三十四

 三月五日日曜日。河原の練習を一人だけ切り上げたころ、朝から曇っていた空から雨が落ちはじめた。濡れるほどの雨ではない。選手たちは店仕舞いせずに、シートノックに励んでいた。クラウンのそばで学生服に着替えているとき、カズちゃんが、
「おととい誕生日だったのよ」
「あ、そうだった! 三月三日! ごめん」
「いいの、いいの。私の誕生日は祝わないって、青森で言ったでしょう。三十三歳になりました。それより、きょうは文江さんが特別にお休みを取ったから、トモヨさんもいっしょに大須あたりに出かけない? 彼女も三月一日生まれなのよ」
「そう。じゃ、ぼく、このまま自転車で北村席にいくから」
「うん、待ってる」
 菅野が渋い顔で、
「私は、きょうは家族サービスです。栄あたりで食事でもしてきますわ。ひさしぶりに神無月さんが北村席にくるのになあ」
「どうせなら、未練のないように遠出すれば」
「いえ、遠出は疲れます。それでなくても家族サービスってやつは疲れるんですから。じゃ、お嬢さん、いきましょうか」
 クラウンが去った。
 北村席にいくと、ちょうど昼食が終わりかけたところだった。トモヨさんと賄いたちがきびきびあと片づけをしている。菅野はすでにいなかった。主人夫婦とおトキさんがひどく喜んだ。主人が、
「神無月さん! いらっしゃい。ひと月ぶりやな。練習見にいけんで申しわけない。ここんところ、区画整理の手続で忙しくしとって。順調にいってますか」
「はい。自由にやらせてもらってます」
 女将が、
「ますます男ぶりがようなって、まぶしいわ」
「艶福はち切れんばかりや。少し薹(とう)の立った美女二人、磁石にくっつく鉄粉のごとく寄り添って、じゃまくさくないですか」
「失礼ね、おとうさん、薹が立ったなんて」
 そこへちょうど、ごめんください、と文江さんが玄関にやってきた。
「あ、文江さんよ。上がって、上がって」
 迎えに出る。
「失礼します。初めまして、滝澤と申します」
 座敷にきて膝を折り、頭を下げる。
「おとうさん、おかあさん、こちら、さっき話してた滝澤文江さん。最近知り合った私のお友だち。キョウちゃんとは男と女の関係よ。馴れ初めは話したとおり」
「美女三人になったか。神無月さんの年増趣味も嵩じてきたな。山口さんといい、ほんとに、年増の救世主だ」
 文江さんは笑いながら、
「大年増です。大正七年生まれの四十八歳。テレビ塔の土産物売場に勤めてます」
「あらあ、あの手相占いしてるところ?」
 女将がめずらしがる。
「はい、まだ二年足らずですけど、ああいうところは二年でもベテランです。きょうは和子さんに誘っていただいて。お世話をかけます」
 おトキさんが、
「神無月さん、お嬢さん、滝澤さん、玉子丼お腹に入れてってください」
 と声をかける。
「あら、手伝います」
 トモヨさんが言うと、主人が、
「こらこら、無理をするな」
「安定期に入りましたから、動いたほうがいいんですよ」
 事情を聞かされている文江さんは、台所に立っていくトモヨさんの背中を心配そうに見つめた。
「どんなきれいな子が生まれるんでしょうね。早く見てみたいです」
 女将が、
「見にいりゃあせ。お祝いしますから」
 三人が玉子丼となめこ汁を食べ終わるころ、玄関に菅野が顔を出した。
「あれえ、家族サービスは?」
「女房の両親が遊びにきちゃいましてね。彼らで適当に散歩するということになりましたよ。いやあ、ガキと女房から解放されて助かりました。すっ飛んできました」
 女将が、
「せっかくの日曜日やのに、家に腰落ち着けたらどうやの」
「いいや、休みなんか要りませんよ。朝から神無月さんの野球が見れるんですからね」
 カズちゃんが、
「菅野さん、悪いけど、ちょっと大須演芸場へ連れてってくれる? 四人の予約をとったのよ」
「おいきた。大須は久しぶりだな。送っていきます。演芸場は観音さまの目の前ですよ」
 何人か芸妓たちが出てきて、あたしも演芸場いこうかな、と言う。女将が、
「あかんよ、ちゃんと予約が決まっとるんやから。あんたたちはいつか私が連れてったるわ」
 おトキさんに玄関に見送られてクラウンで出発する。後部座席に女三人、助手席に私が座った。笹島の交差点から柳橋へ出る。
「西高はどうですか。相変わらず一番ですか」
「はい、実力試験と模擬試験だけは。定期試験は百番ギリギリというところです。それを怪しまれて白い目で見られてます。よく勉強してるんですけど、中間期末試験というのを征服できません」
 カズちゃんが驚き、
「どういうこと?」
「実力試験以外は、参考書の範囲が決まっていて、みんなそれを暗記してくるんで、ものすごい点数を取るんだ。平均点八十何点とかね。ぼくはその虎の巻みたいな参考書をぜったい買わない。自力で戦う。それで百番。実力試験になると、過去の入試問題のぜんぶが対象になるから、彼らは何を勉強していいのかわからなくなって、ただの人になる。ふだんどおり自力で戦うぼくが一番になる。そういう仕組み。それが教師たちには気に食わないみたいだ」
「インチキ学校ね。責任感じちゃう。憂鬱でしょう」
「天才に憂鬱はつき物ですよ。山口さんが言ってたでしょう。神無月さん、ここはグッとがまんして、お嬢さんの母校だと思ってかわいがってやってください。ところで、そちらさんは?」
「私のお友だち」
「滝澤です。よろしゅうお願いします」
「キョウちゃんの新しい恋人だから、大事にしてよ」
「うへ、もう増えちゃいましたか。神無月さん、みんな女盛りだから、からだに気をつけてくださいよ」
「だいじょうぶ。野球よりずっとラクです」
「豪傑だ。チンポの垢を煎じて飲みたいや。山口さん、どうしてます」
「やっぱり勉強がんばってるようです。手紙がよくきます」
「あの人は大木だからなあ。神無月さんと同じ天才だ。水っぽいけど」
「めったに泣かないやつなんだけど、感極まるとね。菅野さんだって泣き上戸じゃないですか」
「上戸ってほどでもないですよ」
 頭を掻く。黒川を渡って御園通りから伏見通りへ出て右折する。
「いつか三人で、御園座いきましょ。放浪記かなんかきたら」
 カズちゃんの提案に文江さんが、
「森光子さん、いいですね。お乳を手術してから病気がちですけど、早く舞台復帰してほしいです」
「私も森光子好き。『天国の父ちゃんこんにちは』は毎週観てます」
