五十二

 十一月三十日土曜日。睦子と二人で朝風呂に浸かりながら歯を磨いた。   
「歯を磨きだしたのは中学生からなんだ」
「え! でもきれい。口臭もぜんぜんしません。ちょっとアーンしてください。わ、虫歯が一本もない!」
「小学校二年生のころ奥歯が痛んで、顔が腫れたことがあったけど、それが抜けてからはそういうことはなくなったね」
「それも虫歯じゃなく、抜け落ちそうな乳歯をいじって化膿したんですね。お母さんが口移しでものを食べさせたことがなかったんだわ。ミュータンス菌はそれでしか感染しないんです。虫歯や歯垢ができるのはミュータンス菌のせいです。中学生になって歯を磨きだしたから、女の人とキスをしてもだいじょうぶだったのね。お母さんの愛情不足が幸いしたんです。皮肉ね。郷さんは口臭がないどころか、頭と精液のほかに、においというものがぜんぜんないんです。足の裏も腋も無臭。精液は甘いにおい。頭はぞくぞくするいいにおい。洗い流しちゃうのがもったいないです」
 きょうも言葉の愛撫で始まる。
「ああ、あしたから師走か」
「きょうはマネージャーと補欠選手たちで部室の大掃除です。私も手伝います」
「授業がないから、学生たちは時間潰しに四苦八苦してるだろうね」
「東大生は独学の達人です。詩織ちゃんは身体心理学の勉強」
「そんな科目あったっけ」
「将来のための独学です。スポーツ科学の大学院に進みたいんですって」
「そうだったね。睦子は受験勉強」
「はい。合格したら里帰り。そのあと名古屋へ引越し」
 風呂を出て、私、睦子と順に排便する。
「腹へった」
「食材が終わってしまったんです。外で食べましょう。そろそろ御輿を上げないと、郷さんが窮屈になります。名残惜しいですけど撤退します」
 睦子は思いついた顔で、
「郷さんは、怖いことってあります?」
「いちばん怖いのは、愛する人と別れること。二番目は、右腕を失うこと」
 睦子はしばらく沈黙したが、
「一番目の恐怖しか消してあげられません」
 やさしい微笑を浮かべて私を抱き締めた。
 ジャージを着て睦子と出る。駅前のラーメン屋で、味噌ラーメンというものを初めて食った。濃厚な味噌汁の上にもやしとシナチクとチャーシューとワカメが載ったものだったが、味は味噌汁とはまったくちがっていた。もう一度食いたくなるものではなかった。
 吉祥寺駅の改札で手を振って睦子と別れた。売店のスポーツ新聞の見出しだけチラリと見た。

   
神無月東大フィナーレ
    紅白戦で壮行会 四本塁打で締め


 ジムから戻って、一時まで三十分ほど眠った。玄関に女たちのにぎやかな気配が近づき、
「こんにちはァ」
 法子の明るい声がした。人の来訪がひっきりなしだが、面倒な気持ちは湧かない。引戸が開き、着飾った女四人が笑って立っている。
「なつかしいですね!」
「よ、少年、六年ぶり」
 姉の小夜子が握手を求める。皮膚の薄い骨ばった手。少し頬も落ちたようだ。しかしそのせいで大造りの目鼻が引き立ち、あらためて美しい女だと気づいた。すっかり老け顔になったよしえが、
「少年じゃないなァ。イロオトコ。おっかないほどの色気」
 トモヨさんと同い年くらいなのに、十も年かさに見える。とはいえ、化粧の淡い下ぶくれの顔に、かすかな女らしさが残っている。いちばん肌ツヤがいいのは五十半ばの母親だった。スナックの人工の灯りではなく日中の光の下で見ると、法子にひけをとらないくらいの美貌であることを初めて知った。
「いつも法子がお世話になってます」
「世話になってるのはこっちですよ。法子さんはすごいです」
「いつまでがんばれるかしらね。音を上げて名古屋に戻ってきてもいいように、ノラを少し改装したんですよ。あの場所は一等地なんで、いざというときにいい値段で売れますから。そしたらあなた、神無月さんがドラゴンズに入団したというじゃありませんか。改装した店は私たちがやるとして、法子には新しい店を作らなくちゃということになりましてね」
 四人、キッチンへ上がってテーブルにくつろぐ。法子がコーヒーをいれる。小夜子が、
「隣の土地を買うことも考えたけど、内田橋に、いまの二倍ぐらいの手ごろな物件があってさ、せっかく改装したけど、神宮前の店は売って、そっちを新装開店しようかとも思ってるのよ。おかあさんもあと五、六年がいいところでしょ。法子をママに、私とよしえさんと、あと二人くらい女の子を入れて」
「私が名古屋にいくのは来年よ。それまでみんなで細々とやってて」
 法子は冷蔵庫を開け、
「なんにも入ってないわね。塩辛とか、瓶海苔とか、長もちするのを入れといたほうがいいわよ。こういうときは、ごはんだけ炊けばすむから。どうせ外食が多いんでしょ? それでもいいけど、まんべんなく種類を変えて食べるようにしなくちゃ。そうだ、お手伝いさんがきてるのよね」
「金土と休んでもらってる。この二日で、冷蔵庫のものは食べ尽くした」
 母親たちが、部屋を検分しながら離れまで見にいく。すぐに戻ってきて、よしえが、
「部屋数は離れを入れて六つ。立派なお屋敷ねえ。こんな家をくれるなんて、そのお婆さん、神無月くんに惚れたのかしら」
「きっと後光を見たのよ。お墓が近い人には見えるのよ」
 小夜子が言い、母親がうなずく。法子が、
「そういう話じゃないと思うけど」
 小夜子は笑い、
「冗談よ。法子の言うとおり、この少年に心底惚れこんだのね。最初会ったときから、目がいやに光ったへんなやつだったけどさ」
 よしえが笑って、
「ほんと、ドキッとしたわよね。法ちゃんからいろいろ聞かされて、なるほどって思ったけど。幸せそうね、法ちゃん」
「はい、かわいがってもらってますから」
 みんなで女特有の笑い方をした。いっときコーヒーを味わう。小夜子が、
「机の原稿、チラッと見たわよ。やるじゃない。読ませるわよ。何度でも新人賞に応募することね。七回、八回落選するのなんかザラなんだから」
「応募するつもりはありません。野球で忙しいですから」
「野球の忙しさとは関係ないんじゃない? 応募すればいいだけだから。最後は文学で生きていきたいんでしょ。するべきことをしなくちゃ」
 私の過去など人に見せて価値のあるものではない。あってもなくてもいいものだ。あっていいものは、その人間がみずからいとおしむ過去だけだ。人はときとともに忘れる。むかしの暮らしも、慈しんできたものも―たとえば、歩いてきた道の途上で眺めた空の景色、印象深い人びとの交流、経験したできごと。まぎれもない〈私の〉思い出の真珠。つなぎ合わせていた糸が古び、切れ、真珠は散らばり、記憶の隅に転がって姿を消す。ときは過ぎ、真珠のことは忘れてしまうか、忘れようとする。そんなものをほじくり出し、人前に曝して見せることにどんな意味がある? 〈彼ら〉にとってそんなものは塵あくたにすぎない。
「応募して何を言ってもらい、どんな価値を見出し、どう評価してもらおうと言うんですか? ぼくは自分の慰めのために書いてるだけです」
「臆病になっちゃだめよ。芸術家なんだから」
 法子の母親が、
「野球と小説。大したものねえ。名古屋に戻ってきたら、神無月くんに小ざっぱりしたお家を建ててあげなくちゃ。六畳に四畳半くらいの、落ち着いた仕事部屋をね。船方の家を改築してもいいわね」
「いえ、必要ありません。プロの選手になったら、根無し草になりますから。たまに飲ませてくれればじゅうぶんです」
「そうですか? ところで、お母さんはどうしてます?」
「元気です。中村区の飛島建設というところで、いまも賄いの仕事をしています」
「おいくつでしたっけ」
「ぼくを二十六で産んだわけだから……四十五ですか」
 法子が不満げに、
「ぜんぜん学費送ってよこさないのよ。生活費も。……冷たいというか、親の義務放棄というか」
 小夜子が、
「そんなこと言っちゃだめ。男子たるもの、いったん青雲の志を立てて都に出たら、独立独歩よ。学費ぐらい自分で稼いであたりまえ」
「神無月くんは野球やってるのよ。稼げないでしょ。一般の学生と事情がちがうのよ。私たちみんなで力を合わせて、プロにいくまでの神無月くんを支えなくちゃってがんばったから、こうしてドラゴンズにもつつがなく入団できたんじゃない」
「私たちみんなって?」
 母親が不安そうな顔になった。
「名古屋から神無月くんを追いかけてきた人たちよ。つかず離れず、神無月くんを支えてきたの」
「その人たちのこと、神無月さんのお母さんは承知なの?」
「一人でも女のにおいを嗅いだら、神無月くんのお母さんはとんでもない行動に出るわ。東大にいったからやっと野球は許されたけど、中退して入団するときには彼女の承諾を取るために、大学関係者やら球団関係者やらが説得に飛び回ったんだから」
 カズちゃんからの情報だろう。少し潤色があるけれども、まあ似たようなものなので聞き流しておく。最大の功労者は睦子なのだ。
「とにかく私が神無月くんなら、親からそんな仕打ちをされたら、アタマきちゃうけどな。神無月くんて、ひとこともそういうこと言わないのよ」
 母親が、
「神無月さん、いろいろ女の人たちから援助されてるようですね。いえ、責めてるんじゃないんですよ。人徳だなあと思いまして。あなたの身に備わった徳のせいです」
 よしえが、
「あたしでも貢ぐわ、全財産」
「ね、よしえさんみたいな堅い子にも、そう言わせるものを持ってるんですよ。ありがたくお受けすればいいんです。よしえさんばかりじゃない、私だってそうするでしょうね。ただ、からだを壊さないようにしてくださいね。私の言ってる意味、わかるでしょ? もう、プロ野球選手という大事な身なんですから」
「はい。母とは縁切り状態ですけど、女性たちの並でない援助のおかげで、ここまでくることができました。深く感謝してます―」
「だからといって、からだを壊したら援助した意味がなくなりますよ」
「みんな自分を抑えてくれてます。法子さんなんか、二、三カ月に一度です」
「おや、またそれもかわいそうなものね」
 小夜子が、
「女は味を覚えると、がまんしきれなくなるもんだけどね。法子もえらいな」
「仕事が忙しすぎて、それどころじゃないの」
 母親が、
「じゃ、神無月さん、とにかくここまで経済的には不足なくやってこれたのね」
「はい。義捐金が並じゃないので、お金のことを意識したことが一度もありませんでした。飛島の社員たちもカンパで集めて、とんでもない額のお金を定期的に送ってくれます。四年間の大学生活をまっとうできるくらいのお金が、あっというまに貯まりました。その学生生活も先月終わりました」
 よしえが、
「もったいない気がするわね、東大を捨てたの」
 法子が、
「だから、野球をやるために東大にいったんだってば。どう説明すればわかってもらえるの?」
 小夜子が、
「この少年のやることは、どんなことも説明なんか利かないわよ。野球、東大、艶福、金福、何もかもね。家までもらっちゃったんだから。何千万の契約金だったっていうじゃない。それをポンとぜんぶ、そのタチの悪い母親と、親切な祖父さん祖母さんにあげちゃったのよ。説明しようがないでしょ。有徳のご仁のことだから、みんなにしっかりご恩返しして、またケロッとした顔で、みんなからそのお返しをされちゃうんだろうなあ。人間的にも満点」
 よしえが、
「私なんか、金福、艶福、人徳、どれも五十点もとれないうちに、年だけとっちゃった」
「あたしだってそうよ。だれに援助するわけでもなく、だれから援助もされず、ただ働くだけが生甲斐。ねえ、よしえ、あんた××さんと所帯持っちゃいなさいよ。低得点者同士うまくいくかもよ。まんざら嫌いでもないんでしょ」
「うん、嫌いなところはないんだけどね。いっしょになろうと言ってくれてるし。私もあんたと同じで仕事中毒の人間だから、家庭に魅力を感じないのよね。結婚しちゃったとしても、あと十年はお店を手伝わせてよ」
 母親がやさしくうなずきながら、
「もちろんよ、よしえさん。ほんとにありがとう。今後とも小夜子をよろしくお願いしますね。それから、神無月さん、法子のことをくれぐれもよろしく。結婚してくれなんてぜったい言わない子ですから。私も孫の顔を見せてくれなんてぜったい言いません。ただ水子だけは勘弁してね。そんな風向きになったときは、産ませてやってください」
「はい。それがみなさんの幸せに結びつくのなら」
「幸せですとも。もうお子さんがお一人、いらっしゃるんですよね」
「はい、名古屋に。もうすぐ四十になるトモヨさんという人に産ませた子です。高円寺にいる北村和子という人のご両親がトモヨさんを養子にとってくれたおかげで、親子ともつつがなく暮らしています。今月、二人目を妊娠しました」
「まあ、十九にしてお二人目! 自然児なのねえ」


