七十九

 四面道という交差点が幹線道路の分岐点になっているせいか車通りが激しい。車道を避けて、荻窪駅までのアーケードの下を歩く。よしのりの牽く空のリヤカーを通行人がよけて通る。
「おふくろはカネひと筋の人でね。多少の子育ての費用は除いて、ぼくに分け与えたことはない。小遣いは五歳で引き取られて以来いっさいなし、オコヅカイという言葉を子供心に違和感をもって聞いた。社員たちからもらったお年玉はすべて取り上げる、いまもって学費も生活費も送ってよこさない。もらうことを基本に生きてるわけじゃないけど、そこまでカネを大切にする人から進んで金はもらえない。くれたい人からもらうのが気楽だ。……ぼくは寺田康男にかわいがられた。彼はよくおごってくれた。でも、棚ぼたの連続は心苦しかったな。金は使いたいやつのために使ってこそ金だ、という康男の言葉は一生忘れない。そういう気持ちの人間からしか、金はもらえない」
「それはおまえの理屈だろ。おまえにくれてやりたいやつの気持ちはそんな理屈っぽいものじゃない。その寺田という男もおまえが遠慮するんで大見得を切ったんだろう。おまえの人徳だよ。黙って受け取ることだな。カズちゃんは知ってんの、その男」
「立派なヤクザよ。十歳から十五歳までキョウちゃんのそばにいた人。そのあと、青森時代が空白で、いまは友情復活。東京の浅草の松葉会に詰めてるわ。キョウちゃんのそばにいるために東京に出てきたのよ」
「そりゃすげえや。カズちゃんにしても、神無月と十年もいっしょに暮らしてきたんだからすげえや。しっかり童貞いただいて神格獲得したし、そのヤクザに負けてないぜ」
「勝ち負けじゃないでしょ。大切なのは付き合いの長さじゃなくて、愛情の深さよ。わざとらしくトゲのある言い方して。大将さんや私に嫉妬してるの?」
「嫉妬なんかしないよ。俺は俺だ」
 よしのりはうつむき、リヤカーを引く手に力をこめた。
「康男が現れるまで、ぼくには心から甘えられる友だちがいなかった。康男と会ったとたんにぼくにわかったのは、彼がきっとぼくの友だちになって、ぼくを包みこんでくれるにちがいないということだったな。心配なのは、何の取り得もないぼくが、生まれながら誇りに満ちた男に、いったい何を与えられるかということだった」
「キョウちゃんの取り得は、キョウちゃんでいるのをやめないことよ。そのことが大将さんにはよくわかっていたはず」
「……どんなに彼を愛してるかということを、長いあいだ言えなかった。愛の何たるかを知ったとしたら、それは寺田康男のおかげだったのに。……たったひとこと、愛してると言えなかった。でも、とうとうこのあいだ言えた」
「何も言わなくても、みんなはわかってるわ。言えば、やっぱりそういう気持ちでいる人だったって確認できるだけ」
「俺はこっぱずかしくて、そういう真綿みたいな言葉は言えないけどな。……ヤクザか。神無月の周りは、売春婦とかヤクザとか、そんなやつばっかりだな」
 カズちゃんがキッとした眼で、
「売春婦って、素ちゃんやトモヨさんのこと?」
「あ、いや、……すまん、そんなつもりで言ったんじゃないんだ。ここが俺の小物たるゆえんでさ、気にもしていないことを大げさに言ってしまう。悪かった、俺に偏見があるわけじゃないんだ。神無月の宇宙に感心しただけだ」
「なによ、焦っちゃって。でもわかってるわよ。キョウちゃんの友だちに心の狭い人間がいるはずがないもの。キョウちゃんが私たちを高く買ってくれるのは、どんな身分であろうと、私たちが精いっぱい努力する人間だと見こんでくれたからよ。売春婦やヤクザが集まったのはたまたまで、キョウちゃんの周りには一生懸命な人間が集まるということね」
 ピザの店は満員だった。私はうなった。
「帰ろう」
「短気起こさないの。初めてのことには気長に構えなくちゃ」
 玄関ドアの前で二十分ほど待たされて、ようやく白い丸テーブルについた。よしのりが憮然とした表情で言う。
「ちっちゃなテーブルにガラス張りか。外から丸見えだぜ。落ち着かないな」 
「ちょっと恥ずかしいわね。思い切って外にテーブルを出しといてくれればいいのに」
 ネバネバした糸を引く平べったい食い物は、恐ろしいほどまずかった。カズちゃんは、
「不思議、不思議」
 と言いながら、あっというまに平らげ、手が止まっている男二人の皿もきれいに掃除してしまった。
「ああ、お腹いっぱい。ピザの作り方も研究しなくちゃ」
「これは食い物じゃない何かだ」
 私が言うと、よしのりが、
「食いづらいから、根気がつづかないな」