 とトモヨさん。女の会話だ。森光子とアメリカの君子叔母さんは瓜二つの顔をしている。どうしてあんな女優が好まれるのだろう。わざとらしくて、ユーモアのセンスもなく、ぎすぎすしている。そう言えば、母もいつだったか彼女を褒めていた。
「着きました」
 宝生院大須観音到着。霧雨がほとんど上がっている。
「ちょっと駐車場に車入れてきます」
 菅野が戻ってくるのを待って、商店街の入口からお堂前の広場に入る。朱塗りの派手な列柱に二層の屋根が載っている。
「日本三大観音の一つです。浅草観音、津観音、大須観音」
「三大の基準は?」
「知りまっせーん」
 みんなで南無聖観世音菩薩と書かれた幟が立ち並ぶ十段ほどの石段を上って、大提灯の下の賽銭箱に十円硬貨を投げ入れる。手を合わせたあとは、何もすることがなくなった。菅野に尋く。
「観音て、何ですか」
 さあ、と首をひねって、
「そういうことはご勘弁。舞台の裏手を回ってきます」
 ぶらりといってしまった。みんなで声を上げて笑う。菅野は一分もしないで戻ってきて、
「ビル以外何もありませんでした」
「大正琴発祥之地という石碑があったでしょう」
 カズちゃんが言うと、菅野は頭をひねり、
「そうでしたかね。舞台に人だかりがしてたんで、下を見下ろしませんでした。そんな不気味な碑を建てて何の意味があるんですかね」
「みんなが気楽に散歩するためよ。意味があったら疲れちゃうでしょ」
「なーる」
 みんなで肩を並べて、石段を降りながら、
「でも、ほんとに観音さまって何なんでしょうね」
 トモヨさんがぶり返す。物知りのカズちゃんが答える。みんな聞き耳を立てる。
「観音というのは、仏教で言う菩薩さま、観世音菩薩のこと。世間の悩める人びとの音声(おんじょう)を観じる、心を読み取る、という意味。友情と同情の仏さまよ」
「お嬢さんは神無月さんや山口さんみたいですな」
 私は、
「ぼくは省いといて」
「へいへい」
「人びとの心を読み取って救う、か。阿弥陀如来というのもあるよね」
「慈悲の神さまの親分ね。その如来さまのお手伝いが観音さま。いつでも代理ができますって、そばに控えてるわけ」
「そこまで噛み砕くには、相当深い知識が必要だね。ぼくのカズちゃんの原型は、西松の飯場のカズちゃんだから、こんな知識人のカズちゃんを見ると、ただただ驚いてしまう。毎日がめざましいコペルニクス的転回だ」
「キョウちゃんに初めてイカせてもらったときの驚きほど、どんなこともショックじゃないわよ、ねえ」
 そう言って笑いながら、二人の女を見る。トモヨさんが、
「はい、いまでもびっくりしたままです……」
 すぐに文江さんが、
「あんなことが……もう、ほんと……」
 と言って、ボーッと視線を私に向ける。トモヨさんが、
「口で言い表せません。とにかく感謝するだけです。ない人生が、ある人生に変わったんですから」
「……どんなふうにお礼をしたらええか」
「心だけでもキョウちゃんのそばにいてあげてね。遠くへいっても……。トモヨさんは形見をいただいたから、キョウちゃんだと思って大事にすることができるけど、文江さんはいずれ節子さんといっしょに暮らして、彼女の子供の面倒を見ながら別の生活へ入っていくわけでしょう。さびしいでしょうけど仕方がないことだわ。いい思い出になるよう、うんとキョウちゃんに抱いてもらうことよ。節子さんの分もね」
「はい。でも……」
 トモヨさんが同情にあふれた目で文江さんを見つめた。白い手や短く切った髪が哀れだった。
「節子さん、一年、二年して、知多で軌道に乗ったら、かならず迎えにくるわ。もう、そういう手紙がきてるはずよ。いえ軌道に乗らなくても、あしたにでも迎えにくるかもしれない。ひょっとしたら男の人を連れてね。そのとき、母親がキョウちゃんと関係を持ったなんて知ったら、鬼のように怒るか、心底軽蔑するでしょう。自分のことは棚に上げて人非人と罵るかもしれない。だからぜったい知られちゃだめ。いい母親を演じなくちゃ。基本的に節子さんは世間の人よ。キョウちゃんを愛せなかった平凡な女なの。文江さんはちがう。だから苦しい人生になるわよ」
 菅野が降りてくると、カズちゃんは露店の唐揚げを買い、みんなに袋ごと差し出す。一人ひとり指を突き入れて食べながら、土産物屋や掛茶屋の並ぶ商店街を歩く。
「そこが演芸場です。じゃ、私戻ります。夕食までに帰ってきてくださいよ。いっしょに食べたいですから」
「キョウちゃんは食べれないのよ」
「あ、そっか!」


         三十五

 三遊亭圓生がトリに出るまでのあいだ、トモヨさんは入口ホールのベンチで文江さんを励ましつづけた。カズちゃんは一人で館内を観て回っていた。
「郷くんと離れたくない気持ちはよくわかりました。私もお嬢さんも同じ気持ちですから身につまされます。じゃ、たとえ娘さんが迎えにきても、ほんとに知多にいく気はないんですね?」
「はい、こちらで定年まで勤めます。節子もそのほうがありがたいやろうし。家庭でも持てば、姑はじゃまものやが。定年になってから知多に帰っても、何の都合の悪いこともあれせん。実家には、それまでときどき帰って、季節ごとに風を入れればええし。私はキョウちゃんと離れたないんです。抱いてもらわんでもええ、そばにいて、顔さえ見れれば」
「わかりました。願って叶わないことなんてないですよ」
 トモヨさんはカズちゃんを呼び止め、立っていってひそひそと話す。カズちゃんが大きく笑った。つかつかとやってきて、
「おうち、変わりなさい。あんな辛気臭いアパート出るのよ」
「出るって……」
「六畳に四畳半くらいの平屋を借りるの。そして、名古屋に根を張りますって、節子さんに手紙を書くの。スポンサーがつきましたって、書いてあげなさい。二十年も孤閨を守ってきたお母さんにやっと男ができたって、親思いの娘なら喜ぶでしょう。お金はお貸ししますから、十年月賦で返してください。菅野さんに二、三日中に適当な家を探させて、四月までに移ることにしましょう」
「はい! ありがとうございます!」
「家賃が五、六千円ぐらい上がったって、一人暮らしなら何てことないわよ。キョウちゃんが東京へ出たあとも、年に二回も逢えればオンの字でしょう」
「はい、もちろん」
「さ、トリよ。天才圓生の人情話を聞きましょう」 
