五十一

 母親が店の電話で出前を頼んだ。そのとたんに腹がへってきた。ヨシエが、
「神無月くんの言うことわかる。身につまされる」
 小夜子が、
「ほら、何を言っても、こうやって持ち上げられちゃうのよね。ま、いいか。覇気なんかあったら、女は疼かないかもしれないわね」
「おねえさん!」
「法子だってそうでしょう? 雅江さんも」
 加藤雅江は真っ赤になってうつむいた。母親が、
「小夜子の疼くって意味はいろいろあるけど、おかあさんは胸にくるわ。むかしも言ったけどね、法子、神無月さんは身の周りの人を捨てて昇ろうとしない人よ」
 私はなんだか息苦しい気分になってうつむいた。法子が、
「神無月くんに、目標なんていらないわ。このままでじゅうぶんよ。人間として完成してると思う。……私、ちっちゃいころからこの店に出入りしてて、男というのは子どもっぽくて、だらしなくて、不潔なものだと思って育ったの。でも神無月くんは特別な感じがした。ひどくまじめな変わった心というか、年よりも大人っぽくて、何かしゃべるたびに澄んだ目が大きく開くの。どんな仕草も、この店で出会うお客さんたちとちがってた。荒っぽい感じがぜんぜんなくて、人にやさしくしたり、自分の気持ちのままに悲しそうな顔つきになったり、おまけに、何を語りかけても受け答えがこっちの気を逸らさないの。こんなにきれいな顔をしているのに、野球が得意で、勉強もできて、雅江さんの話だと、飯場暮らしだということだった。私にしてみれば、そういう環境って男の基本の〈不遇〉という条件を満たしてるのよね。それだけじゃないわ。野球選手にとっていちばん大事な肘を手術するっていう、ふつうの人間なら打ちのめされちゃう不幸にも遭っていたのよ。ほんとは、きっと泣きたくなってるはずだと思ったわ。もしそうなら、私のほうが神無月くんよりうんと幸せなわけで、その幸せを分けてあげることができると思った。もし私が、神無月くんを慰めてあげて、そのせいで神無月くんが私の腕に飛びこんでくることがあったら、そのときはどんなに愛してあげられるだろうって。遠くからこっそり思っているだけじゃ何にもならないって」
 雅江がハンカチを出して目を拭った。小夜子が言った。
「法子、あんた、どっぷり恋しちゃってるわよ」
 二つの大盆の鮨が届いた。吸い物も六人前。大盛りのわさび一皿。
「さ、あと三十分もしたらお客さんがくるから、早く食べちゃおう」
 小夜子が甘えびをつまんだとたん、私は大好物のアナゴを確保して頬張った。それからトリガイ、アオヤギ、赤身、シャコ、イカ、タコ、と休みなく食っていく。法子が呆れたように笑い、
「やっぱり、お腹すいてたんじゃない」
「さっきお母さんが鮨屋に電話しているのを聞いて、急にへってきた」
 母親が雅江の前に、五、六種類を皿に載せて差し出す。ウニ、トロ、イクラ、美しいあごを動かして食べる。法子と姉は競争するようにサーモンを平らげてしまった。鉄火巻を口に放りこみながら、ヨシエが茶をいれた。母親はゆっくり白身魚を食べている。十分もしないうちに二つの盆が空になった。守随くんの家で振舞われた鮨を思い出した。何かを一つ食べただけで、それきり手をつけないせいで干からびてしまった。鮨というものを初めて目にしたからだったかもしれない。小夜子が鮨盆を洗って、布巾で水気を取った。
「守随くん、熱田高校を中退したらしいね」
「いま東京で働いてるらしいわ。私、高一のとき同じクラスやったんよ。ボーッとして、ぜんぜん勉強ができん生徒で……心の病気やったみたい」
 雅江の話に法子は口を出さなかった。雅江が、
「いっしょに青木くんの見舞いにいったね」
「うん」
「青木くん、死んだよ」
「え!」
 法子が、だれのこと、と雅江に顔を向けた。
「守随くんや神無月くんたちといっしょに見舞いにいった子なの。脊椎カリエスで寝たきりやった。心臓が弱っとったらしいわ」
「またきてやってくださいって、お母さんに言われたのに、あれっきりやったね」
 小夜子が、
「親戚や親友でもないのに、二度見舞いにいく人はいないわよ。雅江ちゃん、あんたもっとちがうこと話したくて、神無月くんに会いにきたんじゃないの」
 また雅江は赤くなってうつむいた。法子が雅江の肩に手を置いた。
「雅江ちゃんて、ぜんぜん勇気がないんだから。中一のとき、私が神無月くんにアタックするって言ったら、がんばってね、なんて言っちゃって。そういうぐずぐずしたところ嫌いよ」
 法子は頬を真っ赤にして言った。小夜子が、
