七十二

 二月二十二日土曜日。七時起床。曇。うがい、歯磨き、洗顔、ふつうの排便、シャワー。
 いつ降り出してもおかしくない空模様だ。きびしい冷え。零下かも知れないと思い、部屋の温度計を見ると、二・六度。クロゼットに向かって倒立腕立てをしていた太田に挨拶する。
「おはよう」
「おはよッス」
「縄跳び、どうなった」
 ピョンと起き直り、
「夜中に、階段の踊り場でやりました。回数がわかりにくいので、休み休み三十分。たっぷり汗かきました。アルコールが入ってたので、ちょっとつらかったです」
「一朝一夕で効果なんか出ないから、根気よくやればいいよ」
「はい。めしの前に、巨人の投手やバッターの成績を押さえときましょうか」
「そうしよう」
 太田はベッドにあぐらをかき、手帳とパンフレットを開いた。
「まずピッチャーの去年の成績から。堀内恒夫、十七勝十敗、城之内邦雄、十一勝七敗、金田正一、十一勝十敗、高橋明、九勝八敗、高橋一三、七勝三敗、倉田誠、六勝五敗、中村稔、五勝三敗、菅原勝矢、四勝一敗、宮田征典、三勝二敗、嵯峨健四郎、二勝零敗」
「知らない名前が多い。金田さんは相変わらず負け数が多いね。あした出てくるかな」
「金田と対戦したいと一度新聞に載ったので、出てくるでしょう。先発でくるかもしれませんよ」
「いや、先発は堀内だろう。一人で抑えるつもりでくると思う」
「そうですかね。きたら遠慮なくぶっ潰してやりましょう。去年高木さんの顔面にぶつけた男ですからね。次にバッター。ホームラン数の順でいきます。王貞治、四十九本、打点百十九、打率三割二分六厘、長嶋茂雄、三十九本、百二十五、三割一分八厘、柴田勲、二十六本、八十六、二割五分八厘、国松彰、十二本、五十八、二割五分六厘、森昌彦、十一本、四十六、二割二分八厘、十本以上はここまでです。高田繁、九本、三十、三割一厘、黒江透修(ゆきのぶ)、七本、三十七、二割八分四厘」
「高田と黒江を抑えることだね」
「小川さんもそう言ってました。王、長嶋にはどうやっても打たれるから、ほかのアベレージヒッター、特に高田と黒江を抑えれば勝負になるって」
「きょうの練習はきびしいものになるぞ」
「はい!」
「さあ、めしだ。そのあと、ぼくは球場を十周走るよ。四キロぐらいだろう」
「俺も走ります。きょうは〈里帰り〉のレギュラーが帰ってきてるので、われもわれもでいくと思いますよ」
 納豆とハムエッグと味噌汁のどんぶりめし。バットとグローブとシャドー用のタオルを持って出かける。振り下ろすときに少し重く感じるバスタオルにした。
 太田の言ったとおりになった。どこからか聞きつけて、キャッスルホテルの二軍選手まで何人か、本多二軍監督と長谷川コーチに率いられてやってきた。
「きょうはよろしくお願いします」
 選手たちが頭を下げる。五、六人いる。もちろん知った顔はない。井手もいない。
 太田と二人、フェンス沿いに走り出す。
「ゆっくり十周、一周終わるごとに少しずつ速度を上げる!」
 走者が一人ずつ増えていく。二軍選手がおそるおそる私たちに紛れて走る姿が微笑ましい。中日球場の光景になれているはずなのに、第一球場の景色をあこがれの目で眺める。
 フェンス沿いに十周し終えてから、菱川とキャッチボール。ホームベースからポールへダッシュとバック走三往復、三種の神器、左腕のシャドー。そのあとピッチング練習を見にいった。レギュラー陣も何人かいっしょにきた。
 室内練習場に報道陣やコーチたちの姿がちらほら。水原監督もいる。山中が一人で投げている。腕をしならせて叩き下ろす豪快な投げ方だ。木俣が受けている。アンパイアはいなかったが、小川と小野と浜野が金網越しに見ていた。木俣が、
「みんなどうしたんだ、ぞろぞろと」
 高木が、
「金太郎さんをまねて、ボールの見切りにきた。ボールの見切りなんてことは入団以来まじめにやったことがなかった。理にかなったことはまねしないとね」
 練習マウンドにいた山中が大声で、
「神無月さん、きたね! リクエストどおり、ボールからストライクへ落ちるのと、ボールからボールへ落ちるのを二十球ずつ投げるからね!」
「グランドでお願いします!」
 グランドに出て、ケージに入った。小川と小野も浜野もあらためてケージのネットに近づいた。午前早い観客がスタンドを埋めはじめた。私はまず木俣の真後ろのアンパイアの位置に立ち、菱川が私の左脇で中腰になった。江藤と島谷と江島はマウンドにいき、山中の後ろに立った。
「高速フォークはボールの上部を人さし指と中指で挟む。こんなふうだ。ふつうのフォークはボールの真ん中を挟む。こんなふうだ。指の長いやつは有利だね。俺は手が大きいからどちらもいける。まず高速のでいってみよう」
 ストレートのスピードのまま、ど真ん中の高目にきた。胸もとのボールだ。消えた。木俣がミットを低く差し出し、前にのめって膝を突いた。小川が手を叩いた。
「やるなあ、巽さん。俺みたいなサイドスローはフォークを放れねえんだよ。シンカーしか投げれない」
「すごい角度で落ちましたね」
 私は少し右脇へ位置をずらした。胸の高さからほぼベースの上までどんな軌道で落ちるのか見えなかったからだ。二球目がきた。今度は落差しかわからない。
「よくわからないなあ」
 私はバッターボックスに入って、バットを持たずにボックスに立った。三球目、百四十キロ弱のボールが胸もと目がけてやってくる。手の出ない高さだ。スッとお辞儀をして、低目のストライクゾーンに落ちた。
「すごい!」
「どんどんいくぞ!」
 四球目、五球目と目が慣れていく。落ちぎわがわかるが、そこをかぶせずに叩けば凡フライになるのは確かだ。かぶせればライナーまでだろう。山中はドンドン投げつづけ、
「これで十球目だ!」
「打てそうな気がしませんね。今度は、ボールからボールになるフォークを十球お願いします。スピードのあるやつと、ないやつ」
「よっしゃ!」
 ボールからボールは、遅速にかかわらず見切ることができた。ほとんど木俣の前でバウンドし、後ろへ転がっていった。真ん中高目から低目へ落ちてくるフォークはぜったい打ってはいけないと判断できた。最初からボールのくせに、あまりにも早く落ちすぎ、くそボールだと容易に見切れるフォークはただ見逃せばいい。五球でやめてもらった。中腰になっていた菱川がうなった。
