二百四十八

 翌日の金曜日の練習を終えて、高円寺にユニフォームを届けにいく。
「キョウちゃん!」
 商店街を歩いていると、倶知安の二階の窓からシンちゃんが声をかけた。ひさしぶりだ。フジのドアに富沢マスターが出てくる。
「まるで芸能人だね。輝いてるよ。北村さんは五時上がりだけど、寄ってく?」
「いえ、帰って風呂に入ります」
 カズちゃんがドアウィンドーの向こうからやさしい笑顔で手を振った。そろそろ昼下がりから夕刻へ入る頃合なので、留守番の千佳子だけがいることがわかっている。帰り着いて、声をかけたが、夕方の買物に出たのか、返事がない。
 自分で風呂を入れる。頭を洗い、湯に浸かる。左肘の白い傷痕を眺める。右の前腕を左腕と並べて眺める。わずかに左よりも太い。左肘を壊さなかったら、この右腕の強さには永遠に気づかなかった。左肘を痛めたのは掛け値なしの幸運だ。あるべくしていまの私があるのではない。だから必然ではない。災いを転じて福となしたのでもない。ただの幸運だ。その幸運を必然と信じこもうとする。東大優勝は? 完了しなければ幸運にならない。私は完了させようとしている。幸運で優勝し、それを必然と信じるために。
 幸運は信仰だ。たまたま訪れる幸運を必然と信じこむために人は生きている。悪運に蹂躙され、悪運の桎梏を振りほどくことだけを願いながら、根気よく生きている。
 下着一枚で居間に寝転がってテレビを点ける。三時のあなた、三時のあなた、あなたの三時―高峰三枝子という大味そうな女優と、木元教子という湿り気のなさそうな女二人で、ゲストの森進一に話を聞いたり、歌を唄わせたりしている。『ひとり酒場で』という歌はいいものだった。司会者本人が唄いだしたところで眠くなり、うとうとする。冷えてきた。肩が気になり、押入から毛布を引っ張り出してきて、肩を包みこむようにして畳に横たわる。二時間ほど眠りこんだ。
 台所の物音で目が覚めた。呼びかける。
「おーい」
「はーい」
 二人いっしょに応える。
「何時?」
「五時半」
「ユニフォーム持ってきたよ」
「いま、洗剤に漬けてる。疲れ取れた?」
「取れた」
 起きて台所へいく。
「三時のあなたを観てたら、なんだか眠くなっちゃって……。疲れてなかったんだけどね」
「キャ!」
 包丁を握って振り向いた素子がはしゃいだ声を上げた。カズちゃんが噴き出し、
「ちがうのよ、これは生理現象。オシッコしてらっしゃい」
「なあんだ、朝勃ち? じゃない、夕勃ちか」
「うん、小便したら萎んじゃう。晩ごはん何?」
「きょうは素ちゃんのアイデア。子持ちカレイの煮付け、新タマネギとワカメの和え物、ニラタマ、里芋の煮ころがし、それから明太子。味噌汁はシメジと大根。ビール飲む?」
「コップ一杯だけ」
「オッケー。居間にジャージ出してあるから、それ着てテレビ観てて」
「千佳子がいないようだけど」
「十四日から、高円寺ゼミナールの夜間部に入学したの。月水金、短期の国公立文系集中講座で、一月末まで」
「夜遅いの?」
「午後三時から九時まで、六時間。月曜日は英文解釈、英文法、英作文、水曜日は現代国語、古典、古典文法、数Ⅰ、数ⅡB、金曜日は生物、地学、日本史、世界史」
「よく把握してるね! すごいスケジュールだ。六時間だよ。そうか、三時ちょっと前にここにきて、ちょうどいきちがいになったのか」
 トイレにいき、前屈みになって放尿する。居間に畳んで置いてある空色のジャージを着て、またテレビを点ける。ゲゲゲの鬼太郎。つまらないが観てしまう。粗悪な前衛だ。リボンの騎士。観ていられない。巨人の星。シーンがいちいち長すぎるし、有能なはずの星飛雄馬の内省が理不尽なほど自虐的だったり、やっぱり観ていられない。どのチャンネルも漫画ばかりだ。テレビを消す。
「できたわよう! 居間で食べましょう」
 続々と運んでくる。美しい二人の女が、食べるものを運んでくる様子をしみじみ不思議に感じる。道をいく一般の女に二人の顔をすげ替えて想像して見ても、なぜか納得がいかない。そういう問題ではないようだ。男にせよ女にせよ、娯楽や快楽の提供ではなく、人が人に生命維持のためのエネルギーを供給するというのは、本来異常な行為であるにちがいない。動物は生命維持のエネルギーは自力で充たす。不思議さというのはその感覚だろう。食卓が整う。素子が三人分のビールをついだ。グラスを打ち合わせて一口。
「それでは、いっただっきまーす!」
 私だけどんぶり。まず和え物を片づける。
「うまい!」
 私の喜びように女二人でにっこり微笑み合う。
「あした、あさってと練習?」
「いや、土日は出ない。来週も水木金。金曜の夜に寄る。いつものとおり、ここから試合に出る。吉永先生の家探しは来月末だね」
「うん、きょうフジに電話あったわ。そのときは、素ちゃんと節子さんもいっしょに歩くことになったの。最初、三鷹って考えたらしいんだけど、病院のすぐそばがかよいやすいってことで、節子さんのアパートの近所に見つけるみたい。今月末はキョウちゃんの引越しよ」
「うん。リーグ戦終わったら、御池に連絡とる」
 素子が、
「三十日は私の合格発表。受かったら、パーティ、お願いしまーす」
「もちろんよ。キョウちゃんの引越しのときにやりましょ」
「二月には吉永先生の正看合格パーティだ。東京でできそうもないな」
 一本のビールを四人で分け合って、飲み干す。
「ああ、幸せだ」
「キョウちゃんはいつもこういう気持ちなのよ。長いこと苦しんだあとは、幸せというものがなかなか信じられないから、つい口に出して言ってみたくなるのね」
「幸せだなんて言葉、うちらが言えばたくさんだが。キョウちゃんには似合わん。かわいそうに。キョウちゃんに悪さしてきた人が憎たらしいわ」
 私は首筋を掻きながら、
「そんなオーバーなものじゃないよ。考えたら、ふつうの人生だ」
「ふつうやない! ほんとに性格いいんだから。たとえば一つだけふつうでないことを取り上げてみるよ。だれが東大いかなきゃ野球をさせてもらえないなんて人がおる?」
「そうよ、どう考えても―」
「ふつうやないわ。野球ひとつとったって、そのありさまやが」
「ふつうに受験して、野球の名門大学にいけば何の問題もなくプロにいけたでしょうに」
「ほうよ! スカウトは追い返され、途中で野球をやめさせられ、自力でようやくもう一度がんばりはじめて、名を上げたら、今度は東大。どこがふつう?」
「素ちゃん、怒ってる。おもしろい」
「お姉さんだって腹立つでしょ」
「立つわよ。キョウちゃんはふつうでないことをやって、ふつうだと思ってる怪物だから、みんないい気になって甘えちゃうのね」
