百四十二

 吉永先生が、
「キョウちゃん、顔がへんに赤いわ。この何日かで陽に焼けたのね」
 主人が、
「名古屋は陽射しがきついからな」
 節子が頬を触る。カズちゃんが、
「青森でも一夏赤かったけど、秋になったらスッと褪めたのよ。十歳のころからそう。色が白すぎるからすぐ焼けちゃうみたい」
 おトキさんが、
「きょうは山菜めしと肉ジャガがメインです」
 カズちゃんが、
「せっかく早く帰ってきたから、台所お手伝いするわ。東京へいってから、ここのお料理がとてもおいしいってわかったから、少しでも勉強しなくちゃ」
「私も」
 法子が立ち上がった。
「私も」
 節子と吉永先生もトモヨといっしょに立ち上がった。素子は頬杖突いて私の顔を見つめている。
「疲れた顔しとるわ。たまには家の中でゆっくりしとりなさい」
「運動代わりで散歩しとるんでしょう。ええことですよ」
 私は主人夫婦と顔を見合わせ、微笑み交わしながら、
「やさしい人たちのそばにくつろいでると、わがままになりすぎちゃうからね」
「何言っとるの。ちょっともわがまま言わんくせに」
 私には、たった一つ、ボールを遠くへ飛ばす才能があるだけだ。その一つだけで、この世を生きていこうとする。涙が流れてきた。縁側に坐って花を眺めた。素子が隣に坐った。
「お父さんたちが不思議な顔しとったよ。贅沢な涙を流したらあかんが。また自分が小物に見えてきたんやろ。みんなすごい人ばかりに見えてきたんやろ。ほんとに、治らん病気やなァ。精進してプロ野球選手になることやよ。ボーッと生きて、ホームラン打って、うちらを安心させて」
 山口とよしのりと菅野が主人を中に一杯やりはじめた。恩田も加わる。
「お! カラスミだ」
 という田代の声が聞こえる。
「素子はいつもやさしいね。ありがとう。でも、自分が小物で不安だから涙が流れるんじゃないんだよ。それは決まってることだ。それを独りよがりに美点だと思いながら、安心して生きてきたことがつらい。ぼくは病気じゃない。正常な小物だ。小物であることを気の毒がられ、そして、愛されてる。幻を愛されるのじゃなくて、ぼくそのものを愛されてる。心苦しい。でも愛されたくないと言うほど、僕はニヒルじゃないんだ」
 素子は寄り添って私の肩を抱いた。
「そこまでにしとき。しまいには精神病院に入れられてまうよ。キョウちゃんは、そんなふうにしゃべる赤ちゃんみたいな自分の心を忘れとる。その心で話す言葉を、みんなじっと聴いとるんよ。難しいけど、よう伝わってくる。この三日間、泣かんようにするのたいへんやったわ。うちらはキョウちゃんのそういう心がほしいだけなんよ。大物でも小物でもええがね。赤ちゃんみたいにきれいな心がほしいの。……いつも笑っとってね。私、キョウちゃんの笑顔、大好きや。まじめな顔もええけど。……台所忙しそうやな。最後の晩やからよ。うちも手伝いにいってくるわ。あとでええ歌聴かせてね」
 涙が退いていった。私は立ち上がり、食卓に着きはじめた和やかな顔を見回した。浜中たちも降りてきた。寄生虫の私を養う永遠のリアスの壁。彼らが栄養を補給してくれるかぎり、いつまでも甘えて吸いついていよう。
 まとめてトルコ嬢たちが帰ってきた。台所の喧騒がピークに達し、どんどん料理が運ばれてくる。山菜めし、肉じゃが、大鯵の味噌焼き、ワラビの醤油漬け、ナスとゴボウと豆腐の煮物、巻き寿司、いなり寿し、キツネきしめん、焼きシイタケ、ワカメサラダ、オシンコ各種。恩田が食卓に向かってしきりにシャッターを押す。どれから箸をつけたらいいかわからない。それでも人数が人数なので、どんどん捌(は)けていく。山菜めしがどのおかずにも合う。
 料理は一つにはアイデアと、もう一つは喜ばれることに甲斐を見出す無私の精神だ。当然品目は多くなる。母も椙子叔母も自分の作ったまずい二、三品をうまそうに食う。サイドさんは外からでき合いの惣菜を買ってきて、家族と同じテーブルでうまそうに食う。どちらも貧しい食卓だ。ばっちゃはたぶん調理の難しさを知っていて、私に天然の海のものばかりを食わせたのだろう。ばっちゃの料理と言えば、作る人間によって味に大差の出ない野菜か魚の汁ものと、焼いた魚介と、素材だけの炒めものと、味噌汁が主なところで、ダシで溶いた玉子焼すら作ったことがない。ばっちゃを含め、佐藤家の女たちはアイデアに欠け、喜ばれることに関心がない。浜中が、
「神無月さんはなぜ金太郎と呼ばれるようになったんですか。おおよそのところは聞いてますが」
「俺も知りたい」
 山口がからだを乗り出した。
「横浜から名古屋に昭和三十四年に転校したんだけど」
「ふんふん、十歳だな」
「その年に、少年サンデーという週間漫画雑誌が創刊されて、そこに荒唐無稽でほのぼのした『スポーツマン金太郎』という野球漫画が載ってた。横浜時代に貸本屋の単行本で読んで知っていたものの続編だった。足柄山から熊に跨って人間世界にやってきた金太郎が、巨人軍に入団して大活躍する話で、小さい子供なのに全打席全ホームランの怪物なんだよ。当時のぼくは、百五十センチそこそこのチビで、よくホームランを打ったから、それとイメージが重なったんだと思う。野球部の木田という男が言い出して、たちまち部員たちに広まって、金太郎と呼ばれるようになった。青高や東大では、ぼくのほうから部員たちに金太郎と呼ぶように頼んだ。その当時の新鮮な気持ちでホームランを打ちたかったから」