         五十三 

 母親のふくよかな顔を見ているうちに、私はしみじみと幸せな気分になり、
「法子さんにはいつも感謝しています。せいぜい、仕事のじゃまをしないように気をつけます」
「こういう言い方、神無月くんのクセだから、慇懃無礼だなんて思わないでね。言葉どおりの人なの」
 三人を黒ねこへ連れていった。クエ鍋を食べさせた。女たちはあまりの美味に驚いて盛り上がり、貪欲に鍋をつつき、垣根のない会話をし、あたりまえのようにジョッキを重ねた。私もつられて中ジョッキを二杯飲んだ。母親が訊いた。
「こんな神無月さんにも秘密なんてあるのかしら」
 黒屋と同じ質問だ。同じ答えを繰り返すわけにもいかず、
「好色なところです。そのせいで、かなりの数の女と寝ています。それから行動の結果にマグレが多いこと。そのせいで有能な人間だと誤解されています」
 よしえが、
「好色というより、強く求められると逆らえないということでしょ。女から想いを寄せられることに無防備だとすると、じつはそういうことを求めてる、さびしがり屋の弱い人間なんじゃないのかなあ。その弱さが女を惹きつけるという仕組みじゃないの」
 母親が、
「逆よ。絶対的強者なの。きっと神無月さんは、女に対して何も求めてないのよ。でも女のほうは神無月さんに気に入られようと先回りして、いろいろ仕掛けたり貢いだりしちゃうのね。そこまで計算して女をあしらってるとすれば、神無月さんは弱くて卑怯な悪人ということになるけど、どうも神無月さんの場合、計算というよりは、状況に流されるままの自分を楽しんでるって感じね。六年前に見こんだとおり、理想的な自然児よ」
 小夜子が、
「私は、もう少し世間道徳の枷にはめられた小粒な男のほうが安心だけど、おかあさんや法子のようなネジの外れた女には、神無月少年は男の理想像のように見えるんでしょ。子供を作るにしても、小粒な遺伝子をもらっても女としてはうれしくないってことよね。まあ、セーフにしといてあげるわ」
 よしえが、
「やっぱり、この青年を見てると胸がドキドキしちゃう。ママさんの言うとおり、絶対的に強い人間だという気がしてきた。とにかく人をのぼせ上がらせる子ね。それでいて、とんでもなくホッとさせるし……」
「たぶん、ホッとするのは、神無月さんに好意を持つ人だけでしょう。神無月さんがそういう人にだけ開けっぴろげになってくれるからじゃないの」
 私は笑いながら、
「ぼくが開放的になるのは、そこまで良心的なものじゃありません。好きな相手に恥ずかしい部分を見せたいという、お医者さんごっこ的感覚です。というより、相手をお医者さんに見立てる、一方的な患者ごっこですね。詮索の自由な機会と意欲を持ってる医者のような人間が、やさしい気持ちから患者に好意を持ったら、たいていの秘密はあばかれるものです。その医者が、生まれつきの聡明さと直観から、自分の詮索欲をさらけ出すような卑しいまねをしない慎みを持っていたら、あるいは、相手に快くしゃべらせてしまうほど自分の心を相手の心に近づける能力を持っていたら、そして、相手の告白を平静に受けとめ、心からのため息や、同情の言葉や、沈黙や、すべてわかったということを示す言葉をところどころに散らす話術を持っていたら、そのうえで、詮索したい相手が好意以上の愛を感じる人間だという条件が重なったりすれば、相手からどんな秘密でも溶けて流れ出すでしょうし、すべて白日のもとにさらけ出されてしまうでしょう。まさに私の女たちはそういう人間です」
 母親が手を叩いた。
「ほら、自然児でしょ! なんて頭のいい説明なの。ひさしぶりにお酒が進むわ。ノラのお酒なんか、ちっともおいしくないもの」
 法子が濡れた歯をキラキラさせて笑いながら、
「神無月くんは、言葉でも人をウットリさせてしまうの。私、神無月くんの言葉としゃべり方が大好き」
 よしえが、
「小夜ちゃん、この子、天才よ。野球だけじゃないわ。将来、大作家になるわよ」
「アイ・アグリー。でもさ、少年、いくら相手が医者みたいに腕がよくても、なぜあなたは適当に秘密を残しておかないの? 一部だけ診察を受けるようにしてさ。そんなにさらけ出してばかりいたら、ハクがつかないじゃないの」
「神秘的なハクというのは、愛していない人間のためにつけるものです。私の女たちはそんなものを期待する人間じゃないし、ぼくもがんらい自分を秘密で覆っておくほど神秘的な存在だと思ってません。訊かれれば語るし、訊かれなければ語らない。もの心ついて以来の一日一日のできごとが、秘密と呼べるほど重苦しいものとは思えないので、しょっちゅう問わず語りにしゃべります。自分の来し方が秘密でないとするなら、ぼくの現在の気質や行動を秘密の種にするべきだということになります。たぶんそういう秘密というのは、ぼくに対する信頼感をなくす気質や行動のことでしょう。それは秘密にしたいほど語るのが恐ろしいんじゃなくて、語るのが面倒くさい。訊かれるよりは訊かれないほうが面倒くさくない。けれど、気に入った人が訊いてくれば、さっきの伝で、自分のほうからさらけ出します」
 母親が、
「私たちは気に入った人?」
「はい、もちろん。気質や行動と言っても、情熱は秘密にしません。自分の情熱がもたらした行動の結果を訊いた人に説明することを、ぼくは一度も面倒だと思ったことがないからです。要するに、怠惰が原因となった行動のあらゆる結果に、ぼくは徹底して寡黙に反応します。この根強い怠惰を融かす人間が現れると、その怠惰の拠ってきたるところを暴露します。好色は情熱ですから躊躇せずに暴露しますが、マグレは怠惰な人間にも起こり得ますから、よほど愛されないかぎり、じつはマグレだったと暴露することはありません。法子たちは、ぼくのマグレという言葉を聞き飽きています」
 小夜子が母親に、
「愉快な少年ねえ。この子と飲み食いすると、頭を使うけど楽しいわ」
「楽しさを越えて、痺れてくるわよ」
 私は法子に尋いた。
「あしたからの予定は?」 
「食事をしがてら、夕方まで銀ブラして、夜は酔族館でお酒。あさっての午前中にみんな帰っちゃう。三日お休み取ればじゅうぶんよ」
 母親が、
「神無月さん、そのすてきな心で、いつまでも法子を愛してやってくださいね」
 法子が、
「一生離れないっていう私の気持ち、みんなにわかってもらったみたい。神無月くん、きょうはありがとう。もう自分の時間に戻ってください。本を読んだり、バットを振ったりしてください。さ、私たちも帰りましょ。あ、おかあさん、ここあたしのおごり」
 吉祥寺駅の北口まで送っていった。後ろ姿が魅力的なのはやはり法子と母親だった。私は声を投げた。
「来年の春、名古屋でお会いします!」
 四人で振り向いて、手を振った。
         †
 十二月一日日曜日。夜明け方に冷えこむ。六・三度。七時に離れの床を出る。上天気。軟便、シャワー、歯磨き。上半身を冷やさぬように長袖のシャツを着る。七時半、福田さんと朝食。
「今年開設されたばかりの横河武蔵野グランドというのが、ここから三キロほど先にあります。そこまで走ってみたらどうでしょう」
「いってみる」
「井之頭通りを西へ道なりです」
 吉祥寺通りを走って吉祥寺駅前の信号に出、左折して、二車線の井之頭通りを横河武蔵野グランドまで走る。ビルと商店と民家混じりの家並は低い。一本道。車もそれほど繁く往来しない。見上げると、雲と青空が半々。爽快。二十分ほどでグランド到着。サッカーかラグビーをする運動場のようだ。体操をしている市民がチラホラいる。広い土の敷地に入り、一連の鍛練をする。四角い運動場なのでダッシュがしやすい。五十メートルを休み休み五本。常に空を見る。気力が維持される。
 戻ってシャワー。新しいジャージに着替えて、掃除のすんでいる離れへ。福田さんは掃除洗濯のつづき。
 原稿用紙に向かう。さまざまな思いが胸をよぎる。石が水面を跳ねるように―死んだけいこちゃん、殺されたミー助、じっちゃの煙管のにおい、風に揺れる雪、猿が顔にぶつかったときの感触、母のこと、父のこと。すべて友や女にしゃべったこと。山口とカズちゃんは心配している。そんな暦日から生まれるはずのない私の深い倦怠を。心に抱えたまま私が話さないこと―倦怠の羊水の中から私が生まれたということ。
         †
 夜。福田さんが帰宅したあと、最終模試が上首尾に終わったと千佳子から電話がきた。私を求める声だったので、吉祥寺に遊びにくるよう言った。
「抱いてもらいたいのはやまやまですけど、しっかりやらなければいけない時期なのでがまんします。愛してます」
「フライパンあったまったで!」
 電話の向こうで素子のはしゃいだ声がした。
「はーい、和子さんに代わります」
 カズちゃんと代わった。
「みんな着々よ。睦子さんもダントツのできだったらしいわ。キョウちゃんもせっせと体力つけてね。あっちも足りてる?」
「じゅうぶんすぎるくらい」
「生きる励みだから、せいぜい励みなさいね。来年になったら、できるチャンスはグンと減るから。私たちもときどき訪ねてあげたいんだけど、いろいろ忙しくて。名古屋へ持っていくものの整理をこつこつやってるの。素ちゃんや千佳子さんに分けてあげるものとかね。キョウちゃんのおかげでフジが繁盛しちゃったから、日曜出勤が増えたわ。キョウちゃんがいつコーヒーを飲みにくるかもわからないというので、お客さんが倍に増えちゃったの。東大の記事はアルバムに入れました。愛してるわ。大好きよ。素ちゃんに代わるね」
「キョウちゃん、元気? 恋しいよう。立つ鳥、あ、ちがう、これは引きぎわがいいって意味やった。東大野球部引退、ええ花道飾ったね。今月は入団式やね。だれもついていかんことにしたよ。どうせ来年名古屋にいったら、ずっとそばにおれるんやから。独りさびしくがんばってきて」
「わかった。だれかのサインをもらってこようか」
「そんなもんいらんわ。野球選手なんてキョウちゃん以外知らんし」
「これから少しずつ覚えたほうがいいよ。二月の半ばには、選手名鑑も出るから」
「努力するわ。とにかく、無事にキャンプにいかんとね。日本一の野球選手になるよう祈っとる。お姉さんに代わる」
 カズちゃんが明るい声で、
「アイリスも、キョウちゃんと私の家も、地鎮が終わって土台作りに入ったって。ちゃんとした設計士や建築士にキョウちゃんのアイデアを基本にして造ってもらうらしいわ。素ちゃんはアイリスの二階、千佳ちゃんは北村席に住むことになった。ときどき賄いのお手伝いをして、料理を覚えたいんだって。トモヨさん母子は、北村のおとうさんおかあさんの離れのそばにもう一軒離れを建てて住んでもらうことにしたのよ。三部屋。お風呂もトイレも台所もあるの。お城のマンションは、買い手がつくまでほっとくって。睦子さんは名大のそばにアパート借りる予定よね」
「そうみたいだね。学問に打ちこむと思う」
「秀子さんが出てくるまでは、お城のマンションはそのままにしておくのがいいかもしれないわ」
「売れたら売ればいい。あ、それからね、村迫さんの紹介で久保田さんというバット職人が吉祥寺に訪ねてきて、これからずっとぼくのバットを作ってくれることになった。壮行試合も彼がくれたバットで打ったんだ」
「そう、よかったわね! グローブはここにあるのでいいの?」
「もちろん。カズちゃんが買ってくれたグローブだよ。しっくり手に馴染んでる」
「道具は年季が大事でしょうね。じゃ、きょうはこのへんで切るわね。いまからごはんだから。何かあったら電話ちょうだい」
「わかった」
 名古屋駅から列車に乗せられた瞬間から、野辺地駅に降り立つまでの記憶が淡い。感情は思い出せる。心が静まっていたこと。なぜ静かな心でいたのかはわかる。まちがって生まれた人間のたどる〈ゆきて帰らぬ〉旅だとわかっていたからだ。青高のグランドまでの半年余りはそのことを考えまいとした。しかしどうしても思いはそこへいった。まちがって生まれた人間は笞打たれなければならない。寺田康男、北村和子、山田三樹夫、山口勲……。彼らの照射する明るい希望の光の中に、暗い森へのさびしい道が通じていた。
 甦ってからどんな道をきたか憶えていない。しかしまちがいない。さびしい死出の道を逸れ、希望の道の入口に立ったのだ。有無を言わさず命が始まった希望の場所へ。
 夜の庭に出て、久保田バットを百八十回振った。


