十六

 私はレフトの守備位置で立ち止まり、
「勝ち点というのをよく聞くんですが、どういうものですか」
 部長の仁が、
「ああ、はい、少し説明が長くなりますが……」
「教えてください」
「リーグ戦は六校総当りです。たとえば早稲田と戦う場合、どちらかが二勝するまで戦い、二勝すると勝ち点一が与えられます。勝ち点の合計で順位を決定します。同じ勝ち点の場合、勝率の高いチームが上の順位になります。勝率計算に引き分けは含まれません。勝ち点、勝率ともに同じで、首位に並んだ場合、優勝決定戦をすることになります」
 学生や記者たちがニコニコ顔で聞いている。
「最少十試合、最多十五試合行なう、優勝決定戦がある場合は十六試合行なう、ということですね」
「そのとおりです」
「春夏合わせて二十戦から三十戦ですか。走りこみをしなくちゃ」
 網支柱の一本がポール代わりになっていて、レフトポールとスタンドとのあいだの空間に、林を透いて背の高いビルがいくつか見える。東大が都会にあることをあらためて認識する。
「春のリーグ戦まで二週間しかありません。三日からの練習にはかならず参加します」
 ウオーと学生たちがどよめき、記者たちがあわただしくメモの手を動かす。
「そのとき、ちょっと打ってみたいんですが」
 主将の克己が、
「ぜひお願いします。主要なピッチャー五人全員に投げさせます」
「一番早いピッチャーのスピードは何キロぐらいですか」
「……百三十キロそこそこでしょう」
「じゅうぶんですよ。コントロールのいい変化球が一つあれば」
 学生たちが熱心に耳を傾けている。肩は才能だ。百三十キロの肩が、百五十キロを投げられるようにはまずならない。今年東大野球部の名が売れれば、いずれ速球ピッチャーが入部してくるだろう。投げてみたらバカ肩だとわかって、自分も周りも驚くようなピッチャーが。
「一昨年までは井出がいて、四年間で四勝しましたし、それ以前の四年間は新治(にいはり)が八勝したなどということもあったんですが、最近はさっぱりで、去年なんか春、夏合わせて一勝しただけです。まあ大体、東大は年間ゼロ勝か一勝ですけどね」
 鈴下監督が言う。
「リーグ戦は何勝すれば優勝できるんですか」
 新聞記者の一人が、
「七勝以上すれば可能性が出てきます」
 監督が、
「新治のいたころ、春三勝、秋五勝したことがあります。勝利はすべて新治があげたものです。ただ、彼は四十三敗もしていて、これは歴代リーグワースト記録です。それでも彼は大洋ホエールズにいきました。東大出身というのがめずらしかったからですよ。東大からのプロ一号というわけです。こういうことはあとを引くもので、ドラフト三位でドラゴンズへ誘われた井出がプロ二号。もちろん、どちらも泣かず飛ばず。神無月さんは、そういう選手とはまったく格がちがう。東大出身というめずらしさからではなく、プロ野球をしょって立つ選手として迎えられるでしょう」
 小笠原がいてくれたら、と思った。彼なら、いまはたぶん百四十五キロは投げられるだろうし、東大をAクラスにする一翼をになってくれるだろう。しかし彼は早稲田にいってしまった。まともなピッチャーが二人、そしてスラッガーが二人いれば、周りが引きずられて、どんな弱小チームも優勝を狙えるようになる。
 フェンスを一周し終えた。もう一度両翼を見やる。バックスタンド脇の林の小藪を削って、寒々としたピッチング練習場が作られている。ホームベースが二つ置いてある。仁部長と岡島副部長といっしょにブルペンに歩み寄り、
「投球練習場は背の高い簡易屋根で覆うべきですね。強烈な陽射しのときや雨のときに練習できない」
「たしかにそうですね。早速取り付けるよう図りましょう」
 仁が応える。監督や選手たちといっしょに記者たちもやってきてメモをとり、写真を撮る。
「じゃ、ぼくは失礼します。あのう、記者さんたち、ぼくは入学式には出ませんので悪しからず。今後、写真はグランドだけにしてください」
 部室に戻り、ダッフルにグローブを詰め戻しバックネットに向かって歩き出すと、鈴下監督と学生が従い、未練がましくテレビカメラとデンスケもついてきた。浜中とカメラマンが駆け寄り、
「帰青したら、スポーツ欄をすべて割いて報道します。追跡記事もこのまま二年間続行させていただきます。二年後はプロですから。当面の目標は、どうもAクラスじゃなさそうですね」
「ええ、リーグ優勝です。できれば完全優勝を」
