そうしているうちに、カズちゃんと文江さんは根っからウマが合うことがわかって、かなり親しい付き合いに発展し、食事や遊山にたまに出かけていくという話だった。水曜の夜にトモヨさんも交えた三人で夜の街に出て会食したこともあると、カズちゃんは言った。
「節子さんの話は文江さんの前では禁句。親として自分のしたことの罪深さをつい考えてしまうし、血を分けた娘の節子さんのしたことを考えると、わが子ながら腹が立ってしょうがないからって言ってたわ」
 日曜日のほかの週日は、野球のボールから離れて律儀にすごした。起床後と夕食前にシロと河原をランニングする、夜の十一時まで勉強、十一時から駐車場や八帖の物置で三種の神器。土曜日の手紙書きを含めて、一時過ぎまで読書と詩作、就寝、六時半起床、この繰り返し。一時過ぎに寝て六時半に起きるので、睡眠時間はほぼ五時間と定まった。それでからだの調子はじゅうぶん良好だった。
 むろん、週に一度、カズちゃんの家の空地での素振りも欠かさなかった。バットは青森から三本持ってきた。一本は北村席に、二本は花の木に、そのうち一本は名城グランドに置いた。
 母は駐車場での筋トレを黙殺していた。実際に私が野球をやっている姿を目撃しないかぎり、それは単なる息抜きの体操にしか見えないのだった。
         †
 トモヨさんは妊娠四カ月目に入り、性欲もしだいに薄れてきた。性欲は妊娠初期と後期に高まるとカズちゃんに聞かされていたので、二月から四月の新学期までのあいだは、気まぐれに訪れてもセックスはしないことにした。
 じゅうぶん世間を知っているくせに、極端な世間見ず。そういうカズちゃんに世間教育を施されることは、私にとって幸いなことだった。世間道徳を軽んじているという秘密を世間道徳に逆らわないふりをしながら守り抜く。彼女の教育の要諦はそれのみだった。カズちゃんのおかげで私は、あるがままの世間を、実践の当事者としてではなく、観察の生徒としてじっくり見つめることができるようになった。いわく勤勉、いわく人生のレール、いわく上昇志向、いわく肩書、いわく親方日の丸、いわく弱肉強食、いわく父母の恩、いわく金の世の中……。世間の人びとが語るのはそれのみで、美や才能や愛のことはいっさい語らないと知った。染まった〈ふり〉が信用され、自分の行動を世間の常識家によって直(じか)にじゃまされることがなくなったせいで、目の前の世間の事柄の単純な仕組みや経緯がはっきりわかりはじめた。この不思議な指導者と生徒の関係を、私は人生の奇跡を目撃する思いで眺めた。
「どうしてカズちゃんは、ぼくにいろいろなことを教えてくれるの?」
「一とおりの世間の知識を持ってないと、どんな生まれつきの天才でも、パッタリ周りのものごとがわからなくなることがあるからよ」
 受験まではこのままいくだろう、そして最後はカズちゃんと二人きりになるだろうと思った。
 こんなふうで、夜の筋トレを終えてからの読書と詩作の時間は、最も醇雅な〈秘密〉の時間になった。随想を記したり、詩稿のアイデアを書きつけるいのちの記録も四冊目に入った。三冊目もカズちゃんに預けた。彼女はそれを分類して、せっせと原稿用紙に清書していった。すでに二つの段ボール箱に溜まるほどになった。文化遺産、と言って、カズちゃんはそれを大切そうに納戸にしまった。
 ある日カズちゃんは、うれしそうに言った。
「ノートの中にね、キョウちゃんが大きな×印を打った詩があったの。それを婦人公論に送ってみたら、三席になって五千円が送られてきたのよ。トモヨさんと文江さんと三人で栄にフランス料理を食べにいったわ。とってもおいしかった。ごちそうさま」
 雑誌を見せてもらうと、意味不明の胡散臭い二行詩だった。

 山陰の清水を酌(く)むために
