七十八

 気を取り直した山口が座敷に向かって、
「神無月は全身全霊で唄うので、せいぜい三曲ぐらいしか唄えない。三曲が終わったら、俺がギターでお茶を濁しますから、おトキさんの作ったうまいつまみでも食いながら、バックグラウンドで聞き流してください。じゃ、次は俺がつなぎで唄います。さっき神無月が俺にリクエストした歌で、三年前、三十三歳で暗殺された黒人歌手サム・クックの『ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム』。公民権運動真っ盛りの中、長い困難の中で生きてきたがいまこそ俺は変わると、自己変革の歌を唄って殺されました。今年アレサ・フランクリンがカバーしたばかりのバージョンで少し長めに。じゃ、いきます」
 ドラマチックでリリカルな弾き出し。皮膚がピンと緊張する。

  I was born by the river (私は川のほとりで生まれた)
  In a little tent(小さなテントの中で)
  And just like the river (そしてまるで川のように)
  I’ve been runnin’ ever since (いつだって流れつづけてきた)

 ドンと胸を叩かれ、あっという間に涙が流れはじめた。彼のすぐ脇に立っていた私は場を乱さないように涙を拭わずにいた。

  It’s been a long long time comin’ (ずいぶん長い時間が流れてきたけれど)
  But I know my change is gonna come (ぼくは変化が訪れることを知っている)
  Oh yes it will(かならず訪れると)

 耳鳴りが激しくなり、音楽が聞き取れなくなった。神経がふるえすぎたのだ。レコードの溝をこするようなすばらしい喉のかすれと、歌詞だけが聞こえてくる。

  …………
  There were times when I thought (以前は考えたこともあった)
  I thought that I wouldn’t last for long (長いことつづけていけないだろうと)
  But somehow right now I believe (でもなぜかいまは信じている))
  That I’m able, I’m able to carry on (ぼくはやりつづけていけるだろうと)
  …………
  Sometimes (ときには)
  I had to give up right (すぐにあきらめなければならなかった)
  For what I knew was wrong (まちがいだとわかっていたけれども)
  …………
  It’s been real hard (つらいことだらけだった)
  Every step of the way (来し方のすべてが)
  But I believe, I believe (でもぼくは信じている)
  This evenin’ my change is come (今夜こそ変化が訪れると)


 ギターの音色と湿ったハスキーボイスに圧倒されたのだろう、ホー、という主人の感嘆の声が上がると同時にいっせいに拍手が沸いた。私は拍手の喧騒に紛れて手のひらで涙を拭った。唄い終えた山口を見ると、彼も両手で涙を拭っていた。耳鳴りが小さく一定の大きさでつづいている。私は涙に濡れた手と手で山口と握手した。
「……とうとう俺の歌に泣いてくれたな。サンキュー」
「最高だ。もう、きょうはこれで〆だ」
「そうはいかん。さ、次にまいりましょう。すでに菅野さんからリクエストの予約があった、水原弘の君こそわが命、神無月がいきます」
 イエーイ! と菅野が声を張った。女たちのしとやかな拍手。
「昭和十年生まれの水原弘は現在三十二歳で、昭和三十四年に、ご存知のように、黒い花びらで第一回レコード大賞を受賞しました。神無月、そのB面が何だったか知ってるか」
「黄昏のビギン」
「そのとおり。三十四年はいまから八年前、神無月は十歳です。飯場の鞘土間に黒い花びらが流れていた、と神無月から聞いたことがあります。鞘土間という言葉、いい響きでしょう? 神無月は頭の中で推敲してしゃべります。書くように語るというのが彼の口癖です。さて水原弘はその後、酒びたりに博打びたり、ヤクザとの天晴れでない付き合い方などのせいで、今年の初めまで芸能界を干されていた状態でした。が、今年の二月、ついにこの歌で奇跡のカムバックを果たしました。第九回レコード大賞は固いと俺は見ています。しかし、大賞を獲ったら、また何年か低迷状態に入るんじゃないかな。そういう男なんです。放蕩は癒されない病です。彼は酒で死ぬと思います。神無月、未来の水原弘への鎮魂歌のつもりで唄ってくれ。日本の歌謡史に燦然と輝く黄昏のビギンを唄った男だ。泣かせてくれ」
 哀切な前奏が始まり、すぐにトレモロに移った。それだけですでに素子が顔を覆っていた。

  あなたをほんとは探してた
  汚れ汚れて傷ついて
  死ぬまで逢えぬと思っていたが
  けれどもようやく虹を見た
  あなたの瞳に虹を見た
  君こそ命 君こそ命 わが命