 吉永先生が、
「そうだったの。いままで意味がわからなかったから違和感があったんだけど、これからはスタンドでは金太郎さんて呼ぶことにするわ」
 田代が、
「だれの漫画ですか」
「寺田ヒロオという人です。彼の野球漫画を少年クラブとか小学二年生などの月刊誌で断続的に見ることはありましたけど、小四以降は漫画をあまり読まなくなったし、寺田ヒロオが漫画界から引退してしまったこともあって、彼の名前を聞かなくなりました。中一からは、これも断続的に、貸本屋の店先に積んである廃棄本を拾ってきて、ちばてつやの『ちかいの魔球』を読みました。少年マガジンだったと思います。中二のときに飯場の社員に愛蔵版の単行本を全巻買ってもらいました。四、五巻だったな」
 恩田が、
「少年の月刊誌とはどういうものですか。私ども昭和十年代の世代は、漫画文化に疎いんですよ」
「漫画というのは、昭和の初期から中期にかけて、知的教育、情操教育のすべてを担っていたものです。一冊の大型本に四、五冊の付録漫画が挟まってる体裁です。少年画報、ぼくら、冒険王、漫画王、少年、幼年ブック、少年クラブ、日の丸、りぼん、なかよし、すぐに思い出せるのはそれくらいです。それからほかに貸本というものがありました。月刊誌は付録が魅力的でしたけど、とにかく高くて手が出ませんでした。百円ぐらいしたと思います。貸本は一円から五円ですからね、貧乏人にはもってこいです」
 山口が、
「昼めし代の十五円を貸本と映画に充てて、四年間で貸本屋一軒の漫画コーナーを征服し、裕次郎映画をすべて征服したってんだからアングリだ。そのころ俺は、ただ小学校を往復してただけだぜ」
 よしのりが、
「俺は瞬間記憶力の男だけど、神無月は永続的な記憶の達人だ。試してみようか? 神無月、月刊雑誌の名前をそこまで長く憶えてるってことは、写真みたいに細かく思い出せる表紙が一つくらいあるだろう」
「ある。昭和何年だったか忘れたけど、横浜にきて初めて本屋の露店で見た少年クラブの正月号。表紙が『黄色いカラス』の設楽幸嗣(したらこうじ)、五大付録が、天然色映写機、別冊漫画よたろう君、お年玉魔法の袋、四色刷り年賀状印刷盤、カレンダー」
「聞いた? 異常だろ? 俺は気づいてたよ。思い出話を聞かされるたびに、異常な記憶力だって気づいてた。この記憶力を持ってすれば、どんな受験も軽く受かる。俺の瞬間的記憶力なんてのは、学校の定期テスト止まりだ」
 山口が、チッチッチと指を振り、
「神無月の目は、横山さんみたいな何でも写し取るカメラ眼の上級編じゃないんだ。深い思い出にしか反応しないスポットライトだ。暗闇に小さいスポットライトを当てて憶えてるんだよ。周りの闇のことはいっさい憶えてない。―彼の勉強能力はヤマかけの瞬発力だ。不得意なことはヤマをかけて集中的に暗記しようとする。国語と英語はかなう者なき素養の賜物で、いっさい勉強しなくても常に一番だった。東大入試でもその二科目は一番だった。暗記じゃない。思考力。総合するに、天才は天才でも、大のつく天才だな。異常を越えてる。しかし素養がいくらあっても、学者にはなれない。学者は何の思い入れもない闇の部分も、舐めるように記憶してる。凡夫の業だ。横山さんは俺と同様、凡夫だ。思考する天才にはなれないが、暗記する学者にはなれる。その凡夫に、神無月は深甚の敬意を抱いてる。神無月の闇を記憶できるからな」
 いつのまにかデンスケが回っている。
「つまり脳味噌がちがうってことだろ」
「うん、脳味噌もからだもちがう。神無月の脳味噌は思考力の権化だが、文学的な思考に限られていて、論理を要求する数学や理科は不得手だ。碁も将棋も麻雀も打てない。そういうものは神無月にとって、興味のない闇の世界だ。からだにしても、野球にだけスポットライトを当てている」
「女にもな」
「それは万人の本能の領域に属するから、みんな生まれつきスポットライトが当たっている。神無月にかぎったことではない。スポーツの話だ。信じがたいが、神無月は野球だけが天才で、それ以外のスポーツは不得手なんだ。ほかもできるが手を出さないというのじゃない。青高時代にいっしょに体育を受けたからわかる。スタミナがないからマラソンはビリッケツ。懸垂も並。短距離の足の速さもふつうより速い程度。柔道のような格闘技はだめ、力をこめて泳げば吐く。もうぶざまと言っていい。野球をしているときだけ、妖精のように完璧に羽搏く。こういう極端なコントラストに満ちた人間は、異常としか言いようがない。超常的なものに対する愛がなければ、神無月は人間界から抹殺される」
 浜中が、
「……神がかりということですね。スッキリした理屈でわかりました」
 カズちゃんが、
「わかるだけじゃだめ。キョウちゃんをあえて異常でないと思えば、それでキョウちゃんを護ったことになるわ。何の手をくだすこともなくね」
 食卓の全員がうれしそうに笑った。
 賄いたちが食卓に着くと、山口が立ち上がり、
「さあ、カラオケ大会いきますか」
 主人が、
「機械でなく、山口さんの伴奏で唄わせてくださいよ」
 山口がピースサインを出す。店の女たちが次々と挙手をする。山口がステージの椅子に落ち着き、スポットライトが点いた。山口に当てられた一人の女がステージに上がり、リリカルな伴奏に乗せてカスバの女を唄い出す。