         五十四

 十二月二日から八日まで、土曜日以外は、自主トレ(朝―横河武蔵野グランドまでのランニング、グランドでダッシュ、三種の神器、御殿山に戻って素振り、離れで倒立腕立て。夕方―片手腕立て、ダンベル、一升瓶)をまじめにやり、残った時間はほとんど机に貼りついて暮らした。福田さんのほかの女に逢わなかった。福田さんを抱くこともしなかった。
 五百野を書き進めながら、安岡章太郎評論集全七巻を読了する。安岡が評論の名手であることを知る。ただ、魂を感じなかった。彼の友人である遠藤周作には魂がある。今年読んだ影法師は佳絶な作品だった。
         †
 十二月九日月曜日。曇のち雨。午後、村迫代表から手紙が届いた。

 今年の暦もあと二十日ほどを残すばかりとなり、寒さもいや増してまいりました。ご健勝におすごしでしょうか。十一月の電撃入団発表よりひさしく日を送りながら、神無月さんのことが恋しくてなりません。
 入団式を目睫(もくしょう)に控え、本日七日、中日ドラゴンズ球団事務所において、仮契約中の新人選手全員が、球団オーナー小山武夫立会いのもと本契約に署名しました。先月神無月さんにお会いしていただいた人物は、中日新聞社の社長である白井文吾氏です。小山中日ドラゴンズオーナーとは入団式で顔を合わせることになります。また、新人たちとも入団式で顔を合わせることになるでしょうが、名前だけでも頭の隅に留めておいてください。ドラフト上位の順で、浜野百三、水谷則博、太田安治、三好真一、竹田和史、島谷金二の六名です。大学生だった浜野と社会人からきた島谷は神無月さんより年上、太田は春に高校を出てから一年間ドラフト待ちしていたので同い年、あとは全員高校を卒業したばかりなので一歳年下です。
 東大の紅白戦、一転して神無月さんの壮行試合となった一連の記事を諸紙で読みました。そんな試合でも手を抜かず、四本もホームランをかっ飛ばす神無月さんのまじめさに頭が下がりました。おそらく久保田さんのバットで打ったのでしょう。久保田さんからはもうすでに感激の電話がありました。まさに高貴な天馬・神人の威容。久保田さんは神無月さんと会っているあいだじゅう背骨が伸び、襟をピンと正した状態だったそうです。素振りのスピードとフォームの華麗さに驚嘆し、プロ球界に並ぶ者がないと絶賛しきりでした。すばらしいかたを紹介していただいた、神無月さんのために最高のバットを作る、そのバットでホームランを量産してほしい、とおっしゃっておりました。
 記事の片隅にあった応援団の送辞の口上に落涙しました。神無月さんが東大の野球関係者のみならず、学生たちにいかに愛されていたかがわかりました。あの口上は各新聞社、永遠の記録テープとして残すそうです。
 入団式の式次第を同封いたします。開式は午後一時です。前日にホテルにお泊りいただいてもけっこうです。フロントに申し出ればお部屋に案内します。食事、喫茶、電話等すべて無料です。
  場所 名古屋観光ホテル 3F中宴会場・桂の間 
  名古屋市中区錦一丁目十九―三十
   式次第  一 開式の言葉            村迫晋
        二 中日ドラゴンズ球団オーナー挨拶  小山武夫
        三 スカウト部長挨拶         榊竜二
        四 今年度新人選手紹介
        五 新人選手自己紹介
        六 花束贈呈
        七 閉式の言葉            村迫晋
 本契約はすでに吉祥寺宅ですませておりましたので、神無月さんのことをけしからんと思う輩は一人もおりません。ご安心ください。なお新人選手懇親会は、当日の夜七時から、同ホテル2F中宴会場・桜の間にて行います。小山オーナー特別出席のもと、ドラゴンズ首脳部、中日新聞社社長白井文吾氏、諸紙幹部等が出席いたしますので、今後のことを考えて、なるべくご出席ください。なお当初予定していた名古屋市長を表敬訪問する件は、神無月さんの気持ちの負担を考えて取り止めにいたしました。
 それでは十五日にお会いできることを心より楽しみにしております。
 親愛なる神無月郷さま   
 中日ドラゴンズ球団代表  村迫晋 拝