 四人並んで、中二階の特別桟敷の座布団に座り、才走ってにこやかな圓生の紺屋高尾を聴きながら、腹の底から笑い、泣いた。笑い上戸で泣き上戸の三人の女たちの華やかな笑い声は、土間席からときどき人が振り仰ぐほどだった。
         †
 名古屋に戻ってきて初めての冬が過ぎ去ろうとしている。
 まじめにトレーニングし、まじめに河原のグランドへいき、まじめに女たちのもとを巡る。これは難行ではない。難行は、まじめに学校にかよい、眠気のさすほど陳腐な講義を辛抱して傾聴することだ。しかし打ち勝とうとする困難は大したものではない。たかが眠気だ。つまり、いまのところ私に難行はない。
 私のような無知な人間には、ものを知らないがゆえに二つの悪癖がある。一つ、権威や模範に盲従しない癖、一つ、自分で考え自分で判断する癖。この悪癖がいずれ、無知な人間にはとてつもない難行をもたらす。目に見えている。
 現在の軽度の難行ぐらいはこなしておこう。このまま眠気をがまんしていれば、東大にも受かるだろう。たぶん山口もいま、同じような難行に耐えているはずだ。彼は知識と技芸の人だけれども、権威や模範や、流布された金言に無知な人間だから。
 学校では人払いをする。馴れなれしく近寄ってくるやつは回避できないが、それ以外の学生を拒否するには、ひたすら冷笑をてらった沈黙を通せばいい。これをやめて、進んで好意的な態度を見せれば、彼らは待ってましたとばかりに吸いついてくるか、離れたところで聞こえよがしに愚弄を始める。それはうるさい。
 夜。滝澤節子の手紙を思い浮かべる。女らしいペン字、薄っぺらい言葉の群れ、いっとき愛した男を自分の人生に留まらせようとする足掻き。彼女が遠い土地から私に会いにくることはないだろう。私が会いにいくこともないだろう。それでも、彼女の手紙をまだ記憶しているのだ。大切な思い出だから! 
 母と野毛山へ遠出して、病院のベッドで母が数を数えるのを聞いた夜から、ひとり保土ヶ谷へ遠出して、階段の框で父に硬貨を握らされた夜から、私の気立てはガラリと変わってしまった。以来私は、それまで払ってきた焦燥や不安の利息をそっくり取り返そうと一心になった。どうやって? ぼんやりと、倦怠の庭に花が咲くのを待ちながら。そんな地味の薄い庭に咲く花などない。
 私は倦怠を封じこめようとする。倦怠のもとが、自分を待ち構える未来なのか、それともこれまでの人生の中の単なる〈大切な思い出〉の華々しい一コマなのかわからない。記憶は化け物だ。執念深く私の中で私を支配する。野球をしていない私は、結局、思い出の奴隷に戻るだけだ。グランドの外では、思い出の場所にしか棲めない。
 気分が悪循環に入った。活字が読めなくなり、詩が書けなくなり、切れぎれの思い出ばかりがめぐってくる。本が読めなくとも、詩が書けなくとも、今夜も勉強しなければならない。役立たずの倦怠を追い払わなければならない。肩も腰もすべて正常だ。これが何万時間も費やした私の野球人生の成果だ。さあ、勉強に戻ろう。
         †
 二週間、女のもとに出かけなかった。河原の日曜練習で顔を合わせるカズちゃんに、
「転校以来の疲れが出た」
 とアホらしい理由を告げた。カズちゃんは、
「いろいろお休みしなさい」
 と明るく応えた。
 二週間、学校の授業と、日曜練習と、そして読書に明け暮れた。森鴎外の翻訳集を読み切った。その中に、シュニッツラーの『死』と『みれん』を発見した。十九世紀末の作家だ。これまで名前すら聞いたことがなかった。
 春休みが近づいた。三月二十五日の土曜日から四月六日木曜日までの十三日間。四月七日は入学式なので、始業式は八日土曜日。授業はない。四月十日から三年生の一年間が始まる。
 朝めしを食いながら、母に、しばらくソフトボール大会の練習で遅くなると告げた。罪のないレクレーションで私が名を上げるべくもない。母は何も言わなかった。
「出てくれって言われてね。遊びみたいなものだけど、型どおりの練習は必要らしい」
 春休みのあいだにクラス対抗の大会があり、出場することも事実だったが、練習の予定はまったくなかった。そんなふうに言ったのは、万一遅く帰ることがつづいたときの予防線を張ったつもりだった。
 昼休みにクラスの何人かとソフトボールでキャッチボールをした。もちろん素手。ボールの大きさになれるためなので、力をこめては投げなかった。そんなことをすれば、彼らはまともに捕球できないし、私の肩に負担がかかる。この肩を壊したら、私の一生は終わる。半分の力で投げれば、彼らにはじゅうぶん派手に見えるし、それでなくても彼らは好奇心半分、びくびくしながら捕球していた。平岩が相手になるときだけは七分の力で投げた。彼は意地を張って気楽そうにグローブを差し出したが、弾き飛ばされたり、ドテに当てて逸らしたり、受け損なってあごにぶつけたり、ほとんどまともに捕球できなかった。
「本気出すなよ、みっともない。野球がすごいことはわかったよ」
         †
 三月十八日土曜日、二年生最終の実力テストが終わった。理社以外、上出来の手応え。加藤武士から首席を奪還できるだろう。きょうもカズちゃんの家にいかなかった。三週間になる。
 名無しの通りの古本屋で、漱石全集を新書版で手に入れる。昭和三十一年岩波書店刊全三十四巻。店主に二千五百円全額払い、折々立寄って五冊ずつ持っていくと言う。
 翌日の日曜日、庄内川の河原で紅白戦が行なわれた。紅軍の代打で一打席立った。ライト場外にツーランを打った。主人、カズちゃん、菅野が狂ったように拍手した。高校新聞部のフラッシュが光る。土手の見物衆に目を配る。神経質になっている。
 夜から漱石読破に入る。第一巻と第二巻はワガハイなのでオミット。第三巻の坊ちゃんを省いたほかの作品から始める。倫敦塔。大いなる衒学的空想家、漱石。ジェーン・グレイの処刑寸前の言葉に打たれる。―わが夫が先なら追いつこう、あとならば誘うていこう、……正しき道を踏んでいこう。
 二十日の月曜日から、下校時にこつこつ五冊ずつ運んでくる。毎夜、漱石の読みづらい文章を少しずつ苦労して読んでいった。カーライル博物館、幻影(まぼろし)の盾、琴のそら音、一夜、薤露行(かいろこう)、趣味の遺傳。新書本一冊読むのに疲れ切った。