  涙じゃないのよ 浮気な雨に
  ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ
  ここは地の果てアルジェリア
  どうせカスバの夜に咲く……

 ふるえる高音のビブラートが哀しい。なぜか、労災病院の長廊下が浮かんだ。背の低い看護婦、部長先生、手術室、ダッコちゃん、不随者病棟の患者たち……。
 とつぜん、スポーツマン金太郎以前にも読んだことのある寺田ヒロオの漫画が何だったかを思い出した。背番号0。ゲーム展開のスリルだけを追う派手な野球ものではなく、ゼロくんとチームメイトとの心の触れ合いや、喜びや、悩みや、成長していく姿などが描かれていた。Zチーム。キャプテン大山くん、ゴンちゃん、妹のキミ子ちゃん。いろいろな雑誌に連載を移しながら描かれつづけた野球漫画だった。学校や町内や家庭内の心の交流や生まじめな連帯感も描かれていた。しかし私は、ドラマはグランドの外にはなく、野球というゲームそのものの中にしかないと信じていた。ゲームでホームランを打つことこそ、生きるための橋頭堡だった。だから、スポーツマン金太郎以外の寺田ヒロオの漫画は、少し物足りない気分で読んだ。
 思い出した。浅間下の大家の次男坊のテルちゃんが私に返し忘れた本は、寺田ヒロオの暗闇五段だったことを。貸本屋のお婆さんが延滞料を取らなかったことを。その帰り道に目もくらむほどの星空を見上げたことを。そして、サーちゃんの唾と、暗闇五段と、生涯にわたってその二つに押しつぶされて生きるだろうと直観したことを。
 チームメイト、という単語を思った。私はだれかを細かく憶えているだろうか。だれかと深い交流があっただろうか。青木小学校のソフトボール部、千年小学校の野球部、宮中の野球部、青森高校の野球部―名前だけは思い出せる。さぶちゃん、高辻先生、長崎くん、木田ッサー、関、デブシ、太田、御手洗、阿部キャプテン、金、テルヨシ……。
 暗澹とした気持ちになり、ビールをちびちび飲んだ。