「打てん! どうやって打つんですか」
「ボールの軌道を見切って、ひっ叩くんですよ。山中さん、真ん中高目からではなく、ふつうの高さのストライクからボールになるフォークは、あまり投げないんですか」
「いちばん効果的なんだけど、予測して待ってるやつに打たれると、長打になる可能性が高い。だから予測できない場面で使う」
「それをお願いします。フォークだと予測せず、ストレートだと予測して待ちます」
 木俣が、
「三割はショートバウンドだぞ。ストレートを予測しとったら、なかなか見切れん」
「まだストレートの状態のときに、打ちこむ一点を見切ります」
 私はバットを持った。コーチや二軍たちも集まってきた。太田に、
「横の変化を見てくれ」
「オッケー」
「山中さん、いまから打ちます。十球、お願いします」
「ヨッシャー!」
 初球、ストレートと思いながら振って、空振り。しかし、ボールは〈消え〉ずに、曲がりハナをしっかり見切ることができた。落ちかけてからの変化が激しいとわかった。十球振って、空振り半分、上をかすり、下をかするファールチップ半分。太田が、
「当たりませんね。真っすぐ縦に落ちるのが四割、左右が六割。やっぱり落ちてから叩くのは無理でしょう」
「ぼくもそう思う。まだストレートのうちに落ちぎわを叩くしかないね。内、外は気にしない。菱川さん、そこでプロテクターつけてアンパイアしてください」
 もうみんな夢中になっている。山中が、
「神無月さん、あと十球振る?」
「はい! 今度は当たると思います。ストライク、ボール意識しないで投げこんでください!」
 二球チップしたあと、振り出すタイミングを一瞬のうちに体得した。進み出ればよかっただけなのだ。落ちぎわのスピードが緩まないので、少し前に出て、そのままストレートだと思って芯を食うように打てばいい。三球目ライトライナー、四球目ライト中段、五球目ライト上段、六球目ライト場外。菱川が、
「すげえ!」
 小川が、
「なんじゃこりゃ!」
 六球目セカンドライナー、七球目レフト中段、八球目バックスクリーン越え、九球目センター前ヒット、十球目ライト前段。
「オソロシか! 神業たい!」
 江藤が叫び、二軍選手がカッと目を見開いている。
「ありがとうございました、山中さん。おかげでつかめました。今度フォークピッチャーと対戦するときは、バッターボックスのいちばん前に立って、落ちぎわを打つことにします。そうすれば、十中八九、長打にできます」
「よかった、役に立ったか! しかしまいっちゃうなあ、こんなに得意球をポカスカ打たれたんじゃ」
「すみません。感謝します」
 私はケージの外に出て、仲間たちの賞賛を素直に受けた。小川が、
「フォークをものともしないバッター誕生か。俺のシンカーはどうする」
「手を出しません。あのコースはストレートしか打っちゃいけない。浜野さんに伝授してあげてください」
 浜野が、
「俺はシンカーがなくたってやっていけるぜ」
 あなたはすべてに能力があっても、しばらくは無理だ。百四十五キロあと先のスピードがあるのに、ボールに力がない。迫ってこない。小川が、
「俺、五、六十球投げたら上がるわ」
 浜野が、
「投げこまないんですか」
「春のキャンプは投げこめってか? コーチの仰せは貴重だがな、すべてが自分に合うわけじゃない。取捨選択はあくまで自分の判断でやらなくちゃいかん。それがプロだ。投げこんでフォームを固める? 俺は投げこまなくてもフォームは固まってるし、肩もできてるんだよ。これでもプロなんでね。十二月、一月、たった二カ月ピッチングしなかったくらいでフォームを忘れるようなやつはプロじゃない。俺は小学校からずっと野球をやってきて、キャッチボールもピッチングも欠かしたことがない。いまさら肩のスタミナなんかつけなくても腐るほどある。キャンプでは毎日、最大七、八十球、勘を取り戻すためだけに投げる。二百球も三百球も投げこむなんぞとんでもない。肩は消耗品だぞ」
 浜野はポカンとしていた。自分が正しいと思っていても、ここまで明確に本心を口にできる選手は少ない。それでだめなら辞めてやるという覚悟が常にある。小川は私と同類だ。レギュラー選手の中に心強い味方を得た。山中が、
「ほとんどのベテランピッチャーが健さんのようにしてるよ。新人のころから健さんみたいな主張をするやつはめったにいない。でもね、高校や大学の指導者には、無理を言って有望選手を不良品にしてしまうやつが多いんだ。プロにくるころはどこか傷んでる。板ちゃんはプロにきたときは半分壊れてたけど、からだがとんでもなく丈夫だったからここまでやってこれた。浜野も少し傷んでるんだろ? せっかく投げこみを強制しないチームにきたんだ。これ以上潰れないようにしろよ」
 小川が、
「おまえも鬼の島岡に猛特訓受けた口だろ。少しは傷んじゃってるだろう。巨人がおまえを採らなかった理由はそれらしいと聞いたぞ。中日で傷んだところを治せ。二軍の長谷川コーチも、一軍の宇野コーチや太田コーチも、無理強いしないからだいじょうぶだ。やばいのは、コーチが代わったときだ。てめえの指導方針に若いやつらを合わせようとする。そのときに自分なりのポリシーを主張できるようにしとけ。新人といっても、自分を表現できなきゃだめだ。この世界、年齢は関係ない。だいたいおまえは何球ぐらい投げるのが調子いいんだ?」
「五、六十球です」
「じゃ、そう主張しろ。小野も伊藤もさっさと上がるだろ? 板ちゃんなんか、二、三十球、たまに四十球ぐらいだぜ」
「わかりました。水原監督にはどう言えばいいですか」
「何も言わなくていいよ。水原さんや三原さん、それから鶴岡さんなんかは、いままで何度かピッチャーを潰してしまったことをしきりに反省してるからな。濃人は権藤を潰しても平気の平左だったけどさ。とにかく、努力してもできなさそうなことはやらない。できることは継続して徹底的にやる。故障からのモラトリアム期間だと思って、中日でしっかりやれ。巨人にいったら、リリーフみたいな出場機会の少ないピッチャーも投球練習だけで潰されるぞ。宮田というやつは、もう潰れるだろう。たった十八・四四メートルの世界だ。うまく立ち回れば長生きできる。長生きしろ」
 木俣が振り向いて、
