百三

 タクシーを降りると二人走るようにして裏戸から離れに入り、すぐにスカートをまくって下着を下ろし、後ろから挿入した。滑らかに深々と入った。
「ああ、イッ、待って、待って!」
 ユリさんはあわててからだを離すと、股間を押さえながらトイレに走りこんだ。戸を開け放して長い小便をする。
「冷えてしまって。ちゃんとイッてたらたいへんなことになってました」
 後ろから近づき、便器から立ち上がろうとする尻へそのまま挿入する。ユリさんは片手を壁に突き、片手で水道管を握る。
「ああ、神無月さん、カチカチで大きい! あああ、気持ちいい! イク、イク!」
 烈しく収縮する膣を往復するだけで私もすぐにきた。
「ユリさん、ぼくも!」
「イキましょ、イキましょ!」
 グンと吐き出す。
「アハア! イク! イク! イックウウ!」
 さらに激しい収縮をする。性器がこそがれる。繰り返し律動する。
「ううう、神無月さん、気持ちいい! ずっとイク! ずっとイク!」
 尻の前後運動が止まらない。ついに私のものが抜けて外れた。痙攣するユリさんの腹を両手で支える。顔をこちらにねじ向け唇を吸う。空気を求めてユリさんの唇が離れる。とうとう便器にしゃがみこみ思い切り腹を絞った。愛しい髪に頬ずりをする。
「ああ、神無月さん、愛してるわ、死ぬほど愛してます」
 ようやく立ち上がったユリさんを横抱えにし、蒲団へ運んでいく。全裸にして横たえ、長い口づけをした。
「重かったでしょう。五十八キロもあるのよ。だれよりも愛してます。ありがとう。石みたいに硬かった」
「興奮した。ユリさんの手が湿ってたから」
 抱き合い、口づけをする。唇から乳首、臍、腹へ。
「神無月さんを思い出したときに、あの森へときどきいってみます。……死にたくなったら連れていってくださいね。一人でいかないでくださいね」
 だれもかれもカズちゃんなのかと錯覚する。
 湯を入れて、二人ゆったり風呂に浸かった。髪を揚げたユリさんの顔がキラキラ輝いている。美しい。
「運転手さん、神無月さんの顔をじっと見てたわ」
「うっとりとね」
「しょってる!」
 二人で玄米茶を飲む。おいしいと感じる茶はこれだけだ、といつか言ったことがある。ユリさんは忘れないでいた。
「また、長いこと放っておくことになるよ」
「けっして強がりじゃないから、信じて聞いてくださいね。私は放っておかれることなどどうでもいいんです。愛しているという気持ちだけで、じゅうぶん幸せなの。年をとったり、子供ができたりすれば、そういう気持ちはだんだん消えていくわ。でも愛は消えないの。いつまでも生きていてね。お願い」
 ユリさんは関野商店の前まで送って出た。きのうとは見ちがえるほど顔色がよくなっている。少し血管の浮き出た白い手で私の手を握り、しばらく記憶するように私の顔を見つめた。私は東京の住所と電話番号を書いたメモを渡した。青高の野球グランドから、
「ウエ、ウエ、ウエー!」
 という空元気のかけ声が聞こえる。もうトーナメントは終わっている。校門に近づきグランドを眺めた。相馬の姿はなく、知った顔の選手もいなかった。
「去年の夏の大会はベスト十六、今年は一回戦で敗けちゃいました。神無月さん一人のチームだったんだもの、あたりまえね」
「山口から連絡は?」
「季節ごとによくハガキをくださいます。年賀状も。神無月の不義理の分と書いてあったこともありました。女神さんもよく連絡くださいます。どうかお礼を言っておいてください」
「うん」
「来年からミヨちゃんと仲良くね」
「はい。ここに遊びにいらした野辺地の中島秀子さんというかたも、来年から入ることになってます。受験のための一年間とおっしゃってました」
「よろしくね」
「せいぜい、栄養に気をつけてあげます」
 呼んでいたタクシーがやってきた。
「ありがとうございました。どんなにうれしかったか、とても口では言えません。心から愛してます。毎日、テレビや新聞に気をつけてますからね。病気やケガに用心して、いつまでも元気でいてくださいね」
「いつもそばにいるからね」
「はい、私もいつもおそばにいます」
 もう一度手を握ってから乗りこみ、窓から手を振った。すっくと背筋を伸ばした姿がすがすがしく、美しかった。
         †