「おいしいとは言えないけど、ささやかな冒険も楽しいものよ。さあさ、男どもはリヤカー押して帰りなさい。あたしはこれからコーヒーの学校だから。毎週火曜日の夕方、素ちゃんとかようことになったの」
 よしのりが、
「何だ、コーヒーの学校って」
「コーヒーコーディネーターの資格が取れる学校。喫茶店を開いたり、コーヒー教室で教えたりできる資格のこと。その資格があれば、バリスタにもなれるのよ」
「バリスタって?」
「コーヒーの専門家。高級喫茶店やホテルで働けるし、お店も持てるわ。いまは無理。資格試験が難しいって聞いてるから、何年も勉強しなくちゃいけない」
「どこで講義受けてるの?」
「中野の社会福祉会館。隣合せで調理師の教室もあるから、素ちゃんは金曜日もかようことになったわ。来年の六月まで二本立て。どちらも正式な学校じゃないので、いつやめてもいいからノンビリやれる。じゃまたね」
 さっさと金を払って帰ってしまった。
 軽いリヤカーを私が一人で牽いた。陸橋が夕焼けで真っ赤になった。
「こういう景色を見るために、生まれてきたんだよな、人間は」
「自分が感激の言葉を吐くのを楽しむために、生まれてきたんだ。こんな景色には何の価値もない。価値があるのは、こんなつまらないものに価値があると思う心だ」
「ふん、文学的粉飾だな。面倒くさいやつだ。それじゃ、悠久の美というのはどうなる」
「そんなものはないね。絶対物は人を感動させない。神とやらもそうだ。ふるえるほど愛せないものに、美はない。自然美は究極の美に見えるけど、もっと高度な美のさきがけにすぎないね」
「おまえの独断だ。だれもが認める美よりは、隠されたいかがわしい美を発見することに馴染んでるんだろ」
「いかがわしい美の発見じゃない。ありきたりのものじゃない美の発見だ。ありきたりなものを褒めるのは、深く呼吸しないで生きるようなものだ」
「ラージャー。しかし話す相手を選べよ。そんなことばかり言ってると、おまえを知らないやつに排斥されるぞ」
「好きな人間にしか本音は言わないし、知らないやつに排斥されても何の痛みもない」
 よしのりはリヤカーの牽き役を私と交代し、
「ありきたりでない美って、何だい」
「それを表現したいんだ。……新しい言葉がひとつ覗くと、その言葉のせいで高度な感動を引き起こす。いまのところ、そういう言葉の連鎖ができあがってない。だから、より次元の高い美を表現することができない」
「結局、言葉の美か」
 自転車屋にリヤカーを返して、表の通りから抜け殻のアパートの部屋を眺める。
「毎日そんな言葉を捜してたら、くたびれて死にたくなっちまうぞ」
「ならない。……次にこの部屋に入るのはどんなやつかな」
「ラビエンに寄ってくか」
「少し前期試験の勉強をする。いや、やらないな。腹がへった。めし食って、荻窪に帰る」
「ピザにやられたからな。俺も腹ペコだ」
「大将に寄っていくか?」
「ああ、たまにはホレタマ以外のものを食おうぜ」
「ぼくはニラレバ」
「じゃ、俺は中華丼だ」
 大将の店構えが少しきれいになっていた。さっきのピザ屋に似たガラス張りの大窓をはめている。その窓に白ペンキでしゃれたふうに品書きが書いてある。
「よ、毎度!」
「きょう、荻窪に引っ越しました」
「どこ」
「四面道」
 カウンターが満員だ。神無月だ、怪物だ、とざわつく。私の顔と見比べるように壁のサインを見たりする。私は新聞や週刊誌の人だ。紙一枚隔てた関心。しかし、どんな種類の関心であれ、彼らは私に関心がある。無関心よりは温かい。無関心より冷やかなのは憎しみだ。
 母―ムラ気で、人を憎み、精神的な暴力を揮う女。どうにも修正のきかない自滅癖のせいで、自分に調和しない存在に恨みを抱きながら画策する。人前ではいかにも穏やかな顔立ちをしているが、ときどきその眉が寄って眼がするどい光を放つと、たとえ怒りの表現でなくても相手が縮み上がるほど峻烈な狂気がただよう。
 私はその母を切り捨てた。あの遠い日のお盆の帰省以来、彼女は運命の人だったはずなのに、気づくと無縁の人になっていた。深く愛したはずなのに、もう理解できないとわかる。連れてってけろ! と叫んだ日を思い出すと、地の底に沈みこむようにさびしい。
「マスター、しゃれた店になったね」
「家財をはたいたからね。客足好調だよ。女神が言ったとおり、来年には家の頭金が作れそうだ」
「立ち直りが早いね。ニラレバ」
「あいよ。横ちゃんは」
「中華丼」
         †
 七月二日火曜日。雨。このところ気温はずっと二十度前後。きょう目覚めたとき、不思議と幸福感があった。めずらしいことだ。引越し以来しばらくグランドから離れて、疲れがスッカリ取れたせいかもしれない。昼めしを食おうと思って石手荘の玄関を出ると、林が四面道を曲がってこちらへ歩いてくるところだった。