「健さんの言うことはもっともだぞ。おまえは一年目から二十勝三十勝するような〈すごい〉ピッチャーにはなれないが、常時十勝十五勝するような〈いい〉ピッチャーにはなれる。ただし長生きすればな」
 大先輩の忠告を浜野は黙って聞いていた。馬鹿にするなと思ったのか、言われたことを頭に叩きこもうと思ったのかはわからないが、ときどき、無愛想に小さくうなずいていた。私は太田に、
「もう少し、付き合ってくれないか」
「いいですよ、何ですか」
「バットでハードルを作ってほしいんだ。ピッチャーは股関節が強くて柔軟だ。からだのひねりや踏ん張りに股関節が大いに関わってる気がする。ぼくのチンボの高さにバットを差し出してくれれば、飛び越えて惰力で走って振り向いて、また飛び越えるということをやってみる。十回ぐらい」
 島谷が、
「それ、俺もお願いします」
「ワシにもやってくれ」
 江藤が乗り気になった。浜野はいつの間にか立ち去っていた。
 だいぶ乾きはじめたグランドのあちこちにバットのハードルができた。二軍選手たちもこぞって参加した。長谷川コーチが、
「一軍は選手同士、いい会話してるねえ。二軍じゃ考えられないよ」
 本多二軍監督が、
「猛訓練の前に、猛会話だね。やる気のもとになる。とにかく見ていて楽しい。あれ見てごらんよ」
 バックネット裏のスタンドを見ると、水原監督はじめ一軍二軍コーチ陣のにこやかな顔があった。それを見て長谷川コーチがうなずき、
「スモール巨人を作ることを目指してると、永遠に強くなれないね。きょうはいい経験だった。あしたは二軍全員、見学に連れてこよう」
 十回も往復して飛ぶと、けっこう息が上がった。
「これは、連日は無理ですね。試合前のアトラクション程度、かな」
 江藤が、
「それもやめたほうがよかばい。かえって股関節ばやられるごたる」
「そうですね、これはやめ、と」


         七十三 

 宵闇が迫ると、水原監督や一軍コーチ連中はいち早くホテルに引き揚げた。中が、
「グランドはあしたからいいコンディションで使える。巨人戦に向かって、ゴーだね」
 投球練習場に残っていたピッチャー陣も引き揚げてきて、みんなで帰途についた。本多二軍監督が話しかけてきた。
「一軍キャンプが例年とちがって、とても新鮮だ。びっくりした」
「二軍ではいつも何をしてらっしゃるんですか」
「上から頼まれたコトをね。きょうはほんとにありがとう。すばらしい練習をさせてもらった」
 本多二軍監督に率いられた二軍選手たちは、口々に私たちに素朴な礼を言いながら、熱く握手し、公園の門からキャッスルホテルへ引き揚げていった。たぶんあの中には、二度と会えない顔もあるにちがいない。木俣が、
「権藤さんはね、ブルペンでじつに力のないボールを放ってたんだ。これでだいじょうぶかなって思うくらいのね。ところが、いざマウンドに上がるとガラリと変わる。びしびし百五十キロだ。ブルペンとマウンドとのギャップをつくづく感じたよ。いまの健太郎さんが同じだ。要するに、ピッチャーは、バッターと実際に対決するときにどんなボールを投げられるかなんだな。俺は権藤さんに遇って以来、ブルペンでのピッチングを信用しなくなった。……しかしいま思えば、酷使されてる肩と肘を消耗させないための工夫だったんだな。酷使という前提を崩せない以上、むだな工夫だったわけだけど。……悲しいね」
 みんなの影のように黙った。菱川が、
「神無月さんや健太郎さんの持論が正しいということですよ。……神無月さん、これまで二つ教わりましたが、総合的なバッティングのコツを教えてください。見て学ぶのはとっくにあきらめてます。耳から聞いた言葉をイメージして学ぶことにします」
 バットに覚えのあるレギュラーたちが私の周りに寄ってきた。
「ぼくがいつも心に留めてることは二つあるんです。一つ目は、ボールを引きつけすぎずに踏みこんで前で叩くこと。遠心力を最大限に生かしたホームランを狙うためです。二つ目は、振り遅れたと思ったら引き手の力を抜いて利き手で押しこむこと。インパクトの力だけのホームランが狙えます」
 周りの連中がざわめいた。太田が、
「むかしから言われてきたのと逆ですね。引きつけろ、ふところは引き手で払え」
「ホームランを目指さないなら、それでいいんだ。ただその打ち方だと、ホームランを狙えない。たまに当たりどころがよくてホームランになるかもしれないけどね。菱川さんはホームランを打ちたくてぼくに質問したにちがいないと思って、ホームランを打つコツをしゃべった。ヒットを打つコツを訊いたわけじゃないだろうしね。ヒットを目指して打つのは難しいので、ぼくにはわからない」
「そりゃそうだ。ウハハハ」
 江藤が豪快に笑った。高木が、
「王も、長嶋も、野村も、みんな前で打ってるね。ホームランバッターでひきつけて打つのは、山内ぐらいかな」
「あの人は引きつけてるんじゃなくて左腕を畳んでるんです。彼の左手の鍛錬は並じゃありません。あの左腕の使い方は、彼一代かぎりのものでしょう」
 高木は、
「しかし、金太郎さんの引き手と押し手の使い方も絶品だよ。それこそ一代かぎりのものじゃないの」
 葛城が、
「職人の山内さんも三十七歳、そろそろプロ生活二十年だ。俺と同じで引退が近い。去年広島に移籍して、二十一本もホームランを打ったけど、最後の花火だね」
「ペナントの初戦が広島戦なので、山内さんと三十秒でも話ができたらと思ってます。小さいころから尊敬してましたから」
 太田がボソリと、
「神無月さんは、バッティングのコツなんか何も考えてないですよ」
 みんなオッと太田を見た。
「神無月さんは、コツはと訊かれたから、引きつけるなと言っただけで、杉浦さんからホームランを打ったボールなんかは、ある意味じゅうぶん引きつけて弾いてました。神無月さんが実行してることはただ一つ、この変化球まみれのプロ野球界に挑戦状を叩きつけることだけです。つまり、変化する前に変化球を打つこと。そのための神無月さんの技術は臨機応変です。人に伝授できるものじゃありません。神無月さんはヒットも難なく打ちます。何も考えずにね。まちがいなく今年、三冠王です。三冠とも史上ナンバーワンになりますよ。小学校五年から一年だけお休みを挟んだ八年連続三冠王ですからね」
