八十四

 生物の勉強。不完全優性。致死遺伝子。楽しさが佳境にさしかかる。ドアがノックされて中断。苛立ちを隠さずにドアを開けると、吉永先生が、廊下の薄明かりの下でプラスチックの桶を抱えて微笑んでいる。ピンクのセーターに裾の広がったラフな柿色のスカートを穿いている。
「お風呂にいきません?」
「風呂? ああ、花屋の向かいの萩の湯ね。おとといいったばかりだな」
 風呂へいくというのに、きのうよりも濃い化粧をしている。道端の雑草が精いっぱい色濃い花を咲かせている感じだ。
「お風呂は毎日でもいいんですよ。さっぱりして、それからまた勉強したら?」
 きのうよりも馴れなれしい調子だ。勉強を中断するのは気がかりだったが、彼女の心根にトゲを刺すのも気の毒な気がして、明るく笑い返した。
「いきましょうか」
 明かりの落ちた商店街を並んで歩いた。吉永先生の背は私の肩までもなかった。百五十センチに足りないかもしれない。労災病院の小さな看護婦を思い出した。風呂桶を抱える手は幼女のように節々がふくらみ、顔のツヤも、化粧のせいとはいえ、勉強に疲れた私のそれよりもはるかに輝きがあった。吉永先生は私を見上げながら、うれしそうに弾むような歩き方をした。
「入浴時間は十五分にしよう」
「はい。私が遅れたら、先に帰っててください」
「待ってる。帰りにこの花屋に寄ろう。野球ファンがうるさいけど、この通りに喫茶店はここしかないんだ」
「このお店、十一時までやってるの。私、常連なんです」
「ぼくも何度か入った。いい名前だよね、花屋って」
 カランの前で歯を磨き、髪を洗った。毎日きて、髪だけ洗うのもいいなと思った。
 十五分後に番台の戸を引いて表に出た。涼しい風が吹いている。私は道の向こう側に渡り、花屋の青いネオン看板の前に立って待った。五、六分して先生が出てきた。
「神無月さんはカラスの行水ですね」
「からだの面積が大きいから、洗いだしたら時間がかかる。適当に切り上げないと」
 広々とした店内に入る。
「あら、神無月さん、いらっしゃい!」
 女房と婆さんがいっしょにお辞儀をする。客は中年のカップルが二組。
「人を連れてるんで、きょうはサービスいらないですよ」
「何言ってるの。あら、先生、いつもご贔屓に」
「西高の保健の先生です」
「存じてます。いつもどうも」
 吉永先生は少し気取ったふうに頭を下げた。
「同じアパートだったんで、挨拶代わりに風呂に連れてきてもらいました」
「へんな挨拶代わりね。アパートはどこですか?」
「八坂荘です」
「ああ、八坂神社の前の道を入ったところね」
 大きなカラーテレビが入口のすぐそばの棚に据えられ、点けっ放しになっている。テレビがあることに初めて気づいた。奥から声が飛んでくる。
「神無月さん、初めてのときはオムライスやったけど、うちの自慢はナポリタンなんだよ。食ってってくれ」
「はい、それ二つお願いします」
 奥へ進み、出窓のある壁ぎわの長いソファに少し離れて横並びに座った。私はコーヒーを、先生はアイスクリームを頼んだ。先生の頬が洗いすぎたせいでテラテラ光っている。
「ブスでしょう? もう、年だし」
 快活に笑い、小ぢんまりとした鼻に皺を寄せた。見つめ直す。初対面のときと印象は変わらない。一重の目は小さく、頬骨がわずかに尖り、歯も多少反っている。歯を包む上唇が下唇よりも出ている。どう見ても美しくはない。ただ、顔全体に溌溂とした輝きがあった。カズちゃんの輝きに似ていた。私を見つめさせたものはそれにちがいなかった。
「いくつ?」
「ま、遠慮がないこと。女の齢を訊いちゃだめよ」
「じゃ、見た目にしよう。二十五」
 先生は濡れた短髪をかき上げ、
「二十三歳。大学を出てから二年になるわ。神無月くんより五つ年上ってことね」
 節子より一歳年下だ。素子より……どうでもいい。脇に見える膝頭が成熟している。コーヒーとアイスクリームがきた。先生はあっというまに平らげた。
「大学はどこ」
「高知女子大。看護学科を出ました。准看の資格を持ってるのよ」
「ああそれで保健を教えてるんだ。専門家だね」
