四十 

「福田さん、きょうの新聞の話題は?」
「取り立てて、事件といったものは何もありませんでした。東大だけじゃなく、東京教育大学も入試が中止になるという噂です」
「プロ野球は?」
「中日スポーツを買ってきました。今年のベストナインが発表されてます」
 私は新聞をめくって、その項目を眺めた。

  セリーグ  投手・江夏豊
  捕手・森昌彦
  一塁手・王貞治
  二塁手・土井正三
  三塁手・長嶋茂雄
  遊撃手・黒江透修
  外野手・江藤慎一、ロバーツ、山内一広
  パリーグ  投手・皆川睦男
  捕手・野村克也
  一塁手・榎本喜八
  二塁手・ブレイザー
  三塁手・国貞泰汎
  遊撃手・阪本敏三
  外野手・土井正博、張本勲、アルトマン


 ロバーツ、国貞、阪本の三人の名前を知らなかった。私は春雨のピリ辛煮に舌鼓を打つ。
「江藤はやっぱり実力者だね。ベストナインの背番号を奪ってしまった以上、チームメイトにイビリ殺されるのを覚悟しなくちゃ」
 福田さんがしきりに二人の小鉢に煮え上がった具を盛ってやりながら、
「才能がちがいます。不平を言うほうがおかしいんです。たしかに江藤さんは、昭和三十九年、四十年と、長嶋さん、王さんを向こうに回して首位打者を獲っています。そうなると、弱い人間の浅はかさ、いま以上に精進することを忘れて、チーム内でもわがままに振舞うようになるし、もっとお金を儲けたいという気にもなります。自動車整備工場まで経営するようになって、実業家気取りです。その工場は赤字だそうです。水原さんはそういうわがままな、欲にたけた人間は大嫌いなんです。そこへ清潔な神無月さんが入団したんです。今年かぎりだ、来年はトレードに出す、せいぜい今年は神無月を見て人間を磨けと言ったそうです。水原監督はいろいろな新聞雑誌のインタビューで、生まれて初めて人間というものに惚れた、高潔さで神無月にすぐる者はいない、世間で神無月はわがまま者と言われているが、彼の場合わがままというものではなく、付和雷同による非効率の否定であって、じつに理にかなっている、と神無月さんのことを絶賛しています」
 キムチ風味の豆腐がうまい。私たちの会話の様子を眺めていた詩織が、
「福田さん、すごい。実質的なマネージャーなのね。そして……」
「はい、ご想像のとおりです。神無月さんのおっしゃることなら、物理的にできないこと以外は、何でもいたします。二十年禁欲しろとおっしゃればそうしますし、三十分ごとにセックスしろとおっしゃればそうします。ただ短い間隔ですると、からだの自由が利かなくなりますので、神無月さんに迷惑がかかります」
 チゲ鍋にいそしみながら言う。黒屋が不安げな顔をした。詩織が、
「神無月くんのこと、心から愛してるんですね」
「はい。死ぬほど。五十三年間生きてきて、初めてのことです。まだ遇って何週間にもならないのに」
「お仕事はお手伝いだけ?」
「それだけでじゅうぶんな給料をいただいてますけど、自宅で少し英語の翻訳もしています」
「英語ができるんですね。大学はどちらを?」
「津田塾の英文科です」
 二人は福田さんを見直したように眺めた。鍋の具が足され、三人の関心が唐揚げに移った。黒屋は真剣な顔になり、
「……離れられなくなるとおっしゃってましたけど」
「はい、からだに拘るだけの問題なら簡単です。神無月さんのからだを好むたいていの女はきっとそうなると思いますから。からだに拘らない人ならそのかぎりじゃないでしょうね。離れられるでしょう。私も拘りませんが、離れられません。からだは慣れると言いました。心は慣れません。そう言うことで神無月さんの心のすばらしさを伝えたかったんです。私はからだに拘っていませんが、神無月さんから離れられません。黒屋さんは、神無月さんに抱いてもらえればそれで悲願成就、すてきな思い出ができると思ってたでしょう。神無月さんに抱かれるんですから、もちろんすてきな思い出になるにきまってます。からだは慣れますから、遅かれ早かれ未練は残らなくなります。でもくどいようですけど、それではすまないんです。神無月さんのきれいな心から離れることができなくなって、ものすごい未練が残ります。それだけに、神無月さんと契ったあとは、心を純粋に保ちつづける努力をしなくてはいけないんです。距離と時間を超えて愛しつづけるんです。からだの欲望に耐えるなんて努力は、それに比べれば何ほどのものでもありません」
 詩織が激しくうなずいた。福田さんは春雨を白米の上に載せた。箸で柔らかく混ぜている。ふと気づいて、鍋を載せたコンロの火を弱めた。生まれて初めて食うチゲ鍋は、えも言えぬほどうまいものだった。唐揚げと春雨の煮物も絶品で、私はめしを三杯お替りし、女たちも二杯お替りした。
「ごちそうさま」
 みんなで箸を置き、玄米茶になる。
「詩織さんはだいぶ神無月さんにかわいがってもらってるとわかります。からだが目覚めて、ますます心の重要さを感じるようになった表情をしてますから」
「はい。どんなに離れていても、神無月くんさえ生きていれば、ほかに何もいらないと思うようになりました」
「私も、この家の持ち主の菊田トシさんも、和子さんたちもみんな同じ気持ちです。だから、神無月さんをじっと待つことは何でもありません。ただ、距離が遠くなるのがつらいんです。東京へ神無月さんを追いかけてきた人たちがみんな、名古屋へ引き揚げていくのはそのせいです。私はここにいて待つだけにしようと決めました。私は凡人です。身軽でないので、係累を捨てられません。あと二十年も人生があるかどうか―待っていてあと何回神無月さんに会えるかしら……それを思うと、毎晩泣けます」
 三人の女が片づけに立った。詩織はシンクへ立っていって、福田さんを抱き締めた。
「そろそろ私、帰る時間です。詩織さん、あかりさん、ありがとうございました。神無月さんと楽しい時間をすごすことができました。感謝してます。きょうはこのへんで失礼して帰ります。詩織さん、あかりさん、廊下の奥の右がお風呂です。よろしければお湯を溜めて入ってください」
「はい」
「洗った食器はこの布巾で拭いて、キッチンテーブルに積んでおいてくださればありがたいです」
「はい」
「お泊りになったときのために、寝室にお蒲団を二組敷いておきます。お休みのときに寒くないように、毛布と掛蒲団を二枚ずつ用意しておきました。じゃ、お休みなさい」
「お休みなさい」
 福田さんは玄関戸を引いて出ていった。詩織が、
「さびしそう……」
「女はみんなさびしそうだよ、カズちゃんでさえ、さびしそうに見えることがある」
         †
 居間で二人に付き合ってテレビを観た。東京バイパス指令第三回、目には目を。詩織がコーヒーをいれた。青春とは何だの夏木陽介と、でっかい青春の竜雷太の青春先生コンビが、潜入捜査官役。彼らの上司は七人の侍の久蔵を演じた宮口精二。さらにその上司は、たしか黒澤の生きるに医者役で出ていた清水将夫。彼らはマスコミ研究所のルポライターという触れこみで〈潜入捜査〉をしている。事件が発生すると捜査命令がくだり、警察手帳も拳銃も持たない特命刑事として行動するというものだ。研究所の一階はスナック・ポロ。白川由美と柏木由紀子姉妹が切り盛りしている。構図だけであほらしくなる。自然と会話になる。
「先輩、ご両親に何か期待されてる?」
「そうねえ、二人とも国学院大学の教授だから、私には学問してほしいんじゃないかなあ。私はイヤ。学問の才能はないし、教育の才能もない。服飾の仕事をしたいわ」
「そう言えば、バトンの衣装のデザイン、ぜんぶ先輩がしたんですよね」
「うん、張り切っちゃった。あと一年、度肝を抜くようなデザインを考えつづけるわ。卒業したら、石津謙介に弟子入りしようと思うの。非現実的なデザインじゃなく、できるだけ実用的な服を作りたい」
「その人、だれですか」
「もう還暦に近いお爺さんだけど、偉大な人よ。ヴァンブランドを打ち出した人。アイビールックて聞いたことあるでしょ?」
「アメリカのアイビーリーグ、ハーバードやエールの学生服のことですね。三つボタンのブレザー、ボタンダウンのシャツ、細い綿パン、ローファ。その格好をして銀座のみゆき通りをゾロゾロ歩いたのが、みゆき族」
「そう。国鉄やサンケイアトムズのユニフォーム、警視庁、日本航空のユニフォームも彼がデザインしたの。モットーは衣食住のライフスタイル」
「いいじゃないですか、先輩。ぜひそういうお仕事をしてください」
「うん、がんばる」
 私は、
「黒屋さんは理科Ⅱ類?」
「はい、農学部です。東大の理系ででいちばん入りやすかったから。一応東大に入っておくかの口です。やりたい仕事とはぜんぜん関係ありません。東大を出ておけば、一目置かれて、就職もしやすいので、とにかく出ておきます」
 ニュース。深夜映画パームスプリングの週末。シクスティ・リーズンのコニー・スティーブンスが出ているのに驚く。私の六十年代ポップスの話が始まる。彼女たちが興味深げに耳を立てる。そんなうちに、二人どちらともなく眠くなったようで、床に就いた。私は離れに戻った。望まない事態は避けられた。心底ホッとした。
         †
 土曜日の朝。七時起床。下痢、シャワー、歯磨き。キッチンで福田さんと女二人が朝食の仕度をしている。井之頭公園をひとっ走り。庭で素振り百八十本。三種の神器はなし。
 おろし納豆と伊豆のヒラキ、海苔、目玉焼き、豆腐と油揚げの味噌汁。みんなの箸が活発に動く。
「いま八時。きのう寝たの、何時でしたっけ」
 朝食の席で詩織が黒屋に尋く。
「十時過ぎにニュースを見たあと、十一時から深夜映画を流しながらお話して、一時半くらいじゃなかった? 自然に寝ちゃったからわからない」
 福田さんが、
「神無月さん、きょうはジムの初日ですよ。何時からですか?」
「指定時間は十時からだけど、三百円払えば、時間をずらして自由にトレーニングできるんだ」
「でも遅刻しちゃだめですよ」
「うん、初日だからね。ジャージ出しておいて」
「はい。もう用意してあります」
 詩織が、
「どういうコースにしたんですか?」
「生活力アップコース。響きがいいだろ。心肺機能、筋力重点というのはこのコースしかなかったんだ。じゃ、いまから出かけるから」
 黒屋が、
「私たちも帰ります。あさって球場で待ってます。今度お訪ねするときは、神無月くんの都合を電話で確認してからきます」
「来年の春以降だね」
「はい。名古屋へはめったにいけないと思います。機会があったら、詩織ちゃんとお訪ねします。一年に二回ぐらい」
 詩織は短い口づけのあと、
「用事があるときは電話してくださいね。飛んできます」
 詩織と黒屋が私の首に抱きついた。それから交代でトイレへいった。福田さんがにこやかに、
「では、きょうは一日お休みにさせていただきます」
「うん、ゆっくりやすんでね」
「はい、失礼します」
 三人打ち揃って帰っていった。六時間と少し……。睡眠が足りているとは言えない。