 しばらくみんな考えて、おお、とうなずいた。菱川が、
「そうか、転校して東大受験に備えたせいで、高校三年のときは野球をやってなかったんですね。とすると、小学校五年からだな」
 私は、
「単なるお山の大将の記録です。正確には七年でしょう。中学の三年のときは、三冠は獲ってません」
 中が、
「金太郎さん、六大学までお山と言っちゃ、六大学が気の毒だ。金太郎さんはどんな山でも大将だよ。たとえ十打席ノーヒットでも、かならず最後は三冠王になる」
 無口な江島が、
「凡打もめったに見れないのに、十打席ノーヒットなんてことになったら、大事件になりますね。大事件のあとで三冠王。格好いいなあ。ところで、ぼくのほうが一年プロの先輩なのに、齢は半年下なんですよ。―関係ないか」
 葛城が、
「何ひよわなこと言ってるんだ。おまえ、今年はこの大選手葛城隆雄の代わりにライトのレギュラーを取るんだろ? 俺の去年の成績はホームラン九本だ。おととしの二十本からガクンと落ちたんで、おまえに指定席を譲り渡さなくちゃいけなくなった。おまえ去年何本打った?」
「五本です」
「俺は昭和三十年の新人のときは二本だった。褒めてつかわす。とにかく超高校級の折り紙つきで入団したんだから、金太郎さんの五分の一でもホームランを打ってみろ」
「はい、打ちます。神無月さんは八十本と言ってたので、十六本ですね」
「スラッガーの触れこみの選手が十本を切ると、翌年が危なくなるから、用心しろよ」
「はい」
「俺は新人のとき、ゼロ本だったよ」
 木俣が言った。ふと、ここしばらく徳武のだみ声が聞こえてこないことに気づいた。
「あの、徳武さんをこのところ見かけませんが。まだ東京の里帰りから戻ってないんですか」
 江藤が、
「里帰りはしとらん。島谷の控えに回るよう正式に言われたげなばい。去年十一本もホームラン打ちよったのにな。ほんなこつ、ガッカリしよったんやろ、風邪ばひいて寝こんどる。こら、島谷! おまえ、ちゃんと代役果たさんば承知せんぞ」
 島谷はぼんやりした顔で、
「俺、そんなに打てませんよ。五本で勘弁してください。俺と太田が控えに回るべきなのになあ」
 葛城が、
「首脳の命令は絶対だ。ありがたくお受けしろ。ま、仕方ない、五本で勘弁してやる。江島は勘弁せんぞ」
 ほのぼのとした笑いの中で、ホテルの玄関に戻った。
         †
 各テーブルにすき焼きの大鍋が載った。私は木俣のテーブルへ手招きされていった。彼の童顔が気に入っている。吉沢と新宅もいた。もし優勝するとすれば、その重責は彼らの肩にかかっているだろう。打ち勝てるゲームはめったにない。ヒットの連鎖がないかぎり得点できないからだ。相手が不調のときはヒットはおもしろいようにつづくけれども、好調な相手に勝つには得点をさせないという方法しかない。そのためには、一にも二にもキャッチャーだ。エースキャッチャーは采配役を務める監督の分身だ。
「とうとう金太郎さんをめしに引きこんだぞ。いつも金太郎さんといっしょにめしを食えるやつが羨ましかったんだよ」
「スラッガーキャッチャーと同席できて光栄です」
「くすぐったいこと言うなよ。金太郎さんに比べりゃみんな雑魚だ。金太郎さんに俺たちが打つ分を足して、二百本以上ホームラン打とうぜって、さっき江藤さんと約束したんだよ。俺たち全員が力を合わせて百二十本打てば、二百本いくだろう。それならぜったい優勝できる」
「打ち勝って優勝するのは難しいと思います。点をやらないで僅差で勝つ試合が半分は出てくるんじゃないでしょうか。打者みたいな単細胞は、ただホームランやヒットを打つだけで仕事は終わりですが、守備の代表者であるキャッチャーは、バッターの仕事をして終わりというわけにはいきません。僅差勝ちのゲームはキャッチャーに大半の責任があります」
 吉沢と新宅が身を乗り出した。木俣が、
「きびしいこと言うなあ!」
 新宅が、
「達ちゃんのインサイドワークは抜群だよ。セリーグナンバーワンじゃないの? 野球の知識がとんでもないから」
 吉沢が、
「木俣くんは野球博士と呼ばれてるんだよ」
「それを聞いて安心しました。みんなで二百本以上打ちましょう。しかし、去年は、江藤さんや木俣さんや江島さん、移籍組のベテラン二人といった強打者が揃っていたし、高木さんや中さんのような名人もいたのに、なぜ最下位だったんですか」
 木俣が、
「ひとことで言うと、連敗癖だ。四、五年前の話からしないとな」
 新宅が、
「ああ、口惜しい目ばかり見てきたよな」
 木俣がうなずき、
「杉浦監督の三十九年が最下位。三割打者が首位打者を獲った慎ちゃんしかいなかったから、これは仕方がない。打撃がオシャカだったわけだから。それから西沢監督に代わって三年間連続二位だ。やさしくて人格者の監督だった。俺たちは精いっぱいやった」
「おととしなんか、十二ゲーム差もつけられたけど、外人戦力なしでどうにか二位に漕ぎつけたもんな」
「……連勝してるうちに、とつぜん打てなくなるんだよ」
「ああ、とつぜん連敗する。七勝五敗一分けでなんとか開幕ダッシュに成功したとたん、一勝六敗で負け越し。西沢監督休養、近藤代行で九勝二敗と盛り返し、それからは一進一退、結局全球団に勝ち越したのに三年連続の二位だった。中さんが王と近藤和と競(せ)って首位打者を獲り、健さんが沢村賞を獲ったのが二筋の光だったな。そして去年だ」
 新宅が、
「年明けに西沢さんが辞任、ガックリきたな。杉下さんが監督になってチーム改革に乗り出した。小野さんを大洋から獲り、広野を出して西鉄から田中勉を獲り、河村を出してサンケイから徳武さんを獲った。で、開幕九連勝だ。いけると思ったとたんに八連敗。毎度のパターンになった。おまけに中さんが眼病で長期欠場、高木が堀内からデッドボール喰らって長期欠場ときて、ほれ十一連敗、それ六連敗。連敗連敗のどん底生活。六月に杉下さんが休養、本多代理監督になって、またまた二桁連敗。夏に黒と赤のノースリーブのユニフォームで気分一新しようとしたんだが、笑い者の役立たず。縁起が悪いってんで、即廃止。で、球団創設以来、全球団に負け越して最下位だ。そこで秋口からフロントが金太郎さんの獲得にヤッキになって乗り出したら―」
 木俣が、