「ただの保健婦さんよ。……きれいな目。力があって……悲しそう」
「悲しそうですか」
「ええ。……神無月くん、女の扱いにはけっこう慣れてるでしょう」
「―聞こえたの?」
 先生は赤くなってうつむいた。小声で言う。
「……女って、恥ずかしい声を出すのね。神無月くんの部屋だと思わなかったわ」
「不潔ですか」
「十八歳といったら、もう立派な大人だもの」
「立派な大人! 古風な表現だ。すてきだ」
「……神無月くん、挨拶にくるまで私のことなんて知らなかったでしょう」
「はい」
「神無月くんが編入してきた年の春に、私も西高に赴任したんです」
「そうですか。でも、ふだん保健室にいるんだから、見かけるはずがないですね」
「……そうだけど、私はずっと知ってました」
「ぼくは、学校の有名人だから」
「いいえ、そういう人だって知る前から。……去年の九月、神無月くんが渡り廊下から端の校舎へ歩いていくのを見たんです」
「ああ、転入した二学期か。保健室は渡り廊下の外れだったね」
 ナポリタンの皿が湯気を立てて出てきた。ごゆっくり、と婆さんが言う。さっそくフォークに巻いて食う。
「うまい!」
「おいしい!」
 よっしゃ、と厨房から声がした。夕食を求めて客がポツポツ入ってきた。騒がしさに紛れて問いかける。
「クニも高知なんですか?」
「そう。魚屋の娘」
「じゃ、魚ばかり食べて育ったんだ」
「まさか。野菜も食べます。ただ、家が貧乏だったから、残り物しか食べさせてもらえなかった」
「魚屋の残りものなら新鮮だ。残飯じゃない」
 先生はスピード豊かにフォークを使う。私の倍の速さだ。それにしてもスパゲティを噛む唇の動きに品がない。湯が冷めて頬の赤味が退き、次第にもとの醜女に戻っていく。溌溂とした輝きも消えていく。
「両親が早くに亡くなって、姉が一人で店を切り盛りして……。十一も年がちがうの。感謝しなくちゃ。私が大学を出るまで、小さいころから面倒を見てくれたんだもの」
 話題もしゃべり口も平凡のきわみだ。私はひたすらフォークを動かす。
「身の上話なんかまっぴらって顔。私、こんな話がしたかったわけじゃないんです。へんねえ、神無月くんといっしょにいると、何だか図々しくなっちゃう」
 ―教師は面倒だから気をつけてね。
 カズちゃんの声が聞こえる。身の上話以外に何を話すことがあるのだ。
「苦労したんですね」
 平凡な話には平凡に応じる。
「ごめんなさい、退屈させて。……あした、ブリの照り焼き作ってあげます」
 吉永先生はフォークを置くと、幸福そうに笑った。輝きが戻ってきた。
「さあ、帰って勉強だ」
 私は膝を叩いて立ち上がった。
「だいぶ遅くなったわ。ほんとに勉強しなくちゃ」
「今度暇なときに話でもしよう。ふるさとのこととか、お姉さんのこととか」
 かすかな社交辞令がある。
「神無月くんもお話してくれる?」
「大して話したいこともない……」
「噂は聞いてます。お気の毒に」
「助けられないなら、同情の言葉は口にしないほうがいい。おためごかしが人間関係をいちばん危うくするんだ」
 私はわざと不機嫌な顔をして見せた。
「すみません」
「謝ることはない。作った憐憫の情というのはだれにでもある。……ぼくも母親だけで育ったから、先生と似たような境遇だって感じがするけど、ただぼくには、先生みたいに肉親に対する感謝の気持ちがない」
「いつも下を向いて歩いてるからだと思います。この一年間、神無月くんをどこで見かけてもそうだった。自分の世界に浸りきってるみたいで」
 答えになっていない。
「下を向いて歩いていることと、感謝の気持ちがないことと、どんな関係があるの? 上を向いて歩けば感謝の気持ちが湧いてくるの? 下を向いて歩くのは、ぼくの単なる気質の問題だよ」
「気質じゃなく、周囲に対する気配りのようなものだと思うんです。視線を真っすぐ前に向けて人を見ないと、自分のことだけになってしまう」
「周囲じゃなく、愛する人に対する気配りのまちがいじゃないかな。その意味なら、きちんと上を向いてるよ」