「わかりました!」
 監督と部長副部長がからだを折ると、学生たちも最敬礼した。とめどなくフラッシュが光った。
         †
 大言壮語を吐き散らした一日のすべてが、現実のできごととは思われなかった。ふわふわした気分で、高円寺に戻った。玄関にカズちゃんが迎えた。
「ただいまァ」
「お帰りなさい!」
 キッチンテーブルにデコレーションケーキが置いてあった。ケーキの前に、素子と並んで節子がいたのでびっくりした。青い水玉のワンピースを着ている。
「キョウちゃん! こんにちは」
「節ちゃん! いよいよ東京の生活だね。早めに異動したんだね」
「はい。キョウちゃんもいよいよね」
「うん、始まる。すごい報道陣だった。期待を裏切らないようにがんばるよ。その服、牛巻病院で着ていたね」
「はい、憶えててくれたのね」
「忘れられないさ」
 節子がすまなさそうにうなだれた。カズちゃんが、
「山口さん、やっぱり入学式いかないらしいわ。きょうの夕方、焼肉いっしょに食べるって。五時に高円寺改札」
「そう。もうすぐおたがい忙しくなるからね。いまのうちにしっかり顔を見ておかないと。まず昼めしだ」
 素子が、
「フジの隣の倶知安てお店、納豆定食がまあまあやよ」
「善夫に連れていかれてワンタンを食った店だ。いこう」
「まず、ケーキ食べてからにしなさい」
「何のお祝い?」
「復帰祝い」
 カズちゃんが鼻歌を唄いながらコーヒーをいれる。女の鼻歌は何を唄っているのかさっぱりわからない。
「何、それ」
「え? 何」
「その鼻歌だよ。何を唄ってるの」
「いまの? ABCの歌。適当よ。節子さんは、吉永さんと法子さんに会えば、一とおり会ったことになるわね。法子さんは節子さんと吉永さんに会えばおしまい。別に会わなくたっていいんだけど。チャンスがありしだいってことね。でも、なんだかホッとしたわ」
 素子がケーキを切り分けた。イチゴが載っている。
「あたし、ケーキ教室にかようことにしたんよ。仕事終わったあと、週に三日、二カ月。それから、ぼちぼち、暇を見て洋食を習いにいくわ」
「よかったね。二人で喫茶店を開くための第一歩だ」
「私はまず、お店のコーヒーの出しかたを覚えてから、のんびりとね。あ、そうだ、おとうさんからキョウちゃんの学費、一年分まとめて送ってきたわ。貯金しとくね。必要になったらいつでも言って。合格祝いの宴会を北村席のみんなでやったそうよ。トモヨさんも文江さんも大泣きしてたって。菅野さんなんか、酔いつぶれて泊まったらしいわ」
「ありがたいな。学費免除になったから、必要なのは本代だけだ。まだまだお金はたっぷりあるからだいじょうぶ」
「特待生ってこと?」
「そう。年間、一万二千円ぽっちだけどね」
「すごい!」
 節子がため息をついた。
「格好よく勉強と縁が切れた。ところで、四月十三日がリーグ戦の初戦なんだ。土曜日の一時、神宮球場。これたらきて。日曜日も連戦。一勝一敗なら月曜日もある」
 カズちゃんが顔をほころばせて、
「もちろん、いくわ」
「みんなでいこまい。十三日は、仕事お休みもらう」
「私も土日が休みだからいけます。月曜日は無理だけど」
「私たちも土日のどちらかよ。月曜日のことは新聞で見ましょう」
 私は、
「月曜日があればね。あのチームじゃ、二連敗の可能性が高いよ」
 倶知安にいく。入口に金木犀(きんもくせい)の大きな鉢植えが置いてある。
「金木犀か。秋にはこの十字に開いた葉の中に黄色い花が咲くよ」
「いらっしゃい!」
 店内の突き当たりの厨房の切り窓から、野球帽かぶった青年が愛想よく挨拶する。細長い店に壁沿いのL字カウンター、テーブル席二つ。品出し口の下に鈴蘭の鉢植えが置いてある。
「花が好きなんですね」
 前掛姿が出てくる。
「においがね」
「どちらも甘くていいにおいですからね。金木犀は背の高い木になるんですよ。いつか植え替えないと」
「そうだよなあ。家の庭に植え替えるわ。二、三年前に、一本植えたんだけどね。すごいにおになるだろな。……あれ、あんた、一度きたでしょ。眼鏡さんと」
「はい、叔父とワンタンを食いました」
「そうだった。俺、シンちゃん、よろしくね」
 素子が、
「シンちゃん、納豆定食四人前」
「ひきわり納豆と味噌汁とたくわんだけですよ」
「それがいいんじゃないの。シンプルで」
 あっというまにテーブルが整い、みんなで箸を動かす。
「これがひきわり納豆か。歯応えがなくて、味が淡い」