 鰈の身をハラリとほぐし、生姜の千切りといっしょに食べる。うまい。二人の女のあごが上品に動く。ニラタマ。ニラがしゃきしゃきと爽快だ。味もいい。
「キョウちゃんの名古屋の新居、地鎮が終わったって。五年かけて乾かした材木で造るらしいわ。雨が多くなければ、三月までにはでき上がるようよ。でき上がりを楽しみにしてって」
「現実の話だよね」
「もちろんよ。ぜんぶ現実」
「里芋、よく味が滲みてる。和食はいいなあ。ね、カズちゃん、飯場って、どちらかといえば洋食だよね」
「そうね。和食を作るより簡単だから。飯場の人も、あまり味わって食べないし。キョウちゃんは和食が好きだったわね。でも、体力づくりには洋食よ。これからはどんどん洋食を食べないと」
 どんぶり二杯お替りした。彼女たちも茶碗を二杯。
「ニラタマと里芋の煮ころがしはあたし。和え物とカレイを煮付けたのと、味噌汁はお姉さん。まだ微妙なところがかなわん」
「いいえ、大上達よ」
「むかしは料理もできんかった。たまに作ってもへたくそやった」
「女というものは、愛してもいない男と関わりを持ったりすると、料理も、家の切り回しも、からだも貧しいものになるのよ」
「経験者やから、説得力あるわァ」
「ぜんぶおいしかった。ごちそうさん」
 二人は食卓を片づけ、私に玄米茶を入れると風呂へいった。私は茶をゆっくり飲んでから、寝床に入った。枕もとのテープレコーダーで圓生の文七元結(もっとい)を聴く。すばらしい語り口の人情話だ。ウトッとなったとたん、風呂上りの温かく湿った裸のからだが両脇に入ってきて、私の胸をさすった。二人のあいだに仰向けになる。二人で風呂上りのピンクに輝く顔を私の肩に寄せる。三人で寝るときはけっしてセックスをしない。
「トシさんから電話きたわ。後ろめたいからやっぱり報告しておきたい、存分に慰めていただいたって。キョウちゃんにおばさんのことは気兼ねしないように、野球がんばるように言ってほしいって」
「ふうん、トシさんはカズちゃんに言わないでってぼくに頼んだんだけどね。何も後ろめたがることないのに」
「めちゃくちゃ感じたからなんやないの? お姉さんに悪いって思ったんよ」
「どうしてかしら、不思議な気持ちね。幸せすぎると、人はだれかに申しわけないって気持ちになるのかもしれないわ。キョウちゃんを独り占めしてるときにそんな気持ちになったら、自分もキョウちゃんもストレスが溜まるわ。安心してセックスするように、今度電話しておかなくちゃ。素ちゃん、名古屋にいったら、新しい部屋を借りなさいね。キョウちゃんを独り占めする場所を作っておくのよ」
「そうするつもりや。お姉さんとやる喫茶店のそばに借りる。キョウちゃん、うち、お姉さんとお店やるときのために、コーヒーの勉強も始めたんよ。まだ本を読んどるだけやけど」
 二人の女は何の下心もなく、私に胸を押しつけたり、腹を押しつけたりしながら、途切れなくしゃべり合う。私は自分の身の周りに起きていることを考えようとしない。ただ大きな幸福によって、現実世界から引き離されているだけだ。
「八時半ね。さ、そろそろ千佳ちゃんが帰ってくるわよ。キョウちゃん、眠い?」
「いや、眠くない」
「深煎りのコーヒーを飲みながら、少し音楽を聴きましょう。そのあとで私たちは千佳ちゃんのおさんどん」
 下着をつけ、パジャマを着てコーヒーをいれに起き上がる。音楽部屋へいき、布施明のおもいでを聴く。
「花の木のカズちゃんの家にいく途中で、交差点のスピーカーからこの曲が流れてきた。何カ月かして銀の涙も流れてきた。枇杷島でバイトしたあとすぐあとだったかな、高石友也の受験生ブルースも流れてきた。街角に音楽を流すのって、すばらしい習慣だね」
「気にも留めなかったわ」
「あたしも。聞こえてたとしても、気に留まらんわ」
「気に留める神経がないと、こうやってレコードは貯まっていかないでしょうね」
「ペトラ・クラークのダウンタウンは、市営球場の試合の帰りだったかな、浪打駅から堤橋まで歩いた道で、スピーカーから聞こえてきた。すぐ買った」
 玄関に、ただいま! という声が聞こえた。
「お帰りなさい!」
 と二人で走り出ていった。
「さあ、晩ごはん、晩ごはん」
「神無月くん、きてるんですね!」
「そう、ゆっくりしていけるのよ」
 私もステレオのスイッチを切って玄関に出た。
「聞いたよ。がんばり屋だな」
「合格を百パーセントに近づけたかったので、予備校にいくことにしました。みんなすごい集中力で勉強してて、ちがう世界にいるみたいです。受かりそうな気がしてきました」
「科目が多いの、苦にならない?」
「なりません。青高の授業より簡単ですから」
「なんだかわかるよ。青高はハイレベルだったからね」
「受験は、北村席からかようことになりました」
「よかったね」
「はい」
「さあ、ごはん。うんと食べて、夜中まで勉強なさい」
「はい。食べてるあいだ、神無月くん、そばにいてくださいね」
「いいけど、どうして?」
「来年からは神無月くんの顔を見るのもままならなくなるだろうと思うんです。日本じゅうを飛び歩くことになるでしょうから」
「飛び歩くのは合ってるけど、顔を見る暇がなくなるというのはオーバーだね。飽きるほど顔はつき合わせると思うよ。じゃ、食べながらでいいから、現代史の復習。昭和三十年からいこう。主要なできごとは?」
 千佳子は箸を取り上げ、
「一九五五年ですね。自民党五十五年体制スタート、……ワルシャワ条約機構結成」
「ソニー日本初のトランジスタラジオ発売、広辞苑初版発売」
「変わった記憶ですね」
「こういうの、得意なんだ。食べて、食べて。次、昭和三十一年」
 カズちゃんと素子が笑っている。
「日ソ共同宣言によりソ連との国交正常化、日本が国際連合に加盟」
「猪谷千春冬季五輪初の銀メダル。三十二年」
「……ソ連スプートニク1号打ち上げ成功」
「名古屋初の地下鉄開業。三十三年は?」
「アメリカ初の人工衛星エクスプローラー1号打ち上げ成功、売春防止法施行」
「長嶋四打席四三振、チキンラーメン発売。次、三十四年」
「キューバ革命、皇太子ご成婚」
「それ、ラーメン屋のテレビで観た。少年マガジン・少年サンデー創刊、伊勢湾台風、横浜から名古屋に転校、第一回レコード大賞水原弘、黒い花びら」
 カズちゃんが、
「キョウちゃん、へんすぎる。それ現代史と言うより……」
「ヘヘ、思い出だね。つい十年前ぐらい前のできごとだから、どうしても憶えてる。受験生は奇妙なことを憶えてる。人工衛星の飛んだ年なんて、憶えているやつのほうがおかしい。じゃ千佳子は現代史をつづけて。ぼくは思い出をつづける。掛け合い漫才的にいこう」
「はい」


