百三十九

「……大学はどこにいったの?」
「就職したわ。愛知時計の事務。おとうさんの勤めてる会社。おかあさんも、おとうさんと結婚するまではそこに勤めとった。情実入社やないんよ」
「わかってるよ。お父さんは昼めしを食いに帰ってたんだね」
「そう、毎日十一時過ぎに帰って、十二時に戻るの」
 川風が涼しい。ふっとヘドロのにおいがかすめる。何百回も眺めたインク色の川。胸がいっぱいになる。
「ええ会社なんよ。五十年前に早稲田大学の講堂の大時計を作ったんやて」
「ふうん、老舗なんだね」
「座って仕事できるからありがたいわ。……おとうさんといっしょにいつも新聞読んどるよ。東大の三冠王。いまもマスコミに追いかけられとるんやないの。もう気楽に話しかけられる人でなくなったね」
「そういう言葉は、そう言ってほしい人にかけてあげるべきだよ。人間関係の彩りがある人間には不要だ」
「人間関係の彩り?」
「ほとんどの人にないものだね。人間の言葉や行動に影響を受けて、ゴチゴチ寄り道する経験のこと。寄り道しないで一直線に進んでいく人は、そういう彩りを楽しめないってことなんだ。ゴチゴチ寄り道して初めて、人は喜んだり、悲しんだり、かけがえのない経験をすることができる。彩りを楽しめない人には、褒め言葉がいちばんのご馳走だ」
 雅江は私の顔に強い視線を当て、
「……きょうは何できたの?」
「今度会ったときには、かならず雅江を抱く、と言いにきた」
「…………」
 雅江はベンチから立ち上がり、うつむいて考えこんだ。
「ぼくたちの当然の結果だと思わないか」
「……あの女の人とは、終わったの?」
「北村和子というんだ。終わってない。終わらせない」
「節子さんとは?」
「終わってない」
「それなのに、私と?」
「そういう理屈を本気で言ってるのなら、もう二度と会いにこない。ぼくを愛しているんじゃなく、ぼくから愛される唯一の人間になりたいという欲望の表れだからね。もし、プライドを見せつけたり、ぼくをからかったりしてるのでなければ、来年もう一度くる」
「からかってなんかおらんわ。プライドもあれせん。二人のことを訊いたのは、健常者を抱くのは簡単やと言いたかったんよ。……神無月くん、ほんとに私を抱ける?」
「雅江が、〈こちら側〉の人間なら」
 雅江は腰を下ろした。近くの立ち木から蝉の声が落ちてきた。
「こちら側って?」
「ぼくと付き合うような道草人間」
「……神無月くんは、私のからだに興味あるん?」
「心ほどはない。……ぼくはたくさんの女と付き合ってる。これまで別れた女は一人もいない。彼女たちは、ぼくを必要としてる。ぼくがいなくなったら、たぶん生活に支障をきたすと思う。この関係は、彼女たちの希望のままにずっとつづけなくちゃいけないと思う。もちろんぼくの希望でもあるんだけど。……そういうぼくでもいいと言うのなら」
 雅江は私を引き寄せ、やさしく抱擁した。
「……愛してるわ。心から。神無月くんが何人の女の人と付き合っとっても、関係あれせん。私は神無月くんさえおれば、それでええんよ」
 唇を求めてきた。長いキスをする。菅野たちは煙草でも吸いながら、遠目に私たちを見ているだろう。シャッターを切っているかもしれない。
「神無月くん……。何年経っても、私は、きのうみたいに神無月くんのことが好きなんよ」
 いったい加藤雅江はいつまで私を愛するのだろう。苦しい。この女と会うと、いつも胸が苦しくなる。
「……今度会うときは、かならず抱いてね」
「かならず」
 守隋くんにしたのと同じように、手帳を割いて住所と電話番号を渡した。クラウンの停まっている先の玄関まで送っていった。雅江は戸を開けずに振り返り、
「待っとる!」
 手を振りながら大きな声で言った。シャッターの音がかすかに聞こえた。
「神無月さんは、何をやるのも自然ですね。不潔感がない」
「見てたの」
「見てました、感動しながらね。やさしく肩を抱いてやっとりましたね。お嬢さんが認めた女の人なので、安心して見てられました。そうでなくても、神無月さんのすることは安心して見てられます。下心がない」
「来年きちんと抱くって、約束したんです」
 おーっと、三人の記者が声を上げた。菅野が、
「彼女にとっては、大願成就ですね」
「守随くんに会って、気持ちが決まった。全力には全力でってね。彼のような全力でない人間には、もう会わない」
 守随くんの家での顛末を語る。みんな興味津々の表情で聞いた。そのことについては何の感想も発しなかった。ただ、浜中が、
