七十二 

 病院の壁は石鹸で洗ったように白々ときれいだった。玄関ホールから大理石を敷きつめた廊下がつづいている。短い廊下が放射状に伸び、その先は、病棟をめぐって専用の廊下が迷路のように入り組んでいるらしかった。
「物好きだけど、ちょっと中を見てみたい。いいかな」
 菅野と節子はうなずき、ここで待っていると言った。カズちゃんと私は、靴を脱いでロビーに入り、患者にまぎれてしばらくロビーに据えられたベンチに腰を下ろした。光沢のある廊下を往き来する看護婦や患者の姿を追う。看護婦たちはエプロンのような水色の制服を着ている。病院全体にショパンのノクターンが流れていた。その音楽は患者の心を慰めるために流されているのにちがいなかったけれども、夜の音楽が明るい希望の中へ物悲しく紛れこんできているような、ちぐはぐな感じを抱いた。
「こういう風景、キョウちゃん好きでしょ」
「うん。牛巻病院のロビーに座っていて、共和国って思ったことがあった」
 垢抜けない受付の女がキョロキョロと私たちを観察している。笑いかけると、彼女はあわてて立ち上がり、ぶっちがいに紐を結んだ制服の背中を向け、早足に歩み去った。
「怖がられちゃったわね。患者でもないのに、こんなところで観察してるからよ」
 二人でゆっくりと病院の中を一周した。
         † 
 車に乗りこんだ。菅野が節子に訊く。
「坂の上に、料理旅館がありましたよね。あれ、何て店ですか」
「枡磯(ますいそ)。高いですよ」
「菅野さん、お腹へっちゃったのね。私もよ。あんな気取った店、食べた気にならないわよ。お土産は買ったし、もっと半島の先へいってみましょう」
「南知多の温泉に浸かって帰りますか。三十分くらい先っぽまでいっちまいますよ」
「そうね、そこで食べましょ」
 左に丘、右に海の道をひた走る。海から湧いた雲が午後の陽を覆っている。私は助手席の窓を開け、湿った風を髪に受けながら、ときおり目を運転席に向けて菅野の顔といっしょに海を見つめた。クマさんといるような気がした。
「クマさんとドライブしてる感じだ」
「ほんとだ。角刈りにしたら、宍戸錠より熊沢さんに似てるわ」
「だれですか、クマさんて」
「西松建設にいたキョウちゃんのなかよしさんよ。父親で親友。そして、恋人。いまは長野の観光バスに乗ってる」
「……神無月さんと別れるのはつらかったでしょうな」
「そう。つらすぎて会社を辞めちゃったの」
 フロントガラスにポツポツと雨が落ちてきた。天気雨だ。
 蒼白い空の下を知多半島の先端の南知多町までやってくる。玄関に篝火(かがりび)を焚いて迎える花乃丸という温泉宿に入った。館内のいたるところに活けてある紫のヘリオトロープから喉を刺すような香りがきた。菅野が受付で尋くと、日帰り会席というのがあると言う。二千円から三千円。三千円コースに決め、まず風呂にする。タオルを受け取り、最上階へエレベーターでいく。節子がしみじみと、
「三千円なんて、家賃の半分です。三百円や四百円のカツ丼でさえ贅沢なのに」
「たまたま持ってるお金を使うのは、持ってる人の義務よ。贅沢はいつも相対的なものだから、だれと比べて贅沢なのかを考えないと、行動が縮んでしまうわよ。慣れてね」
「はい」
「私は北村席で、タクシー会社にいたころの三倍以上の固定給をもらっとります。最初はなんか気詰まりでしたが、お嬢さんが言うように、貧乏な人や、自分が貧乏なころと比較してたんですな。考えたら、その人たちや、むかしの自分に何の義理もないわけですわ」
「節子さん、お母さんに言っといて。お金なんか返す必要ないって。キョウちゃんのような変人を愛する人は、ボーナスもらってあたりまえよ」
「……ありがとうございます。でも、少しずつ」
「そんな余分なお金があるなら、勉強に使いなさい。文江さんに言っておくわ。どうしても働く気でいるなら、返済金を一万でも二万でも節子さんに回してって。あなたも正看になったら、給料がちがってくるんでしょう?」
「倍近くになります」
「がんばって試験に受かってね」
「はい、がんばります」
 ―好きなやつのために使ってこそ金や。
「お風呂に入りましょう」