 山陰の百合をたどっていこう


「詐欺師の詩だ」
「どこが? よみがえりの水を汲むために、友情を道しるべとして険しい道を歩いていく、という詩でしょう? すばらしいわ。気に入らないの? だいじょうぶよ、私の名前で出しておいたから。キョウちゃんのどんな詩も永遠に葬ってしまうのがもったいないの。これからも×が打ってあったら送ることにするわ」
 ×を打たないことにした。
 百合に友情の意味があるとは知らなかった。知識のある人間は思い勝手に解釈する。前衛が愛でられる所以だろう。雨上がりの土方を思い出した。詐欺で手に入れた五千円など取るに足らない幸運だ。しかし人生にはとつぜん予想もつかない大きな幸運がやってくることがある。それはうねるような偶然に支配されている。目標を定めて計画通りに歩いていたのでは巡り会えない。そういう大きな幸運は、歩き出す前に予定されていたのかもしれない。私は康男や、カズちゃんや、山口に出会った。
 釈迦は言っている。
 ―運命の人とは五百年のときを経て巡り会ったのです。だから常に感謝し、やさしくしなさい。真の友人とは五百年の時空を超えてつながっています。
 カズちゃんたちはそれを認識し、実践している。出会ってから歩いていけるところまでが幸運の期間だとわかっているからだ。
         †
 河合塾高二模試の結果が返ってきた。六百点満点で五百三十八点。英語百九十一、全国一位、国語百八十八、全国一位、数学百五十九、全国三百三十九位。総合、学内一位、全国二位だった。東大文Ⅲ志望者中一位。ホームルームの時間に、校内放送で土橋校長みずからがまじめな声でこの結果を放送した。みんな何ごとが起きたのかという顔をしていたが、やがて放送の意味を理解し、驚愕の混じった賞賛の表情に変わった。アジーアの面持ちの変化は異常なほどで、片チンバの目が醜いほど引き吊った。父親が亡くなったばかりの〈ヨトギ〉は、空ろな目で私を見つめた。担任の安中が真っ赤な顔で感激していた。
 この結果は母にも伝えられるだろう。定期試験も含めて、常々校長や教頭から母に連絡がいっていることは知っていた。母のほうから何やら連絡していることもある。今年一月にやる予定だった三者面談にしても、志望校や科目選択もハッキリしていて、親子の意見の食いちがいもないので、面談の必要なしということになった。校内ただ一人の特例だった。今回の好成績のおかげで、ますます監視の埒が明き、トレーニング時間の口実を作りやすくなるのは確かだった。土日のかよいについても同じだった。ただ、この種の行跡には母は並外れた嫌悪感を持っているので、よほど細かい用心をしないと、ちょっとしたことから秘密の水が洩れ、そうなったときには私の恋人たちにとんでもない迷惑がかかるだろうと危ぶんだ。土日にけっして遅くならないようにと決意した。
         †
 三月中旬のある週日の夕方、担任の安中に連れられて、クラスメイト三人と自転車を牽きながら、駅前の70ミリ映画館にサウンド・オブ・ミュージックを観にいった。いっしょに名画を観にいかないかと、ホームルームで安中に誘われて、手を挙げたのが私を含めて四人だけだった。斜視の鷲津と、あの遊び人風の秀才金原と、鴇崎。
「いやあ、は、は、初めてのグループデートだね。一昨年のリバイバルだけど、なな、70ミリだとド迫力だぞ」
 ポマードで逆立てるような髪型にした安中は、痩せ面を振り振り、唾を飛ばすような焦ったしゃべり方をする。名古屋駅まで歩く道々、安中は純朴な笑顔を崩さなかった。笑顔の似ているダッコちゃんになんとかイメージを重ねようとしたが、色が白いので無理だった。安中は道端の公衆電話から、私たち一人ひとりの家に電話を入れた。努めて低音でしゃべりながら吃音を抑えるようにしていた。