「神無月さんは守随さんに尊敬の気持ちをしっかり伝えたかったんでしょう。……伝わらなかったと思いますよ」
 と言った。車が大瀬子橋を越える。
「さっきのかたは少し脚がお悪いんですか」
 恩田が尋く。
「ポリオです。中学時代の交換日記に、脚を治してやると書きました。しかし、物理的な治療なんかとうてい無理で―」
「で、精神的に?……」
 田代の言葉に恩田が反応して、
「交換日記ごときと言うつもりはありませんが、少年のころに血気に駆られて、ふと書いてしまった言葉ですよね。責任なんかとる必要は―」
「たがいに交わした約束じゃなく、ぼくの一方的な約束だったんです。だからこそ、それが勇み足でなかったことを知らせにきたんです。実際は恩田さんの言うとおり、少年の勇み足だったんですけどね。気になって仕方ないので、俵の外に出た足をもとの土俵に戻さなくちゃいけない。彼女の脚は治せないけど、それに等価の別の形で約束を果たしたいという強がりです。つらくはありません。加藤雅江は人間的にすぐれた人ですから、その当時からぼくにとって魅力にあふれた人でした。でも、気の毒な肉体に近づけなかった。具体が実行できないから、抽象でごまかすしかなかった。きょうは具体的な皮膚まで近づくことができた。皮膚の奥まで近づかなくちゃいけない。だから彼女に対するぼくの気持ちは、責任をとるといった消極的なものでなく、成熟した彼女の精神も肉体も、徹底して受け入れるという積極的なものです」
 田代は目を赤らめ、
「……容量いっぱいに生きてるんですね、神無月さんは」
 浜中が、
「それが神無月さんの人生ということでしょう。美学じゃないですね。精神の勢いです」
 菅野はハンドルを繰る横顔に感情を湛え、
「こんなこと言うのは気恥ずかしいんですが、神無月さんといると、毎日、人間の肉体と精神の可能性の限界を見ている思いがしますよ。それに、言葉がすごい。耳の傾け甲斐がある。神無月さんとは、たとえ半年、一年にいっぺんしか会わなくても、こうして毎日会っていても、感激の具合がいっしょなんですわ」
 浜中が、
「恒星は動きません。周りの人間がうろちょろ恩恵を被っているだけのことです」
 田代が、
「そのとおりですね。恒星は何も意識していない。そこに存在するだけです。きょうもいいテープが録れました。ついてきてよかった」
 恩田は助手席の私を振り向かせて、写真を何枚か撮った。田代がデンスケを止めた。
 帰り着くとすぐ、トモヨさんに唇を突き出し、小鳥のキスをする。昼めしを食いに店から戻った女たちが、山口をいいように使って、知りたくないのやら、小指の思い出やら、真赤な太陽やらを唄っていた。直人は主人のふところであやされている。カズちゃんたちはまだパチンコから帰ってきていない。
「あれ、山口、パチンコは?」
「いやあ、俺はだめだね。まったくへたくそ。退散。和子さんたちはうまい。女はギャンブル強いなあ」
「よしのりは?」
「彼もだめ。神無月がいないとつまんないって言って、どっかいっちゃった。トルコは飽きたと言ってたし、映画の趣味はないし、どこへいったんだろうなあ。まあ夕めしまでには帰ってくるだろう」
「枇杷島青果市場で働いてたことがあったから、そこに顔を出してるんじゃないかな。ぼくも去年の年末、一週間手伝った。肌に合ってた。野球をやめたら、ああいうのが理想の仕事かな」
 主人が、
「神無月さん、お早いお帰りやね。あんまりうれしそうな顔やないね。ガッカリしとる顔や。いやなことを気が進まないでやっちゃったからじゃないの。ね、神無月さん、これからは、いろいろおもしろくない目を見ますよ。気の進まないことは、ある意味、神無月さんの命を縮める毒です。山口さんに言わせると、面倒なことが重なって、ほとほと憂鬱になって、死んでしまいたくなるというやつです。ワシはあなたみたいな人間国宝をぜったい死なせませんよ。そうでしょ、東奥さん」
 浜中が、
「そのとおりです。神無月さんに不愉快な目はぜったい見させません。揚羽蝶みたいな人ですからね。網でかぶせたら翅(はね)が傷ついてしまう」
 山口が、
「鋼(はがね)の翅なんだけどね。華麗な翅で蝶々みたいに脆い飛び方をするんで、網で捕まえやすい。でも網がもろいと翅に負ける。強い網には心地よく捕まるけど、弱い網は突き破る。―いや、破らないか。その網に同情してしまうから」
「おもしろい比喩ですね。みごとにきょうの神無月さんの行動だ」
 私は、