 グランドホテルのロビーにすでによしのりがきていて、革張りのベンチでしかつめらしく新聞を読んでいた。ヴォーグズの『ティル』が流れている。
 ―きみは私の生きる意味だ。私の持っているものはすべてあげよう。月が空を見捨てるまで、すべての海が干上がるまで、それから熱帯の陽射しが冷たくなるまで、この若い世界が年をとるまでずっと、私はきみを愛する。
 どこかの聖人の作った単純明快な歌詞だ。涙をこらえきれなくなった。
「神無月、なに泣いてるんだ」
「いい歌詞だからね」
「はあ? 俺、めし食っちゃったぜ」
「ぼくはまだだ。あれ、着物は?」
 薄茶色のブレザーの上下を着ている。ワイシャツは淡いピンクだった。
「十和田はちょっと冷えたんでさ、吊るしの安物を買った」
「高級着物は置いてきたのか」
「質屋に入れた。トーストでも食っとくか」
「いや、すぐ出発しよう」
「何人に会ったんだ」
「一人と三人家族。青森にくるたびに会おうと思ってる。今度はいつこれるかな」
「ふうん。俺も二人に会ってきた。二十二と二十九。二十二のほうは、夜に男がくるってんで追い出された。それで、亭主が出張中の二十九のほうに泊めてもらった。この吊るしもそいつが買ってくれた」
「本領発揮だね」
「おまえほどじゃないよ。着物、ちょっと惜しかったな。その女に、東京へ送り返してくれって言ったら、送るところを見つかったらたいへんなことになるってんで、ゴミに出そうとしやがった。で、質屋へ持っていった。一日じゅうテレビ、テレビ。ありゃ中毒だな。寝床でいっしょに細腕繁盛記やら、ドッキリカメラやら、無理やり観せられたのにはまいった」
 出札窓口でめいめい特急の切符を買う。
「急行じゃ、特急より五、六時間よけいにかかるからな。福島あたりで一泊になっちまう」
 私だけホタテ釜飯を買って乗りこむ。腹ペコだ。あっという間に平らげる。
 繁華な景色が森や林に変わっていく。
「しかし、おまえは鶴みたいなやつだな。恩返しの苦行で全身の羽をむしられてやがる」
「恩を返すたびに生え変わる。生え変わりの羽の根っこには神経がないから痛みがない。歯槽膿漏の歯みたいなもんだ。苦行じゃない」
「うまいこと言いやがって。底抜けのお人好しだよ。おまえはパトロンがいないと死んでしまう。それはわかるが、パトロンは背負うものじゃない。おまえの面倒を見てくれるものだ」
「ほとんど背負わずに、きちんと面倒見られてる」
「どうだかな。四戸だって背負ったろう。おまえの根本が多情なんで、女たちが助かってるんだよ」
 真夜中の仙台駅のホームを眺めながら、二人でトリスを飲む。よしのりは煙草を吸いながら飲む。休まず語り合う。むかしの話、いまの話、そしておぼつかない未来の話。この先日米関係がどうなるか、日本の世の中がどうなるか、自然環境がどうなるか、そんな当てずっぽうの話は、おたがい自身の過去や現在の話の箸休めにすぎない。ただ、未来を固定する〈約束〉だけは大切だ。
「ぼくは女と約束ばかりしている。約束が果たされる未来がつながっていけば、瞬間瞬間に燃え上がりながら命を継続できる」
「約束か。悲しいな。言葉の響きはぜんぜん悲しくないのに、それどころか希望と願いに満ちてるのに、涙が出てくる。おまえの言葉って、どこから湧いてくるんだろうな。俺はおまえといっしょに生きることを約束した。約束する瞬間てのはグッと緊張するな。そしてその約束をどうしても実現したくなる。約束の実現は幻だけど、約束そのものは現在の事実だ。ひどく充実した事実だ。俺はそれだけで命をつなげる」
「……ぼくたちは腐れ縁だな。どうしてだかわかる? 言ってることが同じだからだよ」
 どちらからともなく口数が少なくなり、おたがいうとうとし、上野まで眠った。ときどき目を開けると、よしのりも偶然目を開けて微笑んだ。
         †
 直人の誕生日に合わせて名古屋に発つ前、七月二十八日から八月十日にかけての二週間、京大戦はじめもろもろのオープン戦出場をサボった埋め合わせに、日曜を除いてぶっ通しで自主練習に出た。詩を考えることもなく、いのちの記録を書きつけることもなく、読書さえしなかった。数日が束になって飛んでいく。八月半ばから山形合宿に向かう中心選手たちはおもしろがって私に付き合った。監督、スタッフもみんな張り切って出てきた。睦子や詩織の溌溂とした顔も交じっていた。