「あんたより雅江さんのほうが神無月くんを好きなのよ。そんなことくらい、友だちなら感じるでしょ。だからきょう呼んだんでしょ。だいたい、あんたのしてること、雅江さんに対する裏切りじゃない? 恥ずかしくないの」
 雅江がハッと法子の顔を見た。そして一瞬のうちにすべてを察したようだった。
「ちっとも恥ずかしくないわ。おかあさんも言ったけど、神無月くんはだれも拒まないのよ。安心してアタックすべきよ。そしていっしょに神無月くんに愛されればいいわ。私そんなことにこだわらない」
 雅江は、今度は青くなってうつむいていた。私は目のやり場がなかった。母親が、
「法子の言うとおりよ。愛は独占できないのよ。一人ひとり、好きな人に思いを打ち明けて、一人ひとり愛してもらうのよ。法子のしたことは何も悪くない。小夜子はまちがってるわ」
「自由主義者のおかあさんらしいわ。お母さんみたいな気持ちでいられたら、私、男と別れてなかった」
「あんたはその人のことを愛してなかったのよ」
「いらっしゃい!」
 二人組の客が入ってきた。ヨシエがおしぼりを出した。
「雅江さん、神無月くんに送ってもらいなさい。法子、ロータリーまで見送って」
「はい」
 小夜子が雅江にウィンクしながら、
「雅江ちゃん、バイバイ。イロ男、また会おうぜ」
 神宮小路に夕日が射していた。
「雅江ちゃん、気を悪くしないでね。神無月くんを好きだってこと、あなたに遠慮するわけにはいかなかったのよ。あなたにもがんばってほしいの。私は何も気にしないから」
 加藤雅江は私たちを無視して先へ歩きだした。夕日に赤らんだロータリーを横切り、信号で立ち止まった。法子は小声になった。
「じゃ、神無月くん、私ここで帰るね。いつでも待ってる。私と雅江さんは仲悪くならないから、だいじょうぶよ」
「くるときは電話するよ。さよなら」
 私はのろのろ、信号を渡っている雅江を追いかけた。わがままな女だと思う気持ちが足どりを遅くした。東門の鳥居の下でいびつな揺れが止まり、振り返った。
「お願いがあるんやけど……」
「何?」
「少し歩いてから」
 並んで歩いた。玉砂利が鳴った。二十五丁橋を過ぎ、南神池のほとりで足を止める。
「キスしてくれる?」
 私は彼女の真剣な表情に、大げさに狼狽してみせた。内心ホッとした。先に立って歩いていた様子から予感していたこととはちがっていた。キスなどたやすいことだ。あたりを見回す。暮れていくだけの境内に、まったく人影はない。
「雅江に似合わない言い方だね。まいったな」
「キスでも何でもできるはずやわ。北村さんに教わって……。いい人ね。西松の食堂で二度会ったわ。おうちへはそんなに急いで帰る必要ないんでしょ。……ノリちゃんとそんなことしたなんて、びっくりしちゃった」
 雅江はとっさに私の手を引いて、小暗い木蔭へ入った。そうして、草の群がり生えている一本の樹の根方に立ち止まった。低い陽が彼女の背中から射した。影がゆらゆらたなびいているように見えるのは、彼女が傾いているせいだった。見たところ、彼女よりずっと形の整っている健康な人びとよりも、その不調和なたたずまいのほうがいっそう微妙な美しさを湛えていた。私は目を瞠った。加藤雅江はあの教室でしたのと同じことをした。陽射しを背にスカートを腹までまくり上げ、ふくよかな片脚と、かつて動物の角に見えた片脚を曝した。先入観でそう見たが、悪いほうの脚はかなりふくよかになっていた。ちょっと見には、脚の太さが少しちがうなと思うぐらいのものだった。
「気持ち悪いでしょ。尖足(せんそく)っていうの。どうやっても治らんの」
「もう、やめなよ、そういうことは。それに、むかしよりだいぶ太くなってるよ。歩き方も、ほんの少し揺れるくらいになった」
「高校一年から尖足治療をつづけてきたから。……でも、気休めは言わないで。脚だけなんよ……あとは、ぜんぶ正常なの」
 雅江は片手を胸に、そして片手を局部に押しつけた。私は目をそむけた。
「神無月くんは、お医者さんになって治してやるっていつか書いてくれたけど、この脚、もう、これ以上治れへん。ううん、治してくれんでもええの。ただ、神無月くんがいつかひとりぼっちになったとき、私を思い出してくれればええの」
「ひとりぼっちって?」
「さびしくなったとき……」
 こみ上げてくるものがあり、私は静かな声で、うん、と言った。
「北村さんが好きだってことはわかってる。だから、いまでなくていいの」