「守随くんの家からの帰りがけに、チラッと加藤雅江のところに寄ってきんだ」
 山口は、
「加藤雅江という女がどういう人物かは法子さんから聞いた。たしかに感心できる人間かも知れないが、こと神無月との関係は、親に認めてもらわないと身動きとれない女だと思う。その結果、彼女も親も戸惑って、にっちもさっちもいかなくなるんじゃないか?」
「覚悟してる」
「また憂鬱になるな。ゴロゴロして、脳味噌と心臓を大事にしてるのがいちばんいいのに」
 おトキさんが、
「カツ丼できました。みなさんどうぞ」
 テーブルをつなぎ合わせた三十二畳だけで食事になる。おトキさんも賄いも卓につく。菅野や浜中たちと並んでカツ丼を食う。トモヨさんがそばに控える。おトキさんたちのテーブルの縁に手をついて、直人が歩き回っている。菅野が、
「愛想を振り撒いてるわけじゃないのに、みんなを惹きつけてる。やっぱり神無月さんの子だなあ」
 トモヨさんが、
「どこの家に生まれても、ああいう子だったろうって気がします。無邪気で、微妙に人から離れていて、そのくせ心をしっかりつかむのよ。まるで郷くんだわ。もし、これに才能でも付け加わったら、郷くんそのもの。うれしいような、切ないような」
 菅野が、
「……才能を芽生えさすのは、人生経験が響いてくるんじゃないですか。そこは、これからの直人の生き方しだいですね。神無月さんのお母さんみたいにトモヨ奥さんが直人を生きづらくさせるとは思えんし、周りも愛する一方でしょう。人生の重荷を背負うようにはならんと思いますよ。才能いうんは、一種の反発心から生まれるものだとすると、直人にはそのチャンスがない。しかし、愛されるだけの子でけっこうじゃないですか。なにも苦労させることはない」
「ええ。でも才能のない子は、人間として深みが……」
 女将が聞きつけて、
「トモヨ、だれもかれもが神無月さんにはなれんのよ。四分五分似とるくらいでじゅうぶんや。それで軽く世間のてっぺんに立てる。深みゆうのは生まれつきのものや。なあ、トモヨ、神無月さんが二人いてみい。目移りして付き合い切れんよ。とにかく神無月さんと比べんことや。直人は直人なんやからね。あんたかて、神無月さんみたいな子を産もうなんて思ったことはなかったやろ?」
「はい。もちろん」
「たとえば、才能の豊かな子だとわかったとしてみ。それだけで満足せんものや。やれ、ええ大学にいってほしい、やれ、人にやさしい子であってほしい、てなふうに、望むことにキリがなくなるで。神無月さんはこの世に一人。だからあんたも命の懸け甲斐があるんやろ? もっと無心に子育てし。直人もこの世に一人。命を懸けたらんとあかんよ」
「はい、おっしゃるとおりです」
 トモヨさんは私にぺろりと舌を出し、
「いつもこんなふうに叱られるんですよ。かわいくなればなるほど、欲が出てきて」
 菅野が、
「痛いほどわかりますよ。神無月さんは人間の鋳型みたいなところがありますからね。嵌めたくなる」


         百四十

 直人が母親を求めてこちらのテーブルによちよち歩いてきた。トモヨさんに抱きつく前に私が抱きとめて頬ずりした。唇を寄せると、今回もまた顔を引いた。爆笑になる。主人が、
「直人は女にしか興味がないんですよ。神無月さんの子ですから、あたりまえでしょ」
 カツ丼お替わり、という山口の声が聞こえた。そのタイミングが絶妙で、さらに大きな笑いが湧いた。
 カズちゃんたちが、めいめい大きな紙袋を抱えて戻ってきた。法子が、
「やっぱり帰ってた。話すことなんかなかったでしょ」
「うん、なかった。早く帰りたかった」
 カズちゃんがザーッと畳に景品をあける。小さい携帯ラジオ、スナック菓子、チョコレート、ハイライト。
「みんなで好きなの持ってって」
 携帯ラジオは主人に、菓子や煙草はトルコ嬢たちに、チョコレートは子持ちの賄いたちにと、たちまちさばけた。私はすぐ棒チョコを拾い上げた。吉永先生が、
「私は、小さな縫いぐるみばかり取ってきました。はい、直ちゃん」
 直人に差し出す。直人はコアラの縫いぐるみを両手で受け取り、耳を舐めた。
「バッチー、バッチー」
 と言って女将が取り上げた。
 めしを食った女たちがごちそうさまを言って、勤め先へ戻っていく。みんな直人の頭を撫ぜて微笑みかける。直人はキョトンとしている。唇を寄せる女の唇をきちんと受ける。主人の言うとおりだ。よしのりが、林檎と梨の袋を担いで帰ってきた。
「当分のデザートだ。新鮮だぞ」
