五十七

 また今年も三十度を越える日々がやってきた。夏休み前の何日か、体操の授業が水泳に切り替わった。あの奥まった木立の蔭の二十五メートルプールだった。私は真っ白いからだをプールサイドに曝した。何人もの仲間たちが寄ってきて、私の肩や胸に触ったり、腹を指先で突いたりした。
「餅―」
 と横地が言い、
「やかん」
 と鈴木トオルが言った。青高のプールでからかわれなかったのは、私と同じようなヤカンがたくさんいたからだろう。水泳部顧問の花岡が、
「柔らかそうないい筋肉してるな。クロールは?」
「できません」
「平泳ぎは?」
「できます」
 自信ある者、と呼びかけて挙手させ、
「神無月と競争してみろ」
 ラグビー部の岡部が手を高く差し上げた。花岡の笛の合図で飛びこみ、からだ二つ分引き離して勝った。青高のころとちがって、泳ぎ終わって吐かなかった。やんやの喝采になり、杉浦とトオルが胸と背中を叩いた。
「夏の県大会に出てみないか」
「出ません。野球と筋肉の使い方がちがいますから」
 花岡は残念そうにうなずいた。
         †
 夏休みに入る前日の二十日に、第二回の実力試験の成績表が返された。今回も汚名をそそぐことは叶わず、校内の十傑を外した。信也に呼び出されて、こんこんと説教され、食堂では激怒した母が社員たちの前で面罵した。
「このタフランケ。私はむだメシ食いを飼ってるのかね。自分の口も養えないガキの世話をしているのも、そいつに見どころがあると思えばこそなんだよ。これじゃそのへんで拾ってきた犬か猫にお慈悲を施してるようなもんじゃないか。やっぱり見かけ倒しだった。ほとほといやになったよ」
 安定しかけていた母との関係が一挙に振り出しに戻った。しかし、母がほんとうに残念がっているのではなく、してやったりと思っているはずだと確信している私は、むかしのように怒り心頭に発することはなかった。この空しさの混じった、ざわざわした気分が私には正常な状態だ。生活に張りが出る。悪意には秘められた幸福がある、とユーゴーも言っている。その幸福のじゃまをするのは億劫だ。私は顔に能面をかむり、めしを食いつづけた。大沼所長が、
「佐藤さん、女子と小人はなんとやらの状態になってるよ。あんたらしくない」
 柔らかくたしなめ、私に微笑した。
「キョウ、どうして成績落ちたのか、自分ではわかってるんだろ」
「わかってます。入試科目にない数Ⅲと、物理・化学のせいです。校内実力試験は全国規模の模擬試験じゃないんで、希望通りの科目を受けられません。関係ない科目も受けなくちゃいけない。全科目を猫っ食いする野郎たちの天下です」
「実力も根性もないくせに、大口叩くんじゃないよ!」
 母が怒鳴った。所長も少し声を高めて、
「佐藤さん! 全国模試は一位か二位なんだ。学校の試験ぐらい何の心配もいらないよ。目先のことで騒ぎすぎだ」
 佐伯さんが、
「おばさん……もっと郷くんを愛してあげてよ。これじゃあんまり」
 所長が佐伯さんにうなずき、
「佐藤さん、キョウの言ったとおり、学校の試験と入試は別物なんだよ。俺にも覚えがある。バカらしくなって、学校の科目を勉強しなかったせいで相当成績が落ちたことがある。全国模試さえよければだいじょうぶだ」
「そういうもんでしょうか」
「キョウのほうが受験のプロだよ。まかせておけばいい」
 飛島さんが、
「いわゆる、受験の二重構造というやつですね。学校でいい成績を取ることと、入試の合格は別ものだという」
 三木さんが、
「それそれ、入試は得意科目で得点を稼いで、あとは適当に流すというやつ。じゃ、キョウちゃん、三年生の校内試験は定期試験も実力試験も期待できないな」
「できません。全国模試だけを目安にします。土橋校長先生はそれがわかっているみたいで、もう何も言わなくなりました。うるさく言うのは担任だけです。その担任、数Ⅲを教えてるんです」
 所長が、
「受験科目の勉強は、おさおさ怠りないんだな」
「はい。日本史と世界史が不得意ですけど、受験必須科目ですから努力しています。あとはぜんぶ、だいじょうぶです」