「百五十円だもの、大目に見てよ。素ちゃんなんか、何度も食いにきて、うまいうまいって喜んでくれるぜ」
 カズちゃんが、
「おいしいわよ。おトキさんも、これにネギをまぶして、ときどき出してくれたわ。で、キョウちゃん、野球部はどうだったの」
「のほほんとしてる。東大だから負けて当然と思ってるみたいだ。選手の質も最低。二年間で優勝を狙うのは無理かもしれない。まずぼくが、一年生のうちにホームラン記録を塗り替える。そうすることで部員たちにやる気が出てくる」
 女三人の会話を聞いていて、シンちゃんは私をキョウちゃんと呼びはじめた。
「キョウちゃん、東大って、恐ろしく頭がいいやつばっかりいるんでしょ」
「ぼくは努力してやっと受かったので、ほかのやつらの営業妨害になるようなことは言えません」
 女たちが肩をすくめて笑っている。素子が、
「それよりシンちゃん、北の怪物の神無月って聞いたことあれせん?」
「ごめん、俺、新聞を読まないんだよ」
「テレビは観るやろ。きょうの夕方のニュースに出るよ」
「そんなすごい人なの? このいい男が?」
 カズちゃんが、
「万年ビリッケツの東大が、だいぶ変わることはまちがいないわね」
 シンちゃんがあわてて走り出ていって、向かいの文房具屋から色紙を買ってきた。
「あの、キョウちゃん、サインくれる? 倶知安さんへ、って」
「いいですよ。楷書でしか書けないけど」
「謎解きみたいな字よりは、そのほうが気取ってなくていいよ。うちのサイン第一号になる。きょうはみなさん無料です」
 カズちゃんが、
「ちゃんと払わせて。芸能人のただ食いじゃないんだから」
「そうですか、じゃ、ちゃんといただきます。じつは、流行ってない店なんで、ありがたいです」
 ごちそうさまを言って表に出る。シンちゃんはわざわざ二階へ上って、ガラス窓から手を振った。
「変わった人ね。さ、いまから節子さんのアパートを見にいきましょ」
「え、それは申しわけないです」
「何言ってるの。武蔵境なんてすぐよ。散歩して帰ってきましょう」


         十七 

 四人で中央線に乗る。車内の座席でさざめいている三人の女に、あちらこちらからまぶしそうな視線が注がれる。カズちゃんが、言い忘れていたという顔で、
「松葉会のワカさんにも連絡したわ。感無量ですって。祝い金を送りたいって言うから、お断りしたら、帰省の際はかならず寄ってくれって。大将さんを浅草の本部詰めにすることも考えるらしいわ」
 節子が、
「ヤッちゃんに会いたい。会って、いまの私を見せたい」
「浅草にきたら、会いにいきましょ」
 武蔵境駅の南口へ出る。
「少し歩きます」
 節子は歩幅の小さい外股で歩きだす。この歩き方! 
「かわいらしい、節子さんの歩き方って」
「ほんと、小学生みたいや」
「キョウちゃんが好きになった理由がよくわかるわ」
 ボーリング場の四角い建物の屋上に大きなピンがそびえている。みんなでめずらしがって見上げる。アスファルトの道を真っすぐ進む。物寂しい交差点をひと曲がり、ふた曲がりすると、聖徳学園という名の学校に出た。
「中高一貫の学校ですって。幼稚園と小学校もあるみたいです」
「立派なものね。お金があるんでしょう」
 校舎群を左に見て、その先の交差点の左手に赤十字病院の広大な敷地が見えてきた。
「バスロータリーまであるのか。とんでもなく大きな病院だな」
 ロータリー前の大通りの道沿いが、五つ、六つのアパートの群れになっていた。
「ここです。上島荘」
「ええところやが」
「二階です。一階はじめじめするので、二階にしました。角部屋が空いててよかった。四畳半の台所と二帖のトイレ、六畳間の隣の七畳の外に物干しのバルコニーもついてるんです」
 ドアを開けると、一帖の靴脱ぎ、備えつけの下駄箱、式台の右手にキッチン、真ん中に廊下が通り、奥がトイレ、左手の襖を開けると明るい六畳と七畳の二間つづきになっていた。六畳間の隅に机を置き、机の背後の襖付近の壁に書棚を立ててある。七畳間の一間(けん)押入の脇に一帖分凹んだ板間があり、鏡台と小さなテレビが置いてあった。七畳の窓敷居はステンレス製で、ガラス戸の外は広い物干しのバルコニーになっていた。
「すごーい。広くてきれい!」
 素子が叫ぶと、節子は押入れを開けて見せた。端から端へ渡してある鉄棒に衣類を吊るし、余った空間に蒲団が畳んである。衣類の中には白衣も雑じっていた。