 伊勢湾と三河湾を一望できると書いてある大きな浴場へいく。女たちと左右の暖簾に別れる。婆さんの座る番台があり、脱衣場の上がり框に濃緑の豆タイルがびっしり敷かれている。脱衣場と湯殿とのあいだのかなり広い空間にも同じように敷かれている。湯殿は小ぶりだが浴槽は大きい。手前に広めの浅い風呂、その奥に一人用の電気風呂といま流行りのジャグジー風呂、最奥の隅に二人サイズの深風呂がある。深風呂に菅野とゆっくり浸かる。静かな雨が降る海に知多の島々がおぼろに浮かんで見えた。コンクリ天井に湯気抜きが開いている。浴槽の床はピンクの小粒なタイル。奥壁に男湯女湯ぶち抜きで雄大なモザイクタイル画が一面に描かれている。雪をかぶった山の絵だ。落ち着く。湯船を出て、菅野と背中を流し合った。カランの曲面にもタイルが貼られているのがめずらしい。タイル好きは喜ぶだろう。
「神無月さんに背中を流してもらうのも、いい思い出になるんでしょうね」
「ぼくが遠くへいって二度と戻ってこないのを前提にして言ってるでしょう。ぼくはいつまでも〈ここ〉にいますよ。離れる距離とは関係なくね。直人をよろしくお願いします。男の遊び相手は、カズちゃんのお父さんと、菅野さんしかいませんから」
「あの環境じゃ、世之介になっちまうだろうな。うちの息子のお師匠さんになったりして」
「男の基本は色好みですから、悪いことじゃありません」
「神無月さんのように、人格と才能が伴っていればね」
「ぼくは、自分がこれまで言ったりしたりしたことの中で、山口や菅野さんやカズちゃんがたち褒めるのにふさわしいような事実を、何一つ見出せないんですよ」
「お嬢さんの言う、病気(マルビ)ってやつが出ましたね。わかってます。褒めると否定のカウンターパンチ喰らっちゃうってね。しかし、そんなパンチ怖がってちゃ、こちとら嘘つきになっちまう。神無月さん……あなたは孤独な天才ですよ。私はずっとそばにいてあなたを褒めるのがうれしいんです。一道の光明ってやつです。好きに褒めさせてください」
 清潔な十畳部屋でコース料理を食った。カズちゃんと節子は海鮮会席、私と菅野は炭火焼き会席。どちらもアワビや伊勢海老をメインとする豪華な料理で、みんなわいわい騒ぎながら舌鼓を打ち、満腹になった。
「いたって少食な神無月さんが、食いましたね」
「菅野さんが伊勢海老を剥いてくれたから」
「文江さんのお土産は買ったし、あとは岡田に戻って、お母さんのお家を見るだけね。節子さんの育ったお家でしょ」
「はい。そこから歩いて南の岡田小学校、西の知多中学校へかよいました。東の知多高校へは自転車でかよいました。高校を一年生で中退して、名古屋の准看護婦学校へ二年かよい、ようやく看護婦になりました。ナイチンゲールのような使命感があったわけじゃなくて、学校の勉強が嫌いだったし、お母さんを早く助けてあげたい気もして」
「使命感のあるなしはどうでも、人のための仕事よ。すばらしいことだわ」
「ありがとうございます。一本道はどんなことでもすごいものだってキョウちゃんに言ってもらって、目が覚めました。というより、これまで経験したこともない気持ちになりました」
 菅野が、
「神無月さんは口がうまいんじゃなく、ちっちゃいころから溜めてきた想いというのがあって、それをひとことでじょうずに言っちゃうんだよ。言葉の天才だね。ああ、俺はこう言いたかったんだって、いつも思うよ。しゃべる内容こそ奇抜だけど、神無月さんの口から出る言葉には、ウソ偽りだと思わせない率直さがあるんですわ。嘘を言う必要がないと気づかないと、その率直さを疑ってしまう」
 窓に稲妻が閃いた。
「ザッとくるかな。あの空の明るさだと、すぐ上がりそうだけど」
 菅野がじっと窓の外の空を眺めた。
「こういう空の下で、神無月さんの歌を聴きたいな」
 節子が、
「歌?」
「あら、節子さん、聴いたことないの?」
「はい」
「神無月さん、何か唄ってあげてくださいよ。驚きますよ」
「節ちゃんが大好きだった、梶光夫の黒髪を唄うね」
 節子が、えっ、と小さく息を呑んだ。すぐに唄いだした。

  逢えなくなった あのひとと
  名残惜しんだ 花散る木陰
  黒髪 黒髪 あのひとの黒髪の 
  甘い薫りを 偲べば泣ける

  大きく夢を 持つのよと
  ぼくを叱った さみしい笑顔
  黒髪 黒髪 あの人の黒髪に
  別れの風が むせんだあの日

  幸せだろか ぼくのこと
  たまにゃ思って くれるだろうか
  黒髪 黒髪 あの人の黒髪を 