「聞いたろ。佐藤さん、何の心配もいらん」
 母の苛立ちのもとだとわかっている西高のインタビューのことも、庄内川の新聞記事のことも、今夜はだれも口にしなかった。ありがたかった。私はそっと箸を置くと、バラック小屋に引っこんだ。すぐに佐伯さんが追いかけてきて、封書をそっと差し出し、
「お母さんの目に触れたら危なそうだったんで、きのう郵便受けから抜いておいた。風邪気味で会社休んでたから」
 表書きを見ると木谷千佳子からだった。
「ありがとうございました。青森高校の同級生からですが、女名の手紙はどんなものでも母の不機嫌のもとになりますから、助かりました」
「きょうのことはお母さんが悪い。気にしないでね」
「はい。気にしてません。だいじょうぶです」
 木谷千佳子の手紙には便箋が三枚入っていた。いまは神無月くんのじゃまをしないよう心がける、神無月くんが大学に入ったらあらためて訪ねていきたい、睦子さんは鬼のように勉強している、私もどこまでできるかわからないが懸命に国家二種の勉強をしている、苦しい季節だろうが神無月くんもがんばって乗り越えてほしい。そんな素朴な内容が書きしたためてあった。

 私の家は貧乏なので、もともと進学するつもりはありませんでしたし、たとえ大学へいかせてもらえるにしても、弘前大にせよ、岩手大にせよ、下宿代や生活費を捻出するとなるとアルバイトをしなくてはいけなくなりますから、大学にかようどころではなくなります。とにかくこちらで二十一歳までは家計の手助けをしながらアルバイトをして、二十一歳になった四月に国家二種を受けます。二十一歳からしか受けられないことになってますので。国家二種というのは、国家公務員二種試験のことです。一種は省庁の幹部候補になるための試験ですが、二種は省庁の地方出先機関の幹部候補になるための試験です。勤務地も地域内なので、青森市役所に勤めたら、もう異動の心配がありません。青森に骨を埋めると思います。できれば青森市役所に就職するつもりです。

 折り畳んだ新聞記事が同封されていた。

     
小笠原きょう初戦
         
青森高校・最速百四十九キロ右腕
  県下最速右腕小笠原照芳投手(三年)を擁する青森高校が十六日、青森大会初戦を迎える。注目の小笠原の登板については、すでに複数のプロ球団が青森高校の全試合視察方針を決めている。入団そのものに関してはプロスカウト間でも情報が入り乱れる。小笠原自身は「神無月と大学野球で戦いたい」との意向で、現在プロ志望届を出していない。十一月まで届が出されない場合、彼はドラフト対象から外される。これを受けてすでに早稲田大学から入部勧誘の動きがある。青森市営球場で午前十一時半から行なわれる木造高校戦は、青森放送などがテレビ中継する。


 四日前の試合に勝ったのかどうかは不明だった。
         †
 七月二十一日の金曜日から夏休みに入った。河原の練習と図書館がよいの日々が始まった。カズちゃんと菅野も毎朝庄内川のグランドに駆けつける。蒸し暑い簡易ベンチの奥で二時間余り見学。高校自体が甲子園予選に入っているので、練習に熱が入る。練習がすむと、カズちゃんたちはユニフォームとグローブを受け取りクラウンで帰っていく。たまに自転車で中村図書館へいった私とトキワで待ち合わせ、三人でビーフシチューライスを食べることもある。そういうときはクラウンで花の木へ送ってもらい、カズちゃんとひとときをすごしたあと、もう一度菅野に花の木に迎えにきてもらって、自転車を停めてある中村図書館へ戻る。
 二十二日の土曜日はそうする日だった。トキワのテーブルで、
「……いつか話した大門の素子」
「ええ、とてもいい子ね」
「半年働かなくていいだけの金を渡した。二月に東京へ連れていく」
「―決めたのね」
「うん。決めた。何カ月もぼくをあの場所で待ちつづけてた。口約束しただけなのに」
「きっと運命の子ね。東京にいくまでこっそり目をかけてあげる。安心して」
「ありがとう。愛してる」
「百万倍。お金足りてるわね」
「うん、たっぷり」
「トモヨさんの出産はまだだよね」