         四十一

 ジャージを着、運動靴を履いて、南町にあるNASという名前のジムにいく。フロントに会員証を出して、コース指定の広々としたトレーニングルームに入る。マシーンの名前と使い方をひととおり教わる。
 持久力向上のために、トレッドミルという器械を上り坂と平地に設定して計三十分、アブドミナルとやらで腹筋百回、ロウアーバックで背筋百回、チェストプレスで大胸筋百回、ラットプルダウンで広背筋二十回。一区切りごとに休み休みやったが、この面倒くささは、一週間に一回程度でないと耐えられない。
 一時間半で汗みずくになった。これを週に一回、あとはふだんの自主練習でじゅうぶん体力は維持できると確信した。サービスとして設置されている浴場で頭を洗い、ジャグジー風呂で濃い汗を剥がしてから帰った。帰路の途中、雑貨店で繊細な温度計を買う。下駄箱の横の柱に小釘を打ってぶら下げた。十七・一度。これまで使っていた大雑把な寒暖計を離れに掛けた。
 新しい下着とジャージに着替え、机に向かう。五百野が五十枚ほどまできた。語彙の選択と、言葉の羅列の精妙な仕組みを感じはじめた。内容に対する関心が希薄になるので、よくない傾向かもしれない。
 三時を過ぎて玄関チャイムが鳴った。クボタさんのバットが届いたのだなと思い、出てみると、背広姿の男が二人立っていた。榊スカウト部長と、肩に重そうな荷袋を担いだ見知らぬ青年だった。二人深々と辞儀をする。
「榊さん! どうしたんですか。何か不都合なことでも」
「いえ、万事、きわめて順調です。水原監督、村迫球団代表はじめ、経営上層部の獅子奮迅の活躍のおかげで、CMを要望する各企業や、相変わらず茶々を入れてくる他球団への説得も順調に進んでおります。マスコミ各社にも誇大報道をしないよう釘を刺しましたので、何も心配することはございません。身辺にもマスコミの影は見えないはずですが」
「そのとおりです。ご尽力に感謝します」
 小柄な青年は長い布袋の荷を足もとに下ろした。ひょっとしてと思った。
「そちら、久保田さんですか?」
「はい、きょうは、久保田さんご本人をお連れしました」
「ミズノ養老工場に勤める久保田五十一(いそかず)と申します。五十一と書きます。当年二十五歳の若輩者です」
 榊が、
「いやあ、久保田さんは頑固者でしてね、一度神無月さんにお電話差し上げたが、バットを郵送ですまして選別していただくなど、球界をしょって立つ偉大な選手に対して失礼この上ないとおっしゃって、神無月さんのお宅へ連れてってくれ、自分の目の前でバットを選んでいただく、神無月選手がバットを握り、スイングする全体の形をこの目に記憶しておきたいと―」
「ありがとうございます!」
 私は前傾を激しくして腰を折った。
「そんなことをなさっちゃいけません。私は、あなたのことを諸処ほうぼうから耳にいたしまして、全身を殴られたように感銘しました。野球人としてはもちろんのこと、人格者としても敬服するようになったんです。私こそ地べたに這いつくばりたい気持ちです」
 上がるよう勧めると、
「バット作りは、一本一本の手作業ですから、時間がかかるんです。庭のほうでお話を伺わせていただきます」
 榊が、
「社の車で直接参りましたので、お話がすみましたら、すぐ引き揚げます」
「そうですか、どうぞこちらへ」
 二人を庭の縁先へいざなった。
「ほう、立派な庭ですね。きちんとバットを振る空間を取ってある」
「名古屋も、これ以上の家になるはずです。選手寮には入りませんので悪しからず」
「承知しております」
 私に並ぶように榊を縁に坐らせると、久保田は二人の目の前にしゃがんで袋を開け、五本のバットを次々と取り出して地べたに並べた。
「かならず、すばらしいバットをお作りします」
「よろしくお願いします」
 私は地面に両膝を立てている彼の頭頂部に語りかけた。
「久保田さん、ここに坐って、あなたの言葉を聴かせてください。ぼくは人の言葉を聴きたいタチなんです。言葉に動かされることで、義侠心みたいなものを湧かせるんです。それが生きるエネルギーになります。ものごとをやりつづけるエネルギーになります。昔話でも何でもいいですから、五分もしゃべっていただけばじゅうぶんです。それからじっくりバットを選びます」
「わかりました。それじゃ」
 と言って、久保田は立ち上がり、私の隣に腰を下ろした。榊と久保田で私を挟む格好になった。
「……十六歳で勤めについて以来、ある程度のバットが作れるようになるまでに五年かかりました。入社して二年目に父親が死にましたが、そのときにいい言葉を遺してくれました。―他人の仕事はよく見えるものだ。しかし、周りを見る必要はない。仕事はどんな職種を選んでも同じだ。目の前の仕事で日本一になれば、命の使いどころを見つけたことになる―。だから私は、常に日本一を目指して仕事に打ちこんできました」
 私はとつぜん湧き出した涙を掌で拭った。二人の男は意外な私の反応に驚き、釣られて薄っすらと感激の涙を浮かべた。
「今年から、プロ野球選手のバットを作らせてもらえる部署に異動しました。自分が日本一になるばかりでなく、大選手のバットを作るというのが目標になりました。抜きん出た選手というのは、野球の技術が高いばかりでなく、探究心が深く、好奇心が強く、人格的にも神無月さんのようにすぐれているものだと知りました。……どうかこのバットを手に取っていただいて、いちばん残したいところと、いちばん変えたいところをおっしゃってください」
 私はバットのそばにいってしゃがみ、一本一本のバットを握った。気に入った一本を取り、ゆるく振り回した。それは握りのいちばん細いものだったが、もう少し太ければと思った。ほかの四本も手に取り、ゆるく振ってみた。重心や先端の芯部分の太さは最初のものが申し分なかった。最初のバットで二十回ほど強くスイングした。わずかに軽い。不思議なことに、握りが手のひらに馴染んだ。これでよかったのかもしれない。飛んでいく打球の軌道と舞い上がる角度までイメージできた。
「これです。足すところも引くところもありません」
 榊が口をあんぐり開けていた。久保田が蒼白な顔で、
「……これほどとは。天才どころではない。まさに天馬です。スイングが見えなかった」
 大粒の涙を流しながら言った。
「貴重なものを拝見させていただきました。しっかり目に焼きつけました。ほんの少し軽そうに振ってらしたので、そのバットをあと十グラム増やします。握るときに少し躊躇が見えました。ほんの心持ち太いほうがよろしいんですね」
「そのとおりです!」
「円周を二ミリほど長くして、キャンプ開始までに三十本作らせていただきます。それから三カ月ごとに三十本、年間で九十本ほど作らせていただきます。全身全霊で努めさせていただきます。さらに数ミリ握りの太いバットを二十本、七月にお送りします。夏場など体力が落ちているときに使われるバットになさればいいでしょう。きょうは運動なさったあとのようでしたので、恐らくお疲れだったのだと思います。そういうバットを、その重さのまま、三十本お作りします。疲れていると感じるときにお使いください。きょう選ばれたバットは進呈します。練習にお役立てください」
「ありがとうございます」
 三人固い握手を交わした。久保田は残りのバットを袋に入れて肩に担いだ。車まで送っていった。住宅街を避け、緑地のそばに停めてあった。運転手が出てきて、久保田の袋を受け取り、トランクにしまった。榊が、
「感動いたしました。しばらく夢に見そうです。久保田さんのバットで打つあなたの第一号ホームランを、一日も早くこの目で見たい。では、十二月の入団式で」
「魂魄こめて、作ります。お会いできてよかった。この日を終生忘れません」
 久保田はまだ泣いていた。二人後部座席に乗りこみ、もう一度深く頭を下げた。私も頭を下げた。車が緑地を抜けるまで見送った。
         †
 十一月二十四日日曜日。曇。十二・七度。
 久保田さんのことを報告しながら福田さんと朝めしを食う。めしのあとバットを示し、庭で振って見せる。
「鳥が羽ばたくよう。きれいです」
 福田さんが掃除にかかったのを見届け、今季レギュラーで固めた最終オープン戦に、平服を着て東大球場へ応援しにいった。吉永先生の引越しには顔を出さなかった。最後の応援にいってやりたい、と昨夜カズちゃんに連絡した。キクエさんは心配ないから応援にいってきて、とカズちゃんは言った。
 東大全共闘の手で封鎖されている本郷キャンパスはひっそりとしていた。白ヘルメットに学者眼鏡、無帽にジャンバー、タオルの襟巻きにサングラスといった連中が構内をうろちょろしている。恐ろしげな雰囲気はなかったので、講堂の中を覗いてみた。めしを炊くにおいがした。壁一面に書かれた落書きが目に入った。胸にきた。