 私は言いたかった。きみはきれいだし、頭もいい。神さまがちょっと意地悪をして細くしてしまった脚なんか、きみを気に入る男ならだれも咎めはしないだろう。でも、そんな慰めの言葉は、彼女のからだの上を滑って消えていきそうだったので、何も言わなかった。
「ごめんね。私、何年もしつこいね。……私、神無月くんのこと、好きよ。転校してきた日からずっと」
 加藤雅江は少し背が高くなったくらいで、からだつきにも物腰にも、まだ中学生のようなところが見えた。私は三年という時の流れを一瞬忘れ、あらためて彼女の顔を見つめた。ポニーテールの髪、かすかに開いた受け口、濃くて細い眉、少し上を向いた小さな鼻、曇りのない地黒の肌。彼女は透き通って、豊かだった。
「ほんとにきれいになったね」
「また。神無月くんのオハコやね。……あの会社、なくなってまったね。お母さん、いまどうしとるの?」
「中村区の飛島建設というところで、同じように社員寮の炊事婦をしてる。いっしょに暮らしてるんだ」
「そう、よかったね。やっぱり子供は親と暮らすのがほんとうやわ。……手紙、あの一通やないんよ。百通近く……ちゃんと机の中にしまっとる。神無月くんから一通でも手紙がきたら、小包みにしてぜんぶ送るつもりやった。私は愛する人がそばにおらんでも、その人を失ったとは感じんの。ずっと探してやっと見つけた人は、失うことはないんよ。そばにいなくても、たとえ死んどってもね。……キスしてなんて言って、ごめんね。押しつけがましいよね。恋人でもないのに」
 私は唐突に雅江を引き寄せて抱きしめた。
「神無月くん……」
 唇だけのキスをした。雅江は少し片足を浮かせ、眉根に皺を寄せながらふるえていた。私は目を見開いたままでいた。柔らかで、一途な、冷たい唇だった。彼女は積極的に応えようとする自分の唇を叱るように、私から身を引きはがした。
「ありがとう……うれしいわ。……私、きょうのことを一生忘れない」
 雅江は両手を揉むようにしてうつむいた。感謝されて、私はたちまち後悔した。かすかな同情がある。この女と深い関係にはなれない。
「お礼なんか―本気だよ」
「いいの。神無月くんがそうしたいと思ってくれただけで」
 雅江はそのままの姿勢で私の胸をさすった。
「相変わらず苦しそうやね。神無月くんの苦しみには、キスしてあげれんわ。私の手の届くところで苦しんんでくれとらんも。もう島流しは終わったんよ。神無月くんの人生は一段落ついたんよ。これからは新しい気持ちで生きていかなくちゃ」
 うっすらと霧がかかったように境内が暗くなった。私は薄闇の中で飛島寮の住所を手帳に書いて渡した。雅江は大事に畳んでスカートのポケットにしまった。
「三年待ったんやもん、しょっちゅう会ってくれんでもええんよ。私、神無月くんが好きやし、こうやってときどき顔見れるだけで幸せなんやから。できそこないの役割を自分に選んだんやから、しょうがないて思っとる」
 雅江は美しい鼻筋を私の胸に埋めてきた。私は彼女の髪を愛撫し、頭を抱いた。
「郷さん」
 と雅江は私の名を呼びかけた。
「いつも私がいることを忘れんでね。苦しいときも、悲しいときも、いつも」
 わがままな女ではなかった。私は加藤雅江の心に奇蹟を感じた。それは、痛々しい、世間離れした献身ではなく、彼女の臆病でやさしい、ひるまない意志の力が作りあげた光輝だった。
「もう、帰る。うちで心配するから。神無月くんも、はよ帰ったほうがええよ。お母さんに怪しまれたら、また名古屋におられんようになるよ」
 雅江は私の胸を手で押して池のほとりを離れた。そうして、一度も振り返らず、太鼓橋を渡って逃げるように帰っていった。不規則に揺れる背中が南門の鳥居の外に消えたとたん、湿った空気がゆっくり動いた。年月を経てわずかに改善された彼女の歩き方が目に残り、私は思わずうめき声を上げた。そして、できそこないの役割と彼女が言ったときの魂に沁み通るような響きを思い出して、橋にたたずんだまま涙を流した。
 私は自分のしたことにぼんやり戦き、参道をさまよい出ると、とぼとぼロータリーへ戻っていった。カズちゃんは、いつかあの子を抱いてあげて、と言った。私はふと、唇を離したときに雅江の目に灯った感謝の光を思い出した。あの光は善行を施された人間のそれだった。しかし私は一瞬、ほんとうに雅江に愛を感じたのだった。


         五十二

 五月二十七日土曜日。雨もよい。花の木に寄らずに帰り、飛島さんの高級ステレオでブラザーズ・フォーのトライ・トゥ・リメンバーを聴いていた。じつに輪郭のハッキリした透き通った音で、これに圧力が加われば花の木のステレオに比べても遜色のない音を出すだろうと思われた。母が手紙を持って上がってきた。