 夕飯のあと福田さんに、
「あした、朝食のあと、法子のマンションにいってくる。あしたは夕食だけでいい。きょうは月曜日だ。ひさしぶりにセックスしよう」
「はい。流しの片づけはあとにします」
 スカートと下着を脱いで、キッチンの床に後ろ向きにできるだけ低く肘を突き、裸の尻を高く持ち上げる。お城のマンションで着物姿のトモヨさんがした格好を思い出し、一週間前に教えた格好だ。そのとき福田さんは、尻を持ち上げる格好の淫靡さではなく、キッチンですると蒲団を汚さなくてすむと喜んだ。美しい肛門の向こうに、陰毛に縁取られない大きなクリトリスが見える。鼻を差し入れて舌を下向きに使うと、たちまち果てる。愛液が真下よりやや後方に飛ぶ。そのまま後ろから挿しこむ。
「ああ、いい気持ち! きょうもがまんします」
 尻の穴に指を触れるとかすかに湿っている。
「あ、そんなことすると、すぐ……だめだめ、イク、イク!」
 固く締まる膣が射精を促す。激しく動き出すにつれて、適度の痙攣がより大きな痙攣に変わる用意をする。
「雅子、イクよ!」
「はい! あああ、気持ちいィ! イク!」
 私が律動するたびに、福田さんの股間からするどく愛液が床に発射される。腹を搾る時間の長さがだれよりも長い。二分もその状態がつづく。水よりも濃い液体が床に寄り合って溜まっている。痙攣しているうちに抜くと、福田さんはブルッと一度ふるえ、精液を滴り落としてからゆっくり上半身を起こす。
「愛してます。きょうもご馳走をいただきました」
 細かいふるえが止むのを待ち、抱きかかえて椅子に腰を下ろさせる。胸を吸う。福田さんは私の背中をさする。やがて立ち上がり、裸の尻を揺らしながら風呂場へ雑巾を取りにいく。
         †
 十二月十日火曜日。雨。ランニング中止。
 朝食のあと、掃除にかかった福田さんに、いってくると告げ、傘を差して法子のマンションに向かう。街なかがどことなくせわしなくなってきた。店々がショーウィンドーに気の早いクリスマスの飾り付けをし、赤と緑に彩られたディスプレーが人目を引く。
 小さくドアをノックし、応答がないので、法子を起こさないように足音を低めて廊下を戻る。深夜の二時に床に就いたとして、まだ六時間しか寝ていない。階段を降りようとすると、背中から法子が呼び止めた。
「もう、あきらめ早いんだから」
 法子についてドアを入り、居間のテレビを点け、起き出したばかりの法子のベッドに服を着たままもぐりこむ。寒くはないが、昨夜からしとしと降りつづいている雨のせいで部屋全体が冷えびえと湿っている。添い寝をする法子のからだが温かい。二人で一時間ほどうとうとする。
 法子はやがて起き出し、台所で忙しく動きはじめる。ごつい小型の機器が電話と並べて台所の入口に置いてあるのに気づいた。
「あれは?」
「シャープのCS16Aという電卓よ」
 詳しく製品名を言うのは私の癖だ。すっかり法子にも移ってしまった。
「二十三万円もしたけど、四、五年前の半分の値段よ」
 店の経営状態を細かく検討するうえで必要なので、躊躇せず思い切って買ったと言う。ガスストーブが心地よい暖かさになってくる。 
「この雨じゃ散歩できそうもないな。走りこみは中止したし、ひさしぶりのお休みだ」
「もう師走も十日なのね。そろそろ年末大売出しの季節だわ。神無月くんの冬物、買いこみたいんだけど」
「くどいな。ほしいものなんかないよ。買うにしても、ほんとの年末でいい」
「入団式のスーツぐらいは」
「腐るほど洋箪笥に吊ってあるよ。紺のやつを着ていく」
 そんな会話をしているところへ、テレビのニュース速報が流れた。今朝九時半ごろ、府中刑務所付近で日本信託銀行の現金輸送車が襲われ、三億円が奪われたと早口で言っている。いま起きたばかりの事件だ。びっくりするような事件とは思わなかった。
 台所でトランジスタを聴いていた法子が、長箸を手にベッドにやってきた。
「府中って、この沿線ね」
「そう、競馬場のあるとこ」
「刑務所があったなんて知らなかった。そんなところを、なんで現金輸送車が走ってたのかしら」
「東芝府中工場の社員のボーナスって言ってた。偶然刑務所のそばに工場があったんだろう」
「銀行の現金輸送車を偽の白バイで止めて、車の下を覗きこみながら発炎筒を焚いたんだって。ダイナマイトに見せかけたのね。銀行員にしてみたら、思わずキーを残したまま逃げたくなっちゃうわよ」
「犯人はその輸送車を運転して逃げたのか。よほど計算づくで、冷静じゃないとできない芸当だな。捕まらないだろう」
「捕まってほしくないわね」
「寸又峡とか、横須賀線の爆破とか、連続射殺事件とか、世の中には満たされない心を人殺しで解消しようとする人間が多い。その点、この事件はスッキリする。雨だけは計算外だったろうけど、緊迫感が高まるね。降りしきる雨の中、現金輸送車強奪さる、か。質のいいサスペンスだ」
「ここまで金額が多いと、お金ほしさからやったんじゃないってわかるわ」
「単独犯だから、何かの活動資金の調達ということは百パーセント考えられない。学生運動じゃないな。ヤクザは金を盗まない。外から入ってくる。逃走経路をしっかり確保していることから考えると、一人の頭のいい素人が、時間をかけて小道具を準備して、綿密に計画を立て、一世一代の決断で実行したということだね。オートバイも車も衣装もぜんぶ盗品だろう。現金輸送車の運行状況に詳しくて、警察官の小道具を準備できて、土地勘のある男。ギャンブルか経営困難で金に困っていた男。いや、ギャンブルをするやつは大金をほしがらないな。出所の明るい大金を自力で得たがる。商売を破綻させるような男はアタマが悪い。うーん、こりゃ、孤独な趣味人の犯行かもしれないな。たしかに、ただ金がほしいだけの男じゃない。繊細で豪胆な天才だ。捕まらない」
 法子が拍手をする。
「シャーロック・ホームズさん、ごはんができる前に、お風呂入って」
「うん、シャーロック・ホームズは犯人を特定するプロの探偵だよ。遊びで推理する趣味人じゃない」
 バスタブに寝そべる。全身に石鹸を使い、シャワーで頭を流す。五百野の〈構想〉を練る。構想? 事実に多少の潤色を加えるだけのことに、構想などあるわけがない。
 うまいめしが待っている。丸干し、辛子茄子、目玉焼き、モヤシ炒め、板海苔、なめこの味噌汁。
「洗濯物溜まったでしょ。冷蔵庫も整理しなくちゃ。あ、そっか、お手伝いさんがいたんだった。すぐ忘れちゃう」
 めしを食い終わると、二人で傘を差して御殿山へ向かう。
「女中さんが買い物してくれるから、食材なんか買いこんでも仕方ないわね。飲み物だけ買っていきましょ」
 北口の平和通り商店街のスーパーで牛乳、ジュース、コーラをどっさり買う。
「この右手一帯がハモニカ横丁。朝、ここを制服を着て通学する生徒たちがぞろぞろ歩くの。笑い声がすがすがしいわ」
 ハモニカ横丁へいってみる。入り組んだ路地。飲み屋、ホルモン焼き屋、熱帯魚屋や沖縄物産店など、薄汚れて、雑多な感じ。鯛焼き屋がある。福田さんはここで買ったのかもしれない。
「闇市の名残らしいわ。年末の買出しはみんなここでやるみたい。上野のアメ横ね」
 御殿山に着くと、法子はすぐ冷蔵庫の中身を確認し、洗濯機を回す。動きに活力がある。
「女中さん、ほんとにきちんとしてるわね。キョウちゃんがいなければ帰っていいって条件はうれしいでしょう。ときどき抱いてもらえるし、一生懸命やるに決まってるわ。お給料は?」
「五万円」
「すごい! 公務員でさえ三万円ちょいなのに。でも神無月くんの性処理もしてくれてるわけだから、高くはないわね」
「そういう計算じゃない。かわいい人なので、一生女中さんとしてそばに置きたい」
 法子は少し首をひねり、
「女は七十過ぎてもできるっていうけど、男が興奮してくれればの話でしょ。神無月くん、だいじょうぶ? その人、いつまでもぜったい神無月くんとしたがるわよ」
「節制の利いた人だ。ぼくが声をかけないかぎり持ちかけない。でも、彼女、パイパンで少女みたいだし、肌がとってもきれいなんだ。それを想像すると、つい声を……」
「まあ、ごちそうさま。パイパンでなくて悪うございました」
「東京にきた女たちは別レベルだよ。みんな成熟したカズちゃんだ。安心して抱かれることができる」
「神無月くんが私たちに抱いてもらう感じなのね。すごく納得。私たち、神無月くんのお母さんだから。その〈少女〉をせいぜいかわいがってあげてね。神無月くんが〈大人〉にしてあげたんでしょ?」
「うん。責任を感じる」
「ただ、思いやりを強くしすぎて、時間を奪われないようにしないと。そういう話聞いてると、つくづく私のおかあさんがかわいそうになってくる」
「どういうこと?」