         二百四十九

「昭和三十五年」
「一九六○年ですね。アフリカの独立相次ぐ、浅沼稲次郎暗殺、池田隼人所得倍増計画、カラーテレビ放送開始」
「さすが受験生。ダッコちゃん発売、キリン缶ビール発売。じゃ、三十六年」
「ソ連世界初の有人人工衛星ボストーク1号打ち上げ成功、飛行士はガガーリン、地球は青かった。ベルリンの壁が作られる」
「ええと、柏戸・大鵬同時横綱昇進、坂本九『上を向いて歩こう』、植木等『スーダラ節』」
「おもしろいのでもう少しつづけてください。和子さんたちも参加して」
「よし、昭和三十七年」
「キューバ危機……あとは出てきません」
「マリリン・モンロー変死、ぼくもそのくらいだな。三十八年」
 カズちゃんと素子は天井を向いて懸命に考えている。カズちゃんが、
「名神高速道路開通、ケネディ大統領暗殺」
 私は、
「吉展ちゃん誘拐殺人事件、力道山刺殺さる」
 カズちゃんがうれしそうに、
「伊藤博文新千円札発行」
 素子がパチパチ拍手する。
「受験生の知ってることって歴史的知識そのものだね。思い出にも何にもなっていない。早く受験なんか終えてしまわないとね」
「ほんとにそう思います」
「じゃ、これで最後にしよう。昭和三十九年」
「東京オリンピック!」
 三人同時に言った。私は微笑しながら、
「新幹線開業、島流し」
 と言った。みんなシンミリした。
「素子、コーヒー、おかわり!」
「はーい」
 食事を終えた千佳子が、シンクに立っているカズちゃんに、
「和子さん、九帝大ってよく聞きますけど、どういうものですか? 名古屋大学も帝大ですよね」
「昭和二十二年まで、帝国大学が九つあったのよ。日本国内に七つ、韓国と台湾に一つずつ。最高学府と呼ばれて、日本最高位の高等教育機関と見なされたの。創立された年度順でいくと、東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学……ええと、京城大学、台北大学、大阪大学、名古屋大学。いちばん古い東京大学は明治の初期、いちばん新しい名古屋大は昭和十四年にできたのよ。私が五歳のとき。昭和二十三年から帝国大学の名前を廃止して、全国一律に国立大学になった。いまは国立大学が八十くらいあるわね。難しさでは、東大、京大、一橋大、大阪大に次いで、名古屋大学は東京教育大と並んで五、六位かしら。東北大、九大、北大より難しいでしょうね」
「東北大より! がんばらなくちゃ」
「そうよ、せいぜいがんばってね」
「はい!」
 私は思わず三人に、
「愛してる」
 と言った。みんなも、
「私も」
 と応えた。私は、
「それ以上に信頼してる。愛は移ろうけど、信頼は永遠だ」
 カズちゃんが、
「移ろうの?」
「一般的な不等号の話をしただけ。ぼくは等号で、どちらも移ろわない」
「知ってたわ」
 キッチンが大笑いになる。
         †
 十月十九日土曜日。快晴。数年ぶりに硬度のある排便。耳鳴りせず。シャワー。歯を磨き、頭を念入りに洗う。
 居間のテーブルで朝食をとる。NHKの十五分ドラマが映っている。あしたこそ。女を主人公にした、親子もの人生ドラマ。初めてのカラー作品ということで、大した視聴率らしい。そういう話題は私の厭世に結びつく。イベント人間たちが画面の中に烏合している。こんな人間たちとは付き合いきれない。カズちゃんも素子も千佳子も画面を見ていない。うまい朝めしを食うのに夢中だ。
 ニュース。川端康成がノーベル賞を獲ったとかしましい。彼の作品は伊豆の踊子と雪国と山の音しか読んでいない。伊豆の踊子は、肉体関係のない男女関係におぞましい不潔感を覚えたし、雪国は島村の、この指が憶えているよ、という純愛に欠けた妙に淫猥な科白しか思い浮かばない。山の音は拷問だった。救いがたいほどの退屈に耐えて読み切り、結局報われなかった。どれもこれもいっこうに胸にこない作品だった。もともと、あの神経症的な鶴首の顔が嫌いだ。
「じゃ、私、勉強します。神無月くん、土曜日、神宮球場でね」
「模試は?」
「十二月の一日です。コースを切り換えたので、駿台の国公立模試。早大オープンよりはやりやすいと思う」
「がんばってね」
「はい」
 千佳子は勉強部屋に引っこんだ。カズちゃんたちの出勤に合わせて出る。
「来週は、私も素ちゃんも土日を休むことにしたわ。きっと土曜日に優勝でしょうね。パレードを見たいけど、どこで待ち構えればいいかわからないから、テレビのニュースで見ることにする。節子さんもキクエさんも土日が休み。日曜日は、みんな揃って高円寺でのんびりしましょ。じゃ、来週の土曜日、いつもの席で応援してます」
 カズちゃんとフジの前で別れ、素子とは改札の前で別れた。八時半。ジャージにダッフルに下駄。練習に向かう。睦子のことを思い出し、高円寺の電話ボックスから電話する。
「わ、いま出かけるところでした。いっしょにいきましょう」
 素朴に喜ぶ。
「じゃ、三十分後、荻窪の丸ノ内線口で」
 総武線に乗り、荻窪駅西口を出て、地下鉄階段口で合流。ジャージ姿の人形。
「千佳子も名古屋大学を受けることに決めたそうだよ」
「知ってます。二人で受からなくちゃ」
「睦子の受験勉強は?」
「名古屋大学の過去問をやってます。数学と古文重点で。あとはだいじょうぶです」
「千佳子は受かるかな」
「彼女青高では、数学と国語、いつも百番以内だったんですよ。理科と社会をがんばれば軽く受かると思います」
「どうのこうの言っても、青高生だもんね」
「そうですよ。きょうは帰りにコーヒーを飲んでってください。ポエムでコーヒーメーカーを買ったんです。深煎り豆を挽いてもらいました。藍色のコーヒーカップも買いました。藍色は郷さんに似合うと思って」
「きょうは?」
「少し危ないです。最後に郷さんのを飲みます」
「また? 飲まなくていい。外に出す」
「いいえ、飲みます。おいしいから」
 にこやかに笑う。
「名大の文学部って、募集人員は?」
「百二十五名です」
「東大の三分の一か。たいへんだ」
「上位十人に入るつもりでいれば、何人でも変わりありません」
「睦子は一番で受かるよ」
 赤い電車に乗りこむ。空いている。並び合って座る。
「……このあいだ部室で言いそびれたんですけど、中退を届け出るのは、少し面倒なんです。鈴下監督も知ってるはずです。最終的に保護者の自筆の名前と承認印が必要だということです。学生課の課員と面談して、中退理由を納得してもらって初めて届出用紙を受け取れるんです。用紙を提出するときにも、保護者といっしょにもう一度面談しなければならないことになってます」
「……アウトだね」
「でも、郷さんの場合、プロ入団を理由に、学生課から届出用紙さえ受け取ることができればだいじょうぶです。本人だとそういう面倒が起きますが、監督か部長が代理人になれば、無条件で用紙を受け取れます。受け取ったあと、監督や部長からお母さんに承諾要請の電話がいき、お母さんに用紙を送って署名捺印してもらって、送り返してもらえば完了です。保護者といっしょの面談は必要ありません」
「それでもアウトだね。その捺印自体不可能だから」
「アウトじゃありません。アウトなら、私が名大を受けるはずがないでしょう? ……たしかにお母さんの署名捺印が山場です。最終的に、お母さんが署名捺印した中退届が大学側に受理されるものと中日ドラゴンズ球団は確信していますから、あれこれ手こずって受理が遅れても、入団交渉そのものには響かないと思います。ただ、あくまでもお母さんが署名捺印して大学側が受理した場合です。でもお母さんは捺印しませんよね」
「うん……。絶望的だね」
「いいえ、あきらめることはありません。―じつは、代理人が署名捺印した中退届出申請用紙が受理されれば、親の署名捺印はオミットしてもいいんです」
「ほんと!」
「ほんとです。きょう監督に、代理人として中退届出用紙を申請してくださいと言うつもりです。郷さんは代理人申請の書式を一枚書くだけです。その書式を学生課で受け取って記入し、捺印して、それを監督に渡すだけですみます。郷さんにその暇はないでしょうから、私が書式を受け取って監督さんに渡しておきます。それがすべて完了すれば、監督が学生課に提出し、学生課からお母さんに書式が送付され、中退届受諾要請の電話がかけられて終わりです」
「そこで悶着は」
「それこそ、運にまかせましょう」
「運が開けなかったら……。おふくろとは絶縁状態だし、受諾要請はその筋の人に頼んで強引におふくろを折伏するしかない。さんざんスカウトを断ってきた人だけれども、この期に及んでプロ入りを反対するほど人非人じゃないだろう。そんなことをすれば、マスコミが彼女を叩く。隣近所の人じゃなく世間に白い目で見られたら、おふくろも腰が引ける。マスコミだって役に立つことがあるはずだよ。……おふくろがどう出るか、ひどく厄介な感じだけど、それから先のことはほんとうに運まかせだ」
 本郷三丁目で降り、本郷通りを歩く。睦子は不安そうな顔で、
「受諾要請がうまくいくことを祈ってます。郷さんのこれまでの人生をいろいろな記事で読んで、思い当たったことがあるんです。郷さんのお母さんは、世に言うポイズナス・ペアレントの一種だと思います。子供の成功を妬む親です。子供が社会的に成功すると、いったんは手放しで喜ぶんです。それが自分の手柄だと信じて一瞬満たされます。その一方で、子供は自分の人生の不足を満たすための永遠の道具なので、自分を置き捨てて華々しい世界で活躍するのは許せない。私だってやればできる、あいつにできたなら大したことはない、そんな考え方をするんです。子供が成功するぐらいなら、足を引っ張って挫折させ、失意の子供をかいがいしく面倒見てやったほうがマシだ、という回路で考えるんです。でも、お母さんは面倒も見ないわけですから、それとは少しちがうタイプに思えます。たぶん、自分が世間的に立派な親と見られることが、子供の幸福より大事だという考え方をする人だと思います。しかもその見栄が無自覚なんです。東大出の人だけを信じたのは、よほど東大を自分の能力圏外のすごいものだと思いつづけてきたからでしょう。東大のような権威に属せない人間は負け犬だと思っていたはずです。郷さんは彼女の果たせなかった夢を果たしました。おまけにプロ野球選手になるんです。ふつうの親ならそこでバンザイ三唱です。お母さんはちがいます。立派な自分の恩恵で東大に受かったのではなく、勝手に自力で受かった事実がやがて怨みに変わります。華々しい成功に溺れて、おまえより立派な私をないがしろにするのか、という怨みです。そういう親にとって、子供が自分自身を価値のない人間だと感じることが重要なんです。そう感じてくれれば、親は自分の価値を回復することができます」
「どうしようもないね」
「はい……どうしようもありません。逃げるしかないんです。郷さんの判断は正しかったんです。東大に受かることを逃走方法にする人なんか、おそらくこの日本に一人です」