「満点ね、節子さん。こうしてみると、キョウちゃんの部屋がいちばんオンボロね」
「男は寝るだけだから。屋根があればいいんだ」
         †
 みんなで高円寺へ戻る途中、吉祥寺で途中下車して、井之頭公園へいった。丸井百貨店から左へ折れた商店街を真っすぐ進む。カズちゃんが、
「ここは初めて。よく見ておこうっと」
 使い途の知れない小物を並べた出店、アクセサリーを売る店、スパゲティ屋、生活雑貨用品店、中古衣料店、瀬戸物屋、喫茶店、ほかはすべて洋服屋。縁台を出している焼鳥屋まである。それぞれの店に客がびっしりまとわりついている。道端のところどころに開園五十周年という幟が立っている。
 幅広の階段を降りて公園に入る。暮れかかる曇り空に桜が満開だった。掛茶屋の長床几にみんなで腰を下し、みたらし団子を食べる。細長い小さな池が目の前にある。白鳥の形をしたボートが二つ、三つ浮かんでいる。
「乗ろう、お姉さん」
「いいわね、ふつうのボートに乗りましょ。節子さんも」
「はい」
 女三人でボートを漕いでいるあいだ、池の周りをぶらぶらする。掛茶屋の前の橋に七井橋と書いてある。七つの湧泉があるということだろう。橋を渡りながら池を眺める。水面にせり出すように桜が咲いている。美しい。派手な小寺が中の島に鎮座している。橋を渡り切る。看板だけの自然文化園は長いあいだ閉鎖されているようで、灰色の門柱や建物の壁が煤けている。まばらな雑木林を右に見ながら池沿いに歩き、桜の下をもとの掛茶屋に戻る。ゆっくり一周するのに十分もかからなかった。女たちがまだボートを漕いでいるので、床几に腰を下ろして待つ。
「ボート漕ぐのって難しいわねえ」
「でも楽しかったです」
「また乗ろまい」
 楽しげに笑い合いながら戻ってくる。まさにこの世の春という感じで私も微笑む。しかし、この春は一瞬のうちに過ぎ去る。ものごとが過ぎ去るまでは、単純な人生がほしい。野球に没入しよう。
 ―いなくてもよかった人間。人の言葉で存在を証明される人間。ボーナスの命。
         †
 高円寺駅の階段を降りてきた山口に手を上げる。すでにみんな顔見知りなので気安い。ガード沿いに五人で歩く。
「おまえが順調に帆を上げたのが怖いよ。順風はおまえには不似合いだからな。かならず逆風が吹いて、推進力を失う」
「考えすぎだよ。逆風が吹いたら進路を変えて順風を待てばいい。帆が丈夫なら、どんな風でも受けられる。風が止んだら、停泊するさ。どんな航海も、順風にばかり吹かれているわけにはいかないからね。運よく進路を変えずに順風に吹かれてるあいだは、何の力も使わないで航海をつづけるよ」
「ほんとうだろうな。信じるぞ。帆を上げつづけてくれよ」
「うん。そういう単純な生き方を好ましく思うようになってきた」
 寿司孝から曲がりこみ、駅の西側の、天蓋に大きな蛍光灯を点した高架下を歩く。先日入りこまなかった商店街だ。
「この通り、セントラルロードって言うんですって。総延長三百メートル。夕方まではほとんど閉じているのよ」
 ホルモン四文屋、都丸古書店までずっと飲食店が連なっている。トンペイ焼き『沢』というのが関心を引く。ガードの外に抜ける隘路を鉤型に曲がって、順天苑という焼肉屋に入る。小上がりのテーブルに着いたとたんに、壁の上部に据えられたテレビに私の顔が映し出されているのに気づいた。
「あ、キョウちゃんだ!」
 素子が叫ぶと、カズちゃんと節子があわてて見上げた。山口がホーと言い、
「これだな、きょうの顔見世」
「ほんとにきれいね、キョウちゃんは」
「きれい……」
 野球部の学生たちと握手している姿が大写しになる。グランドをフェンス沿いに周りながら防御ネットを見上げている顔。ホームランを打つと言っている顔。節子が、
「キョウちゃんて、静かにしゃべるのね。ぜったいカメラを見ない」
 カズちゃんが、
「自分の心を見つめてしゃべってる。言葉を見つめてるのかな」
「いいこと言うな、和子さんは。こんなしゃべり方をするスポーツ選手はいないな。こりゃ全国版のニュースだろう。おふくろさんも観てるぞ。たとえ気に食わない野球の話でも、神無月の言葉を聞いて、一抹、思うところはあるんじゃないか」
 私は、
「彼女にとっての価値は、東大という場所だよ。東大に野球部があるかぎり、ケチをつけることはない」
 山口はまだ不安そうな顔で、