「もらったのか」
「買ったんだ。真島のオヤッさん、なつかしがってたぞ。石丸さんもな」
「やっぱり枇杷島だったか。オヤッさん、養子をもらったのかな」
「そんな話があったのか。聞かなかったな。トモヨさんとは事情がちがう。そんなに簡単に養子なんてもらえんだろう。八坂荘のおまえの部屋、空き部屋になってたよ」
「部屋代が高いからね」
「俺のアパートの部屋は埋まってた。まだあのお隣さんがいたぜ。廊下ですれちがった」
「夏休みだね。相変わらず先生をしてるんだな」
 あの女を初めて見たとき、痩せた女にも生殖器があることを奇異に感じて、おぞましささえ覚えた。吉永先生がいつか寝物語に、女性ホルモンは別名肥満ホルモンと言い、女は太るのがあたりまえだと教えてくれた。おぞましさの原因がわかった。彼女たちは女の皮をかぶった〈男〉だったのだ。いまは痩せた女をなんとも思わない。北村席にも何人かいるが、目に留めない。女としての特性を持たない彼女たちは、男の私に秋波を送ってこないので、拒絶する必要がないからだ。
「西森さんとは疎遠になってしまったわ。でも、元気でよかった」
 よしのりもさっそくカツ丼にかぶりつく。主人が、
「じつはですね、きょうスポーツ用品店にいって、九百三十グラムの硬式用のバットを買ってきたんです」
 玄関にいってバットを取って戻る。なかなか握りやすそうな形をしている。
「これです。王選手が使っているのと同じ重さやそうです。このバットを直人の目の前で振ってみてほしいんですがね。と言うより、ワシをはじめ、だれもこんな鼻の先で神無月さんのスイングを目にしたことがないと思うんですわ。きっちりまぶたに焼きつけておいたほうが、この先応援のし甲斐があるというもんです。目に焼きついているあのスイングから、あのホームランが飛び出すのか、というね」
「はい、振ってみます。端の十六畳のほうへいって振りますね。最初の五回をゆるく、次の十回を強く振ります」
 ワーと拍手と喚声が上がった。恩田が撮影の構えをしていちばん前に陣取った。どんぶりを抱えたよしのりまで前の席を主張する。私は奥の部屋へいき、きちんとスタンスを固定させて、ゆるく五回振った。フラッシュが連続で光る。
「すごーい!」
「すげー!」
「ものすごいもんですな!」
 主人が思いきり拍手する。恩田が、
「それ、ゆるく振ってるんですよね」
「はい。じゃ、強く振りますよ」
 山口が目の前にやってきて、あぐらをかいた。カズちゃんたちも五人、居並んだ。主人夫婦と直人を抱いたトモヨさんもなるべく近くへ寄る。
「神無月の原点だ。とっくり見て、記憶する」
「じゃ、強く十回振ります」
 いちいち構えずに、バットを引き戻しては繰り出し、連続で十回振った。
「ウッホー! ビュ、ビュって、とんでもない音がする」
「田代くん、メーターの振れがすごいんじゃないか」
「はい! こんな風切り音がするなんて知りませんでした」
「神無月、スイングが見えないよ。恐ろしい」
「直人、見た? おとうちゃんの野球よ」
 トモヨさんがギュッと直人を抱き締める。主人が、
「神無月さん、ありがとうございました。予想していたものとまったくちがいました。これは何か、驚くべきものですな。いやはや、とんでもない。やあ、ほんとにありがとうございました。バットは台を作って飾らせていただきます」
 女将が、
「ようわからんけど、ふつうやないな」
 素子が素振りのまねをしながら、
「キョウちゃんのお尻の動き、セクシーやった」
 法子が、
「わかる。宮中のグランドに、いつも女の子が集まって、熱い目で見てた。神無月くんの動き回る場所だけ、ちがう光が当たってるようだった」
 みんなテーブルに戻り、めいめいの印象を語り合いながら、しばし感動に浸っている。田代がテープに録った音を聞かせる。ゴッ、ゴッ、と太い音がする。
「実際にはもっとするどく聞こえますよね」
 浜中が、
「すごい風圧なんでしょうね」
「あんなふうに目にも留まらぬスピードで振れるようになったのは、いつからなんだ」
 山口が訊く。
「この半年じゃないかな。小学校のころから、百本、二百本と振ってたから、それが積もり積もったんだろうね」
 カズちゃんが、
「夕方になるといつもバットを振ってたわ。大人用のバットをね。社員たちが、俺たちより速く振るって驚いてたのを憶えてる。小学校四年生の秋よ」
 私は、
「手術が失敗して、右投げに変えてから、右腕の引きが強くなったこともあると思う。打球が低くても伸びるようになった」