 気張らずにいつもどおり、日ごとにテーマを決めて練習をやった。ある日は、ホームベースと両ポールとのあいだを息が上がるまで何往復かダッシュし、ある日は補欠たちに手伝ってもらってストレッチと百球以上のキャッチボールをやり、またある日は両腕立てをゆっくり百回、片手腕立てを右十回、左十回(ついに痛まないことを確認した!)、そしてある日は素振りを六コース四十本と決めて二百四十本。
 加えてほとんど毎日、百四十八キロから百五十四キロの二キロ刻みの四レベル設定で三十本ずつマシーンを打ちこみ、六本あるバットをすべて試した。すべての打球が心地よく芯を食った。ネットの上段までおもしろいように飛んでいく。仲間たちが練習の手を止めて打球を見やる。百三十キロまで落として、地を這うゴロを打つ練習を二十本加える。それには、ほとんどのレギュラーがこぞって参加した。監督はチーム打力に飛躍的な向上が見られると喜んだけれども、私には春と同じに見えた。
 その二週間のあいだ、二日おきに洗濯物を持って、セックス目的ではなく(とはいえ最後はかならずそれでしめくくることになったのだが)高円寺を訪れて、泊まった。泊まらないときは、かならず商店街の秀月で天麩羅そばを食って帰った。
「コーヒーのいれ方がうまいって、マスターに褒められたわ。最近はサンドイッチのカットの仕方を研究してるの」
 とカズちゃん。
「ポートの食事、あたしがほとんど作るようになったんよ。カレーだけはマスターが作るけど。もっともっと腕を磨かんと」
 と素子。
「調理師の教室にも出てるんだろ」
「そう。お姉さんはバリスタ」
 カズちゃんの寝物語に、気がかりな話題が出た。
「来年から大門近辺が本格的に整理されることになったみたい。大きな遊郭だけ観光用の記念物みたいに残して、あとはぜんぶお掃除されちゃうんですって。あのあたり一帯が更地にされちゃうの。さびしいわ」
「あそこで自由営業してる女たちは、どうなるんだろう」
「出ていくしかないわね。雀の涙の立ち退き料をもらったって、それでアパートでも借りたらおしまい。次の仕事といっても、バーかキャバレーしかないでしょう。年寄りはぜんぜんだめ。請け出してくれる男もいないし、いまさらどこにも勤められない。帰るクニがあればまだマシだけど、あっても体裁悪くて帰れないでしょう」
「となると、お父さんの営業するトルコは救済機関だね」
「若い人にはね。おとうさんも五十歳以上の年寄りは救えないわ。若い人にしても、結局同じような仕事に就くわけだから、救済かどうかはわからない。当座の生活をしていけるというだけね。素ちゃんの妹も、いずれ足を洗えるようにしてあげないと」
「どうやって」
「どうすればいいかしらね。素ちゃんみたいに好きな男ができれば、何をしたって足を抜きたいという気になるんだけど。お母さんが怠け者で、妹のお金を当てにして暮らしてるんでしょう? 自分がたまに出かける仕事は駅裏の立ちん坊。素ちゃんを二十歳で産んでるから、もう四十八。ほとんど客は拾えないわね」
 文江さんやユリさんと同じぐらいの齢だ。衰えの目立つ年令なので、ファンでもつかないかぎり商売にはならないだろう。


         百四
 
 八月十一日の日曜日、朝早く、上板橋の吉永先生から石手荘に電話があった。
「どうしたの?」
「キョウちゃんのお部屋がゴミためになってるんじゃないかと思って」
 とうれしそうに言う。
「それほどじゃないけど」
「いっていいですか?」
「きなよ。荻窪の部屋に訪ねてくる初めての女だ」
「聖域にいくみたいで、なんだかドキドキします」
 電話の向こうで道順をメモした。
 一日だけ東大球場を休養した。ランニングと三種の神器と素振りだけは先生が到着する前にやり終えた。
 先生は九時前にやってきて、原稿用紙に向かっている私の周りで掃除機をかけたり、コーヒーテーブルの上の本を片づけたり、植えこみのある裏庭に出て、仕切り塀に干した蒲団を叩いたりした。高円寺に運び切れずに溜まった洗濯物が押入に詰まっている。ワイシャツ、古いジャージ、脂まみれの枕カバー、二カ月分の汗の染みたシーツ(これは運べないので、すべて押入に丸めて投げ入れてある)、千佳子がくれた色の抜けたスタンド敷き。キクエはぜんぶほじくり出して、持参したビニール袋の中に放りこんだ。
