四十六

 十二時。東大球場も青空の下だった。仲間たちがフィールドでめいめい好みの練習をしているあいだ、バッティングマシーンを出してもらって、まず振らずに、真ん中から曲がるカーブとシュートの見切り訓練をする。次に、置き備えのバットで百四十五キロをカーブとシュート五十球ずつ。すべてボールの中心を叩いて、ゴロかライナーを打つようにする。百六十キロのストレートに切り替え、久保田バットで二十本打つ。ホームラン六本(ネット越え二本)、浅い外野フライ二つ、外野ライナー三つ(ヒット性一本)、内野のポッフライ七つ(インパクトの瞬間目が離れる。猛烈な反省点)、内野ゴロ二つ(センターに抜けるヒット性一本)。二十打数八安打、四割。総じて、ボールのかなり下を打ちすぎている。準レギュラーたちも同じ訓練をする。鈴下監督が、
「思いつきでやってるんだろうが、毎日すごいなあ、そういうの。うちの伝統的な練習にしていくよ。こんなに早く出てこなくていいと言っただろう」
「あと四日でみんなとお別れですから」
「うん。最終日の金曜の紅白戦には、部長たちも出てくるよ。あ、それからこれ」
 ユニフォームの後ろポケットから眼鏡ケースを取り出す。大きい薄いレンズが湾曲して目の縁まで覆うようになっている特殊眼鏡だった。
「かけてみろ」
 ゆるいのに密着度の高い厚手の平ゴム紐を後頭部に回し、ボタンフックで留めるようになっている。
「前にいただいた眼鏡より視野が広いです!」
「だろ? レンズはプラスチックだ。研究させたんですよ。これなら昼間にかけてもだれも笑わない。プロで使ってください」
「ありがとうございます!」
「あと一つ作らせてあります。吉祥寺に送るからね。名古屋へも毎年一つずつ送ることにしてます」
 眼鏡をかけてランニングをする。だれも気づかない。仲間のそばを駆け抜けていくときだけ、
「あれ?」
 という声が聞こえてきた。肌身離さずということになりそうだと思った。大切にケースにしまい、部室へいってブレザーの内ポケットにしまった。中介が、
「眼鏡作ったんだってな? 監督がうれしそうにしゃべってたよ。プラスチックだから、イレギュラーバウンドが顔に当たってもだいじょうぶだって」
 すでに卒業組が筋力鍛錬をしていた。克己が八十キロを挙げていた。横平と水壁がついている。
「臼山が百三十を挙げやがった。馬鹿力だ」
 磐崎が笑う。ノッポでマッチョの臼山は黙々とダンベルをやっていた。私に笑いかけ、
「青春の体力増強も今週かぎりだからな」
「黒屋さんたちは?」
 有宮が、
「黒屋は体育館へいった。バトンと応援団がブラバンつけて猛訓練してる。チラッと見たけど、わくわくしたぜ。本格的だ。野添や岩田たちはいい年に東大にきたよ」
 横平が、
「俺たちだって、学期試験も卒論もないんだ。最終学年でラクをさせてもらったじゃないか。何より、金太郎さんが東大にいるうちにチームメイトだったことに、感謝感激アメアラレだ」
 克己がバーベルを置き、
「夜寝てると、ふっと涙が出る。生まれてきてよかったってな。俺たちは金太郎さんを総大将に優勝したんだぜ。もう何百年もこんなことはないぞ」
 台坂が、
「金太郎さんも、優勝もな。プロ野球のやつらも同じ思いをするんだろう」
 無精ヒゲの男たちが寄ってきて、私の肩や腕に触った。
「カチカチだ」
「でも、人間なんだよなあ」
「ヒゲはほとんど生えてないし、目は茶色いぜ」
「唇が格好いいなあ。キスしていいか」
 大桐が言った。
「はい、チョンとお願いします」
 部室の全員が、チョン、チョンとキスしていった。臼山が少し長かった。横平に引き剥がされ、
「ああ、思い残すことはねえや!」
 と叫んだ。私は涙を流した。みんなベンチに腰を下ろして泣き出した。克己が腕で涙を拭い、
「おいおい、金曜日に泣けなくなっちまうぞ。ひとっ走りいくぞ!」
「ウィース!」
 みんなで表へ駆け出し、ライトポールとレフトポール二手に別れてダッシュした。監督や準レギュラーたちが目を丸くした。
「守備練習いくぞ! レギュラーたちはランナーやってくれ!」
 私はもう一度青い空を見上げた。空の記憶は不思議だ。ふと見上げたことは覚えているけれども、色合を思い出せない。高島台の空以外は―。
 いつだったか、レフトフィールドの空を見上げて、別の人生―どういう人生かわからないが―をぼんやり思い描いたことを思い出す。思い描いたのは一度や二度ではなかった。野球をやめていたら私はどうなっていたのか。ちがう運命の中で私は幸福でいられただろうか。私は野球を選択した。この選択のゆく手に、別の人生以上の苦痛や悲しみが待つと知ったとしても、私は同じ選択をするだろう。
         †
 御殿山に福田さんから電話がきて、トシさんの家に出かけていった。こんにちはと玄関を入ると、はーいと応えたあと、二人がいっしょにせっせと料理を作っている物音や話し声が台所から聞こえた。エプロン姿で出てきた二人がなぜか緊張している。揃って後ろを向いてみせる。剥き出しの裸身だった。
「どうしたの! 二人、すごいね」
 彼女たちはクスクス笑いながら、
「キョウちゃんがいつでも触れるように」
「二人でしたいんだね?」
 トシさんが、
「はい。頭ではわかっても、どういうものか、からだがまだ知りませんから」
「別々でなくていいの?」
「思い切り卑猥なことを一生に一度くらいしてみたいって、福田さんと意見が一致したんです」
「……ぼくも初めてだ。三人でしたからって、卑猥のレベルはいっしょだと思うけど、ものめずらしさは増すね。……期待してる?」
「とっても」
「自分以外の女がイクのを見たとき、女はどんな気持ちになるんだろう。男は男がイクのを死んでも見たくないけど」
 福田さんが、
「わかりません。でも、きれいだなあって感じると思います」
 私は二人の尻を撫ぜたり、胸をもんだりする。フフフ、クスクスと笑いながら、二人の耳たぶが赤らんでくる。 
「さ、福田さん、とにかくお料理が先よ」
「はい」
 ガスストーブの効いた居間で豪華な中華ふうの夕食になった。カニチャーハン、エビチリ、春巻、餃子、酢豚、角煮、肉野菜炒め……。箸を動かしながら、二人は少しずつ興奮していく。
「好きなようにしてください」
「いつでもどうぞ」
 ニッコリ笑う。私も全裸になり、箸を置いて立っていき、彼女たちに寄り添う。太腿や膝をなぜる。股間に手をやり、福田さんの大きなクリトリスと、トシさんの柔らかい花びらに触れる。二人は食べ物を口に運びながら、いつ交わっても粗相をしないように警戒してか、私がそうしている最中に一度だけトイレに立った。
「抱いてもらえる最後の夜ね」
 福田さんが、
「いいえ、まだまだ時間があります。きょうは、私は夜のうちに引き揚げますから、あとはお二人でゆっくりすごしてくださいね。あしたの朝十時ごろここにきて、ごはんを作ります。神無月さんは練習なので、一度御殿山に戻らないと」
「ありがとう、福田さん。しっかり抱いてもらうから安心して」
 私は相変わらず福田さんのクリトリスやトシさんの花びらに触れながら、料理に少しずつ手を出した。やがて、福田さんが両膝をついて伸び上がり、
「うーん、菊田さん、お先にすみません、イク!」
 飯台に手を突き、尻をふるわせた。
「キョウちゃん、私も! 好きよ、好きよ、あああ、イク!」
 私の首にかじりついて口を吸いながら、尻を前後させた。三人で隣の部屋の蒲団にあわてて飛んでいく。
「キョウちゃん、入れて!」
 トシさんの刺激の強い膣に挿し入れる。あわただしくうごめいている。三、四度こすっただけで、激烈に達し、愛液を噴きかけた。上壁でこすられないようにすぐ抜き、福田さんに突き入れる。これも二度ほどアクメに達したところですぐに抜いて、トシさんの上壁の刺激を求めて挿入する。
「おっきい、だ、だめだめだめ、イッちゃう、イッちゃう、好き好き好き、好きィ、出る出る、イイックウ!」
 自動的に陰阜が動き、カリがこすられる。耐えられず吐き出す。すぐさま抜いて、福田さんに深く挿し入れ、摩擦の少ない子宮の奥で安らごうとする。福田さんに新しい高潮が訪れる。
「もうイケません、神無月さん、好き、愛してます、こ、これで、最、さ……イークウ!」
 五度、六度と跳ね上がる。トシさんも苦しそうに痙攣しながらときどき愛液を細く蒲団に飛ばしている。ほとんど虫の息だ。
「神無月さん! ぬ、抜いてください、止まらない、イイク!」
 私は抜かない。トシさんを回復させなければならない。
「あ、あ、イクッ! イク! うん!」
 最後の収縮だとわかった。痙攣だけになる。最後まで余韻を感じている。余韻が消え、ソロリと引き抜くとかすかに跳ねた。私が横たわると、ようやく回復したトシさんが愛しそうに私の尻を抱え、亀頭を口いっぱいに含む。
「おいしい。キョウちゃんのも、福田さんのも」
「まあ、菊田さん、私、恥ずかしい」
「何が恥ずかしいものね、キョウちゃんを好きで好きで出したお汁でしょう、おいしいに決まってるわ」
「……私も、菊田さんのを」
 トシさんを仰向けにして挿し入れ、すぐに抜いて福田さんに差し出す。かぶりつく。
「おいしい、少し苦くて」
 トシさんは最後の痙攣をしながらニッコリ笑った。
         †
 福田さんが帰ってから、二人で料理の残りを食べ尽くした。いつものように寝物語もした。
「すごい経験だったね。こんなすごいのはこれっきり。名古屋にいくまでにもう一度、二人っきりでしよう」
「ほんと!」
「うん。名古屋にいったら、年に二度か三度。うまく時間があればもっとできるかもしれない」
「はい! でも、ここまでしたらもうセックスはじゅうぶんです。キョウちゃんは、純愛と耽溺を両方経験させてくれました。これからはお逢いできるだけで満足です」 
「初めて不動産屋で遇ったときトシさんが、アッと言ったときの顔、死ぬまで忘れない。運命だったんだね」
「もったいない。でも、そう言ってもらえると救われます」
「福田さんと励まし合って暮らすんだね、ぼくを待ちながら」
「いいえ、待たせてもらえてありがとうって言いたいです。人が生きていくためには理由がいるの。いちばん大きな理由を与えてくれたのよ。またつまらないことを言うようだけど、私の財産はすべてキョウちゃんと和子さんに残しますからね」
「ぼくやカズちゃんが先に死んだらどうするつもり?」
「考えたくない! ……毎日、新聞を念入りに読んでるのよ。キョウちゃんの人生が順風満帆には思えないの。人間関係が怖い。逆にその純真な性格で乗り切っちゃうような気もするけど、ふつうの人って気まぐれで怖いから……。ヤケ起こしそうになったら電話をちょうだいね。かならず解決できるよう考えるわ」
「ありがとう。ぼくは短気だからね」
「見ててわかります。キョウちゃんを愛してる人はみんなわかってるでしょう。神は敬するに威を増すということを知らない人たちは、神の怒りを受けて当然です。それにひれ伏さない人たちを世間人と言うんです」
「それ、格言?」
「北条泰時の御成敗式目の中にある言葉です。神は人間に尊敬されることによって、ますますその威厳が高まるという言葉です。逆に言うと、神の徳によって人間は命を与えられるということです。和子さんも私たちも、そういう神を冒涜する人たちの防波堤になろうとしてるの。堤がくずれたらキョウちゃんは流されていく。私より先に死ぬとしたら、それ以外の原因は考えられない」