  いまも悲しく 忘れはしない

 だれも何も言わず、拍手もせずに聴き終えた。みんな泣いていた。私も泣いた。菅野が頬をこすりながら言った。
「……節子さん、人間の声に思えますか。彼の親友の山口さんも、ギターで伴奏しながらかならず泣いてしまうんですよ」
「声というより……」
 節子の目の中の涙がふるえている。カズちゃんが、
「そう、声の姿をした心なのよ。キョウちゃんは、剥き出しの脆い心しか持ってないの。その心でエイヤッて行動するから疲れちゃう。そんな心を傷つける人は極悪人よ」
 節子は目頭を押さえた。カズちゃんが節子の膝に手を置き、
「節子さんのことを言ったわけじゃないのよ。憎しみから傷つける人のこと」
 フロントで支払いをすませるカズちゃんを待って車に乗りこみ、帰路に着く。まだ霧雨が降りつづいている。
「せっかくだ、海の風をかいでいきましょうや」
 菅野は、大口というところから新舞子の海岸へハンドルを切って、海辺の道路に車を停めた。四人で降りて、霧雨混じりの潮風を吸う。野辺地湾よりも広い海だ。
「オッケー、肺がきれいになった。もうそろそろ一雨くるでしょう」
 岡田に戻り、写真館の駐車場を借りると、四人で爪先上がりの湿った道を昇っていった。まだ強い雨はこない。
「ここです」
 節子の背中が言った。さびれた玄関戸の前に立つ。しっかりした造りだ。滝澤書道塾という板看板が雨風に文字を削られていた。向かいの家は農家ふうの駄菓子屋だった。黒く濡れた藁屋根を見上げる。節子は店前に立っていた白髪の老婆に頭を下げた。
「お世話かけます」
「ときどき、風を入れといたでね」
 駄菓子屋の奥の部屋に、籐椅子に座って読書している着物姿の女が見える。窓からの光が顔の半分を照らしている。長患いなのかもしれない。女は私たちに気づいて、お辞儀をした。老婆が、
「お母さんはいつ帰るんね」
「もう帰らないかもしれません」
 カズちゃんがつかつかと近づいて、
「それでも、ときどき風を入れといてくださいね。帰ってきたり、まんいち売らなければならなくなったりしたときに困りますから。ほんとうにお世話さまです。これ少ない出すが当座の管理費です」
 と言って、一万円札を一枚その手に押しこんだ。
「和子さん、そんなこと、私がいずれ……」
「だれがやっても同じでしょ。お母さんとあなたの実家なのよ」
 カズちゃんは、書道塾の玄関に立てかけてあった庭箒を手に取ると、戸を引いて土間に入った。さっそく狭い土間を掃きはじめる。菅野が、
「雑布がけしといたほうがいいですかね」
「そうね。あまり汚れてないけど。水道を一分ぐらい出しっぱなしにしといたほうがいいかも」
「いや、何年も留守にしてたら、水道も電気も止まってますよ」
「外に井戸があります」
「あ、そう。じゃ、二部屋だけだから、拭き掃除だけしときましょう。節子さん、バケツお願い」
 奥の部屋に、二列の生徒用の小机があるのがさびしい。四人で三十分ぐらいかけて、そこいらじゅうを拭きまくった。節子は納戸から書道の道具を取り出して風呂敷に包んだ。
「この家は売らないほうがいいわ。よく片づいてる。お母さんの心の支えなのよ。岡田はきれいな観光の町みたいだし、ときどき帰ってきてぶらぶらしたいでしょう」
「……すみません、何から何まで」
 節子が肩を縮めて頭を下げた。


         七十三

 大粒の雨が落ちはじめた。早足で写真館へ戻り、菅野は五十円の駐車料金を払った。彼は国道までゆるゆる運転していき、それから車の少ないアスファルト道でスピードを上げた。フロントガラスを叩く雨がワイパーに弾かれる。
「名古屋市内に入るころには、上がりますよ」
 雨に煙る看板を読んでいく。中華萬丈亭、扇田建機、新知小学校、腰島米穀店、喫茶スワン、私立中央図書館、山口酒店、寿し富、成田石材点、水野歯科、小松畳店、星野整形外科、山田浴槽店……人びとの生業の種類の多さに驚く。
 天白川を渡り、山崎川を渡る。 
「あ、内田橋だ。カズちゃん、宮の渡しだよ。鶴田荘」
「ほんとだ、もうこんなところまで帰ってきちゃったの? 節子さん、なつかしいわね」
「はい、伝馬町、神宮前……」
「もう三十分もすれば、ご帰還ですよ。ほら、小降りになってきた」
 ワイパーに払われる雨が噴霧のようになっている。