「山口さんからだよ」
 なぜか機嫌がいい。ゾッとする。
「サンキュー」
「ちゃんと後片付けしてから降りておいで。ソーメンゆでたから」
 トモヨさんの出産予定日がわかったら知らせてくれという内容が主だった。十八歳の父親というドラマを楽しんでいいのか、気の毒がればいいのかよくわからない、とにかくめでたい、と書いてあった。見せろと言われたら危ない手紙だ。思わず山口も油断したのだろう。私は手紙を読み終えると、二つ折りにして尻ポケットにしまった。食堂に降りていって、『おはなはん』の週末総集編を観ながらソーメンをすすっている母に言った。
「山口もがんばってるみたいだし、さあ、ぼくも猛勉強だ」
「山口さんはもともと東京の人でしょ。なんで青森にいたの」
「父親の北海道転勤で東京から札幌にいき、青森転勤で青森市にきて、東京再転勤についていかずに居残った。父親の転勤のたびに転校を繰り返すのはもうこりごりだって。ぼくに心中するみたいに転入試験を受けたけど、戸山高校は全国三本指の高校だから、彼にとっては一か八かの試験だったんだよ」
 母は刻んだネギをつゆに入れ、山盛りのソーメンを出した。
「高田馬場の戸山かい。なつかしいね。おまえを野辺地に預ける前、一年ほど戸山で暮らしたんだよ。憶えてないだろうね。二歳かそこらだったから」
 母は煙草を吸いつけた。思い出にふけるように目を細める。
「かすかに記憶があるな。そこで、ぼく、三輪車なくした?」
「そうそう、買ったばかりのね。熊本を出て、野辺地に帰るに帰れず、途中下車して、戸山の建設現場で一年暮らしたんだよ」
「そのころから飯場暮らしだったんだね。でも、なぜ帰るに帰れなかったの」
「大吉の母親がね、熊本駅のコンコースで、大吉から渡された金をほとんど取り上げちゃったんだよ」
 軽蔑に怒りが加わった奇妙な不快感が昇ってきた。
 ―父が金を渡した? そのとき父は熊本にいたということか。たしかサトコと遁走したのではなかったか。駅に婆さんが見送りにきたって? 母は神無月一家を見かぎり、私を連れて熊本から出奔したのではなかったのか。
 ソーメンをすすりながら思いめぐらす。サーちゃんのツバ……悪気のある嘘を何の内省もなくつける先天的な嘘つきなのかもしれない。父との歴史もすべて作り上げたものだろう。母の来し方は謎だ。彼女の迷彩の効いた人生に比べれば、私のそれはじつに素朴で平明だ。
 勉強部屋に戻り、出産予定日は八月中とのこと、命の誕生は神秘的で楽しいものだ、めでたいと言ってくれてありがとう、勉強順調なり、しかし、いろいろ忙しい事情の中で生きている、というハガキを丁寧な楷書で書いた。末尾にひとこと《光の中 独りで歩くより 闇の中 友と歩く―ヘレン・ケラー》と書き添えた。
 ふと、詩興が湧いて、書き出してみた。それは新たな人生に埋没するための、ひたすら私的なものだった。

  私の美しい詩は
  明度の低い憂愁の色だけをパレットに載せるばかりで
  土色の明るい充実とぬくもりを描かなかった
  もう十五歳を持ち歩くことはない
  紙の上に残して出発する
  これからは愛する者たちの影の中へ溶解していく


 できばえも悪いものだったので、私は×印を打ち、ノートを閉じた。思わず×印を打ってしまったけれども、カズちゃんもこれはひどいと判断してくれるだろう。
         †   
 翌日の日曜日、花の木の家からの帰る名古屋駅までの道で、カズちゃんに言った。
「カズちゃん」
「なに?」
「ぼくにはカズちゃんしかいない」
 夜道にたたずんで、長い口づけをした。
「お父さんに聞いたわ。中日スポーツに書いてあったって。今年の暮れ、十二球団中最低八球団はキョウちゃんを一位指名するだろうって。甲子園組でないのに、そのうえ現役で野球をつづけていない選手なのにここまで注目されるのは、プロ野球史上初めてのことらしいわ。秋にうるさいことになりそうね」
「プロ入りはとっくに断ってる。だからドラフトにはかからない。うるさいことにはならないよ」
「そうね。そう願うわ。大学野球だろうと何だろうと、つづけられるかぎり、キョウちゃんには野球をつづけてほしいの。たくさんある才能のうち、一つだけでも伸びのびと発揮してほしい。悩みの多い人生だけど、東大に入ったら、そのときにまた悩みましょう。東京でキョウちゃんの野球を観るのが楽しみ」
 心からうれしそうに笑った。
         †
     伝説つづいていた!