 やんやの喝采になった。節子の唇が、キョウちゃん、と動いた。短い間奏。山口がポタポタとギターの胴に涙を落としている。カズちゃんとおトキさんが二人肩を寄せ合って目をつぶっている。

  あなたをほんとは探してた
  この世にいないと思ってた
  信じる心をなくしていたが
  けれどもあなたに愛を見て
  生まれて初めて気がついた
  君こそ命 君こそ命 わが命

「神無月さん、すばらしい、ありがとう!」
 菅野の声が上がった。その声を追いかけるように、
「キョウちゃん……」
 という節子の声がはっきり聞こえた。素子が、キョウちゃん! と悲鳴のような声を上げた。短い間奏。山口は固く目をつぶり、それ以上の涙をなんとか堰き止めようとしている。

  あなたをほんとは探してた
  そのときすでに遅かった
  どんなに どんなに 愛していても
  あなたをきっと傷つける
  だから離れていくけれど
  君こそ命 君こそ命 わが命
  
 文江さんがドスの効いた声で、
「離れないで!」
 と叫んだ。大座敷が興奮の坩堝になった。山口が手で制している。
「みんな興奮しすぎだよ。これは神無月の気持ちじゃない。作詞をした川内康範の気持ちです。神無月の魂が詞に乗り移っただけだ。神無月が俺たちから離れていくはずがないじゃないか」
 手の甲で目を覆った。
「愛する者から離れちゃいけない。これは神無月の言葉だ。別れなんかドラマじゃないってね。神無月、クタクタだろうが、もう一曲唄ってくれ。おまえの好きな曲を唄ってくれ」
「じゃ、明るい曲を」
 歓声が上がった。私は小さなステージマイクに向かって礼をした。
「横浜にいた九歳のころ、下校の道で民家からよくこの歌が流れてきました。のちに、中原美紗緒という女の人が唄っていたと知りました。どういう内容のドラマなのか、観たことがないので知りません。では、バス通り裏」
 あ、知ってる、とか、十朱(とあけ)幸代、という声が聞こえた。山口が、
「この明るい曲を神無月が唄うと、きっと魔法のように抒情歌になりますよ。楽しみだ」
 ジャッ、ジャジャ、ジャッ、ジャジャ、と前奏が始まる。山口が私にうなずく。

  小さな庭を真ん中に
  お隣の窓 うちの窓
  いっしょに開く窓ならば
  やあこんにちはと手を振って
  こんな狭いバス通り裏にも
  ぼくらの心が かよい合う