         五十五

 法子は小さなため息をつき、
「……おかあさん、私を産んでから十九年、セックスしてないの。五十四歳。まだあんなにきれいなのに」
「店を盛り立てるのに忙しくて、それどころじゃなかったんだろうね」
「それもあるけど、好きな男の人が出てこなかったということもあるわね。男と言えば暴力というイメージを消せなかったと思うし。このあいだ、神無月くんとクエ鍋を食べてたとき、とってもうれしそうだった。あんなうれしそうなおかあさん見たの生まれて初めて。あのあと蒲団に入ってからも、神無月くんのことばかり話すの。よしえさんが、ママ惚れたの? って尋くと、娘の恋人に惚れるわけないでしょ、って赤くなるの。ほんとに少女みたい。私、お姉さんやよしえさんならいやだけど、おかあさんなら神無月くんに抱いてもらってもいいかなって思った。たとえ、一度だけだとしてもね」
「遠慮するよ。……どうして女はそういう気持ちになれるのかなあ」
 法子は少し首をひねって、
「大人の女は、母親を親というよりも、同等の女として見ることのほうが多いのよ。特に肉体はね。オナニーも、生理も、幼いうちから偶然目撃しちゃう。おねえさんのオナニーも見ちゃったことがあるわ。父親はぜったいそんなことしない。外で発散できるから。男って、女よりは意外と清潔感が強いのよ。だから、そういうことは外で秘密ですましちゃう。家に帰ってきても、まず肉体のにおいをさせないわ」
「でもどうして、母親は子供のいる家でそういうことをしちゃうんだろうね」
「男よりもはるかに強く性欲に衝き動かされるからよ。……女というのはね、からだの快感がすごいの。クリトリスは男のレベルだと思ってる人がいるでしょう?」
「ちがうの? ぼくもそう思ってた」
 法子はテーブルにきちんと向かった。
「ぜんぜんちがうの。神無月くんの射精って、穏やかなものよ。クリトリスの十分の一くらいの気持ちよさじゃないかしら。女はちがうんです。だから、膣の快感ときたらその敏感なクリトリスの何倍もあるのよ。そういう生きものなのね。たしかにセックスをしなければしないで何年でもすごせるけど、快楽の記憶はお腹の奥にしっかり残ってる。引き出されればいつでもその状態になるわ。女は濡れれば死ぬまでできるし、イクこともできるの。だから娘は、男を断って苦労してきた母親にそういう喜びを味わわせてあげたいって気持ちになるのよ」
「それならぼくじゃなくてもいいんじゃない?」
「ふつうの男じゃ引き出せないってこともあるでしょ。人間として信頼できないってこともあるし。そうなったら、おかあさん、かえってがっかりしちゃうもの。もう、年とってだめになっちゃったのかなって。でも、神無月くんならやさしく導いてくれるから。それにおかあさん、神無月くんのこととても好きだし、神無月くんもおかあさんの顔とかお尻とか、じっと見てたでしょ」
 私は虚を突かれて頭を掻いた。
「デートぐらいなら」
「それだと蛇の生殺しでしょ。……神無月くんが名古屋にいっちゃったら、もうそういうことをしてもらえる可能性はゼロだと思うの」
「でも、そのためにわざわざ、また東京に出てくるというのも……」
「わざわざじゃないのよ。水族館の売り上げがかなり高いところで安定したから、私、いずれ買い取るという口約束を反故にしちゃった。これまでどおりの売り上げ歩合制で、来年の十二月まで店をつづけるという新しい契約を取り交わすことになったの。この二十日のお昼にオーナーと正式にね。そのときに、おかあさんが保証人として出てくるわ。翌日の午後に帰る予定」
「……そんなこと、ぼくは軽々しく引き受けられない。お母さんはしっかり自分を抑えてる人なのに、あえて……」
「抑えてるから、解放してあげたいの。三日前にクエ鍋を食べた日が誕生日。大正三年十二月七日。誕生日のお祝いをしてあげるために呼んだの。名前は安子(やすこ)。安心の安」
「法子をとても愛してるから、お母さんとはできないな」
「だいじょうぶ、とんでもなくかわいらしい人だから」
「もうこの話、しちゃったの?」
「してないわ。今度出てきたときにきちんと話して、おかあさんがうなずいたらそうしてもらうし、いやだって言ったら、無理に勧めない」
「ふーん。入団式のときならどう? 名古屋にいくよ」
「名古屋はだめ。夜わざわざそんなホテルへ出かけていったら、おねえさんたちにへんに思われるでしょ」
 私は法子をしみじみ見つめた。
「不思議な女だね、法子は」
「こんな気持ちになったのは、雅江ちゃんと、私のおかあさんに対してだけよ。これから出てくる新しい女には神無月くんをあげたくない」
「これ以上一人も出てこないよ」
「プロ野球選手になったらわからないわ。うじゃうじゃ寄ってくる」
「ぼくは北村席のそばの自宅から練習にかようんだ。ファンや女に対しては鉄壁だよ」
「ほんと? 信じていいのね。あら、もうこんな時間。じゃ、いくわね」
「あ、しなくていいの」
「おかあさんがくるときまでとっとく。おかあさんが断わったら、そのときね。この先一年間、私はほとんど禁欲状態。少しでも慣れておかなくちゃ。名古屋にいったら、うんと甘えるわ。神無月くんも、これからは〈気遣い小僧〉してる暇ないわよ」
 傘を差す法子を生垣の門に送り出す。揺れるスカートの尻が母親に似ていた。
 離れにいって机に向かう。夕方までコツコツ書く。目玉を刳り抜かれたミースケ、義一といっしょの家出。断片を書き溜める。
 郵便受けを見に出ると、トモヨさんから薄い封筒が届いていた。

 懐妊いたしました。来年の七月の二週目が出産予定です。いとしい郷くんに大切に契っていただいたおかげで、つつがなく二人目の子供を授かり、幸せな気持ちでいっぱいです。何人もの郷くんに身の周りを飾られいく感じです。妊娠の経過のほどは、郷くんが名古屋にいらっしゃった折にお知らせいたします。おからだくれぐれも大切になさってください。十二月十五日の入団式の日にお会いできることを一家でお待ちしております。直人は健やかに育っています。ご安心のほど。
 愛する郷くんへ                    智代かしこみ


 なぜかわからないが、寂寞(じゃくまく)とした気分になって、ステレオの前にあぐらをかいた。ビリー・ホリデイ。お願いだから、恋を知らないあなた、とつづけて聴く。相変わらず荒野から呼びかけてくる。中毒になりそうな魂の交響だが、もう少し明るい気持ちになりたくて、コニー・フランシスの青空のデイトを聴く。一瞬のうちに心が晴れ上がる。
 下駄を履いて井之頭公園に散歩に出る。雨が上がり、叩けば音のしそうなコバルト色の空が頭上に拡がっている。さびしい気持ちが戻ってくる。分身がまた一人この世に出てくることに、何やら悲哀を覚えるという自分の気持ちが訝しい。池を見ても、林を見てもさびしい。喜ぶべきにちがいないことをどう喜べばいいのかわからない。
 庭に出て、久保田バットの素振り、ぼんやり二百回。風呂に浸かる。上がってコーヒーを飲む。思いついて、先月中旬のスポーツ新聞をキッチンの床下の納戸から引き出し、中日球場で行なわれたドラゴンズの秋季キャンプの記事を読む。

    
サムライ江藤暗雲吹き飛ばす全開3の3
 中日球場における秋季キャンプ初日、背番号問題でフロントともめつづけてきた中日ドラゴンズの江藤慎一外野手(32)が、シート打撃で特大ホームランを含む3打数3安打と大当たりだ。いち早く背番号9をつけてシート打撃に臨んだ江藤は、第一打席フルカウントから田中勉の甘い真っすぐを逃がさず、バットを振り抜いた。打球は左中間スタンドを越えて場外へ消えた。百三十メートル弾だ。
 ―風たい。風に乗ったばい。
 と謙遜するが、シート打撃で4度バットを振り、打ち損じは一度のみ。チーム最多の3安打は内容も伴ったものだった。
 ―この時期はいつもあんまりよくなかばってん、ワシも追いつめられたけんね。神無月くんのように打撃の神さまでも取りついてくれんかて思うて、一所懸命やっとるばい。こう見えても二度の首位打者経験者やけんね。来年は、長打は神無月大明神にまかせて、安定性ばテーマに新しか感覚を模索するばい。
 さばさばした口ぶりで語った。
「奇跡の東大優勝の大立者であり、二季連続で驚異的新記録を樹立して六大学三冠王となった神無月郷選手と、来年二月に春季キャンプで合流するわけですが、先輩として彼に対するアドバイスはありますか」 
 と訊かれて、
 ―そこまで並べ立てられると、ヘヘエとかしこまってしまうばってん、プロのピッチャーからそうそう簡単にホームランは打てん、と言いたか。一定のスイングばしてボールの芯に当てる確率ば上げれば、神無月くんの力なら三冠王も夢ではなかとは思うけんが。とにかく、ライバル意識云々よりも、わが愛するドラゴンズの同朋として、共に優勝ば目指していきたか。
 とベテランらしいコメントをした。長びいた神無月選手に対するわだかまりをきれいさっぱり払拭して、今年度最下位だったチーム建て直しの総大将として、竜のごとく火炎を吐く意気ごみだった。