 山口が、
「東大の体育の軟式野球で、五打席五ホームランを打ったのをこの目で見た。ボールが歪んで飛んでった。素人野球に神無月を混ぜちゃいけないな」
 あのう、と田代が、
「左肘を壊して、右投げに変えたわけですけど、その決意もとんでもないものだと思いますが、成功して、何かちがいが出ましたか」
 取材の顔になっているので、できるだけ丁寧に答えた。吉永先生と節子がデンスケを覗きこむ。浜中が手帳を開いた。おトキさんたちが、昼下がりのビールを持ってきた。
「左投げのころはたしかに強肩でしたが、スリークォーター気味の投げ方で、それが災いしたんでしょう。肘関節の神経をやられて……一瞬絶望しましたけど、手術直前に、右腕が残ってるということにハタと気づいて、飛び上がりたいほどうれしくなりました」
 今朝文のことは言わなかった。田代は、
「左利きを右利きに変えるという困難すぎる挑戦に、それほど明るい希望は持てないでしょう」
「はい、希望じゃなく、決意の喜びです。右で投げているうちに左肘がよくなるかもしれないという希望じゃなく、左をあきらめて、一本しかない右腕の可能性にかける決意の喜びです。だから、是が非でも右利きに変えなくちゃいけなかった。西松建設の社員たちがその決意に共感してくれて、親身になり、それこそ粉骨砕身、一日の仕事を終えてくたくたになったからだに鞭打って、ぼくの利き腕改造を手伝ってくれました。仕事を終えたあとの夕方の数時間、休息や、食事や、娯楽の時間を削って、右投げが完成するまで、一日も欠かさず、とことんキャッチボールの相手をしてくれたんです。そんなある日、彼らがぼくを褒めたんです。異常に肩が強いって。中一のボールを捕球するのを彼らが怖がるんです。左利きのころの遠投は、おそらく八十メートルぐらいだったろうと思いますが、右は中三のときに百メートルはいってました。いまは百二十五メートル以上です。ちがいが出たどころではなく、まさに神の賜物でした。それ以来、守備練習で全力をこめないようにして、右腕を大切にしてます」
「バカ肩とか鉄砲肩と言われてますよね。プロにいってもナンバーワンだろうという評判です。攻守は日本一ということになりますが、足はいかがですか」
「ふつうです。十一秒台を切れません。よくてフラット。三拍子は揃ってない。足の速さは鍛えられません」
「十一秒! めちゃくちゃ速い。そのうえベーランの技術は大学球界随一と言われてますよ。一、二年でもう少し速くなると思います」
「速く見せるのは得意です。でも、盗塁はゼロです。ホームランを打ったとき、全力でダイヤモンドを周るのは、そのことへの罪滅ぼしです。なるべく美しく走るように工夫してます」
 浜中が、
「あれは惚れぼれします。ユーモアもあって微笑ましい。球場が沸きます」
 取材が終わったのを潮に、
「コップ一杯のビールで酔いました。ちょっと横になります」
 と言って、縁側のそばにいき座布団を枕にゴロリとなった。庭の緑を目に染ませながら半眼になる。青畳の新しい香りが心地よい。やがて目をつぶった。山口のギターの音が聞こえる。素子が背中に添い寝をする。
「あら、素ちゃん、うれしそう」
 とカズちゃんの声が聞こえた。
 一時間もして、三時で上がったトルコ嬢たちの帰還の足音で起こされた。ステージ部屋で記念写真を撮りたいと恩田が言っている。
「トモヨさん母子を真ん中に、ご主人ご夫婦がその左、神無月さんと和子さんが右、その両脇にギターを持った山口さんと扇子を持った横山さんにお座りいただいて、二列目に立て膝で、顔のあいだに挟まるように、滝澤さん、兵藤さん、吉永さん、山本さん、その脇におトキさんと菅野さん。後ろの三列目と四列目に、賄いのかたがた、いまいらっしゃる従業員のかたがたが立って並んでいただけませんか。最後列の人はステージに立ってください」
 どやどやと言われたとおりにする。主人が、
「東奥日報さんはどうするの」
「三脚の自動写真ですから、最後列に入ります」
 ジー、パシャ、を三度繰り返した。
「みなさんにいきわたるように、焼き増しして北村席さんにお送りします。新聞に使うことはございませんのでご安心ください」
 おトキさんが、
「おやつができてます。もりうどん、そうめん、ひやむぎ、お好きにどうぞ。薬味はネギと生姜とミョウガとワサビですけど、お好みで。横山さんのお土産のリンゴとナシも剥いてあります」