 女たちがうっとりと首をかしげて聴いている。山口の顔は危うくなっている。トレモロを交えた長い間奏。ジャッ、ジャジャ、ジャッ、ジャジャ。

  小さな花を真ん中に
  お隣の窓 うちの窓
  向こうが閉じた窓ならば
  なぜだろうかと振り返る
  こんな狭いバス通り裏にも
  目にしむ煙が 流れくる

 長いリフレイン。ジャジャジャジャーン! 拍手、拍手、拍手、いつまでも拍手。手で涙を拭った山口が、
「神無月が唄ったので、別の歌になった。たかがテレビ主題歌だよ。閉じた窓を振り返って煙が目に沁みるというのは、心の中で振り返って涙が流れるという意味なんだな。神無月の唄い方のおかげでやっとわかったよ。歌詞の一語一句に愛情を滲み出す唄い方に心底打たれた。人間が好きでしょうがない男の静かな叫びだな。神無月、席に戻っていいよ」
 私はカズちゃんと素子の傍らに戻った。
「……彼は人目には華々しく見える男だ。しかし、手ごわい憂鬱の持ち主なんだよ。憂鬱と言ってもわからないでしょう。簡単に言えば病気だ。神無月は自分の存在を余計なものと思っている、できれば消したいと思っている。そこは問いかけられないんだ。病気だから、看病するしかない。文江さんに、なぜあんたは病気になったんだと問いかけたらへんでしょう。問いかけずに看病するしかない。いっしょに憂鬱になっちゃいけない。ただ看病すればいい。じゃ、しばらくバックグラウンドを流します」
 私はステージに立ったままでいた。縁側の雨戸は閉じたままだった。みんなで、いつまでもスポットライトの当たっている山口の指の華麗な指先を見つめ、じっとギターの響きに耳を澄ましていた。菅野が声をかけた。
「山口さん、そりゃ、バックグラウンドじゃないよ。また別のリサイタルだ」
 山口はニッコリ笑った。そして三曲ほど弾き終わると、私の卓に戻った。主人が、
「おトキ、そろそろ、酒だ。神無月さん、山口さん、ありがとうございました」
 トモヨさんと賄いも立ち上がった。雨戸が開けられた。女将がビールをつぎにきた。
「お礼の言いようがないわ。あんたがた二人は反則やよ」
「うん、反則や」
 主人が目をしばしばやった。女将は、
「とにかく三日間、ノンビリしてもらうということで、堅苦しいお礼は勘弁してちょうね。うんとご馳走しますからね」
 山口が、
「これ以上のお礼は考えられませんよ。お気遣いなく」
「和子も大物釣りになったな。二十五、六までは小物ばっか釣っとったが」
「うちらにも小物を釣らせた責任はあったやろ。和子が釣ったんやなく、やっぱり、神無月さんたちは、天から降ってきたんよ」
 女将は私たちに団扇を使った。
「俺、分際もわきまえずに、おトキさんを一度だけ叱ったことがあるんですよ」
 山口が柔和な顔で言う。菅野が、
「何を叱ったんですか、おもしろそうですね」
「おトキさんが、私みたいな女でいいんですか、と二度つづけて言ったときです」
 危ないことを言い出したと思った。
「その瞬間、神無月の深い悲しみがわかった。率直でない、答えようのない質問に悩まされて生きてきた悲しみがね。その質問は、なぜおまえは私を振り向かないのか、という彼の母親の質問と同じだからです。自分はあなたに見合っているかという質問に、見合っているとかいないとか答えられるはずがないし、質問した人間は返ってくる答えに自分を慰めるものしか期待していないのは明らかだ。そういう自分かわいいだけの質問は、誠実な人間すべてに対する禁句なんです。私みたいな女、というのがその人間の価値観なら、自分の価値観を誠実な人間に訊いちゃだめだ。そんなことは誠実な人間の知ったことじゃないからです。苦しんだ神無月は心なくも、それに答えるために、自分こそあなたにとって価値がない、私を見かぎってくれと叱りつける作法を身につけたんですよ。自分が愛していることだけが肝心だと教えるためにね。人を愛して見返りを求めないことだけが人間の価値だし、それで愛する者も愛される者も救われる。自分が愛してればそれだけでいい、二度とそんな質問はするなと叱ったんです」
 カズちゃんが、
「そうね、愛していればそんな質問なんかどこからも出てこない」