「……いきましょう。あ、お金はいいです。先生が生徒に払わせるわけにいきませんから」
 厨房から声がかかる。
「毎度! きょうはファンが静かでよかったね、神無月さん」
「はい。ナポリタン、絶品でした」
「ありがと!」
「ありがとうございました」
 女将と婆さんが頭を下げた。
 夜の道に、相変わらず涼しい風が吹いている。
「わあ、寒いくらい。早く蒲団に入って、あしたの準備をしなくちゃ。私、炬燵もストーブもないから、寒くなるとすぐ蒲団に入って寝てしまうんです」
 寒いとは思えなかった。風呂桶を抱えて歩く吉永先生の横顔を見つめた。すでに引き締った大人の表情に戻っている。きのうの赤いゼリーを差し出したときとは別人だ。たぶんこっちの顔が本物なのだろう。
「ひとこと言っておくよ。ぼくは、きみの憶測とちがって、感謝の気持ちだけで延命している人間だ。視線は真っすぐ前を向いている。気配りも激しい。自分のことだけを考えてすごすことはまずない。ただ、親だろうとだれだろうと、悪さを仕掛ける人間には感謝しない。おまけにぼくは、母と同居したことはあるが、かしずき育てられたことはない。それをしてくれたのは、他人だ。いまも学費や生活費は彼らが出している」
 先生はハッと息を呑んで立ち止まり、
「……ごめんなさい、何も深い事情を知らないのに、失礼なことを言ってしまって」
「失礼には慣れてるけど、ぼくを気に入った人間が失礼を働くことは見逃せない。先生はぼくを気に入ってないね」
「いえ、気に入ってます。気に入ったというか……」
 厳しいものが吉永先生の表情を支配していた。彼女は早足になって先へいった。私はゆっくり歩いていった。先生が玄関で待っていた。 
「ほんとにすみませんでした。私、いい気になって。……どの先生も神無月くんは受かるって言ってます。私もそう思います」
 話が受験に方向転換した。
「でも、どんな秀才でも、東大だけは百パーセントってわけにはいきません。東大でなくても、国立大学はそうです。私も合格圏と言われた高知大学を受けたんですけど、落ちてしまって、結局公立の高知女子大にいくことになりました。いちばんいきたかったのは私立の東京女子大でした。姉のこと考えると、中央の私立は無理だったんです。……落ちたらどうするんですか。プロ野球にいくんですか」
「何も知らないんだね……きみは次元のちがう話をしてる。落ちたら、プロ野球にいくのに相当苦労することになる。きみの話なんか、そこいらに転がっているただの受験生秘話だ。落ちたらぼくはプロ野球にいけないんだよ。滑り止めに滑りこんでも、プロ野球にはいけない。マイナスの条件から出発して、何かを仮定するような恵まれた状況にはいないんだ。東大は危ないから、滑り止めを受けておけなどという、楽しい受験物語は家庭の卓袱台か、進路指導室の机でやってほしい。もう話すのが面倒だ。ぼくは勉強に戻る。先生も机に戻ってあしたの準備でもすればいい」
 式台の前で吉永先生は胸を張った。
「五分だけでも、お話を聞かせてもらえませんか」
「面倒だ。勉強もあるし」
「好きなんです! 神無月くんのこと、ずっと好きだったんです」
 覚悟の表情を浮かべながら先に立って階段を昇った。ずんずん昇っていく。私の部屋のドアに向かう。ドアの前に立って私を待ち受け、
「ほんとに好きなんです。……一年前から」
 私はドアを開けた。
「そういう告白に応える気分じゃないから、五分だけ、いき当たりばったりの話をしよう。身の上話はしないよ」
「はい……」


         八十五

 先生は私の背中について入り、
「広い! 私の部屋の二倍ぐらいありそう。片付いたお部屋ですね」
 明るい調子で前言と関係のない話をしようとする。台所を見て、
「揃ってますね。食器を載せる金網を吊って、布巾掛けまで取りつけて……」
 こだわりのないところを見せようとして必死だ。五分でも話を聞きたかったんじゃないのか。
「ぜんぶ、知り合いがやってくれたことだよ」
「知り合いって……あの声の人ですね」
 面倒くさい。
「そう」