「日赤病院で節子さんを降ろして、それから私たちを花の木へお願い。キョウちゃんの自転車が置いてあるから」
「了解!」
「節子さん、キョウちゃんの受験期間中は誘わないようにしましょうね」
「もちろんです」
「キョウちゃんのほうがときどき訪ねると思う。待つのはつらいでしょうけど」
「だいじょうぶです。おととしの秋から三年間、ずっと待ちつづけてますから」
         †
「アパート、見つかりました。西高から歩いて七、八分。二十七日の日曜日に引越しします」
 食堂のみんなが箸を止めた。さびしげな空気がただよう。
「何でも事後承諾だね、おまえは」
「事前に言って、了承し合ったじゃないか。ぼくが一人で勝手にやると言ってたでしょ」
 大沼所長が、
「うん、そういう話だったよ、佐藤さん。みんなさびしいけど、がまんしてるんだ。すべてキョウの合格のためだよ」
 佐伯さんが、
「そうか、郷くん、いよいよヤマゴモリか」
「はい。よく、模擬試験優秀者は東大に落ちるって話を聞くので、念には念を入れるつもりです」
「その意気だ。佐伯、机と蒲団、小型トラックで運んでやれ」
「机と本と文房具だけでいいです。蒲団や炬燵や台所周りは、ぜんぶ、去年の夏にみんながくれた祝い金で整えられます」
「よし、用心のために、引っ越し祝いをカンパしとけ」
 さっそく山崎さんが一万円札を出して、テーブルに置いた。それに所長が二万円を載せた。三木さんと飛島さんがあわてて財布を出すと、山崎さんは、
「おまえらペーペーは千円でいい」
「そうはいきませんよ」
 ふたりで五千円ずつ出した。
「よし、これでいい。じゃ、キョウ、持ってけ。これで、半年の雑費、間に合わせろ」
「はい、ありがとうございます。アパートの賃貸契約金は、前回の義捐金のおかげで賄えました」
 カバンの底にカズちゃんにもらった大金が入っている。彼らに打ち明けることはできない。母が、
「申しわけありません。ほんとに、私が腑甲斐ないばかりに」
「三木や飛島の半分しか給料のない佐藤さんじゃ、対処しきれないよ。野球関係者はここで堰き止めておく。心おきなく勉強しろ」
「はい」
 部屋に戻って、山口に転居を知らせるハガキを書いた。アパートの呼出し電話の番号も書き添えた。
 二十六日の土曜日まで懸命に勉強をした。いや、一度だけ、図書館帰りの週日に花の木にいって、
「もう、勉強一筋、部屋にこもるよ。来年の二月の末までこれない」
 と告げた。
「半年ものあいだがまんするなんてできっこないと思うから、無理しないで、いつでもいらっしゃいね」
「いつでも私らのうち、どっちかかが待っとるでね」
「どちらかって、いつもいっしょにいるんじゃないの?」
「素ちゃん、東京に出るまで、そのへんの喫茶店に勤めるって言ってるの。ずっと家に籠もってるより、そうしたほうがいいと私も思う」
 私は音楽部屋へいき、
「サム・クック、あったよね。ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」
「あるわよ。暗殺された年に作られた曲ね。きのうも素ちゃんと聴いたばかり。驚くほど抒情にあふれた曲」
 三人ステレオの前で、三回連続で聴く。アイ・ワズ・ボーン・バイ・ザ・リバー、の唄い出しで三度涙を流した。
「山口に唄ってほしいな。きっと知ってるよね」
「知ってるわ。二十八日の月曜日にくるわよ」
「楽しい会合になりそうだね」
 素子が、
「私も山口さんに会いにいく。お姉さんがいこうって。キョウちゃんの親友に会える。楽しみや」
         †
 二十七日日曜日。早朝のランニングと三種の神器はやったが、河原の練習はキャッチボールだけですませた。社員たちは自粛して土手の見物にきていなかった。
 十時。佐伯さんより一足早く自転車で八坂荘に乗りつけた。乗りつけた自転車をほかの住人の自転車に並べて置くとき、住人たちと仲間入りをした感じがしたが、健児荘の経験からして、ほかの自転車の乗り手と顔を合わせることはまずないだろうと予測できた。小型トラックでやってきた佐伯さんと二階の端部屋に机を運んだ。窓の光が直射しない右隅の角にピタリと据えた。
「豪華な部屋だね、これは」