         七十九

 節子はじっと聴いていた。おトキさんがやってきて、
「……お嬢さんやトモヨさんたちを見ていると、どうしても自分の女としての格というものを考えてしまうんです。心の隅に、もっと若ければ、結婚とか、出産とかできたんじゃないか、そうできないことで山口さんをがっかりさせているんじゃないか。山口さんといっしょにいられるかぎり、そんなことは関係ないって、すっきり心を決めることもあったんですけど、ふと、申しわけない気持ちに戻ってしまうんです」
 カズちゃんが、
「形を整えてあげることが愛じゃないわ。真心を捧げることよ」
「よくわかります。でも、こんなふうに生きいきしている山口さんを見ていると、何かふつうの人間じゃないって気がするんです。才能もすごいし、人間の器も大きいし、到底私なんか近づける人間じゃないって」
 私は、
「おトキさんみたいな女じゃだめだと言われたらどうするつもりですか。格好良く身を引くんですか? そういうのをぼくは〈彼ら〉の意見と言ってます。やっぱりそうか、また彼らが、でき合いの法則に従って好きなことを言っているぞ、せっかく埒(らち)のない生き方に目覚めた人間が、肝心のときに、彼らの一員に戻って、習い覚えた意見を吐いている、残念だ、そう考えてからだの力が抜けてしまうんです。自分の生き方は〈彼ら〉と比べておかしいぞ、まともじゃないぞ、だからこそ、ドキドキして、後ろめたくて、生きてるなァって思えるんじゃないですか。ドキドキしないで、胸を張って、まともに生きることは簡単です。世間のでき合いのレールの上を後生大事に歩いていけばいいだけですからね」
 山口がやさしい目で、
「ところでおトキさんは、神無月の歌に感動した?」
「しました、ふるえるくらい」
「神無月が社会の掟から超然としてるからだよ。レールの上にいたんじゃ聞こえてこない歌だもの。感動したということは、おトキさんも俺もレールの外で感動したということだよ」
「…………」
 山口はおトキさんの肩に手を置き、
「列車から降りて、列車を見ればいいんだ。レールの上を走る列車から、だれが見ていたって関係ない。景色を見てるだけの人間なんて、所詮遠い怖くも何ともない連中だよ。高校生の俺とこうなることは、おトキさんにとってレールの上じゃなかったろ?」
「あのときは、うれしくて、もう夢中で」
「じゃ、いまもうれしがって、夢中で生きたらどう?」
「でも、それはいけないことだと」
「俺はレールの上の話をしてるんじゃないんだよ」
 そばでじっと聞いていた菅野が、
「おトキさん、山口さんは人生懸けてしゃべってるよ。おトキさんほどの人が、どうして世間なの? 世間をバックボーンにちょっと破目を外したり、道草を食ってみたかっただけのこと? そういう人のために、山口さんが出せるような処方箋はないぜ。おトキさんは、山口さんじゃなく、見たこともない大勢の人間に認められたい人ってことになるからね。残念ながら、ここにはそういう人間はいないわ。ここの女たちも世間の道徳からの落ちこぼれだろ。おトキさんだってそうやって暮らした時期が少しでもあっただろう」
「……わかってるんですけど、五十歳と十八歳というのは」
「正直、俺だってすごい年の差だなって思うよ。でも、俺は神無月さんや山口さんの分身だから、不道徳だって思わない。好き合ってるのに齢うんぬんはない、そういう目で見れるもの」
 カズちゃんが、
「私たち以外の人の目なんかどうでもいいのよ。いままでもそうやって、この北村席で暮らしてきたんでしょ? このおとうさんやおかあさんは、信念を持って不道徳な商売をしている親玉、女の人たちは二人を助けてる子分、私はそのおこぼれをいただいて生きてる娘。みんな少しばかりの人たちに認められて、かろうじて生きている人間よ。言ってみれば、世間道徳の爪弾き者ね。山口さんも言ったでしょ、大勢の人たちから認められているキョウちゃんでさえ、自分を不道徳漢だと思ってその存在を世間から消したがってるって。そう考えられるというのは一種の才能だけど、私たちのような能のない人間は、自分を消すとまではいかないまでも、世間並になりたいなんて考えを持たないことが生きていく最低条件ね。人並の〈人〉って山口さんのことじゃないでしょ。山口さんになりたいと思いなさい。おトキさんを責めてるんじゃないのよ。世間への恐怖と板ばさみになりながら、よくぞ山口さんを愛してくれたって、感心してるの。もちろん山口さんもキョウちゃんも身内や周囲のグループという世間を背負ってる。だから、この先その人たちの思惑に困らされることもあるでしょう。でも、そんなことで苦しんじゃだめ。無視しなさい。所詮その人たちは味方じゃないからよ。味方だけを頼りに生きていれば、何の苦しいこともないわ。自分の愛情に疑問を持たないでね。素直に山口さんを愛してあげて。求められたら結婚してもいいけど、きっとじゃまが入るでしょう。それでも笑いながら、山口さんを思いつづけてあげて……トモヨさんや文江さんや節子さんのようにね。みんなさっきから静かにしてるけど、おトキさんの気持ちは痛いほどわかってるのよ。だいじょうぶよ、山口さんはキョウちゃんの親友。愛されるかぎり愛し返す人よ」
 トモヨさんがにっこり笑って言った。
「世間の人は嫉妬焼きです。手放しで生きてる人が羨ましいんです。枠の中から出たくない人が、枠の外で生きてる人を羨ましがっても仕方がないのにね。精いっぱい人を愛すれば、枠の中も外も感じなくなります。それができないから、口惜しくてちょっかいを出すんです」
 菅野がおトキさんの肩をポンポンと叩いた。文江さんが見つめるとおトキさんはうなずき、文江さんもうなずき返した。カズちゃんが、