「来月だと思う。だいじょうぶよ、ちゃんと私がついてるから。気を使わないで勉強して」
 菅野がしみじみ、
「素子もシンデレラになりましたね。トモヨさんも文江さんも―」
「私もよ」
「きょうはひさしぶりに花の木に寄る日ですね」
「うん、寄る日」
「じゃ、四時に迎えにきます」
 菅野の車が去ると、玄関で抱き合い、狂おしくキスをする。スカートの下の潤いに指を浸して、一息つく。カズちゃんもズボンの上から握り締めて、ホッとした表情をした。
 キッチンテーブルで、実力テストの結果を知らせる。母の態度を詳しく話した。カズちゃんはまったく意に介さない。
「模擬試験の全国一位と二位は、有無を言わさないものよ。所長さんたちもそのことを言ってくれたんだから、ぜんぜん心配なし。それにしても、定期試験とか実力試験てクセモノね。どうにかならないの」
「ならない。トモヨさんはどうなった?」
「もう、パーンてふくらんでる。いざというときのために、ずっと北村席にいるわ。賄いの子が二人交代でついてる。どんとこいよ。いまはとてもキョウちゃんに興奮できるような状態じゃないから、出産前に顔だけ見せてあげて。それで不安な気持ちが吹っ飛ぶでしょう。あ、そうだ、松葉会から電話が入って、大将さんが戻ったんですって」
「やった! 宮中の校庭からちょうど二年か。どんな顔になったんだろう。なんだかドキドキする。いついこうかな」
「あした早速いきましょ。名城付属のほうへは電話入れとくわ。宴会になるでしょうから、昼少し前がいいわね。連絡しとく」
「来月は、山口がくるよ。赤ちゃん、見せられるね」
「そうね。男かな、女かな。なんだかわくわくする。産むほうはたいへんよね」
 縁側に出て庭を眺める。小学校の桜の徽章のような白丁花(はくしょうげ)が生垣に満開だ。
「あのオレンジ色の花が咲いてる木は石榴だね」
「そう、秋には実がつくわ」
「あの味と種の舌触りは苦手だ。野辺地の山道で義一と食った。でも花はいいな。―とわにあれ、石榴の花も、ほほえみも。加藤楸邨(しゅうそん)」
「だいじょうぶ、キョウちゃんといると悲しいことがないから、いつも微笑んでいられる」
 高い青空を見上げる。
「名古屋は暑いなあ。去年まで寒い土地にいたことが信じられない」
「もう二週間も三十度以上。あしたも暑いわよ」
「おやつの時間だ。そうめん、大盛り。氷載せて」
「はい。いまからごはん炊くから、四十分ぐらい時間潰して」


         五十八 

 二階に昇り、ステレオをつける。ひさしぶりにスカイライナーズのジス・アイ・スウェアと、シンス・アイ・ドント・ハブ・ユーを聴き、満足して針を上げる。どちらの曲も、浅間下の商店街から流れてきたものだ。名古屋に転校する直前だった。それから五年経って、野辺地のレコード屋の洋盤コーナーで、偶然EP盤を見つけた。
 机に向かい、カズちゃんの書棚の『破戒』を開く。
 丑松と銀之助の交友を、私と山口との友情に重ねて読む。私と康男は? 康男との友情は特殊だ。物語と名のつくものには登場しない。読み進む。善人、悪人、背景的人物。きっちり書き分けられている。
 身分というのは、それほど苦悩の素になるものなのだろうか。それほどの苦悩なら買ってみたい。部落民に生まれたかったと痛切に感じる。人格を押しひしぐほどの苦悩。謝罪と逃避のみが残されている苦悩。
 しかし、苦悩のもとはやはり上昇欲だろう。それがないかぎり、人は苦悩しない。私は脳の一部をやられたように上昇欲が欠落している。苦悩の人生に対して分が悪い。苦悩したくても苦悩できない。上昇欲に基づかない的外れの苦悩はお手のものだけれども……でも、せめて行動だけでも、崖っぷちを歩くようにしなければ私は原生動物と化してしまう。人間は簡単に壊れる。上昇欲がもとの真の苦悩であれ、他から翻弄されることがもとの的外れの苦悩であれ、とにかく苦悩が人間を壊す。苦悩など抑制できると錯覚し、できないとわかり、無力さを受け入れ、上昇の夢や翻弄される心もまた壊れる。しかし壊れる人間こそ、人間らしい人間だ。苦悩に満たされた人こそ幸いなるかな! 