 連帯を求めて孤立を恐れず
 力及ばずして仆れることを辞さないが
 力を尽さずして挫けることを拒否する


 球場に入ったころから空の高い快晴になった。部室の気温が十九度にまで上がっている。こないはずの男が現れたので、鈴下監督やレギュラーたちは大喜びした。三百人しか入れないバックネット裏スタンドが満員になり、応援団、バトントワラー、ブラバンはじめ、学部生たちの声援で球場全体が明るく盛り上がった。報道陣の姿はほとんどなく、フラッシュは数度しか光らなかった。たぶん安田講堂のバリケードから出てきた白ヘルや白覆面組も何人か観にきていて、しきりに拍手していた。中に女も混じっていた。彼らの喜ぶ姿に何の違和感も覚えず、野球というゲームの親和性を痛感した。
 自軍の攻撃のときにだけ肩身が狭そうに声を張り上げていた神奈川大学の応援席も、優勢に試合を進める東大チームのホームランが空に打ち上げられるたびに、遠慮がちに拍手した。可憐な五十人ほどの男女学生たち―とりわけ自軍の選手がホームランを打ってベースを回るとき、彼らはわれを忘れ、抱き合って喜んだ。
 十二時開始の試合が三時四十五分に終わった。オープン戦とはいえ、これまでで最長の試合時間だったと鈴下監督が言った。試合は十二対二で東大の圧勝だった。東大チームはホームランを七本打ち、岩田、野添、克己、臼山が一本ずつ、横平は五打数三ホームランだった。試合後の整列のときの声援の激しさから、観客たちが四時間近いあいだ心から楽しんだことがわかった。私はあらためて自分が生まれてきた意味を知った。一人の人間に多くの役割を求めることはできない。多くを求めると、すぐれた単一機能の美しさを保てなくなる。人は強く、美しく、一つの人生を生き抜くべきだ。
 さぶちゃんの五十円玉が浮かんだ。母と乗り継いできた列車がゴトリと音立てて停まったあのとき、私のきょうが準備されていたのだ。
 ―キョウちゃんみたいな子しかプロ野球選手になれないんだよ。つまり、天才というやつしかね。
 さぶちゃん、ぼくはプロ野球選手になったよ。ぼくの情熱を汲んで、周りがプロ野球選手にしてくれたんだ。一本道で強く美しく生きろと肩を押してくれたんだ。ほんとによかったねと、さぶちゃんに言ってほしい。ほんとによかったねと、パチンと手を拍ってほしい。さぶちゃん! 杉のように真っすぐで清潔なさぶちゃんに、そう言って喜んでもらいたいんだ。
         †
 オープン戦から帰り、風呂に入った。カズちゃんに電話して、吉永先生の新居の住所を確認する。
「節子さんのアパートから七、八分ぐらい駅寄りだったわ。今月いっぱいは荷物の整理にかかりきりね。カーテンなんかは手伝いにいってあげなくちゃ。みんなで家具とか、家電とか、プレゼントしたのよ。私は冷蔵庫、素ちゃんはガスストーブと炬燵、節子さんは大型洗濯機、法子さんはガスレンジと調理道具一式。ここより一回り小さい一戸建てかな。築五年だから、新築同然。庭はないけど、仮住まいだからじゅうぶんでしょう。節子さんがお風呂を楽しみにしてるのよ」
 福田さんといっしょに夕食を終え、吉永先生との馴れ初めからきょうまでの長い話をする。
「……すばらしい人ですね。二月の試験、きっと受かります。神無月さんに向かって一直線の人はぜったい失敗しません。神無月さんがオマモリになるんです」
 洋ダンスから適当に新品のワイシャツとブレザーを引き出して着、革靴を履く。吉祥寺駅まで二人で歩く。
「きょうは泊まってくるよ」
「はい」
「あしたはお休みにして。掃除洗濯も」
「はい。連れていらっしゃるかもしれませんものね」
「連れてこない。おたがい忙しい。じゃ、火曜日の朝ね」
「はい。お風邪を引かないように」
「わかった。いってくる」 
 吉祥寺駅の改札で手を振って別れる。