「わあ、メリタ! 一杯ごちそうしてくれます?」
「いいよ。一杯飲んだら帰ってね」
「はい―」
 湯を沸かし、炬燵テーブルでフィルターコーヒーをいれる。
「いいにおい。……どんなふうにしてそのかたと?」
「知る時間をはしょりたいなら、話してあげるけど」
「いえ……別にすぐ聞きたいわけじゃありません」
「ぼくも話したいわけでもないから、話さない」
「はい」
「世間は恐ろしいほど平凡だ。その平凡さが凶器になる。しかし、よく簡単に〈好き〉だなんて言えたもんだね」
「すみません」
 吉永先生は私の横に少し離れて座った。私はコーヒーをいれながら、ときどき彼女の横顔を見つめた。何の感興も湧いてこない。コーヒーを飲んだら、やはり帰ってもらおう。
「どうぞ」
「いただきます」
 吉永先生はふるえる両手でカップを持ち、尖った唇に押し当てた。
「おいしい……」
 カップを置いた先生の顔が紅潮している。火照った頬に片手を当てる。テーブルを眺める目がうつろだ。やがて、そろり、そろり摺り寄ってきて、
「私もあした、おいしいブリ照りを作ります」
 私の足の指先に彼女の脛(はぎ)が触れた。ハッと息を呑むような顔をしたが、じっとしたまま脛を引っこめる様子もない。私は脈でもとるように、足の指を先生の柔らかいふくら脛に押し当てたままにしておいた。彼女はそろそろと引っこめた脚をまたにじり寄せて、私の反応を確かめる。哀れだ。
「神無月くんのお母さんは独裁者だってことですか? 聞いた話ですけど……」
 上ずった声が十畳の部屋に浮き上がって響く。二十三にもなって、足が触れたぐらいでこんな恐慌状態になるとは、いったいどんな青春を送ってきたのだろう。
「さあ、何者か知らない。人をいたぶることが好きな趣味人かもしれない。母について語ることはない。そろそろどうでもよくなってきてるからね。……野球については語ることがある」
「聞かせてください」
「野球は命よりも重いものだと思ってずっと生きてきた。毎日そう思って、その思いを守ることに必死で生きてきたせいで、もっと重いことを忘れてしまっていた」
「どんなことですか?」
「それは……人のために尽くせ……。野球への長い思いからそれを学んだ。だから、いまでは、野球への思いさえ失わなければ、野球が手には入らなくても大きな痛手だとは感じなくなってきてる。でもね、ぼくが東大に受かることで心を満たされる人がいて、野球に一歩でも近づくことで心を満たされる人たちがいるなら、彼らの心を満たすことこそ自分の責務だと思うようになった。勉強や、試験成績や、受験や、トレーニングといった目先のことに拘って精いっぱい生きることが、気に入った人に尽くす手段になると思うようになった」
 吉永先生は飲み差したカップをテーブルに戻すと、私にくっついていた脛を離した。
「ぼくはこれから勉強する」
「……はい」
 先生はゆるゆる立ち上がり、ドアを出ていった。私は生物の致死遺伝子に取りかかった。
         †
 十二時を過ぎて、吉永先生がドアをそっと叩いた。私は教科書を閉じ、ドアを開けた。先生は、髪を梳(と)き、化粧を落とし、パジャマを着ていた。
「何ですか?」
「自分の気持ちを抑え切れません」
 スルリとドアの隙から入りこみ、
「いつもパジャマの下に何もつけないで寝るんです」
 剥ぎ取ればすぐ裸体がある、と言いたいのだろう。先生は私にすがりつき、固く抱き締めた。
「すみません、こんな破廉恥なことして。でも、好きなんです。ほんとに好きなんです。さっきのお話で気持ちがすっかり決まりました。嫌わないでください」
「ぼくに抱かれたい、ということ?」
「はい」
 気持ちが昂ぶらない。たぶん勃起しないだろう。
「蒲団に横たわって」
「はい」
「きみを愛撫しているうちに勃起したらセックスをする。勃起しなかったらそこまで。承知してくれる?」
「はい。……あの」
「何?」
「そうなっても、ときどきお話してくれますか」
「目先のことをね」
「はい」