 三月二十五日の土曜日から春休みに入った。返却された実力テストの成績結果は首席だった。けだるい気分が晴れないまま、カズちゃんに電話をした。
「春休みのあいだ、どこにも出かけずに、しばらく籠もって勉強する。トモヨさんと文江さんに連絡しといて。二十五日から四月六日までの十三日間、ジャージを着て河原の練習に出る。ユニフォームは届けなくていい。心配しないで。バットは置きっぱなしだから、グローブだけ初日に届けてくれればいい。毎日仲間のだれかに持ち帰ってもらう。グローブだけはほかの選手に借りてやるわけにいかないからね」
「わかった。一挙に予習しようとしてるのね。あまり根を詰めないように」
「うん」
 グローブも磨けない日常に、ポチンと苛立ちの芽が萌した。
         †
 その夜、生まれて初めて夢精をした。夜明け前に、なぜかミヨちゃんが夢に出てきて、私に押しかぶさり、強引に性器をつかんで自分の中へ引きこもうとした。その潤った襞に触れたとたん、射精した。とにかく初めてのことなので、そのまま目も覚めず、起きてから、射精だけが現実のものだったと知って驚いた。パンツが黄色くごわごわ固まっていた。新聞紙に包んで、駐車場の焼却炉に投げこんだ。ほぼひと月、女体に接していない。
 私は十八歳を目前にしている。もう抑制の効くからだではなくなっているのかもしれない。カズちゃんの言ったことは正しい。こんなことが頻繁に起こるとするなら不都合のきわみだ。
 翌二十六日日曜日。ランニング、河原の練習(カズちゃんと菅野がグローブを届けてくれた。グローブはいつもキャッチボールの相手をしている山下という三年生が毎日持ち帰ってくれることになった)、図書館での勉強、夜九時の三種の神器、意気ごんで夜遅くまで草枕の読書と、からだと頭をいじめてみたが、やはり勃起に閉口して、カズちゃんや文江さんや、きょう訪ねる予定だったトモヨさんの顔を浮かべてしまった。穏やかな交情の相手をしてくれている女たちにこの荒々しい性欲をぶつけたくない。その手の女で即物的に処理したい。
 ふと考えが動いた。十一時を回ってから、食堂の灯りが消えているのを確かめ、厚手のセーターを着て自転車で出た。あとを追おうとするシロを手で制して追い返した。大門の停留所を目ざした。目の裏に、あの夜立っていた三人の女たちの姿があった。
 ―サックなしでやってくれなどと頼めるだろうか? 
 青森の港の売春婦は、自発的にそうしてくれた。しかし、それが叶ったとして、万一性病にでもかかったら? それにしても、その場かぎりの射精というものができるものだろうか。青森では可能だった。でもあれは異常な状況の中でのできごとだったし、精神が並外れて沸騰していた。しかも、曲がりなりにも女と対話をし、場の雰囲気が和んでやさしげなものになったからだ。唐突に出会い、無機的な肉体を圧しつけられ、それでも勃起と射精が可能だろうか。すでに私のものに力はなくなっていた。
 まず鳥居通りから遠回りして、葵荘へいった。文江さんがまだ起きていてくれれば、カズちゃんの話からすると、すぐに応じてくれるだろうと考えた。足音を忍ばせて鉄階段を上った。奥の十号室の小窓に灯りはなかった。そっとノブを回す。閉まっている。寝てしまったのだ。ドアを叩く気にならず、階段を降りた。勃起がすっかり収まりかけている。
 例の辻の暗がりへ自転車を牽いていった。女が一人きりで立っていた。このあいだ電柱に凭れていた女だった。あの女が何も言いかけてこなかったら帰ろう。私のほうから働きかける必要はない。あのたぐいの女は声をかけるのが商売だ。
 ―キョウちゃんがだめになる。
 滝澤節子のように、だれもが無意識に、道徳の偽善に迷っている。偽善の中で幸福の餌を得ようと精力的に生きている。素人女たちの生活の中には、しっかりとした幸福の公式がある。偽善が好首尾に運ばないと彼女たちは撤退する。私は、北村席の経験から、さばけた怠け者の女たちに好感を持っていた。偽善のメーターが最初から振れない存在―偽善を必要としない存在。
 一人きりの女は、無表情に片手でおいでおいでをした。私は何の躊躇もなく近づいていった。コートの首に赤いセーターを覗かせた女は、丸いあごをして、目に濃いシャドーを塗っていた。近づいても目の奥が見通せないくらいだった。じっくり見ると、整った顔をしていた。無理に生活を曲げてしまったためか、どこかすてばちな雰囲気があって、それが彼女の顔に異常なほどエネルギーに満ちた美を与えていた。一瞬のうちにその美が私の心に深く入りこんだ。年齢はわからなかった。美しさが年齢を隠していた。
「いくら」
 ひさしぶりに、シャーという耳鳴りがした。
「千円。旅館代は別で六百円。……あらァ? こないだの学生服。私服だからわからなかったがね」
「こないだって……何カ月も前じゃないか。あのときは学校の帰りだったからね」
「あんた、かわいらしいね。旅館代はいらんわ」
「ちゃんと払うよ。気を使わなくていい。それより、五千円出すから、サックなしでやってくれないか」
「五千円! あんた金持ちのボンボンか」
「いや、飯場暮らしの貧乏高校生だ。……病気は」
 女はツンと澄まし返り、
「いまどき、病気持ちなんておらんわ。サックつけとるし、ぜったいキスもせん。あんたこそ病気だいじょうぶ? 童貞でないんやろ?」
「あたりまえだ。由緒正しき恋人としかやらないから、病気なんか持ってるはずがない」
「エラそうやね。二千円で、ナマでしたる。安全日やから」
 女は先に立って歩いた。そして自分の腰の動きが引き起こす磁力を確信して、後ろを一度も振り返らなかった。太閤通りに旅館がひしめいていた。女は慣れた足どりでその中の一軒に近づいた。
「自転車、ここに置いとけばええ。鍵せんでも取られへんで」
 箱看板の灯った板門を通り抜けた。庭石を伝っていく女のアキレス腱を見ながら、私は勃起するかどうか不安になった。老婆に二階の三畳部屋に通された。二十ワットの電灯の下に、すでにシーツをかぶせただけの蒲団が一枚敷いてあった。薄っぺらな上掛けが脇に畳んで置いてある。売春だけに使っている部屋であることは一目瞭然だった。女はすぐに手を出して金を要求した。私は五千円渡した。
「いらんて。二千円でええ」
「取って。ただ、本気で寝てほしい。じゃないと勃たないし、射精できないから」
 セーターとシャツを脱ぎながら言うと、女は一瞬びっくりした顔をしたが、すぐに眼を伏せた。