            
北の怪物ひそかに庄内川河川敷で特訓

 飛島の社員連中は中日スポーツのその記事を見て騒ぎ立てなかった。かえって静かになった。だれも記事のことは母に言わないようにしていた。西高も静かだった。じつにありがたい黙殺だった。しかし、野球王国愛知県の生徒たちが野球そのものに関心を失うはずはなく、プロ野球の話題は教室のあちこちでかしましかった。いわくジャイアンツ十三連勝、いわく長嶋三割、いわく王十八号、いわく金田八勝。すでに権威の確立したものへの礼讃は惜しまないのだった。
 そこへ翌日の火曜日、CBCテレビと名乗って、カメラが教室に闖入してきた。信也の数Ⅲの授業が終わって昼休みになったばかりのときだった。明るいライトの中で、うるさいインタビューが始まったので、私は表へ逃げ出し、仲間の目を気にしながら校庭で質問に答えた。
「プロを回避して、大学へ進まれるということですが」
「そうです。大学在学中にでも誘ってくれたら、そのときまた考えます」
「やはり、中日ドラゴンズを希望ですか」
「もちろんです。それ以外考えてません。ドラゴンズの選手として野球をやることが小さいころからの夢でした。森徹のホームランボールを帽子で受け止めた瞬間に、はっきりと決意しました」
「ドラフトに中日が一位指名して交渉権を得た場合は、どうしますか」
「そういう場合のハズレが怖いので、最初からプロ志望届を出さず、ドラフトそのものをお断りしています」
「そこまで大学受験にこだわるのは?」
「とぼけてるんですか? これまで新聞に発表されているとおりです。疑うなら、岩塚の飛島寮にいる張本人にインタビューしたてみたらどうですか」
 危ないことを言った。しかしこの手のフィルムは十数秒も流れないと知っている。世間は政治経済で忙しいのだ。
 ―最初からプロ志望届を出さず、ドラフトそのものをお断りしています。大学在学中にでも誘ってくれたら、そのときまた考えます。
 その二つの応答だけがサッと流れるだろう。
「来年の受験まで、何か、基礎訓練のようなものはつづけていますか」
「走ることと、筋トレだけです。大学であらためて鍛え直します」
「名城大学付属高校との合同練習もなさってますね」
「ランニングに参加させてもらってるだけです。からだを鈍(なま)らせないためのものです」
 教室からみんな顔を突き出して眺めている。信也まで興味深そうな目で見つめていた。土橋校長が出てきて、
「きみたちはだれの許可を得て、こんな失敬なことをしているんだ。帰りたまえ! 放送局側に正式な手段で苦情を入れますよ。むろん放送することもならん!」
 と一喝した。デンスケとカメラマンたちはすごすごと引き揚げていった。助かった。これで放送されずにすんだ。
「神無月くん、だいじょうぶかね。どうも、教頭が学校の評判が高くなると考えて取材を受けたらしくてね。叱っておいた。今後こういうことはきつく戒めるから、気を取り直して勉強に励んでくれたまえ」
 と言って、すたすた校長室へ戻っていった。信也が迎えにきて、
「たいへんだったな。あんなことしょっちゅうされてたら、受験どころじゃなくなる。校長も思い切ってよく言ってくれた」
         †
 水野尚宏というクラスメイトと何となく気が合って親しくなった。彼は眉の濃い、ギョロリとした目つきをして、天然パーマの分け目をいつも指先でいじっているようなスカシた野郎だった。美男子然として、何ごとも風の吹くままという顔をしている。私は彼のけぶったような一重まぶたが気に入っていた。どことなく康男の目に似ていた。
 水野は、私と同じような理由で理系クラスを志望した男だった。逆境に身を置く爽快感というやつだ。その逆境の中で、私と同様、彼も文系受験を目指していた。総合成績では鈍才だが、青高の小田切と同様、特定科目の(地学)に異能を示す人物で、仲間内では相当な変り種と見なされていた。彼は外国文学に通暁していた。並外れた読書家で、洋の東西を問わず、名の通った外国文学はほとんど読破していた。教室での会話にも、頻繁に新旧の海外の文学者の名前が出てきた。現国の成績も全校の三本指から外れたことがなかった。
「いつか模擬試験の国語でおまえを抜きたい」
 が口癖だった。
「得意科目の国語でおまえごときに抜かれたら、ぼくは東大落ちるよ。抜かせない」
 彼はオブジェという言葉をしきりに口にしていたので、それは何のことだと訊くと、