「よくぞここまでという感じですね」
「二週間、下着とユニフォームのほかは高円寺に運んでないからね」
「家事はやっぱりキョウちゃんには無理ですね」
 尻を触る。
「いまはだめ、忙しいんだから」
 先生は塀の内側に立てかけてあった竹ぼうきで空地に面した草路地を掃き、畳に雑巾をかけたあと、もう一度路地に出て、塀の隅のゴミを掃き出した。それで終わらず、バケツに水を汲んで、せっせと机や押入や書棚や窓敷居の拭き掃除をする。おかげで、部屋にこもっていたいやなにおいもすっかり取れた。窓ガラスを濡れ雑巾と乾布で丁寧に二度拭きし、
「以上、終了!」
 うれしそうに畳に膝を折った。昼を過ぎている。私は裏庭の潅木の繁みにバケツの汚水を撒いた。管理人が廊下に首を覗かせていた。
「一段落ついた。さ、昼めしだ」
 近所の喫茶店へいってナポリタンを食った。
「痩せたね。目が奥二重になってきた。魅力的だよ。からだはブレンダ・リーだし」
「キョウちゃんの女の中で、いちばんブス。いいのよ、ご機嫌取りしなくても。机で何を書いてたの?」
「横浜時代。いつもうろうろする記憶の袋小路。克明に憶えてる」
「ほとんど詩にしてますね。涙が止まらなくなる」
「いま書いてるのは、小説の草案みたいなものだよ。二、三年かけて完成させようと思ってる」
「早く読みたい」
「普遍性ゼロだ。気まぐれで利己的な空想、のひとことで片づけられる」
 いっぱしの文学者気取りでしゃべっている自分に恥じらいを覚える。
「キョウちゃんは利己主義者の正反対よ。それはハッキリしてる。キョウちゃんはよく自分にない欠点をさもあるかのように吹聴するけど、それは何て言うか……」
「正直、欠点だと思うし、長所を隠すつもりもない。……映画を観にいこう。映画に描かれる社会には無関心でいられる。映画のあとは焼肉だ。肉が食えるようになって、人生が拡がった」
「映画! 何年ぶりかしら」
 阿佐ヶ谷へ出て、オデオン座で『あの胸にもう一度』を観る。あまりに取り柄のない内容で、キクエに気の毒をした。
「つまらなかったね。アラン・ドロンが大学教授はないだろう。最近は映画を観るたびに幻滅するなァ」
「ほんと。黒革のワンピースで女の人がオートバイを飛ばしたからって、なんにもおもしろくないわね」
「生活に困窮しているわけでもない、あれがほしいとかこうしたいとかいった願いは叶えてしまった、つまり人生を謳歌するのに何一つ障害のないような男女が、満ち足りた生活が自分にとって味気ないものだと気づいて破目を外す。どういうこと?」
「もっと自由を楽しみたいって言ってたわ」
「自由? 不本意な苦しみを逃れる自由じゃないよね。社会的な安定を枷に感じてそれから逃れる自由って何? 自分で望んで手に入れた枷だったのにね。ま、こういう映画もたくさん観なくちゃ傑作にぶつからないんだけどね」
「そうなんでしょうね。私にはそんな暇はないです。キョウちゃんはいつの間に映画を観てるの?」
「東京に出てきたばかりのころから、わずかの暇を見計らって、新宿や池袋の映画館にフラッと入ってた。カズちゃんちのテレビで深夜映画を観たりもしてね。まともな映画を観るなら、新宿テアトルか、池袋文芸坐だね。どちらも百五十円というタダみたいな値段でリバイバルをやってるし、三百円で五本立てなんていう土曜オールナイトもある」
「忙しいのに、こつこつ観てるんですね」
「玉石混交覚悟でね。いままででいちばん感動したのは、新宿テアトルで観たルイ・マルの鬼火かな」
 映画館を出ても、まだ昼下がりだ。ポエムでブレンドの豆を挽いてもらい、メリタのドリッパーとフィルターをキクエに買ってやった。
 荻窪へ戻る電車の中で、キクエに鬼火の内容を語ってほしいと言われる。
「自殺を決意した青年の、一日がかりの旧友巡礼。かつて愛した友人も恋人も、みんなカスだったとわかる。絶望の中で彼は『癩に触れる』とひとこと言う。そうして家に帰り着き、読み差していた本を読み終え、胸に弾丸を撃ちこんで死ぬ。日常の生活リズムを崩さないままにね。泣くしかない」
「だれにも愛されてなかったのね……」
「彼がみんなを愛してたんだ。見返りを求めない絶対的な愛だ。自殺を決意したのは家を出る前だと思う。旧友を巡ったのは自分の絶対的な愛の確認のためだ。じゅうぶん死ぬ理由になる」