「できたわよォ!」
 下からカズちゃんが呼ぶ。降りていって、氷水に浸したそうめんに歓声を上げる。手製の麺つゆを飲む。
「うまーい!」
「よかった!」
 ネギを落とし、ショウガを落とす。湯気を上げているキャベツとナスの油炒め。箸でつまんで噛みしめる。
「うまい! 名人だ」
「ありがとう」
 そうめんをすすりながら考えつづける。
 深い、永遠の苦悩―人間の愚かさへの絶望や、愛の喪失に対する絶望。それに絶望することができないなら、そのまま自死することを願うべきだ。
「何考えてるの」
「あたかも悩んでるという格好をつけてるような人生から、そろそろ抜け出なくちゃいけないなと思って。じつはぼくには悩みなんかないから、瀬川丑松が悩んで、悩み抜いて、挙げ句の果てにテキサスを目指したような人生は送れないんだ」
 カズちゃんは最後の一口をすすり、
「破戒ね。悩みと戦いの文学。丑松が小学生たちの前で、私はエタです、いままで騙してきてすみませんでしたって謝るのは、くだらないことで悩むのをやめて戦いの狼煙を上げた象徴ね。あなたたちは勝手にその狭い思索の中で生きなさい、あなたたちのような馬鹿な人たちのことなど歯牙にもかけていませんから、殴ってあげてもいいんですけど、それは怒りの向けどころとしてはもったいない気がするので、心ならずも謝って、お馬鹿さんの気に入るようにしてお別れしてあげます、もっとすてきな人たちと同調したり、愛し合ったりするためには、とにかくあなたたちから離れないと始まりませんからね、さようなら。……キョウちゃんには、丑松のようにくだらないと見切るために悩む過程がないの。当然、怒りもないし、戦うという観念もイデオロギーも持ってない。あるのは協調と愛だけ。くだらない人たちとも、くだる人たちともいっしょに暮らしていける。人間の理想ね」
「……悩める人が羨ましい。人生の厚みがちがう」
「キョウちゃんは悩んできたし、いまも悩んでるわ。悩みのレベルがちがうの。自分を救いたい、じゃなく、人を救えるかな、という悩み。ウェルテルや丑松のように自分を救ったって、永遠に終わらない悩みよ。厚みも想像できないくらい」
「……メキシコ行きは、愚かな人たちとの訣別だったのか」
「よろよろした理性の人たちや、理性から見捨てられた人たちとのね。心の底に差別があるわ。キョウちゃんにはない」
「絶望して、差別する。自殺しない唯一の方法だ。自分が死なないための解決策……カズちゃん! すばらしい解釈だ!」
 私は箸をテーブルに置き、カズちゃんを抱き寄せた。
「こんなすごい頭脳の持ち主がぼくの恋人なんだね。目も鼻も、おっぱいも、お臍も、お尻も、もちろんオマンコもぼくのものだ。何てすばらしいんだ」
 重たいカズちゃんをエプロンごと寝室へ抱きかかえていって、スカートの下のパンティを剥ぎ取り、すぐに挿入する。激しく突き立てる。エプロンに額を押しつけて、奥深く射精する。カズちゃんは私の尻を抱きかかえ、さらに深く押しこみながら、思う存分痙攣を繰り返す。そうめんつゆの香りのする唇を吸い合う。舌を噛み合う。
         †
 カラスの行水で風呂を出て、カズちゃんが買い整えていた半袖シャツとパンツに、ジャージを着る。カズちゃんは夏物のピンクのジャンパースカート。菅野がやってくる。涼風とは言えない風の中へ歩み出す。
「あしたは九時ごろ自転車でいらっしゃい。髪が伸びてるから、まず床屋さんへいって、それから松葉会へいきましょう。あさってはテレビ塔よ。文江さんに手相占いしてもらうの」
「コピー機のガラス板に手を載せるだけだよ」
「知ってる。退社時間まで待って、三人で味噌おでん食べましょう」
 一人助手席に乗りこみ、カズちゃんに手を振り、あっという間に中村図書館へ送り届けられる。
「ありがとう。じゃ、またあした」
「神無月さん」
「はい?」
「あと半年の辛抱ですよ。がんばってください」
「うん、ありがとう」
「じゃ、あしたは私遠慮しますから。あさっての八時半に河原にいきます」
「よろしく」
 ドラゴンズメモも含め、七時まで勉強した。苦手な数学と歴史。定期試験の毒薬である科目は、ソクラテスの心境でこれまで勉強したことはない。私が受からなければいけないのは東大だから。西高の試験会場で何度服毒死しても、東大の試験会場でかならず蘇生するので、ソクラテスではなく白雪姫か。
         †
 七月二十三日日曜日。九時、自転車で花の木に到着。
「松葉会に電話を入れたわ。応対した人が、十二時を目指してきてくれるようにって、律儀に応対してくれた」
「十二時に着くようにしよう」
「キョウちゃんは、気ちがいみたいに時間に正確だから」
「彼らはぼくどころじゃないよ」