「これからおまえはますます大スターになっていく。マスコミがうるさくつきまとうぞ」
「青森以来、ぼくはマスコミに素っ気なくしてる。東大の監督にも言ったけど、マスコミ人というのはプライドの塊だ。冷たくされると、それ以上のしっぺ返しをする。黙殺とか中傷という形でね。だから、ぼくはこの一、二カ月で放っておかれるようになるか、あら捜しをされるようになるだろうね。ぼくの態度に拘らず、マスコミが〈好意的に〉うるさくなるのは、たぶん六大学リーグに異変が起きて、各プロ球団がザワザワしだしてからだよ。そうなったら心配ない。マスコミは味方につく。ぼくにたえず純粋に熱い視線を注いでいるのは、そういうふらふらしたマスコミじゃなく、プロ野球界だ。それを信じてるので、マスコミの反応は気にならない」
 素子がびっくりして、
「マスコミって、そういうものなん?」
「ああ、ぼくが何かミスを犯すのを虎視眈々と窺ってる。冷たくされたお礼をするためにね。これまでのぼくのそういう姿勢のせいでマスコミに叩かれたら、叩かれる理由いかんでは、おふくろが東大側に野球をやめさせるよう申し入れをするかもしれない。成人以下の選手に対しては、大学もプロも養育者の意見を受け入れる規約になっている。……これからは、たまにはインタビューを受けるようにしようと思う」
「となると、その理由いかんというのは、暴力か、女だな」
 節子が、
「女はだいじょうぶです。私たちがくれぐれも気をつけます」
「そうよ、女はだいじょうぶ。暴力はキョウちゃんの爆弾だから、私たちではどうしようもないけど、どんな苦しい立場になっても救ってあげるつもりよ」
 私は、
「新聞記者を殴ったり怒鳴りつけたりしないかぎり、無事だよ。地位が定まったら、それをやっても無事だ」
 山口が、
「そりゃない。罰を食らう。罰金か、出場停止。しかし、追放はされない。その意味では無事だな」
 カルビ、ロース、テクダンスープ、どんぶりに盛ったライスが五人前出てくる。頼んでいないキムチも大皿で出てきた。年増の痩せぎすの女将が、おかしな訛りで、
「これ、サービス。うちで作った。おいしよ」
「ありがとう」
「あんたたち、いい男、感じイね」
 山口と私は顔を見合わせて笑った。節子と素子が肉を焼きはじめる。カズちゃんが、
「キョウちゃんは肉が苦手だけど、タレのついた焼肉だけは食べられるの」
「いまはよく焼いたステーキなら食えるようになったよ」
「これからはドンドン食わないとだめだぞ。あのすばらしいホームランのためにな」
 山口がもりもり食いはじめる。女たちも盛んに箸を動かす。素子が、
「どういうときに癇癪玉が破裂するん?」
「予測不能ね。でも、意地悪をされたときしか破裂しないことはたしかよ。人がいつ意地悪するかは、予測不能でしょ?」
「ほうやね。人から意地悪されんように、できるだけ見張っとらんといかんね」
「それは無理。人の嫉妬は止められないから。それに意地悪する人は、こっそりやるわ」
 山口が、
「こっそりやる意地悪ばかりじゃなく、こっそりとやらない理不尽な行動も、神無月の怒りのもとになる。名古屋のうなぎ屋を思い出してよ。……何よりも、神無月が自分に暴力をふるうのがいちばん怖い」
「理屈がないから、いちばん怖いわね」
「彼はきのうの彼ならず」
 私が言うと、山口は肉をひっくり返しながら、
「これからの予定は、あしたの履修ガイダンスと、二十二日からの履修届だな」
「いっしょについていってもらえるのがありがたい。ぼくは三日から練習合流とリーグ戦のみ。科目登録は二十三日の火曜日にしよう。リーグ戦は土日月が区切りになってるから」
「わかった。八日から授業開始だが、どうする?」
「一カ月ぐらいは、練習の合間にポツポツ出てみようかな。十二日の入学式はいかない」
「俺も」
「十三日からリーグ戦、観にきてくれよ。六月三日の新人戦で、ワンターム終了というところだ」
「いよいよ忙しい野球人生の開始だな。俺も一カ月ぐらい授業に出詰めになってみようと思ってる。大学の授業の記憶も、青春の一コマとして残しておかなくちゃな。しばらくおたがい会えそうもないぜ」
「三日坊主のきかない生活になるぞ。一段落するのは六月以降だな。コツコツ基礎トレをつづけてきてよかった。練習で息が上がったらたいへんだった」
 野菜とホルモンを追加する。今度はオイキムチがサービスでついてきた。女将は女三人を見つめて、
「女の人、みんなきれい。キョウダイ?」