         四十七

 十一月二十日水曜日。トシさんのお休みの日。
「福田さんに朝ごはん作ってもらうの、初めて。おいしいわ」
「こころゆくまで愉しみました?」
「心もからだも。……あれから二回もしてもらいました。名古屋へ帰るまでにもう一度抱いてもらえます。約束したの」
「よかったですね。すみません、私は、きっと……まだ何十回もしてもらえます」
「いいのよ、キョウちゃんに不便のないよう福田さんをお世話したんだから。五十三歳なら私の倍も体力があるし、そうしてもらってあたりまえ。私に気兼ねしないでね。福田さんが気持ちよくしてる姿を思い浮かべると、とっても楽しくなるの。よがり声もかわいいし、よがる格好もかわいい。キョウちゃんに一生愛されるわ」
 福田さんは消え入りたいとでもいうふうにうつむいた。
「福田さん、きょうは練習の帰りに寄りたいところがあるから、帰らずに待ってて」
「はい。夜遅くなりますか」
「たぶん」
「お風呂を入れて、夜食の用意をして待ってます」
 トシさんが、
「いろいろ別れを告げなくちゃいけない女性がいるでしょうからね。キョウちゃんもたいへん。励んでいらっしゃいね」
「がんばる」
         †
 東大でみっちり練習した。蝶々ダンベルを五十回やったあとは、とにかく走った。フリーバッティングでは、台坂と那智が一日交代で投げた。久保田バットが完全に手に馴染みはじめた。ポンポン金網の外へ飛び出す。スタンドに押しかけた報道陣が写真を撮りまくる。覆面やヘルメットたちはカメラの前からパッタリ姿を消し、安田講堂に籠もった。その代わり、ゲバ文字のタテカンがかまびすしく立てられるようになった。
 理論と行動という二文字が目を射る。理論というのは、既存の権力破壊のための徒手空拳の方法論だろうし、行動というのはゲバ棒と投石という軽い暴力だ。竹槍ほどの殺傷力もない。これを革命と信じるのはあまりにも愚かだ。たとえ信じていなくて青春のクラブ活動的な感覚でやっているとしても、権力者側はそう捉えていない。かならず叩きつぶす。そろそろ猶予期間は終わるだろう。それにしてもあの壁の落書きはよかった。
 鈴下監督が、
「金曜日の紅白戦は騒々しいことになるぞ。ある記者が言うには、あしたの大々的な見出しが決まってるらしい。体育館の練習も、じつはそのためのものなんだ。東大構内で金太郎さんにインタビューすることは野球部執行部が禁じてるから、気を差さないでプレーしてくれ。写真は撮らせてやって。うちの家族もどっかでパチリパチリやってるはずだ。金太郎と私が並びかけるシーンがあったらぜんぶ撮れと言ってある」
 詩織たちはバトンにつきっきりだった。同じクラブ活動でも、彼女たちにはスケールを大きく見せる衒いや、理論や行動という抽象語の陰に自分を隠す姑息さがない。
         †
 水曜の夕刻四時に近く、サッちゃんの家につづく小路を入っていくと、二人の若い男が河野家の玄関の戸を開けて出てきた。一人はスーツ姿で一人はジーパンを穿いていた。すぐにサッちゃんの息子たちだとわかった。彼らは私に目を留めずに通り過ぎ、駅のほうへ歩いていった。このまま都心の下宿先へ帰るのだろう。スーツを着た年かさのほうはたぶん来年あたり卒業で、就職のための会社廻りをしているのかもしれない。二人とも目の細い平凡な面つきだ。サッちゃんと似ても似つかない。ひっそりしている玄関戸を引いて呼びかける。
「サッちゃん!」
 廊下にサッちゃんがひょっこり顔を出し、口をもぐもぐ動かしている。
「あら、こんなことってあるかしら。いまキョウちゃんのことを考えていたのよ」
「ここんところヤリづめだから、もう、中身残ってないよ。エネルギーはあるけど。野球の練習もしてきたし」
「いいの、いいの、きてくれただけでOK。いま、息子たちを送り出して、ごはんを食べはじめたところ」
 質素なハムエッグと味噌汁がテーブルに載っている。
「もうあまり新聞でゴチャゴチャ言われなくなったわね。プロに合流する前の練習を東大でしてるんですって?」
「うん、あしたでほんとうの最後の最後。汗をかいた。風呂に入りたい。いっしょに入ろう」
「はいはい、すぐ入れます」
 湯が溜まるのを待ちながら、サッちゃんのいれたコーヒーを飲む。山口やカズちゃんのコーヒーのほうが、煎りが深くて私の口に合っている。でも彼女のマイルドなコーヒーもまずくはない。風呂を入れて戻ってきたサッちゃんは、箸をもう一度動かしながら、にこにこ笑っている。
「道で息子さんたちに遇った。ぼくに気づかずに通り過ぎていっちゃった。お兄さんのほう、会社廻り? ビシッと決めてたけど」
「もう大学いってないみたい。中退したんでしょう。あれはデートの服装よ。弟のほうはまじめ男。あんな感じで、けっこう大学の成績もいいのよ。銀行かどこかに勤めるんじゃない? どうも兄がね。不まじめということじゃないんだけど。恋人の実家が兵庫のほうで農業をやってるみたいで、夏に遊びにいってすっかり気に入ったようなのよ。大学をやめて、百姓をやってみたいなんて言いだして」
「農は一国の基本というわけだね。よくある迷信だ。縁の下を支えているというプライドだよ。農民自体は、そんなことを考える余裕はないだろうな。それでもやりたいというなら、そういう人がいても悪いわけじゃないから、自由にさせてあげればいいと思うよ」
「そんなこと、どうでもいいわ。できの悪い息子のことなんか。曲がりなりにもお腹を痛めて産んだ子だから、けんもほろろに追い返すわけにいかないし」
「サッちゃんとぜんぜん似てないね。二人とも、ブオトコだ」
「亭主似よ。ああいう特徴のない顔してるの。それも、どうでもいいわ。さ、お風呂入りましょ。上がったら、園でコーヒーでも飲んで、きょうはお帰りなさい。お話を少ししてから」
 服をすべて脱がせてもらって、浴室に入る。サッちゃんは私にあぐらをかかせ、
「きれいにするわよ。きょうは私だけのものだから」
 桶で湯をかけて清め、湯船に立つように言う。私の全身に石鹸を使いはじめる。
「きょうも夢の中。うれしい」
 全身を丁寧に洗う。いっしょに抱き合って湯船に浸かる。屹立してこない。初めてのことだった。サッちゃんはそっとつまみ、