「映画は九時過ぎに終わります。コ、コーヒーを一杯飲んでからお返しします。めったにないことなのでご諒解ください」
 同じことをしきりに言った。電話口で平身低頭する姿が、ますます彼の純朴さを引き立てた。飛島寮の食堂の電話には佐伯さんが出たようだった。安中のくつろいだ様子でわかった。生徒四人とも自転車通学だったが、映画館の脇に駐輪することが許されていなかったので、裏通りの喫茶店の前に停めさせてもらった。安中は、帰りにかならずここでコーヒーを飲むことを店主に約した。
 迫力満点の大画面はもちろんのこと、音楽の洪水に圧倒された。オープニングで、ジュリー・アンドリュースの天に届くようなソプラノが大草原に高らかに響きわたる。それを皮切りに、ひたすら歌、歌、歌のオンパレード。音楽映画なのだから当然といえば当然だけれども、ありきたりなミュージカル特有の、派手な踊りの中へまぎれこませる挿入歌とは一味も二味もちがっていた。メロディの美しさと、パンチの効き具合が並でない。すべての曲が耳にするどく刺しこんでくる。怒涛のように押し寄せる音の中で肝心のストーリーを忘れそうになった。
 帰り道、生徒四人と教師一人、約束していた桜通りの喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。金原が口の片端を上げながら、
「先生、給料安いのに、映画代出したり、お茶代出したり、たいへんやね」
 と大人ぶって言った。
「ああ、たいへんだ。これじゃ年に一、二回しかこれないな。それでいい映画じゃなかったら大損した気になる。きょうのは文句なしの名画だ。むかし一度観て確認済みだったからね」
「映画にしかお金を使わないんですか?」
 と鴇崎。
「趣味としてはね。あとは本代と、生活費だ」
「奥さんはいらっしゃるんですか」
 斜視の鷲津が遠慮がちに尋く。
「まだ大学出たばかりだよ。いるわけないさ。恋人もいない。いたら自由にお金が使えないし、行動も制限される。で、神無月くん、きょうの映画はどうだった」
「ヒロインモデルのマリアという人には申しわけないけど、すばらしい音楽の嵐の中でプロットが関心事でなくなりました。たしかに、ストーリーそのものは平坦じゃなく、見応えがありましたけど。いや、ありすぎていまも諳(そら)んじることができます」
 金原がキラリと目を光らせ、
「ほんと? 関心のないことを暗記できるって、異常じゃない?」
 私は頓着せず、しゃべりだした。
「場所はオーストリア、ザルツブルク。トラップ家に家庭教師として派遣された修道女マリアは、七人の子供たちの面倒を見ていくうちに、厳しい父親像を自己流に演じているトラップ大佐に恋心を抱く。彼の婚約者から意地悪な横槍を入れられ、いったん修道院に逃げ帰るものの、異性に対する愛は宗教的な愛に劣らないことを院長に諭され、ふたたび子供たちの中へ帰っていく。幸いにも、大佐の告白から相思相愛であったことがわかり、トラップ大佐の子供たちにも励まされ、めでたく結婚の運びとなる。その後もオーストリア併合を画策するナチスの暗躍に苦しめられながら、愛国心に満ちたトラップに率いられて一家はスイスへの脱出行を成功させる。―現国の要約の要領です」
「なんだそりゃ! 神無月くん、きみは評判どおりの天才だ! 土橋校長も絶賛してたけど、なるほどなあ」
「いえ、時代背景が整い、展開に山も谷もあり、単純で、素朴で、違和感のない完成品となってるからですよ。先生の政経より簡単です」
「……神無月さん、すてき」
 鷲津が胸の前に手を組んでいる。安中と鴇崎が拍手する。


         三十三

 金原がツンとなり、