 天真爛漫な女だとつくづくわかった。先生は万年蒲団の上にパジャマのまま仰向けに横たわった。目を閉じ、少し歯の覗く口を薄く開け、ゆっくり呼吸をしている。私は炬燵テーブルからその様子を見ていた。それから蒲団にいき、そっと先生の手を握った。強く握り返してきた。その手を彼女はパジャマの胸に引き寄せた。呼吸が速くなった。息が私の頬に当たる。何のにおいもしない清潔な呼気だ。唇を寄せると、その瞬間だけ目を開き、鳩のように首を引いた。私は見つめながら、唇を合わせた。
 ロボットになる。胸から手を這わせて、パジャマの上から陰阜を撫でた。彼女は、あ、と細い声を上げ、私の手の甲を押さえた。しばらくしてその力が緩んだので、パジャマのゴムの下に手を滑りこませた。暖かい沼に触れた。彼女はからだの力を抜き、グッタリとなった。美点を見出そうと懸命に顔の造作を見つめる。
「……初めてなんです」
 私はうなずいた。
「だいじょうぶな日です」
 保健の教師らしく教える。パジャマの上着を脱がせる。巨大な胸だ。ズボンを引き下ろす。美しい逆三角形の陰毛が目を射る。驚いたことにまったく肥満していない。先夜はベルトをきつく締めすぎていたせいで錯覚を起こしたのだろう。人形のようにからだが小さいので、大きな胸と腰が目立つ。顔を忘れ、勃起が始まった。
         †
 亀頭から茎にかけて毛筆で刷いたような血の筋が付着している。文江さんのよりも鮮やかな色だった。見下ろすと、シーツに手のひらほど広く血が染みていた。その周囲にも点々と赤く散っているのが不思議だった。吉永先生はそれに目をやることもせず、予想もしなかった痛みに怯えて私から瞳を離そうとしない。
「きょうはこれでおしまい。あとは、あした、ブリ照りのあと」
 私はティシューで自分のものに付着した血を拭き取った。
「……神無月くん、射精しませんでしたけど、つらくないんですか?」
「かなり痛がったから。見てごらん」
 私はシーツの染みを示した。先生は自分が処女でなくなった証拠をじっと見つめた。うっすらと涙を浮かべている。
「少ししか出血しなかったり、ぜんぜん出血しない人もいるって書いてあったのに……こんなにたくさん出るなんて」
「勉強したことと実際は、ちがうものだよ。ぼくも血を見たのは初めての経験だから、びっくりした」
「このシーツ、きれいに洗ってお返しします。記念にとっておきたいけど、恋人が怪しむと神無月くんに気の毒ですから」
「何枚もあるから、とっとけばいい」
 私は初めて笑いかけた。先生は飛びつくように私を抱き締めた。それから股間にティシュを挟み、起き上がってシーツを剥がした。丁寧に畳む。
「わ、蒲団にも少し滲みてます」
「気にしない。すぐ乾くよ」
 先生は横坐りになり、好奇心に満ちた目で私のものを見つめた。たぶん彼女が生まれて初めて目にする男性器だった。手を伸ばして茎を握る。
「固い―」
 何度も握ったり緩めたりする。
「こんなふうになってるんですね」
 茎の皮膚をつまみ、陰嚢を手のひらに載せ、亀頭の裏側のくぼみまで念入りに見る。亀頭の割れ目に思わず舌をつけた。
「単純なものだ」
「ええ。でも、きれい……」
 私は蒲団をかぶって、先生に横たわるように言い、並びかけた。目鼻のアンバランスに神経がいかなくなっている。彼女は遠慮がちに私のまぶたにキスをした。
「先生は、吉永何ていうの」
「キクエ、片仮名のキクエ。―キクエって呼んでください」
「先生って呼ぶよ」
「どうして?」
「敬意を表したいんだ」
「敬意だなんて。……恋人は何曜日にくるんですか?」
「好きなときにふらりと。呼べば毎日でもきてくれるけど、土曜か日曜にぼくが訪ねていくことになってる。彼女以外にも、だいたい月に一回こちらから訪ねていく女が何人かいる」
「………」
「どうしたの?」
「驚いただけです。……じゃ、神無月くんが呼ばなければ、ここにだれもこないんですね」
「そう」
 先生はホッとため息をついて、輝くように笑った。天井を眺めながら言う。
「ブリ照りは私の部屋で作ります。……ちょうど一年前に初めて見たときから、心に決めてたんです。この人しかいないって。でも、こんなふうになるとは思いませんでした。死ぬほどうれしい。好きだったんです、ずっと」