「気にしちゃだめよ、スーパーマンさん。芯から疲れてるんだわ。目が充血してるもの。愛してます。さ、出ましょう。きょうは禁欲。一度吉祥寺のほうへ訪ねます。そのときにうんと抱いてもらいます」
 触れた人間はいずれ死んでいく。すべての書類から名前が消えていく。預金通帳、請求書、日記、遺言書。何度更新してもそこから消えていく。彼らが残っている場所は、生きている私の記憶の中だけだ。私ができるだけ長く生きて、彼らの名前と人生を憶えていなければならない。
「いつか約束していたちゃんこ鍋作ります。おいしいわよ。それまで私のスクラップブックを見てるか、テレビを観てるかしてて」
「サッちゃんが作るのを見てる」
 キッチンテーブルで新聞を見ながら、料理にいそしむサッちゃんの背中を眺める。記憶しようとする。ウェーブの利いた首までの髪、背中にチャックのある水着のような藍色の袖なしワンピース、太い二の腕、大きな尻、形のよいふくらはぎ。小さな足に大きなスリッパを履いている。俎板を使う背中が言う。
「鶏団子の醤油ちゃんこよ」
「団子はどうやって作るの?」
「鶏挽肉、木綿豆腐、卵、みじん切りした長ネギ、牛蒡、人参、おろし生姜、ごま油、片栗粉をよく練り合わせるの」
 ボールで練っている。
「……マスコミも思ったよりは大人しいものね。最初のうちは警戒してたけど、ぜんぜんキョウちゃんを追いかけてこない」
「当然だよ。マスコミというのは、社会に影響力を持とうとする媒体のことで、主にテレビ、新聞、ラジオ、雑誌などでしょう。その使いっ走りをするのが記者。フリーの記者も結局記事をマスコミに売りこむ。ある人間を追いかけるかどうかは、記者の気持ちしだい」
 魅力的な尻に寄っていってワンピースのスカートの下に手を入れる。
「あ、こら……」
 下着の腹から滑り下ろし、少し乾いている陰核を押し回す。サッちゃんはすぐにふるえてきたが、捏ね粉のついた片手を上げてがまんしている気配なので、膣に指を入れる。とたん、
「ああ、キョウちゃん、イ……イク!」
 思い切り腹を収縮させ、尻を突き出すように痙攣した。ズボンを下ろし、サッちゃんの下着を引き下げて挿入する。ゆっくり往復する。
「ああ、気持ちいい、気持ちいい! イク、イクイクイク、イク! あああ、キョウちゃん、愛してます、うん、またイクまたイク、うんんん、イック!」
 スピード豊かに往復する。
「うー、だめだめだめ、イク、イクイク、キョウちゃん、イク!」
 胸を抱きかかえる。連続する引き攣りを一分も味わってから、射精しないで離れる。サッチャンは片手を上げたまま振り向いて、口づけをする。
「オシッコ出なくてよかった。ありがとう。タダではすまさないのね。やさしい人」
 屈みこみ、私のものを含んで舐める。
「キョウちゃんもイカなくちゃ」
「ぼくはいい。まだ出したい感じじゃない」
「純粋なご奉仕ね。ふつうの男には絶対できない曲芸。キョウちゃんらしい」
 もう一度キスをし、下着を上げスカートを整えてふたたびシンクを向く。私も安心してテーブルに戻る。
「さ、団子はできたわ」
「ほかの具は?」
「鶏もも肉、油揚げ、豆腐」
「木綿にしてね」
「絹ごしと両方入れるわ。それから白菜、シイタケ、しめじ、人参、長ネギ、ニラ、キャベツ。ニラがおいしいのよ」
 サッちゃんは手を洗剤で洗い、下着を下ろして丸めると、テーブルにきてティシュを引き抜き、股間を拭った。
「グッショリになっちゃったから。オシッコして、下着替えてくる」
「やっぱり出しちゃう」
「うれしい、そうして! 私もホッとする」
 小便をして戻ったサッちゃんと、口を吸い合いながら椅子で交わる。まだ潮の退いていない膣がすぐに活発になる。
「あ、あ、ほんとに愛してる、好き好き好き、大好き、イキます、イクイク、イク! ウウ、イック!」
 陰毛が濡れた瞬間、吐き出し、律動を突き上げる。三度、四度と突き上げる。
「だ、だ、もう、だめ、あああ、愛してます、死ぬほど好き、こ、こんな、ああ、キョウちゃん、イクウウ! キョウちゃん! 愛してる、イグ!」
 固く抱き合う。しとどに陰毛と太腿が濡れる。サッちゃんが落ち着くまで腕の力を緩めずに抱いている。やがてサッちゃんは新しいティシュを当てながらゆっくり抜いて、最後の痙攣をする。また抱き締めてやる。
「ほんとに、ありがとう。キョウちゃんは理想的な心映えの男よ。二人といない。キョウちゃんは人生ですれちがった人じゃないの。運命で出会った人。……身の周りが落ち着いたら、家を整理して、私も名古屋に移住するわ。決めたの。その先も計画してるのよ。南山大の教養学科の語学講師。英語か中国語。しっかり審査を受けるわ」
「うまくいきそう?」
「書類審査と面接。資格は大学院を出てること」
「サッちゃんは大学院出か」
「意外でしょ? ここ四、五年は、中国語は引っ張り凧だから、助教授や教授は無理でも講師ならだいじょうぶだと思う。毎年定員一名で、五、六月に審査だから、しばらくまじめに勉強して挑戦するわ。それがだめなら、名古屋で中国語の通訳職を探すことにしてる」
「とうとう変人になるんだね」
「そ、ヘンシーン」
 サッちゃんは床に膝を突き、私の剥き出しのものを舐める。
「今度こそお鍋の仕上げにかかるわよ。いちばん大事なタレ」
「難しそうだね」
「配合がね。鶏がらスープの素、薄口醤油、味醂、お酒」
 テーブルの上に小型ガスコンロを用意する。俎板の上で油揚げに熱湯をかけて油抜きし、豆腐をザルに入れて水切りする。レンジで鍋を煮立てる。それから、具材を適度な大きさに切る。人参は薄く切っている。長く生きてきた女のすばらしさを感じる。
「煮る順番が大切。火の通りにくいものから。鶏肉、人参、キノコ類、豆腐、油揚げ、白菜の芯、鶏団子、スプーンで入れるの。長ネギ、キャベツ、白菜の葉、ニラ」
 そのとおりに入れていく。すぐに土鍋の両耳を耐熱手袋でつかんで、テーブルのガスコンロに移動する。火を点ける。取り鉢を用意する。
「はい、少し煮たら取り分けるわよ。柚胡椒と白ゴマはお好みでね」
 ゼツの味だった。
「うまいものだねえ!」
「わあ、喜んだ。うれしい」
 息も継がず食った。最後に残った汁にめしを入れ、醤油を垂らしておじやを食った。飽きない味で、二杯食った。