「どれだけ暗記力がすごくたって、天才とは言えないでしょう。この映画から汲み取ったものが何か、それをどう独特に表現できるかでしょ。神無月くん、音楽がよくて、ストーリーが完成品。汲み取ったのはそれだけ?」
 私は頭を掻きながら、
「マリアの一本道に感動して、泣けてしまった。自分だけの感銘だから、話が脇道に逸れてしまうけど」
「何? 一本道って」
「ぼくが中断してる野球みたいなものかな。マリアの半生を貫くのは音楽だろう? 〈自信を持って〉修道院を出るとき、彼女はギターを抱えてる。扱いにくい子供たちと打ち解けるために、嵐の夜に〈私のお気に入り〉で彼らを慰めてやり、厳しいトラップの規律から解放してやるために、遊びに連れ出した山上で〈ドレミの歌〉を教える。恋に破れて修道院に戻れば、院長の美しいアルトで〈すべての山に登れ〉と叱咤され、ふたたび決意してトラップ家に帰っていくと、トラップ大佐がオーストリアの永遠の国花〈エーデルワイス〉を唄う視線に永遠の愛を保証される、という寸法だよね。スイスへの脱出を図る手段に、音楽コンクールへの参加を利用するというのも徹底してる。まさに音楽の一本道だ。中断がない。羨ましい。これまでのミュージカルみたいに、ストーリィの説明を音楽でするんじゃなくて、原作者マリア・フォン・トラップの人生が音楽の中で醸成していく、その象徴化に音楽を利用したわけだ。それこそ、ロバート・ワイズが、四オクターブの歌姫ジュリー・アンドリュースを抜擢して、この映画を油断のない音楽で飾らなければならなかった理由だと思うし、歴史に残るミュージカル映画の至宝ともなった理由だと思う。歴史に残ると言っても、まだ二年しか経っていないけど、確実だね」
 金原がポカンとしている。ほかの三人が拍手をした。鷲津が私の手を握り、
「神無月くん、あなたって、ほんとにすごい人ですね。うれしくてしょうがありません」
 と顔をくしゃくしゃにして笑った。
「エーデルワイスは、青森高校のとき、友人に唄えと言われて、たまたま知らなくて唄えなかった歌だから、ああこれか、と、あらためて記憶した。深い思い出のある曲なので、聴いた瞬間、涙が流れた」
「嘘! 英語を一回聞いて記憶できるわけないじゃない」
 金原が一重まぶたを三角にしている。
「簡単な英語だったからね。メロディもシンプルだった。友人の歌と合わせると、今回で二度聞いたことになる」
「唄ってみせてよ」
 躊躇なく唄いだす。

  エードルバイス エードルバイス
  エブリモーニンギュ グリートミー
  スモーランワイト
  クリーナンブライト
  ユールック ハピートゥミートミー
  ブロッサモブスノウ メイユーブルーマングロー
  ブルーマングロー フォレーバー
  エードルバイス エードルバイス
  ブレッスマイ ホームランド フォレーバー

 鷲津がパチパチとやる。歓声が上がる。金原はいっそう目を三角にして、
「ドレミの歌も暗記した? 有名な歌だからとっくに知ってるかもね」
「有名かどうか知らないけど、初めて聴いた。覚えやすかった」

  ド アディア フィーメルディア
  レ ア ドロッパゴールドゥンサン
  ミ アネイム アコーマイセル
  ファ アロングロング ウェイトゥラン
  ソー アニードゥル プリングスレー
  ラ アノッティフォローソー
  ティー アドゥリンキィズ ジャーマンブレー
  ザッ ウィル ブリンガス バックトゥドー

「それ、歌だけやん。スペリングもできる?」
「できる。中学校以来、スペリングミスはしたことがない。日本語に訳せというなら訳すよ」
「訳してみてよ」
「ぜんぶシャレでできあがってる歌だね。Doe はディア、メスの鹿、Ray はきらめく太陽のしずく、Me は私の呼び名、Far は走るには遠い道、Sew は糸を引っ張る針、La はソの次の音符、Tea はジャムとパンといっしょに飲む飲み物、それからドに戻る」