         二百五十

 涙が出てきた。睦子も涙を流しながら、
「悲しいでしょうね。よくわかります。私はこの四年間で、郷さんが成功を恐れる人だと知りました。成功することに罪悪感さえ持っている。それは郷さんの成功を妬み、挫折を喜ぶ人に育てられたからです。不必要なくらいの自己卑下がその証拠です。郷さんは、自分の存在が他人に喜ばれているという感情を持つことができません。他人にとって自分は負担だという感情を心の底にこびりつかせています。だから、相手に何かしてあげなければいられない気持ちになるんです。相手の得になるようなことをすることによって、罪の意識から解放されようとするんです。私、護ってあげます。ぜったい護ってあげます。和子さんが、郷さんに自由に生きて、好きなように生きてと言うのは、どんなふうに生きても護ってあげるということなんです。私たちの心の底には、お母さんのような敵意はありません。堰き止められないほどの愛情だけがあるんです」
 私は立ち止まって睦子の手をとり、ありがとう、と言った。
「おふくろの願いは、ぼくの成功を通して世間を見返すことじゃないということは、カズちゃんにほのめかされて以来、この二年で薄々感じてた。でも、ぼくそのものを見返すことだったということには思い至らなかった。スッキリした。とにかくこの崖っぷちを全力で乗り切るよ」
 睦子は微笑み、
「ええ、乗り切りましょう。くどいようですけど、お母さんの心理について忘れていけないことは、自分の恩恵をこうむらずに郷さんが自力更生したことに対する反発です。もう一つは、お母さんが肚の底では郷さんの成功を不快に思っているということです。子供の社会的成功を表面的には喜びながら、ひそかにその成功を破壊したいと願っているということです。そうなると、自然と敵意が芽生えます。〈立派な〉親としての立場上、自分の子供に対する敵意はひた隠しにします。その代わり子供の全否定をしはじめます。能力を否定したり、容貌を否定したり、野心を否定したりします。いわれのない迫害です。慎ましく生きよと説教したりもします。思い当たるでしょう? 成功に対する郷さんの罪悪感は、そうやって作り上げられてきたんです。罪悪感を持つと、有能な人も行動的でなくなります。青高のころから、実際あふれるほどの才能で華々しく生きている郷さんが、静かに生きることを自分に強いていたのを見て不思議な感じがしていました。どうか自由に生きてくださいね。好きなように生きてくださいね。この話は、私、きょう監督や部長に話すつもりです。中退を成功させてくださいって」
「中退をさせないようおふくろが学生課に要請してることはどうなるんだろう」
「学生課が学生個人の中退を口頭で抑える権限はありません。彼らが何をするにも書式がついて回ります」
「ああ、心から感謝するよ、睦子、ありがとう。さあ、練習だ」
「はい!」
 高い空にひつじ雲が群れている。いい風の吹く上天気だ。トンボが内野グランドを均している。相変わらず、選手、スタッフの出はよく、優勝の一文字を胸にきびきび動いている。きょうから今年流行の音楽を練習中にかけるようになった。投手、自由メニュー。野手、全体でのウォーミングアップ、キャッチボール、ノック、フリーバッティング。兼コーチのノックの打球の伸びがすがすがしい。私は一連の練習のほかに、ウェイト八十キロ五回、ポール間ダッシュ二本、三種の神器をやった。まんべんなくからだを動かし、三時間たっぷり練習した。
「練習中の金太郎さんは、ピーンと分厚いガラスの壁ができてるんだよ。撥ね返されそうで近寄れない」
 磐崎が言う。横平が、
「近づいちゃえばいいんだよ、こうやって」
 腕立てをしている首に抱きつく。臼山もその上から抱きつく。西樹助監督が、
「こらこら、金太郎さんの練習のじゃまだろ。いっしょに腕立てをやれ」
「へーい」
 カメラマンが走ってきて、その様子をパシャパシャやる。カメラに向かって微笑んだのが藪蛇で、マイクが加わり予想外のインタビューもされることになった。
「春のリーグ戦で感じたことを教えてください」
 ボンヤリした質問だ。高校野球と比べろということだろう。大学野球のレベルも褒めなければいけない。
「まず、高校野球と比べて、打ちにくいピッチャーが多いです。球のキレや伸びがちがいます。コントロールもいいし、変化球の精度も高いので、実際苦しみました。バッターの打球のするどさを含めて、野球全体のレベルの高さを認識したというか、驚かされました」
「ほんとですか? どのピッチャーからもポンポン打ってるように見えましたが」
「錯覚でしょう。記録を確かめればわかります。相当凡打しているはずです」
「注目するバッターは?」
「法政の山本浩司選手、早稲田の谷沢健一選手。とにかく春は、あっという間にリーグ戦が終わってたという感じですね。いざというときにあまり貢献できなかったので、この秋は残り三戦も含めて、全力を尽くしてチームに貢献したいと思います」
「敬遠がなきゃ、全力を尽くさなくても貢献できるよ!」
 臼山が声高に言った。
「その敬遠をどう思われますか」
「何とも思いません。こちらの都合じゃありませんから。全打席敬遠されないかぎり、楽しみが残ってます」
「神無月選手にはあまり課題というものはないように見えるんですが、あるとすればどうものでしょうか」
「攻走守、自然と自分の欠点が見えてくるものがあります。コーチの人たちからヒントをもらったり、チームメイトに助言してもらったりすることも大きいです」
「ウソつけ、そんなことした覚えないぞ」
 と横平が茶々を入れた。私は頭を掻きながら、
「課題を克服するための練習は自分なりに工夫してやっています。自分に不満のない選手はけっして課題を見つけられませんし、成長もないと思います」
 輪になっていたスタッフや選手たちが拍手する。
「優勝の可能性は?」
 きた。
「ここまでくれば優勝の可能性は高く見えるでしょうが、立教戦でうちが二敗すれば、法政との決戦が危うくなって、可能性は五分五分を切ります。一勝すればもちろん優勝ですが、その一勝が難しいので、正直なところ瀬戸際にいるというのが実情でしょう」
 模範回答に鈴下監督や克己たちがニヤニヤしている。私は恥ずかしくなり、インタビューを途中にしてフェンス沿いのランニングに逃げ出した。笑いが追いかけてきた。
         †
 南阿佐ヶ谷駅から睦子と腕を組んで歩く。
「きょうも死にもの狂いの練習をしてましたね。郷さんはいつも、死と隣り合わせでいるように見える」
「うん、なかなか死なないけどね。強烈な免疫ができちゃったから。生きているあいだは喜ばしき習慣にまみれて生きる。でも、肉体的な死は怖くはないんだ。精神的に死んでなければ、肉体の途絶は恐れるに足らない。睦子の言う隣り合わせの死は、ほんとうに物理的な命がなくなるというやつだね」
「はい……精神的な死というのはどういうものですか?」
「命の途絶じゃなく、生きていて希望のない状態だ。そういう死は命の途絶よりタチが悪い。毎日太陽は夕方に死ぬし、花は季節の不適合に負けるし、肉体は成長するにつれて魅力のないものになっていく。あたりまえのことで、別にタチの悪いものじゃない。物理的な喪失だから。物理的な喪失という死は怖くない。そういう死に対してはずっとむかしにあきらめた。恐ろしいのは精神的な死だ。ぼくが死と隣り合わせに見えるのは、きっと、ぼくが希望をなくさずに、精神の死に近い危険な場所を歩いているということなんだろうね。精神の死という隣人は障害物として隣にいるだけで肉体への実害はない。でもそいつにやられると、タチの悪い〈死〉がやってくる。希望を失う。希望は回復する見こみがあるだけにタチが悪い。ずるずると肉体の生を引きずって希望の回復を待つことになる。生き地獄だ。ヤケにならずに耐えるしかない。しばらくは耐えることはできる。問題は、ついに耐えられなくなる自分だ。だから、希望を捨て切ろうとするヤケが恐ろしい。肉体ではなく精神を殺してしまうヤケが怖い。精神的に死んだ人間になるのは最大の恐怖だ。あきらめたはずの物理的な死を真剣に考えだすからね。ヤケを引き起こす障害物だけを警戒すればいい。幸いぼくのそばには、そんな死神は一人もいない。ぼくの命を高揚させてくれる天使ばかりだ。安心して物理的な死を同伴者にすることができる」
 睦子が腕を強く握ってきた。
「手を出せる距離に死神がいます。逃げ切りましょうね」
「うん」
 部屋に入ると睦子はすぐにコーヒーをいれた。いいにおいがする。藍色と薄黄色のカップにコーヒーを注ぐ。コーヒーの味を確かめる。
「うん、うまい」
 寄り添ってくる。肩を抱く。大きく、柔らかい。キスをする。
「する?」
「はい、いますぐ」
 長いあいだ睦子のからだに触れていなかったと気づく。別れたとたんに一人ひとりとの接触の感覚を忘れていく。そうならないのはカズちゃんだけだ。思い出す以前に十全な感覚としてすでにある。確認の必要がない。彼女以外の女と交わるとき、もの心つく前に経験した感覚を思い出す感傷的な旅をしているような感じになる。ホームランの感触を思い出そうとしてバッターボックスに入るときの気持ちに似ている。あの感触は、宮谷小学校で初めてソフトボールのホームランを打った以前からあった。
 寝室にいき、きょうの出がけにきちんと敷いたらしい蒲団に二人で横たわる。ジャージを脱がせる。ブラジャーの上から乳房を揉む。愛らしい声を上げる。ブラジャーを外し、乳房を揉みながら乳首を吸う。パンティに手をかけると、睦子は脱がせやすいように尻を上げる。全裸にしたところで、私も衣服をすべて脱ぎ捨てて膝を突き、仰向いている睦子の顔に性器を突き出す。睦子は首をもたげ、大切そうに両手でつかみ、亀頭の半分を口に入れる。割れ目に舌を這わせる。
「愛してます。顔も、からだも、心も、才能も、何もかも。命あるかぎりいつまでもそばにいます」
 そう言って、あらためて深く含む。私は彼女の背中をなぜる。もう一度仰向かせ、股を開き、口で丁寧に愛撫する。
「ああ、郷さん、愛してます」
 尻がふるえ、みぞおちがふるえる。ふるえているうちに挿入する。やがて睦子は激しく達し、五度、六度と痙攣する。
「ああ、郷さん、わかります、そろそろですね、そろそろですね、お口にください!」
 抜いて、腹上に発射し、膝を摺っていって睦子の頭を抱え上げ、亀頭を唇につける。睦子は大きく含み、舌で律動を促しながら嚥下する。私が律動するたびに、自分もからだをふるわす。肉体の感覚ではなく、睦子という女の心のたたずまいを記憶した。
         †
 二人でシャワーを使い、からだを洗い合う。
「ありがとう、外に出してくれて。つらかったでしょう」
「中に出すことで睦子が抱えこむ苦労を考えたら、何と言うこともないよ。精液って、飲みこむのはたいへんだろう」
「ううん、とてもネバネバしてるから、なかなか喉を通っていかないんですけど、おいしいって感じるんです」
「ぼくは愛されてるって感じる」
「愛してます」
「ぼくも」
 風呂から出て、たがいのからだを拭き合う。新しい下着をつけ、服を着、テーブルに向かい合う。たがいに微笑がこぼれる。
「……ジツのある人ってよく言うよね」
「はい。誠意があるとか、内実がある人ということですよね」
「ジツのある話、ジツのある言葉―」
「はい」
「人間が目指してるのは、ジツだね。ぼくは生来、それがないようだ。空洞、空虚、空っぽの人間。オズの魔法使いという映画に、ティンマンというのが出てくる。中身が空っぽのブリキ男。やさしい男でね、すばらしい心の持ち主だ。それなのに人から〈空っぽ〉と思われてるので、心をほしがってる。オズの魔法使いが最後に彼に言うんだ。心理学を修めたという称号をあげよう、それできみは心の専門家だ。つまり、人は肩書でその気になると言いたいんだ。勇気がほしい臆病なライオンには勇者を顕彰する勲章を、知性がほしい藁頭の案山子には大学卒の証書をくれてやる。ぜんぶ肩書だ。もともと人間は、心がないとか、勇気がないとか、頭がないとか悩む存在だけれども、実際はちゃんと持ってるんだよ。ないのはそれを示す世間的な証拠だけ。そういうことを教えてくれるとてもさわやかな、人類救済的な映画だ。人間は何かのジツを持って生まれてくる。それでじゅうぶんなのに、肩書でそのジツを強調したがる。すばらしい悲観だ。……ほんとうに心のない人間は、心の動きを究めても心のないままだし、勇気のない人間はいくら勇猛勲章をもらっても勇気のないままだし、頭のない人間はいくら大学の卒業証書をもらっても粗悪な頭のままだということ。肩書をつけても、ジツは手に入らないということ。ただ、あの映画は一点、見落としていることがある。この世には生まれつきジツのない空っぽの人間がいるということなんだ。だから肩書で飾っても、もともとないものはない。あの映画はそれがわかってなかった。ジツがあるのに肩書をつける必要はないというのは、ジツのある人間を救うためのやさしい励ましだ。芸術的な励ましと言っていい。その激励を理想として大勢の人は生きてるようだ。ぼくは空っぽの人間だけど、空っぽでないという偽の肩書さえもらえない。……だから、ジツのあることをしようとして、一所懸命生きてる。……泣かないで」
「どうして空っぽなんでしょう」
「頭も心も才能もないのに、義務感だけで生きてきたからだよ。それをからだじゅうに満たそうとして生きてきたからだ。その努力だけがぼくの実体だ。きょうも睦子のところにくるとき、一瞬義務感を感じた」