「客観だよ、オブジェクティブ」
 と言った。
「きちんとオブジェクティブと言えよ。サブジェと言わないだろう。オブジェといったら、前衛のガラクタの寄せ集めをイメージしてしまう」
「野球少年がいつのまにそんな知識を仕入れたんだ」
「自然とね。おまえほどじゃないが、これでも読書家なんでね」
 彼は数学こそオシャカだったが、ほんとうに地学が得意だった。物理や化学は勉強せずに、地学ばかりやっていた。彼の地学好きは堂に入っていて、その成績は校内ばかりでなく全国模試でもトップクラスだった。彼の自慢は、陰毛が直毛であることで、教室のだれかれになくその事実を明かし、
「ほんとか?」
 と疑われると、ごそごそ下腹に手を入れ、二、三本陰毛を抜いて見せた。たしかに髪の毛のように真っすぐだった。
 六月初旬の日曜日に、教室で約束していたとおり、東山公園にある水野の家に遊びにいった。河原の練習を終えたあとだったので、笹島まで自転車を漕ぐのがきつかった。肌身離さず持っているカバンを手に、黄色い地下鉄東山線に乗った。名古屋から栄までは混んでいたが、栄からは不気味に空いた。今池を過ぎて東山公園に着いた。
 水野がメモした紙切れを見て電話する。西口で待つように言われた。すぐに自転車で迎えにきた。サマーセーターを着ている。自転車を牽く水野と、できたての白いコンクリートの広い坂道を登っていく。コンクリートに見えるが、白いアスファルトなのかもしれない。切り通しの道の両側にほとんど建物がない。
「新興地だからな」
 切り通しの崖の上にこれから家が建つという意味だろう。登り切って下り、ふもとの辻を左折すると、閑散とした住宅地になっていた。ポツンポツンとしか民家がない。
「オヤジが建てたばかりの家だ」
 いちばん手前の一軒を指差す。玄関に入ると家族の気配はなかった。
「家の人は?」
「おやじは今池のパチンコ屋の社長、おふくろと姉貴は遊山好き。休日の家の中はサッパリしたもんだ」
 二階の勉強部屋に上がる。部屋の壁が、すべて書棚にしつらえられていて、新旧の評論書がぎっしり並んでいた。わざとらしくない知性の香りがにおった。
「知識のオンパレードだね。これ、ぜんぶ読んだの?」
「壁飾りにきまってるだろ。この手のものはほとんど読まない」
「そうか、安心した」
 この数年のあいだに、ここに並んでいるような知識のかけらを幾度か拾ったことがあったけれども、それを自分の生き方にどう投影させればいいのか思いつかなかった。活字が乾いている。情緒もなく、敬虔な思いなどもちろんなく、野蛮な学術用語だけが幅を利かせていた。こんな文章でも、千年平畑の勉強小屋の机の裏に貼りつけた三文エロ雑誌よりはましだと言うのだろうか。着想は優美で、仕事は丹念だけれども、頭の中の戯れにすぎない。


         五十三

「おまえのこれまでの人生を、ふたこと、みことで語れ」
「ぼくと話したいんじゃなく、話させたいというわけだな」
「まあな」
「単純なもんだよ。野球、勉強、女」
 水野がほんのり頬を染めた。純真な男だとわかった。
「三単語で語れといったんじゃない」
「なるほど。……青森県野辺地町の養親のもとから、母にくっついて、三沢、横浜、名古屋と転々した。島流しを喰らい、ふたたび野辺地、名古屋と往復した。以上」
「三単語に近いが、いいだろう。その間の事情はツトに知れてるからな。いや、知れてないか。西高の連中はほとんど知らん。しかし、けっこう忙しい幼少年時代だ。単純とは言えない。……しかし、新聞の話、ほんとうだろうな」
「瞬間的な嘘は平気でつくけど、時系列的な嘘はつかない」
「だとすると、大天才か―。欠員があったおかげで、西高は大儲けだ」
 大きい和猫が二階に上がってきた。
「くるな、ミルドレッド!」
 水野は怒鳴って、容赦なく蹴飛ばした。私がびっくりすると、
「猫は嫌いだ。犬は好きなんだが、家族が猫好きでな」
 と苦々しい顔で言った。
「ミルドレッドって?」
「モームの人間の絆だ。知らんのか。悪女でな、最後は梅毒で死ぬ」
 読んだことがあったが、女の名前は憶えていなかった。女が梅毒で死んだ記憶もなかった。
「じゃ、アベ・プレボーのマノン・レスコーは」
 それは読んだことがなかった。
「無知を誇るわけじゃないけど、ぼくには教養がない」