「よう、神無月、引越し見舞いにきた」
 ケーキの小箱を掲げて、
「モンブランだ。好きか」
「まあまあ。ケーキはサバランだね」
 アパートへ引き返す。
「山口に聞いてきた。これで本郷へ一本でいけるようになったな」
「ああ、池袋行丸ノ内線で二十個目。四十分ぴったし。いままでも南阿佐ヶ谷や東高円寺まで自転車でいって、丸ノ内線一本でいってたんだよ」
 隣駅が睦子のいる南阿佐ヶ谷なのもうれしい。部屋に落ち着き、インスタントコーヒーを出す。
「安田講堂が封鎖されたな。先月につづいて二度目だ。一時的な占拠だろうが、これで確実に卒業式が中止になる」
「歴史的な年に、ぼくたちは東大にきたわけだ。ただ、ぼくはそれをラジオのニュースで聞いたきり、その経緯も意味もわからない」
「一分で話が終わっちゃう程度のことだよ」
 林はコーヒーをすすり、モンブランにかぶりつきながら、
「おお、いい味だ。―ベトナム戦争が泥沼化しているのは知ってるか」
「知らない。ベトナム戦争という単語は聞いたことがある」
「底なしのイノセントだな」
「周りの人たちが、ぼくに知識のすべてを与えてくれる。自分から調べたり研究したりすることはしない。おまえの言うとおり、究極の無知だ」
「学者になれないというだけのことだ。持分でないことをしないわけだから、何のキズでもない。これまでもいろいろな雨風(あめかぜ)に打たれたと山口からさんざん聞かされた。そのうえで野球はやるわ、詩は書くわ、歌は唄うわ、女にやさしくするわ、おまけに東大までたどり着くというのは、いったいどういうアタマとカラダをしてるんだ」
「究極の無知になればわかるよ。世間に合わせようとしなくなれば、暇ができるから何だってできる。たしかに、世間の規律に合わせて正しく生活し、学んで、前進するのが人間らしい生き方だと思う。そういう人間らしい人間に出会うと感動するし、拍手もしたくなる。でも、そういう生き方は、ぼくがすでに犯した過ちの一部だ。そのせいで自分の本性が矯められ、姑息に自由を求めて世間の人を失望させ、彼らに鞭で打たれるようになった。最初から世間に合わせていなければ問題なかったんだ」
 林はモンブランを持ったまま、眼を潤ませた。
「過ちでもぎりぎりまで合わせてやれ。このくだらない世間も、おまえがいないよりいるほうが楽しいんだ。女たちも、山口も、あのバーテンも、野球部の連中も、この俺も、おまえがいなけりゃつまらないんだ。雨風から解放されて思い切り無知になったことがおまえの驚異的なパフォーマンスを作り出したとしても、パフォーマンスがおまえそのものの代わりをしてくれると思うか? たとえパフォーマンスができずに、汲々としてるおまえでも、俺たちはおまえがいてくれたほうがうれしいんだ。自分が消えることが周囲のためだと考えたこともあったんだってな。方程式が狂ってるぞ。おまえの代わりはおまえだけだ。俺たちのために、おまえの本体がここにいなくちゃいけないんだよ。……それにおまえは無知になりようがない。世間の規律に合わせて〈正しい生活〉をしなくたって、おまえの頭脳はごく狭い許容量の中で明晰だ。知りたいことしか吸収しない。だから、知りたいことだけ知れば、それでレベルの高い有識者だ。無知になりようがない。究極の無知だなんて言ってくれるな。生きてるのが恥ずかしくなる」


         八十

 林はモンブランを置き、目尻を指で拭った。私はモンブランの先端の渦巻きを含んだ。少し乾いた甘みが口の中に拡がった。私はコーヒーを含みながら、
「ああ、また慰められた。ぼくこそ穴があったら入りたくなる。話を戻そう。進んで知りたくないことでも、知っている人間が知識を開陳する姿を見ると、ぼくはうれしくなるんだ。一分程度の説明をつづけてくれ。安保闘争と安田講堂封鎖との関係は?」
「残念ながら知らないな。だれもわからないさ。おまえが疑問をぶつけることはだれにもわからないことばかりだ。まあ、一分でまとめてしまおう。その二つは直接的な関係はないだろう。ただ、安保学生の共闘姿勢が、別の目的で闘いたがっていた学生たちにも伝染したってことかな。授業料値上げ反対なんてかわいらしいのが軸だったんだが、東大の医学部学生や卒業生たちにも、これまで何か制度的な不満があったんだろう、安田講堂を占拠し、封鎖した」
「なるほど。みんなで棍棒かざしながら不満を言ってみたら、意外と周りが腰を引いてくれた―ということだね」