「そうです」
 カズちゃんが答えた。
「キョウダイ、仲いいの、とてもいいことね。いつもサービスするよ」
 上機嫌に去っていく。
「いい店、見つかったわね、素ちゃん」
 節子が素ちゃんと呼んだ。ウマが合ったのだ。
「うん、ときどきこよまい」
「土日なら、いっしょにこれるわ。病院の食堂はおいしくないの。夕食はいつも駅前まで出て食べてる」
 カズちゃんが、
「集まるのは私たちだけでね。いまはキョウちゃんを巻きこんじゃだめ。とても大事な時期だから。とにかく六月まではね」
 私はテクダンスープの肉を選ってよけ、赤いスープだけをレンゲで流しこみながら、
「当分ラビエンにもいけなくなるな。いまからいっておこうか。酔いつぶれない程度に飲もう」
「そうだな。バーボンでも飲むか。あのイボがいたら、ちょっと酒がまずくなるな」
「くるかな、あんな帰され方して」
「ああいう人はめげないものよ。でも喧嘩しちゃだめよ。野球ができなくなるわ。それどころじゃなく、東大野球部も出場停止」
「くわばら、くわばら、桑原武夫」
「なにそれ。節子さんの顔見世にもなるわね。よしのりさんにいじられるかもしれないけど、節子さん、気にしないでね」
「罪滅ぼしにはもう少し時間がかかると思ってます。気にしません」
「罪なんかあれせんよ。堂々としてりゃあ」
「キョウちゃんのお母さんに、節子さんの爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいわね」
「基本的に横山さんは善人だからな。無害だ」
 みんなで腰を上げた。レジで女将にビニール袋に入れたキムチを持たされた。カズちゃんは喜んで受け取った。


         十八

 ダッフルを持って高円寺を出る。
 きょうも大勢の客がさざめいている。蝶タイを締めてベストを着たバーテンたちが円卓に立ち並び、それぞれ二、三人の客相手ににこやかに応対している。よしのりの前にも三人坐っている。九時を回ればボックスも含めて五十人にはなる。
「おお、いらっしゃいませ!」
 白髪の部長にうやうやしくカウンターに導かれる。節子がキョロキョロしている。
「酒を飲むところって、初めて?」
「はい。なんかいい雰囲気」
 部長が、
「三時のニュースで拝見しました。各局でやってましたよ。早速いらしていただけて光栄です。きょうはお歌のほうは?」
「思い立ってきたから、用意してません。山口もギターを持ってきてないし」
「そのほうがよろしいですよ。サイン攻めになってしまいます。じゃ、どうぞごゆっくり」
 三人の客から少し離れて、五人並んで腰を下ろした。よしのりが得意そうにビールの栓を抜いた。客たちに私のことを説明しようと構えたので、カズちゃんが唇に指を当て、キムチを差し出した。
「高円寺の順天苑というお店でもらったサービス品」
「あそこは本場もんで有名だ」
 彼は二皿に盛って私たちに出した。よしのりと私たち五人で乾杯をした。先客の男どもが女三人の美しさに目を瞠っている。
「こちらのかたは?」
 よしのりは五人のグラスにビールをつぎ足しながら目で節子を示す。節子が答える。
「滝澤節子です」
「……滝澤って、あの?」
「はい、あの滝澤節子です……」
 節子が申しわけなさそうに頭を下げる。私は明るい声で言う。
「でも、〈あのときの〉節ちゃんじゃない。別人だ」
「おまえを流した女だろ?」
 ふだんそれを曇らす何の理由もないときは、非常に美しく穏やかに澄んでいる節子の目が、少し曇った。そして素直にうなだれた。
「ぼくを流したのは、おふくろだ」
「どっちにせよ、〈女〉が裏切ったんだろ。女は裏切るからな」
「もう節ちゃんを針の筵に坐らせたくないんだ。これまで、じゅうぶん坐った」
 山口が、
「俺も一度、名古屋で坐らせたからな。よしのりさん、〈女は裏切る〉という表現は、裏切りというものが女の性(さが)ということになる。だとしたら、あのときもこのときも、神無月を虚しくしたのはサガであって、おふくろさんや節子さんという〈人間〉じゃないことになる」
「まあな。女の性(さが)のなせる業だってことだな」
 山口は人差し指を振り、