「アッサリ獲得だった。あまりの意外さに、球団事務所がお通夜みたいに静まり返ったらしいぜ。俺たちも信じられなかったよ」
 今年出戻ってきた三十六歳の吉沢が、
「少なくとも、十二球団勝ち越しと、三年連続二位の力はあるわけだね。大きなゲーム差はつけられないと思うけど、神無月くんが加われば連敗癖はなくなるだろうし、案外ラクに優勝できると思うんだ。これまでは助けてもらいたいときに助けてくれる人がいなかった。今年はいる。頼むよ、神無月くん」
「優勝しましょう! できますよ」
 四人で手を握り合う。安請け合いでない気がした。
 新宅が、
「水原さんまで呼んで、今年は臨戦態勢だ。あしたの巨人戦はぶちかますぞ」
「はい!」
 高校も大学もプロもない。こういうときの団結の高揚は同じだ。満ち足りた気分ですき焼きの鍋をつつき合う。吉沢が、
「神無月くんは自由人だと聞いているが、こういう団体生活は気詰まりだろう」
「たしかに独りでぼんやりしていたい気持ちはありますけど、だからといって団体生活を軽視したり、訓練を疎かにするつもりはありませんし、そうした訓練に励むことに抵抗感もありません」
「有力な新人は、嫉妬や反発を買いやすい。その手の悩みはないかい?」
「ありません。みなさん親切にしてくれます」
「きみが溶けこんでるからだよ。いや、きょうみたいに引っ張ってくれてるからだ」
 木俣が、
「みんなめずらしいんだよ、ウルトラ天才が。何を見てもまるで手品だからな」
 新宅が、
「そう、映画を観てるようだ。いや、野球漫画かな」
 木俣が、
「金太郎さん、日本最初のプロ野球の試合はどことどこか知ってる?」
「はい、知ってます。ルールの知識は心もとないですけど、そういう方面ならけっこういけます。昭和十一年二月九日、鳴海球場、東京巨人軍対名古屋金鯱(きんこ)軍。三連戦の初戦は金鯱軍があの沢村栄治を打ちこんで十対三で勝ち、二戦と三戦は巨人が勝ったそうですね」
「それを言ってほしかった。つまり中日対巨人なんだよ」
「中学の遠征試合にいったとき、鶴舞公園を通り抜けながら監督が鳴海球場のことを話してくれました。鳴海球場はいまでは自動車教習場になってます」
「そこまで詳しいことは知らなかった。ドラゴンズはいちばん古い伝統あるチームだと言いたかったんだ」
「日曜日はその最古の試合の再現になりますね。十対三で勝ったら、神がかりです」
 木俣が、
「よし! 十対三で勝とう」
 吉沢が、
「それは無理だ。十点取れる投手陣じゃない。神無月くんが二本ホームランを打つと想定して、六対二ぐらいでどうだ」
「なんだ、どっちにしても勝つんじゃないの」
 新宅が愉快そうに笑った。


         七十四

 二月二十三日日曜日。朝方一・六度。うがい、歯磨き、快便、シャワー。快食。
 きのう着たユニフォームの着心地も満点。グローブとスパイクを脂の沁みたタオルで乾拭き。久保田バット二本をバットケースに収める。タオル、バスタオル、着替えのアンダーシャツ、スパイク、グローブをダッフルに入れる。ズック靴を履き、ユニフォームの着こなしの具合を太田と確認し合う。
「ピシッとしてます。いきますか」
「いこう」
 九時、ロビーに集合。水原監督以下二十五名。足木マネージャー、池藤トレーナー以下二名、スコアラー、背広姿の村迫、以上五名、総勢三十名。徳武の姿もある。ホテルの玄関前と沿道に黒山の人だかり。ほぼ無風。陽射しが強い。闘志が静かに湧き上がる。自分にどう生きろと言うつもりはない。才能の命じるものを完遂させること。
「いま四度です。きょうは一日五度前後でしょうね」
 池藤が温度計つきの腕時計を見ながら告げる。
「それ、いいですね。どこの時計ですか」
「アメリカのタイメックスです。天気と温度も表示される便利なものです」
 池藤は笑顔で答える。記憶した。試合場以外の日常生活で使える。ランニングのときにも便利だ。無秩序な徒党を組んで選手たちにぞろぞろつき従う群衆といっしょに公園に入る。球場の周囲の樫や楢や椎の木の下に、徹夜組のテントがいくつも咲いている。露店まで出ている。通りかかる私たちを大歓声が包む。坊主頭や学生帽の少年たちがまとわりつく。私は無表情だが子供たちはみんな笑顔だ。フラッシュの洪水。報道陣が蟻のようにたむろしている。
 ロッカールームでスパイクに履き替え、天井の低いベンチに入る。四角い盥のような置き台にバットを並べる。二十本ほど並んでいる。一、二軍コーチが全員きている。二軍選手の中で観戦したい者は、球拾いを終えたら、客席ではなくベンチ裏の控え室に入ることになっている。そこからときどきベンチに出てきて観戦する。彼らの中に三好とフォックスがいた。フォックスは風呂事件以来、二軍落ちしていたようだ。
 レフト上空に低い太陽がある。グランドはいい具合に乾いている。ランニングから始まる一連のウォーミングアップ。その合間に、スタンドから色紙を差し伸べる少年たちにサインをする。二十人ほどでやめ、キャッチボール、三種の神器。大歓声が湧く。
 十時。一塁側三塁側内野席の最前列通路に脚立を置いて、報道陣が居並んでいる。フェンスに沿って流れるフラッシュの閃光。太田、菱川とポール間ダッシュ往復一本。
 十時半、アナウンスが始まる。
「みなさま、本日は明石第一球場へご来場くださいまして、まことにありがとうございます。本日行なわれますカードは、読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズの練習試合でございます。ただいまより中日ドラゴンズのバッティング練習でございます。ファールボールにじゅうぶんお気をつけくださいませ」
 少しハスキーな女の声だ。南海戦とちがう。東京から呼んだ公式のウグイス嬢かもしれない。バッティングケージ裏で水原監督と、彼の跡を継いで巨人軍の監督になった川上監督が握手をする。何発かストロボ。握手のついでに、いち早くメンバー表を交換する。水原監督が巨人を辞任したのは、しつこくストロボを焚いたカメラマンを殴ったからだといつか太田から聞いた。その太田に、
「ネット裏の裾の金網張った檻みたいな仕切り部屋にいつも大勢詰めてるけど、あいつらだれ?」
「端の二室がメンバー表を受け取るウグイス嬢と、審判団といつもいっしょに行動する公式記録員二人のためのもので、それから横へズラッと各新聞社の記者たちです」