「うがった言い方だが、当たってる。ま、神無月にかかっちゃ、学生運動もその程度のものなんだろう。俺もそう思う。先月占拠したときに、総長が機動隊を入れたから騒ぎが大きくなった。それで今回のバリケード封鎖というわけだ。これはもう、たぶん収拾がつかないことになるだろうな」
「駒場はどうなると思う?」
「いまのところ平和だ。しかし波及するかもしれない。しばらく近づかないで、様子を見たほうがいいかな。波及したらしたで、見物を楽しもう。しかし、神無月は世情に関する知識はほんとにゼロだと痛感するよ。ただそれは、無知とはいっさい関係ないことだと知っておいたほうがいい。知識を向ける方向のちがいにすぎないとな」
「かもね。いままで世間の動向なんてこれっぽっちも関心を持ったことがないし、関心がないから意見などというものも持ったことがない。十九にもなって、ぼくは世間常識的なことはかけらも知らない。唯一の取り柄である野球に関する現在の地位、またこれから先自分の望んでいるような地位にありつくことができたら、それはひとえにぼくを野球に引きこみ、野球をつづけさせてくれた人たちのおかげだと思ってる。だからぼく自身の意見としては、それも世間的なものじゃなく、私ごとに関するただの考えだけど、つまりぼくには野球を愛し、有能な友を尊敬し、ぼくを愛してくれる人たちに感謝するという、この三つ以外にないということだ。世間に対して申し立てられる意見といったら、これ以外にないんだ。知識の方向のちがいというより、関心を惹起させる能力がないという正真正銘の無能者だよ」
「えらくこき下ろしたもんだな。聞いてるほうが、顔が赤くなるぜ。―で、七月一日から前期試験だが、フランス語どうする?」
「上野が予想問題を作ってくれたけど、受けない」
「啖呵切ったとたんに馬鹿らしくなったんだろ。俺も受けないことにした。来年、別の講師を受ける。山内もそうすると言ってた。あの講師が単位をくれてやるのは既修組だけだって話だ。俺はほかの科目も不可だらけになるだろうから、留年確実だな。四年じゃ出れそうもない。それにしても、山口のギター、いいなあ。ときどき、自分のステージのない日もグリーンハウスへいって、彼のギター聴いてるんだ。超絶だね」
「もっともっと褒めてやってくれ。山口、喜ぶぞ」
         †
 七教科のレポートのコピーを詩織が書き上げて郵送してくれた。読んでもサッパリわからないので抽斗にしまった。原本は彼女が教務に提出している。フランス語とロシア語を除いた一科目だけの教場試験である英語は、三十分で下線部訳を完成して教室を出た。詩織の予想した部分とはちがっていたが、何ということもなく読み解けた。
 前期試験は詩織のおかげでつつがなく終わった。
 二週間後に返された成績表には、優上が三つ(英語・体育・西洋近代文学史)、優が三つ(科学思想史・万葉集論考・美学)、良が三つ(庭園学・世界史概論・スポーツ身体運動科学)、可が一つ(教育学)、不可が二つ記されていた。フランス語とロシア語だった。
 ほとんど荻窪のアパートで、練習以外の時間をすごすようになった。報道関係者がいっさいやってこないとわかったからだった。マスコミは彼らを求める者のところにしか出かけていかない。
 坦々と安らかな時間が戻ってきた。七時起床。一時間のジョギング。道筋は、四面道を基点にして、青梅街道を阿佐ヶ谷方面か、三百十一号を善福寺川方面か、日によって恣意的に変える。通りがかりの喫茶店でモーニングサービス。石手荘に戻って、裏の空地で三種の神器、素振り。下着を替え、机に向かって本を読み、いのちの記録を書き、寝転がって思う存分音楽を聴く。その最中に思い浮かんだら、一行でも詩のスタンザを書きつけた。
 ニュースもチラと聞いたが、へえと思ったのは、七月七日の参院選挙とやらで、石原慎太郎が全国区でトップ当選したのをハイライトに、青島幸男とか、今東光とか、横山ノック、バレーボールの大松監督といったおよそ政治の世界に疎いタレントたちが続々と当選したということだった。文化人や知識人たちは喧々囂々(けんけんごうごう)、誹謗中傷に暇がない。タレント候補に非はなく、太古幾千年のむかしから有名病にかかっている人びとが、有名人に票を投じただけのあたりまえの現象に思われる。学級委員の投票と同じだ。だいたい、政治というのは人をあごで使う能力と同義だから、これまでそれに不慣れだった人間に潜在的な能力がないとは言い切れない。これから立派にあごを使えるようになるだろう。
         †
 七月十日から十二日までの暑い盛りに、練習に出た。私が参加したことでグランドが盛り上がり、練習に熱が入った。レギュラーに取り囲まれた。臼山が、
「六日の京大戦、七対二で勝ったぜ。俺と克己がホームランを打った。横平は不発」