 友情の誠実さとか、犠牲的行為とかいったようなものが、かえってああした連中の中に極端な形で見出されることをしみじみ思い返した。たまねぎの味噌汁に玉子を落として空腹の胃を宥(なだ)めた。
「あんな場所でお腹が鳴ったら恥ずかしいからね」
「私もそうしよう。ね、キョウちゃん、私、名古屋にいるあいだに、車の免許を取るつもり。二、三カ月かよえば取れるみたい」
「そのほうが何かと便利だものね」
「最初は中型のクーペでも買おうと思って」
「クーペって?」
「二人乗り。マツダのコスモにしようかな。キョウちゃんが乗るとぴったり」
 西税務署前の交差点まで自転車を並べていき、床屋で髪を刈った。カズちゃんがいつものように待合の椅子に坐って、雑誌を読みながら待っていた。美容院へいかないカズちゃんは、きょうもポニーテールにしている。ときどきリボンを巻いてサイドポニーテールにすることもある。鏡の中で視線が合って、微笑み交わした。
 髪がふつうの長さに刈りこまれ、顔も剃られて手入れがすんだとき、私はこわごわ鏡の中の自分の顔に眺め入った。もう見るまいと決めていた十八歳の目鼻立ちは、佐伯さんといった床屋で見たよりも角張って精悍になっていた。この街から夜行列車に乗った日に始まった二年間の流離の生活が、私の顔にとてつもない変化をもたらしていた。暗い精神の翳が深まり、尖った苦悩の神経の糸が揺らめいていた。
 花の木に戻り、半袖の清潔な学生シャツに、アイロンの効いた学生ズボンを穿いた。カズちゃんは上下とも白のワンピースを着た。化粧はせずに、日傘を持った。
「菊井町あたりまで歩きましょう」
 そよ風の吹く晴れた日だ。七月の太陽がじりじりとアスファルトに降り注いでいるけれども、暑く感じない。家々の庭の木群れで蝉が単調な声で鳴いている。杏や枇杷の葉がそよぎ、金属的な葉ずれの音を立てる。ドブ板の上をエメラルド色のトカゲが走った。
「素ちゃんを花の木に女中さんとして引き取ったわ。あした身一つで引っ越してくる。もうからだを売る必要はないの。親の了解も取ったからだいじょうぶよ。お給料も払う。それを向こうのお家に入れるということにしたわ。花の木でお掃除したり、洗濯したり、食事の仕度をしたり、テレビを観たり、本を読んだり、いっしょに散歩して映画を観たり、買い物をしたり、たまに水泳にいったりするのよ。東京へいくまで、それでバッチリ。東京では私といっしょに暮らすことになってる」
「ありがとう!」
「あの子はほんものよ。純粋だし、女らしいし、頭もいいし。キョウちゃんの目の高さに感心した。もう月曜日に大門にいかなくてもいいわ。しっかり勉強して」
「ほんとにありがとう!」
 道の途中の花屋で、カズちゃんは黄色いバラを買った。
「友情の象徴(しるし)」
「赤いバラは?」
「愛、純潔」
「白」
「尊敬」
「やっぱり黄色だね」
 菊井町からタクシーに乗った。
「熱田区の白鳥公園のあたりまでお願いします。笹島から、堀川沿いにいってください」
「うわ、きれいやなあ。あんたら姉弟?」
 初老の運転手が尋く。
「恋人同士です」
「へえ、よくそんな美男美女同士がめぐり会ったもんやなあ」
「もう八年です」
 ふと、康男に会う前にこんな会話をしているのが後ろめたくなった。風雲をいつも心待ちにしていたころ―あのころの情熱を覗きにいく。いまもあのころの心に住んでいる親友を訪ねていく。彼はまだ私に風雲が逆巻いていると思っているだろう。そうだと告げにいく。野球のことを語ろう。
「キョウちゃん、緊張してるわ」
 カズちゃんが手を握り締める。
「うん。どんなときも、どこにいても、康男と歩いた道や空を忘れなかった。野辺地に送られたばかりで、ひどくさびしいときに、康男はむかし生きていたけれど、いまは生きていないって思おうとしたことがある」
「会えない人は死んでる人といっしょだから?」
「そう。あのとき康男はあの場所にいて、いまは別の場所にいる、ただそれだけのことなんだけど、死んだと思わないと、あきらめ切れなかった。康男がどこにいようと、ぼくの心は離れないわけだから、別に殺さなくてもいいのに、どうしても彼の笑顔や、握手した手や、抱き締めたからだに未練があってね。未練を断ち切ろうとした。で、寺田康男はいまも生きているけど、記憶の闇の世界に去っていて、そしてぼくはその闇の中で、顔の見えない、触れることもできない彼といっしょにいるんだって思おうとした。闇なら見えないし、体温も伝わらないからあきらめられると思った。でも、ここにぼくの生きたからだがあるのは記憶の世界のことじゃなくて、現実だ。それは何か決定的なことで、それなら康男の生きたからだも、どこかにちゃんとあるということになる……」
「め! また泣かせること言って」
 ほんとうに泣いていた。