「文江さんは、いまは、からだを治すことが先決。節子さんは、試験勉強。とにかく目先のことをやり遂げながら、じっくり生きていくのよ」
 素子は節子以上に熱心にカズちゃんやトモヨさんの話を聴いていた。胸の内に火花が散っているような表情をしていた。座敷の女たちも、これまで見せたこともない真剣さで彼女たちの様子を見守っている。
 十時を回った。山口がステージにいき、グルックの『精霊の踊り』を弾きはじめた。またとない美しい曲に、周囲が静まった。弾き終えると、
「タレガの曲を三曲ぐらい弾きましょう。話でもしながら聴いてください。まずヴェネツィア・カーニバル、次にマリーア、それからラグリマと弾きます」
 ラグリマ。光夫さん!
 入魂の演奏が二十分ほどつづいた。彼がギターを置くと、賄いたちが小腹満たしのイカ焼きそばと野菜の煮物の大皿を持って入ってきて、めいめいの小皿に取り分けた。おトキさんだけは、山口に特別盛りの焼そばを捧げ持ってきて、食べやすく小皿に取った。微笑ましいエコ贔屓だった。私とカズちゃんと素子と節子母子には、トモヨさんが持ってきた。主人夫婦はすでに居間の隣部屋の帳場に引き揚げて、しきりに電話に応えていた。女将がお座敷のかかった女に知らせにくる。指名された女は、あわてずに焼きそばと煮物を食べ終えると、化粧をするために自分の部屋へ戻っていく。菅野は女が戻ってくるのを待ちながら、慣れたふうに手早く焼きそばを掻きこむ。やがて、二人の女と玄関へ出ていった。節子と文江さんも、遠慮がちに野菜の煮物を頬張りはじめた。おいしそうにあごを動かす。それをやさしい目でカズちゃんが見つめている。
         †
 節子母子が、ごちそうさまでした、と箸を置いた。節子が訊いた。
「山口さん、キョウちゃんが自分を余計者と思ってるのは、何か理由があるんでしょうか」
「理由なんかないな。みんなそれが直観でわかるから、神無月本人に訊けないんだよ。深い憂鬱からくる究極の無欲というやつだね。命にも無欲なんだよ。そういう人間は、人を区分けする肩書きや身分に興味はないし、それどころか軽蔑する心が強い。本能的にね」
 カズちゃんが、
「……理由があろうとなかろうと、いつでも命を投げ出してる人は、ほかの人とは段ちがいなものになるの。命を投げ出してない人たちはもう相手でなくなるのよ。相手でないなら、自分は余計者でしょ」
 十一時を回って、おトキさんがやってきて、
「これ、お夜食にどうぞ。余りものですけど」
 と節子母子に折り詰めを二つ差し出した。二人は礼を言って受け取った。それから立ち上がり、帳場の敷居へいって、畳に丁寧に手をついた。父親も母親も深くお辞儀を返した。玄関でカズちゃんが、
「節子さん、文江さんを無事に病室まで送り届けてあげてね。文江さん、四日に退院したら、椿町の新しいお家を見にいきましょうね」
「はい、よろしくお願いします。じゃ、キョウちゃん、新しい家に引っ越し終わったら、いつでもええから遊びにきてね」
「うん、かならず」
 節子と文江に軽く口づけをした。二人は手を振って玄関の戸を出ていった。山口がギターをケースにしまいながら、
「……おトキさん、いこうか、そろそろおトキさんが恋しくなった」
「はい……」
 フフ、とカズちゃんが笑い、
「山口さんも言うようになったわね」
 二人で二階へ上がった。ちょうど戻ってきた菅野が、送っていきますと言うので、カズちゃんと素子を花の木に、私を八坂荘に送ることになった。私は助手席に乗った。素子がカズちゃんに、
「いつもあんな話をしてみんなで暮らしとるんやね。怖いわ」
「キョウちゃんがいるときだけよ。みんな張り切っちゃうの」
 菅野がバックミラーを見ながら、
「はい、張り切ります。神無月さんと話すのは、いつも一世一代の覚悟ですよ。そうじゃないと神無月さんに失礼ですから。お嬢さんと神無月さんと山口さん、それから北村ご夫婦は自然体です。力みがない。私は新参者ですから、張り切らざるを得ない。そのうち慣れるでしょう」
「うち、張り切っても頭回らんわ。みっともなくない?」
「すばらしいわ。人間そのものがダイヤみたいにきれいだから、そばにいるとホッとする」
「素子さんはそのままでいいです。張り切っても張り切らなくても、光ってます」
「うち、来月から働くわ。近くの喫茶店で」
 菅野がハンドルを握ったまま、
「素子さん……がんばってね」
「うん。菅野さんもね」
「はい。節子さんも、お嬢さんやトモヨ奥さんみたいにまろやか人ですね」
「苦しいほどキョウちゃんが好きだってことは、私も女だからわかる。キョウちゃんを見つめる目を見ればわかる。歌のときも、ずっとキョウちゃんて呟いてたの。私、涙が出ちゃった。ただ、どれほど自分が幸せかということはすぐわかるわけじゃないから……。いずれキョウちゃんのありがたみが心底わかるときがくるでしょう」
「きますかね」
「くるわ。そして、東京へ追いかけていって、どこかの病院で看護婦さんをすると思う。あの人は、根は臆病な人じゃない」
 二人を砂利の庭に下ろして、菅野といっしょに手を振る。
「じゃ、またあした」
「あした」
 八坂荘へ回る。
「トモヨさんは?」
「堀端のマンションに帰るのは、一日置きですね。きょうは北村に泊まっていくでしょう。名城正門から名駅まで十五、六分かけて子連れの出勤をするはきついですよ。私もしょっちゅうは送迎できませんし、そのうち北村にずっといらっしゃるようになると思います」
 菅野はフロントガラスを見つめながら、
「神無月さんのお母さん、ひょいと八坂荘にきたりしませんか」
「いや、こない。きっと安心してるんだね。このところ成績もいいし、疑わしく思うような点はないから」
 女のにおいがしない以上、当分母は八坂荘に連絡をしてこないだろうと勘でわかっている。
 深更二時まで英語難問集。