         二百五十一

 睦子は涙を手で拭い、
「そういう理屈なら、たぶん、私たちはみんな空っぽです。あるのは努力と義務感だけです。それと、その二つの成果の肩書。オズの魔法使いのように、肩書は思いがけなくもらうものじゃなく、その二つの成果として手に入れるものなんです。タナボタでもらう肩書は〈ジツのない〉ものですけど、努力と義務感の成果としていただく肩書は〈ジツのある〉ものです。もっと正確に言うと、〈ジツのあるものと見せる〉ためのものです。だいたい実(み)というもの自体、人間にはもともと存在しないものです。果物の実は果肉ですし、食用動物の実は肉ですし、地球の実はマントルや地殻でしょう。ほんとうに目に見える実を持ってるのは、そういう単純なものばかりです。人間の実は何でしょう? 心ですか、頭ですか、勇気ですか。そうではなく、たぶんそれを求める努力とその結果の肩書でしょう。存在しないものを求めて、人は義務感に強いられながら努力をして肩書をつけるんです。人間も単純だという証拠です。郷さんはその実すら振り捨てています。ただただ思考するだけなんです。きょうも自分は義務感に強いられていると思考したんです。そして実際は義務感からではなく、愛情と感謝から行動する。それこそ、比類のない実です。郷さんは実がぎっしりです。空っぽじゃありません。郷さんは私たちとちがって、これ以上努力をして何かを求める必要がないんです」
 睦子は立ってきて、私の唇を吸った。
「愛してます。愛してなければ、だれも郷さんのことを理解できません」
         †
 ダッフルを肩に、睦子と青梅街道に出、通りがかりのトンカツ屋に入る。
「ここ、よくくるんじゃない?」
「はい、もう四、五回きました。おいしいですよ」
 四人掛けテーブルに案内される。特上ロース定食を二人前。ラードのせいだけではなく、甘い豚肉だった。睦子も油で唇を光らせてもりもり食った。満足。別れがたく、並びの喫茶店へ。ココア。
「青森にきてから、すごい四年間でしたね」
「野辺地の半年は、不安と倦怠の時代だから、別にすごくはないね。青高一年の五月からきょうまでの三年半はわれながらすごかった。……青高野球部員たちの顔をいまも忘れない。大恩ある人たちの顔だ。野球というスポーツに、ぼくを引き戻してくれた人たち。彼らに受け入れられた日から、ぼくは野球だけに打ちこもうと決心した。野球の世界にどっぷり浸ることで、いいかげんな人間とまみえることが少なくなった。いいかげんなやつらに辟易してきたからね。野球のおかげで、煩わしい対人関係や高度の知識を必要としない生活を回復できた。自分が才能ある野球選手であることの僥倖に感謝し、そのはかない能力を維持するために、全霊こめて努力しなければならないと覚悟するようになった。その意味で〈すごい〉人間として生きられた」
「すごい人間て、一芸のおかげでゆったり遊べる人のことだと思います。そういう人にとって、努力は遊びの一種です」
「ふうん、そういうものかな。たしかに、ゆったり心が遊んでいるときでなければ、肩書や出世ために寝食を忘れて動き回る人びとの心がどんなに非人間的で哀れなものか、くっきり見えない。心が忙しいと頭が濁るから。西松建設の飯場に入って以来、ぼくは例外的に頭の澄んだ人たちと遊んできた。遊びの中で、すぐれた人間というものを理解できるようになった。彼らの直観の正しさを学び取るという生甲斐を得て、ついにぼくは世間を忘れることができたし、さまざまな軋轢や蹉跌を忘れることができた。彼らはごく少数の、いいかげんでない人たちだった」
「ジツのある言葉―」
 喫茶店を出て夕暮の住宅街を眺めながら散歩する。民家の群れを抜けると、三角屋根の長いテラスハウスがあった。壁にタイル貼りの番号が打ってある。一棟に六世帯暮らせるようになっている。三百世帯もあるだろうか。阿佐ヶ谷住宅案内図と書かれた看板が立っている。よく手入れされた芝生と植木が、母を迎えにいったときに見た桜木町のアメリカさんの住宅っぽい。その周囲には、帰りそびれた子供たちが遊ぶ公園を挟んで四階建ての団地も混在している。ここにも号棟ロゴが打ってある。
「高円寺より若やいでないけど、都会は都会だね。高円寺と並んで住みやすい都会という雰囲気だ。でも、名古屋には敵わないな」
「早く名古屋にいきたい。あと五カ月」
「ぼくと動き回って、青春を潰して、ほんとうにいいのかな? どこかおかしいと感じる。……ぼくと行動を共にする義務はないんだよ」
「遠くで待っていてはいけないんです。ボーッと怠けて、愛する人の行動を遠くから眺めてるなんて言語道断です」
「ぼくが野球をしているうちは夢中で応援できるだろうけど、それほど遠くないうちに野球をやめてしまうよ。来年かもしれないし、五年、十年後かもしれない」
「とにかく郷さんが野球から戻ってくるまでに、受け入れ態勢を万全にするためには自分を確立しておかなくちゃいけないって思います」
「何年かしたら、ボロボロになって戻ってくると思ってるんだね。すばらしい直観だ。人間、いつまでも有卦に入ってはいられないからね。何かの社会的な努力が必要になって戻ってくると思うよ」
「ボロボロだろうと、ピカピカだろうと、郷さんが野球をやめて戻ってきたら、私たちと暮らす悠々自適の生活が待ってます。安心して野球をしてきてください」
 睦子は南阿佐ヶ谷駅の改札まで送ってきて、ダッフル担いで階段を下りていく私に微笑みながら手を振った。
         †
 十月二十日日曜日。薄曇。十三・六度。きょうも練習に出た。
 応援団とバトンがブラバンといっしょにきて、ネット裏の小さなスタンドで華々しいパフォーマンスをした。神宮球場の喧騒の中でこんなに美しいパフォーマンスをしているのかと思うと、感激が新たになった。選手たちも唖然として見ていた。
 事前に大学側と申し入れがあったのか、テレビカメラを肩に担った男たちがレギュラーに貼りついている。優勝ドキュメンタリーのエンディングの一コマでも撮るのかもしれない。ユニフォーム姿の鈴下監督が茶封筒を持って寄ってきた。
「金太郎、これ、中退届と代理人申請の用紙。中退届は私がとってきた。代理人申請用紙は鈴木睦子が学生課で受け取って私に持ってきた。必要事項を書きこんで自分の判を捺し、私に渡してくれれば、私も署名して判を捺し、本部にその旨伝えたら、本部からお母さんのほうへ書類が送付され、電話確認がなされて、書式に関してはそれでザッツエンドだが、お母さんの反撃があった場合、つまりお母さんがゴネたり、送り返してこなかった場合には大学側は手の打ちようがないので、彼女の尊敬する大沼所長に説得してもらうよう頼んだ」
「大沼所長と話したんですか」
「ああ、電話で二十分もな。涙ながらに嘆願しにきた鈴木睦子くんの顔を思い浮かべながらね。さっそく説得にかかると言っていた。何も心配するな。その書式だけ土曜日に持ってきなさい」