         四十八

 園でひさしぶりにコーヒー。このあいだのおでん屋での宣伝が効いて、マスターは好奇の眼鏡を外した目で私たちを眺めている。
「そういえば、女の子が二人、青森から出てくるって言ってたわね」
「うん。一人目は再来年。名古屋大学をね。受かるよ」
「名古屋大学か。名門ね」
「難しいらしいね。油断しなければだいじょうぶ」
「―恋人さん、ちゃんと引っ越しできたかしら」
「名古屋に出るまでの仮住まいにしては豪勢な一軒家を借りた。武蔵境」
「武蔵境なら少しはマシな家賃ね。息子のアパート探しで経験したけど、冗談でなく、都心のいまの借家状況はたいへんなの。立場の弱い弱い店子(たなこ)は、欲張りでわがままな大家の言いなり。敷金礼金なんていう法律的に危ないものまで取って、平気な顔してる。家の修理はしない、畳は替えない、出でいくときは、ここに傷がある、あそこにシミがあるなんて言って、最初に預かった敷金以上のお金を毟り取る」
「泣き寝入りが暗黙の了解か」
「そう。で、その一軒家はどんな間取り?」
「砂利の庭付き、和室三つ、板間の広いキッチン、ガス風呂、物置、水洗トイレ。家賃は二万二千円、敷二、礼一」
「一戸建てにしては格安ね。部屋数が贅沢。一人暮らしにそんなに必要なの?」
「大きい家でないと、風呂がユニットバスになっちゃうんだ。と言うより、銭湯がひどく遠いから、近くのアパートに住んでる仕事仲間に入りにくるようにって誘った手前もあるし、ときどき訪ねていくぼくにもユニットバスじゃ申しわけないと思ったんだろうね。大病院だから、これから仕事がぐんと忙しくなるにちがいないし、正看の試験も二月にあるし、ものは増える、本も増える」
「セイカン?」
「正式の正、看護の看。序列がいちばん上の看護婦。その下は准看。位が上がるのはいいことだよ。ホッとする。サッちゃんにしても中国語の翻訳をしてるし、ぼくを愛してくれる女は、みんなぼくを反面教師にして、独立心を発揮していく」
「反面教師じゃなく、キョウちゃんがそばにいることを励みにしてるのよ。安心して自分なりの生活にかまけられるということ。でもよかった。武蔵境なら、キョウちゃんの足が遠のくことはないわね。……ねえキョウちゃん、こんなに年の開いた女たちのことを、キョウちゃんはどう考えてるの?」
「みんな一番目の女で、一人しかいない女と思ってる。つまり同じ女。考えてみれば、カズちゃんから始まってヒデさんに至るまで、すべて一番目の女だったし、最後の女だった。思春期のころ彼女たちが何を考え、どうしゃべったかを知りたければ、いまのヒデさんを観察すればいいし、年たけて何を考え、どうしゃべるかを知りたければ、いまのトシさんを観察すればいい。ヒデさんは十六歳、トシさんは六十二歳だ。ところがみんな本質的に同じことをしゃべってる。つまり、何歳になっても同じ人間だ」
「キョウちゃんといると、女はみんな同じことをしゃべってしまうわけね。愛してるという本質だけ。すごい人ね、キョウちゃんは」
 ナポリタンを食べ終わると、マスターがサービスと言って、二杯目のコーヒーを持ってきた。薄くてまずいコーヒーだがありがたい。
「神無月さん、中日ドラゴンズ入団、おめでとうございます。ドラフトの結果どうなったかもちろん知ってますよね」
「いや、どうなったの?」
 一度読んだ新聞を思い出すのが面倒くさい。
「田淵は阪神、山本は広島、富田は南海、浜野は神無月さんのいく中日に決まりました。金田正一の弟が東映フライヤーズ。東京オリンピック百メートルの飯島が東京オリオンズに入りました」
 そんなことはぜんぶ知っている。
「一人も巨人にいかなかったんだね。巨人はカスをつかまされたわけだ」
「明治のピッチャー池島ぐらいですかね」
「八回から敗戦処理で出てきて、うちに五点取られたやつだ」
「武相高校の島野ってピッチャー知ってます?」
 どうでもよくなってきた。
「知らない。あれ? マスター、資格証書は?」
「外しました。神無月さんのような大スターでも、驕らず、肩肘張らずにひっそりと暮らしてるのに、つまらないことで鼻を高くするのがなんだか恥ずかしくなりましてね」
「ぼくなんか関係ないのに。マスターの誇りでしょう」
「チンケな誇りですよ。ペーパー試験で認められた大勢の一人じゃないですか。脇目も振らずコーヒーに打ちこむことにしました。お客さんにこれだと言ってもらえるおいしいコーヒーをいれる―」
「いまでもおいしいですよ」
 歯が浮く。サッちゃんが微笑む。
「まだまだ素人です」
 サッちゃんは駅の改札まで送ってきた。
「持ってる精神がちがうのに、キョウちゃんの生き方だけをまねしたってどうにもならないわ。キョウちゃん、きょうはほんとにありがとう。名古屋にいっても、からだこわさないように野球に励んでね。たまらなくなったら、勉強をお休みにして逢いにいくわ。私が名古屋にいくのは、早ければ半年後、遅くても一年半後よ」
「待ってる。でもまだまだ東京で逢う時間があるよ。今度井之頭公園を歩こう。それから食事して、夜はラビエンでもいこう」
「はい。そう言えば、ラビエンのバーテンさんどうなったかしら。学歴を言う言わない、子供を産む産まないってもめてたでしょう」
「もうあの手の悩みには飽き飽きした。複雑な事情を抱えてない人間の、悩みのための悩み。よしのりは、肩書のあるなしで人間を見定めることに興味があるみたいで、自分が肩書カードを人に見せられないことに悲観しちゃうんだ。肩書よりも大事なのは特殊技能だよ。たとえばぼくが中卒の肩書でも、野球の特殊技能はかくのごとくだ。でもかくのごとくあるために、東大という肩書をつけなければならない事情があったけど、よしのりは事情がない。特殊技能を鍛錬の強弱に応じてかくあらしめることができる。ぼくのような余分な事情がなかったからとても簡単だ。園のマスターもよしのりと同じ。特殊技能の鍛錬のためには肩書など要らない。事情のない人間は、かくあるべきだと気づけば早い。何の障害もないからね」
「私のような仕事は、特殊技能なのに、中卒や高卒ではだめなのよ。キョウちゃんのような余分な事情はないけど」
「ちがうな。ぼくの叔父は六カ国語できる。商業高校出なのにもかかわらず、法務省の通訳官をしている。それでじゅうぶんなのに、いつも学歴不足を嘆いていた。東大講師の大植物学者牧野富太郎は小学校中退だ。野口英世は中卒だ。牧野博士は学歴のなさで迫害されたし、野口英世はコンプレックスから東大に博士号を要求した。天才的な特殊技能者に肩書は要らないのにね。ただ、その中のだれもかれも、最終的な職業を遂行するために身内から学歴を強いられることはなかった。そういう事情がなかったので、才能の開花はスムーズだった」