         八十 

 八月二十九日火曜日。新しいふかふかの布団で寝て起きる。九時。快適な目覚め。晴。二十八・九度。
 ランニングのコースを探りに出る。八坂神社前を出発し、環状線を横断し、美濃路を一直線に庄内川土手まで走る。小さな石鳥居と寂れた社務所が雑木の陰に見える黒龍神社に到る。およそ一キロ。枇杷島橋を望見して戻る。ゆっくり往復して十二分。足りない。
 八坂神社前を出発し、美濃路を一直線に走り、トモヨさんのシャトー西の丸に到る。二キロ強。ゆっくり走って往復二十五分。よし。しばらくこれでいく。
         † 
 ステージは二夜つづけられた。二十九日、私は、佐々木勉の『あなたのすべてを』と森山良子の『今日の日はさようなら』を唄い、三日目三十日の夜には、大座敷の女たちのリクエストで都はるみの『涙の連絡船』と北島三郎の『兄弟仁義』を唄った。
 その二日間、昼めしどきに北村席へいき、夕方のステージが始まるまで、おトキさんの部屋で寝転がりながら山口と二人きりで話をした。話題は尽きなかった。何ということもない思い出話から始まって、映画、音楽、文学にいたるまで、真剣に語り合った。山口の知識は目覚ましかった。ときどき私の意見を褒めるやさしい笑顔を見て興醒めするほどだった。肝心の受験の話題はあまり出なかったが、私の駿台模試一位のことを報告すると歓声を上げて喜び、自分もあの模試で文Ⅰ当確が出たと語った。
「戸山では五本指を外さなくなったから、まずいけると思う。そうか、全国一位になったか。やっぱり神無月だ。こういうくだらないことでもキッチリ一番になっちまう。因果な野郎だな」
「文系なんてのは、理系のお飾りだ。勉強しなけりゃ成績は残せない。一瞬のキレで問題を解くわけじゃない。知識の積み重ねで、どうにか総合得点を増やすというやり口だ。自慢できるほどのものじゃない」
「そりゃ、俺の話だ。おまえの得点の仕方は異常だ。英国だけダントツに取って、あとは部分点もらうみたいなやり方だろ。そのパターンがキッチリ決まってる。だから部分点のところでどんなに揺れ動いても、かならず受かるってわけだよ。そんなやついるわけがない。とにかく畏れ入った」
 そうして、おトキさんの話が出た。
「年に二回もきてもらうのは心苦しいから、来年からは自分のほうからいくと言うんだ。知人に遇ったら、親戚のオバサンだと言えばいい、おかあさんだと言うのはまずい、その知人が俺のほんとの母親を偶々知ってたら厄介なことになるって」
「おトキさんはそこまで詳しく対策を立ててるのか。たいへんだ」
「人にくだらない好奇心を起こさせないことは、前途ある人間にとって一大事だと言うんだよ。おまえなら、女神のことをどう言う」
「学生結婚した年上の女房と言ってもいいけど、たぶんカズちゃん以外の女も上京してくるから、一人ひとり正直に恋人だと言うよ」
「じゃ、俺もそうする。びっくりされるだろうけど、最初だけだ。女神のほかにだれが上京するんだ?」
「素子。ぼくが連れていくと決めた女だ。東京でカズちゃんと同居することも決まってる」
「彼女は人間として上物だ。ほかには?」
「節子。カズちゃんの予測だけどね」
「当たってるだろうな。それから?」
「可能性があるのは、中学時代の同級生の山本法子。母親が経営してる神宮前のバーで働いてる」
「ほう、初耳だ。ま、いずれ会うだろう。詳しい話はそのときだ。ほかには?」
「それくらいかな」
「秀子さんはいま青高の一年生か」
「うん。ミヨちゃんは中学二年生」
「いずれにしても、東大に受かるという条件で、三、四年後、あるいは五、六年後だな」
「ああ。……どうなるんだろうな」
「どうすればいいんだろうな、のまちがいじゃないか。しかし、何もしないのが神無月だから、なるようになるしかないだろう」
         †
 山口は滞在を二日延ばして、九月一日の午前に帰ることになった。
 八月三十一日は北村席の夕飯を断り、日の暮れる前に、カズちゃん、素子、山口、おトキさんと私の五人で、テレビ塔の北にあるレストラン『ザンビ』にフランス料理を食べにいった。主人夫婦と菅野とトモヨさんは遠慮した。