         四十二

 武蔵境駅に降り立ち、南口を出る。節子のアパートから七、八分手前、と唱えながら歩く。すぐに見つかった。閑静な住宅地を二曲がりほどした杵築大社前の道を隔てた空間にゆったりとした平屋が建っていた。花の木の家に似ていた。周りに塀はなく、玄関戸の前の砂利の敷地が駐車場の役目を果たしている。一角に一台分のカーポートまでついているのがむだに感じられた。
 窓に明かりが点いている。家の周りを囲む広い庭に木蓮の木が立っている。玄関の旧式の引戸がすがすがしい。戸を引いて声をかけると、奥の部屋からキャッという短い叫びが上がって、ばたばた先生が出てきた。短い廊下といい、台所の位置といい、やはり名古屋の花の木のカズちゃんの平屋にそっくりの造りだ。親しみが湧く。
「キョウちゃん、きてくれたのね! 十分も歩かなかったでしょう」
「うん、五、六分だった」
「ブレザー、格好いい」
「だれが買ってくれたのか忘れちゃった」
 キッチンに上がる。大テーブルが置いてある。立派な食器戸棚、壁に掛かった道具類、シンクも広い。
「ほとんどみんなのプレゼント。和子さんがぜんぶ引越しの手配をしてくれたのよ。八畳、六畳、六畳、四畳半の和室、台所が六帖、物置の板の間が四帖半、トイレは水洗、ガスのお風呂が五帖くらいあって、湯船も広いわよ。家賃二万二千円」
「敷二、礼一だと、今月の日割りを入れて、最初に九万円か。だいじょうぶだったの」
「キョウちゃんがときどき援助してくれたお金で足りました。ほかに貯金も三十万円くらいあったし、みんなが三万円ずつカンパしてくれました」
「あの変人のおばさん、あれからこなかった?」
「こないこない。自分以上の変人に会っちゃったから」
 四畳半の居間に入り、厚手の黒いセーターを着た先生と、大きな卓袱台に向かい合って坐る。やさしいクリーム色のカーテンから射しこむ街灯の光がやわらかい黄色に映る。部屋の中が陽だまりのように輝いている。先生は蛍光灯を点けた。
「カズちゃんが、カーテンつける手伝いにいかなくちゃって言ってたけど」
「こんなの自分でできるわ。きょうじゅうにやっちゃいました。ぜんぶの部屋を、このカーテンにしたの」
 魔法瓶から急須に湯を注ぐ。上から押すだけの新式のやつだ。
「いいところ見つかったね。引越しの後始末、たいへんだったろ」
「ほとんど和子さんたちがやってくれたわ。六帖の洋室の机や本棚は自分で据えたけど、箪笥や鏡台は家具屋さんが」
 居間の隣の六帖の洋室にいく。机の脇の本棚に、いつか葵荘の節子の部屋で見たような分厚い医学書が順不同に七、八冊並んでいた。
「もう一つの六畳のほうにテレビを置いて、寝室にしました。ベッドほしい?」
「いらない。蒲団がいちばん。それに、春には引越しだよ。……はい、五十万円。何も言わないで受け取ること。引っ越し祝いだから、ケチつけないで」
 しばらく封筒を見つめ、
「……大切に使わせていただきます。ありがとう」
 唇をふるわせ目を伏せた。
「半分、節子さんにあげたいんだけど……」
「ぜひそうして。勉強がんばってね」
「ええ。あと二カ月、お仕事と、勉強ばかり」
「あせらず、コツコツだよ。ぜったい受かるから」
 コクリとうなずく。机に淡く居間から光が当たる。先生が肩口に寄り、
「北向きだから、窓からの光が落ち着いてて勉強部屋にちょうどいいの。隣の寝室の窓は南向き。朝、柔らかい陽が当たるでしょうね。廊下の奥が広いトイレ」
 覗いてみると、引き鎖式の把手のついた新調したばかりのタンクだ。寝室を見る。
「あ、もう蒲団が敷いてある」
「キョウちゃんは万年蒲団が好きだから。砂利の庭に物干しを置いて、しょっちゅう干すようにするのでだいじょうぶよ」
 さびしさの翳りのようなものが丸い肩口によぎった。
「ごめんね。この一年、あまり逢えなかったね」
「そうじゃないの。私のほうこそ出かけていけなくて、キョウちゃんにすまないって思ってるの。山口さんやよしのりさんにも会いたいんだけど、なかなか」
「あたりまえだよ。キクエはだれよりも忙しく生きてるんだから。ぼくたちのことなんか気にしないで、うんと忙しくしてて」
「気にするのは、キョウちゃんのことだけよ。ずっとそばにいたいのに、毎日の忙しさにかまけて逢いにもいかずに、いつのまにかギョッとするほど老けちゃったら、キョウちゃんガッカリするんじゃないかなあ。それが恐いの」
「キクエは永遠に若いよ。たとえ外身(そとみ)が老けたって、ぜんぜんかまわない。ガッカリなんかしない」
 どの女にも私は同じことを言っている。
「先生は、社会に役立つ人だ。視野が広いうえに、人間として大事な、困っている人に共感する力を持っている。ぜったいこの道を進まなくちゃいけない。そして、できるだけたくさんの人を救うんだ」
「私は身近な人たちを治療してあげたいだけ。たくさんの人なんて、私にとっては本末転倒よ。キョウちゃんと生きるためのお仕事なの。私はキョウちゃんみたいに、黙っているだけで人を救える人間じゃないから。そういうお仕事に就いて、キョウちゃんにふさわしい女になりたいの。いつもキョウちゃんのそばでお仕事探すわ。そしてそこで触れた人を助けてあげるの。……晩ごはん食べた」
「食べた。女中さんを入れたからね」
「そうですってね。キョウちゃんのお世話ができるなんて幸せな人。晩ごはん、うんと食べちゃったの? 私、まだなの」
「ソバぐらいならすすれる。食事は毎日のことだ。さっそく一軒開拓しなくちゃ」
「きょう、ぜったいキョウちゃんがくると思ってたから食べなかったの」
「東大の最後のオープン戦が、長い試合になっちゃってね。それを観にいったら遅くなった。とにかく食い物屋を開拓しよう」
「このあたりぐるりと廻って、もう見つけてあるのよ」
 表へ出て、信号を一つ歩き、芳蕎麦という店に入る。二組の年配の客がいる。いいにおいがただよっている。先生は写真つきのメニューで天丼を注文する。
「海老に混じって白身魚の天麩羅が載ってるのがおいしそう」
「魚屋の娘としては見逃せないね」
 私はもりそば。
「上板橋では、病院の食堂と自炊ばかりでめったに外食はしなかったけど、ここでは外食が多くなりそう。最初の何カ月かは目の回る忙しさだと思うから」
「……先生が出たあと、上板橋の家はどうなるんだろうな」
「取り壊して更地にするんですって。大家さんが言ってたわ。何日か前から、土建屋さんふうの人が庭をうろうろしてた。なんだかさびしかった」
 天丼が出てくる。海老と白身魚を一口私に齧らせる。大きな海老は歯ざわりがよく、白身魚はとろけるようだ。
「うまいなあ!」
「やっぱり」
「今月の十日に、早稲田大学のソフトボール大会に駆り出されていってきた。早稲田といってもいろんな大学の混合チームだったけどね。心不全で倒れた学生がいたんで、試合放棄になった」
「たいへんだったわね。その人、死んだの」
「たぶん助かったと思う。彼の親友が連絡してこないのでわからないけど、ちょっとやそっとでくたばるやつじゃない。バンカラ早稲田の代表みたいな男だから。親友というのは御池という日大生なんだけど、硬骨漢ですばらしい情緒の持ち主だ。ぼくとも終生の付き合いになるかもしれない。荻窪から吉祥寺へ引越し荷物をトラックで運んでくれた。カズちゃんや山口とも、たちまち意気投合した」
「会いたいけど、そんなチャンスないでしょうね。みんな忙しいし。―とうとうプロ野球選手の生活が始まったのね」
「うん。それにしても、今回の入団は幸運だった」
「キョウちゃんの場合、どんなことも幸運とか不運じゃなくて宿命みたいなものよ」
「宿命なら驚かないけど、今回は驚いた。じわじわ驚きがこみ上げてくる感じだよ。きのうは、岐阜からわざわざバット職人まできて、最高のバットを作ると約束してくれた」
「驚くほどのことじゃないわ。だれだってキョウちゃんには最善を尽くしたくなっちゃうもの。お家をくれた菊田さんという人もそうよ。家どころか、命だってあげたくなっちゃう」
 だれもかれも同じことを言う。
「命はオーバーだよ」
「オーバーじゃないわ。吉祥寺のお家って、どれくらいの大きさ?」
 先生は入団契約やバット職人よりも、一人の女のプレゼントのほうが気にかかるようだ。
「平屋で、広い部屋が五つ、庭の中に離れが一つ。台所は広いし、風呂も広い。井之頭公園が庭のすぐ裏にあってね、散歩するには最高だよ。家の周囲も緑がいっぱい。緑をちょっと抜ければ、駅の繁華街に出る」
「すごいのね。遊びにいくのが楽しみ。法子さんみたいにキョウちゃんのそばに引っ越したかったけど、長い目で見ると、病院に近いところのほうが疲れが溜まらないの。出勤はほとんど毎日のことだし。名古屋でもそうするわ」
「当然のことさ。こうしてぼくのほうから訪ねてくるから、病院のそばに住んでればいいんだよ。キクエは暇な人間じゃないんだ。ときどきぼくのほうからいくし、キクエが逢いたくなったら、ふらりと訪ねてくればいい。それにしてもお風呂が大きくてよかったね。節ちゃんのことを気にかけてあげてたみたいだから」
「気兼ねして、三日にいっぺんくるって言うの」
「じゅうぶんじゃないかな。風呂なんか、しょっちゅう入るもんじゃないよ」
「そうね。名古屋に移っても、なるべく節子さんのそばで暮らすつもり」
「部署は決まったの」
「三つほどかけ持ち。内科、産婦人科、小児科。十二月一日からの勤務予定だったけど、あしたから早番で出てほしいって言われたの」
「頼りにされてるんだね。いいことだよ」
「正看の受験勉強も、思った以上にたいへんだし」
「先生はだいじょうぶ。やり遂げてしまう人だ。ところで高知のお姉さんは元気?」
「またお姉さんの質問? 変わりなく幸せに暮らしてるみたい。高齢出産だったけど、子供も無事に生まれたって」
 トモヨさんの顔が浮かんだ。
「そう、子供ができたんだ。よかったね。お姉さん、キクエより十一歳年上だったんだよね。三十五歳か。じゅうぶん子供を産める齢だよ。先生も産みたい?」
「お姉さんの歳になって、まだキョウちゃんに抱いてもらえたら、そのとき考える」
「そうだね……」
「今度のお休みの日、吉祥寺に遊びにいく」
「土曜日はお手伝いさんがこない。午前に土曜トレーニングのジムにいってるから、午後の一時には空いてる」
「日赤は土日がお休みだから、臨時の仕事が入らなければ土曜日にいきます。何か足りないものある?」
「ぜんぜん。そうだ、ワイシャツ二枚ぐらいと、下着五組。股引(ももひき)もお願い。長く机に座るから、下半身が冷える」
「わかりました」
「もりそばだけで腹いっぱいになった。じゃ、帰って―」
「はい……」
「どのくらいしてなかったかな」
「忘れました。そんなの気にしないでください」
 街灯の少ない夜道を帰る。
「節子さんを見てると、キョウちゃんの〈女〉が彼女から始まったということがつくづく胸に沁みて、大事にしてあげたくなるの。和子さんも同じ気持ちみたい。節子さんがいなかったら、キョウちゃんの初めての女になる幸運はなかったでしょうって言ってた」
「いずれにせよ節ちゃんは、十五歳のぼくに孤独に生き直そうと決意させた女だ。その決意の中で、ぼくは彼女に対してこれまで経験したことのない思いを抱くようになった。それはね、出遇ったころの詩的な恋心でもなければ、下っ腹の疼きともちがうし、いっしょに逃げ回ったときの自己陶酔と結びついた絶望ともまったくちがうものだった。どう言ったらいいかな、何か単純な、突き放した憐れみの感情みたいなもので、とりわけ節ちゃんの容貌を思い出すときに気持ちの基調をなすものになった。思い出すときの彼女は醜くはなかったけど、美しくもなかった。憐れみの感情を基調にしていなかったころのぼくはまったく正反対に記憶していた。絶世の美女としてよく思い出した。いま目をつぶると、彼女の顔がハッキリ浮かんでくる。ふくらんだ頬が二重の目を押し上げている。その目は意外に小さい。唇は厚く、ほとんど閉じたことがない。外股で歩く爪先はかわらしいけど、ふくらはぎの形がいいというわけじゃない。でも、その顔や姿がいやおうなくあのころのぼくを魅きつけたんだ。錯覚があったかもしれない。でも、錯覚なんか取るに足らないなことだ。あのころよりもはるかに彼女を愛しているという事実のほうが貴いんだ。きっと節ちゃんも同じだろうと思う。だからこそ彼女は〈ここに〉いるんだ」
「胸が締めつけられます。なんてやさしい……」
 あのころの節子の姿が、ありありと浮かんできた。受付のガラスの向こうに座っている白衣、ラムネを飲みながら仰向けた喉、水玉のワンピース、髪の影を落としている細いうなじ―そして、身をかがめて下着を穿く背中を思い出した。その何もかもが手の届かない思い出として遠ざかった。なつかしかった。