「ナマイキ言わんとき。あたしはプロやで。嘘っ気でやっても、見抜かれん」
「見抜けるよ。からだが本気かどうかは、オマンコの締まり具合ですぐわかる」


         三十六 

 私は全裸になって、シーツにうつぶせた。
「お手並み拝見やね。じゃ、そのオマンコ本気にさせてや」
 女が見下ろしながら言った。
「勃たせてくれればの話だよ」
「あたしを感じさせた客なんか、いままでおらへんで。減らず口叩かんと、子供らしくしなさい。なんでそんな格好しとるん。裸になって。色の白さを見せつけとるんか。おかしなガキやな」
 ざっくばらんな調子に親しみが湧いた。女の行動は手早かった。コートを脱ぎ捨て、厚地の紫のスカートにもぞもぞ手を突っこんで、下着を取った。赤いセーターを着たまま横坐りになると、私に仰向けになるように命じた。蒲団にからだを伸ばしたとたん、
「小っさ! 頭だけのチビちゃんだが。減らず口叩いたんは、これが恥ずかしかったんやな。気にせんでええよ。ちゃんと立たしてオマンコに入れたるで」
 と笑った。
「お願いします」
 亀頭の溝を確認して、
「垢ついとらんね。きれいにしとるがや。でも、勃たんと、できんがね」
 私のものをつかんで亀頭を含んだ。唇でしごくようにする。なかなか勃たないので難渋している。陰嚢をつかんで揉みはじめた。やさしさがない。
「どしたん、若いのに」
 彼女は懸命に顔を上下させる。勃起しない。女は口を離してそれを眺め下ろした。
「小っちゃいね。伸びても十センチないんやないの」
「もう少しあると思うよ。きみの腕しだいだ」
「あんた、何歳?」
「十七。あと三カ月で十八」
「どうすれば大きなる?」
「きみのクリトリスを、ぼくがイカせたら興奮する」
「時間かかるで。五分はかかる」
 女はスカートを胸までまくり上げ、私と交代で蒲団に横たわると、開脚して立膝になった。黒々した小陰唇がぴったり膣口を塞いでいた。
「こんなこと、ぜったい客にはさせへんのやで。あんたかわいらしいから、特別や」
 剥き出しの腹の肌理(きめ)からすると、まだ三十前かも知れない。自然と厚化粧の顔に目がいった。その顔は私の好みに適合するような美しさを持っていた。なぜ彼女の顔がそんなふうに自分の感覚にぴったり寄り添うのかわからなかった。胸を締めつけるものを感じた。たぶんそれは彼女の悲しげな表情のせいだろう。とにかく心に訴えてくるものの中心に彼女の顔そのものがあることを私は感じた。
「どしたん、顔なんかに見惚れとらんと、早くしてちょ」
 小陰唇を押し広げて、クリトリスを見た。興奮しなければ包皮から顔を出さないふつうの大きさだ。前庭はピンクに色づき、膣口はたくさんの男を受け入れたせいでボコボコしていた。
「まだ濡れてないね」 
「触っているうちに、濡れてくるが」
 私は首を伸ばして、女の性器にいまにも口を当てようとした。
「汚い! そんなとこ。手で触るんよ」
 たしかに小便のにおいがした。かまうことではなかった。私は女の脚を強引に押し広げると、セーターの下に両手を差し入れて二つの乳房をつかみながら、包皮の先に舌を使いはじめた。クリトリスをくじり出すようにする。
「あかん、やめてや、あかん、何すんの。おかしなってまうが」
「おかしくなってくれないと勃たないよ」
「あかんて、あかんて、あ、あ、だめだめ、そんなことしたらすぐイッてまうが、イキそうや、イッてまう、あ、イク!……」
 ビクンと尻を撥ね上げた。あっという間だった。女は仰向けのままアイシャドーの眼を閉じて、じっとしていた。やがて眼を開けて、
「イッてまったが。うまいなあ、あんた。あたし、こんなことされたの、初めてや。坊ちゃんみたいな顔して、欺されたわ」
「五分なんて大きなこと言って。ほら、きみがイッたから、約束どおり」
 私は彼女の目の前に腰を突き出した。
「うわ、カリでか! 手品でもやったんか。あんなちっちゃかったのに」
 女は後ろ向きに四つん這いになり股を大きく広げた。いびつな菱形の繁みが左右に割れ、中心に黒ずんだ小陰唇が垂れている。みっともないというほどではなかった。
「入れて。早よすまそ。後ろからのほうが締まるで」
 熱く包みこむ感覚を期待して押し入れた。熱のない広い空間があった。亀頭にしか壁が接してこない。水の中を泳いでいる感じだ。こんな感覚は初めてだった。私は女の尻をつかみ、引き寄せた。奥へ押しつける。わずかに引いて、またぐいと押しつける。腰を幾度か回転させ、また奥へ押しつける。それを幾度か繰り返した。
「あたし、中はニブいんよ。あんた、はよイキたいんやろ。締めたげようか。得意やから」
 膣口が人工的に収縮した。しかし、感覚に響かない。
「そんなことしなくていい。もうしばらくしたら勝手に締まってくるから」
 私は同じ動作を繰り返した。もはや義務のように感じていた。遅速と深浅を心がけながら、ひたすら腰を往復させる。
「はァ……」
 二分もして、女がようやく奇妙な吐息を洩らした。膣が弱い脈を打ちはじめる。
「なんや、おかしなってきたわ」
 大きく引いて、奥へ強く突き当てた。
「ああ、気持ちええわあ! お腹が……ああ、ええわあ」
 自分で尻を密着させてきた。脈が頻繁になり、壁が弱く迫ってくる。
「やばい、オシッコ出そうや。あんたイカへんの。早くイッてや。こわいわ、ちょっとやめて、おかしいわ、あ、あ、熱い、あかん、どもならん」
 たちまち私のものが動きにくくなるほど膣壁が隆起してきた。カズちゃんとまったく同じ反応だった。
「き、気持ちいい、焼ける、たまらん、気持ちいい、あかんよ、あんた、あかんよ、もう動いたらあかん」
 女が反射的に後ろ手で私の腰に手を伸ばし、動きを止めようとした。私は強引に動きつづけた。
「いやあ、オシッコ出ちゃう。早くイッて、こわい、オシッコもらしてまう、ああ、あかん、あかん、もうあかん!」
 うつむいている腹のあたりにプルプルと細かい波が立ってきた。
「イキそうや、あたしイクわ!」
「まだ、がまんして!」
「あかん、やばい、イッてまう、いっしょにいこ、いっしょに」
 私は一度抜いて、女のからだを表に返して挿入した。彼女の顔は真っ赤で、名状しがたいほど甘美な陶酔の表情があった。私は自分がキョロリと醒めていることを後ろめたく感じた。ふたたび動きはじめると、すぐに女の高潮がやってきた。