 控えの選手たちから打ちはじめる。バッティングピッチャーは全員二軍からの駆り出しで、北角富士雄、竹田和史、水谷則博が順繰り投げる。アンパイアがケージに入り、キャッチャーの後ろにつく。フリーバッティングのボールは素直なので、きわどいファールチップはない。審判は安全だ。受けるキャッチャーは吉沢。竹田と水谷則博とは入団式で顔を合わせた。先日ドラフト外の話題が出た北角とは初対面だ。キャッチングしている背番号33の吉沢にネットの後ろから話しかける。
「吉沢さん、中日時代は背番号9でしたね。八番、キャッチャー、吉沢、背番号9」
「昭和二十八年の入団から三十三年までの六年間は33だったんだよ。三十四年から三十六年まで9をつけてた。そのころに見たんだね。新人入団式のとき、ウグイス嬢のまねをやってみせてたと聞いたよ。みんな大泣きしたそうじゃないか」
「ぼくもなつかしくて涙が出ました。今年はよろしくお願いします」
「こちらこそね」
 十一時。ドッと客が入ってきた。三分もしないうちに、スタンド、芝生席とも隅々まで満員になる。ベンチの屋根にも人があふれ、何十人かの大人や子供が、立ったりしゃがんだりあぐらをかいたりして見物する。彼らは南海戦と同じように、試合中はスタンド席に戻される。扇形の大野球場(コロシアム)。両翼百メートル、中堅百二十メートルのグランドをビッシリ観客が取り囲んでいる。彼らの熱い視線に見つめられながら、レギュラーが一番から五番まで十本ずつ打っていく。みんな浮きうきと振っている。私や江藤はもちろん、中、高木でさえ軽々と芝生席へ入れる。打ち勝てそうだ。
 轟音のような歓声が上がったかと思うと、三塁側ベンチの奥から黒帽子の額にオレンジのGYマークをつけた選手たちが現れた。ある者はダッグアウトの縁に足を載せてスパイクの紐を結んだり、ある者は角盥のバットケースに自分のバットを並べたり、ある者はベンチに反り返って私たちのバッティングの様子やスタンドの周囲の緑を眺めたりする。
 ヒゲ剃り跡の青い長嶋、ギョロ目の角面の王、小坂一也に似たヤサオトコ高田、ニヤケ面の柴田、皮肉屋と一目でわかる冷笑顔の森、痩せたサラリーマンふうの土井、むさくるしいチビの黒江、オッサン面の末次―日本の人気者たちが実際にみんないる。川上監督はまだ視界の中にいない。連続するフラッシュ。白いユニフォームの胸には、オレンジに縁どられたGIANTSの黒文字。アンダーシャツの黒とベルトの黒が白地のユニフォームに鮮やかに映える。
 長嶋がなつかしそうに何やら王に手振りで話しかけ、目で江藤の打球を追いかける。彼のことだから、むかしの明石キャンプの思い出を〈難解な〉言葉でしゃべっているのだろう。だれもかれもひたすら姿が美しい。巨人軍の選手たちを見たらもっと胸が轟くかと思っていたが、それほどでもない。冷静に見つめている。
 一塁側ベンチに水原監督以下コーチ陣が詰めた。木俣がダウンスイングでレフト前にするどい当たりを飛ばす。時折ライナーで芝生席に突き刺さる。丸い童顔が私を振り返って笑う。親指を立てて笑い返す。葛城と徳武と江島、菱川と島谷と太田が十本ずつ打つ。六人ともスタンド入りは一本。葛城はゴロが多く、江島と太田は打ち上げ気味、やはり菱川の打球がいちばんするどい。最後に打った一枝はセンター中心にライナーを飛ばすことに終始した。水原監督が、
「金太郎さん、最後にちょっと驚かせてあげなさい」
「はい」
 私はもう一度バッターボックスに立った。歓声が渦巻く。十本打つ。どしょっぱなにライト場外へ、次にライト芝生席へ、三本目レフト芝生席へ、四本目センターバックスクリーン越え、五本目左中間を抜くライナー、それから三本つづけて左、中、右と外野定位置へフライを打ち上げ、最後の二本をふたたびライト場外へ。巨人軍ベンチがざわついている。ようやく選手たちの陰に現れた川上監督の眼鏡が光った。打ち終えて、帽子を取り三塁ベンチに礼をする。長嶋と王が返してくれた。吉沢が言う。
「きょうは三本ぐらいいけそうだね」
「目標は常にホームラン一本、ヒット一本です。打率五割の夢を達成したいと思ってます」
「心から応援するよ。がんばってね」
「はい、ありがとうございます」
 水原監督がベンチ横で、手を腰に空を仰いでいる。すてきだ。私はベンチに駆け戻った。田宮コーチが、
「巨人のやつら、肝つぶしてたな。いいデモンストレーションになった。いやあ、ほとんど上下動しないからだから機関銃みたいにホームランが飛び出すんだもの、鳥肌が立っちゃうよ」
 十一時十五分。
「ただいまより読売ジャイアンツのバッティング練習でございます」
 高田がケージに入る。太田が、
「おととしのドラ一です」
 一、二度テレビで観たことがある。よく引っ張る男だ。テレビでは気づかなかったが、いま目の前で見て、両手のあいだを三センチほど離してバットを握っているとわかった。外角は放り出すようにして振る。内角は払うようにスコンと振る。けっこう伸びる。それで彼の打法の秘密がはっきり知れた。あの握り方を利用して、利き手で片手打ちをしているのだ。また引っ張りファール。観客が笑う。太田が、
「高田ファールです」
 彼の右手首はたぶん強い。ただ、左手でコントロールできないので右手だけでテニスやバトミントンをやっている感じになる。不得意なコースはほとんどなくなるが、両手合わせてのモーメント調整が微妙にうまくいっていない。選球眼がよければ、ラケット打ちでヒットを稼ぐことになる。
「打率はどうだったっけ」
「三割一厘だったと思います」
「やっぱり。高田はラケット打ちなので、右手の届く範囲は全部手を出してくる。右手一本の広角打法になる。高田ファールは左手といっしょにコネてしまう内角のときだけ。小野さんの配球しだいだけど、一塁と三塁のベースぎわが危ない。ぼくはライン寄りに守ることにするよ。長打はないだろう。うまく当たればホームランになるけど、それは技術的なものじゃなくて交通事故だ」
「みたいですね。俺も三塁を守らされたらベースに寄って構えます」
「ワシもそうするたい」
 江藤もうなずく。