「……キョウちゃん、死なないでね。私たちに愛されてるのだから。確認の巡礼もしないで」
「愛されて、愛してるから、死なないよ」
 先生は荻窪の果物屋でみかんを買い、金物屋で洗濯物を干すビニール紐を買った。
「……キョウちゃんの詩の中に出てくるSって、だれのこと?」
「具体的な名前じゃない。SHEの意味」
「SHEとの別れの歌?」
「そう。〈女〉との別れの歌だ。ぼくの周りにいる女たちをイメージしていない。ぼくの周りの女たちは〈男〉だ」
「私も?」
「そう。ぼくは男であれ女であれ、雄々しい〈男〉以外に興味はない。女々しい臆病な人間とは訣別する」
「女々しさの基準は?」
「個人よりも安全な社会に愛情を注ぐ」
「よくわかるわ。たしかに、私は男ですね。和子さんも素子さんも、節子さんも法子さんも男。……ドリッパーを買ってくれてうれしい」
「山口のように、うまいコーヒーを飲ませてほしくて」
「早く名古屋の人たちに会いたいな、キョウちゃんの〈男〉に。直人くんにも会いたいし」
「トモヨさんと文江さんに会えば、ぜんぶだ」
 部屋に戻り、窓際に洗濯紐を渡し架け、メリタでいれたコーヒーを飲みながら、会話の自然な流れで、康男の話をした。校庭の喧嘩から始まって、宮中の校庭で涙を流しながら抱き合ったことまで話した。話し終えるころには、窓の外に夕闇が迫っていた。
「……たくさんのことを経験してきたのね」
「康男はいま、浅草の本部にいる。いずれ会う機会はある」
「ふつうの人生を送ってきた人じゃないって思ってたけど……。そんな経験のあとだったのに、よく私のような女を受け入れてくれましたね。心から感謝します。私、一生かけてお返しする」
「お返し?」
「……キョウちゃんに遇ってなかったら、私も世間的な人間だったと思う。いまのような充実した生活なんて考えられない。私は救い出してもらったんです。キョウちゃんはどう思ってるかわからないけど、キョウちゃんにとっていちばんの痛手は、たとえいっときでも野球を奪われたことですね。野球漬けのいまも、野球のヤの字も口にしないのがその証拠。和子さんたちだって、たとえ口に出さなくても、みんなそう思ってるはずです。キョウちゃんが、なんだか自分の人生を失敗したものみたいに感じてるのは、その中断のせいなんだと思う。……でも、がっかりしないでね。平凡な言い方ですけど、野球だけが人生じゃありません。文学があるし、私たちだっているし、お友だちもみんなでキョウちゃんを見守ってるじゃありませんか。みんなが、キョウちゃんに自分の希望を託してるわけじゃないんですよ。野球選手になってほしいとか、詩人になってほしいとか、期待してるわけじゃないの。私たちはキョウちゃんに、どういう形でもいいから、ただ自由に生きていてほしいと願ってるだけ。これからは、嵐のあとの晴れ間だと思って、のんびりと楽しく生きていってくださいね」
 キクエはみかんを小指だけを反らせた手つきで剥き、一房を口に含んだ。私も同じように含む。酸っぱかった。
「お返しなんかする必要はないよ。ただそばにいてくれればいい」
「私はキョウちゃんを苦しめてきた平凡な人たちが許せないの。同じ平凡な人間として恥ずかしいんです」
「平凡な人たちの肩代わりをすることはないさ。先生は非凡な人だ。吉永キクエとしてぼくを愛してくれればじゅうぶんだ」
「感謝の気持ちというのは、自分への戒めでもあるんです。キョウちゃんをそこまで悩ませる曖昧な行動をしてしまう世間が憎いの。世間を大切にする人というのは、打算まみれの罪な存在です。―感謝の気持ちぐらいじゃ足りないわ」
 私はレールをすべらせてカーテンを閉め、全裸になった。万年蒲団に横たわると、キクエもセミロングの夏服を脱いで全裸になった。
「こうして抱いてもらうだけでも、心から感謝してるんです。平凡のままだったら、とっくにSHEにされてました」
 だれよりも美しい逆三角形のデルタを見つめる。大きな胸をした小柄なからだが、日本人形のように愛らしい。
「いつ見ても、かわいいからだだ」
「ありがとう」
「ほかの女もみんな美しいからだだけど、美しいうえにかわいらしいからだは、キクエだけだ。このデルタもため息が出るほどかわいらしい」
「来月の九日で二十五歳になるの。かわいらしいなんて言われると、へんな気持ち」