 畳が青々とし、ベージュ色の厚地のカーテンが引かれ、石油ストーブと、掛布で覆った炬燵が置いてある。台所には、やかん、コーヒーメーカーとフィルター、コーヒーの粉の入った袋が置かれ、押入にはふかふかの蒲団が積んであった。菅野とカズちゃんたちが前もって運びこんだものにちがいない。
「この白い壁は何て言うんですか」
 建築士の勉強中の佐伯さんは、チラリと見ただけで、
「漆喰だね。下が土壁みたいだから、本格的な造りだ。漆喰は湿度を調節するし、耐火性もある。このアパートは高級住宅だよ。外見から見たかぎりじゃ、こんないい部屋だと思わなかった。これなら快適に勉強できる。がんばってね」
「はい」
 十一時過ぎに引越しが完了した。佐伯さんは炬燵テーブルにちょこんと腰を下ろし、
「……お母さんは、根にやさしい気持ちのある人だと思うんだ。あまり気にしないほうがいいよ。いじめてるわけじゃないんだから」
 この世には、人間の深い業を読み取れず、複雑な人間関係に直観を働かせられない円満な性格の人物がいる。佐伯さんもその一人だ。
「何も気にしてません。イイ子でなくなったときは怖い人です。それさえ忘れなければ、うまくやっていけます」
「郷くんにイイ子でない時期があったなんて信じられないな。たとえむかし、そんなことがあったとしても、いまの郷くんはだれよりも模範的な人間だよ。その将来を実の親が潰すということはないんじゃないかな」
「せいぜい、イイ子でいます。きょうはありがとうございました」
「ときどき、洗濯物を取りにくるって言ってたから、そのときはぼくがお母さんを乗せてきてあげる」
「洗濯機を買うからだいじょうぶだと伝えてください。下の庭に物干し設備もありますから。完全に一人っきりで半年がんばりたいんです。ひと月に一回ぐらい、こちらから寮に顔を出します」
「わかった、そう伝えます」
 佐伯さんを玄関まで送って出て、去っていくトラックに手を振った。
 部屋に戻り、明かりの当たらない突き当りの壁に沿って万年蒲団を敷いた。ベージュのカーテンを引き、隣家の瓦屋根を見下ろす。景色はそれだけだ。戸の立てつけが悪いので窓は開けようとは思わない。厚いカーテンをもう一度引く。部屋の蛍光灯を点ける。明るい。ちゃんと付け替えてくれたのだ。机に小さな本立てを置き、大沼所長の買ってくれた参考書を並べる。蒲団の足もとの壁に接して書棚を置き、本を埋めこんでいく。ストーブは押入棚の下の空間に突っこみ、部屋の中心に食卓として炬燵をきちんと据える。炬燵テーブルの上にコーヒーメーカーを置く。部屋らしくなった。
 玄関の車寄せを出た向かいに質屋の塀がある。塀の前の細道を通って、かよい慣れた美濃路へ出る。一方通行の道を花屋のほうへ見通す。算盤塾から始まる低い軒並だ。歩きはじめる。商店と民家の割合が半々くらいで、野辺地の本町の半分ほどの賑やかさもない。あしたから山口が三日も滞在することを思い、浮きうきと歩く。理髪店、乾物屋、税理士事務所、肉屋、石材店、果物屋、電器屋、クリーニング屋。
 道のはずれに例の花屋という魅力的な名前の喫茶店があり、その斜向かいが入口の小さい銭湯だった。荻の湯という大きな看板が軒にかかっている。三日にいっぺんはこようと思い、すぐに小間物屋で風呂道具を買った。通りを抜けると、車が繁く走る笈瀬川筋に出る。その道の向こうに名古屋西郵便局のグランドが拡がっていた。郵便局の左手に西高の正門が見える。正門まで歩く。思ったよりも時間がかかった。健児荘から青高の教室までゆっくり歩く時間と大差がない。自転車なら三分ほどか。
 正門から足を返し、榎小学校の前を通って広い道路に出た。オヒョウ並木。菅野がここを走るとき、菊ノ尾通りと言っていた。ヨトギに連れていかれた済生会病院がそびえている。環状線に向かって、菊ノ尾通りのはずれまで歩いた。
 上更の交差点の角に、スレート屋根の大きな建物が何棟も縦列している。建物群に入るゲートはなく、だだっ広いコンクリート敷きの用地が展けている。トラックが何台も停まり、そのあいだをリフトカーや猫車が動き回っている。敷地の奥の屋根付きの広い空間は整然と区画されているが、区画ごとに積まれた箱の量が尋常でない。野球帽をかぶり、ジャンバーふうの似たような服装をした男たちが動き回っている。ここでもリフトカーが往来し、威勢のいい声がときどき上がる。一棟一棟の切妻の下に、枇・杷・島・青・果・市・場と書かれた大きな四角い一文字看板が間隔を置いて横に連なっている。