 土井。飛ばない。思い切り振っても何の問題もない。バントの人。打率は知らない。きっといいんだろう。二、三本バントを決めて引っこんだ。観客席はそよとも騒がない。
 王。大歓声。カチンと決まった一本足のフォーム。目立って太いふくらはぎ。二本セカンドゴロを打ったあと、ライトフライを二本、つづけて高いフライで満員の芝生席へ二本、ライナーで金網直撃一本、最後は浅いセンターフライだった。日本を代表する長距離ヒッターのバットが、太田と同様波打っているように見えた。江藤に、
「バットが波打ってませんか」
「あれが独特のダウンスイングたい。掬うときは波打たん。ばってん、だれも金太郎さんほどは飛ばんな。俺もあの仕切り網は越えられん。さっきのバックスクリーン越えは、百六、七十メートルいっとるんやなかね。中西も打てんかった距離ぞ。ふつうのホームランやなかばい」
「長嶋ァ!」
 王に倍する歓声。バットをこぶし一握り短く持ち、左足でリズムをとる。軽く振り出すとギシッと衝突音がして、あっという間にレフトスタンドの仕切り網へ。王より飛距離がある。どちらがホームランバッターかわからない。幼いころ中日球場で見たとおりのフォームと飛距離だ。私は思わず手を叩いた。長嶋が一塁ベンチを真っすぐ見て、ニッコリ笑った。水原監督がポンポンと私の背中をやさしく叩いた。
「金太郎さんの素朴さは、球界の宝物になるよ」
 十本中四本ホームラン、ゴロ二本、あとは左中間右中間へのするどいライナーだった。すばらしいものを見た。木俣が、
「三十二歳のバッティングじゃねえな」
 柴田が左打席に入る。小さな構えからライト前ヒットを立てつづけに六本、ライナーでスタンド入り二本、セカンドライナー、ファーストライナー一本ずつ。引っ張りの強打者だ。
「要注意ですね。ラインぎわも」
 葛城が、
「広角野郎だから、定位置で守るしかないんだよ。島谷、少しラインに寄っとけ」
「はい」
「あの背番号53はだれですか。素直なボールで、バッティングピッチャーにぴったりだ」
 太田が、
「去年入った関本。気の毒だなあ。このままずっとバッティングピッチャーでいくんだろうなあ」
 末次。素直なボールに詰まってばかり。窮屈な振り方。バットをこねるからだろう。サードフライ、ショートフライが多い。振りもにぶい。まず安全牌。
 名捕手の誉れ高い森昌彦。ほとんど片手打ちのダウンスイング。足が遅いのになぜ左で打っているのかわからない。安全牌。
 黒江。ずんぐりした小さいからだから左中間へするどい打球を飛ばす。
「中さん、黒江のときは左中間を狭めましょう」
「そうしよう。こう見ると、王、長嶋以外はふつうのバッターだね。去年まではそう思わなかったけど、金太郎さんを見ちゃうと、どうしても見くだした気分になる」 
 十二時十五分。ホームチームの守備練習に入る。レギュラーだけ十五分。巨人軍ベンチが昼めしに引っこむ。
「田宮コーチ、バックホームは一本だけでお願いします」
「オーライ!」
 外野守備各ポジション一人あて、二分。セカンドへノーバウンド送球三本。ざわざわという声が上がりはじめる。三塁送球二本。嘆声が喚声に変わり、拍手が追いかける。サードベースぎわを抜くゴロが飛んでくる。ファールフェンスで処理して、渾身の力で手首を叩きつける。しゃがんだ島谷の真上を通過して、地を這うワンバウンドで木俣のミットへ突き刺さった。逆巻く歓声が球場にこだまする。
「ナイス、バックホーム!」
 木俣の大声が空に上がる。巨人ベンチが拍手している。中と葛城も拍手している。六大学野球でもこういう瞬間があった。才能は才能に素直に感応する。スポーツの世界だけはこの関係性は崩れない。シンプルで美しい世界。つづいて内野守備。十二時半終了。


         七十五

 ドラゴンズの守備練習が終わると同時に、巨人軍が守備練習に入る。ベンチに弁当が配られる。めしを食いながら、守備練習を見つめる。
 ブルペンに金田が出てきた。ストロボが焚かれる。三十メートルくらいの距離でキャッチボールをする。金田コールがかまびすしい。私は、
「すごい圧迫感だな。でもこのプレッシャーは楽しい」
 葛城が、
「プレッシャーを楽しむというのはよくある言い回しだけど、たいていは強がり、ハッタリなんだよ。でも、金太郎さんはちがう。正真正銘鈍感にできているか、もともとアンテナがないかのどちらかだ。鈍感、指向性なし。どっちにせよ、天才以外のなにものでもない」
 長嶋、王のダイナミックな守備。冷静な心で長嶋を見つめる。ショートストップは幼いころから目に馴染んでいた広岡ではなく、ずんぐりの黒江だ。それだけに、一段と長嶋の動きが目立つ。矢のような送球を王がさりげなく受け、弾むように跳び上がってキャッチャーへ返球する。
 黒江、土井のゲッツープレイ。トタラ、トタラして、まちがっても華麗とは言えないが堅実だ。優勝慣れしたチームの自信を感じる。土井の前のセカンドはだれだったか思い出せない。葛城に訊く。
「土井の前のセカンドって、だれでしたっけ」
「塩原、須藤、船田あたりじゃなかったかな」
「ああ、船田、覚えてます」
「三年前、田中久寿男と交換で西鉄にトレードされた」
 センター柴田のバックホーム。強いノーバウンドのボールだが、少し山なり。ちょこまかした内股が感覚に染まない。
「田中久寿男……なつかしいなあ。満塁サヨナラホームラン。どこでいつ打ったのか忘れちゃいましたが、豪快なスイングは覚えてます」
 飛島寮のテレビだったかもしれない。江藤が、
「おととし八月の後楽園、うちとの戦いで打ったっちゃん。一対一の九回裏、ワンアウト二塁、三塁で、末次の代打に金田が出てきおった。うちはエースの健太郎よ。いくらバッティングのよか金田ちゅうても、健太郎なら一球で打ち取れたのに、何ば思うたか西沢監督が敬遠させた。そこへ四打数一安打の田中久寿男たい。で、うちも、代えんでもええのに健太郎から板ちゃんに代えた。やられた。田中は今年、古巣の西鉄に再トレードされて戻ったらしか」
 ライト末次のバックホーム。ツーバウンドだがコントロールがいい。レフト高田、すばらしい肩だ。低い滑らかなワンバウンドで森のミットへ。盛んな拍手の中、巨人の八人がベンチへ引き揚げる。弁当終了。足木が空き箱を大きな籠に収容していく。
 十二時四十五分。ウグイス嬢の両軍スタメン発表。