「勝って当然の試合でしょ」
「ああ、小学生相手みたいだった」
 中介が、
「このあいだまで俺たちは中学生だったろう。早く大学生になろうぜ」
 水壁が、
「いまのところ、金太郎さんがプロで、俺たちは高校生というところだな」
 ポール間ダッシュをやっている最中に、睦子が近づいてきて、
「京都土産を買ってきました。糸千の下駄です。ロッカーに入れておきましょうか」
「いや、いつか南阿佐ヶ谷に取りにいく」
 すぐにほかのマネージャー連もやってくる。詩織が、
「黒屋さんのツテでバトンガールが十四人になりました。いま特訓中です。八月の山形合宿で完璧なものにするつもりです」
 黒屋が、
「詩織ちゃんもムッちゃんも奔走したんですよ」
 睦子が、
「私はチラシ係。詩織さんと白川さんはブラバンも担当してます」
 白川が、
「流行歌を演奏するのは、著作権の問題がうるさいらしいんだ。鉄腕アトムも違反らしいぞ。結局、校歌と、コンバットマーチと、寮歌、応援歌でいくしかない。せいぜい派手に工夫してもらうさ」
 三日間、有宮、台坂、村入相手に、無心に打った。真ん中と外角高目のカブセを課題にした。腱鞘炎を起こさないように、片手打ちも適当に混ぜた。強いてゴロを打つと手首を痛めるので、フライを打つように心がけた。ホームランはセンターからレフト方向を狙った。三日間で百本も打てなかったが、仲間たちには私の意図がわかっていたので、ホームランだけをため息ついて見つめた。
 三日間、〈空振り〉の練習をした。
「バットの届かないコースに、カーブと、シュートと、フォークを投げてください」
 それぞれ二十本、バッターボックスの中で、極力ボールにバットを届かせるように空振りをした。曲がりの終点を見きわめながらしっかり振った。〈手を出さない〉感覚がどうにか身についた。
 三日間、〈四〉種の神器をやった。腹筋、背筋、両手腕立て、片手腕立て(右手腕立て十回、左手腕立て五回)。
 三日間、ピッチャーといっしょに外野ネットに向かって遠投を二十本やった。力をこめず、肩を大きく回すようにして低いボールを投げた。肘の使い方と肩の強さは確定的なものになった。強く振っても何の不安もなくなった。左肘の手術から丸六年経っている。右腕の強さとコントロールに自信を得るまで六年かかったということだ。左肘も六年間で驚異的に回復した。腕立て伏せのとき、左肘の奥で引っかかる感触がまったくなくなった。
 スタミナ。青高一年の五月から走りはじめて三年、ようやく並になった。ホームからライトポールまで、ホームとポールでの一分休憩を挟んで全力で往復五本走る。フェンス沿いの周回三本を含めて、それを三日間。全力走は、障害物の多い街なかでは難しい。
 三日間、バーベル七十キロを十回挙げた。
「百四十五キロのバッティングマシーンは順調ですか」
 大桐に訊いた。
「おお、速くて、打ちづらい。高目はどうにか当てれらるけど、低目はほとんど当たらない」
 バックネットの陰に、ゴムの円盤と螺旋状の網筒のついた機械が鎮座していた。
「浮き上がって高目にくることが多いですからね。低目にくるとお辞儀が激しい。ちょっとしたフォークです。マシンで二割バッターを目指せば、本番では三割ですよ」
 監督はじめ部長らスタッフの姿はなく、助手のノックで守備練習。遠投を避け、二塁へ正確に投げ返すことを心がける。ユニフォームが汗でからだに貼りついてきたところで引き揚げる。ブレザーに着替える。私に合わせて帰る連中は一人もいない。
「来週な、金太郎!」
「またね、神無月さん!」
 部室の戸口から助手やマネージャーたちに挨拶をし、グランドの出口で仲間たちに手を振った。彼らは八月下旬の七帝戦までひたすら練習の日々になる。私は九月のリーグ戦まで、自主トレを除けばフリーだ。
 夜、詩織に電話して、前期試験の結果と〈深甚の〉感謝を伝える。
「楽しかったです。教育学が難しくて、子供が大人になるとはどういうことか、心理学的に説明せよ、という問題なんですけど、質問の意図が取りづらくて、生涯子供と大人は混在するという考えをでっち上げました」
「ありがとう。とにかく詩織のおかげで、二年間四期の試験のうち一期を乗り切った」
「西洋近代文学史と万葉集論考はムッちゃんが書いたんです。彼女にもお礼を言っといてください」
「わかった」
 睦子にも電話を入れた。
「まだ序の口です。あと三期乗り越えないと」
 と睦子はやさしい声で言った。
         †
 十三日土曜日の午前早く、長袖のワイシャツに白の綿パンを穿き、南阿佐ヶ谷の睦子を訪ねた。糸千の下駄を受け取った。白木の二枚歯、格子柄の鼻緒がすげてある。