「知恵はあるというわけか。それは認める。忙しく生きてるやつの特徴だ。おまえはあわただしく生きてきたやつにちがいない。そういうやつには、捨て身の諦念がある。新学期のホームルームでぶちかました〈人生設計〉の話、俺たちのあいだで好評だったぜ。いまも忙しくしてるんだろう?」
「そうだね。で、猫の名前の話はどうなったんだ」
「マノンてつけるか、ミルドレッドってつけるか、最初は迷ったが、悪女ぶりがリアルなミルドレッドにした。……おまえの野球休暇なんだけどな。少しでも長く自分の才能に希望を持っていたいから、事実にぶつかるのを延ばしてるってことはないのか」
「えらくシニカルな見方をするもんだな。ぼくは小学校以来、ずっとホームラン王だよ」
「うーん、だとするなら、ますますわからん男だ。俺がおまえなら、東大なんか捨てて、さっさとプロへいくな。早く才能ある連中の中にまぎれこみたいから」
「親の承諾がないと、未成年はプロへいけないとだけ言っておくよ。才能というものに懐疑的になったり、スポーツ選手を白痴扱いする人間の性向を研究したほうがいいぞ。母親に白痴でないことを証明して、ようやく晴れて野球をやらせてもらえるというわけだ」
「わかった。プロ野球規約とおふくろさんの先入主に殺されてるわけだな。典型的なマザコンだ。よく絶命しないもんだ」
「死なない。女に愛され、冒険して、挫折する、それ以上の快楽はない。この快楽こそ〈現瞬に生きる〉ということだ」
「別に挫折しなくてもいいだろ」
「挫折のない人生は、生きる迫真性がない」
 水野は晴ればれと笑って、
「インスタントラーメン作ってやる。チキンラーメンじゃないぞ。サッポロ一番。ちゃんと湯通ししてから、キャベツとネギと玉子を入れてな。うまいぞ」
 あの正月、西田さんもそんなふうにした覚えがあった。 
「おまえのストーリー、細かいところに隠蔽はないか」
「たとえばどういうところ?」
「ほんとは、自分が東大にいきたいとか」
「それはないな。中京大でも名城大でも、母が入学を許してくれて、入部を許してくれるなら名古屋のほうがいい。ドラゴンズに近い」
「許さないか」
「東大信奉者が許すはずがない。東大でない一流大学にしても、入部には親の同意と捺印が必要だ。同意が必要でない大学も多少ある。東大がそうだ。入部届だけでいい。京大も同じ。たしか早稲田もそうだったように思う。しかし東大以外を受けると言えば、日々愚痴を聞かされることになるだろうし、臆病者などと人格攻撃までされて気持ちがクタクタになる。受験どころじゃない。いま安定した生活を送っていられるのは、東大を受けると宣言しているからだ。魅力的な早稲田はあらかじめ入部者が決まっているしね」
「八方ふさがりだな」
 うまいラーメンを食った。見送りを断り、切り通しのてっぺんの空を見上げながら帰った。
         †
 うつ伏せになった耳に、日本史の教師の声がかすかに聞こえてくる。めずらしくこちらを向いて、滔々と弁じ立てている。わけのわからない内容だ。わけのわからないことには反射的に記憶装置が起動することになっている。ただし、作動しつづけるための酸素が不足するせいで猛烈な眠気が襲ってくる。それと闘わなければならない。
「先月、五月二十日にアラブ連合がアカバ湾を封鎖した。同時に、サウジアラビア、イラク、クウェート、レバノン、シリア、アルジェリアのアラブ諸国は、続々と軍隊をイスラエル国境に集結させた。イスラエルは完全に包囲されたわけだ。アカバ湾は、イスラエルが紅海に出る唯一の水路であり、イスラエルが使用する石油総量のじつに九十パーセントがここを経由して運びこまれている。イスラエルは、ナセルの手で喉もとに匕首を突きつけられた。遡って一九四一年十二月八日、御前会議によって日本は経済封鎖打破のため開戦を決定、宣戦布告のニイタカヤマノボレの打電連絡を、第一航空艦隊がオアフ島近辺で受信し、艦機にZ旗を揚げた」
 Z旗って何だ? 眠い。
「第一航空艦隊はパールハーバー北部へ急行接近した。北東の風、強風なれど、攻撃機空母より発進す。零戦四十三機を含め二百七十一機の大軍だ。午前七時五十分、淵田少佐率いるこの攻撃機軍は、低空編隊を組みパールハーバーを強襲した。奇襲作戦成功す。トラ・トラ・トラ。淵田少佐はこの成果を機上より打電した。この打電は、全世界をふるえあがらせた」
 私は眠気を追い払うために、むっくり顔を上げ、挙手した。
「Z旗って何ですか」