「キョウちゃん……自分の身に引きこんで、肩書を単純に考えすぎよ」
 改札に入らずにぐずぐず立ち話になった。私はつづけた。
「特殊技能には、その獲得に肩書が必要なものと、必要でないものがあるって言いたいんだね。大学教育を受けなければならない技能とそうでない技能があるって。そんな馬鹿な話はない。エジソンは小学校三カ月中退だよ。牧野博士と言いエジソンと言い、科学者でさえ肩書が必要でないなら、バーテンや通訳や野球選手には肩書などまったく必要がない。それなのに肩書をつけなければならなかった人間は不幸だ。ぼくも、ぼくほどではないけどサッちゃんも、自分を不幸と認識しなければだめだ。そうしないとつけ上がった人間になる。天職に就くのに肩書をつける無駄をしなかったよしのりや叔父は幸福だ。がんらい肩書き云々は贅沢な範疇の話題だ。幸福な議論になる。女とやるかやらないか、子供を産むか産まないか、それと同じくらい幸福な議論になる。女とやりたいならやればいいし、子供を産みたいなら産めばいいし、肩書をつけたいならつければいい。そうしない条件は意欲だけだ。意欲だけでは成就させてくれない事情が出てきたら、それは不幸の範疇の議論になる。それなら聞く耳がある。ぼくは幸福なたわごとは聞きたくないんだ」
 サッちゃんは私の手を取り、
「キョウちゃんの言うとおりよ。でも、きびしすぎるわ。この世にはたわごとしか言えない人もいるの。キョウちゃんの命懸けの論理だけを基準にして、彼らを判断しちゃだめ。彼らはキョウちゃんのように死と接して生活してないの。もっとぼんやり、肩書や、セックスや、趣味を楽しみながら、緩やかな世間常識を頼みに生きてるの。たとえば肩書という楽しみを一つ奪われるのも苦痛なのよ。キョウちゃんは趣味に浸るのも、肩書を求めるのも、セックスをするのも命懸け。そう見えないのは、易やすと、まるで楽しんでるようにそれをしているからよ。だからみんなは、キョウちゃんが自分と同じ気持ちで、自分と同じ能力でそれをしているんだって思っちゃう。じつは命懸けなんだってキョウちゃんが言ったって、だれも信じないわ。だから人にきびしく求めちゃだめ。自分だけの胸にとっておいて。友だちでなければせせら笑えばいい。でも、友だちには情があるわ。見捨てちゃだめよ。どんなたわごとだって、からかいながらでも聴いてあげなくちゃ」
「うん……人間て、そういうことが基本なんだろうね。……いつか、母にどう対処すればいいか教えてほしい」
 サッちゃんは改札前のベンチに腰を下ろした。私も並んで腰を下ろした。
「お母さんには同情するわ。悲しい人。お父さんに人生を奪われたから、無意識にキョウちゃんから人生を奪おうとしたのね。おかどちがい。お父さんはきっと頭のいい奔放な人で、女の人からも、それは好かれたと思う。お母さんはプライドの高い、自分中心の人。お父さんの視線が自分だけに向いていないことが許せなかった。家庭の中ではイヤな女になったでしょう。当然お父さんは家庭を無視して、外に安らぎを求めた。ほとんど家には帰らなかったんじゃないかしら。お母さんの中に、奔放な男は信用できないというステレオタイプができ上がったのね。いえ、たぶんお父さんに会うずっと前からそうだったと思うわ。お父さんは自分に尽くしてくれるほかのやさしい女と出ていった。お母さんの怒りの向けどころは、キョウちゃんしかなくなってしまった。出会ったころのお父さんを愛したような心は、もう甦らないわ。ましてやそのキョウちゃんがお父さんにそっくりに成長したんではね。……キョウちゃんの恋人や友だちには愛があるけど、お母さんには愛がない。キョウちゃんを愛する恋人や友だちは、キョウちゃんと同じように、死と接して生きてるからよ。だからひとこともたわごとは言わずに、キョウちゃんの真剣な言葉や行動を命懸けで受け止めるの。でもお母さんはちがう。彼女に必要なのは、自分だけを愛して尽くしてくれる男だけ。……キョウちゃんの友達はちがう。キョウちゃんを愛してる。たとえよしのりさんのような生ぬるい世間常識を持った人でも、それに免じて赦してあげなくちゃ。せせら笑わずにね。愛ばかりでなく、命を捧げてるような山口さんや寺田さんのような完璧な友だちは、例外だと考えなくちゃいけないわ」
 いつかほんの話の欠けらに出てきた康男のことを、サッちゃんは憶えていた。私は彼女の手をとった。
「―サッちゃんの言うとおりだね」
「お母さんがキョウちゃんに捨てられたのは自業自得。でも、そんなふうにお母さんを簡単に切り捨てたのではお母さんに最善の対処をしたことにならない。キョウちゃんがしなければいけないことは、遠くからでもいいからお母さんと向き合って、なんとか彼女の長所を見つけようと努力することよ。見つかるかどうかわからない。でも見つかるまで一生のあいだ、お母さんも自分もきびしく見つめつづけることよ。キョウちゃんはそういうことができる人。そうしなくちゃいけないことをいちばんよく知ってる人」
 六時にサッちゃんの家を出たのに、七時半を過ぎた。
「じゃ、帰るね」
「引き留めちゃってごめんなさい。かならず吉祥寺に一度お訪ねします」
 改札口で手を振ると、サッちゃんは律儀に頭を下げた。
 東武東上線で池袋へ、池袋から山手線、新宿から中央線快速と乗り継いで、九時過ぎに御殿山に帰り着いた。
「おかえりなさい!」
 福田さんの笑顔が式台に出てくる。中指に運針の指輪をしているので、キッチンテーブルで縫い物をしていたとわかる。
「古風だね。うれしいな」
「古くなった下着がたくさん出てきたものですから、雑巾を縫ってました」
「ありがとう」
「ごはんは?」
「ちゃんこ鍋を食った。腹いっぱい。キンタマは空っぽ」
「まあ……。じゃ、夜食にトン鍋を用意します。疲労回復にバッチリですよ。さ、お風呂にでも入ってゆっくりしてください」
「遅くなったら帰っちゃうの?」
「いいえ、帰らないで待ってるようにって神無月さんがおっしゃったので、泊まるつもりできました」
「うん。夜食はいっしょに食べよう。風呂に入ったら、しばらくテレビを観る」
「はい。お風呂、ごいっしょしていいですか」
「もちろん」
 のんびりと肩を並べて湯船に浸かる。
「きょうの新聞の話題は?」
「野球は、阪神の新監督に後藤という人が就任しました」
「うん、聞かない人だな」
「ヘッドコーチだった人だそうです」
「世間的なことは?」
「別に。ニクソンが今月の初めに大統領になったことは知ってますね」
「知らなかった。ニクソンの前はだれだっけ」
「ジョンソンです」
「その前がケネディだ!」
 飯場の騒ぎを思い出した。