 新聞は嘘を書いている、と思った。江藤はすばらしい人間だ。彼には私に対するわだかまりなどハナからない。背番号を奪ったフロントに対する違和感があるだけだ。だいたい自分で自分のことを二度の首位打者経験者などと言うものか。マスコミの脚色だ。彼とはうまくやっていけるかもしれない。
 福田さんがやってきた。
「何を読んでいらっしゃるんですか。あら、古い新聞ですね。ああ、私も読んだ覚えがあります」
「江藤さんは悪い人じゃない。ベテランなのに、若手に混じって秋季キャンプにまで出てくる情熱の人だ」
「このあいだも言いましたが、江藤選手は金儲けにかまけて失敗した人です。情熱というのはもっと純粋なものに注ぐべきものです。一度でも金儲けに邁進した人が、純粋な野球の世界にまともな精神で戻ってこれるはずがありません。水原監督は潔い人間を好みます。江藤選手とは水と油です。どれほど野球の才能があるか知りませんが、雑念のある分、かならずその才能は衰えます」
「考えすぎだと思うよ。金儲けをしようとしたのにはきっと事情があるんだろう。ぼくの直観がそう言う」
「新聞は海賊新聞でないかぎり、基本的なところは捏造しません。訴えられたら大ごとになりますから。海賊新聞のように尻に帆かけて逃げるわけにはいかないんです。このしゃべり口は神無月さんに対する皮肉そのものです。ドラゴンズのために神無月さんと共に闘うなんてつもりは毛頭ないでしょう。君子危うきに近寄らずです」
「誤解だと思うよ。マスコミを信頼しすぎだ」
「そうでしょうか……」
「まちがいないと思う」
「神無月さんのおっしゃることはまず外れませんものね。そうであることを祈ってます。これから長い選手生活になりますから、心配なんです」
 シンクの脇に食材を取り出す。
「ありがとう、雅子。ん? 何、その、蜘蛛の巣を巻いたみたいなボコボコしたやつ」
「ヤツガシラという里芋です。小芋が分かれて育たないんで、こんなふうに頭が八つ固まったみたいに見えるんです。里芋なのに、煮ても粘らないで、ほくほくしておいしいですよ。ふつうの里芋より栄養価も高いですしね。これと慈姑(くわい)の含め煮をしましょう。お魚はカンゾウビラメのお刺身、ハマグリのお吸い物。たまには牛肉も食べなければいけません。きょうは薄切り肉のケチャップ炒めをします。おいしいですよ。できあがるまで少し時間がかかります。テレビでも観ててください」
「いや、ここにいて雅子の背中と話をしてる」
「包丁を使ってるとき近づかないでくださいね。危ないですから」
 福田さんはガスストーブを点け、芋の皮を剥きはじめた。しばらくして背中が言った。
「……私、調子に乗って、これまで神無月さんのご親切に甘えてきましたけど、セックスは神無月さんの励みじゃなく、負担になってるんじゃないかって思えてきたんです。からだと愛情の理屈を語り合って、納得したり感心したりしていられないと思えてきたんです。菊田さんはちがいます。自制心があります。私は、もう中毒みたいになってます。私の性欲が神無月さんによくない影響を与えてるのがわかるんです」
 洟をすする音が聞こえた。
「気にしなくていいんだよ。ぼくが好きなようにしてるんだから」
「いいえ、私にいつも求める雰囲気があるから、神無月さんはそういうふうに振舞ってくれるんです。ほんとに、私に気兼ねなんかしてくれなくていいんですよ。菊田さんは、キョウちゃんのセックスが過度にならないようにってよくおっしゃいますけど、キョウちゃんがその気になったら仕方ないとも言うんです。してもらえば、それはそれは気持ちいいものですから。でも、仕方なくさせてるのは私たちのほうなのよともおっしゃいました」
 福田さんはイモを煮てアクを抜きはじめた。カンゾウビラメのさしみを造る。
「年をとってから性に目覚めた哀れな女をもっともっと幸福にしてやりたいって、そういう気持ちにさせる雰囲気が私たちにあるからよって。じつはキョウちゃんという男は、そんな気にはめったにならない人だということがふだんの様子からわかると言うんです。性欲の薄い人だって。思い返して、たしかにそのとおりだと感じました。いつでも訪ねてくださっていいけど、自分の生活のリズムを曲げてまで施しをしにこないように伝えてくれと言われました。神無月さんの周りの女のかたたちは、ほんとうにそのことがよくわかっています。睦子さんにもそれを感じました」
「だからって、雅子はがまんできるの?」
「できません。でもそれは、みなさん同じだと思います。がまんしなくちゃいけないと思うんです。ふだんの神無月さんに戻って、好きなだけ野球に、それから文章を書くことに励んでもらうために。ときどき思い出してもらえるだけでうれしいという雰囲気をただよわせるように、できるだけ意識して性欲を減らして、努力しようと思います」
「とっくにその心意気を感じてたよ。いまのところ、セックスは体力を消耗しない。あとは自主トレして、本を読んで、五百野を書いて、土曜日ごとにジムにかよって、それだけだ」