「高級だ。履いて歩くのがもったいないみたいだね」
「履いてください。足に合ったら、今度は取り寄せで買いましょう」
 もじもじしているので、
「濡れてるんだね」
「はい……」
 キッチンで後ろから交わった。睦子は顔を振り向けて私の唇を吸いながら、強いアクメにふるえた。私も強く射精した。
「完全な〈女〉になったね。うれしいな」
 引き抜くと、彼女は床に精液をしたたらせながら、
「好きで、好きで、死にたくなります。勝手に濡れてしまいますけど、性欲でそうなるんじゃないんです。好きで、好きで……」
 背中で言う。振り向き、抱きついて長いあいだ私の唇を舐め、それから噛んだ。
 午後、糸千の下駄をつっかけて睦子のアパートを出た。古い下駄は置いてきた。睦子は南阿佐ヶ谷へ向かい、私は国鉄阿佐ヶ谷駅まで歩いた。その足で、武蔵境の法子を訪ねた。樹海荘に近づくにつれ夕方の空が色濃くなった。
 樹海荘の廊下を進み、ノックもせずに戸を開けると、魚を焼くにおいがした。法子が夕食の支度をしている。流しに立つ背中が明るい。
「いいにおいだ」
 私の声に振り向き、
「やっぱり! きてくれると思った。われながらすごい勘。二人分焼いてたのよ。ヤナギカレイの一夜干し。高級品よ」
「どうして、きょう?」
「なんとなく」
「こなかったら、どうするつもりだった」
「仕方ないわ。あしたの朝もカレイ」
 裏庭を見ると、バイクの姿がない。
「原付は?」
「お蕎麦屋さんのご主人に半額で売っちゃった。持ってたら荷物になるから」
 シンクの窓辺に置いた鉢植えに、茎立って花が咲いていた。指の先くらいの小花が薄紫にぽつぽつ点じている。いつか深大寺の門前で買ったオジギソウだ。
「七月一日から群(むれ)に出てるの。きのう、とうとう、一晩の売り上げ十万円を達成しちゃった。マスターもびっくりしてた。群始まって以来だって」
「すごいなあ!」
「いままでマスター一人でやってたから、女っ気がなかったのよ。私の腕がどうのこうのってわけじゃないんだけど。それにしても、男ってスケベよね。私がそば通ると、さりげなくお尻撫ぜたりするの」
「聞き捨てならないな」
「だいじょうぶ。パンティ二枚穿いてるから。私のからだは神無月くんだけのものよ」


         八十一

 ひとときの寝物語になる。
「いつか鬼頭倫子に鳥居通りで遇った話をしたことがあったよね」
「うん」
「鬼頭倫子と守随くんは、千年小学校の大秀才だった」
「眼鏡の痩せっぽち。暗いやつ。鬼頭さんも守随くんも、中学で二年間同じクラスだったわ。鬼頭さんはほんとに鬼みたいに無口で、守随くん舌丸めて唾飛ばすへんなやつ。いつも窓からシュッてやってた。先生に当てられると、まだ何も聞かれないうちから、わからん、て言うの。二人ともそんなに勉強できるようには見えなかったけど」
「すごい秀才だったんだ。守随くんはぼくに勉強のすばらしさを教えてくれた。自分の家に呼んでね。ぼくの勉強のお師匠さん。そう呼ぶのがぴったりだ」
「あいつが?」
「うん。人は見かけによらない。たぶん彼に会ってなければ、ぼくは高校にいかず、野球もあきらめて、どこか小さな会社で働いていたかもしれない」
「……それはないんじゃない」
「あるんだ。いまこうしているのは、出会いが積もり積もった結果だからね。出会いのピースが一つでも狂えば、ここにいない」
「うん。私も神無月くんに遇ってなかったら、いまこうしていないものね」
「その守随くんが高校を中退したって鬼頭倫子から聞いた。彼は勉強で目立ちたかったのに目立てなかった。どれほど複雑な事情があっても、ぼくはそれが中退の大きな理由だと思ってる。小学校以来、守随くんには勉強しかなかったからね。直井整四郎のように秀才を通して出世したい、それが彼の初志だったんだよ。その気持ちに素直になれずに、少しばかりの挫折に負けて初志を貫かなかった。勉強熱心な人間が学校を中退するのは、勉強で挫折した自分を隠蔽する無難な生き方だ。……五年生のころ、守随くんや鬼頭倫子や加藤雅江といっしょに、脊椎カリエスの同級生を見舞った話、憶えてるね。法子が加藤雅江をノラに呼んだ夜に話した」
「憶えてる。去年の五月よ。もう一年以上も前ね」