         百四十三

 カスバの女が終わり、主人に強いられて、来年を待たずによしのりの佐渡情話になった。彼の声やパフォーマンスには涙の核がない。四人ほどの女が山口の脇のスツールに控えて、真剣な顔で唄う順番を待っている。中に素子が混じっている。胸にくる。低音の魅力、歌だけは勘弁して、と自分で言いながら、歌が好きなのだ。佐渡情話が終わって、よしのりがヤンヤの喝采の中を戻ってくる。主人がビールをつぐ。次の女が別れのブルースを注文する。山口が語る。
「別れのブルースは昭和十二年に淡谷のり子が唄ってヒットし、カスバの女は昭和三十年にエト邦枝が唄ってヒットしませんでした。エトはそのために芸能界を引退しました。淡谷のり子の辛口評論家としての現在の活躍はご存知のとおりです。二人とも音楽学校出です。売れる売れないに拘らず、歌手になる条件が厳しい時代でした」
 賄いの若い女たちがポカンと箸を止めている。すぐに前奏が始まる。面立ちの整った淡谷のり子が唄い出す。太くてストレートないい声だ。一瞬みんなステージに注目する。私は恩田につがれたビールを飲む。

 窓を開ければ 港が見える
 メリケン波止場の 灯が見える……

 女将が吉永先生たちに、
「昭和十二年といえば、日中戦争のころやな。世間では、銃後とか、千人針とか、よう言われとったわ」
「国内は平穏だったんですか」
「ほうやな。ふつうやったな。外国映画もようかかっとった」
 カスバの女を唄ったトルコ嬢が、
「オーケストラの少女を観た年です。ディアナ・ダービン」
 母もそうだったが、かならず女優の名前を言う。
「一九三七年、アカデミー作曲賞。ストコフスキーが手で指揮してました。実際のフィラデルフィア管弦楽団が出演してるのはビックリです。ハンガリー狂詩曲。演奏自体はお粗末でした」
 節子が目を丸くしている。別の女がお茶を含みながら、
「あたしは望郷」
「私も観た。そこよ、私が唄ったカスバって。アルジェリアのアルジェ。迷路。ジャン・ギャバン」
 今度は女優の名が出ない。私は、
「あなたは映画好きみたいですね。望郷も同じ年の映画ですよ。母もよくその映画の名前を口にしてました。つまらない映画でね、ぼくはリバイバルで一度しか観てません。あのフランスからやってきた恋人役の女性は、ミレーユ・バランという名前です。能面みたいな顔をした趣のない雰囲気の女でしたね。もともとモデルですからね。これ一本だけの女優です。ジャン・ギャバンにはヘッドライトとか、冬の猿という傑作があります。去年死んだ監督のジュリアン・デュヴィヴィエにしても、にんじん、モンパルナスの夜、舞踏会の手帖、アンナ・カレニナ、殺意の瞬間といった傑作があります」
 吉永先生と節子がカズちゃんと手を取り合いながら笑う。先生が女将に訊いた。
「流行歌はどんなのがあったんですか」
 女たちもいっしょに首をひねりながら、ポツポツ答える。
「ディック・ミネの人生の並木道」
「藤山一郎の青い背広で」
「もしも月給が上がったら。歌手はだれやったかなあ」
「デュエットやよ。林伊佐緒と新橋みどり」
「上原敏と結城道子の裏町人生もデュエットだったわよ」
「あんたらよう憶えとる」
 女将が笑った。芸能界は永遠だ。三人目の年増が着物の腰に手を当て、水前寺清子の涙を抱いた渡り鳥を唄いはじめた。からだを揺すり、手振りをてきぱきさせて唄う。ドスが効いて、ブレない声だ。だれもかれも、驚くほど歌がうまい。座に控えている女たちはこれほど唄える自信がないということだろう。参加と応援がはっきり別れるわかりやすい図だ。山口もうれしそうにギターをジャガジャガやっている。
 テーブルのビールが銚子に変わった。宴がたけなわになる。食事を終えたおトキさんたちの手で新しいつまみの皿が三つ、四つと運びこまれる。唄い終えた着物の女が喝采を受けている。拍手の中に山口の声が聞こえる。
「水前寺清子は現在二十三歳。熊本市の商家の娘です。本名林田民子。水前寺公園にちなんで芸名をつけてます。チイさいタみちゃんで、チータ。神無月が熊本生まれだということを知っているので、熊本出身の芸能人のことはつい調べたくなります。歌手で大物は坂本スミ子ぐらいしかいませんが、俳優では、財津一郎、常田富士男、笠智衆など中堅どころがけっこういます」
「神無月さんばかりやない、山口さんも何でもよう知っとるわ」
 父親がため息をつくのを眺めながらカズちゃんが、
「キョウちゃん、そろそろ出番でしょう。コーヒー飲んでおく?」
「いや。まだ何を唄うか決めてないんだ」
「西松のお風呂場で唄ってた、裕次郎の歌をお願い」
「何だった?」
「口笛が聞こえる港町」
「好きな歌だ」
 私はコップのビールを飲み干すと立ち上がった。素子の隣のスツールに腰を下ろす。
「山口、裕次郎の口笛が聞こえる港町。その前に素子の歌を聴きたい」
 節子や吉永先生が激しく拍手をした。スツールから立ち上がった素子は、キョウちゃんに捧げます、と言って、
「キョウちゃんにはいつもあしたを見ていてほしいから。きょうの日はさようなら」
 礼をした。山口はにっこりうなずくと、
「素子さん、やっぱり歌好きだったな。和子さんといっしょに唄ったアルト、すてきでしたよ」
 と言い、ピッチカートを混ぜたトレモロの前奏を始めた。素子がすぐにつづいた。