         四十三 

 すぐ蒲団の部屋に入る。枕もとのスタンドの笠が淡いピンクだ。先生の趣味。カーテンをクリーム色にしているのがうれしい。先生はカーテンを引き、明かりを消そうとするので、とめた。
「よく見せて」
 シャツとスカートを脱がせ、ブラジャーを外して、小柄なからだについている大きな胸を揉みしだく。遠慮のない声が上がる。その声の切実さから、長い飢餓状態が偲ばれた。私は下着を剥ぎ、全身を眺める。
「きれいだ……」
 いつもどうしても口に出してしまう。全裸になった先生のからだは、どの女よりもかわいらしい。その股間に軟体動物が蠢いているという感覚の矛盾が、何とも言えずいとしくなる。陰毛にキスをする。かすかにふるえる。軟体動物がぐっしょり汗をかいている。唇を吸い、指を使う。期待どおりの痙攣が始まる。指を舌に替え、すみやかに飢餓を解消してやろうとする。舐め、滲み出てきたものを吸う。たちまちからだが跳ね上がる。
「どんどん、強く感じるようになっていくの。怖いわ」
「愛し合ってれば、あたりまえだ。キクエがふるえてくれるあいだは、心もからだもぼくを愛してくれてる証拠だ。ありがとう。……入れるね」
「はい」
 挿入したとたん、先生はウーとうめいて気をやった。
「ああ、イッちゃった。一こすりごとにイクのかしら。そうだとしたらたいへん。死んでしまう」
「だいじょうぶ。二回目からは五往復ごとぐらいになるから。そのあいだにどんどん締まってきて、キクエが十回もイカないうちにぼくもイク。安心して」
 濡れた目でうなずく。動きはじめる。達する気配を一往復ごとに発声と膣で伝えてくる。三回ほど強く達し、あとはうめき声と、か細い悲鳴と、ふるえをともなう激しい反応がつづく。数分のあいだに先生は五回、六回とひたすら達しつづける。危うい状態になる前に私も早く達しなければならない。
「ああ、うれしい、しあわせ、またイク! あああ、もうだめ、イッてね、キョウちゃんイッて!」
 先生が引き抜こうとする体勢になったので、強く突きこんで射精し、抜き取り、痙攣する腹に手を置く。
「ああ! キョウちゃん、愛してる、死ぬほど愛してる! 好きよ、好きよ」
 腹に置いた手を強く握ってくる。女という生きものが、これほど言葉とからだで思慕を表現できることに感動する。吉永先生の顔、乳房、腹、四肢、これは幻にちがいない。彼女の言葉、これも幻だろう。目に見え、耳に聞こえるものが、一瞬の現実から永遠の幻になる。だからこそ、いとおしみ、手離さずに守り抜き、幻の幸福を知らない人びとに感づかせないようにしなければならない。彼女たちは、幻の世界に永住するために、現実の世界に住む人びとを捨てたのだ。
 吉永先生が口を大きく開けてあえいでいる。あえぎに満ち足りた調子がある。慎ましくふるえる赤いゼリー―私を信頼する奇跡の心。
「安心してね、キクエ。いつもそばにいるから」
 感覚に埋没している彼女の耳に私の決意が届く。手が伸びてきて、私の胸に置かれる。瞳がはっきりする。
「ありがとう、うれしいわ。私もそばにいる。何の不安もないわ」
 私は並びかけ、乳房の裾に頭を預ける。
         † 
 翌朝、吉永先生は早く起きて、朝めしの用意をした。小アジの開き、目玉焼き、おろし納豆、板海苔、わかめと豆腐の味噌汁。オーソドックスな朝めしを食っているうちに、二人の体力がぐんぐん回復してきて、先生は私を濡れた目で見つめ、私は箸を投げだし、出勤直前の先生を押し倒した。射精は一分もかからずに終わった。その間に先生は五度も六度も気をやり、卓袱台のそばで気持ちよさそうに陰丘を跳ね上げた。
「ごめんなさい、なんだかおねだりが過ぎちゃったみたいで。そんなつもりはぜんぜんなかったのよ。もっと節度をもたなくちゃって思うんだけど、キョウちゃんのそばにいると何が何だかわからなくなっちゃうの」
「だいじょうぶだよ。ぼくは世之介だから精力絶倫だ。さ、急いで病院にいかなきゃ」
「ぬるぬるしてるけど、このままパンティ穿いてく。一日、キョウちゃんを感じてるわ」
 四戸末子。一瞬の耳鳴り。
「精液が外に出てくると、かなり強いにおいがするから、はやく病院のトイレで拭いたほうがいいよ」
「……そうね。まだ勤めたばかりだし、過激なことしちゃいけないわね。もったいないけど、そうする。下着をもう一枚持っていかなくちゃ」
「ここの家賃、ぼくが払うよ」
「それはだめ。たまにお食事おごってくれるだけでいいわ」
「わかった。でも、ピンチのときは無理しないでよ」
「もちろん、助けてもらう。でも、あんな大金は二度と出さないでね。とにかく半分節子さんに渡しとく」
 秋の澄んだ空気を吸いながら、病院のロータリーまで先生と歩く。
「節子さん、きのうは深夜までだったから、いまごろグッスリね。こんなにそばにいてもスレちがいが多いわ」
「病人は時間を待ってくれないから勤務が交代制になるんだね。あ、せっかくのお風呂に入らなかった!」
「ほんとだ。こんど二人でたっぷり入りましょ」
 先生が大胆に腕を組んでくる。階段を上り、玄関ドアに見送る。院内へ入っていく通勤者の中で、小柄で豊満なからだがひときわ目立つ。手を振った。
 吉祥寺に寄り、シャワーを浴びてから、新しい下着とジャージに着替え、久保田バットをケースに納れて本郷に向かう。
 赤門前からカメラマンが詰めかけている。インタビューなしのカメラだけなので実害はない。監督や選手たちが壁になって、ジャージに下駄履き、バットケースを提げた私を球場の正面玄関まで導く。詩織や黒屋までいる。私を追いかけてきた記者たちは、バックスタンドと三塁側スタンドに陣取る。
「監督、先輩、このバット見てください。岐阜の養老の久保田さんという名人が、わざわざ吉祥寺に持ってきてくれたバットです。きょうはこれで打ちます」
 オーと言ってレギュラーたちが集まってきた。横平が手に取り、握り締め、一振りした。
「こりゃいいや! 金太郎さん、一回打たせてくれ」
「もちろん」
 水壁が、
「横平、きっちり芯食わせろよ。折っちまったら、金太郎さん泣くぜ」
「いえ、気にしないで打ってください。バットは折れるものです」
 バットを横平に預けて部室へいき、速攻で着替える。黒屋が入口の戸から覗き、部室に私以外にだれもいないのを確かめると、
「いつかかならず抱いてくださいね。いい女になりますから」
 と囁いて引き返していった。
 いつもの練習を開始する。ライトポールからレフトポールを半速で五往復。準レギュラーたちがまねをして走る。セカンドベースからセンターの塀を目がけて、なるべく低いスピードボールを十球。途中で受け手に肩のいい那智が入った。目を瞠るようなキャッチボールになる。鈴下監督がニコニコ笑って見ている。ストレッチ、片手腕立て、三種の神器。
 レギュラー陣がベンチに入ってシートバッティングが始まる。サブマリンの森磯がマウンドに登る。
「準レギュラー、守備につけ!」
 まず横平から。久保田バットの飛距離を見たい。横平がしつこく素振りをしたあと、バットを大事そうに提げてバッターボックスに入る。真ん中高目を強振。
「おお、いった!」
 猛烈なライナーでライトフェンスにぶち当たる。
「すげェ、振りやすい」
 笑顔の横平からバットを受け取り、森磯に声をかける。
「一球お願いします!」
 森磯は帽子を取って律儀に礼をし、振りかぶって、慎重にストライクコース投げこんでくる。浮き上がってくる真ん中低目を強振。素軽い感触。
「オ、オ、オー!」
 フラッシュ、フラッシュ、一直線に右中間の金網を越えて森の中へ消えた。
「金太郎さんと飛距離が三、四十メートルはちがうぜ。いいバットで力差がはっきりしたな」
「横平さんのは真芯だったんですよ。芯を食えば上段です」
 レギュラー全員が久保田のバットで一球ずつ打った。克己と臼山が金網に当てた。ほかのメンバーもゴロはなく、ほとんど長打だった。磐崎が、
「魔法の棒だな」
「ミートは個人の手柄です」
 詩織が走ってきて、
「音がちがうんです。タシッ、バシッ、ガシッというのがふつうの音ですけど、神無月くんのバットはゴンとかガンていうんです。金属バットはキンですよね」
「青ダモの音だろうね」
 克己が、
「いまはヤチダモの圧縮バット全盛の時代だからな。あれはよく飛ぶし木目も剥がれにくい。カーンて気持ちいい音がするな。金太郎のは、白木から削り出している青ダモだ。しなりの強い素材だ。折れにくい。しかし、いずれ木目が割れる。どっちのバットを使うにせよ、飛ばすのは才能だ。金太郎も横平も臼山もすごいよ。―俺もな」
 監督がいつのまにかニヤニヤ耳を立てていて、
「よし、うちは春のキャンプから圧縮バットだ。飛ぶほうがいい。黒屋マネージャー、注文出しとけ。二十本」
「はい!」
「それにしても、あの飛距離はなにごとだ。金太郎さん、ゴルフじゃないんだから」
 うれしそうだ。
「よーし、ベーラン!」
 三十人以上全員で、ベーラン五周。壮観。フラッシュ。シートノック、レギュラー全員二十本受けてから、ベンチプレスへ。一台しかないので、交代でやるしかない。イージーリスニングに、山口のコンバットマーチがエンドレスでかかっている。中介が、
「金太郎さん、久保田ってバット職人、衣笠のバット作った人だろ」
「さあ、だれのバットを作ったと自慢する人でないので、知りません。二十五歳の情熱家です。それでじゅうぶんです」
 大桐が、
「水原監督てどういう人だった」
「一本気の俠客(きょうかく)ですね。信頼できます」
「江藤とうまくいってないそうだな」
「ぼくの背番号が原因です。水原監督に申しわけなく思ってます」
「公平な目で見て、仕方のないことだよ。短気起こして喧嘩するなよ」
「少なくとも一年間は、どんな気まずさにも耐えようと思ってます」
 野添が、
「その一年のあいだに、三冠王獲っちゃってください」
「気持はそのつもりでいる。がんばるよ」
 監督が入ってきて、何をするというのでもなく、ニヤニヤ部員たちに語りかける。
「おまえら、卒業試験がなくなってよかったな。卒業式も中止だ。まるで学徒動員時代だな。安田講堂にこもってる連中、もうすぐ叩き出されるぞ。加藤代行の、というより御大教授連の堪忍袋の緒がそろそろ切れそうだからな。十二月からは風雲急を告げる。悠長に野球をやってられるのも今月かぎりだ。せいぜい楽しめ」
 ベンチプレスが空いた。初めて百キロに挑戦する。通過。大勢で両脇に控える。
「百二十キロ、お願いします」
「一回にしとけ!」
 水壁が叫ぶ。通過。
「百三十キロ!」
 通過。拍手。
「ここまでにしときます」
「当然だ!」
 監督が私の腕をさする。感覚では百五十キロが限界に感じた。明日から、八十キロ十回にすることにした。
「じゃ、きょうは帰ります」
 鈴下監督が、
「こんなにハードにやるなら、午後から出てくればいい。二時間ぐらいで切り上げなさい」
 克己が、
「金太郎さん、今週の金曜は、最後の思い出に、紅白戦をやってくれ。十時半」
「やりましょう!」
 監督が、
「よし、メンバー組んでやる」