「はい! ありがとうございました」
 睦子は目立たないように塀際でレギュラー陣のストレッチを手伝っていた。
 昼までランニングとダッシュ中心でいった。時おりストレッチを挟みながら、とにかく走る。フリーバッティングは百五十キロを十本。すべてセンターへ打ち返す。あとは外野フェンスに向かっての遠投十本。野球は肘と肩を壊せば突然死だ。那智と克己二人相手の三十メートル強めのキャッチボールで〆る。二時間ほどのあいだフラッシュが光りっぱなしだった。十二時で練習終了。
 仲間たちといっしょに部室へ引き揚げようとすると、詩織が寄ってきて、話がありそうな顔をする。男どもが遠慮して部室へ去った。
「お食事しません? 渋谷で。来週は大事な一週間だし」
「いいよ。ひさしぶりのデートだ」
「やった!」
「着替えてくるからいっしょに帰ろう。食事の前にマンションの部屋で日本シリーズ観せて」
「はい!」
 詩織は全身を喜びでいっぱいにして、部室の隣棟のマネージャー室へ走っていった。カメラマンがようやく引き揚げていく。黒屋がやってくる。
「東大が優勝すれば、翌日、NHKで一時間特番ですって。レギュラー、監督陣、コーチスタッフ、マネージャー、応援団長、バトンキャプテン、ブラバンの指揮者もスタジオに呼ばれて、インタビューされるらしいわ。金太郎さん出てくれるかなって、仁部長が心配してたわよ」
「心配させるのは心苦しい。出るよ。インタビューなんて一人一分程度のものだろう。あとはテレビカメラに写ってればいいんだから」
「やった! 部長に言っとく!」
 黒屋も仁目がけて走っていった。
         †
 午後一時前、マンションの部屋で詩織といっしょにソファに凭れて、ビーフカレーを食いながら日本シリーズ第六戦の開始を待つ。室内は十五度。冷える。詩織は一時からの試合開始に備えて、ガスストーブを点けた。
「いつでも襲ってね。だいじょうぶな日だから」
「オッケー」
「神無月くんは路面電車が好きだったわね」
「うん」
「後楽園のあたりはまだ都電が走ってるけど、先月渋谷駅を通る路線が廃止されたわ。パルコ前を走る池袋の路線は来年廃止、再来年には新宿線が廃止されるらしいわ」
「そうか。オリンピックのころは全線健在だったらしいね。五輪の旗なんか屋根につけたりして。……名古屋も同じ運命だ。山形はどうなの」
「山形に路面電車はないの」
「地方都市にしてはめずらしいな」
 詩織は皿を片づけ、コーヒーをいれてきて足もとのテーブルに置く。周到に全裸になっている。大きな胸と陰毛が艶かしい。
 ここまで巨人の三勝二敗。長嶋は三戦以降七安打を加え、ホームランも一本打っていた。王は三安打増やし、そのうち二本は二打席連続ホームランだった。私のお気に入りの長池は、三、四、五戦とクリーンアップをまかされ、第四戦では二打席連続ホームランを打った。金田は長池にもホームランを打たれた。
「伝説の金田とはどうしても対戦したいな。来年まで持ちこたえてほしい」
「どうかしら」
「あと五勝で四百勝。今年で引退はないはずだ」
 第六戦は阪急先攻。クリーンアップは、スペンサー、長池、矢野。先発は米田。後攻巨人は、王、長嶋、柴田のクリーンアップ。先発は三年目の堀内恒夫。
「市電もなつかしいけど、いちばんなつかしいのは小学校だね。二階建て三階建の木造校舎、固い土の校庭、ザラザラの黒板、一学級五十人はあたりまえのベビーブーム。分団登校、マスクしてタオルをかぶった給食当番。脱脂粉乳、コッペパン、おかず三品」
「私たちはお弁当だった。分校が多かった。中学校はなつかしくない?」
「うーん、なつかしさはないけど、いろいろ憶えてることはある」
「たとえば一つだけ挙げると?」
「技術家庭の真剣な授業。旋盤で文鎮を作った」
「就職に役立つ準備をしてたのね。中卒者の高校進学率は五十パーセントだったから」
「青森よりははるかに高い進学率だ」
 阪急は初回、ウインディがショートゴロで倒れたあと、坂本ショート内野安打、スペンサーのレフト前ヒット、長池のフォアボールで満塁。森本のファーストゴロで坂本が帰って一点。その裏巨人は、センター前ヒットで出た高田を柴田がレフト線二塁打で還して一点。そのまま試合は六回表まで膠着した。私も裸になる。詩織が私のものを含む。私も詩織の襞を弄ぶ。私はまだ可能にならない。野球が気になる。
「小中学校のころの生活風景もなつかしいわ。板塀の市営住宅、飼いニワトリ、竹箒木、竹垣」
「あの竹垣の竹ってどこから取ってきたんだろうね。ぜんぶ枯れてた」
「専門の卸問屋があったみたい。個人住宅の玄関周りや畑の周り」
「ふうん。ほかにはどんな風物がある?」
「そうねえ、木炭火鉢に乗せた鉄瓶、水撥ね防止の濾過蛇口、白い換気煙突、木製ゴミ箱」
 すごす時間が長いと、女はどんどん年上に見えてくる。
「ゴミはリアカーで運んでいってたね」
「オート三輪車もあったわ。汲み取りもオート三輪だった」
「下水処理場。最初の飯場の人たちの仕事だった。ほかにどんな風景があった?」
「トラックみたいな真っ赤な消防車、公園の水飲み場、子供がカポッて口に含んじゃうからよく親が汚いって叱ってた。出勤するお父さんをお母さんや子供が見送る風景」
「お母さんは着物にエプロン。子供は赤いちゃんちゃんこ。山形の名所は?」
「樹氷の蔵王、市内を流れる馬見(まみ)ヶ崎川の満開の桜、山形城址、山形市立病院済生館の三層楼」
「ナース帽、白タイツ、白シューズ」
「神無月くんのあこがれね」
「労災病院、牛巻外科……刷りこみだ」
 六回裏、王ライト前ヒット、長嶋のセカンドゴロでフォースアウト、柴田が米田からレフトオーバーのツーランを打って二点。一対三。
 七回表、岡村、大熊ともにショートゴロ、ウインディが黒江のショートゴロエラーで出塁、坂本センター前ヒット、ツーアウト一、二塁。スペンサーフォアボールで満塁。長池のレフト前ヒットで二点。彼の打球の軌道は美しい。三対三。
 七回裏、黒江から守備交替していた千田がレフト前ヒット、堀内ファーストファールフライ、高田デッドボール、土井センターフライ。ツーアウト一、二塁。王が梶本からライトオーバーのスリーランを打って三対六。
 八回表、森本サードゴロ、住友の代打山口がレフトへ本塁打。四対六。八回裏、柴田レフト線二塁打、森フォアボール、国松の代打末次がバントして、ワンアウト二、三塁。千田センター犠牲フライ。四対七。
 九回表、ウインディレフトオーバーの二塁打、坂本レフトフライ、スペンサーレフトオーバーの二塁打。五対七。長池レフトフライ、矢野の代打石井のセカンドゴロで終了。二時間五十九分。巨人優勝。四連覇。
 シリーズを通して、長池と王と柴田が三本のホームランを打ち、長嶋が二本のホームランを打った。気になるのはホームランばかりだ。
 口を吸い合い、陰茎に血が入り、ついに交合。