         四十九

「……神無月さんをお待ちしながら、五百野という原稿を読んでました」
「断片ばかりね。あとで寄せ集める」
「一つひとつ、胸を打たれる内容でした」
「そう。ありがとう。コツコツ書くよ」
 風呂を出て、居間でコーヒーを飲みながらテレビ。道頓堀。長門裕之主演の大阪商人の商魂物。みんな日活からテレビにやってくる。そのうち裕次郎もやってくるのだろうか。長門が嫌いなので回す。結局特別機動捜査隊に落ち着く。
 コーヒーを飲み終わったので、ガスストーブの効いた部屋で、福田さんの膝枕でぼんやり観る。そのあいだに福田さんは、私の耳クソをほじったり、手の爪を切ったりする。
「幸せ……」
 ポツンと呟く。それからふと、
「気のせいじゃないと思うんですけど……」
「何が」
「神無月さんの頭とお顔から、何か電波みたいなものが出て……ももから伝わってお股の奥が熱くなるんです……このままだと、イッてしまいます。膝枕を外しますね」
 何か緊急事態のように頭を抱えて下ろす。深い愛情がしからしめる感覚の幻だろうと思うと微笑ましかった。
 鬼刑事バリンジャー、夜のワイドニュースまで観た。
「ああ、ゆっくりした。たしかに腹がへってきたね」
「でしょう? 私もです。キッチンへいきましょう」
 きょうのサッちゃんを眺めたように眺めようと思った。女の料理姿が好きだ。愛しさが増し、また同じ気分になるだろう。
 すき焼き鍋に、もやし、ニラ、豚バラを放射状に重ね、胡椒を振り、同じことを三度繰り返す。小さな丘ができあがった。その上に料理酒に塩を溶かしたものをかけ、蓋をして強火にした。
「これで八分ほどしたらできあがりです」
 おろしポン酢を作り、ネギを小皿に盛った。
「ネギと七味を適当に入れて食べましょうね」
「八分あったらじゅうぶんだね。パンティ脱いで、テーブルに腰を下ろして」
「はい、八分もしてたら気を失いますから、なるべく早く出してくださいね。でも、きょうは……」
「だいじょうぶ、夕方に一度出したきり。きのうはすごかったけどね。それに、精子は数時間で溜まるから」
 福田さんはテーブルに坐って脚を垂らし、両手を後ろに突いた。私はズボンを脱ぐと、両腿を抱え、しっかり屹立しているものをクリトリスに接した。こすり上げる。
「見て、自分のオマメちゃんがこすられてるところ」
 見下ろす。
「あ、いやらしい、ボッコリして気持ち悪い。見てるだけで、どうにかなりそう、あああ気持ちいい、イキます!」
 愛液が一条飛んだ。挿し入れる。福田さんが固く目を閉じてあごを上向け、陰阜を突き出した瞬間、亀頭が膨張し、ふくらんだクリトリスの奥へするどく吐き出した。挿入して一秒。初めての経験だ。
「ああ、気持ちいい! ああああ、愛してます、イイクウウ!」
 ガクン、ガクンと十回余りも繰り返し、ようやく落ち着いた。まだ燃え残っていた下腹部の燠火がようやく消えた思いだった。
「ああ、お鍋が」
「だいじょうぶ、二分も経ってないよ。抜くよ」
「思い切って抜いてください。ソッと抜いても同じですから」
 素早く抜く。
「うううーん、イクウ!」
 またガクン、ガクンと繰り返した。愛液が二度ゆるく飛んだ。
「雅子のはすごい持ち物だね」
「私の持ち物じゃありません。神無月さんの持ち物です。……おつゆが出てきません」
「やっぱりキンタマ、空だったんだね」
 行為の最中にこういう対話をするのは、福田さんの年齢に安堵しているからではない。福田さんの特異な開放性と、性的な魅力と、底知れないやさしさのせいだ。根に好色のない、私にとっての愛玩性を老齢まで残してきた唯一の女だ。成熟したカズちゃんたちとはこの種の対話はしたことがない。終生しないだろう。福田さんはほてった顔で上半身を起こし、
「そうですよ、いくらなんでも、連日ですもの。空になります。かわいらしい人―」
 福田さんは、縫いかけの雑巾の一枚で股間をそろっと拭い、下着をつけた。
「穿かなくていい。めしが終わったら、真っ裸で抱き合ってそのまま寝るのに」
「冷えてしまいますから」
トン鍋はサッちゃんのちゃんこ鍋と同様、次元のちがううまさだった。
「うまい食い物だねえ! いくらでも食える」
「よかった! ビタミンB1」
「と言っても、よくわからないんでしょう?」
「疲労回復とか……」
 二人でアハハハと笑い合う。
「キンタマが使い物にならなくなっても、ぼくを愛してくれる?」
「あたりまえです!」
 ドンブリ一膳を瞬く間に食い終えた。
「じゃ、寝ようか」
「はい」
         †
 十一月二十九日金曜日。十・三度。朝から青空。
「きょうは遅くなるかもしれない。紅白戦の帰りに映画でも観てくる」
「はい。私も近所の寄り合いの誘いが急に入りましたので、ちょうどよかったです。じゃ夕方にはまいりませんからね。あしたは土曜日ですから、ジムにいく日ですよ。私、お休みですけど、朝食の支度に参りましょうか」
「いや、休みはきちんと取って。雅子はこのところしすぎて疲れてる。いくら女は頑丈といっても、想像以上の疲れが溜まってるはずだから」
「はい、わかりました。……でもだいじょうぶですのに」
 朝食を終え、ブレザーで服装を整える。革靴を履く。
「いってらっしゃい」
「うん。東京で最後の野球だ」
 玄関に見送られて、揚々と歩み出す。九時。冷えびえとした上天気。きょうの紅白戦を終えたら、三月のオープン戦まで三カ月間実戦はない。そして三月から十月まで八カ月、実戦漬けになる。
 駅前の横丁のレコード店から佐川満男の『今は幸せかい』が流れてくる。昭和四十年を境に、日本の歌謡曲に聴くべきものがなくなった。
 本郷通りから農正門へやってくると、門前で四人、五人、ビデオカメラを肩に担っていたテレビ局の連中が、自社の報道記者を引き連れて押し寄せてきた。イチョウ並木に逃れた私を東大球場の玄関口まで追いかけてきて、そのままグランドに雪崩れこんだ。待ち構えていたカメラマンたちと入り交じり、神宮球場のようなフラッシュの嵐になる。
 ブラバンの演奏が響きわたり、三百人のスタンドが沸く。演壇でバトンが踊り、応援団が演舞を始めた。ホームプレートに並ぶ鈴下監督、西樹助監督、仁部長、岡島副部長、克己主将の五人から握手を求められる。兼、小田両コーチ、黒屋、白川、詩織、それにレギュラー、準レギュラーたちがカメラにまとわれつかれながら走ってきて、一人ひとり私と握手する。詩織が呼んだにちがいないトレパン姿の睦子も彼らにまぎれて握手する。鈴下監督が、
「天馬神無月郷くん、一年間、ほんとうにありがとう。きょうは東大球場での最後の晴れ姿をとっくり見物させてもらいます」
 西樹助監督が、
「プロにいっても大活躍することを信じています。大学野球を変えたように、プロ野球も変えてください」
 仁部長が、
「たまには東大野球部のことを思い出してください。思い出してなつかしくなり、お訪ねくださることをいつもお待ちしています」
 岡島副部長が、
「きみのたゆまぬ努力に感銘したことが、私の生涯の指針になりました。しっかりと後進を育てるつもりです」
 黒屋が、
「人間の多様性の神秘を教えていただきました。ありがとうございました」
 詩織が、
「感謝以外の言葉がありません。永遠に見守らせてください」
 白川が、
「イロ男、来年の春、銀座のギャラリーで写真展やるからな。神無月郷のすべて。一年中撮りまくってたんだよ。知らなかったろ。利益は、野球部の部費の足しとして、全額寄付する。全国の球場も撮りまくるぞ」
 睦子は涙を流しながら、
「最後の東大球場を楽しんでください」
 と言った。レギュラーたちとは、顔を見つめ合いながら、一人ひとり、もう一度固い握手をした。克己が、
「試合後に胴上げだ。白川が撮る胴上げ写真は、部室のユニフォームケースの脇に飾る」
 何台ものビデオカメラが回りつづけている。鈴下監督が、
「よーし、スターティングメンバー発表! 克己!」
「はい! 赤組、先発有宮、中継ぎ村入、三井、キャッチャー棚下六番、サード水壁三番、ショート野添一番、セカンド田宮八番、ファースト臼山五番、レフト神無月四番、センター中介二番、ライト杉友七番。つづいて白組、先発台坂、中継ぎ那智、森磯、キャッチャー克己三番、サード宇佐八番、ショート大桐五番、セカンド磐崎一番、ファースト川星七番、レフト風馬二番、センター岩田六番、ライト横平四番。審判は、準硬式野球部のコーチのかた五名。マネージャーの白川と鈴木は三塁ベンチ、黒屋と上野は一塁ベンチ。九回決め。コールドなし。九回引き分けあり。それいけ、十五分で着替え、十五分のストレッチ!」
「オース!」
 先発十八人プラス控えの数人が部室へ飛びこむ。白川が手のひら大の高級そうなカメラを持って、いっしょに走りこむ。客人の私だけは無番かと思いきや、白川が背番号8を持ってきた。
「監督の宝物だ。汚れたら、そのまま取っておくそうだ」
「一度盗塁します!」
 ストレッチ、グランド二周、センターフェンスの下で三種の神器。
「集合!」
 ブラバンの響き。足音を高めよ斉唱、山口のコンバットマーチ、バトントワラーたちの華麗な踊り、応援団の凛々しい演舞。ストロボがボッ、ボッと焚かれる。
「両軍整列!」
 走っていき、礼をして、攻守に散る。赤組先攻、三塁ベンチ。きょうも真っ青な空を見上げる。千年小学校、宮中学校、青森高校、東京大学。
「バッターラップ!」
 野添が打席に入る。台坂初球外角へ渾身のストレート。ストライク。水壁が叫ぶ。
「台坂ァ、大人げないぞ、打たせろ! 一年生だぞ」
 ベンチ内爆笑。二球目、内角低めシュート。ストライク。
「野添、ナイスセン!」
 また爆笑。白組ベンチも笑っている。三球目、外角ショートバウンド。
「なんだよー、打たれたくないだけか!」
 爆笑。しっかり和んできた。四球目、真ん中低目、ファールチップの三振。バトンたちは両軍の攻撃でも守備でも踊りつづけなければならない。二十人ほどが三人交代で演台に上がっては踊っている。二番中介、初球をひっぱたき、ショートへ深いゴロ、大桐捕ってワンバウンドの送球、塁審が洒落た格好で右指を二本上げる。アウト。拍手。水壁が走ってバッターボックスに入る。台坂が明らかに緊張する。一つには長距離ヒッターの水壁に対する警戒から、もう一つは次のバッターである私へ回してはいけないという恐怖からだ。
「水壁さん、一発!」
 私の声に睦子が呼応する。
「ホームラン!」
 初球、とんでもない高目の直球。ボール。コンバットマーチ。応援団の突き。
「一点やっていいぞ!」
 横平がライトの守備位置から叫ぶ。二球目、外角ストレート、ジャストミート、川星と磐崎のあいだを痛烈に抜けるライト前ヒット。歓声。足柄山マーチ。金太郎コール。久保田バットを二振り、三振りしながら新鮮なバッターボックスに入る。足もとを均す。台坂が絶望的な表情をしている。フラッシュの連発。ビデオカメラが回る。
「ホームラン、ホームラン、金太郎さん!」
「ホームラン、ホームラン、金太郎!」
 初球、魅せられたように内角低目に直球、しかも力のない純粋な直球がきた。
 ―嘘だろう? 好きなコースの打ちそこないを期待してるのか?
 ハッシと叩く。
「ウオオオー!」
 毎度の大歓声。キャーという睦子の声が混じる。台坂は球の行方も見ずに、ガックリしゃがみこむ。ボールはどこまでも伸びていき、金網のはるか上方を越え、森の中に消えていった。全速でダイヤモンドを回る。光の洪水。ブラバンの高らかな演奏、バトントワラーの乱舞。