  いつまでも絶えることなく 恋人でいよう
  あすの日を夢見て 希望の道を
  空を飛ぶ鳥のように 自由に生きる
  きょうの日はさようなら また会う日まで

 発作的に涙が噴き出した。山口がファルスの間奏を入れる。
「泣いたらあかんよ。悲しいことなんか何もないよ」
 素子はマイクを握ったまま私のスツールまでやってきて、唄いつづける。カズちゃんたちが泣き、直人を抱いたトモヨさんが泣いていた。

  信じ合う喜びを 大切にしよう
  きょうの日はさようなら また会う日まで
  また会う日まで(会う日まで)

 トレモロに重ねて山口のファルスが締めくくった。静かな拍手が長くつづいた。山口が早くも天井を見上げ涙をこらえている。素子は私を抱き締めると、女四人の中へ戻っていった。その素子を法子が抱き締めた。山口は顔を下ろし、
「素子さんは、〈友だち〉という歌詞を〈恋人〉に換えて、とんでもない効果をかもし出しました。また会う日は、あした、あさって、しあさって、とにかくいまのさきにある日です。いくら愛しくても、きょうまでの日にさよならしないとやってこない。感動しました。ここで神無月の曲を入れます。寝床に戻る人が一人、二人と現れるまで、そして俺が疲れるまでやりましょう。そのあとは機械の演奏にバトンタッチします。それでは、石原裕次郎の口笛が聞こえる港町。昭和三十五年の映画、赤い波止場の挿入歌です。お待ちかね、天使の歌声を堪能してください」
 聞き慣れた哀切な伴奏に刺激されて、浅間下から保土ヶ谷日活につづく土の夜道が甦った。山口の澄んだ口笛が絃の音に重なる。

  きみも憶えているだろ
  別れ口笛 別れ船
  二人の幸せを祈って旅に出た
  やさしい兄貴が呼ぶような
  ああ 口笛が聞こえる港町

 ヒャー、ヒョーという歓声で間奏がかすれる。素子の抱擁が思い出され、また涙が湧いてきた。長い間奏、口笛。

  二度と泣いたりしないね
  きみが泣くときゃ 俺も泣く
  二つの影法師を一つに重ねたら
  月夜の汐路の向こうから
  ああ 口笛が聞こえる港町

 みんなうつむき、いつもの静寂の中で涙の処理にかかる。節子だけは、目をキラキラさせ、いつものように私の名を呼びながら唇を動かす。東奥日報組の頬に光るものがある。山口は固くあごを引いて私を見ない。この光景のすべてが奇跡だ。ドラマチックな間奏が私の背筋を伸ばさせる。

  涙こらえて振り向く
  きみのえくぼのいじらしさ
  思い出桟橋の 夜霧に濡れながら
  兄貴の噂をするたびに
  ああ 口笛が聞こえる港町

 叩きつけるようにギターを弾き終えると、山口は右腕を両目に当てた。拍手、テーブルを叩く音、指笛。田代がまぶたをこする。ステージを足早に下りてテーブルに戻る。菅野がビールをつぎ、
「神無月さん、兄貴なんかいないんでしょ」
「いません。一人っ子です」
「じゃ、船出なんかすることはないな」
 法子が、
「船出なんかしたから、水平線の果てまで追いかけていくから心配ないわよ」
「ぼくはだれとも別れない。別れの歌が好きなだけだ」
 女将が、
「心配するも何も、ただの歌だがね。菅野ちゃんもあほらしいこと言わんとき。そんなにみんなで引っ張りっこしたら、神無月さんの腕がちぎれてまうよ」
「そうだ、大切な腕だぞ」
 主人が茶目っ気を出して周りを睨み回す。カズちゃんがコロコロ笑う。山口が興奮を鎮めるようにクラシック音楽を静かに奏ではじめた。