「いっしょにいこ、あ、あ、だめや、もうイクわ、ああイク、イクイク、イク!」
 女のからだがガクンと内側に折れ曲がり、その反動で私のものが弾き出された。女は苦しそうに横向きになり、くの字になって何度も痙攣を繰り返した。よほど苦しいのだろう、片手をついて起き上がろうとしては痙攣する。しばらくそれがつづいた。私はじっと見つめていたが、ようやく落ち着いてきた女の股を割くと怒張したものを突き入れた。
「あ、やめて……またイッてまう、あああ、気持ちええ! イク、イクイク、イクッ、イク!」
 万力のように締まってきて、射精を誘った。
「ぼくもイクよ!」
「イッて、イッて、ああ、いっしょにイク、いっしょに、イイックウ!」
 律動を伝える前にまた折れたからだにはじき出され、残りの精液が女のセーターの肩口に飛んだ。女はからだを丸めたり伸ばしたりしながら、海老のようにビクビクやっている。やがてみぞおちだけのひくつきに治まってきたので、やさしく言った。
「ありがとう、本気になってくれて」
 私は醒めた心のまま、まだふるえている女の尻をさすながら、冷えた煎餅蒲団に並んで横たわった。赤いセーターの背中に唇を当てる。
「こんなの生まれてはじめてや。あんたのカリ、オマンコ引っ掻くから……オシッコするような汚いとこ、舐めてもらって興奮してまったが。ありがと」
 女はようやく起き直り、恥ずかしそうに下着を拾ってつけた。初めて少し笑った。思ったとおり、美しい笑顔だった。私のものをあらためて尊敬をこめた眼で見下ろし、
「お化けやね、そのカリ。よう見たら、からだ大きいなあ」
 スカートのポケットからティシューを取り出し、亀頭の溝から付け根まで丁寧に拭いた。柔らかい紙だった。それから旅館のティシューを大量に使って自分の股間と、精液の飛んだ肩口を拭いた。あらためて私のものに屈みこみ、浅く含んで、溝の汚れを舌で舐め取った。
「もう、こんの?」
「たまにくる」
「あたし、いつもあそこに立っとる。ほかの客に誘われても、いかんで待っとる」
「待たれても困る。ほかの女としなくちゃいけないから」
「絶倫なんやね」
「好きな女とするときはね。最近、何かというと勃っちゃってしょうがなくて」
「小っちゃかったがね」
「緊張したんだ。きみがきれいだったから」
 じっと見ている私にうれしそうに笑いかけ、
「怖かったわ。すごくええ気持ちやったけど」
「今度するときもナマでしてね。危ないときは外に出すから」
「そんなことできるん?」
 初心な女を相手にしているような気がしてきた。女もベテランの男を相手にしているような表情になっている。
「できるよ、お腹や背中に出すんだ。きみは、駅西の人?」
「そう。駅裏って、あれ、ぜんぶ民家なんよ。あたし、あそこで生まれたの。十六のときから客とって、もう十年や」
「じゃ、二十六歳か」
「……九つも年上やね。名前尋いてええ?」
「うん。神無月郷」
「カンナヅキ、キョウ。かっこええ名前やね。キョウちゃん……。あたし、モーやん、兵藤もとこ、味の素の素」
「モーやんは、動物の鳴き声みたいでいやだな。これからは素子って呼ぶよ。どうして大門にいたの?」
「駅裏は開発で不景気やから、何人かで仕方なくデバってきとったんよ。でも、ここは警察がしょっちゅう眼光らせとるもんで、気ィ使って疲れるわ。ほかの子たちは戻ってまった。駅裏は手入れがゆるいから、めったに警察はこんで。けど、ここで張ってれば独り占めや」
「そうだね。でも、ぼく一人じゃ商売にならないんじゃない?」
「商売は駅裏でするわ。あんたとは商売抜き」
「五千円払うよ」
「いらん! そんなことしたら、もう寝ん」
「寝なくても、払う」
「もう! なら、それで一年分や。ええやろ?」
「ありがとう」
「あんた、ええ人やね。こんなお客さん、初めてや」
 私は服をつけると、アイシャドーを直す女を待って、いっしょに表へ出た。自転車を牽きながら太閤通りへ歩いていく。
「これからはほかの客としてもああなっちゃうよ」
「ならん。あんなカリの男おらんも。ゴムかぶせとるからこすれんし、あんたみたいに腰をうまく使う客もおらんし、奥まで突く客もおらんし。それに、たいていの客が一分もせんうちにイッてまう」
 素子は弾むように歩きながら、ときどき私を見上げる。この図は苦手だ。女というものを愛らしく感じて、胸が締めつけられる。
「さびしそうな顔しとる。このあいだもそうやったけど」
 自転車の籠に手を置いて歩きながら素子が言った。
「さびしくない。勉強で忙しいから、さびしがってる暇はない」
「高校生は勉強ばっかやもんね。やりたい年頃なのに、気の毒やね。無理せんと、これるときにきてね。学校の帰りにやりたなったら、駅裏で出してけばええが。あたしみたいに若いのはあんまりおらんけど、五百円でやれるよ。あそこは学割が売りやから。学生ならタダでええ言う婆さんもおるくらいや」
「サックはしたくないから、ここにきて、きみとする。婆さんて、どのくらい?」
「七十近いデブ。六十ぐらいにしか見えんよ。学生は病気の心配ない言って、ナマでやらせるから、ツヤツヤしとる。そいつとすればええが」
「婆さんが感じればいいけど、感じないとつまらない。七十歳って、イクのかな」
「さっきみたいに感じとったら、商売にならんわ。でも、キョウちゃんのオチンチンでやられたらイクんやない?」
 無邪気に笑う。


         三十七 

「北村席って、知ってる?」
「いちばん大きいお店やが。どして?」
「そこの娘と知り合いなんだ」
「へえ! そういえば、おったなあ、北村の一人娘。カミナリ族のワルやったけど、足洗って大学へいったんよ。変わりもんやね……」
「その変わりもんと、長い付き合いだ」
「へえ! たしか、もう三十過ぎとらんかった?」
「ぼくにとっては、年齢のない永遠の女神だ」
「ふうん、ええなあ、その人。……あたし、こっからタクシーでいく」
 ネオンもついていない真夜中の太閤通りに、タクシーが通りかかるには相当時間がかかるだろう。
「駅まで自転車で送っていくよ。二人乗りでいこう。横籠があるから乗りにくいけど」
「ええよ、はよ帰りゃあ。また、ぜったいきてね」
「くるなら、月曜日だな。土日は空いてない」
「あしたやがね!」