         五十

 私のホームランをきっかけに、ヒットとホームランの壮絶な打ち合いになった。喉も裂けよと応援団はガナリ立て、股も裂けよとバトンガールたちは脚を振り上げた。フラッシュが間断なく光り、新聞記者たちは手帳に激しくメモを取りまくった。バックネット裏のチョーク書きのスコアボードがめまぐるしく書き換えられた。
 三時間半の熱闘の末、十九対十六で赤組がα勝ちした。赤組では、私が四本、マッチョの臼山が二本、水壁、中介、野添が一本、白組は、横平、克己が二本ずつ、磐崎、風馬、大桐が一本打った。ほとんどホームランで挙げる得点なので、一回から九回までスタンドじゅうがヤンヤの喝采に沸き返った。
 試合後、両チーム駆け寄って、私を胴上げした。監督まで泣きながら私の背中を押し上げた。私は一瞬、人生の終焉を感じた。
 紅白両チーム打ち揃って応援団の前に立った。バシャバシャバシャバシャ、フラッシュフラッシュフラッシュ。団長の口上が空に昇る。
「みごとなァ、試合であったァ。去りゆく最上級生を核とするゥ、血沸き肉踊るゥ、今季六大学優勝校のォ、きわだってすぐれたァ、実力の披露であったァ。天よりくだりこし天馬ァ、神無月郷くんをォ、天へ帰すゥ、衷情こめたァ、まことに雄勁なる歓送の儀式であったァ。神無月くんのォ、残せし璧(たま)なる球魂をォ、末永くゥ、わが東京大学のォ、伝統としてゆくことこそォ、去りゆく天馬神無月くんへのォ、真の謝恩たるべしとォ、考えるものであるゥ。いま一度ォ、天より舞い降りてェ、神無月くんの着地する場所はァ、けだし野球界の広大なる土地であるべしィ。いずこか知らずゥ、いずこにあろうともォ、われわれは衷心をもってェ、神無月くんにィ、哀別の慟哭を捧げェ、久遠の恋情を捧げるものなりィ。神無月郷くん、バンザーイ!」
「バンザーイ!」
「バンザーイ!」
「バンザーイ!」
 私は両手で顔を覆って泣いた。すばらしい口上だった。ベンチ前の全員が泣き、団長が泣き、団員が泣き、バトンガールたちが泣き、新聞記者たちが泣き、観客が泣いた。闘魂はの演奏が荘重に流れた。応援団とバトンガールたちの華麗な演舞が振舞われた。楽団員全員が泣きながら演奏し、白川は泣きながらシャッターを押していた。
 礼をして、全員ホームベースへ駆けていき、監督、部長はじめ、全員で人を選ばず抱き合った。カメラやビデオがやってきて、私たちを取り囲んだ。デンスケが回る。
「金太郎さん、忘れないぞ!」
「金太郎、俺はホモじゃないが、おまえに惚れてた」
「プロにいるかぎり、行方不明じゃない」
「ファンクラブは北の果てから南の果てまでもいくぞ」
「俺の息子は野球選手にする!」
「プロやめたら、東大の監督になれ」
「スキャンダルが流れても、俺がおまえの人格を証明してやる」
「困ったことがあったらこい。弁護料はタダだ」
 …………
 ゆっくりと部室へ引き揚げていくみんなの背中に、いつまでも山口のコンバットマーチがスローテンポで追いかけた。部室の裏の水道でみんな涙を洗った。パンツ一つになって男どもが着替える中に、白川と女三人がわいわいと立ち混じっていた。白川が大きなクーラーボックスを担いできて、部室の全員に缶ビールを手渡した。乾杯になり、あらためて泣く者たちが出てきた。監督と女三人がいちばん泣いていた。涙は伝染した。特に私に伝染した。私は涙を流しながら語った。
「みなさん、一年間、ほんとうにありがとうございました。かくも盛大な壮行会を催していただき、感無量です。この一年間ほどの幸福をぼくは味わったことがありません。これからも味わうことはないでしょう。海より深いご恩、生涯かけて忘れません。鈴木睦子さん、鈴下監督、電撃契約の際のあなたがたのご尽力がなければ、ぼくは中日ドラゴンズの選手になれませんでした。ほんとにありがとうございました。特殊眼鏡はプロにいってからも肌身離さず携行し、愛用させていただきます。……ぼくは感情が制御できません。女々しい涙をお許しください。……監督ばかりでなく、西樹助監督、仁部長、岡島副部長ら諸氏のかたがたの、初対面の印象とはかなりちがったそのゆるやかな人格に、どれほど慰められ、励まされてきたかしれません」
 悲鳴に近い笑い声が上がった。
「……練習時間、七帝戦、新人戦、オープン戦等の怠慢、よくぞ根気よくご寛恕くださいました。また、もろもろの便宜のお計らい、心から感謝しています。紋切りはよしましょう、感謝し切れないんですから。ああ、東大野球部の先輩、同輩のみなさん、あなたがたときたら、なんとすばらしい人たちだったでしょう! 克己主将、中介副主将、大桐副主将、横平さん、水壁さん、磐崎さん、臼山さん、有宮さん、台坂さん、棚下さん、三井さん、村入さん、森磯さん、壮畑さん、杉友さん、宇佐さん、川星さん、熊田さん、森野さん、風馬さん、田宮さん、野添くん、那智くん、あなたがたはぼくの入部以来、持ち前のするどい知性をかなぐり捨てて、この東大マグレ合格野球バカの面倒をねんごろに見てくださいました。どんなときも過分な声援を送りながら、このふまじめなぼくをやさしく庇って、和やかな時間を与えてくださいました。背番号とともに、その大恩をあだや忘れることはございません。マネージャーのみなさん、白川さん、黒屋さん、上野さん、鈴木さん、あなたがたの存在はじつに大きかった。この生意気野郎の意思疎通役、慰撫役、用具調達役、そしてベンチの声援役、どれをとっても、ぼくには欠かすことのできないものでした。……みなさん! ぼくは終生、みなさんと別れることはありません。きょうを別れの日と思っていないのです。一度出会った人間は生涯別れてはなりません。ちんけな別れのドラマで人生を穢してはならないのです。いつまでも会いつづけましょう」
「別れないぞう!」
 横平の声にいくつも声が重なった。
「別れないぞう!」
「ぼくはこれまで不幸でした。みなさんがぼくを幸福にしてくれました。今度はぼくがみなさんを幸福にする番です」
「もうじゅうぶんだぞう!」
「もっともっと幸福にする番です。いえ、愛する番です。愛されすぎましたから。グランドからいつもみなさんをお慕いしながら、みなさんへの愛を確認する思いでバットをぶん回します。……もうだめです。しゃべりすぎました。涙を拭きます。白川さん、タオルください」
 私はベンチに腰を下ろし、白川の渡したタオルに顔を埋めた。マネージャーたちが寄り集まり、膝を落として私の脚や腕を抱いた。監督が泣きながら、私の頭をごしごしやった。
「なんて野郎だ。罪な言葉吐きやがって。これから金太郎さんを思い出すたびに、泣けて泣けて仕方ないじゃないか」
「盗塁してユニフォームを汚そうと思ったんですが、チャンスがありませんでした。すみません」
「金太郎さんの汗が滲みこんでる。それでじゅうぶんだ」
 横平が、
「年に一度は、金太郎さんと懇親会を催そうぜ」
 克己が、
「やろう! 金太郎さんの都合に合わせろよ。プロは忙しいんだ」
 私は顔を挙げ、
「いえ、時間を作ります。みなさんのほうこそ、おたがい都合を合わせてください」
 白川が、
「俺がぜんぶやるよ。毎年、曜日を問わず、きょうだ。十一月二十九日。プロも暇だろ」
「暇です」
 私が応えると、有宮が、
「ほんとに曜日、関係なくだぞ。サラリーマンは休めよ。裁判官や弁護士は無理だろうけどな」
「それでも休め!」
 ファンクラブ会長の大桐が怒鳴った。白川が、
「監督、そういうことでいかがですか」
「大、大、大、大了解!」
 みないっせいに立ち上がった。私は久保田バットを持った。監督が、
「いまから金太郎さんを飲みに誘ったりなんかしちゃだめだぞ。金太郎さんはどんなときも忙しいんだからな」
「ウィース!」
 克己が、
「じゃ、監督、俺たちはちょっと引っかけて帰りますか。金太郎を偲んで」
「酒はだめだ。騒ぎでも起こしたら来季に響く。コーヒー、一時間。卒業式のない気の毒な連中だ。おまえらの壮行会は俺たちが来月きちんとやってやる。そのときに好きなだけ飲め。岡島さんがもう周到に計画してるよ。バトンもくるぞ。うれしいだろ」
 水壁が、
「うれしいです! ハントしていいですか」
「それはおまえたちの器量しだいだ」
 三人の女が笑った。
 ぞろぞろと農正門まで歩いていく。カメラが大挙して追ってきてフラッシュをきらめかせる。涙をこすったせいで、みんなの頬が赤かった。女三人や野添や那智がまだ涙を浮かべている。一人の記者が無理やり割りこんできて、
「ちょ、ちょっとだけ、インタビューじゃないです。神無月さん、キャンプ地は明石ですが、初日から入られますか」
「もちろんです」
「入団式では背番号8を着られますか」
「正式に通達されてません」
 調子に乗って何人も押し寄せてきた。
「名古屋ではドラゴンズの寮に入りますか」
「入りません」
「お母さんとは仲直りなさいましたか」
「インタビュー禁止だ!」
 部長の仁が怒鳴った。
「みごとに立ち入ったインタビューじゃないか!」
 克己が彼らの胸をグイグイ押して、私たちの集団の外へ出した。優勝祝賀会の彼の怒気を思い出した。横平が私に並びかけ、
「年に一回の懇親会の酒も、気兼ねしないでチビッと飲めばいいからな。そんなことで出席を渋られたんじゃコトだ。プロでも飲み会は避けたほうがいいな。やつらが飲む量は尋常じゃないだろう」
「たぶんそうだと思います。酒の強い人というのは底がないですから」
 赤門前に全員揃って立ち、監督に倣って私に最敬礼した。詩織や睦子や黒屋も混じっていた。鈴下監督が、
「毎日、新聞やテレビに目を凝らしてますからね。東京遠征のときは、たまには東大球場に顔を出してください」
「かならずそうします。じゃ、失礼します」
 台坂が、
「来年のきょうな!」
 と手を振った。マッチョの臼山が、
「キスの感触、忘れないぞ!」
 私はバットを高く掲げた。
 カメラは追ってこなかった。鈴下監督たちが押し留めたのだろう。十字路で信号を渡るときに振り返ると、門のほうでまだフラッシュの光が瞬くのが見えた。
 池袋から馬場に出て、東西線で帰った。映画は観なかった。感激が甦ってきて思わず涙が浮かんだ。車中でじろじろ見られた。何人かの乗客に、
「東大の神無月選手ですか」
 と尋かれた。
「はい、きょうは感激に浸っているのでお話できません」
 と答えた。


        五十一

 玄関に明かりは灯っていなかった。すぐ風呂に湯を埋めて入った。歯を磨き、頭を洗った。コーヒーをいれて飲んだ。キッチンテーブルの上のメモ書きに気づいた。

 お帰りなさい。お風呂どうぞ。冷蔵庫の中にタイ焼きが二つ入ってます。ごはんは炊いてあります。カマスを焼いて食べてください。焼魚は冷めるとおいしくないので焼きませんでした。では月曜日に。雅子