「その見舞いのときの話なんだけど、青木くんを慰めるみんなの偽善的な態度がいやになって、隣の部屋に引っこんで不貞寝してたら、鬼頭倫子が忍びこんできて、ぼくの額をなぜたんだ。じっとぼくの目を見下ろしながらね。胸にくる目だった。でも彼女は、それからもぼくに自分の心を告白することはなかったし、鳥居通りで再会したときも、それを憶えているそぶりさえ見せなかった。つまり、彼女も守随くんみたいに、自分の気持ちに素直になれずに、無難な生活のほうへ流れていったんだ。鬼頭倫子のその後は知らない。二人とも素直でなくちゃいけないときに一所懸命生きなかったという点では同じだ。そういう人間の挫折とか、立ち直りとかを実際目にしたとしても、ぼくは冷淡な気持ちにしかなれない。どうでもいいと思ってしまう。いつも変わらず懸命に生きてる人間にしかぼくは興味がない。自分の心に素直に生きると、当然、命賭けになる。命を惜しむ人間に、ぼくは同情できないんだ」
 法子の頬がふるえている。
「神無月くん! 大好き。神無月くんといると、生きてる意味がぜんぶわかる」
 えい、と言って法子は跳び起き、服を着ると、エプロンをして台所に立った。
 ヤナギカレイの焼き物はうまかった。めしの炊き加減もよく、わかめと豆腐の味噌汁はちょうどよい濃さで、箸休めに出したオイキムチも絶品だった。
「法子は料理がじょうずだったんだね。ほんとにうまい」
「自信があるのは、おかあさん伝授のお味噌汁だけ。あとはぜんぶ自己流」
「魚の焼き具合も、ごはんの硬さもちょうどいい。白菜は漬けられる?」
「うん、どうして?」
「総菜屋で買う浅漬けは、深漬けだから酸っぱい。サッと漬けたぐらいがいい。味の素と醤油にチョイとつけて、ごはんをくるんで食べるんだ」
「わかった。ナスときゅうりの浅漬けもたくさん作ろっと」
 私はひと呼吸置いて、
「節ちゃんに届けてあげたら」
「そうね、自炊してるみたいだから。そうだ、群にも持っていこうっと」
 法子は勤めの支度をしはじめた。化粧をする様子を見つめる。愛らしい顔が大人の婀娜(あだ)な顔に変わっていく。
「危ない顔になっていくね。だれかに奪われそうだ」
「奪われないわ。いっしょにいて、悲しい気持ちにならない人はつまらない」
「悲しい?」
「ややこしい気持ちだから、うまく言えない……。だれといても、泣きたくならないの。そういう人って、思い出しても心が満たされない」
「迫るね、そういう言葉。ぼくも、人は泣くために生まれてくるって、小さいころから思ってた」
「ほんと? うれしいな、神無月くんにそう言われると、なんだかアタマがよくなった感じ」
「アタマはおたがい悪いままだよ」
「神無月くんと私は、同じレベルということ?」
「そのとおり。カズちゃんも山口も、みんな馬鹿だ」
「最高の褒め言葉だわ。でも本気で言ってるとすると、だいぶ狂ってる。毎度のことだけど、その狂ったところが大好き。群で飲んでく?」
「飲みにはいかないよ。ママの恋人が顔を出すのはみっともない。そのくらいのことを考えられるアタマはあるんだ」
「そうおっしゃらずに、いつでもいらしてくださいませ」
 鏡の中でおどけたお辞儀をする。
「和子さんがいるから、神無月くんの生活費のことは心配してないけど、足りなくなったら言ってね」
「お金は余ってるよ。カズちゃんが貯金してくれてる分も入れたら何百万もある。だいじょうぶ」
「困ったときは遠慮しないで言って。この服、お母さんが送ってくれたの。見覚えがあるでしょ。胸のあたりを少し仕立て直したけど」
「そういえば……」
 大きく胸の谷間を見せたモスグリーンのロングスカートだった。
「初めてノラのドアを開けて入ったとき、お母さんはその服を着て、煙草を吸ってた。いちばん奥の席を勧められて、隣に法子が坐ったんだ。すると二階から真っ赤な服を着たお姉さんが降りてきて……」
「よく憶えてるわねえ!」
「忘れないよ。お姉さんたちがしていた話も、帰りに雨が降っていたことも、法子が、船方の家にくる? ってぼくに尋いて、お母さんに睨まれたことも」
 商店街の外れにある群の前まで送っていった。法子は緑色のドレスの裾をひらめかせながら、手を振って細い階段を上っていった。
         †
 七月七日日曜日。ひさしぶりの晴天。朝から中学時代のようにめしを抜いて、真昼を過ぎるまで荻窪界隈を散策する。アーケード商店街の一軒一軒を記憶して歩く。教会通り商店街も、突き当たりの寺門歯科まで一軒一軒確認していく。四面道に戻り、石手荘にいったん帰って排便。洗面所と共同トイレが広いので快適この上ない。湿らせたロールペーパーを用意して尻を拭ける。コーヒーを入れて飲んだあと、閑静な日大二高通りの漫歩に出かける。目ぼしい建物も商店もない延々とつづく道なので、途中から引き返す。
 石手荘の裏の空地で一連の鍛練。バットが思う存分振れるのがうれしい。
 夕暮れ、机に向かいながら、食い物屋の探索を考えていると、山口がやってきた。