 カズちゃんが言ったとおりになった。虎を手で打ち、黄河を渉(わた)る。血気の勇? それほどのことでもない。成りゆきまかせ。ただ、露見すれば、私は退学ということになるだろう。東大もプロ野球も沖の眺めになる。それも私なりの人生模様の一つだとうなずくしかない。これまでもそうしてきた。
「不安そうな顔。将来のこと、心配してるんですね」
「心配はしてない。それもまたいいかなって」
「〈それ〉って? ……最悪のことですね。だいじょうぶです。けっしてだれにも言いません。こんな不細工なオールドミスが、ようやく手にした幸せをむざむざ手離すと思いますか? 私は強欲な女です。安心してください」


         八十六

 九月十一日月曜日。曇。学校帰りにきのう使ったユニフォームを持って花の木に寄る。カズちゃんが水泳教室にいって留守だったので、素子に預ける。素子は日に日に化粧が薄くなり、美しい地顔を見せてくれるようになった。
「残念。きょうはメンス。歩かへん?」
「いいね、どこへいきたい?」
「キョウちゃんのいきたいところ」
「風景の中より、人間のところへいきたい。……いきたいところがある。中学三年のときの担任教師のところだ。亀島町。いってくれる?」
「おもしろそう。自転車なら二十分ぐらいやが。でも、あたしみたいな者がいっしょでええの」
「同級生って紹介するから、かまわないよ。素子は十八、九に見えるからだいじょうぶ。自転車でいこう」
 素子は学生風のプリーツのスカートに着替えて玄関に出てきた。薄い化粧もすっかり落としている。自転車を漕いで、押切から菊井町、那古野と縦断していく。
「どういう先生? そんなになつかしいなんて」
「なつかしいんじゃない。ぼくを中三の夏に預かって、監視した人だ」
「それもお母さんの仕業?」
「うん。とにかく彼の家族に会いたい。いい人たちだったから。この時間なら、先生はいないだろうから好都合だ」
 ガードをくぐり則武一丁目に出た。亀島町に入る。
「そのときの通学路だ」
 と素子に言って、そこからは自転車を牽きながら歩いた。ベランダの突き出たアパートや、背の高いビルが民家のあわいに紛れこんでいたりして三年前とはかなり町並が変わってしまったので、なかなかあの炭屋を探し当てられない。
「毎朝、その先生と熱田駅までかよったんだ。帰りもいっしょのことが多かった。いやだったな。でも、その家族が救いだった」
「いい人たちやったんやね。何で下宿することになったん?」
「夜遊び」
「女?」
「親友と、女。親友がヤケドして入院した病院にほとんど毎日かよった」
「女って、こないだの節子さんやね」
「うん。親友はいま、松葉会という暴力団にいる」
「松葉会は知っとる。蜘蛛の巣あたりはみんな、毎月松葉会にミカジメ払っとる。なんか見えてきたわ。神さまが人間にお仕置きされたんやね」
 ようやく見覚えのある古い町並にたどり着き、炭屋の前に出る。格子戸を引いて呼びかけた。ハーイ、と母親の声がした。
「どちらさん」
「郷です」
「……おや、キョウちゃん! あんた……」
 大きなからだの母親が土間に降りた。
「おひさしぶりです。ぼく、名古屋に戻ってきて―」
「知っとるよ。あんたはもう有名人やもの。タケオ! キョウちゃんやよ! きてくれたんよ」
 いちばん会いたい人が階段を鳴らして降りてきた。
「郷くん!」
「タケオさん、おひさしぶりです」
 母親が目頭を押さえて、
「上がりゃあ、上がりゃあ」
 あの縦長の居間に通された。
「そちらさんは?」
「兵藤素子さん。名古屋西高の同級生です。気さくに口を利く仲です。中学時代の話をして、会いたい人がいるって話したら、自分も会いたいってついてきたんですよ」
「ほうね、わざわざきてくれて、ありがとね」
「じゃ、兵藤さん、上がらせてもらおう」
 あのころと同じ席にタケオさんが坐った。ニキビの跡がくっきり残っていた。母親が茶をいれに台所に立った。そこから声が飛んでくる。