「よし、じゃ、あした」
 私は自転車に跨って手を振った。
         †
 勇ましい約束を反故にして、翌二十七日の月曜日、ジャージ姿をめずらしがられながら河原の練習を終え、図書館の勉強を二時までやってから、自転車を漕いで花の木にいった。
 カズちゃんはガスストーブが暖かく燃えている居間の大テーブルで、ミカンを食べながら読書していた。コンラッドという作家の『闇の奥』という小説だった。カズちゃんはすぐコーヒーをいれに立った。
「読み直しだから、持ってっていいわ。いい文章よ」
「いま漱石読んでるから、来年借りる」
 私は八畳の和室に寝そべり、カズちゃんにミカンを剥いてもらいながら素子の話をした。
「ほんとうにお金を取らないんだよ」
「よかった! このごろ憂鬱そうな声してたから、心配してたのよ。駅裏の子? あの通りに女の子はあまりいないから、顔を見れば覚えがあるかも」
「カズちゃんのこと女神だって言ったら、ヤンキーだったころの噂を知ってた。変人だって。羨ましがってた」
「それはそうでしょうよ、キョウちゃんの女神だなんて言ったら、だれだって羨ましがるわ。素子ちゃん、か。もし向こうから私に声かけてきたら、お礼を言って、何かおごってあげる。……きょうはウンとちょうだい」
 トモヨさんの着物の話をすると、カズちゃんはひどく興奮して寝室へ急ぎ、
「その御所車というの、してみて!」
 するすると服も下着も脱いで四つん這いになった。私も全裸になって、すぐに挿入する。
「ああ……」
「すぐイカないでね」
「だいじょうぶ、がまんする」
 両脚を高く抱えて這い這いさせてみた。カズちゃんは最初クスクス笑っていたが、やがて切迫した声を上げはじめ、這い這いを止めて、とつぜん気をやった。からだを支えられなくなって肘を折った。高く突き上げられた尻が真っすぐ私を見上げる。きれいな肛門がヒクついている。膣がいつものように怪しくうねりながら私を握り締める。私はそのままの格好で抽送を速め、たちまち射精した。
「ああ、キョウちゃん、愛してる、すっごく気持ちいい! イク!」
 あまりに愛しい気持ちがして、腹を抱きかかえた。
「カズちゃん、愛してる!」
「私も! 死にたいくらい!」
 二人いっしょにしばらく痙攣していた。それから結合部を離さないまま、後背位でゆっくり蒲団に横倒しになった。カズちゃんが顔だけ振り向いてキスをする。舌を絡め合う。みかんの芳香がした。
「ぼくは、根っからの不道徳漢だ。こうしていき当たりバッタリに女とセックスしていることに、何の罪悪感もない。でも、愛してるって叫びたくなるのは、カズちゃんだけなんだ」
 カズちゃんはそっと私から離れると、こちらを向いて首を抱いた。
「どんなことも、救われる人にとっては不道徳じゃないのよ。素直な人しかキョウちゃんを動かせない。自分を動かした人しかキョウちゃんは抱かない。どちらも不道徳じゃないわ。人がどう見ようと、笑ってすませなさい。トモヨさんや素子ちゃんのような生き方をしてきた人は、めったに考えなしにことをしないものよ。なにしろ感情を外に出すことがめずらしいから、見せるときは素直に底まで見せるの。するとキョウちゃんは感動して抱きたくなる」
 自分に賛同してくれる者を盲信するのは、自分の存在に疑いが生まれることを何よりも恐れるからではないか―そんな不安を嗤い飛ばす明るい響きだ。カズちゃんは屈みこんで、私のものを口で掃除している。その肩を撫ぜながら、
「クラスに斜視の痩せっぽっちの女の子がいる。一途な眼を向けてくるんだけど、心が動かない。こういうのこそ、不道徳ということになるのかな」
「不道徳というより、不寛容ね。あのすてきな雅江さんも同じ。キョウちゃんが徹底できないところは、そこ。でも、相手が身を捨ててキョウちゃんを求めてきたら、きっと心が動くわ。臆病や内気まで引き受けてあげることはないのよ。自分を責めないでね」
 私はカズちゃんの言葉に励まされて、いや、都合よくわが田に水を引いて、自分の性欲を正当化した。クマさんの言葉を思い出した。据膳食わぬは……。しかし、据膳を食っているうちに、愛欲が好色に変わり、好色が漁色に変わって、セックスの意図が曖昧なものになり、いたずらに〈出張所〉が増えるだけで、ついにカズちゃんのところへ戻ってこられなくなる。そう思ったとたん、ゾッとした。
「不寛容のままでいい。カズちゃんのところへ戻ってこられなくなったらたいへんだ。とんでもない災難に遭って、カズちゃんに会えなくなるかもしれない。くわばらだね」
 カズちゃんは愉快そうに笑いながら、
「そんなにリキんじゃだめ。たとえば、いいにおいのする花は、蜜を集めにきれいな虫が飛んでくるでしょう。花の仕事は花粉を運ばせて種の繁栄をすること、だから虫に蜜のお礼を上げて仕事をさせるの。それで花も虫も、めでたしめでたし。人間の仕事は、虫と花よりももっと複雑。おたがいに快楽のやりとりをして種を絶やさないようにする個人的な仕事とは別に、意識するしないに関わらず、才能のある人がいろいろなものを作り出したり発展させたりして、大勢の人を幸福にする仕事があるのよ。キョウちゃんは才能のある人だから、その二つのことをしなくちゃいけない。そこへ人格までも備えなくちゃいけないときたら、スーパーマン教育の拷問を受けるために生まれてきたことになるわ。残念だけど、キョウちゃんはその拷問を受けつづける運命にあるみたい。たいへんな人生。少しぐらい破目を外すのは許されることよ。おまけに、破目を外すことで大勢の人を救うことができるとしたら、それは人間としての奇跡でしょう。そんなふうに考えて。それに野球が加わったら! それだけじゃない。詩や歌まで! こんなすごい人といっしょに暮らせて、からだもかわいがってもらえて、女神なんて呼ばれて……その私のところへ戻るなんて! もったいない! いつまでも旅をしてて。私はお護り札になっていっしょに歩きます。それなら、戻るなんて考えなくてすむでしょう?」
 二人固く抱き締め合った。
「文江さん、引っ越したから、暇なときに顔を出してあげて」
「どこ?」
「笈瀬通(おいせどおり)の大誠寺(おおまことでら)の門前。あとで詳しく教えるわ。河原の練習、あしたからユニフォームに戻す?」
「うん、三学期が始まるまでは、連日で迷惑をかけることになるけど」