 みんな沈黙してしまった。ほかのテーブルから盛大な拍手がやってきた。
「すばらしい声ですね」
「楽器のよう」
「プロの方ですか」
 私は、いやいやと手を振りながら、いちいちお辞儀を返した。店長らしき男が、
「当店からのサービスです。響きわたるような美声、楽しませていただきました」
 と言って、チーズケーキを五人前置いていった。みんな、目を丸くしてフォークを立てた。金原もやさしい顔に戻ってケーキを食べた。
「金原さんて、いつも校内で数学のトップを争ってるけど、頭いいんだね。ぼくは数学はからきしだ。今度教えてくれないかな」
「ぼくも!」
 鴇崎が手を挙げた。
「ふざけたらあかんわ!」
 金原がするどく拒絶した。鷲津が焦点の合わない目で、金原の横顔を凝視した。予想したとおりの金原の反応に私が笑うと、安中も豪快に笑い、
「愉快、愉快、映画を観たあとのほうがおもしろいや。ほかの高校いったら、映画鑑賞をサークル化してみるか」
 鴇崎が、
「先生、異動してしまうんですか」
「ぼくは産休教師だ。臨時雇い。四月にはだぶんほかの高校に回される。正式の教師としてね。回されないとしたら、しばらく正式の教師として西高に残れるだろう。しかし、いい思い出になった。……神無月くん、きみのことは生涯忘れないよ」
 握手を求めた。
「まだ三学期が半月ある。みんな、よろしくね」
 三人の生徒とも握手した。喫茶店の前から、安中は駅に向かい、ほかの三人はそれぞればらばらの方角へ自転車を漕いで去っていった。私も笹島のほうへ漕ぎ出そうとすると、金原が猛スピードで漕ぎ戻ってきて、
「あした、あたしんちに寄ってかん? 放課後、天神山公園の入口で待っとる」
 と言い、猛スピードで走っていった。
         †
 金原はニヤニヤ妖しく笑いながら公園口に立っていた。
「スケベ。やっぱりきたんだ」
「そういう用事か」
「ふん。短小、包茎」
「短小だけ合ってる。どうせきみとはやらないから関係ないけど」
 気性だけが立っていて美人とも不細工とも表現しようのない女だ。目も鼻も大造りなのだが、薄い顔というのか、一重まぶたで、眼窩のくぼみが少なく、涙袋がないので平べったく感じるのだ。生意気そうな受け口のせいかもしれない。短めのスカートから伸びている脚は、肉感的だ。
「いい脚してる」
「スカートの丈、違反しとるって指導の先公に言われて、これでも長く直したんや。自由の校風なんて言っといて、いざ自由にしようとするとさせてくれへん」
「スカートの丈ごときで、自由の拘束もあったもんじゃないよ。それは自由というんじゃなくて、きみの色気のわがままな押しつけだ。そんなつまらない自己主張をするやつには、剛毅とか、貞淑とか、清廉質素などという集団が求める思想は受け入れられないだろ。集団が思想にのっとって行動している場所で、個人のわがままな趣味に干渉が入るのはあたりまえだ。自分に美的な信念があると思うなら、干渉の排除の肚を決めて、超ミニにすればいいし、それがいやなら反抗を放棄することだね。つまり妥協だよ。そして、きょうみたいに、男を誘うような反倫理的な秘密の行動をとればいい」
「誘っとらんわ。……きびしいことを言うがね。西高にそんな筋のとおったこと言える先公おらんわ」
「きょうは数学教えてくれるの?」
 とぼけて尋いた。
「あんた、かっこええわあ。……やっぱり、しよ」
「しない」
「あんた、インポ?」
「ぼくにとって女に価値があれば、その女の愛がぼくの行方を決める―そういう女がいる。パンティ、何色?」
「白。汚れがすぐわかるで、穿き替えたくなるから」
「清潔だね」
「そんなことどうでもええが」