         百四十四 

 浜中が、
「奇妙な、完成した形の共同体だ。捨てがたい世界です。これを壊すわけにはいきません」
 微笑みながら女たちを見る。カズちゃんが、
「世間の口より危ないのは、私たちの軽率な行動ね。つまらないまねをしてキョウちゃんにヤケの引き金を引かせないことが肝心よ。節子さんや素ちゃんたちはいつも、自分がキョウちゃんに引き金を引かせる原因にならないように注意してるの。キョウちゃんは自己防衛本能がほとんどないから、私たちの軽はずみな行動に刺激されて何をしでかすかわからない。キョウちゃんのお母さんやマスコミには秘密主義を通せばすむけど、秘密を守ってる私たちが内部分裂したら一巻の終わり。キョウちゃんに見離されてしまう」
 よしのりが、
「神無月に初めて遇って入れこんだ人間は、ある種、隠れキリシタンの信者になったように感じるわけよ。天草四郎を推して世間に反逆を企てるなんて愚は犯さない。むかしは俺にもそんな気分があったけどさ。だから東奥さんたちのように、神無月の全貌を世間に知らせないという報道の仕方は最良のものだとわかる。ここに東奥さんたちを連れてきたのは、カズちゃんの案だったんだ。青森以来、浜中氏のことを知ってたようだからね。世間の代表であるマスコミ人の一部でも、神無月のことを理解してくれたら強い。ほかのマスコミ関係者からの最強の防波堤になる。そこに賭けたんだね。正解だった。カズちゃん万々歳だ」
「ほう! 横山さんも、しゃべるときはしゃべるんやね」
 主人がよしのりと浜中たちの猪口に徳利を差し出す。
「しゃべりはまかせといてよ。馬鹿のふりしてるのたいへんなんだから」
「そのひとことがなければ、ほんとにいい男なのに」
 カズちゃんの茶々に座が笑いで和む。
 主人と女将と、浜中たちグループが一曲ずつ唄った。主人は琵琶湖周航の歌、女将は都はるみのアンコ椿は恋の花、浜中たちは三人でお座敷小唄を唄った。このマヒナスターズの歌には山口も困惑していた。
 トモヨさんが直人を寝かしつけたあと、ようやく宴が静まっていき、店の女たちが一人唄っては去り、こっそり唄っては一人去りした。かよいの下働きたちがお先にと言って帰り、東奥日報三人組があしたの昼の集合を約してホテルへ去り、名残惜しいですがと言って菅野が去ると、山口は座がさびしくならないようにと気づかって、熱心に演奏をつづけた。一家だけのくつろいだひとときになった。おトキさんが主人とよしのりに新しい燗をつけ、トモヨさんがコーヒーをいれた。女将も燗酒を含んだ。山口が、
「神無月の竜巻が過ぎてしまったな。大勢の人がいると、サービスを平等に分散して通る竜巻だから、気持ちよく足もとが浮き上がるくらいですむけど、四六時中一対一の付き合いをしてたら、空中高く巻き上げられて雲の彼方へ放り投げられてしまう」
 女将が、
「神無月さんは嵐や竜巻には見えんけどなあ。やさしい人やがね。もっとほかの言い方はあれせんの?」
 カズちゃんが、
「やさしいわよ、ほんとうに。でも、ほんの少し選択をまちがうと、二度と会えなくなる人間が世の中にはいるのよ。やさしく逃げていく竜巻。失いたくないなら、少しぐらい努力して巻きこまれていないと。いったん逃げられたら、逃げ足の速さに追いつけなくなるわよ」
 主人が、
「和子の言うこと、ようわかるで。会ったとたんに、ワシもそういう気持ちになった。山口さんの流す涙も鬼気迫るものがある。男ならわかる人間が多いやろ。女は少ない。ようこれだけ集まったわ」
 女将が、
「私もその一人に入れといてや。さあ、もう十一時よ。みんな寝なさい」
「へーい。じゃ、お休み」
 よしのりが一人立ち上がって、ふらふら階段を上っていった。彼は他人の何かの感興に徹底して付き合うということはない。肉体の都合が優先する。それは彼の最も平凡な側面だけれど、人びとは平凡を率先して許す。
「トモヨも直人についててやりや」
「はい、お膳を下げたらすぐいきます」
 主人夫婦が、裏庭を挟んだ離れへ引き揚げていった。おトキさんとトモヨさんが後片づけにかかる。五人の女たちが手伝う。台所が賑やかになる。私と山口が残る。銚子を差し合う。
「羽を伸ばしたな」
「思い残すことのない夏になった。こういう夏が四年間つづいてる」
「俺は三年間かな。いずれにしてもありがとう。おまえとしっかり道草を食える人生がうれしい。腐れ縁と思って、いつまでも付き合ってくれ。ギターや女のような本道は自分で何とかするから、放っておけよ」
「そろそろ、おトキさんと風呂へいく時間だろ」