「ぼくが死んだとき、ぼくの亡骸(なきがら)にとりすがって、生き返ってくれ、もっと生きてくれって叫ぶ男は、きっと康男と山口だけだ。ぼくにはわかってる。死んだ人間の胸を叩いて再生を願うのは、その二人しかいない。青森に流されて、おそらくいちばんの痛手は康男を失ったことだった。その寺田康男に会えるんだ」
 運転手が洟をすする音が聞こえた。カズちゃんとしゃべっているうちに、夢にうなされていたような三年間の不安が消えて、一瞬のうちに安らかな時間が戻ってきた。過去と現在がつながり、きのう東海橋で康男と別れたばかりのような気がした。
「ほとんど恋愛ですな。事情はわかりませんが、ビンビンきますよ」
 カズちゃんは私の手を握ったまま何も言わずに泣いていた。
「私も死んだ戦友に会いたいですな。生き返ってこないかな」
 感傷というには強すぎる陽射しが、運転席に照りつけていた。死んだ戦友には降り注がない陽射しだった。
 宮中の前でタクシーを降りた。運転手は帽子を取って白髪の頭を下げると、ゆっくりと去っていった。伏見通りへ曲がるとき、彼はもう一度頭を下げた。大通りの信号を本遠寺のほうへ渡り、一つ目の辻まで歩く。曲がりこんだとたん、五十メートル先に男たちが勢揃いして、屋敷前の路上に一列に並んでいるのが見えた。
「あら! また」
 列の先頭にワカが立ち、光夫さん、康男が従っている。近づくにつれ、二十人に余る男たちが一斉にからだを折った。私は足を止めて礼をした。カズちゃんもバラを抱えたままお辞儀をする。ワカが一足出て、
「いらっしゃいまし!」
 つづけて男たちの声が上がった。
「いらっしゃいまし!」
 ワカが私の手を握り、
「新聞読みました。こっそり野球を始めましたね」
「はい。単なる練習ですけど、ボールを握りつづけることは大事です。もちろん楽しいことでもあります」


         五十九

 列を離れた康男が大股でやってくる。脚を引きずっていない。すらりと背が伸び、角刈りの顔は長く、けぶるような目が三年前よりもするどくなっている。そのするどい目には涙が浮かんでいた。
「康男!」
「神無月!」
 しっかりと抱き合った。きょうも彼は動物のようなうめき声を上げて泣いた。私も遠慮せずに涙を流した。康男は涙に濡れた目で私を正面から見つめ、
「キンムクやで、おまえは。ようやっと会えたな」
 光夫さんが近づき、
「よくいらっしゃいました。北村さんも、きょうはゆっくりしていってください」
 腰を折った男たちの前を、三人の男について歩いていく。
「いらっしゃいまし」
「いらっしゃいまし」
 という声に押されて玄関へ入る。式台でも何人かの男たちが、もろ掌を突き、頭を下げた。先回の訪問で見知った顔がいくつも雑じっている。
 襖を払って座敷を三つ貫いた部屋に、長テーブルが連なっている。縁側の大ガラスの外に、大きな葉を開いた葛(くず)が軒上から垂れ下がり、かすかに風に揺れていた。
 重だった黒服が十人ばかり、座布団の後ろに立ち、いっせいに頭を下げた。ワカが腰を下ろすと、彼らを含めた荒武者のような黒服たち全員がドッと席に着いた。その動きはたくましく伸びやかだった。私たちはワカのすぐ左前方の下座に席を設けられ、向かい合う席に光夫さんと康男が坐った。締め切った部屋に冷房が効いている。八ミリカメラを回している若衆がいる。
 光夫さんが立ち上がり、柔らかい声にドスを利かせた。
「すでにご存知のこととは思うが、神無月郷さんについて少し長い紹介をさせていただく。ここにおられる神無月さんは、私の愚弟寺田康男の小学校四年生以来の友人であり、さまざまな意味で大恩人でもある。これまたご存知のように、神無月さんは、ここにおる弟康男が中学二年生の年の瀬に大やけどをして入院したとき、危篤の床に真っ先に駆けつけて大声で名を呼びかけ、奇跡の蘇生をさせたおかたでもあります。以来八カ月間、ほとんど毎日見舞いにかよいつめた侠客である。ほとんどと申し上げるのは、母親と担任教師の謀りごとで強制的にその教師宅に幽閉状態だった期間を除くということであります。ふつうの考えの及ぶ人間ではない。彼のことを語れば神仙譚のようになって、大口開けて聞くしかなくなるからやめておく。このようなみやびな風貌に似ず、オトコの見本のようなおかただが、勉強もお手のもので、現在、西区の名門名古屋西高校の三年生で、成績は首席と聞いております。さらにご存知のように、高校野球界ナンバーワンの大選手でもあるが、いったん野球を休止して、六大学で野球を再開すると宣言し、母親孝行のために大学合格を目指して勉強の日々を送っていらっしゃる。とは言え、こっそり自主練習を開始したことはマスコミに暴露されたとおりである。野球を憎悪する母親に知れたらふたたびの遠島があるかもしれないのにである。将来野球で生きてゆく目標をゆるがせにしていない証左ではあるが、ただただ母親の地雷を踏まないようにと願うばかりである。かくのごとくもろもろを鑑みるに、いやはやとんでもないツワモノである。その剛毅なおかたが、愚弟が修業から戻ったのを喜び、八年にわたる友情を忘れず、わざわざ駆けつけて祝ってくださることになった。まことに感謝に耐えない。さて、隣におられる女性は、常々われわれに目をかけてくださっている北村席のご息女、和子さんであります。北村席のご主人から伺ったところによると、神無月さんが青森へ流謫の身となったとき、遠路はるばる追い従い、そばについて日々励まし、無聊を慰め、命を賭して彼を後見なさったというまさに女の鑑であります。すぐれた人間は、どこへいっても崇拝者を得るものだが、ここまでの献身はめずらしい」