「平気平気、菅野さんは大喜びよ。一日でもキョウちゃんに会えないだけで、とってもさびしがる人だから」
         †
 二十八日火曜日。きょうから菅野が、河原の練習にユニフォームとコーヒーポットを届けてくれるようになった。一時間から一時間半の練習のあいだ、粗末なベンチに座ってじっと私の練習風景を眺め、終わるとユニフォームを受け取って帰っていく。つくづくありがたい。
 夕方の四時まで図書館で勉強してから、カズちゃんの描いた略地図を手に文江さんを訪ねていった。文江さんが引き移った家は、笹島から太閤通を大門へ向かって二駅いった、笈瀬通の電停のそばにあった。大誠寺という小さな寺の門前の露地を入ったところにある洒落た平屋で、玄関の軒に鈴蘭燈が下がり、横並びの六畳二間の縁先に狭い庭もついていた。便所は和式の水洗で、台所は四帖半だった。近所に銭湯もあった。
 訪ねた初日の夕方に、さっそく二人肩を並べてその銭湯へいった。柄にもなく善行をしているという意識があって、すがすがしい入浴になった。善行? 何さまだ。
 帰りに年季の入った店構えの喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。文江さんの一つひとつの挙措や視線から深い恋心が伝わってきた。善行ではすまない。真剣に愛し返さないと。
「お寺さんに見守られたきれいなおうちです」
「これまでは、御宿泊千円、御休憩六百円なんて看板の掛かった旅館街に暮らしてたんだものね」
「立派な着物に着替えたみたいな気がします。家賃は八千円で少し高目やけど、お給料が日曜手当ても入れれば三万二千円やから、じゅうぶんやっていけます。和子さんには五十万円も貸してもらって、節子がほとんど持っていった分と合わせれば百万円やが。でも十年で返せばええやなんて、ただでいただいたようなもんです。キョウちゃんのおかげ。感謝しとる」
「ぼくのおかげじゃない。文江さんのラッキーだよ。ぼくもトモヨさんも、いや、節ちゃんも、カズちゃんから幸運をもらった。彼女は現人神(あらひとがみ)だ。彼女にこそ感謝すべきだ」
「和子さんは、キョウちゃんを好いとる人にしか運をあげないエコ贔屓の神さまやよ」
 私はきょう初めて笑った。
「ほんとだ。それじゃ、ぼくを好きになる人がたくさん出てきたら、すごく彼女の負担になるね」
「申しわけないと思ってます」
「でも日曜日まで働くなんてね。仕方ないか、日曜祝日は書き入れどきだから。生活していくには何かの組織に属して、そこの都合に殺されなくちゃいけないんだものね。ぼくもいずれそうなる」
「キョウちゃんの入る組織って、プロ野球のことでしょが。好きな野球ができるなら、どんな都合も楽しいものやろ。殺されたことにならんのやない?」
「そうだね、たしかに―。節ちゃんと連絡は?」
「知多の日赤病院の寮へ手紙出したんやけど、あっちからはこん。キョウちゃんにも、私にも顔向けできんものね。その分、しっかりお勤めしとるんやないの、勉強しながら」
「だといいね」
「逃げてばっかおる子やから、心配やわ。いいかげん腰据えて正看の資格取らんと、使い回されるだけの看護婦になってまう」
「好きな仕事なら、使い回されてるほうが幸福じゃないかな。……しかし、ぼくたちは不思議な縁だね」
 なぜか急に目の奥が熱くなったので、うつむいた。
「キョウちゃんは年上の女ばっかりと。……私なんか三十も上やわ」
「男と女って、そんなもんじゃないな。愛情とからだの悦びは深い関係があるんだ。年齢じゃない」
「……抱かれれば、女はほうやろね。でも、抱いてくれんでもええんよ。私にはキョウちゃんが宝物やいうこと。私にとってほんとの宝物は、キョウちゃんという人なんよ。そばにいてくれて、ときどきしゃべったり、笑ったり、食べたり、いっしょに歩いたり、遊山したり、それが幸せなんよ。できるかぎるキョウちゃんのそばにおることだけが願いです。声を聞いて胸がいっぱいになったり、深い話を聞いてなんやら覚悟ができたりするのがうれしい。そして、キョウちゃんがしてくれるなら、どんなセックスをしても期待に応えられるように自分のからだを作りたいって思う。そういうことに努力しながら生きていくのが私の幸せやと思うんよ」
 世間と心中するやつに宝物はやってこない―山田三樹夫はそう言った。彼の言った世間というのはたぶん、世間の人びとの暖かいスクラムという意味だろう。文江さんが心中しようとしている私に、そのスクラム以上の価値があるのかどうか。私と心中するくらいなら、宝物はやってこないかもしれないけれど、世間のスクラムに飛びこんだほうがましのような気がする。宝物というのはたぶん、世間的な価値以上のもの、たとえば気長で崇高な仕事、無から何ものかを創り出す術といったような夢物語のことだろう。どちらもかぎられた個人に与えられた才能の賜物だ。世間とスクラムを組まなくたって、そんなものはおいそれとやってくるはずがない。世間から孤立しようと構える私にもそんなものはやってこなかった。ただ私は世間とスクラムを組まないことに美を感じて生きているだけで、そうやって生きていくための強靭な知恵すら持っていない。私の中にあるのは、いまではほとんど消えかけているなつかしい過去、闇に迷う目に射してくる遠い灯とでもいったふうに、わずかに記憶の底深く揺れている明るい過去、滑らかに回る歯車のように過ぎていったもの……愛した人たちの記憶。
「ぼくに期待しちゃだめだよ。いつでも見かぎる用意をしてなくちゃ」
「そんなこと! 私がつかんだ幸せは、ぜんぶキョウちゃんのくれたものなんよ。何を見かぎるんね」
 この女が選択したことだ。選択して、彼女のいまがある。何があろうと、彼女にとってこれが真実だ。彼女は苦しみの底でそう思っている。たとえ私を失っても、愛したことがないより愛して失うほうが幸せだと思うだろう。愛を知らなかったセメントの心に熱い愛が落ちると、セメントが融け、深い跡が残って固まる。
「きょうは帰るけど、今度会うときはセックスしようね」
「はい!」
 鈴蘭燈まで戻って、自転車に乗り、手を振る。わずかに膝を折って手を振り返す姿が節子にそっくりだった。




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