「しかし、それはちがうんだ。自然の摂理じゃあるまいし、人間の摂理なんてものはハナからないんだ。やっぱり神無月を虚しくしたのは、あのときの節子さんとおふくろさんという有機的な〈人間〉にある。さらにしかしだ、神無月は人間の〈美点〉以外のものなど見たこともなければ、見ようともしない麗しき奇人ときてる。そのことに節子さんはあるときハタと気づいたんだな。自分の人間性を神無月が美しく見ようとしてると気づいたら、それまでの人間をやめて美しい〈別人〉になるのは当然だろ。神無月のおふくろさんは気づかない。気づかなければ別人になれない。と言うより、神無月が美しく見ようとしてないから気づきようがない。ハハハハ」
 私は、
「有機的な人間にも、美しき別人にもなれない。おふくろは無機的な自然の摂理そのものだから。ハハハハ」
 母を笑うことに引け目がある。しかし、親しい人びとといるときは浮かれなければならない。どんなことも幸福の種になる、そう信じながら、浮かれなければならない。私は彼らと浮かれていたいし、彼らも浮かれさせたい。しかし、その二つを叶えることは虫のいい願いなので、願いを叶えるために命懸けの時間を覚悟しなければならない。命懸けで浮かれたふうに酒を飲み、浮かれたふうに語り、笑う。笑いは高笑いになる。よしのりが山口に、
「滝澤嬢に美点があったということか」
「嬢ときたね。美点どころじゃない。節子さんは、間接的に神無月の人生の師だということだ。福の神でもある。名古屋の危険物から引き離してくれたおかげで、もう一度野球にありつけた」
「ものは言いようだな」
 節子の隣に座っていたカズちゃんが、
「キョウちゃんだけじゃなく、私たちの恩人でもあるのよ。心に波を立てるという経験をしなければ、キョウちゃんは才能だけのツルンとした人間になってたはず。もちろん、もともと深みのある魅力的な人間だけど、陰影というのかしら、人をはらはらさせる危険な感じがなかった。いまは満点。おかげで私たちは緊張して生きていける」
「緊張のもとをたどれば、彼女にいきつくというわけだ」
 山口がピースサインを出して、
「ご明察」
 よしのりは節子に向かって、
「あんたのことを神無月はぜったい悪く言わなかった。カズちゃんも山ちゃんも、きちんとその心を汲んでる。あんたは果報者だ。恩返ししなくちゃな」
「はい」
 節子は頬をふるわせた。
「またよしのりさんはステレオタイプなこと言うんだから。いいのよ、節子さん、ふつうに愛してあげれば。詮索しないで、ふつうにね。キョウちゃんが思い出さないことを、わざわざ思い出させる必要なんかないのよ」
「はい」 
「ところでさ、神無月、六大学でホームラン王を獲ったらどうなるの」
「記録に残るだけだね」
「プロは注目するんだろ?」
「戦力と見られればね」
「三冠王でもだめか」
「タイトル云々じゃなく、弱点があればプロは手を出さない。万全な自分に手を出されたい。いまの最大の弱点はスタミナ。走りこむしかない。そのうち見えてくる弱点がほかにもあるかもしれないけど、とにかく当面の課題はスタミナ。それより、チームメイトとうまくやっていけるかなあ」
 よしのりは、
「子供だからだいじょうぶだ。みんなその幼児性を好むと思うよ」
「どういうこと?」
「うまく言えん。山ちゃん、頼む」
 ビールを下げ、水割りを作りはじめる。濃い。
「大人は、人が何を求め、何を必要としているかを考える。幼児は、それを無視して自分のために決断する。神無月のその要素を愛されると、よしのりさんは言いたいんだ。チームメイトに合わせなくてもいいんじゃないのって言ってるわけだ」
「ありがたいけど、人間ならだれでも大人の要素を持ってるよ」
「そのとおりだ。人間ならな。大人と幼児の混在物になる。しかし、神無月は大人でも子供でもない。幼稚だとか、熟してるとか、そんなふうに分類されたり、判断されたりする存在じゃない。だから、横山さんには神無月が見えてないと言えるんだ。横山さん、気を悪くしないでよ。横山さんは神無月を人間の進化物として捉えようとしてる。だから、幼児性とか原始性ありとして喜んだり、立身という後天的な進化に才能が結びつくことを喜んだりする」
 よしのりは外人のように肩をすくめ、
「それがおかしいの?」
「つまり、神無月を理解して、それからわかろうとする。ワンクッションある。理解しようとするから、理解不能で唾棄すべき存在に映ることさえある。俺は理解しようとしない。感受する」
「山ちゃんにとって、神無月は神なんだな」