「狭いな。阿佐ヶ谷も狭かったが、健児荘よりマシならいいってもんじゃないぞ。思索が圧迫される。十畳くらいがいい」
「思索か。いま、食い物屋のことを考えてた。目見当で入ると、たいてい裏切られる。カズちゃんのめしがいちばんうまいんだけど、高円寺までかようのがたいへんだ。こういうのも思索のうちかな」
「立派な思索だ。ちょうどめしを誘いにきた。うちにこい。おふくろがご馳走したいと言ってる」
「ありがたい」
 暮れなずむ町に出る。
「シャレた下駄だな」
「鈴木睦子が京大戦のついでに買ってきた」
「ダークホースが、本命になったな。本命だった木谷はどうしてる」
「この夏に遊びにくるらしい」
「グリーンハウスにまとめて連れてこいよ」
「そのつもりだ」
「俺の下駄もそろそろチビてきたから、そのへんで買っていくか」
 山口は荻窪商店街の履物屋で、黒鼻緒の高級下駄を買った。中老の店主に、
「これ、捨てといて」
「はい。革の鼻緒もございます。いつでもすげ替えいたします」
「今度ね」
 山口は爽やかな顔で歩きだす。私は小笠原の足よりも小さい彼の足を見つめながら、
「二人で下駄を引きずって堤川沿いをよく歩いたね。夢見心地だった」
「いろんなことを話したな」
「ああ、楽しかったな。ぼくたちのハネムーンだ」
 私は緊張しはじめた。
「……ひろゆきちゃん、内田由紀子、守随くん、種畜場、奥山先生、浜の坂本、佐藤惣吉さん、ええと、北村席は例外……」
「何ぶつぶつ言ってるんだ」
「家族のいる家にいくのは緊張する」
「そうか? いよいよ神無月郷にご来駕願えるか。入学からなんと三カ月だぜ。うちのやつらシビレ切らしてるよ」
「とにかく家族って苦手なんだよ。ひろゆきちゃんの話をしたことがあったろ」
「ああ、おまえの権威嫌いの原点だ。だいじょうぶ、うちはプチブルでさえないよ。おやじは愛想ないけどな。権威的な人間じゃない。おふくろも妹もそうだ。しかも、おまえが選り抜きの変人だということをよく言ってある。まあ、先触れなんかしなくても、会えば一瞬でわかるけどさ」
 小さなレコード屋があったので立ち寄る。レターメンのLPを買った。山口に差し出す。
「ブラザーズ・フォーと並んで、メローな和音の到達点だね。聴くのが気恥ずかしくなるくらいだけど、弾き語りにはいいんじゃないか。あげるよ」
「サンキュー。聴きこんで、何曲か編曲してみよう。林の週一のステージが好評だ。神無月の声が聴きたいっていつも言ってるよ。ところで、前期試験の結果はどうだった」
「優上三つ、優三つ、良三つ、可一つ、不可二つ。レポートは上野と鈴木に書いてもらったんだけど、さすがだね。で、おまえの成績どうだったんだ」
「優上は体育のみ。あとは優か良だ。ちょろいよ」
「司法試験は」
「考えたこともない。おまえといっしょの砂場から外へは出ない」
 改札を抜け、電車に乗る。赤紫の空。背の低いビルの群れが窓の外を過ぎていく。
「妹もいるんだろ。心配だ」
「心配するな。おまえの好みじゃない。おまえは手を出さないとなったら徹底してるからな。よしのりさんの妹のこと、聞いたぜ」
「まったくリビドーを感じない女はいるからね。よしのりと目が似てるだけだ。あの一家は、よしのり以外はみんな出っ歯で猿顔をしてる。強い遺伝だな」
 一駅で降り、北口を出て商店街を歩く。堅気の商売人が親しげに軒を並べるこの種の街並に飽きている。スナックやバーの看板が時おり目に留まってホッとする。商店街から左折し、山口は川の手前で足を止めた。
「善福寺川だ」
「ランニングで、ときどきこの川までくるよ」
「ここから一キロほどいくと、善福寺公園があるんだが、川のこっちは商店ばかりだ」
 わが家だと言って、かなり立派な鉄門を入った。
「風格があるな。庭が広い」
「この家で生まれた。築二十二、三年かな。庭の柿は毎年うまい実をつけるぞ」
「いらっしゃい! お待ちしてました」
 母と同年輩の中年女が、玄関の戸を開けて出迎えた。
「ついに連れてきたぞ。大天才、神無月郷だ」
「きれいなかた!」
 式台に父親がヌッと出てきた。笑顔はないが、感じのいい男だ。内気そうな妹が彼の背中に控えていた。山口の言ったとおり、好みのたたずまいでなく、何より性を感じなかった。
「神無月郷です。挨拶にくるのが遅れました」
「そりゃ、仕方ないでしょう。目の回るような忙しさでしょうからね」
 父親がまじめな顔でうなずき、握手を求める。毛深い手だった。妹が道端の地蔵に触るように、私の腕や肩に触った。
「何やってんだ。撫で仏じゃないぞ」


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