 中休みのように咳払いをすると、いちどきに盛大な拍手が起こり、なかなか鳴り止まなかった。康男が赤らんだ目でじっと私とカズちゃんを見つめている。光夫さんは水を一口含み、
「さて、くどいようだが、神無月さんは、しばしば新聞紙上でも騒がれているとおり、野球の達人であり、しかも学業も飛び抜けておられるおかただ。あと何年かすれば、われわれの手の届かないところへゆかれることはまちがいない。愚弟も小学校中学校と籍を同じくしたという幸運から、かくもすばらしいおかたと奇縁を結ぶことができ、心底喜んでいる。出世すれば拘束や障害が多くなる。そこへ、あえてわれわれが迷惑になるようなことをしてはならない。神無月さんがわれわれと公然と会合できるのも、これが最後かもしれない。いや、常に最後と思って会合しなければならない。爾今(じこん)、どうか陰ながら彼に力を貸してやってほしい。日陰の人間であるわれわれができることはそれだけだ。東京の本部や支部にもこのことは伝えた。組織が複雑なので、力を貸せると言っても、滞りなくというわけにはいかないこともあると思うが、すわ鎌倉の気組みで常々控えていてほしい。神無月さん、万一困ったことが起きて、われわれの助力が必要になったときは、名古屋は中村区の支部と、ここ熱田区の支部、東京は浅草の本部、池袋の支部へ遠慮なく出向いてほしい。きょうはしばしの時間、ゆるりとくつろいで、飲食を楽しんでいってください。以上」
 ふたたび拍手が爆発する中、光夫さんは着席した。ワカがにこやかに笑い、座に着いたまま遠く徹る声で、
「神無月くんを後援する北村席さまにも、精いっぱいご恩返しをいたします。貴席の繁栄のために、できるかぎりの犠牲を喜んで払うつもりです。安心して新たな営業に励まれるよう、お父上にお伝えください」
 カズちゃんがまじめな顔で頭を下げた。廊下に控えていた若衆たちの手で、ビールと酒と料理が運び入れられる。北村席に優るとも劣らない珍味佳肴だ。あっという間にテーブルの上が満艦飾になった。
「さ、みんな、どんどんやってくれ」
 ワカの音頭に、それぞれが、
「いただきます」
「ごっそになります」
 と声に出して、コップや猪口や箸を取る。ワカと光夫さんも悠揚と皿に箸をつける。私はただ康男の顔を見ているだけで胸がいっぱいで、何も手につかない。あの一文字眉の男が上座にやってきて、ワカに一礼すると、こちらを向いてしゃべりはじめた。八ミリが回りつづける。
「思い出話をちょっと。三年前の夏でしたが、ヤッさんが牛巻に入院しとるときに、三吉一家のドラ息子が病院で暴れとる、そいつに面を張られたという電話がヤッさんから入りまして、若頭とミツさんと四、五人で駆けつけたことがあったんですわ。三吉のボンボンが女がらみで暴れとって、手がつけられん状態だもんで、まあ、ちいと痛い目にあわしたれとゆうことになったんやが、ヤッさんを三日にあげず見舞っとるオトコがおるて聞いとったで、その顔も見ておきたくてですな、すぐにわかりましたわ。ヤッさんのそばに立って、このとおり、ぴかぴかに輝いとりました。その女というのが、神無月さんの惚れとる看護婦やということで、こっちもヤッキになってドラ息子を懲らしめたったんですわ。結局、三吉の親分と話し合いということになって、三十人ぐらい引き連れてきた一党とワカがタイメンで立ち合ったんやが、ワカがひとこと、今度こういうことがあったらツブスで、と睨みつけたんですな。それでお終いになりましたわ」
 勝鬨のような笑いが起こった。そんな事情だったとは知らなかった。康男を見ると、うなずき返した。
「こんなことを申しあげましたのも、そういうひとことを言わせる力が、この神無月さんにはあると言いたかったんですわ。……あの看護婦はどうなったんかな」
 ワカも知りたそうにこちらを見つめた。私はカズちゃんと顔を見合わせて笑った。一文字眉は何やら察したように微笑み、
「ま、何はともあれ、神無月さんが災難を乗り越えて、いまこうして無事でいてくれるのがうれしいですわ。あれからあんたの身にいろいろあったと聞いとります。すごいもんやと思うで。その若さで、ケロリとして生きとる。ワシは四十一ですよ。どんだけ年食っても、そうケロリとは生きられん」