 客用の卓の下に赤い絨毯を敷き、その他の部分は板敷きという重厚な構えの店。強すぎない照明のおかげで、店内の雰囲気がしっとり落ち着いていた。テーブルについたおトキさんは、ピタリと椅子ごと山口に寄り添っている。髪を染めているせいか、へえ、と思うほど端麗な顔容に見える。さすがに目尻やまぶたの小皺は隠せないが、かつてのツヤっぽい仕事のせいか、精神よりも肉体を感じさせる魅力がある。焦げ茶色のスーツを着ている。濃い色の洋服が似合う。素子は赤いスーツタイプの洋服。彼女はカズちゃんと私のあいだに席を占めた。
「おトキさん、きれいよ。妖しいホルモンが出てる。素ちゃんもグー。私のセンス、いいわね。お洋服、ぴったりマッチしてるわ」
 二人ともカズちゃんが選んだ服だとわかった。ポトフとかガレットとか、ごちゃごちゃとわけのわからないカタカナを言うウェイターにカズちゃんが簡単に命じる。
「魚と肉の両方を楽しめるディナーコースでお願いね。お箸も持ってきてください。飲み物は水だけ」
「かしこまりました」
 ウェイターが去ると、おトキさんが、
「お嬢さん、魚と肉のコースって、どれくらいするんですか」
「五千円くらいね」
 おトキさんは黙ってしまった。
「はい、ここでキョウちゃん、どうぞ」
「好きな人のために使ってこそ、金だ」
 おトキさんの表情が少し和んだ。素子は頬を赤らめ、かえって緊張した。山口が、
「驚いた値段だな。ここは和子さんのいきつけ?」
「家族のね。終戦後何年かして進駐軍の社交クラブとしてここができてから、ずっと。季節ごとにくるわ。調理の仕方をいちいち教えてくるのがうるさくて。それを気にしなければ、けっこうおいしく食べられるわよ。きょうはうるさくしないように前もって電話しといた。ワインは料理をまずくするから頼まないの。日本料理もビールやお酒が入るとまずくなるでしょ」
「なるほど、気分で飲んでるということはあるな」
 素子は緊張したままずっと無言でキョロキョロしている。前菜が出る。色鮮やかな名も知らぬ野菜のサラダ。酸っぱくて、正体の知れない味だ。魚が二品出てくる。
「これはすずきのマリネ、ディルという香草のソースがかけてあるわ。魚との相性が抜群なの。もう一皿は、ハマグリのフリカッセ。フリカッセというのは、白く仕上げる煮こみのこと。この二皿はまだ前菜よ」
 うまい。箸で食う。山口がため息混じりに、
「こりゃうまい!」
「おいしい!」
 カズちゃんとおトキさんがうなずき合う。
 驚くほど少量のグリーンピースのスープ。パンが添えられている。素子がようやく口を開いた。
「お姉さん、ライスはないの」
「フランス料理には出さないの。パンも主食じゃないのよ。スープの口休めって感じ。サラダにしても、主食の肉や魚で血が酸性になるから、それを中和する意味があるの」
「知識って、快適だね」
「フン、だ」
 魚が出る。素子が、
「何やろ、これ」
「鯛のポワレ。トマトソースかけ」
「ポワレって?」
「油やバターを使って焼くこと」
 素子は案外器用にナイフとフォークを使って頬張り、おいしい、と言う。山口が、
「ムニエルは?」
「もう、からかって。大学で料理に詳しくなっちゃったんだから仕方ないでしょ。切り身魚に下味をつけて、小麦粉をまぶして、バターでこんがり焼くの。おトキさんの得意料理よ。ネ」
「はい」
「ソテーは炒めること」
「炒めるんですか。私は焼くんだと思ってました」
「輸入した言葉だから、使い方がちがっちゃうことはよくあるわよ。スフレは卵白を加えてフワッとさせたもの、パテは餃子みたいなもの、マリネは酢漬け、このへんにしときましょ」
 私はしつこく、
「最初にウェイターが、ポトフとかガレットとか言ってたよ」
「ポトフは大切りの肉や野菜に香草を入れて鍋で似こんだもの、ガレットは煎餅の形をしたものという意味よ。はい、ほんとに打ち切り」
 鯛のポワレを食べ切ると、シャーベットアイスが出てきた。
「あれ、これで終わり?」
「魚料理の口直し。まだお肉が残ってるわよ」
 ピアノの生演奏が入る。愛情物語のテーマ。
「演奏が入るのは月曜と金曜だけよ。二十八席しかないから、予約を取るのがたいへんだったんだから」
 山口が、