 丁寧に畳んでブレザーのポケットにしまった。
 五百野を一枚書いた。椅子が快適だ。八時を回って、音楽部屋にいき、ビートルズを聴く。ラヴ・ミー・ドゥ、ツイスト・アンド・シャウト、ア・ハード・デイズ・ナイト、ハロー・グッドバイ、ヘイ・ジュード、オブ・ラ・ディ・オブ・ラ・ダ、愛こそすべて。満足。
 冷蔵庫を開けてタイ焼きを取り出し、オーブンで温める。齧る。うまい。福田さんの心が伝わる。睦子に電話する。
「あ、郷さん!」
「がんばってる?」
「はい、一生懸命やってます。きょうはご苦労さまでした。すばらしい最後の東大球場になりましたね」
「うん、大学野球がぜんぶ終わった」
「いまからいきましょうか? おじゃまじゃなければ」
「うん、夕食作ってほしい。泊まるつもりできて。あしたは福田さん休みだから」
「わかりました! すぐいきます。四十分くらい待っててください」
 五百野に戻る。胸がときめいて一行も書けない。
 やがて離れから遠く、
「こんばんはァ」
 という声が聞こえ、玄関の戸が開く音がした。迎えに出て、睦子の満面の笑みを見たとたん気持ちが和んだ。下着を準備してきたのか、小さな手提げバッグを持っている。
「腹へった」
 親しみの強い女にわがままが出る。
「はーい、さっそく作ります。食材は揃ってます?」
「たっぷりあると思う」
 冷蔵庫を開けて、
「あ、タイ焼きが一個」
 若やいだ声に胸が躍る。
「福田さんが二個用意したうち一個食った。それ、睦子、食べなよ」
「あとでいただきます。福田さん、あしたお休みというのは、こういうふうになることに気を使ったんですね」
「いや、土曜日は毎週休みなんだ」
「そうなんですか。毎日でもきたいでしょうにね。……きょうは、郷さんの最後の言葉に涙が止まらくなって。苦しいぐらい泣きました。思い出しただけで泣けてきます。応援団の哀別の言葉でも号泣しちゃいました。団長さん、あんなに豊かな言葉の持ち主だって知りませんでした」
「うん、ただのバンカラって誤解されて、気の毒だよね。風呂入ってるよ。台所やる前に入ったら」
「はい、入ってきます。トランジスターラジオを持ってきましたから、聴いててください」
 手提げバッグから小型のラジオを取り出してテーブルに置いた。
「ぼくも西高のころ持ってたけど、どこかへいっちゃったな」
 小走りで風呂へいった。しばらくして、脱衣場にそっとパジャマを置きにいった。
 文化放送でグループサウンズ人気投票というのをやっている。マシなものを発見しようと聞き耳を立てる。十五曲のうちマシだと感じたのは、ザ・ワイルド・ワンズの思い出の渚と、ザ・フォーク・クルセダーズの悲しくてやりきれないの二曲だった。その二曲にしても大したものではない。あとは、帰ってきたヨッパライ、シー・シー・シー、エメラルドの伝説、神様お願い!、君だけに愛を、ケメコの歌、こころの虹、ガール・フレンド、バラの恋人、廃墟の鳩、おかあさん、長い髪の少女……、どれもこれもウンコだった。
 さりげなくパジャマ姿で風呂から上がってきた睦子は、手早く食材を料理できる形に整えていく。
「何を作るの?」
「野菜とキノコのシチューをメインにするつもりです。しめじとタマネギと、人参、じゃがいも。ルーと牛乳があったから完璧です。三十分ぐらいかかります。カマスのヒラキが二枚ありますから、それに少し塩を振って焼いて」
「そのあいだシチューを見といてあげる」
「そんなことしなくていいです。半身に分けて四等分。あとは、冷奴に、ニラともやしの味噌汁でいいんじゃないかしら」
 シチューの準備にかかる。
「グループサウンズって、ほとんどウンコだね」
「そう思います。熱狂的な人気ですね」
「今年の外国のポップスで、いいと思った曲あった?」
「一曲もありません。郷さんと出会った昭和四十年にはいいポップスがありました。ライチャス・ブラザーズのアンチェインド・メロディ」
「名曲だ。きょうは平気?」
 睦子はカマスを焼きながら、味噌汁に具を入れる手を止め、
「はい、ぜんぜんだいじょうぶです。抱いても抱かなくてもいいです。私、郷さんの好きにされる女でいたいんです。抱かれれば悶え狂ってしまいますけど、抱かれなくても、死ぬほど好きな気持ちは変わりませんから。私のからだなんか、神無月さんの道具ぐらいに思ってます。神無月さんが使わないなら、放り捨てておけばいいって。使ってくれるなら最高の応え方をしたいです」
 近づいてきてやさしくキスをする。レンジに戻り、
「シチューがあと十分ぐらいで煮えますから、火を止めて温度が下がってからルーを入れます」
 表情も仕草もかわいい。よくこんなふうに生れついたものだ。あと十年もすれば、妖艶なカズちゃんになる。
「カズちゃんと睦子は、ぼくと何から何までぴったりだ」
 カマスをひっくり返す。
「よく、性の不一致で夫婦が別れますよね。私は、愛さえあれば性の不一致なんか問題じゃないと思いますけど……」
「ぜんぜん感じさせてくれない人とセックスしたら、もっと満足したいって気持ちに苦しんで、愛情が消えてしまうんじゃないかな」
「そうでしょうか。何があってもいったん芽生えた愛は消えないと思います。そして愛してさえいれば、女は感じるものだと思います。……最初から郷さんみたいな人に抱かれたからそう思うのかもしれませんけど。……肉体の快楽は、愛情がもたらす意外なボーナスみたいなものじゃないでしょうか」
「そこまで考えられるのには、もう少し年月がかかるかもしれない。でも、わかる。女として最高の愛情だね。尊敬する」
「尊敬なんて……。お味噌は、仙台味噌三分の二、信州味噌三分の一。よし、もやしとニラのお味噌汁ができました」
 シチュー鍋の火を止め、ルーを入れた。
「はい、シチューも完成。食べましょう」
         †
 二人で床に入る。カズちゃんのようにふくよかな睦子のからだを抱き締める。睦子は私を見つめ、微笑み、口を吸う。
「思い切り感じてね」
「死ぬほど好きな神無月さんに応えるためですから、遠慮しません」
 睦子は大きく股を開き、私をしっかり受け入れる。
「うん、気持ちいい! ……ああ、郷さん、もうすぐです!」
 十秒も経っていない。
「がまんして」
「はい、がまんします。あ、あ、あ、愛してます、が、がまんします」
 猛烈にうねって締まってきた。
「睦子、イクよ!」
「うれしい! ください! 愛してます、郷さんのぜんぶを愛し……ああ、イ、イクウ!」
 律動を与える。
「あああ、郷さん、うんとください!」
 律動のすべてを愛する睦子に与える。腹と胸を強く抱き寄せる。
「郷さーん! 好きです、愛してます、イク、イクイク、イク!」
 睦子のからだがほぐれていき、静かな安らぎのときが訪れる。睦子はいつまでも私の胸に両手をつけ、微笑んでいる。
「同い年なのに、五つも年下みたいに思えます。かわいらしい! 幼いころの好奇心のまま、何のためらいもなく抱いてくれる。幼い心のままのどんなエッチな言葉も行動もきれいです。いつも信じられないものを見ている思いでいっぱいです。こんなにやさしくてかわいらしい郷さんがいない人生なんて考えられません。和子さんが天使と言っていた意味が心からわかります。心臓と言っていた意味はもっとわかります。愛してます……郷さんは私のからだの一部です」
 やさしく胸をさすりながら、
「郷さんは、私のからだに自分の命を吹きこんだです。うんと喜ばないと、これまで命を磨り減らしてきた郷さんがかわいそう……うんと、うんと喜ばないと。郷さんはきっと、女があられもなく喜ぶ姿を強く心に焼きつけて、セックスしてあげることで手っ取り早く女に幸福を与えられると思いこんだんです。でもそうじゃないということをいつも心の中で確信していたんだと思います。女のほんとうの幸福は、自分の存在そのものを愛されることだと信じていたんだと思います。同じように男の友だちにも、理の通った言葉を話してあげることで手っ取り早い幸福を与えるんじゃなくて、その友だちの存在そのものを全力で誠実に愛することで真の幸福を与えられると気づいたんです。愛するためにはかなりの時間が必要です。だから、ぜったい別れてはいけないんです。きょうも郷さんはみんなに、人は出会ったら別れてはいけないと話しました。ジョン・ダンのように、別れの悲しみは時が解決するなんて甘っちょろいことを言わないんです。どこまでも私の思っていたとおりの人だったと思うと、涙が止まらなくなって……」
 子供のように泣き出した。鼻をすすりながら、
「私は郷さんに別れないと言ってもらうだけで何もいらないんです。愛してくれている証拠ですから。私は郷さんと出会った瞬間に、身も心も郷さんのものになったんです。セックスは、愛の化身の郷さんが私を気にかけてくれる魂の一部にすぎません。人間世界でどれほど魂より重要に思われているかは知りませんが、郷さんがそんなものを気にかかる人たちにいくら分け与えても何とも思わないんです。だから、郷さんとのからだの交わりは郷さんを愛する喜びの一つに加えることにしています。かわいらしい、神さまのような郷さんの魂があれば、ほかに何もいりません。和子さんは、二十五歳のとき十歳の郷さんに出会って、身も世もなく恋したんです。私が十歳の郷さんに遇ってもそうなったと思います。恋して、愛すると、その人を隅々まで観察するようになります。和子さんもそうでした。そして、郷さんが幼いころから命懸けで周囲の人を愛そうとしてきたことに気づいたんです。汽車に轢かれて死んだけいこちゃんも、早くに別れたお父さんも、大ヤケドをして入院した寺田康男さんも、脚の悪い加藤雅江さんも、無骨で繊細な飯場の人たちも、いっとき自分を裏切った滝澤節子さんも、郷さんの人生を狂わせたお母さんまでも愛そうとしたんです。和子さんは、郷さんを恋し、愛して、初めて自分がそれまで人を夢中で愛する心がどんなに欠けていたか気づいたんです」
 私は心の底から感動して、睦子の頬に唇を当てた。
「かわいらしい天使は睦子のほうだ。よく生まれてきてくれたね。生涯懸けて、睦子から離れないように生きるからね」
「うれしい。私も一生離れません。別れの悲しみは時が解決するなんて考えは、軽薄すぎます」
「ジョン・ダンて人の言葉だったね。どういう人?」
「十六世紀から十七世紀にかけてのイギリスの詩人です。若いころに、肉体の喜びや魂の交わりを奔放に描き、晩年には宗教詩を書きました。文学史上初めて、憂鬱と倦怠を歌った詩人です。自殺の衝動に駆られたことも何度もあります。まるで郷さんです。その彼にしても、別れの悲しみの無力さに甘んじ、時が解決すると詠(うた)ったんです」
「どんな詩?」
「題名は忘れましたけど、こんな詩です」
 睦子は暗誦しはじめた。

  きみはいない
  私はその不在に抗議する
  悲しみは深く果てしない
  何をしようと抗えない
  真の心を持つ者は無力だ
  時が苦しみを癒すのを待つだけ


「真の心というのは、人間の素直な感情、という意味だね」
「はい。時に癒されないようにする意志があれば、ちっとも無力ではありません。この詩人にその努力の意志はなさそうです」


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