「ドラフト日本一やてねえ。おまけに模擬試験全国一位って、スーパーマンやが。あのキョウちゃんが……」
 鼻をすする音がする。タケオさんが、
「こちらへの転校はどういう事情からだったの?」
 母親が、
「あのお母さんが連れ戻したんやろが。言わんでもわかるわ。ああいう人やもの、わが身が安全やとわかったら、そばに置いて自慢したいんやろ」
 だれも考え及ぶのはそこまでだ。
「タケオさん、浪人どうなりました」
「めでたく受かったよ、郷くん。名大の理学部。いま三年生だ」
「おめでとう! あの翌年に受かったということですね。数学科ですか」
「そう。よくわかるね」
 ダッコちゃんと同じ学部だ。思わず涙が出そうになった。
「あのころはいつも励ましてもらって。心の支えでした。お母さんもほんとうにありがとうございました。……お父さんは」
「去年亡くなったんよ。胃癌でね。癌が見つかったときはもう手遅れやった」
「ほとんど毎日、晩酌してましたね。……線香を上げさせてください」
 鳥のように痩せていた顔を思い出した。次の間の仏壇にいき、まったく話をしなかった男の位牌に手を合わせて瞑目する。居間に戻り、リンを叩き忘れたと気づく。彼らは何も言わなかった。
「よう詩を書いとったけど、やっぱり野球の道に進んだんやね。東大にいって野球やるんやてね。とんでもない話やが。お兄ちゃんも、驚いとったわ」
 母親のついだ茶をすすりながら、
「マスコミがそう言ってるだけです。野球をやらないという条件で、母の許で暮らしてます。母はぼくが野球の道に進むとは思っていませんし、進ませるつもりもありません」
「まあ!」
「どうにかなります。最後はどんな困難も克服して野球をやるつもりです。ところで、浅野先生はスポーツ新聞なんか読むんですか」
「読まんけど、職員室から聞こえてきたらしいわ。あの神無月じゃないかって。みんな腰が抜けるほど驚いたって。……久住先生が泣いとったって」
「浅野先生も、ぼくが野球をやることには反対です。分相応でないと思っているようです」
 タケオさんが、
「お兄ちゃんも郷くんのお母さんと同様、才能というものを信じてないんだ。……スポーツや芸能で名を成した人間をただの幸運児と思ってるような人だから」
 母親が、
「そのうち考えも変わるわ」
「お母さん、神宮の旅館でご恩は一生忘れません。あれ以来あまり音沙汰もせず、すみませんでした」
「何言っとるの。……お兄ちゃんのこと、許したってね。あの子なりに一生懸命やったんよ。私はいまもお兄ちゃんのしたこと納得できんけど、親子だでね、いつまでもいがみ合っとるわけにもいかん。……相変わらずキョウちゃんは天使みたいな顔しとるね。きれいな心しとるんやね」
 素子がうれしそうに私の横顔を見た。
「加藤雅江は訪ねてきますか」
「こん。お兄ちゃんを恨んどるでね」
 素子は加藤雅江とはだれかもわからずうなずきながら、少し悲しそうな顔をした。
「浅野先生はまだ宮中に?」
「いまは天白中に務めとる。結婚して、天白のほうで暮らしとる。たまに顔出すこともあるけど、キョウちゃん、会いたくないやろ」
「はい」
 タケオさんが、
「かあさん、寿司でもとってあげてよ。大出世した郷くんをお茶一杯で帰すのは申しわけない」
「そりゃ、そうや」
「いえ、食べてきました。駅前でラーメンを食べました。ご馳走されにきたんじゃありません。お母さんとタケオさんに会って、どうしてもお礼が言いたかったんです。タケオさん、ぼく、タケオさんが買ってくれた『ラグドール』というレコードまだ持っていて、ときどき聴いてます。ほんとに親切にしていただいて、ありがとうございました」
 素子が大きくうなずいたのは、彼女も花の木でカズちゃんにそのレコードを聴かされていたからにちがいない。タケオさんは目をしばたたき、
「寺田くんはどうなったの?」