         四十四

 吉祥寺に戻って玄関ポストを見ると、一子から手紙がきていた。それほど胸騒ぎもなく読んだ。かいつまむと、母親をなんとか説得して受験だけはさせてもらえることになったが、国立以外はだめだということで、弘前大学を受験することにした、上京には徹底して反対されたのであきらめる、弘大一本の受験になるが、不合格の場合は野辺地で就職することになる―という内容だった。
 私のドラゴンズ入団を知らないようだ。たとえ母子で情報の窓を閉じた生活をしているとしても、ヒデさんからは知らされているだろう。関心がないということだ。どうでもいい気分が押し寄せてきた。一子の母親は私の母だと思えばいい。高校を出て就職でもしてしまえば、なし崩しに母子地獄に陥るだろう。
 一子への返事を認めた。
  
 人に縛られて生きるか、自分の望んだとおりに生きるか、その決意はきみ独自のバランス感覚が教えてくれるでしょう。どちらを選んでも、角逐がなければ不幸ということはありません。しかし、望んだとおりに生きた場合お母さんとの軋轢は避けられないようなので、きみは不幸を決定づけられているということになります。
 お母さんがぼくの母と同じような頑迷な人間だとすると、妥協するしかありません。地方の国立大を受けるというのがいちばん穏やかで妥当な解決策だったでしょう。上京して中央の大学を受けるなど賛成されるはずがない。お母さんは、個人的な野心など持たない〈親孝行〉なきみを身近に置いて暮らしたいのです。
 ぼくは野球選手になることによって、母との角逐から解放されました。解放までは擬態の努力に終始しました。五年にわたって秘密裡に解放の努力を重ねながら、妥協を演じつづけたのです。つかず離れずという環境のもたらした幸運もあってその努力が継続できましたが、離れず離れずのきみの場合は、解放の努力は可能ではなく、妥協の道しか残されていません。
 冷酷なようですが、きみと再会する方途はもうありません。なぜならぼくは、母との角逐から解放されて以来、母のような類の人間を本能で嗅ぎ分けて忌避する決意をしたからです。きみのお母さんのような、ぼくの母と同類の人間にはもう出会いたくありません。万に一つ、弘大の受験がきみの独立に結実するならば喜んでいつの日か再会を果たしたいと思いますが、無理な願いです。お母さんから解放されることはなさそうですから。兄さんを失って母一人子一人になった経緯などを考えると、独立はままならないでしょう。独立とは、自分を通常人か変人かのどちらかに見定めて堂々と生きることです。変人が通常人の中でビクビクして生きることほど、つらい地獄はありませんし、逆もしかりです。
 なお、きみがまだ独立の希望を捨てていないなら、この手紙は、読み終えて記憶したら、燃やしてください。自立の大切な要素の一つに、渾身の秘密主義があります。堂々とした態度というものは、愛する者に対して発揮すればじゅうぶんで、その態度を保持するためには、共感者でない人間たちに自己の生活を暴露しない努力がぜったい必要なのです。いずれのときか、きみの独立を切に願っています。
 一九四三・十一・二十四
  山田一子さま                        神無月郷