 環状線に入って右折すると、バッティングセンターがあり、パチンコ屋がある。それらの建物を道路の向かいに見て、ふたたび美濃路の商店街に戻った。ほぼ二十五分。いつもは見過ごして走る町並をじっくり歩いて確認したことに満足する。アパートの位置も周囲の環境も好ましい。菅野はどうやってこのアパートを見つけたのだろう。
 腹がへってきた。部屋に風呂桶を置き、自転車で花屋へいく。四十を越えたぐらいの若女将と、初老のしゃきしゃきした婆さんが立ち働いている。一見して母子のようだが、嫁姑かもしれない。適当な客の入りだ。焼肉定食を注文する。出てきた皿盛りのめしはかなり量が多く、肉は丁寧な焼き具合で味つけは濃かった。二百三十円也。いい値段だ。店の電話で、花の木のカズちゃんに連絡する。
「二時ごろいくわ。したい?」
「うん」
「じゃ、ソトダシ」
「わかった。きれいな部屋ありがとう」
「セックスしたら、すぐ文江さんの見舞いにいくから、ごめんね」
「わざわざ呼び出してごめん」
「いいの、あれ以来私も疼いてたから。環状線で待ってて。一人でいく。きょうは素ちゃんはお留守番」


         七十四

 何から手をつけていいかわからないけれども、とにかく机に向かう。トランジスタラジオを点ける。
「こんにちは、愛田健二です。今度『京都の夜』という新曲を出しました。聴いてください」
 シンプルな紹介のあとで、情緒纏綿としたメロディが流れ出してきた。声はいいが陳腐な歌なのですぐ切る。風呂にいってこようと思い立つ。二時からと書いてあったのを思い出し、流しの水道に腰を突き出し、陰茎を洗う。カズちゃんが癌になどかかったらたいへんだ。
 自転車で五分もかからない距離を、カズちゃんはタクシーを飛ばしてやってきた。環状線まで迎えに出た。タクシーを降りるなり、抱きついてきた。
「うれしい、こんなそばにいるなんて!」
「野辺地よりは遠いけどね。歩いて二十分だ。でも自転車でしょっちゅう往き来できるよ」
「できるだけ自重しなくちゃ。でも、きょうは引っ越し祝い」
「うん」
 二階への階段を上りながらカズちゃんは、
「このアパート、古いけど、北村席と同じくらいマシな造りよ」
 床板や天井をキョロキョロ見回した。部屋に入ると、
「やっぱり殺風景ね。机と本箱と蒲団きり。水屋を置かなくちゃ。台所もさびしい」
「男の部屋はこれでいいんだよ。蒲団は万年蒲団、服や小物は押入れにぶっこんどけばいい。蒲団に入ろうか」
「ええ、入りましょ。その前に、お茶いれるわ」
 カズちゃんは流しでやかんに水を汲み、マッチを擦ってガスレンジに火をつけた。
「ガスの出も悪いわ。新しいレンジ買わなくちゃ。電気釜も。毎日外食もしていられないでしょ。自炊できる?」
「たぶん。めしを炊いて、おかずを買ってくればいいだけのことだ。肉屋や惣菜屋が何軒かある。気が向いたら目玉焼きか、キャベツ炒めでもして―」
「フライパンが要るわね。毎日きてあげましょうか?」
「いいよ、自分でできる」
「そうね、隣近所の人にへんな目で見られたら、キョウちゃん暮らしづらくなるしね。洗濯物は一週間にいっぺん取りにくるから、貯めといてね」
「うん、洗濯機でも買おうと思ったんだけど」
「いらないいらない。それより下着を十組ぐらい買っとかないと。水屋、ガスレンジ、電気釜、下着、いまのところそれくらいかな。お母さんはこない?」
「さあ、神出鬼没だからね」
「お母さんに遇っちゃったらたいへん。これからは、私の家にきて。あした、いま言ったものは菅野さんに届けさせる。レンジも交換するように言っとく」
 私が全裸になって蒲団にもぐりこむと、カズちゃんはコーヒーを枕もとに置き、自分もゴソゴソ全裸になった。白い肌に鳥肌が立っている。二人うつ伏せになって、一杯のカップから交互にコーヒーを飲んだ。
「おとうさんがね、二百万円くれたの。いまの状態じゃ、キョウちゃんとラクにやっていけないだろうって。いままでの貯金と合わせて、もう五百万円以上あるのよ。東京へ出ても当分不自由なくやっていけるわ」
「見当もつかない額だな」
「そう言われると、つらいものがあるけど……」
「あと半年か。うんと勉強しないと」
「がんばってね。でも、落ちてもガッカリしないでね」
「うん。そう言われると、気が引き締まる」