         五十六

 福田さんはアクを取り、芋を本格的に煮はじめた。小皿にワサビをつけて、ヒラメの刺身と醤油を出す。
「それをつまんでてください」
 淡白な味で、ワサビの風味が生きる。
「うまい。生臭くない」
「若狭湾で獲れた新鮮なものですから。……〈それだけ〉とおっしゃっても、人の何倍も忙しいじゃありませんか。神無月さんを目の前にすると、その忙しさが感じられなくなるんです。いつも怖いくらいゆったりとしてますから」
 もう一つのレンジでハマグリを茹でる。
「名古屋にいかれる前に、もう一度抱いてくだされば本望です。それからは彦星になってください―」
「ありがとう。どうしてもしたくなったら、連続でしちゃうよ。その一回一回をボーナスと思ってね」
「はい。ほんとうにありがとうございます。でも、抱いてくださるときは、一度に何回もしないでくださいね。そのせいで、神無月さんは性欲が強い男だと誤解する女の人も出てくると思いますから。神無月さんが性欲の薄い人だってことは、どうしても知ってもらわないといけないことです。からだよりも頭を使って生きたいタイプの人だということを。……神無月さん自身の誤解を解いておきたいことが一つあるんです。私や菊田さんのことじゃありませんけど、からだが満足した女は、つづけて何回もしたくないものなんですよ。ごめんなさい、気に障るようなことを言って。満足してからもつづけてしてもらえば、それは自動的にたくさんイキますけど、限界をとっくに超えてしまうと、苦しくなるんです」
「死ぬって言うのは、そういうこと?」
「はい。鈍感な女はイカないまま十分も二十分もしてほしがるようですけど、しっかり開発された女は、一分もあればじゅうぶんすぎるくらいなんです。私たちみたいな〈鍛えられた〉女は、二分でも三分でもイキつづけられますけど、それでも、ギリギリがんばって五分までです。それ以上だと気を失います。私たちのものが最初からしっかり締まれば、神無月さんはすぐにイッてくれます。平均二、三分です。……ふつうの男に接してきた女が一人で神無月さんの相手をすると〈死んで〉しまいます。締まらないので神無月さんが五分以上かかるでしょうから。そういう場合は二人以上の女の人がぜったい必要になります。私たちでさえ、二人で太刀打ちしても死にそうになるんですから」
「死ぬのはつらいの?」
「そのときは。……でも、〈死んだ〉あとの気持ちよさはとんでもないものです」
「じゃ、ぼくたちはいまのままでいいことにしようよ。命懸けで抱き合うなんて、めったにできる経験じゃない」
「はい」
 にっこり笑った。芋が煮えあがり、牛肉のケチャップ炒めにかかった。
「わあ、いいにおいだ!」
「おいしいですよ」
 私は法子の母親のことを語りはじめた。
「不道徳なことだよね」
「いいえ、法子さんの考え方のほうが正しいと思います。たぶん、お母さんとは一度きりのことだと思うんです。お母さんはもちろんのこと、お母さん以上に法子さんが神無月さんに感謝すると思います。名古屋へいってからの法子さんとの人間関係もスムーズにいくでしょうね。お母さんは、きっとオルガスムスの経験者でしょうから、ひさしぶりの快楽にも溺れることはないと思います。いい思い出になるはずです。私や菊田さんは、初めての経験でしたから、つい貪欲になってしまって」
「お母さんが初めてだったら?」
「仕事柄それはないでしょうけど……そのときは、じょうずに時間を作って、長くかわいがってあげてくださいね」
 食卓が整った。炊きあがったばかりの白米に牛肉を載せて食べる。
「驚いた! これはうまい」
「おいしい!」
「芋も、ハマグリも、最高!」
 福田さんは顔を笑いでくしゃくしゃにし、
「ああ、神無月さんとこうしているのがいちばん幸せ! 菊田さんは、何年に一度でも訪ねてさえくれれば何もいらないと言ってますし、私も、そばにいられるだけで何もいらないんです。でも、そう思えるまでに、あんなに激しい肉体の快楽を通過しなくちゃいけなかったんですね。これから何カ月か、冷静な気持ちで体力を維持してください。とにかく自分から女の人を訪ねないこと。菊田さんと私は、神無月さんをキャンプへ送り出すまでは、けっして訪ねてほしいというそぶりは見せないって誓い合ったんです。和子さんたちも同じだと思います。みんな神無月さんがいま大事なときだということを忘れてないんです。みんな神無月さんのことだけを考えてるんです」
「……ありがとう。むかしは静かな生活をあんなに望んでたのに、大勢の女に囲まれて飛び歩く愉快さに浮き足立って、騒々しく暮らしてたんだね。静けさを取り戻すよ」
「そうですよ。放っておいても、だれも文句を言いません。とつぜん訪ねてきたら、ただいっしょに蒲団に入っておあげなさい。その人はただそばにいたいだけですから」
「そうする」
         †
 十四日の土曜日、ジムの帰りにひさしぶりに床屋にいった。慎太郎刈りにした。
 浅草の松葉会の事務所に電話をする。
「神無月という者です。寺田康男をお願いします」
「だれやて? 神無月?」
「よこせ! だれに向かって口利いとるんや」
 申しわけありません! という声が聞こえ、康男が出た。
「神無月! 新聞ちゃんと読んどるで。テレビもずっと観とった。よかったなあ、とうとうドラゴンズに入ったなあ。俺、泣いたわ。時田なんざ、飲み狂ってな、バンザイが止まらんかった。ワカも連絡してきた。名古屋ではおまえの命狙われんように、完璧の防御体制を敷く言うとった。電撃のあと、いろいろ叩かれたでな。世の中トチ狂っとる。だれが狙っとるかわからんで」
「そんなに危ないの?」
「ヤクザより素人さんのほうがトチ狂っとるでな」
 防御体制というのが、どういうものかわからなかった。
「あした、入団式なんだ。名古屋観光ホテル」
「知っとるわ。場所も知っとる。目立たんように護衛つけとるでな」
「護衛? 会場に入りこめるの?」
「民社党の先生に頼んで、手回してもらっとる。電撃のときおまえを叩いた新聞にも先生から圧(あつ)かけてもらった。なんも悪いことしとらんのに、腹立つやつらや」
「それで悪口がピタッと止んだのか。ありがとう。あしたはユニフォーム着て、写真撮られるよ」
「おうおう、ますますキンピカになるな。ちょっと時田に代わるでな」
「神無月さん! おめでとうございます! 十一月三日の電撃会見、ワシうれしゅうてうれしゅうて、次の朝まで泣いとりました。光っとりましたよ、人間やない光を出しとりましたよ。いつまでも心配せんで野球に励んでください。バンザーイ! こら、おまえらもバンザイせんかい!」
 バンザーイという声が三度聞こえた。康男に代わり、
「よう電話くれたな。義理堅い男や。やさしい男や。北村さんだけやない、おまえは俺の命や。おまえにまんいちのことがあったら、かならずそいつのタマ取ったるでな。そのあとで俺も頭ブチ抜く。来年の三月には俺も名古屋や。兄貴の下につく。気ィつけろや。おまえはあっちこっちの網にかかっとるでな。松葉に近づいたらあかん。ここも、もう電話してこんでええ。おまえの気持ちはじゅうぶんわかっとるで。じゃ、ぬかりなくいってこい。ニュースで観とったる」
         †
 十二月十五日日曜日。四時起床。朝方九・三度。早朝の五時に福田さんがやってきてめしの支度をした。
「いってくる。三、四日ゆっくり休んでて。金曜日あたりに帰る」
「はい、二十日ぐらいですね。お掃除と洗濯だけしておきます」
 シャワーを浴び、めしを食い、七時に福田さんに見送られて玄関を出た。真っ白いワイシャツと濃紺のスーツ。快晴。あたりに報道関係者の姿はなかった。
 八時二十分。東京駅の新幹線ホームに立つ。ポケットにはトルストイのクロイツェル・ソナタ。たぶん読まない。気休め。ホームの公衆電話から北村席の主人に連絡を入れた。
「八時半のこだまでいきます。十一時二十分に名古屋駅に着きますから、十一時半には北村席に顔を出せます。入団式は名古屋観光ホテルで一時からです。迷うといけないので菅野さんに連れてってもらいたいんですが」
「わかりました! いよいよですな」
「はい。そのあと、ホテルに待機し、新人歓迎会が夜七時からです。二時間ぐらいのものだと思います。タクシーで席に戻ります。何日かのんびりしてから東京に帰ります」
「承知しました。きのうの晩、松葉会の寺田光夫さんいうかたが見えて、会場の警備は万全やと言うとりました。北村席の周りもテレビや新聞がうろつかんようにしてくれるらしいです。じゃ、いまから三時間後、十一時二十分に、ワシと菅野で迎えに出ます。あとはまかせてください」
 六人の新人は、きのうのうちにチェックインしているにちがいないと思った。ロビーやラウンジで彼らと顔を合わせたくなかった。初対面の人間の顔をマトモに見つめられないからだ。
 新幹線の中では、ウトウトしたり、前の座席の背に挿してあるパンフレットを読んだりしてすごした。ダイヤ大改正という記事が特集されていたが、何のことやら理解できなかった。やっぱりトルストイは読まなかった。
 名古屋駅のホームに、主人と菅野と、一歳四カ月の直人を連れたトモヨさんが出迎えた。トモヨさんの腹はまったく目立たなかった。主人に抱擁され、菅野に抱擁され、直人を菅野に預けたトモヨさんに長い抱擁をされた。直人はキョトンと私を見上げていた。
「お帰りなさい。何日でもいられるだけ、ゆっくりしていってくださいね。あら、お荷物は」
「持ってきてない。ぼくの下着はまだあるでしょう?」
「あります。衣装一揃い、ぜんぶあります」
 愉快そうに三人笑った。
「おとうちゃんだぞ、直人。日本一の野球選手のおとうちゃんだ。部屋の写真でいつも見てるだろう?」
 主人が言うと、そういえば見慣れた顔だと思ったのだろう、頭を撫でるとにっこり笑った。美しい子供だった。
「ひかりのほうが速いのに、どうしてまた、こだまで」
 階段へ歩き出しながら菅野が訊いた。
「飛行機に乗らないのなら新幹線で、それもいちばん遅い新幹線でいこうと思って。ふつうの鈍行は時間がかかりすぎますから、退屈で目的を忘れそうになるし、ひかりだと、電車に乗っている実感が薄れてしまいます。でも、こだまも実感がなかったので、これからはひかりにします。景色がまったく見えないなら、少しでも速いほうがいい。飛行機は超遠距離のときだけ乗ります」
「おらおら、楽しい話が始まったぞ」
 菅野がはしゃいだ。トモヨさんが、
「郷くんから連絡もらってすぐ、折り返しお嬢さんには伝えておきました。何も連絡しないで出てきたそうですね」
「子供が行先を教えるようで、みっともないからね」
「ほんとにもう。お嬢さんがいちばん心配してるんですよ。でも、朝方、寺田さんというかたから連絡あったそうです。門出を親友だけに報告するなんて、キョウちゃんらしいと言ってました」
 父親が、
「神無月さんはそういう人だよ。女より男に義理堅い。しかし、やっぱり親子だなあ。二人して絶世の美男子だ」
 そう言って直人を抱き上げた。菅野が、
「三十分ぐらいゆっくりしたら、名古屋観光ホテルへ向かいましょう。あそこは名古屋いちばんの老舗ホテルです」
 クラウンで北村席に向かう。トモヨさんに抱かれて隣に座った直人が、無邪気に手を差し伸べてくる。信じられないくらい小さい手だ。
「かわいらしい手だなあ! ぼくの子か……」
 そっと握る。親子で笑い合う。バックミラーを見ながら菅野が、
「絵になりますよ。きれいな絵だ。今度は女の子ですかね。おっかないくらいの美女になるんじゃないですか」
「和子は福の神よ。何もかも連れてきおった」
 主人の言葉にうなずき、トモヨさんが目頭をぬぐった。