「九月九日に生まれたんだったね。ぼくは女たちのゾロ目の誕生日を暗記してるんだ。早い月から素子が一月一日、カズちゃんが三月三日、キクエが九月九日、トモヨさんが十一月十一日。ボクの五月五日を入れると、ぞろ目は五人。そういえば、文江さんの生年月日を知らない。尋いたことがなかった」
「ものすごい記憶力! 文江さんて、節子さんのお母さんのことですよね。おいくつ?」
「五十歳」
「……なんだか同じ女としてうれしい」
「去年子宮を取る手術をしたけど、どうにか快復した。誕生日なんてものに意味はないんだけど、ゾロ目かどうか確かめたくなるんだ」
「九月九日は菊の節句と言います。奇数のことを陽数と言って、積極性や能動性を表すらしいんですけど、それが重なって重陽の節句。長生きのお祝いをしてもらえる日に生まれたの。七百歳も生きられるんですって」
「ふうん。じゃ、ゾロ目の人はみんな重陽の日に生まれたんだね」
「そう。でも、九月九日だけを重陽の節句と呼ぶんですよ。三月三日は桃の節句、キョウちゃんの五月五日は端午の節句、七月七日は七夕、もう一つの節句は何でしょう」
「一月一日、元旦」
「残念でした。一月だけは合ってます。ゾロ目じゃないの。一月七日、人日(じんじつ)の節句。七草粥を食べるでしょう」
「食ったことないな、そんなもの」
「おいしくないから食べなくていいです。五節句、暗記しました?」
「した」
 裸の胸を並べてこんな会話をしているのが楽しい。


         百五

「……準看て、正看より待遇が悪いって、節子から聞いたことがある」
「ええ。給料のほかにも、治療の範囲とか制限されてるの。医者や正看のお手伝いみたいな仕事。でも、そんなこと気にならない。自分の待遇より、病人の世話のほうが大事だから。それだけをいつも考えて仕事をしてます。お年寄りって、心細く生きてるんです。力になってあげなくちゃ」
「ヒポクラテスの誓いだね」
「そう! キョウちゃん何でも知ってるのね。純粋さと献身を唱えたギリシャのヒポクラテスの教え。医者は患者の立場に立って精いっぱい尽くしなさい―」
「教師よりは、やりがいがありそうだね」
「ずっと、ずっと。比べものにならない。結局はこういう仕事をしたくて大学へいったんだし、いまはそれが叶ってとても幸せです」
「えらいなあ、キクエは。なんだか胸が熱くなる」
 ようやく行為に入る。
「ああ、とっても気持ちいい。温かい感じで。……こんなにキョウちゃんのことを好きな自分が怖いくらい。何かの不幸でキョウちゃんが死ぬんじゃないかと思って、ときどき心臓が破裂しそうになるの。そんなことになったら、私もすぐ死にます」
「キクエが死んだらお姉さんが悲しむよ。それから、病院のお爺ちゃんお婆ちゃんも」
 高みに達したキクエは、どういう心理からか、まじめな話をしているときに不謹慎と思ったのか、快楽を無理に抑えようとしながら、唇に吸いつく。ふるえが収まるまで唇を塞いだままでいる。ようやくからだが弛緩し、唇が離れる。
「二度とそんなこと言わないでください。私がキョウちゃんを愛するのって、身内の愛とか、博愛とか、そんなものとはぜんぜんちがうものなんです。私が純粋に死ねるのは、キョウちゃんのためだけ。キョウちゃんのためにしか死ねない。そのほかの理由で死にたくない。きっとわが子のためにも死ねないと思います」
 キクエが死にこだわるのは、哲学的なものではなく、ふだん現実の死を何度も目撃しているからだろう。キクエは私の耳をいじりながらしゃべりつづける。
「スローガン、教義、大義名分。みんなそういうものを立派だと思うみたいだけど、どこか虚しいです。みんなその虚しさを隠して、立派ぶってるんですね。人は個人的な理由でしか満足して死ねません。ぜったいそのはずです」
「それじゃ、キクエを長生きさせるためには、ぼくはキクエが生きてるうちは死んじゃいけないな」
「そう。もしキョウちゃんが百歳まで生きてるなら、私もかならず生きてます」
「ぼくが百歳なら、キクエは百六歳か!」
「私は長寿の日に生まれたのよ。かならずキョウちゃんより長生きして、いつだって自分で勝手に死にます」
 私はキクエから離れ、抱き寄せて言った。
「いちばん立派でない死に方だ。だれにも称賛されない」
 先生は愉快そうにクスクス笑った。
「だれにも称賛されたくありません」