         二百五十二
 
 食事をしに渋谷に出る。ジャージに下駄、詩織はジャージにサンダル。
「どんなに緊迫した試合でも、巨人が勝つのが当然というのがいやだな」
「ファンもね」
 ふと気づいたが、最近詩織が眼鏡を縁なしに替えた。大きな目が映える。
「丸い顔に大きな目。小さくて厚い唇。詩織はきれいだね」
「和子さんやムッちゃんほどじゃないわ。素子さんも千佳子さんも、みんなものすごくきれい。彼女たちの中に混じると恥ずかしいもの」
「そんなことはない。それにしても、ぼくの周りによくこれだけの美人が集まったもんだね。艶福というのはあるけど、これは何福かなあ」
 ハチ公前の人混みを縫って交差点を渡る。ひさしぶりに道玄坂を登る。途中から右手へ折れ、駒場の方角へ進む。
「ぼくもついてるな。大学騒動のおかげで、入学以来学問をしなくてすんだ。逆に思ってるやつのほうが多いだろうけど」
「林くんも山口くんも、モロ恩恵に浴してるわね。あれから二度、グリーンハウスにいってきたわ。山口くんには根強いファンがついてたし、林くんは外国人をバックにバンバン唄ってた。彼、ほんとに博報堂にいくのかしら。もったいない。山口くんはまちがいなくプロになるわね。みんな何しに東大にきたんだろうって感じ」
 二人声に出して笑った。ホテル街にある萬安(まんやす)という店に入る。軒の造りが古い居酒屋ふうの割烹料理店というところ。いろいろな酒の名前が宣伝文句つきで壁に貼ってある。
「ふうん、オツな店を知ってるんだね」
「荻窪の魚政以来、この手の店に目覚めちゃって。このあたりが花街だったころからの老舗なんですって」
 サラリーマンふうの客がちらほら。混んではいない。白木のカウンター、一枚板のテーブルが五卓、広い小上がり。二階には座敷もあるようだ。テーブルに着く。生ビール中ジョッキと刺身の盛り合わせを注文する。お通しに肉じゃがの餡かけ。かなりボリュームがある。うまい。ジョッキが出てきて、乾杯。メニューを見る。
「黒むつの活き造りか。活き造りは苦手だな。鮪、鯛、ほうぼう、太刀魚、イカ、ホタテ刺身か。すみませーん。ほうれん草のお浸しとウリの浅漬け、ふぐ皮の湯引きと、栃尾あぶらげ納豆射こみ、いっぺんにお願いします」
「活き造りも刺身も食べましょうよ。せっかくだから」
「オッケー」
 詩織が追加注文をする。ドンドン出てくる。活き造りは苦手なので、眺めないようにする。
「芳醇な酒と書いてあるけど、ぼくには酒のうまさというものがわからない。ビールだってきついくらいだから」
「人によりけりよ。お酒に弱いのは体質だから仕方ないわ」
「強いやつにあこがれるね」
「肝臓が強いだけよ」
「肝臓や腎臓の強さは、人格に影響する。ぼくは小学校のころは、頻脈の紫判を毎年捺されてたし、風邪もよくひいた。マラソンはいつもビリだった。社会的な消極性はスタミナ不足が原因かもしれない」
「まさか! 大衆嫌いは神無月くんの美しい哲学よ。私、神無月くんの気の毒な人生を考えてみたことがあるの。……逆らわなければ好かれると思ってたことはない? 逆らわなければ変人と呼ばれなくなると?」
「好かれたいとは思ったことはないけど、自分が変わってることを抵抗の武器にしたくないとは思った。自分が変人だということは、野辺地のじっちゃからときどき聞かされて薄ボンヤリ気づいてたし、たぶんそれが生きる障害になるだろうとわかってた」
「神無月くんを苦しめた人たちは、変人の神無月くんが嫌いなのよ。嫌いと言うより、怖いの。異質だから。異質さは人を怖がらせるわ。怖がる人たちの犠牲者でいるか否かは、早く決断しなくちゃいけないわ」
「とっくに決断してる。障害が好きな体質だとわかったときにね。ぼくの築いた人間関係を壊されないかぎり、つまりぼくだけが壊されることですむかぎり、犠牲者でいることにした。社会非適合者だから仕方ない。そのくせ自分の非適合を愚痴るのは、社会的な成功に近づかないための戒めなんだ」
「でも、成功しちゃうわよ。もうしてる」
「有名という意味でね。異質が許されたわけじゃない。有名すなわち、社会的成功者と呼ばれるとしても、真の社会適合者とはかぎらない。人は成功という言葉を有名という意味でしか使わないから、ぼくのような非適合者が成功者の中に紛れこむことがある。社会適合者の特徴は、考えることも、考えてしゃべる言葉も少ないということだ。社会のご機嫌とりになるせいでね。それはまぎれもなく人間としての堕落だ。皮肉だね。だからいつも自分の非適合を愚痴っていないと、自分の正体を忘れてアッパラパーな〈適合者〉になってしまう」
 私は手を挙げて、
「ゲソ焼きもください」
 腹がへっているので、めしのようにどんどん食う。
「いつか、山形に遊びにきませんか? 和子さんたちもいっしょに」
「それは無理だろうね。ぼくだけなら折を見ていってもいいな。うまいもの食わしてくれる?」
「もちろん。家庭料理も食べさせてあげる。夏なら、ダシ、玉コン」
「何、それ」
「ダシというのはね、ミョウガ、キュウリ、ナス、生姜、紫蘇、ネギ、青南蛮の七種類の野菜をみじんに刻んで、醤油とカツブシで食べるもの。ごはんに載せて食べるとおいしいわよ。玉コンは、煮つけた玉コンニャクを串刺しにして、洋ガラシを塗って食べるの。山形のいろいろなお寺の沿道で売ってる」
「山形の寺と言えば、芭蕉の立石寺(りっしゃくじ)だね」
「そう。岩にしみいる蝉の声」
「山とか海を見る暇もあるかな」
「あるある。うれしいわ、みんな神無月くんを見て、飛び上がるだろうな」
 あっという間に食べつくし、ジョッキとつまみを追加注文する。キンキの煮付け、手羽先の唐揚げ、鮪頬肉のガーリック焼き。
「ああ、お腹いっぱい。こういうビールって酔わないのね」
「そう? ぼくはちょっときてる。さあ、帰ってコーヒー飲もう」
「うん!」
 ホテル街を見上げながら、
「花街というのは、いつまでたっても花街なんだね。名古屋の大門もそうだ」
「花って?」
「色ごと、情事のこと」
「女のからだがロマンになるなんて、女冥利に尽きるわ」
「女の団体や街並を抽象的に見たロマンはあるけど、女そのものに集中する愛がない。悲惨な感じがする」
 神泉までは十分も歩かなかった。詩織は腕を組んで幸福そうに歩く。
「このごろね、神無月くんの周りの女の人たちが、取り巻きじゃなく、自分そのもののように思えてきたの。どこかで神無月くんがその人たちを抱いてるとき、自分が抱かれてるような気がして……。神無月くんを想う瞬間、その人たちといっしょに想ってる感じ。神無月くんがその人たちに気持ちを注ぐときは、私にも注がれてる―」
「みんな同じようなことを言うよ。一心同体だって」
 詩織はうなずきながら、
「こういうことって、神無月くんを知った人でないと経験できないことだから、ぜったい人に明かしちゃいけないって、グリーンハウスで和子さんが言った言葉が痛いほどわかるの」
「いつそんなことを」
「神無月くんが唄ってるとき。それは秘密主義でも何でもなくて、私たちの幸せはもちろん、神無月くんの幸せを護る最高の防衛策だって」
「その防衛策のおかげで、いい目を見てるのはぼくだけだね。護られる一方で、護ってやることはできないんだ」
「ちがうわ。神無月くんはたいへんな苦労をして、私たちを護ってくれてるのよ。いい目を見てるのは、私たちのほう。一心同体だと思いながら、たった一人の人と付き合うだけでいいんだもの。心もからだもぜんぜんつらくない。みんな口を揃えて、抱いてもらえるだけで感謝してるって言う。その意味が、つくづくわかってきた。神無月くんは、何人もの女の人に心もからだも配らなくちゃいけない。それだけでもたいへん。このうえマスコミなんかにいじられたら、神無月くん、疲れきってパンクしちゃうわ。きょうも新聞記者が、金太郎さんの女性関係はどうなってますかなんて、何気なく訊いてきて、あ、和子さんが言ってたのはこれだなって思った。知るわけないですって答えたわ。隙あらば、そこから切り崩して足を引っ張ってやろうって感じ」
 私は喉で笑いながら、
「そういう悪意が出てくるのは、もう少し先の話だと思うよ。いまはヒーロー造りの段階だから、盛り立てるのでいっぱいじゃないかな。愛情に包まれた男女関係は、常に誇れるものだけど、曲解する人には知られないほうがいい。これからも、その種のことを訊かれたら、とぼけて首をひねってればいいさ。プロにいって地歩が固まれば、たとえいっしょのところを見られても、スキャンダル的なご愛嬌ですむ。なるべく知られないほうが生活に支障は出ないけどね。他人の引き起こす厄介ごとのせいで、別れた、切れた、なんてのがいちばんつらい」
「そうならないためにも、私たちがスクラム組んで、鉄壁の守りを築かないと」
「うん。ぼくもがんばる」
 体格のいい壮年の管理人に礼をして入る。男は律義な礼を返し、ガラス戸からこちらをにこやかに見送っている。
「ここが女子寮じゃなくてよかったよ」
「たとえ女子寮でも、男子警備員なら見て見ぬふりをしてくれるでしょうね。管理人というのは、口が堅くないと住人から総スカン食らっちゃうから」
 エレベーターで三階まで昇る。
「あの管理人、以前とちがうようだけど」
「新しく雇われたみたい。勤務も十一時までに延びたの。女子学生も多いから、用心のためね」
 六畳の万年蒲団に戻る。ホッとする。少し大きめのカラーテレビ。
「日本シリーズもカラーで観たかったね」
「神無月くんのニュースが観たくて買ったから、ほかの番組はどうでもいいの。三年後には全番組がカラー化されるようよ」
 机のある八帖の洋間をあらためて眺める。床に書物が散乱している。専門書ばかりだ。
「将来のための勉強、進んでる?」
「なんとか。亀の歩みで、いろんな分野の学術書をこつこつ読んでる。こんなものばかり読んでると、どんどん情緒が削れていくわね」
「考えすぎだな。情緒に関わりのない本を読んでるというだけのことだよ。学問にかぎらず、そういう不安を引き起こすような行動はいくらでもあるけど、個人の情緒の妨げにはならない。学者たちが、感情が希薄のように見えるのは、彼らがそういう先天的な気質を持ってるか、希薄なフリをしてるかのどちらかだ」
「そう言われると安心する。お風呂に入りましょ。頭、洗いたいでしょう?」
「うん」
 詩織は全裸になって浴槽を洗った。豊かな乳房が揺れる。私も全裸になり、四つん這いになって洗い場の床を磨く。
「おもしろーい! タマタマってそうなってるんだ」
 尻から眺めていた詩織が福笑いのオカメような三日月目で笑う。
「右と左の大きさがちがう。長さも」
「一つに丸まっちゃうこともあるよ。さあ、とにかく洗っちゃおう」
 シャワーをかけて、ぬめりが取れていることを足の裏で確かめる。湯を埋めていく。
「見せて、見せて、後ろから」
 もう一度四つん這いにさせられ、じっと観察される。詩織はため息をつくと、肛門を舐めてきた。尻をさすっている。
「くすぐったいよ」
「何もかも、きれい」
 陰茎を握ってくる。彼女の掌の中で体積を増していく。
「愛してるわ、ぜんぶ」
 私も詩織を四つん這いにさせ、肛門を舐める。
「くすぐったい?」
「ううん、女はちがうの。……気持ちよさに直結……あそこに指を入れてみて」
 かすかに動いている。
「ね。直結でしょ?」
「入れる?」
「入れて……」
 膝を立てて、ゆっくり挿入する。
「ああ、壁を押してくる。郷さん……郷さん……愛してる」
 睦子と同じように郷さんと呼ぶ。緊縛が強くなる。
「イ、イク、イク!」
 抜いて、自由に痙攣させる。私は掌に石鹸の泡を立て、ふるえている背中と尻を洗う。湯をかける。詩織は正座の形になり、ぺろりと舌を出し、
「イッちゃった」