 一子はもう連絡してこないだろう。臆病者は、世間の約束事を侵したくないので、おどおど生きるしかない。それでも彼らは、制度に守られ、慣習に守られているので、悪びれずに胸を張ることができる。一つの魅力的な生き方だろう。一子の本質が制度に守られた人びとのそれなら、彼女はもう連絡してこない。
 手紙を投函しに表に出る。井之頭通りの酒屋の横にポストがあったので、投函して公園のほうへ戻りかけたら、向こうから手を振ってやってくる女がいる。素子だった。
「よう、素子!」
「ポートの出勤お休みにして、オマンコしにきちゃった。だいぶ長いあいだしてなかったし、お姉さんがしてらっしゃいって言ってくれたから。ええ?」
「いいとも! 走ろうと思ってたとこだ」
「じゃ、素ちゃんで運動する?」
「そうする。いますぐしたい?」
「したい! がまんできん。こんなことめずらしい。でも、危ない日」
「じゃ、走るぞ!」
 二人で玄関まで走る。
「あれ、速いな。フォームもきれいだ」
「中学のとき、陸上部やったんよ。千佳ちゃんと同じ。二百メートルで中学陸上の準々決勝にも出たんよ。二十六秒三。ビリやった」
「一度もしゃべったことがなかったな。運動音痴という話じゃなかった?」
「クラブ活動にええ思い出ないから。いじめられたし。中学陸上も、もっと速い人がおったのに、無理やり押しつけられた感じやったから」
 玄関へ走りこみ、
「相変わらずの豪邸やなあ!」
「風呂場、右の奥」
「わかっとる」
 素子は廊下を走って、風呂場へ飛びこむ。私は畳部屋でジャージを脱ぎ捨て、すぐあとを追う。素子は湯を埋めながら、浴槽の縁に手を突き、尻を向けていた。すぐに挿し入れる。
「うーん、気持ちええ! そのまま動かさんとオマメちゃん、いじって。ああええわ、イク、イク! あああ、出てまう、出てまう」
 腹を痙攣させながら、浴槽の壁板に小便をほとばしらせる。膣を蠕動させながらの放尿なので亀頭が心地よく刺激され、私は小便が出切らないうちに射精したくなって、あわただしく腰を動かした。
「ああ、ええ、イクわ、イク! あああ、キョウちゃん、気持ちええ、またイッてまう、キョウちゃん、イクイク、イク!」
「ああ、素子、すごく締まる! イクよ、背中に出すからね」
 ゾロッと素早く抜いて、背中に放つ。素子の後ろ髪にまで飛んでいく。
「アーン、死ぬほど気持ちええ! イクウ!」
 ビュッとするどく最後の小便が飛んだ。痙攣が収まるのを待ち、湯殿に出てシャワーを背中にかけてやる。
「キョウちゃん、ありがとう。生き返ったわ。オマンコ熱うなって、夜中に狂いそうになった。指でやってみたけど、なんも感じんかった」
 湯が溜まるのを待ちながら、石鹸で全身の汗を洗い流す。
「ますます熟しちゃったね。先に死ねない」
「キョウちゃんが死んだら、うちも死ぬわ」
「……ひとは簡単に姿を消す」
「いやや。……キョウちゃんがいるから、したくなるんよ」
「ありがとう。男冥利に尽きる。さ、湯に入ろう」
         † 
 蒲団でもう一度丁寧に交わり、素子の回復を待つうちに三十分ほど眠りこんだ。素子も正体なく眠ったようで、目覚めると五時だった。歯を磨き、コーヒーを飲んだあと夕めしを食いに出る。
「うち、気失ったんやね。ごめんね、退屈させて。……うち、セックスは命懸けや」
「ぼくも眠っちゃったから退屈しなかった。これからも気にしないで、死ぬほどイケばいいよ」
「死なんように祈っとって」
「死なないよ、女は頑丈だから。まだこの近辺、開拓してないんだ。二、三軒ぐらいしか知らない。丸井の通りの向こう側が未開拓だから、いってみよう」
 吉祥寺通りから井之頭通りへ。丸井ビルを過ぎて東急インのほうへ歩く。道の反対側に割烹黒ねこという箱看板が見える。道を渡って、路地へ入り、二軒目のビルだった。壁にも店名の旗が垂れている。地下に降りていく階段がある。
「高そうな店やね。開店したばかりみたいやが」
「割烹、黒ねこ、はミスマッチだな。ハンバーグでも食わせそうな店名だ」
 階段にイチョウの葉を散らして秋の演出を効かせている。黒格子戸を開けると、全体がつやのある黒い色調の店内が目に迫った。
「なるほど、黒ねこか。……猫とは関係なさそうだな」
 水槽にスッポンが二匹泳いでいる。哀れだ。靴を脱いで、赤絨毯の上に立つ。スカートに小さな赤い前掛けという奇妙ないでたちをした仲居が個室に案内する。入口の花瓶に姿のやさしいオドリコソウが活けてある。骨の黒い西洋椅子六脚を向かい合わせたテーブルが二卓、少し離れた位置に四席のテーブルが一卓、席の数だけ袋入りの割り箸が用意してある。テーブルは鏡のように磨きこんであり、醤油やソースを入れた小籠が置いてある。全体の色調が黒いだけで派手な趣向は凝らしていない。清潔な雰囲気だ。
「生ビール、中ジョッキで二つ。それから、このクエ鍋というやつをお願いします」
「二人前でかなりの量がございますが、注文は二人前からなんです。よろしゅうございますか」
「いいですよ。残したら悪しからず。ところで、何ですか、クエって」
 仲居は口を押さえて笑い、
「西の海で獲れる大きなハタです。二メートル、百五十キロにもなるんですよ。刺身もおいしいですけど、鍋は絶品です。お高い時価魚で、今月は二人前で七千円以上になるんですが、よろしいですか」
 素子が息を呑んだ。
「ください。鍋のほかに、刺身もお願いします。ライスをふつう盛りで二人前」
「承知しました。ごゆっくりどうぞ」
 仲居が去っていくと素子が、
「わからないで注文したん?」
「うん、挑戦だ」
「一万円は越えるで。うちの四日分の給料だが」
「金は―」
「ストップ。好きな人間に使ってこそ初めて金だ。寺田康男」
「正解」
 ジョッキを打ち合わせる。やがて、野菜や切り身を大量に盛りつけた大皿を持って仲居が戻ってきた。
「クエのチリ鍋二人前でございます。身三百グラム、アラ二百五十、白菜四半分、豆腐半丁、しめじ、しいたけ、ネギ、水菜、にんじん。だしは昆布でとってございます。こちらは刺身、わさび醤油、ポン酢、お好きなほうでお食べください」
 刺身はフグのような薄白い切り身が輪の形に重ね回してある。仲居は小さなガスコンロに鍋を載せた。昆布を入れた水を沸騰させる。ネギとアラを入れ、もう一度煮立つの待ってアクを取る。野菜類と切り身を順に入れる。
「火が通った頃合に戻ってまいります」
 もう一度ジョッキを打ち合わせ、江藤の背番号と、バット職人の話をする。
「キョウちゃんはホームランを何本打つんやろうなあ」
「全試合出場させてくれれば、六十本から八十本打つと思う」
「それは記録?」
「日本新記録。八十本打てば世界記録」
 仲居が戻ってきて、
「もういただけますよ。どうぞ」
 彼女は煮えた具を小鉢に盛って私たちの前に置いた。
 ポン酢に刻みネギとモミジを入れ、ゆっくり味わって食う。とんでもなくうまい。味が濃いので、めしもモリモリ食える。
「うますぎる。生きててよかった。挑戦して正解!」
 刺身はわさび醤油で食う。ふつうの白身魚の味だった。しかしコクがあってうまい。ジョッキを打ち合わせる。中年の赤前掛けが手を口に当てて笑っている。
「お二人は、俳優さんか何か」
「いえ、そこらへんの通行人です」
 素子が何か言いたそうにするのを、目で抑えた。仲居が去る。三十分も食いつづけて、腹七分。引き返してきた仲居が、
「きれいに食べてくださいましたね。ありがとうございます。雑炊で〆にいたしましょう」
 少し残った具を浚い、酒と塩と醤油を加えたスープに、冷や飯を落としこむ。溶き卵をかけ、刻みネギを散らしてでき上がり。
「ごゆっくりどうぞ。食べ終わりましたら、お茶をお持ちいたします」
 小鉢と茶碗が用意されている。私は茶碗、素子は小鉢を取った。
「うまい雑炊だ!」
「おいしい! 何これ」
 二人息も継がずに掻きこむ。大満足した。
「キョウちゃん、ありがとう。こんなおいしいもの食べさせてもらって。お姉さんに悪い」
「素子の口癖だね。カズちゃんはきっと、北村席で食べてるよ」
「ほうよね。大金持ちやもん」