 また賑やかな食卓になった。すべて好物なので。ツユにワサビを溶き、ネギを散らして三種類食った。よしのりに夜のサービスをした女が彼のそばについていた。ときどきよしのりが話しかけるのは、今夜の催促かもしれない。化粧が濃いのに影の薄い女だった。よしのりがじっと直人を見つめる。気持ちはわかるが、そのことでよしのりに語りかける言葉はない。
「神無月、今夜は唄えるか」
 山口がテーブルの向こうから尋く。
「うん、いける」
 主人が、
「お、アンコールですか。儲かった」
「おまえ、二曲ぐらいいけ。それからカラオケ大会にしよう。せっかく設備があるんだからさ」
「そうだな。その前に散歩だ。名古屋の都心を歩いてみたい。いい? カズちゃん」
「オッケー、案内するわ」
 よしのりが、
「俺はいいや、きょう柳橋のほうを歩いたから」
 節子が、
「私たちも夜のステージまでいろいろお手伝いしてるわ。直人くんと遊びたいし」
「私はまいりますよ。写真を貯めておかないと」
 恩田がカメラをとり上げる。浜中が、
「私はご主人たちを取材してるよ。特に赤線から青線への変遷のころをね。田代くん、録音に残ってくれないか」
「わかりました。お店の女の人たちのインタビューも録りたいですね」
「そうなんだ。たしか、文化部の××くんが、全国の遊郭の歴史シリーズの記事を書いてたから、それに役立ててやりたいということもあるし、北村席の経営しているトルコ風呂の宣伝にもなると思うんだ。他県から転載を求めてくることもあるからね」
「それはありがとうございます。菅ちゃん、あんたもいきたいんやろ」
 菅野は主人に拝むような格好をした。
「七時までには帰ってきます。先に食事しててください。じゃ、いってきます」


         百四十一

 山口が助手席に乗って、五人で出発した。私は、
「美術館とか、シャレた建物はよそう」
 カズちゃんが、
「まず、久屋広場へいきましょう。テレビ塔の裏手。表通りは百貨店街よ」
 カズちゃんはかつて私から聞いた松坂屋の話をする。恩田がしきりに感心する。
「クマさんの言ったような器用貧乏にならなくてよかったですね。魅力的だなあ、そのクマさんという人。写真撮りたかったなあ」
 広小路を走り、十分もしないでテレビ塔下に着き、植樹して緑の空間を作った広場のベンチに坐る。人が三々五々群れている。微風にカズちゃんの髪が揺れる。パチリ。菅野がカズちゃんに当てている私の視線に気づき、
「大人も子供もみんなお嬢さんをキョロキョロ見ていきますよ。近づきがたい美しさというやつですね」
 山口が、
「最初の女がこれほど美しかったというのは、まさに神無月の星を象徴しているな。和子さんは多少オヤジさん似か? いや、やっぱり突然変異だろうな」
 カズちゃんはスカートを直して立ち上がり、
「やめて、恥ずかしいから。次いきましょう。この南北の通りを久屋大通りというのよ。道幅が百メートルあることで有名」
「これのことですか、百メートル道路というのは」
 パチリ。車に乗る。
「道を渡って、エンゼル球場を見ておこう。小学六年のとき、初めてホームランを打った球場だ」
「あら、キョウちゃん、あのあたりは造成されて新しい観光施設が作られるようなのよ。いまはただの空地になってるわ」
「……そうだったね、残念だ」
 車を降りて、エンゼル球場跡地のそばの白川公園という緑地を歩く。豊かな緑の下に浮浪者のテントが立ち並んでいる。木に架け渡したロープに洗濯物が垂れ下がっている。パチリ。
「大都市の裏面ですね」
「若宮八幡社と護国神社というのが近くにあるけど、どうする?」
「神社は食傷気味だな。熱田神宮を見たからじゅうぶんだろ」
 山口の意見にみんなうなずく。ふたたび車に乗り、引き返す。
「もう、栄に見ておくようなものはないわ。あれが松坂屋」
「でかいなあ!」
 みんなで見上げる。こんなに大きかったかと思う。
「ここから先は、大商店街。ビル一色。三越、丸栄、柳橋映画館街、駅前には名鉄メルサ」
「メルサって?」
「さあ、意味は知らない」
 菅野が、
「メイテツ、エレガンス、レディーズ、ショッピング、アベニューの頭文字をとって、M、E、L、S、Aです」
 山口が、
「レディーズって?」
「ファッションの専門店ばかり出店したからです」
 本郷の通りに派手な色づけをしたような街並がどこまでもつづく。道路が広いだけで何の見どころもない。
「本通りというのは、どこも魅力がないね。いつか山口が言ってたけど、建物の背が高すぎるんだよ。小路に入りこまないと何の発見もない」