「だからそういうのは放っとけって。勝手にやるから。……神無月、それこそよけいなお世話だろうが、いくら平等分配の竜巻と言っても、荒淫は避けろよ。精神的なことを否定してるんじゃない。純粋に肉体的な疲労のことだ」
「わかってる。みんな考えてくれてるのに、ぼくのほうから釣り合いをとるみたいにあちこちいってしまう」
「それはおまえの強迫観念だ。みんなわかってるよ。かえってそんなことをされると女たちも心苦しいだろう」
 トモヨさんが畳に手を突いて、
「お休みなさい。お先に」
 と辞儀をした。
「お休み」
 両手を差し出すと膝を摺ってきたので、そっと抱き、キスをした。
「秋に応援に参ります」
「待ってるよ」
 トモヨさんはスッとからだを離すと、廊下を去っていった。台所でカズちゃんが、
「さ、みんなお風呂にいって。私もすぐいくから」
 四人の女を追い立てた。私と山口のそばにカズちゃんとおトキさんがやってきて坐った。
「山口さん、キョウちゃん、三日間ご苦労さま。おとうさんやおかあさんも、おトキさんも、トモヨさんも、店のみんなも、みんなみんな、心から幸せにすごせました。じゃ、お先にお風呂に入って、私たちは寝ます。そのあとで山口さんとおトキさんでお風呂入ってくださいね」
「ありがとうございます」
 おトキさんが頭を下げる。
「キョウちゃんは好きな女の人と寝て。私たちでもいいわよ。客部屋にあとでお蒲団敷いておくわ。でも無理しないでね。すぐ寝てしまってもいいから」
 カズちゃんが風呂へいった。おトキさんが山口と私に酒をつぐ。
「おトキさんは朝早いの?」
「七時に大門の寮のほうへいって、朝食の段取りをします。こちらはトモヨさんがします。大門から帰ってきたあとで、ちゃんとした支度にかかります」
「おトキさんとトモヨさんがいなくなったら、北村席は立ちいかないね」
「そのつもりでがんばってます。直ちゃんの食事を作るのがとっても楽しみなんです」
「山口がいなくなったら、さびしくなるね」
「はい。でも、神無月さんと同じように、山口さんも遠くにいるのがあたりまえの人ですから。いっときでもそばにいられるだけでうれしいです。そばにいてさえ節制しているお嬢さんたちの気持ちを思ったら、さびしいなどと言うのはバチ当たりです」
 山口が、
「北村席の女性たちは神無月に対してひどくものわかりがいいようだけど、神無月を恐ろしく思わないのかな」
「まさか。神無月さんは私たちにけっして見下した態度は見せませんし、だれに向かっても励ましの言葉を忘れません。それはたぶん、こしらえたものじゃなく生まれつきの性格なんだと思います。そういう人を恐ろしく思うはずがないです」
「励ましね……。神無月が声をかけるのか」
「はい、ときどき台所を覗いて、がんばってますね、ありがとう、と言ったり、おかずやごはんを出すときに、礼儀正しく頭を下げたり。苦界と言われる場所で生きてきた私たちより人間ができています」
「そうか。それじゃたしかに神無月に対する愛着と尊敬の念が増すよなあ。こいつはそういうことを自然体でやってるんだよ。底知れない男だろ」
「はい。いつも女将さんや旦那さんが感心してます。和子さんも、山口さんも、みんな変人だけど、やさしいです。まちがいなく神無月さんの大きな影響だって」
「ああ、そのとおりだ。生きものから人間にしてもらったよ。何を恥じて何を誇るべきかも教えられた。……周囲の人間に会って神無月の来し方を知ることができた。光夫さんから母親までね。よかれあしかれ、神無月という流水が彼らを磨いたとわかった。俺もそういう存在になって、多少の磨き傷を与えられたいと思った。神無月は勢いのある流水だ。総量はどこまであるか知れない。俺たちは神無月の流れる水路に、沈んだり突き出したりしている質量の決まった岩や石だ。彼の流路を多少変えながら磨かれる」
 カズちゃんたちが風呂から戻ってきた。
「はい、お二人さん、お風呂入って」
 山口とおトキさんは立ち上がり、廊下へ出る。寝巻姿の五人の女が、居間に横坐りになった。みんな頬の赤い人形のようだ。
「トモヨさんを呼んでいっしょに入ったのよ。みんな私とトモヨさんをじろじろ見るの」
 節子が、
「身長から胸の大きさまで、あんなに和子さんとそっくりなからだを初めて見たものだから。顔も、髪の長さまでいっしょ」
 素子が、
「みんなで流したった。恥ずかしがっとった」
「そりゃそうよ。うれしかったでしょうけど」
 カズちゃんが私に酔い覚ましのコーヒーを入れた。吉永先生が、
「直人ちゃん、妖しいぐらいかわいいわ。キョウちゃんを見てるみたいです」
「キョウちゃん以上の光源氏になるわよ。名古屋に戻ってきたら、ずっと見守れるわね」