         二百五十三

 溜まった湯に二人で浸かる。紅潮している顔が愛らしい。腹に手を当てる。
「まだ気持ちいい?」
「うん。こういうとき、女って何だろうって思う」
「男だって同じだよ。それだけの生きものになっちゃう。愛のない場合も、きっと同じだろうな。でも、快楽は愛情があってこそのプレゼントだ。愛し合っていれば、生理的な反応が終わると愛情が立ち返ってくる。愛のない者には立ち返ってこない。愛し合ってないもののセックスは不幸だ」
 詩織が抱き締めてくる。キスをする。
 シャワーで頭を洗う。足もとで詩織が片膝になって、首にシャボンの泡を立てている。絵のように美しい。髪が案外長いのに気づく。その髪にもシャンプーの泡を立てる。浴槽の湯を桶で掬ってかける。
「はい、床几に座って」
 私の背中を掌でやさしく洗う。皮膚が弱いことを知っている。振り向かせて、首、耳の裏、胸、腋の下、腹、陰部、太腿と泡をたてる。足の裏に軽石をかける。カズちゃんと同じだ。女の普遍性を感じる。
「あ、爪が伸びてる。お風呂から上がったら切りましょ。スパイクで変形しちゃう」
 全身に湯をかける。私を湯船に入れ、洗い場から手を伸ばして耳たぼを指先で洗う。私の手を取り、
「指の爪は伸びてないわ。さすが野球選手ね」
 安心してバスタブに入ってくる。
「あしたは早いの?」
「いつもどおり。十一時までに入って、四時ぐらいまでかな。それからブラバンとバトンの練習も見にいかなくちゃいけないし。黒屋さんが来年は仕切るんでしょうけど、アイデアは私とムッちゃんに頼りっきり」
「来年、いい後輩が入ってきてくれるといいね」
「今年の評判で、マネージャーが十人にもなったら困るわ」
「部員とちがって、なかなかフルイにかけられないだろうね。部員のほうは確実に五十人を超えるよ。那智や野添みたいな掘り出し物がいればいいけど。五人いれば、ダントツで二年連続優勝が可能になる」
「それは望みすぎ。東大生よ。ほとんど受験の憂さ晴らしをしようとしてる素人なんだから」
 風呂から上がり、詩織はパジャマを着た。私はランニングとパンツ。
「あ、少しオシッコで黄色くなってる。待ってて、いま買ってくる。三十分ぐらいで戻ってくるから、本でも読んでて」
 パジャマをワンピースに着替え、バッグを持って出ていった。九時を回っている。商店街に開いている店でもあるのだろうか。私は裸になって蒲団に入った。鈴下監督から受け取った茶封筒から二枚の紙を取り出して眺める。名前、住所、捺印、それだけだ。あした荻窪でじっくり書きこむことにする。ダッフルに収める。
 テレビを点ける。オリンピックの成績発表。替える。ドラマ。なんだか企業内の権力闘争を描いているようだ。しばらく観て替える。コマーシャル。腕白でもいい、たくましく育ってほしい。大きいことはいいことだ。
 詩織は二十分もしないうちに戻ってきた。息を切らしている。紙袋にドッサリだ。
「五組ずつ買ってきたわ。靴下も」
「こんな時間に開いてるの?」
「仲通り商店街は十時ぐらいまでやってるの」
 下着の上下を脱がせ、すぐ履き替えさせる。足の爪切りにかかる。
         †
 十月二十一日月曜日。曇。十三度。軟便、シャワー、歯磨き。
 ダッフルから取り出した書類を詩織に見せ、その場で名前と住所だけボールペンで書きこむ。詩織がつくづく眺めている。窓の外の木立が揺れている。
「ムッちゃんと監督のファインプレーね。あ、学籍番号と中退理由を書き落としてる」
 学籍番号を書く。中退理由は、プロ野球入団のため、と一行書きこむ。
「藁半紙みたいな紙ね。ふだんの試験用紙より粗悪。こんなもので人の進路が……。神無月くんの判子なら持ってるわ。春に本郷の大きな文房具屋さんで買ったの。神無月くんに飾り判子を作ってあげようとしてたころよ。結局ローマ字で彫っちゃったけど。めずらしい苗字だからめったに売ってないの」
「それ捺しとくよ」
 判を捺して、もう一度、中退届と代理人申請用紙の名前と、学籍番号と住所、捺印を確認する。中退理由欄もきちんと確認して、茶封筒に入れる。ダッフルにしまおうとすると、
「私が監督に渡しておくわ。郷さんに持たせてると心配」
 詩織に手渡す。彼女はしっかりとバッグにしまった。
 冷えびえとした曇り空。朝八時、詩織といっしょに渋谷に出て、井之頭線口のレストランでエビフライとライス。山手線で池袋に向かう。
「いま何本だっけ」
「十八本。二十号ギリギリね。六割はどうかしら?」
「たぶんいける。打点もだいじょうぶ。二季連続三冠王だ」
「パレードの座席はそのときに指示されると思います」
「わかった。午後から練習に出るよ」
「了解」
 池袋のホームで手を振って別れた。詩織は何度も振り返りながら階段を降りていった。
 馬場経由で東西線で高円寺に回って、千佳子からユニフォームを受け取り、石手荘に戻る。御池に三十一日の午前に引越しする旨、電話で伝える。
「木曜日だけど、だいじょうぶ?」
「いつでん、だいじょうぶです。田中という男と荻窪のアパートにいきますけん。九時ごろでよかですか」
「バッチリだ」
「神無月さんのことが連日でデカデカと新聞に載っとります。鼻の高か。土曜日の立教戦、松尾さんたちと観にいきます。神無月さんの勇姿ば見るのを楽しみにしとります」
「ありがとう。精いっぱいやるからね」
 ダッフル担いで本郷に向かう。とんぼ返り。四時までみっちり練習する。練習後に鈴下監督が部室にやってきて、
「上野から書類を受け取った。学生課にちゃんと提出したからな。あとは運否天賦だ。心配しすぎるんじゃないぞ」
 と強くうなずいた。
         †
 十月二十二日火曜日。七時半起床。洗面、ふつうの排便。曇。十二・五度。風強し。
 善福寺公園まで往復七キロのランニング。青梅街道をひたすら西へ。荻窪郵便局、荻窪警察署、荻窪八幡神社。街道沿いに石鳥居が見えたので入ってみる。古びた石の狛犬が一対、すっきりした灯籠が二基。参道に緑があふれていてすがすがしい。美麗な拝殿へ。周囲は回廊になっている。新しそうな大ぶりの狛犬のそばに、道灌槇(まき)という樹皮の剥げかかった樹齢五百年の神木が侘びしげに植わっている。
 立派な神門をくぐって手水舎へ。石の水槽の真ん中に、小さな一対の狛犬が突き出している。めずらしい。能楽殿。ふたたび鳥居。脇に円形に刳り抜かれた石の輪があり、不思議な思いで眺める。厄払いのための門のようだ。通りがかりの参拝客に訊くと、祓(はら)い門と教えてくれた。
「三度くぐってからお参りするんですよ」
 二つ目の鳥居から生垣を透いて道路が見えたので青梅街道へ引き返す。
 イチョウ並木をふたたび西へ。五分ほど走ると、井草八幡宮の大きな赤鳥居があったので、これにも立ち寄る。樹林の奥までつづく参道が長いので、入口からは社殿の類は見えない。参道を歩いていく。厳かな赤い建物が見えてきた。巨大な楼門だ。黒澤映画で観た羅生門そっくりだ。通り抜ける。広い敷地が展がる。ぐるりと散策する。小さな本殿がある。杉並区内最古の木造建築物と書いたタテカンが立っている。狛犬を控えた端然とした神門をくぐる。拝殿。短い石段を昇り、思わず百円玉を放る。拝殿を取り囲む回廊の古色がいい。もう一つの赤鳥居を抜けて、善福寺公園を目指す。到着。上の池の周囲の遊歩道を走って一周し、帰路に着く。
 一時間余りで石手荘に帰り着いた。空地で一連の鍛錬。本郷に向かう。第二生協で遅い朝めし。天丼とかけうどん。
         †
 金曜までまじめに練習に出た。高円寺にもどこにもいかなかった。めしは近所の喫茶店と食堂ですました。
 少しずつ段ボール箱に本を詰めはじめた。ベストセラー本やカッパブックスはゴミ出しに回す。いのちの記録が目に入った。もう長いこと書いていない。書き出した小説も、机の上に放りっぱなしだ。原稿用紙をまとめてダンボール箱に入れる。いずれ一から書き直しだ。
 東京での映画の見納めのつもりで、練習帰りに毎日、二番館、三番館に寄った。ハシゴすることもあった。二、三本立てがふつうなので、十本は観た。入場料は百五十円から三百円のあいだ。
 立ち寄った映画館は、テアトル新宿(ネバダ・スミス、脱走特急)、池袋文芸坐(一階が邦画館、二階が洋画館になっていた。ここではハシゴをして、一階で座頭市血煙り街道だけを観たあと、二階でバルジ大作戦とプロフェッショナルの二本立てを観た)、高田馬場パール座(パリは燃えているか、夕陽のガンマン)、早稲田松竹(絶唱、大冒険、クレージー大作戦)、早稲田アクトミニシアター(黒部の太陽、日本のいちばん長い日)。これだけ観ればしばらく映画に餓(かつ)えることはないだろう。
         † 
 十月二十六日土曜日。七時半起床。十二・二度。抜け上がるような青空。バットを持って草はらの公園まで走り、素振り百八十本、三種の神器、周回三回。石手荘に戻り、薄っすらとかいた汗を濡らして絞ったタオルで丁寧に拭く。
 十時。ブレザーに着替え、ダッフルを担ぎ、素足に運動靴を履いて高円寺に向かう。緊張気味の三人の女に出迎えられ、キッチンでコーヒー。カズちゃんが、
「とうとう、歴史が作られる日ね」
「緊張するワァ」
 千佳子も両手を握り合わせながら、
「緊張します!」
「ユニフォーム二着と、アンダーシャツ二組、タオル、グローブ、それから帽子。ダッフルの中身オーケー。スパイクと運動靴は紙袋に入れて、と」
 口に唱えて詰める。
「おかしい。キョウちゃんも緊張してるのね」
「そりゃそうさ」
 コーヒーの残りを流しこむ。
「十二時過ぎに五人でネット裏に入ります」
「ときどき手を振るよ」
 正午、記者団とカメラでごった返す赤門前からバスで神宮球場へ向かう。大手新聞社のカメラマンが数人、特別につき随った。携帯ラジオのイヤホンを耳にした白川が興奮して叫ぶ。
「法明戦いま七回です。法政が、九対一で負けてます」
「ワチャ、チャ、チャー!」
 横平が叫ぶ。中介が雷同して、
「法政が負けたら優勝だ。歌いけ、歌いけ!」
 カラオケのマイクをやり取りしながら、みんなあえてリラックスしようとする。番が回ってきたとき、私は宮中の岡田先生のドンブリバチを歌った。フラッシュが光る。

  優勝 きたかよ
  東大の お庭には
  ドンブリバチャ 浮いた浮いた
  ステテコ シャンシャン

 旋律を知っている仲間たちが案外多く、たちまち合わせはじめた。

  ミラクル きたかよ
  東大の お庭には
  ドンブリバチャ 浮いた浮いた
  ステテコ シャンシャン
  
「快晴。雲一つなし。気温二十一度。風なし。白川、応援団とバトンにあまり浮ついたパフォーマンスをしないように、しっかり言っとけ。品格を保てとな」
 鈴下監督が声を張った。
「わかりました!」
「上野、水は用意してあるな」
「はい!」
 詩織が甲高い返事をする。
「打点を挙げたやつの頭に、水をぶっかけるぞ」
「ウィース!」



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