「中学を出て、松葉会の立派なヤクザになりました。先日会ってきました。彼のお兄さんは幹部になってます。……あのころは、どこまでも純粋な気持ちで生きていました。いまはそうではないということではなく、あのころは自分の純粋さが人の純粋さにシックリ調和していたというか、夢のような日々でした。夢を見ながら、無茶をしました。自分のことしか考えない人間でしたが、いまはもう、自分の感情ために生きることがつまらなく思えて……無茶をしなくなりました。人に寄り添って生きることが楽しくて仕方なくなったんです。人に寄り添い寄り添われることが、人間のいちばんの幸福ですね」
 素子がまぶたを拭った。タケオさんが、
「いい人のままだね、郷くんは」
「ほんと、ぜんぜん変わらんわ。―雅江さんといっしょに撮ったええ写真があったね」
「はい、いまも持ってます。彼女は熱田高校の三年生です。まじめに、やさしく生きてます。人間の鑑ですね」
「ほんとやね。会いたいわ」
「彼女に会う機会があったら、遊びにくるよう伝えておきます。じゃ、兵藤さん、そろそろいこうか」
「はい」
「兵藤さん、キョウちゃんといつまでも仲良くしたってね」
「はい」
 私たちが立ち上がると、母子も立ち上がり、
「いまはどこにおるん?」
「岩塚の飛島建設の寮で母といっしょに暮らしてたんですが、先月西高のそばのアパートに移りました。受験の追いこみのために」
「ほう? 近いがね。たまに顔出してね」
「はい」
「お兄ちゃんに伝えることはない?」
「縁もゆかりもない母子に振り回されて気の毒をした、二カ月もよくけしからん生徒の面倒を見てくれた、寺田康男に会わせてくれて感謝する、その三つを伝えてください。きょうはとつぜん押しかけてすみませんでした。会いたい人に会えました。折があったらまたかならず寄らせていただきます」
 もうくる理由がないと思った。
「おじゃまいたしました」
 素子が畳に叩頭した。彼女らしくない感じがうれしかった。
「ほんとにまた寄ってちょうよ」
「野球、がんばってね。いつも応援してます」
 玄関に見送られて浅野家を辞した。素子との自由な時間が戻ってきた。
「めずらしい人たちだ。めずらしい人間しか親しく付き合う価値はない。でも、もうこないな」
「あたしは価値ある?」
「大あり。忠犬素公。素子って口に出しただけで、涙が出る。素子を不幸にしないよ」
 素子は浮きうき歩く。
「あたしは待っとるだけでええの。キョウちゃんに迷惑かけたらたまらんわ。……すごい人やねえ、キョウちゃんて。プロ野球選手で東大やもの」
「まだ決まったことじゃないよ。どちらもだめってこともあり得る。そういう一六勝負も彩りがあってすてきだね。さあ、めしを食うぞ」
「びっくりしたわ、食べてきましたなんて。遠慮して言ったんやないことはわかるけど。大出世って浅野のお母さん言っとったね。キョウちゃんは出世なんかせんでも、もともとすごい人やよ」
 薄汚いラーメン屋を見つけ、二人熱いワンタンメンで汗をかいた。
 花の木の玄関前で手を振って別れた。どんなにこらえても、きょうも涙が出た。
 部屋に戻って、地学。地層の断面図。地学の中では不得意分野。しかし楽しい。小田切の異能を思い出す。文英堂の問題集は活字と図が大きく鮮明で、難問も易問に感じられて解き心地がいい。コーヒーをいれる。吉永先生がドアを叩いて呼びかけた。
「夕食の用意ができました。いつでもどうぞ」
 二問目をしっかり解き切って、机を離れる。ピンクの菱形を見ながらドアを叩く。ほかに所帯はいくつかあるはずなのに、廊下でだれとも出会わないのはなぜだろう。野辺地の新道もそうだったが、いつも不思議に思う。〈世間の目〉なぞ、この世に存在しないのではないか? ドアを叩く。
「どうぞ!」
 半帖の板の間に入る。目の前に半間の流しがある。私の部屋と同じだ。レンジに味噌汁の鍋が載り、壁に打ちつけたいくつかの金具にフライパンや布巾が掛かっている。菅野と同じ工夫だ。
 また別の女との時間が新しく刻まれるようになった。カズちゃんが広げた地図に、私がピンを一本一本刺していく。そしてまだ一本も抜いていない。



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