「ほんとね。駅近辺もニョキニョキだし。やっぱり熱田区が最高ね」
「西区は、背は低いけど、オモムキがないもんなあ。神無月さん、七時まで見て歩きますか? 三時間もありますよ」
 菅野に言われて、カズちゃんは首をひねり、
「名にし負うメイチカはどう?」
「もうおトキさんと歩いたが、退屈だ」
「そうよねえ、私もめったにいかない。せっかく車なんだから、笹島から一挙に庄内川までいって、川でも眺めて帰りましょうか。都心じゃないけど」
「それでも五時ぐらいですかね。川を見たら帰りましょう。やっぱり、家がいちばんですな」
 笹島の交差点から一本道の太閤通を庄内川まで飛ばす。一転して背の低いビルと、アパート、マンションと民家がつづく。
「あっというまに別の街ですね。しかも道が定規で引いたみたいに一直線だ」
 恩田がパシャパシャシャッターを切る。
「あそこの、おやつ饅頭って店、塀がトタンよ。軒の上の瓦が崩れかけてる。古そう。暖簾が真っ白なのがいいじゃない。なんだか変わってる。何か食べていきましょうよ」
「そうしますか」
 菅野は店の隣の空地へハンドルを切った。
 狭苦しい清潔な店内にテーブルが四つ置いてある。おやつ饅頭というのは、色の濃い小ぶりな今川焼きだとわかった。生地に桜印と重ねて〈おやつ〉と焼印が捺してある。一個三十円。
「ちょっと高いわね」
 焼いていた三十代の女性に聞くと、戦後すぐに始めた店だと言う。カズちゃんはぜんざいを頼み、男三人は小倉餡の饅頭一つずつ、焼そばを一人前ずつ頼んだ。饅頭の餡は少なめだが、かなり甘く、熱い茶に合った。目玉焼きのついた焼きそばはうまかった。
「そんなに食べてだいじょうぶ? 帰ったら夕ごはんよ」
 恩田が、
「北村席のごはんは別腹です。いくらでも入ります」
「それを聞いたら、おトキさん、喜ぶわ。ねえ、キョウちゃん」
「褒めたらまた台所へ逃げていくよ」
「和子さん、夏のぜんざいはどうですか」
 こげ目の入った餅が一切れ。カズちゃんは、噛んで、伸ばして、ちぎる。
「おいしい! 素ちゃんたちも連れてくればよかった」
「この店、二十何年もここにあったんだね。西高にかよってたころもまったく気づかなかった」
 菅野が、
「お嬢さんは店を見つける名人ですね。畏れ入りますよ」
 私は、
「カズちゃんの食い歩きの原点を見たよ」
「トモヨ奥さんも、むかしよくいっしょに食べ歩いたと言ってました。同じような体形になったのは、そのせいじゃないですか」
「かもね」
 山口は私の残した焼そばも平らげた。
「山口は万年変わらないなあ。安心するよ」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんとずっといっしょにいるコツは、変わり玉みたいに変わらないことよ。同じ砂場で遊んだ仲間がどうして変わってしまうんだろう、というがキョウちゃんの口癖だから」
「そのじつ、砂場で遊んだことなんかないんだけどね」
「なあんだ、そうなの」
 山口が、
「でもわかるぜ、神無月の気持ち。環境に合わせてそれらしく変わっていく人間が許せないんだろう。……神無月は初めて遇ったときのまんまだからな」
 恩田が目をしばたたいた。
「……この人間関係が崩れることなんてあるのかなあ。あったら事件ですね」
「事件だ。不如意な別れというのは、神無月をぶちのめす事件だからね。それでなくても神無月は事件のかたまりだから、俺たちが裏切りの追いうちかけてたら、パニックを起こす」
 ふたたび車に乗って、川に向かって走りつづける。事務所ふうのビルと民家ばかりが車窓を流れていき、ときおり喫茶店が目につくくらいだ。おやつ饅頭はすごい確率で見つけたということになる。山口が、
「こりゃ、歩いたら砂漠をいくようなもんだ。徒歩の散歩でなくてよかった。いいドライブになった。ドライブのためのドライブというものをしたことがなかったから、目的のある遊山より新鮮だ」
 素子が立っていた大門の辻を過ぎる。ポチポチと沿道に商店が復活する。
「古い家が多いわねえ。あ、きしめん屋さん。でもだめみたい。暖簾も下げてない」
 恩田が、
「一日がたちまち暮れていきますね。こうして毎日暮らしたいな」
 私は、
「こうして、というのは、気に入った人間といっしょにいながらということですね」
「ええ、食べたり、散歩したり……」
 山口が、
「金があれば可能だね」