 キクエにかぎらず、私を取り囲む女たちにそんな無益な個人的な死の幻想を強いるのは、彼女たちを愛しく思う私の心と相容れないものだけれども、私はいつも同意するようにうなずく。風変わりな人間洞察力と、混み入った同情心を備えた奇特な女たちは、自分の願いを幻想ではなく実現可能なことだと信じ切っている。
「キョウちゃんは、プロ野球は中日ドラゴンズいくのね?」
「うん」
「四年後ね」
「たぶん二年後」
「二年後! 忘れてた。中退するんでしたね。ドラゴンズは名古屋がホームグランドだから、名古屋に戻ることになりますね。私も戻ります。みんなも帰るでしょうね」
「何もかも畳んで帰ると思う。キクエは、名古屋に戻って看護婦をするの?」
「はい。看護婦をしながら、医学を勉強し直したい。小間使いで人の治療をするのじゃなく、自主的に治療に携わりたいんです。まず正看になって、自主的な立場の経験をじゅうぶん重ねてから、先の方針を練り直します」
「大学の医学部へでもいくの?」
「そういう時間は人のためになりません。医者になるための十年近い修練期間がむだだと思います。医学を詳しく勉強して、各科のお医者さんのお手伝いができるくらい熟練しようと思います。ヘルパーの講習は暇を見つけて受けるつもりです」
 楽しい笑いが腹の底から湧いた。
「キクエのような人間こそヒポクラテスだ。正看になれば、それでじゅうぶん自主的に患者に触れられる。それからうんと勉強して、それでもどうしても勉強し足りなくて、医者になりたいと言いだしたら、ぼくは全力で応援するよ。キクエなら、十年近い勉強が百年分の実質を持つはずだからね」
 吉永先生もほんとうにうれしそうに笑った。
 夕方、押入箪笥をきちんと整理してから、吉永先生は見送りを拒み、いつもの弾むような足どりで帰っていった。彼女が何と言おうと、あの足どりは一人の男への愛ではなく、彼女を待っている大勢の人間に向けるべきものだ。
 自動販売機で缶サイダーを買って机に戻り、甘い炭酸を口に含みながら、母に帰省予定のハガキをしたためた。八月十五日前後と書いた。母のことは念頭になく、飛島の社員たちに宛てたつもりだった。電話が鳴った。
「ハイ、神無月です」
「あ、神無月さん、東奥日報の浜中です。とつぜんお電話して申しわけありません。名古屋の大沼さまからそちらの番号をお聞きして、お願いがあっておかけしました。いまお話できますか」
 特集版に載せるための近況取材だろう。彼に対してむろん悪感情はないが、電話口で構えなければならないのが面倒くさい。
「はい、何でしょう」
「一週間ほどの密着取材の了承をいただきたいんですが」
「こちらに出てくるんですね?」
「はい。宿はもちろん自分たちでとります。その宿からかよいながら取材します。―ご予定に障るときは自粛しますので」
 刺さってくるのはかまわないけれど、気まぐれな行動までぶしつけな人目に曝されるのはたまらない。私の生活は目が粗いようでいて、日常の気分のリズムに調和のとれた秩序といったものがある。
「わかりました。仕方ないでしょう、浜中さんの注文なら。ただ、夕方以降の取材は遠慮してください」
「もちろんです。神無月さんのマスコミ嫌いはよく存じております。今回の取材は野球にかぎったものではなく、日常生活に焦点を当てるものです。夜の時間にはおじゃましません。つきましては、東大合格後からの追跡取材と言うんでしょうか、神無月さんの日常生活を一週間拝見させていただくという企画を私が持ちかけまして、取材費こみで採用されました。もちろん神無月さんの了承待ちですが、いかがでしょう、つきまとうということはいたしません。少し離れた距離からカメラとデンスケをぶら下げて追いかける、そういう形をとらせていただけないでしょうか。取材員はあと二人です」
 ふと思いついて言った。
「東大チームの山形合宿にはついていかないので、九月の初旬までしばらく野球を離れます。この十四日から、友人や恋人たちといっしょに、一週間ほど名古屋に帰省することになってるんです。よければそれに同行したらどうですか。そこまでの長期取材なら、いっそ寝食をともにしましょう。ただ、くどいようですが、夜の単独行動はけっして追わないでください。疲れて寝た、とでもしといてください」
「願ったりです! ぜひ同行させていただきます。思い切ってお頼みしてよかった」