 あの立ち回りの夜に親しく記憶に刻みつけた一文字眉が、もう一度ドスの効いた声で私の顔を見つめて言った。
「それだけやないで。なんとも義理堅くて、こうしてちょくちょく訪ねてくれて、みんな喜んどりますよ」
 一文字眉は、もう一度ワカに礼をして、自分の席に戻った。ワカは満足そうにうなずいた。康男は吸っていた煙草を揉み消すと、向かいの席からやってきた。あぐらをかき、私とカズちゃんのコップにビールをつぐ。カズちゃんは黄色いバラの花束を差し出した。
「お、きれいなバラやなあ」
「黄色いバラの花言葉は、友情です」
「ほうか、ありがとうさん」
 康男が廊下へ呼びかけると、どこからか黒っぽい着物を着た中年の女が出てきて、花束を受け取り、康男の耳打ちを受けて立ち去った。
「組員の女房たちが、きょうは特別に厨房につめとるんや。あの花は俺の部屋の床の間に飾らせてもらうわ」
 私はビールを口に含んだ。
「煙草を吸うようになったんだね。似合うよ」
「煙草も酒も博打もやる」
「女は」
「部屋を暗くしてな……」
 悲しげに笑う。
「脚の具合はもういいの」
「ふつうに動く分にはな。走ると、突っ張るわ。……ようきてくれたな。生きとるうちに会えるとは思わんかった。どや、俺の顔、変わったやろ」
「変わった。美男子のヤクザだ。角が取れた」
「おまえはむかしからイロ男やった。あまり変わっとらん。この女におまえは救われたんやな。あの飯場にむかしからおった女やな。覚えとるで。神無月の面倒みてくれて、ほんとにありがとう」
 カズちゃんに深く頭を下げる。ウッ、とカズちゃんは嗚咽した。男たちの飲食が賑やかに進む中、私は彼女とめぐり合い愛し合うようになったいきさつについて、西松の飯場から始まり、青森そして名古屋へと細部にわたって語った。康男は何十ぺんとなくうなずきながら、静かに聴いていた。
「北村さんはオトコみてえな女や」
 その様子を、ワカがやさしい眼で眺めていた。その端正な白皙の顔は、彼の全身の中でいちばん目立つ特徴だった。私は彼の顔を見なくても、その白い顔を、人の心の奥まで見通さずにはいない冷徹な眼といっしょに思い出すことができた。ときどき聞こえてくる彼の声には、聞く者の記憶に長く刻みこまれるような特別な響きがあった。
 少なくとも彼は三十にはなっていた。それでいながら、彼よりも年老いた配下の中にいて、ひときわ齢がいっていると思わせた。私は彼に出会うことができた幸運を感じ、その口からもれた北村席の支援について考えた。この一風変わった性格と、特色のある顔立ちと、その権力をもってしたら、たしかにすばらしい後援者になれるにちがいないと思われた。しかし、支援する心の内まで考えることは困難だった。彼の微笑がますます分析を困難にした。ただ、少なくとも彼の言った、北村席が私を支えているからという理由は嘘ではなく、そうである以上は損得抜きの支援だろうと思った。カズちゃんはそれほど家業の繁栄に頓着しているふうはなかったけれども、私を媒介にした〈実力者〉の助力に素直に感激している様子だった。
 寺田康男の顔は、そのワカの特徴的な顔の趣を凌駕していた。シンプルな表情の中に深い神秘があった。人が手放しで愛する神秘だった。私がやってこなくても、この会合の主役は彼なのにちがいなかった。私は野球のことを語りはじめた。
「やめようと思ってた野球を、高校一年で偶然また始めることになってね、いまこんなふうに注目されるようになったのは思わぬ幸運だった。不安定な道だけど、がんばってやりつづけようと思う。康男は小学校のころからずっと、ぼくの野球のことを気にしてくれてたからね」
「おまえは野球をやめたらあかん。おまえでなくなってまう。まだ、あのホームランボール持っとるで」
 私はこれからの野球人生の予定を語った。これも長い話になった。長卓の食い余しの皿が何度も下げられ、新しい皿が何度も運びこまれた。
「東大からプロ野球いうのも聞かんこともないが、大物になれるのはおまえ一人やろ。楽しみが増えたわ。プロにいったら、口が裂けても、ヤクザと付き合うとるゆうたらあかんで。ケツの穴の小さい連中に潰されてまうでな」
 それが彼の私へのはなむけの言葉だった。私は、
「すれすれのところできびしく生きてる世界の人間と友人だというのは、ある種のステイタスだと思うけど、臆病な人たちにとってはタブーなんだな。……指なくしたんだってね」
 これか、と言って、康男は左手をかざし、つるりと短い小指を見せた。
「ちょっと〈やんちゃ〉してな。こんなもんですんで助かったわ」



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