「それと記憶―記憶が積み重なって、気に入った者同士の生活を楽しくする。語り合うこと一つひとつが、窓を過ぎた景色じゃなくて、おたがいが共有する思い出だから」
「ああ、わかるな!」
 山口が突拍子もない大声で叫んだ。菅野が大声で笑った。恩田もつられて笑った。
「あ、大鳥居!」
「おお、いつ見ても無意味に巨大だ」
 恩田が、
「ここを左へいけば飛島建設でしたね」
「思い出したくもない。あの母親は神無月を人扱いしてない」
 菅野がうれしそうな声を上げる。
「ひょー、そんな豪傑に会ってみたかったですな」
「会ったじゃないの」
「へへへ」
 稲葉地の電停を過ぎて、ようやく道が右へ緩やかなカーブを切りはじめ、上り坂になる。
「ようやく曲がったか。坂のてっぺんは何だ?」
 山口の質問に菅野が、
「庄内川に架かる長い橋です。路肩に停めて、川を眺めましょう」
 車が停まると山口がいち早く降りて、舗道の欄干にもたれた。緑の土手に縁取られた大きな川だ。飛島のあたりを流れる川と同じ濁った色をしている。空を見上げる。淡く青い空にウロコ雲がきれいだ。
「橋の長さが一キロはあるね」
「名古屋にこんな広大な景色があったんですね」
 恩田が何枚も写真を撮る。カズちゃんが髪を指で梳きながら、
「あっちにもう一本、並行して流れている川があるわ」
「二つの川に橋が架かってるんだな」
 菅野が、
「あっちは庄内川の分流の新川です。掘削した人工の川ですが、合わせて庄内川と呼んでます。川風も吸ったし、帰りましょうか」
 帰り道、杉浦理髪店のひねり棒が見えたので指差す。
「西高の同級生の床屋。耳くそ取りの名人。無免許で耳クソだけ手伝ってたけど、いまは理容学校でもいってるんだろうなあ」
 山口が、
「その耳くそ取り、神無月に憶えていてもらって幸せだな」
「あ、さっきの橋の名前、見なかった!」
「あたしも。菅野さん、知らない?」
「ええと……新大正橋です。タクシーに乗ってたころ、何度も渡ってるんですが、新大正橋までと注文を受けたことがなかったもんで、すぐ思い出せませんでした」
 五時前に北村席に帰り着いた。トモヨさんが台所から女将に茶を持ってきたところだった。座敷に寝転がる。法子が頭のそばに正座した。
「私は門の周りの雑草を取ったの。知りたい草の名前がたくさんあった。神無月くんがいればなあって思った」
 節子と吉永先生と素子が揃って庭掃除をしていた。カズちゃんが母親のそばに横坐りになり、
「いざ探すと、見たいところってそんなにないものね。テレビ塔から稲葉地の庄内川までいってきたわ。恩田さんにむだな写真撮らせちゃった」
「いえ、むだじゃありません。要所を写してます。これでもプロですから。道端とか、人間とか、ちゃんとね。テレビ塔などは撮ってません。それにしても都会の川は濁ってますねえ」
「泥の色をしてましたね。岸辺はきれいでしたけど。あれ、トモヨさん、直人は?」
「部屋でお義父さんといっしょに寝てます。もうそろそろ起きるころよ。ちょっと見てきます」
 節子たちが竹箒を物置にしまってやってきた。おトキさんが麦茶を持ってきた。カズちゃんが、
「庭掃除ご苦労さま。けっこう風でいろいろ飛んでくるから、たいへんだったでしょう」
 吉永先生が、
「それほど汚れてませんでした。庭に見とれちゃって」
 私は法子に、
「浜中さんたちのインタビューどうだったの。みんな聞かれたの」
「はい、みんな」
 素子が、
「うちは逃げた」
 おトキさんが、
「従業員も賄いもいろいろ聞かれました。席の歴史やら、戦後の変わり具合やら。緊張しました。いまお二人はテープ起こしとか言って、二階の部屋に引っこんでます」
 直人を抱いてトモヨさんと戻ってきた主人が、
「庄内川までいってきたって? 味も素っ気もない川でしたろ」
「橋の名前を見るの忘れてしまって、あとで菅野さんに教えてもらいました。新大正橋だそうです」
 女将が、
「あの長い橋やろ。そういえば名前知らんかったなあ。新大正橋ゆうんか。西区の庄内川に架かっとる枇杷島橋は有名やよ。日本百名橋と言われとる。いったことはないけど」
 主人が、
「ワシもいったことはあれせんが、檜橋とかいうやつやな。明治のころに石橋になってから、見どころのうなったゆうが。まあ、神無月さんがドラゴンズにきたら、中日球場が観光地になって、散歩も遊山も金山あたりだけになるわ」




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