「ほかのマスコミ関係者に覚られないようにしてください」
「はい、だいじょうぶです。それにわれわれ新聞屋のあいだでは、神無月さんは相変わらず雲隠れということになってますから。残念なことに天才の気持ちというのは理解されないものでして、何さまだと思ってる、生意気な野郎だと一部の雀たちが囀(さえず)ってます。彼らには神無月さんのことは永久にわからないでしょう。ところで、準優勝と三冠王の喜びはそろそろ消えましたか」
「―忘れてました」
「アハハハ、神無月さんらしい」
「あなたのおかげでぼくは故郷の英雄です。変人性を強調してくれたことで、向こうから近づいてくることもほとんどありません。感謝してます」
「よかった。田舎の人は嫉妬心が旺盛ですから、神無月さんを無視する態度に出ることも多いでしょうが、少なくとも静かな生活は保てますね。都会ではそうはいきません。取材中に正体がバレたら、ひたすらとぼけるか黙殺しましょう。ええと、名古屋へいくにあたって、いつどこで落ち合いましょうか」
「十四日水曜日の午後三時、高円寺駅改札で。ぼくは時間にはキチガイのように正確ですよ」
「正確は王者の儀礼である―。わかりました。かならず」
「大移動になりますから、新幹線でいきましょう」
 すぐにカズちゃんに電話して、浜中の取材のことと、新幹線での移動に変更したことを告げた。
         †
 八月の十二日の月曜日まできっちり練習に参加した。まじめにチームスケジュールをすべてこなした。フリーバッティングになると、テレビ局の取材クルーがあちこちでビデオを回していた。大手新聞社の腕章をした記者たちの顔も見えた。鈴下監督がのんびりとインタビューを受けていた。
 ブラバンと応援団とバトンが大挙してスタンドで練習している。だいぶ女子部員たちのぎごちなさが取れ、脚もきれいに揃い、バトンも大きく回る。ブラバンの演目もかなり増えたようだが、何かワンパンチ足りない。しかし春に比べれば雲泥の差だ。
 部室の磨りガラスの固定窓が、開け閉(た)てできる大きな素通しの二面ガラス戸になり、その外側に金網が張られた。むろん着替えのときは分厚いカーテンが引かれるが、ふだんは室内が明るくなって表から丸見えになる分、補欠たちが掃除を行き届かせなければならなくなった。彼らが清潔にした部室は、準優勝後たるみがちだった選手たちの気分を引き締めた。
 十二日の帰りぎわに、私はその部室でレギュラーたちに言った。
「あさってからの山形合宿、がんばってください。名古屋の帰省を終えてこちらに戻ったあと、九月の初旬から練習に出ます。八月下旬にも都合のいい日は練習に出ます」
 監督、スタッフたちは満足げにうなずき、克己が、
「金太郎さんの足を引っぱらないように、しっかり鍛えてくるよ」
 と言った。レギュラー陣が、何かアドバイスはないか、と口々に訊いた。
「遠投とダッシュをしっかりやり、バットは力をこめずに、網で捕まえるように大きく振ること。攻撃のときも守備のときも、一球一球に神経をピリピリさせること。野球は繊細なゲームです」
 白川マネージャーといっしょに詩織が近づき、
「がんばってきます。九月からいっしょに練習できることを楽しみにしてます」
「うん、がんばってください。ぼくも自主トレに励みます。日射病に気をつけて。このところ鈴木さん、顔見ないね」
「あしたまで里帰り。山形で合流」
 鈴下監督が、
「金太郎さん、名古屋に帰るんだよね」
「はい」
「ウイロウ、好物なんだ。お土産よろしく」
「わかりました。きしめんも買ってきます」
 助監督と部長たちは遠慮して笑っていたが、彼らにもきしめんとウイロウを三箱ずつ買ってこようと思った。監督たちが出ていくと、大桐が、
「俺たちにはいいぞ。山形土産買ってきてやる」
「ありがとうございます。でも、ぼくなんか喜ばせてもしょうがありませんよ。野球道具のほうが大事です。そのお金でグリースでも買ってグローブを労わってください」
 私は着替えをすませ、補欠たちとグランドの後片づけに腐心している詩織に近づき、小声で言った。
「三十分後、本郷三丁目駅。荻窪でうまいものを食おう」
 詩織は横顔でかすかに微笑んだ。


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