「ああ、神だ。唯一神だ。ここにいるみんなにとってもそうだろう。でなければ、みんなここで飲んでない。神無月なしで暮らすさびしさを考えてみろよ。俺は一年半、そんな毎日を過ごしたんだ。もうまっぴらだ。神無月は俺たちにお受けされるべき存在で、理解されるべき存在じゃない」
 よしのりがにっこり笑って、
「お説、ごもっともだ。ぐうの音も出ない。……俺は三年だぜ、山ちゃん。俺のさびしさもわかってくれよ」
「わかってるよ。ねえ、女性陣」
 カズちゃんが、
「一日千秋よ。でも、逢えた一日一日を奇跡みたいに思って生きてるから、何年逢えなくても平気の平左衛門」
 古臭い言葉で答えた。山口はうなずきながら、
「そうだ。神無月と暮らすには、そんな思いはへっちゃらにならないとな。たしかに神は頭の中にいてくれさえすればいいが、神無月は生き神だからな。生きてそばにいてくれないと意味がない。そばで生身を確認しなくちゃってんで、みんな寄ってきたわけだ。そばで生きてることを確認できるだけでうれしくてしょうがない。ところが神無月は、そばで生きてるだけじゃない。いろいろ楽しいドラマを見せてくれる。もう勝手に生きてもらおうって思うのがあたりまえだろう?」
 カズちゃんが頬を喜びに染めて、
「勝手に野球で生き延びてくれたわ。ひとまずはバンザイね」
 よしのりがまた水割りを作った。チーズとピスタチオが出た。周囲の客たちがようやくざわつきはじめた。隣の三人の客の一人が、
「神無月選手ですよね、東大の」
 よしのりが、
「そうだけど、放っておいてあげて。内輪で飲みにきてるんで」
 カズちゃんが、
「どうかよろしく応援のほどお願いいたします。この横山さんが友人なので、ときどき息抜きにこの店にきます。いまはリーグ戦前の緊張した期間なので、そっと見守ってあげてください」
 三人うなずき、握手だけ求めた。
「山ちゃん、これからの予定は立ってるの? ギター」
「とりあえずそっちの予定しか立ってない。もし大きなコンテストで賞を獲ったら、東大は中退する。その前に神無月のプロ入りが決まった場合も、中退する。進む道さえ決まれば、おたがい学歴は必要ないからね。中退する前に、連続落第で放校されることもあり得る。詳しいことは、事後報告しますよ」
「司法試験は」
「ハナッから受ける気はない」
「東大受けたのは、そこに山があったから?」
「いや、神無月と同じ大学にいきたかったから。もう東大は用済み」
 すべて笑いの中で和やかに語られる。数週間前なら異常に聞こえた会話が正常に聞こえる。素子が、
「お姉さん、本棚にある本、勝手に読んでいい? お姉さんに買ってもらった『林檎の樹』は読んじゃったから」
「いつも自分の言葉でしゃべれる人間は、本なんか読まなくていいんだ。本は他人の経験と考えが書いてあるだけだよ。心を荒らすこともある」
 私が言うと、カズちゃんが、
「心に言葉の泉が貯まってる人はそれでいいけど、言葉をあまり持っていない人は、できるだけ読まなくちゃいけないわ。言葉が増えると、心が増える。本は心を涸らさないために読むものだと思うわ。貯まった言葉をシャッフルして、自分の言葉に変えて、自分の心を表現するの。それができるようになったら、もう本は惰性で読めばいいだけ」
 山口が、
「和子さんは本質のかたまりだな。言うことがすべて的確だ」
 よしのりが山口に、
「俺は学がないから、本ばっか読んでんだけど、目で覚える悲しさ、発音がちがってたりしてよく恥をかく。それでも言葉が増えれば、いろいろ考えられるようになる」
「異常な記憶力だからね。横山さんは別格だ」
 素子が節子を見て、
「あたしはお姉さんを見習っとるだけやよ。節ちゃんとも話したんやけど、みんなの言うこと、深くて、難しいなって」
 節子がうなずく。
「私もこの一年、本をよく読むようになりました。たくさん言葉を覚えると、人の言うことがたくさんわかります。よくものを考える人の言うことって、医学の専門書よりも難しいから」
「それもあるけど、たぶん私の経験が追いつかんからやと思うわ。経験できん分、本を読むと言葉がたくさん貯まって、いろんな人の経験が少しずつわかってくる」
 私は彼らのすばらしい会話を聞きながら、まったく関係のない、大空に弧を描く白球を想像していた。
 十一時前に腰を上げ、金を受け取らない部長に頭を下げてラビエンを出た。ダッフルを担いだ格好で、改札を通る四人に手を振った。



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