「日本一の大学だもの」
「うん」
「受からなくても、ずっといっしょよ」
「落ちたら―北村席に逃げこんで、二年間トレーニングしながら、ドラゴンズの自由交渉を待つ」
「そんなにうまくいかないわ。マスコミに北村席を探し当てられて、結局お母さんがやってくる。きっと浪人させられる。トレーニングどころじゃなくなるわ。それどころか、北村席を誘拐罪で訴えるかもしれない。何するかわからない人だから」
「この話は堂々めぐりだ。結局、東大に受かるしかない」
「そう。それしかないの」
「お母さんに思い切り振り回されたことになるけど、振り回されたことを利用して近道をいくしかないわね。とにかく勉強」
「そうだね。青高にいたら野球で削られたはずの勉強時間が確保できてるんだから、しめたと思ってやるしかないね」
「そうよ。受かるのがいちばんの近道」
 カズちゃんはニコニコうなずきながら私の股間を探った。カズちゃんにも同じことをすると、クリトリスの位置を探り当てられないほどあふれている。
「すぐ入れちゃいやよ。ゆっくりイキたいから」
 蒲団をまくって、私のものを見つめた。
「かわいい。アタマが皮に隠れてる。引越し疲れ。それとも、東大不合格のことを考えて縮んじゃったのかな」
 カズちゃんは口を寄せて含んだ。いとしそうに丁寧に舐める。
「お尻、こっちに向けて。ぼくも舐めたい」
「イカせたらだめよ」
 顔の上に割れ目を持ってくる。尻のみぞまで濡れている。膣口に湯があふれ、淡く色づいたクリトリスが勃起している。小陰唇だけ舌で愛撫する。
「大きくなってきたわ。かわいらしいのが、なんでこうなるのかしら。ぎりぎり危ないかもしれないけど、やっぱり中で出してほしい」
 カズちゃんが上になり、合体して数回往復すると、すぐに最初の高潮が訪れる。ふるえを大きくしながら高潮を重ねる。隣部屋を気にしているのか、唇を結んで声を忍ばせ、喉を鳴らすだけで快感をこらえている。
「声を出してイッていいよ」
「でも、隣の部屋に……ゆっくりしてね。大きな声が出ちゃう」
 奥を突かないようにゆっくり動かす。また波がうねりはじめる。
「あーん、気持ちいい!」
 奥を一度だけ突く。
「アー、イッちゃう、イク!」
 声が高く上がる。隣部屋に住人はいるのだろうか。もしそうなら、この声を聞かせてやりたい。引き抜き、四つん這いにさせて、腹に手を回し、抽送を速めて、強い収縮を急いで呼び寄せる。
「あ、ああ、またきちゃった、熱い、好き、好き、キョウちゃん大好き、愛してる、あああ、気持ちいい! イクイク、イク、イクウ!」
「ぼくも!」
 カズちゃんが気をやっている最中に引き抜き、背中に放射する。彼女は突き上げた尻のあいだで小陰唇を文字どおり唇のようにひくつかせ、膣口を剥き出しながら全力で腹を搾る。何度も見てきた光景だ。五十歳、六十歳、七十歳になってもこの光景を見ていたい。きっと見ることができるだろう。
「外に出してくれたのね。ありがとう。でも、私、どんなことでも引き受けるつもりなのよ。子育てなんて簡単よ」
 ティシューで背中の精液を拭き取ってやる。カズちゃんはありがとう、と言って長々と横たわり、天井を見上げた。私も並びかける。
「まんいち、子供を産むことがカズちゃんの幸せだとしても、カズちゃんのからだを痛めたくない。カズちゃんと二人だけで完結したい」
「キョウちゃん!」
 すすり泣くよう声を上げて抱きついてきた。
 カズちゃんはタオルを絞り、私のものを清めた。コーヒーをもう一杯いれ、私に飲ませているあいだに、服を整え、
「じゃ、文江さんを見舞ってくる。もう病院の廊下をどんどん歩き回ってるみたい。退院は九月四日の月曜日ですって。節子さんが遅番だから、二人で迎えにいって家に送り届けるから、心配しないで。山口さんはあした十二時に飛行機で着くらしいわ。おトキさんが空港まで迎えに出るって」
「ぼくは自転車で北村席にいけばいいね」
「あしたの朝、菅野さんが八坂荘に届け物をしがてら迎えにくるから、いっしょに北村にくればいいわ。菅野さんはそのままおトキさんを拾って空港にいくことになってる。名城のほうには三日間休みますって連絡しとく」
 私を蒲団に残し、手を振って出ていった。
 パンツ一枚で机に向かう。数Ⅰ。不等式の証明。もし出たら確実な得点源だ。まず出ない。つづけて日本史をやる。見たくもなかった参考書の活字まで新鮮に映る。