         五十七

 二分もしないうちに焦げ茶の板塀と松が見えてきた。菅野が、
「歩いても五分です。きょうは人目を避けました」
 大きな数奇屋門の前に、女将とおトキさんと、十人ほどのミニスカートを穿いた店の女たちが勢揃いしている。車から降りるといっせいに礼をする。いつものことだが、まるで旅館かホテルの出迎えだ。女将が、
「いらっしゃいませ。その節は東京でお世話になりました。ようやっと入団式ですねえ。神無月さんは有名やよって、CBCが中継するそうです。おぶう飲んだら、ぼちぼちお出かけください。太閤通を真っすぐ十分ほどですから、ここを十二時二十分に出れば、式の三十分くらい前に着きますよ」
「そんなに早く着くのも、ちょっと……」
「そのくらいでちょうどええんです。ホテルの中でうろうろしとったら間に合わんようになります」
 鬱蒼と樹木が繁る庭に入る。外塀と同じ焦げ茶色の屋敷がそびえている。二階建ての旅館のようだ。夏に浜中たちを連れてきたときは夜に到着したので、この豪壮な邸宅の構えには気づかなかったし、翌日からもあえて視界に入れることをしなかったけれども、あらためて眺めるとまさに楼閣の趣だ。あのとき昼に着いていたら、みんな度肝を抜かれただろう。芝庭を切っていく庭石を伝って玄関までぞろぞろ歩いた。芝は枯れにくい種類のようで、緑鮮やかだ。
「何部屋あるんでしたっけ」
「まだ建増し中の離れの三つを入れれば、十五もあるんやないかな。ようわからん。あしたはアイリスと神無月邸の工事を見てらっしゃい。半分くらいでき上がっとります」
 玄関に、特徴のない顔をした二十代後半の女と二歳ほどの男の子が出迎えた。
「いらっしゃいませ。××と申します。この子は××です。さ、ご挨拶して」
「こんにちは」
 私は長ズボンの誠実そうな子の頭を撫ぜた。女の顔を記憶できなかったのでもう一度見た。やっぱり特徴のない顔をしていた。おトキさんが、
「東京で申しあげたウバさんです」
「そうですか。いろいろとお世話をおかけしました」
「とんでもありません。お乳の出るあいだは、吸ってもらったほうがラクなんですよ」
「今後とも、よろしくお願いいたします」
 人間できとるなァ、という声が、ミニスカートの女の群れから上がった。紋切りの社交辞令はどんな人びとからも好感を持たれる。玄関を入ると、左右の広い壁に私の写真が何枚も掲げてあった。直人が写真と私を見比べて笑った。菅野が、
「どうだ、おとうちゃんだ、わかったか」
 直人はコクリとうなずいた。四カ月ぶりの式台を上がる。冬なので長い廊下の両側の各部屋には襖が閉(た)ててある。一家の人びとと私はいちばん手前から二つ目の十六畳に入った。二枚付け合わせた長い角テーブルにつく。ミニスカートたちは部屋仕切りの襖を開け放し、残りの二部屋に分かれてついた。暖房が効いているので寒くない。どの部屋にも大きなカラーテレビが据えてある。八畳の控えの間とそれにつづく二十四畳のステージの間を見通す。明るく陽が当たっている。ステージ部屋にも長い角テーブルが宴会用に六脚置いてあった。大きなガラス戸の外に手すり付きの広い縁側が伸びていて、その突き当りで数人の大工が立ち働き、ふつうの一戸建ほどの一階家に手を加えていた。トモヨさん母子の離れではなく、物置小屋だと女将が言う。母子の離れは中廊下の突き当たりを右に曲がった奥だということだった。おトキさんや賄いの女たちが茶と菓子を運んでくる。
「おーいみんな、テレビを点けとき」
「きょうは何かインタビューされるんですか?」
 トモヨさんが不安そうに尋く。
「たぶんされるでしょう。ぼくはホームランを打ちたいとしか言わない。東京では白痴のインタビューと言われてる」
「東大の優勝祝賀会のニュースも観ました。あれはひどいものでした。英雄について、郷くんは人の考えられないことを答えてました。ほんとに意地悪そうな新聞記者だったなと思って」
 直人を膝に抱いた主人が、
「捨てる神あれば拾う神あり。捨てる神にへこたれないのが人生やろ。神無月さんは、意地悪に敏感すぎるせいで、がまんを重ねて長いあいだにとぼける方法を生み出した。一本でも多くホームランを打ちたいです、か。うまいもんだ。ワシらみたいに長く生きてきた人間にはようわかるで。なあ、おトク」
 女将に顔を向ける。
「ほうよ、だからうちらがいつも拾ってあげんと神無月さんの人生は報われんのや。がまんのし甲斐がなくなるやろ」
 私は笑って、
「ありがとうございます」
 菅野が、
「トモヨさん、心配しなくてもだいじょうぶですよ。神無月さんはアッケラカンとしてますから」
 賄いたちがみんなに素うどんのカケとモリを出した。さっきの乳母と子供も、直人もテーブルについた。
「こういうものは、直人はもう食べられるの?」
「ソバはまだです。顔が赤くなります。うどんはだいじょうぶです」
 おトキさんが、
「神無月さん、これお昼前のおやつですけど、食べといてください。何時間もお腹へらしていたら、テレビの前で持ちこたえられませんよ」
 一味唐辛子をかけたカケうどんを一杯、しっかりタレまで飲んだ。
「じゃ、いってきます」
「いってらっしゃい!」
 盛大な拍手が上がった。直人や××まで拍手した。女将が玄関で、左手に火打金(がね)を持ち右手で角張った瑪瑙(めのう)を叩きつけて切り火を打った。
「切り火をしたら、見送りはしませんよ。いってらっしゃい」
「いってきます」
 また拍手が上がった。
「ブレザー姿、抜群です。名古屋の人たち、あまりの美男子ぶりに驚くでしょうね」
 菅野がクラウンの助手席のドアを開けながら言う。
「黙っていさせてくれれば、多少はサマになるでしょうけどね」
「黙っていればいいんじゃないですか。がんばります、くらいですまして」
「そうですね。夜は北村席のうまいめしが食いたかったけど、残念だ」
「あしたからたっぷり食べられますよ。ゆっくりしていけるんでしょう?」
「十九日に帰ります。あの親子の顔、記憶できないなあ」
「ああ、××さんね。文江さんのお弟子さんです。きょうは神無月さんの顔を見にきたんですよ。神無月さんは写真もきれいだけど、実物のほうがずっときれいだと言ってました。ご主人は中村高校の教員をしとる堅物でしてね、なかなか北村席には近寄りません。結局××さんは、トモヨ奥さんが東京から帰ってきたとたんに、北村の部屋を引き揚げて、乳母でも賄いでもこないことになりましたよ。たまに、きょうみたいにお子さんを連れて遊びにくるでしょうけどね。直人のお友だちですから」
「ご主人がそういう人なら、きょうかぎりこないでしょう」
 十五分で名古屋観光ホテルに着いた。道を隔てた向かいに、大きな公園が見えた。車から降りる。公園の入口に、左なごやえき右さかえ、と彫られた石碑が立っている公園がある。
「下園公園です。近くに有名なキッチンマツヤがあります」
 言われてもわからない。
「じゃ、いってくるね」
「いったん北村席にお帰りになるときは、タクシーを利用してください。あらためて懇親会にお連れします。そのあとは、八時半ぐらいからこの玄関の外れで待ってます。気にせず、ゆっくりしてきてください」
 玄関ロビーを入ると、花を飾ったフロントの前にアンティークな美術品を置き並べたロビーがあった。プロ野球選手らしきスーツ姿が一人もいないところを見ると、彼らはそれぞれ昨夜泊まった自室から会場にやってくるのだろう。三階桂の間、三階桂の間、と唱えながらエレベーターを探す。
「お! 神無月だ!」
 周りからカメラやマイクが押し寄せてきた。
「神無月選手、昨夜はこちらのホテルにご宿泊なさらなかったんですか」
「駅西のお大尽がスポンサーだと聞いておりますが、そこからいらっしゃったんですか」
「江藤問題をどう思われますか」
 私がボーッと立っていると、見たことのない男が両手を拡げてやってきて、
「選手への質問はおやめください! 本日は会場でもインタビューの時間は設けられておりません。質問はまたの機会にお願いします。神無月選手こちらへ」
 足早にエレベーターへ導き、いっしょに乗りこむ。
「たいへんですね、お察しします。私、民社党の秋月の第一秘書をしている宇賀神と申します。ある筋から秋月に依頼があり、きょう一日神無月選手の無事を図るよう警護役を命じられました。三階の控え室にご案内します」
「依頼されたのは、ぼくの警護だけですか」
「はい。神無月選手だけです」
 三階で降り、桂の間に接した十帖ほどの控室に通される。喫茶設備のついたその部屋のテーブルに、ガタイのいい六人の男たちが緊張した面持ちで座っていた。私は視線を逸らした。
「それでは、私はこれで。懇親会終了までの周囲の動きにはきちんと目を配っておりますので、ご安心ください」
 私を見て、
「よ! 天敵」
 男たちの中にいた浜野が目を細くして笑いかけた。私は笑わず、丁寧に辞儀をした。
「今年はやられたなあ。同じチームになれてよかったよ」
「よろしくお願いします」
 一人の背の高い男が立ち上がり、
「島谷です。入団式の会場では、自己紹介と言っても記者団に向けてのものでしょう。私はここで内輪の自己紹介をしておきます。ぼくは四国電力時代に、サンケイ、東映、東京と三度ドラフト指名を受けましたが、断りました」
「なぜですか」
「プロでやれる自信がなかったというか、私は守備の人だったから。……今年四度目の指名を受けて、しかも九位の下位指名だったのに了承したのは、水原監督が私の母校の高松商業出身だったからです」
「あなたのところへ監督がいったんですか」
「きてません。まだ顔も見てないんです。きみのように、監督じきじきで出向いていくなんてのは特例中の特例ですよ。ただ、私は水原監督の指導のもとに野球をやってみたいんです」
「すばらしい動機ですね。ぼくは小学校のときに名古屋にきて以来、中日ドラゴンズの試合ばかり見てきたので、いつのまにか野球選手になりたいというぼんやりした夢が、中日ドラゴンズで野球をしたいというはっきりした願いに変わったんです。それが初志になりました。早く野球をやりたかったので大学を中退しましたが、ドラフトまで一年待つのは耐えがたくて、自由交渉をドラゴンズ首脳部のかたに依頼しました」
 四角い顔の男がこちらを向いた。涙を浮かべている。
「それはズルじゃありません。実力者の神無月さんにしては謙虚すぎるほどのやり方です。契約金などいらないと言ったそうですね。巨人じゃなくて中日ドラゴンズにただで採ってくれなんて。……神無月さん、俺を覚えてませんか」
 私は彼の顔を凝視し、
「じゃ、やっぱりきみは、タコ……」
「はい、太田です」
「だってきみは、新聞に大分出身と……」
「はい、神無月さんと同じ名古屋の宮中野球部でサードをやってました。三年の秋、とつぜん神無月さんが転校していって―事情はいろいろな雑誌で知りました。また野球をやりはじめたきっかけも」
「あれから四年だね。太田はどうやってここまできたの」
「あの冬、オヤジが大分の田舎に引っこむって言うんで、宮中の卒業を待って一家で大分に引っ越しました。神無月さんがいなくなった名古屋に未練なんかなかったので、かえってサバサバしました」
「受験、たいへんだったんじゃない?」
「それほどでも。中津工業という野球の強豪校に簡単な試験で入りました。三年になって四番でエースというところまで漕ぎつけて、プロから誘いがなかったので卒業後一年野球浪人しました。今年の春、中日の入団テストに合格し、秋、ドラフト三位で……」
「エース? 太田は肩を使わず手首で投げる内野手だったよね。ピッチャータイプじゃなかったのになあ」
「はい。ドラゴンズにもピッチャーで誘われたんですが、自信ないです」
 浜野が、
「だめだァ! 自信持たなきゃ。曲がりなりにもプロに誘われたんだぞ。なにが自信ないだ。しっかりしろ!」
 別の男が、
「……そんな奇遇があるんですね。あ、俺、水谷則博といいます。中商出身です。二年前に中京高校って改称しましたけどね。俺、中学のとき神無月さんと対戦してますよ」
 太田が、
「ひょっとして北山中? 左の本格派。リリーフで出てきたろ」
 すごい記憶力だ。
「はい。神無月さんに三階校舎のガラスを突き破るホームランを打たれました。どのくらい飛んだんだろうな……とんでもなくでかいホームランで、小学校からずっと名古屋市のホームラン王を獲りつづけてきた男の力を、とことん見せつけられた一発でした。その後、神無月さんの消息がわからなくなって、とつぜんあるとき中日新聞で『北の怪物』って記事を見つけたんです。うれしかったなあ」
 蝶ネクタイをした会場係が入ってきた。
「そろそろ、よろしいでしょうか。会場のほうへ入っていただきます」
 全員立ち上がった。私はずっと立ったままだった。
「七名のかた、スーツの上をお脱ぎいただいて、このユニフォームの上着だけ着ていただきます。どうぞ自分の番号をお取りください。帽子も同様にお願いします」
 CとDが重なったロゴを額に縫いつけた帽子といっしょに、ユニフォームを七着机に並べる。私は8番の上着をはおり帽子をかぶった。



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