         四十五

 茶を持って仲居が戻ってくる。
「絶品です。ごちそうさまでした」
「旬のお魚を食べていただけて、よろしゅうございました」
「うまい店なので、これからはいろいろなやつを連れてきますよ」
「ありがとうございます。今後ともご贔屓にお願いたします」
 一金一万五百円也。夜風に吹かれて帰る。
「やっぱり高かったねェ!」
「うまかったから、タダみたいなものだ。千佳子は勉強がんばってる?」
「脇目も振らんとやっとる」
「みんなでつつがなく名古屋へいきたいね」
「名古屋へいったら、うち、今度は栄養士の免許と、車の免許や。キョウちゃんの女として出発が遅れたから、がんばって取り戻さんと。手に職つけて、ようやくスタートラインや。還暦まで生きて、キョウちゃんとお姉さんにご恩返しするつもり」
「そんなふうに考えてるのか。その先は?」
「キョウちゃんが五十歳やろ。お姉さんが六十五。貯金でご恩返しするわ」
「いつまでもいい人だね、素子は」
 目が熱くなって、暮れたばかりの空を見上げる。
「お姉さん、キョウちゃんと伊豆に旅行して、うれしくて、楽しくて、心臓が止まるほどやったんやて。うちはキョウちゃんの生まれ故郷の熊本にいってみたい。野辺地はいつかお姉さんと二人でいくことに決めたんよ。いまはとにかく二つ目の資格に挑戦や」
「ぼくは素子を疎かにしてるね」
「ぜんぜん。セックスの回数でないよ。あたしはキョウちゃんに愛されとる。キョウちゃんしか、あたしを愛することができん。そりゃ、あたしは顔がきれいな女やし、こっちから声かければいろんな男が私を抱くやろね。でも、うれしくもなんともない。あたしが愛しとらんから。あたしが愛しとらんかぎり、何も始まらん。あたしが愛しとるのはキョウちゃんだけ。そのキョウちゃんがあたしを愛してくれる。これ以上、何もいらん。心も、からだも。……キョウちゃんは神の子や。子供がいる時間はゆっくり、ゆっくり過ぎるんよ。子供といっしょに遊びながら、ゆっくり生きられる」
「素子も天女だから、もともとのんびりしてるのさ。ぼくの女はみんな天女だって、山口が言ってた」
「神さまの右大臣にそう言われると、うれしいな」
「右大臣か。左大臣は?」
「おらん。お姉さんは女神。あとのあたしたち、ぜんぶが左大臣」
「よしのりは?」
「神さまのお荷物。厄介かけない荷物。何の迷惑もかけないけど、心配やろ?」
「ああ。何もしてやってないけど」
「荷物なんだから、背負うだけで精いっぱいやよ。キョウちゃんの歩くバランスをとらせる荷物やから、役に立ってないことはないんやけどね。ただ、その荷物を下ろしてもキョウちゃんは自分でバランスをとりはじめるから、結局、毒にも薬にもならんゆうことやね」
「吉永先生も素子も、よしのりについてはボロクソだな」
「悪く言うほど関心もあれせんけど、苦しむ理由もないのに、苦しがって、人の気を引くのは笑えるわ。どうしようもないくらい現実的な人間が、ロマンチックな夢見とるような顔見せて、自分がどう思われとるか人の顔色窺っとる。ポワンとしたきれいな顔してとんでもないことをやってまうキョウちゃんが羨ましくてしょうがない。だからまねする。でも、何もやり遂げられん。キョウちゃんのボワンとした顔は、将来を夢見とる顔やないんよ。何も考えとらん顔や。まねなんかできるはずがないがね。いっぱしにキョウちゃんの将来に気を揉んどるふりして、理解者ぶって、世の中に出してやるなんて言いだして、かえってキョウちゃんの才能を小じんまりした型にはめてまう。世の中に出したるなんて、バカの仲間入りさせたるいう意味や。やっぱり、神さまの荷物や」
 私は立ち止まって素子の肩を抱き、
「それでも、ぼくを愛してるんだ。気にかけてやって」
 素子はとつぜん涙を噴き出し、
「ええよ、言うとおりするよ。どんな友だちも、キョウちゃんと同じように、気にかけたる。キョウちゃんが気にかける人間は、ぜんぶ気にかけたる。心配せんでええよ。ごめんな、つまらんこと言って、つらかったやろ」
 私は道のほとりで素子を強く抱きしめ、
「愛してるよ。素子はぼくの誇りだよ」
 素子は抱き締められながら声を放って泣いた。
 御殿山にもどり、これまで素子がゆっくり見て回れなかった四つの部屋を案内した。どの部屋を見ても、素子は感嘆の声を上げた。とりわけ、夕映えの中の庭を見たときには、身をよじるようにして、
「きれいな庭!」
 と叫んだ。
「ときどき、気づかないうちに植木屋さんが潅木を剪定してくれてるんだな。小池も塵芥(ごみ)が浚ってある。ここは山口が言ったとおり豪邸だ」
 素子は庭の向こうの薄紫の林をしばらく眺めていた。
「大家さん、ときどき抱いてあげとる?」
「うん。でも齢を感じない。素子たちとまったく同じ」
「キョウちゃんとしたら、だれでもたまらんようになるよ」
 頬を赤くする。抱き締める。舌をまさぐり合う。
「音楽を聴いて帰るわ」
 音楽部屋にいって、ジャズボーカルを一時間も聴いた。ミルドレッド・ベイリー、ジェリ・サザーン、マーシー・ルーツ。
「音楽ってええねえ。お姉さんもときどき聴かせてくれるけど、ほんとにええものやなあと思う。お姉さんが言っとった。音楽は感情に滲みこんでくるものやけど、知性が豊かでないとしっかり滲みこんでこんて言っとった。それであたし、よう本を読むようになったんよ。―少し、本もらってってええ?」
「いいよ。今度くるときはリュックでも担いでくれば、たくさん持っていけるよ。素子が勉強家だってことがうれしい」
 素子は五、六冊の本を紙袋に入れて提げ、さびしげに玄関に立った。腕を組んで夜道を吉祥寺駅まで送っていく。
「愛しとるよ、キョウちゃん。いつかうちと旅行するの忘れんといてね」
 ホームへの階段を上っていく途中で、素子は振り向いて手を振った。その場を動こうとしないので、私のほうで彼女の視界から消えなければならなかった。
 居間のソファに横たわってビールの酔いを醒ましていると、玄関の電話が鳴った。法子からだった。
「おかあさんたちが土曜日に出てくるの。東京駅まで迎えるついでに、ちょっとみんなで顔出すね」
「うん、待ってる。土曜日はジムにかよってるから、午後の一時くらいなら家にいる」
 そのままソファから転がっていって、蒲団にたどり着き、正体なく眠りこんだ。
         †
 深夜の一時過ぎに目覚め、シャワーを浴び、ふと底なしにさびしい気分に落ちた。素子が原因だった。カズちゃんをさえ、ここまで哀しく恋しく思い出したことはなかった。
 少し目尻にシワのよった福田さんのやさしい笑顔が浮かんだ。寝ているにちがいないと思ったが電話をかけた。五回ほど呼び鈴を鳴らして、切ろうとしたとき、
「もしもし、神無月さんね!」
 と福田さんの泣くような声がした。
「うん。眠れなくて」
「何度鳴らしました? 目を覚ましてすぐ取ったんですけど、十回も?」
「五回。話をしたくて」
「うれしい、お話しましょ、神無月さんが眠くなるまでお話しましょ。私も寝ついたばかりだったんですけど、なかなか眠れなくて。ついさっき、ウトッとしたばかりだったんです。きょうは神無月さんとお逢いできなかったから、さびしくて、さびしくて。仕方なく家にいても、神無月さんのやさしい笑顔ばかり思いだしてしまって。ああ、声を聞けました、夢のよう」
 私は吉永先生の引越しのことや、久保田バットを持って東大の練習に出たことや、一子の手紙のことや、素子がやってきたことや、クエ鍋のことや、ビールを飲んだことを話した。
「愛しい人、子供のよう、どうしてこんな人が生まれたんでしょう。もうぜったい離れなません。菊田さんとお話しながら、吉祥寺の家を守りながら、神無月さんの行く末をずっと見守りつづけます。何でもします。神無月さんのお世話、病気の看病、悩みをお聞きすること、おつゆをいただくこと。……子供を産むことだけはできませんけど、ごめんなさいね」
 三時ごろまで話した。福田さんは私の来し方の大半を記憶した。カズちゃんのように目撃したり、共に行動したりしていない不足を除けば、彼女の私に関する記憶の量はかなりの嵩になった。
「明けてきょうは火曜日だ。夜はトシさんのところにいっしょに泊まろう」
「はい、菊田さん、どんなに喜ぶことでしょう。かならずお伝えします。きょうはお眠りなさい。練習でしょう? 目覚めたらごはんにします。ああ、かわいい人」
 電話を切って五分もしないうちに前後不覚に寝入った。
         †
 目の裏が明るい感じで目覚めた。厚い蒲団が二枚掛けられていた。
「何時ィ?」
「九時半です!」
 風呂場から声が返ってきた。六時間は寝た。少し眠いが、これでよし。
「おふろ入りましたよォ! そのまま飛びこんでください」
 よろよろ立っていって、湯船に首まで浸かった。すぐに裸の福田さんがやってきて、
「はい、首を伸ばしてください」
 湯を掬って髪にかけ、シャボンを立てる。指の腹でこすったり押したりして、丁寧に洗う。シャワーで石鹸を流す。
「はい、上がってください」
 首から始めて、胸、腹、両腕、背中、両脚、尻の穴を洗って流す。最後に陰嚢を引き伸ばしたり、指で柔らかくしごいたりして、垢を落とす。二十年近く溜まっていた垢がすっかり削り取られたような心地だ。陰茎の付け根と陰毛を洗い終わると、亀頭を唇でしごく。
「こうしないとカリの汚れはきれいに取れませんから。さ、いっしょにお風呂に入りましょう」
「入れながら」
「はい、そうしましょう」
 抱き合って湯に浸かる。挿入し、たがいの肩にあごを預ける。福田さんがゆるやかに上下動する。やがて、
「……イキます」
 覚えたばかりの言葉と、いつもと同じ吐息をはいて、しばらく天真爛漫に痙攣する。
「いつも、お風呂でこうしてね」
「はい、こうします、あ……ごめんなさい、怖いのがきちゃいました、こ、こうなるともうだめです、イキます、イク! うううう、どうしましょう、もう止まらないんです、あああ、電気、イク! ど、どうし、イクウウ! ああ、神無月さんもイキそう、いっしょに、いっしょに、ああ、うれしい、出したらすぐ抜いてください、止まらなくなります、ああああ、いっしょにイク!」
 私も天真爛漫に射精し、福田さんの腋を持ち上げて抜く、精液が律動のままに湯の中に溶け出す。遠いむかし西松の飯場の風呂でそうなったように、白い紐のような曲線を描いて揺らめく。
         †
 福田さんとうまい朝食。
「菊田さんのために残っているかしら。心配です」
「雅子と同じくらい敏感だから、ぼくが濃くても薄くてもだいじょうぶ」
「……どうして飽きないんでしょう」
「異次元の感覚だからだね。痛い、痒い、くすぐったい、熱い、温かい、冷たいという感覚じゃない。味覚でも、視覚でも、聴覚でもない。クリトリスとオマンコでしか感じられない感覚だからだよ」
「分類できない感覚……」
「そう。イクとしか言えない感覚。人間が得られるいちばん不自由な感覚。自分で制御できないから」
「いま神無月さんが言ったぜんぶの感覚を満たしてなければ、人間と言えませんね」
「うん、そのうえに精神的な感覚も満たしてないと人間と言えない。プラスもマイナスも平等にね。うれしい、楽しい、悲しい、哀れだ、気の毒だ、腹が立つ―」
「喜怒哀楽ですね。食欲、性欲、睡眠欲はどうでしょう」
「心がけなくても、学習や経験をしなくても持てる好ましい感覚だ。学習や経験から生まれる好ましくない感覚もある。権力欲、名誉欲、不満、不快、違和感、絶望、倦怠。逆に学習して得られる好ましい感覚もある。充実、爽快、納得、理解、連帯、希望、愛……」
「神無月さん、愛してます!」
 福田さんの目から涙があふれてくる。
「泣かないで。ぼくも雅子が思う以上に愛してるから。じゃ、いってくるね」
「はい」
 青空の下へ見送られる。




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