 ―受かるのがいちばんの近道だ。
 三時間ほど夢中でやった。部屋の隅の埃に気づき、美濃路の電器店へ出かけて掃除機を買ってきた。一万九千八百円也。高すぎると思ったがためらわずに買った。雑貨店で寒暖計も買う。
 蒲団を上げ、部屋の隅々まで掃除する。細かい埃が跡形もなく消えていく。値段が張るだけのことはある。窓の敷居にも桟にもかけた。蒲団を敷き直した。柱に取りつけた寒暖計の温度は三十・九度。
 喫茶花屋に出かける。レジカウンターの女将がめずらしそうに見つめた。
「オムライス」
 婆さんに言う。
「はーい、オムライス一つ! きょう一日、このあたりウロウロしてたやろ」
「はい、引っ越してきたんです」
「西高生?」
「はい、三年です」
 奥の調理場の窓口からこちらを覗っていた主人が、
「やっぱり神無月郷だ。サインもらっとけ!」
 と怒鳴った。女将は、
「え? なになに」
 と私の顔を見つめ、首をひねった。女はスポーツ新聞を読まない。
「あ、いつかテレビのニュースで……」
「きょうの新聞にも載っとる。ドラフトナンバーワン、模擬試験ナンバーワン。西高の学生だから、いつかうちにもくるだろうって思ってたんだよ」
 私は驚いた。模擬試験なんてものが、新聞種になるのだろうか。情報源はたぶん西高の職員室だろう。私は表情を緩め、
「プロ入りを断ってますから、ドラフトにはかかりません」
 私が婆さんから色紙を受け取ると、女将が、
「花屋さんへ、と書いていただけます?」
「はい」
 へたくそな楷書で、《神無月郷 花屋さんへ》と書いた。主人が、
「オカアさん、ビニールで包んで、壁に貼っといて」
 婆さんは亭主の姑だったようだ。自分の母親なら、ふつうおふくろと呼ぶ。女将は女房だろう。
「オムライス上がったぞ」
 女房が皿を運んできて、
「ええ男やねェ、野球選手にしとくの、もったいないわ」
「バカ言ったらあかんぞ、野球選手がいちばんや!」
 また亭主が怒鳴る。ちらほらいた客が、われもわれもと寄ってくる。
「すみません、これから何度でもきますから。きょうは勘弁してください」
「おおい、遠慮してくれ! 神無月さん、ゆっくり食べて。サービス!」
 みんな地元の常連客のようで、納得顔で引き下がる。私は自分が特別待遇されることに大いに驚き、
「無料サービスは遠慮します。気兼ねしてこれなくなっちゃうんで」
「二度目からはちゃんと取るから。きょうのは色紙代やがね。将来何百万円にもなるのに、そんなもんでごめんなさいよ」
 ケチャップをスプーンで押し拡げ、玉子の薄皮を切り崩しながら、チキンライスを食べる。
「うまい! 少し効いてる胡椒がなんとも言えない」
 私は食欲を満身に表わしながら、最後のひと掬いまでしっかり平らげた。ごちそうさま、と婆さんと女房に言うと、
「懲りずにきてや」
「はい、とてもおいしかったです」
 主人が、
「神無月さん、東大は四年間いるの?」
「たぶん中退してプロ入りします」
「ドラゴンズやな」
「もちろん。じゃ、失礼します。ごちそうさまでした」
 辞儀をして店を出る。夕暮れの商店街が明かりを点して伸びている。浅間下―あの道からタイムマシーンに乗ってやってきて、この道に立っている。西高の正門まで歩く。門前で立ち止まり、黄昏の中に平伏する校舎を眺めた。
 ―東大からプロ野球か。
 いい響きだ。しかし、そんなふうに都合よくいくものだろうか。プロ野球選手になろうとした初心を実現させたい。ただ、それで洋々たる将来を手に入れようとは思ってはいない。プロのグランドで二年でも三年でも充実した時間をすごしたら、引退して、机で暮らしたい。机が好きだ。誇張も韜晦もないそのままの気持ちだ。愛する野球は、たとえ短いあいだでも極めるまでやろう。それからでも好きな机に向かえる。机の上の海―グランドより広いかどうか。
 天神山公園を抜けていき、浄心の市電停留所から引き返す。
 十時まで勉強し、花屋の向かいの荻の湯にいった。かなり混雑していた。シャボンを使い、一度湯船に浸って上がった。北村席ほどの趣はないが、飛島寮の何倍も広い快適な湯殿だった。



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