「直ちゃんは女殺しやね、お姉さん」
「そうね、キョウちゃん以上になるかもしれないわね。さあ、キョウちゃん、御輿を上げて。玄関脇の客部屋にお蒲団敷いてあるからゆっくりお休みなさい。あしたは九時ぐらいに朝食にしましょう」
         †
 八月二十日火曜日。みんなでついた朝食のテーブルに着物を着た文江さんが姿を現して、節子と並んでうれしそうに食事をした。節子より少し目が垂れているが、出会ったころよりはるかに美貌になっている。
「きょうは昼の部を休みにして、夕方の五時から開けることにしたんよ。キョウちゃん、元気でおってね。こっちへ戻ってくるまで気長に待っとるよ」
「うん。いまのままでもじゅうぶん健康的だけど、もっと太ってほしいな。年を取って萎れると、さびしい感じがするから。坐り仕事をしてると筋肉が落ちる。体力をつけるような教室にかよってみたら?」
「暇を見つけてそうするわ」
 女将が、
「文江さん、私が付き合うよ。私もからだじゅう垂れてきたで。和子がいっとったスイミングスクールにいこまい」
 文江さんの代わりに節子が女将に頭を下げ、
「よろしくお願いします」
 トモヨさんが直人を抱いて、スプーンで粥のようなものを含ませている。シャケのそぼろが混じっている。二人とも輝いている。おトキさんと賄いたちが、台所と大座敷をいったりきたりしておさんどんに忙しい。シャケの焼き物、玉子焼き、レンコンの煮物、ひじき、板海苔、豆腐とワカメの味噌汁。朝食の定番だ。
「よしのり、体調はどうだ」
「グッド、グッド。きのうはすまん。なんだか上京以来の疲れがドッと出たみたいでさ」
 主人が、
「そりゃそうや、酒がらみの客商売は疲れるで。東京の疲れが溜まっとったんやな」
 店の女たちがざわめく。
「うちらの商売も同じやが」
「トルコになって酒飲まんでようなった分、マシになったやろ。客イコール金と思えば疲れんで」
「好きにならんなら疲れんわ」
「好きになると疲れますか」
 私が問うと、女はにっこり笑い、
「ええふうに疲れるよ。幸せ疲れ。三年に一回もあれせんけど」
 菅野がやってきた。おトキさんが台所から顔を覗かせ、
「菅野さん、朝ごはんは?」
「すませてきました。おや、滝澤師匠、嫁と息子がいつもお世話なっとります」
「いいえ、息子さん急に腕を上げて、そろそろお母さんを追い抜く勢いやが」
「ありがとうございます。本人も自慢のタネが一つできて、だいぶふだんの生活態度に締まりが出てきましたよ」
 うまいめしを三杯食った。山口も三杯、よしのりは一膳をやっと食い終えた。主人が、
「きょうは車を出す予定はないで、菅ちゃん一杯いくか」
「いや、腰が坐って動きたくなくなりますから、遠慮しときます」
「そうかあ。じゃ、横山さん」
「俺も、この一週間で酒樽みたいになっちまったんで、少し抜きます。東京に戻ったらさっそく飲まなくちゃいけないんで」
 主人はつまらなそうに自分のグラスにビールをつぐ。
「ぼくと山口がお付き合いします」
「ほうか!」
「もう、神無月さんは」
 女将に肩を叩かれる。カズちゃんが、
「キョウちゃんは弱いんだから、山口さんにまかせなさい」
 コップ一杯だけ受けた。飲み干す。からだじゅうにさわやかな血がめぐる。山口は慣れたふうにコップ半分飲む。こういう身に備わった感じで酒を飲めたらいいと思う。
「神無月さんたち、外出の用事はありませんか」
「ありません。午後に出発するだけです」
 カズちゃんが、
「三時四十分のひかりに乗るわ」
「菅野さん、今回はカラオケもしなかったでしょう。あとで、山口の伴奏で何か唄ってくれませんか」
「あかん、あかん、私は音痴だから恥ずかしい。じょうずな人の歌を聴いてるのが楽しいんですよ。次回会うときまでに、少し練習しときます」
 山口が主人にビールをつぎながら、
「おトキさん、ビールもう一本」
 トモヨさんが乳房をしまって、直人を女たちの中へ解放する。直人はめいめいの膝を巡って歩く。抱き締めない女はいない。
「そうだ、菅野さん、きょうはお城のマンションのお掃除なので、あとで送ってください」
 トモヨさんが声をかけると、カズちゃんが、
「私も連れてって。お掃除手伝うわ。ひさしぶりに自分の部屋を見てみたいし」
「了解」
「私にもお手伝いさせてや。あのあたりの空気はええですから」
 文江さんが言うと、よしのりが、
「俺もいく。やっぱり名古屋城を見ておこう」



四章 東京大学 その13へお進みください。


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