 えらそうにあごを振って、浄心のほうへ歩きだした。ついてくるのが当然だという態度だ。私は自転車を牽き、少し離れてついていった。肩口から尻にかけて眺め下ろす。淡白そうだ。
「後腐れない?」
「しょわんといて。どんな男とも一度しか寝んわ。やっぱりやりたいん?」
 金原は背中で言った。
「こっちにも事情があってね。まめにしてあげなければいけない女が何人かいるから、手が回らない」
「…………」
 金原は市電通りを横切り、小路を幾度か曲がって、小ぢんまりとした平屋の一軒家に入った。ここから五分も歩けば、カズちゃんの花の木の家だった。
「ここあたしんち。とうさんはむかしからおらん。かあさんも、ねえさんもみんな夜の勤めに出とるで、夜の十一時ぐらいまでオッケーや」
「同じ高校で寝たやつは」
「おらん。ぜんぶ、社会人」
「それも一回こっきりか。無難だね。無難な女にはチンボが勃たない。話だけして帰るよ」
 小さな土間から上がって居間のテーブルにあぐらをかくと、金原は流しに立ち、殊勝にインスタントコーヒーをいれて出した。ぬるかったので一気に飲んだ。居間の家具は豪勢なものをそろえてあるが、配置が無秩序で、畳にはストッキングや衣類や雑誌が乱雑に散らかっている。
「テレビ、観る?」
「観ない」
 金原は廊下の奥へセーラー服の姿を消した。水音がするので、シャワーを使っているとわかった。シュミーズ姿でもどってきた。パンティとブラジャーが透けている。
「重装備だね」
「これで? スケスケやが。興奮せん?」
「しないね。女のからだは見飽きてる」
 金原は恥ずかしそうに両腕を胸前で組んだ。
「おっとろしいほど、ええ男やね。ドキドキするわ。女に慣れとるんやね」
「ああ、慣れてる」
 金原は無言になった。頬が紅潮している。
「私の部屋、いこ」
「しないよ」
「ええよ。裸見てもらうだけだで」
 立ち上がり、廊下の斜向かいの一室のドアを開けた。フローリングの床にベッドが置いてある。ベッドと箪笥に挟まって、小さな机がねじ込まれていた。ここにも衣類や雑誌やストッキングが床に散乱していた。金原はシュミーズを脱ぎ、ベッドに横たわった。ブラジャーを剥いだ。顔と同じように薄い胸だ。気にするような目で私を見ている。
「勃たん?」
 応えずに、一気にパンティを引き下ろす。恥毛がなかった。
「めずらしいやろ」
 割れ目から小陰唇が左右にはみ出ていて、見るからにグロテスクだ。顔を近づけて見ると、産毛が生えている。
「めずらしい。初めてだ」
 股を拡げた。清潔に乾いている。大きなクリトリスが鎮座していた。
「あんまりやってないね」
「五人。一回ずつ」
「ゼロみたいなものだ。中でイッたことは?」
「軽くね。クリでは強うイケるで」
「ふつうだね。じゃ、ぼくは帰る。おもしろかった。今度お茶でも飲もう。たまに数学教えてね」
「肉欲に溺れないんやね。見直したわ。私、名大狙っとるんよ。こう見えても、いつも校内の二十番以内なんやから」
「知ってる。すごいよね」
 金原は下着をつけながら、
「神無月くんほどやないわ。いつも実力試験一番やもん」
「加藤武士に一度負けた。定期試験はオシャカだよ。少し部屋を片づけたほうがいい。脳味噌に埃が溜まるよ」
 金原は笑った。妖しい笑いではなかった。
「神無月くん、来年、卒業前に、一回抱いてくれる?」
「一年後だね。喜んで」
「いままでごめんね、意地悪言って。もうグウの音も出んわ。どっから見ても、天才やもん。先生も生徒もみんな神無月くんのこと、天才、天才言っとるけど、実際もろにあんな才能見た人おらんやろな。映画にいってよかった。私、泣きそうになってまった。あんなゆっくり唄うドレミの歌、初めて聴いたわ」



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