「旗による信号だ。日本海海戦開始時、連合艦隊司令長官東郷平八郎が全軍に令した旗信号だ。黄、黒、赤、青の四色旗は国際規約でローマ字のZを表す。わが海軍はおそらく〈あとがない〉という独自の意味を付与したんだろう。神無月は寝とれ。さて、ここからが本題だ。日本もイスラエルもちっちゃな国だ。歴史は二十六年前の日本の事情を正確にイスラエルに再現させようとしている。イスラエルはいまや完全に包囲された。軍事力においても物量面においても、アラブのほうがはるかに優勢だ。日本は最終的には負けた。しかし、敗戦から今日の繁栄を築いた。イスラエルも最終的には負けるだろう。しかし立ち直ればいいんだ。ただし、トラ・トラ・トラを敢行してのちの繁栄でなければならない。ナセルはイスラエルが手も足も出ないと思っていた。戦争に踏み切るつもりはなく、アラブの実力を示し、世界外交の桧舞台に立つことこそが彼の目的だった。トラ・トラ・トラがないと油断したのは、ナセルの最大の誤算だったかもしれない。六月五日、イスラエル空軍はアラブの空を制圧した。アラブ連合は必死の反撃を試みたがどうにもできなかった。戦いは百三十時間でイスラエルの圧勝に終わった」
 また手を挙げる。
「いずれ、イスラエルは敗北するということですか」
「ええい、神無月はうるさい! 寝とれと言っただろう。歴史がどう動くかなんてだれにも予測できないんだよ」
 何のこっちゃ。教室じゅうが大笑いになった。
         †     
 水野が言い出し、翌週の日曜日、二人で愛知と三重の県境の多度山へ日帰りのハイキングにいくことになった。カズちゃんに、庄内川の練習を一日休むと連絡していたが、いい具合に前夜から雨でグランドがぬかるんだので、おのずと練習も中止になるようだった。
 学生服に運動靴を履き、合羽をカバンに入れた。休日の朝七時には、食堂にも駐車場にも人影がない。母でさえあと三十分は起きてこない。日曜日のめしはいつも九時からだ。
 六月十一日、かすかな霧雨の中を岩塚からバスで名古屋駅に向かう。八時を指している大時計の下に、水野がやはり同じような格好で待っていた。
「雨天決行か」
「ああ、名古屋駅から近鉄で桑名まで二十分、桑名から養老線で多度駅まで十五分」
「そんなに近いところとは思わなかった」
「多度山は小雨だろう。合羽が要る。そろそろ桜桃忌だな」
「うん。十九日か。十三日に山崎富栄と玉川上水に飛びこんだ」
「死体の上がった十九日は、太宰の誕生日だった。命日じゃない。命日は十三日だ」
「へえ、知らなかった」
「桜桃忌とだれが名付けたか」
「今官一」
「彼の直木賞受賞作は」
「知らない」
「壁の花。太宰の墓があるのは」
「三鷹禅林寺。東京へいったら、見にいく」
「彼の最高傑作は?」
「きりぎりす」
「へえ!」
「水野は?」
「ぜんぶ」
 そんな話をしているうちに多度駅に着いた。まだ九時にならなかった。水野が言ったとおり小雨が降っている。
「西高までの自転車通学より近いな」
「ここから歩きだ」
 水野に倣って合羽を着る。多度川から北方、霧雨の中に横たわる多度山が見える。
「四百メートルの山上から濃尾平野が一望のもとに見える。登山口から三キロ半だ」
 水野が切れ長の目で見上げる先を、私も見上げる。雨空しか見えない。
「きょうは雨だから、あかんな」
「水野は、ここにきたことがあるのか」
 私が尋くと、彼はにやにやして、
「高一のときにな。中学のとき桑名に転校してった女の子に会いにいった。そのとき、彼女の家族とみんなで登った」
「へえ、二人で登りたかっただろうね」
「そんな度胸ないよ。しばらく文通してたけどな。こと女に関しては、度胸はない。おまえとは大ちがいだ」
 私は笑って、
「なんで十八にもなって女を知らないんだよ。太閤遊郭だってあるだろうに。男どもに直毛なんか自慢してもしょうがないだろ。女に見せてやれ」
 ニヤニヤしている。
「ふん、おまえみたいに忙しく暮らすのは性に合わないんでな」
「好奇心の幅が広いと言ってほしいな。水野も、頭の働く男によくある伝で、自分の知っていなければならないと思うことしか知ろうとしないし、自分が信じて都合のいいことしか信じようとしない。女もじゅうぶん知って、信じなくちゃいけない。好奇心の結晶物だからね」
 



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