「昭和三十年、愛情物語か」
 私は、
「カーメン・キャバレロ、トゥ・ラブ・アゲン」
「ショパンのノクターン第二番が原曲だ。俳優はだれだったかな」
 カズちゃんが、
「タイロン・パワーとキム・ノヴァク」
 素子が、
「……音楽って、すごいね」
 山口がアイスクリームをひと掬い口に入れ、
「最初の音楽は歌声だった。唄うのは人類だけだ。最初の楽器は打楽器。リズムはあったけど、メロディやハーモニーはなかった。いちばん古い管楽器は笛。三万六千年も前に骨で作った。現在のリコーダーのようなものだね。最初の楽器音楽は猛獣や害虫を退散させるためのもので、それが儀式的、宗教的なものへと変わっていったんだ。言語能力の発達の副産物として音楽的な能力が高まったと考えられてる。言葉と音楽は深い相関関係を持ってるんだね。音楽理論は古代ギリシャで完成していた。リズムやメロディに〈反応〉できる霊長類は人類だけ。しかも音楽に〈感動〉できるのも人類だけの特徴で、赤ん坊も感動する」
「キョウちゃんの歌や山口さんのギターにあそこまで感動するのは、赤ちゃんでは無理やろ?」
「特に神無月にはね。あれは子守唄じゃないからね。規格外の神秘性と宗教性には大人しか感動できない。神無月の歌は普遍的な魂の救済としか表現しようがない。降りてくるものだね」
 カズちゃんが、
「山口さんの初日の英語の歌も降りてきたわ。胸にドカンときた。歌詞の意味はわからなかったけど、キョウちゃんと二人で手放しで泣いてたから、きっと、希望を捨てないで苦しい人生に挑戦する歌だと思った」
「そのとおりです。特に神無月の人生にね。神無月が俺の歌で泣いたのは初めてだった。あの瞬間俺は、神無月の魂を救った。こいつの魂を救ったなんて! 腹の底から自信が湧いて、終生音楽をやっていこうって決意した」
 私はおトキさんに、
「おトキさん、山口と死ねる?」
「はい。でも山口さんは、この先長く生きる人です。私にはあまり先がありません。いっしょには死ねないでしょうね。むかしの節子さんみたいに身を引くことはしませんけど、生きていられるかぎり、陰ながら一生そばにいるつもりです。山口さんが先に死んだら私も死にます」
 カズちゃんが、
「節子さんはむかしもいまも身を引いてなかったのよ。三年間も貞操を守ったのがその証拠。おトキさんと同じ。キョウちゃんが近づいても離れても、自分のペースでずっとそばにいる人。いじらしいわ。恨めない」
 山口が、
「すごい人間洞察力だな」
 私は、
「おトキさん、いまおトキさんもカズちゃんも言った、そばにいるってどういうこと?」
「…………」
「ぼくの勝手な考えだけど、距離を開けようと、時間を空けようと、山口とおトキさんが逢わないわけにはいかないわけだから、何かの交渉はできあがるよね。もし、やむを得ない理由で山口がおトキさん以外の女と結婚するとして、女房の目を盗んでおトキさんと逢瀬を果たすなんてのは、どこかおたがい満たされないものが残るよね。思い切って恋人宣言をして、山口とぴったりくっついて自由に生きるべきじゃないかな。それがそばにいるってことだと思う。陰ながらじゃそばにいることにならない。……脅かしちゃったね。安心して。山口は、おトキさんが生きてるかぎり、いや死んでも、ほかの女とは結婚しないよ。愛してるから。だから堂々と恋人宣言をして生きればいいじゃない。何の問題もない」
「……はい」
「ならバンザイだ。何も陰ながらなんて考える必要はないんだ。日なたながらでいい」
 山口が膝をこすって笑った。
「神無月、ありがとう。おトキさん、賄いの主役はトモヨさんや若手に譲って、年に二、三回なんて言わずに、しょっちゅう東京に遊びにくればいい」
「北村席の賄いでしっかりがんばりたいんです。六十くらいまでは」
 カズちゃんが、
「ほんと? じゃ、そうすればいいわ、料理上手だから北村席としてもありがたいわ。ただ、これからはなるべくラクな仕事をするようにして、せいぜい山口さんとたくさん逢う算段をしなさいよ」
 まじめな笑顔で言った。



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