「ドラゴンズのスターティングメンバーを発表いたします。一番、センター中(大拍手)、背番号3、二番、セカンド高木(大拍手)、背番号1、三番、ファースト江藤(大喝采)、背番号9、四番、レフト……」
 いち早く大歓声が上がる。私の名が告げられる。
「神無月(爆発的な歓声)、背番号8、五番、キャッチャー木俣(大拍手)、背番号23、六番、ライト葛城(拍手)、背番号5、七番、サード島谷(パチパチ)、背番号30、八番、ショート一枝(拍手)、背番号2、九番、ピッチャー小野(大拍手)、背番号18」 
 ブルペンの小野の投球練習に力がこもる。
「つづいて読売ジャイアンツのスターティングメンバーを発表いたします。一番、レフト高田(拍手)、背番号8、二番、セカンド土井(拍手)、背番号6、三番、ファースト王(爆発的な拍手、歓声)、背番号1、四番、サード長嶋(球場がどよめく)、背番号3、五番、センター柴田(拍手)、背番号12、六番、ライト末次(拍手)、背番号38、七番、キャッチャー森(拍手)、背番号27、八番、ショート黒江(拍手)、背番号5、九番、ピッチャー金田(大拍手、歓声)、背番号34。なお、球審は富澤、塁審は一塁大里、二塁谷村、三塁岡田、線審はライト手沢、レフト井筒、以上でございます」
 王、長嶋、金田への声援は、球場が揺らぐほどだった。ネット裏前列に各球団関係者が二列にわたってずらりと坐った。村迫はもちろん、白井中日新聞社社長、小山球団オーナー、久保田名人までいる。テレビカメラが睥睨(へいげい)している。整備員がグランドに走り集まって、トンボで均す。トラクターが走る。
 ドラゴンズチームが守備に散った。南海戦とちがって、今回はホームプレートに向かい合っての礼もなかった。審判員たちはドラゴンズのナインが守備位置についたのを確認すると、横一列に並んでバックスクリーンに向かって脱帽し、一礼してから持ち場に走っていった。
 小野がゆっくり投球練習を始める。球審が一塁とホームベースのあいだに立って小野の投球を見つめる。私はレフト線審の井筒の立ち位置を目に納めると、中とキャッチボールを開始する。
「さ、いくぞ」
 私は独り呟いた。中がボールを葛城に送り、葛城はボールボーイに転がして返した。富澤のプレイボールの声。大歓声の中、高田が爪先をトントンやりながらバッターボックスに歩いていく。土井がネクストバッターズサークルに入る。私はライン寄りに守備位置を変えた。島谷がベースぎわに移動する。
 初球内角胸もとストレート、ファールチップ、バックネットへ一直線。ヘッドの重いバットを使っている。片手でコンと打つからだ。二球目、内角低目のスライダー。スイング。サードベース上へ強い打球。何でも当ててくる。島谷が両膝を突いてバックハンドでさばき、立ち上がって一塁へ素早い送球、アウト。
「ナイスプレー、ナイスプレー!」
 高田が驚いて、駆け抜けた先のファールゾーンで茫然と立っている。いつもなら、確実に二塁打、うまくいけば三塁打コースなのだろう。気を取り直して三塁ベンチへ走って帰った。内野のボール回し。江藤が小野にトス。
 二番土井。王がネクストバッターズサークルに膝を突く。一球目、ドロップ。ストライク。ブルペンから金田がじっと見ている。二球目、外角高目へ外すストレート。速い。手を出して一塁スタンドへファール。バットを素早く振り戻す格好がみっともない。
「ファールボールにご注意くださいませ」
 三球目、外角へ速いカーブ。見逃し三振。手につばを吹きこみながら王がバッターボックスに入る。うなるような歓声。長嶋がネクストバッターズサークルに片膝を突く。美しい。フラッシュが光る。たぶん長嶋に向けてのものだ。
「プレー中のフラッシュ撮影はご遠慮くださいませ」
 初球、肩口から落ちる大きなカーブ。ドロップより鋭角的ではない。王は少しのけぞって見逃した。ボール。しきりに手に砂をつけ、唾を吹きこむ。カチンと一本足で立つ。二球目、外角低目のスライダー、ストライク。王は、うんうんとうなずき、バッターボックスを外す。長嶋が甲高い声で呼びかける。またカッチリ立つ。三球目胸もとを抉るストレート、詰まって打ち上げる。両手を羽ばたかせながら上空を見つめる高木がオーライ、オーライと叫ぶ。セカンドフライ。チェンジ。私は一枝の背中について大きなストライドでベンチに戻った。
「ナイスプレー!」
 島谷と握手。小野はブルペンへ直行。生一本な三十五歳だ。
 金田はセカンドからツーステップしてキャッチャーへ全力で一投すると、二投、三投しながら徐々にマウンドのいただきに近づいていき、プレートを踏んで一球投げ終え、ウォーミングアップ完了。足先でマウンドを均す。水原監督が三塁コーチャーズボックスに向かう。太田に尋く。
「金田は何歳?」
「小野さんと同じ三十五歳。長嶋さん三十二歳、王さん二十九歳」
「長嶋も王もそんな齢なのか……」
 感無量だった。自分が生まれたときには、はるかに年長け、しかも野球界に冠たる名選手として声望を得てきた人たち。いま私は彼らといっしょに野球をしている。半田コーチが、
「今夜、食事会ね。そのとき仲良くする。巨人のみんな一晩泊まってく。試合はあまり仲良くしないのがいいね」
 木俣が、
「わかってますよ、カールトンさん。叩き潰してから仲良くします」
 半田コーチがカールトンという名前であることをあらためて知った。
 富澤が右手を上げ、中が打席に入った。しゃがみこんで的を小さくする。長嶋が唾を吐き、目の前の地面を足で均した。爪先を立てて構える。思わずこみ上げるものがあった。
 ―中日球場、三塁側内野指定席、私の野球人生の覚醒期。
 初球、その小さな的へねじこむようにど真ん中の速球がきた。ストライク。田宮コーチが、
「おお、球が走ってるな。いつものカネやんじゃないぞ。金太郎さんを意識してる。長嶋との初対決を思い出してるんだ」
 二球目、顔のあたりへ速球、と思いきや、急角度に曲がり落ちた。ストライク。中は尻餅をついている。
 ―あのボールはぼくにもくる。逃げずに、胸の高さの落ちぎわを叩く。大きなファールになるかもしれないけど、金田は驚き、気を引き締めて、速球か小さいカーブに切り替えるはずだ。
 三球目、外角へスピードのある切れのいいカーブ。空振り、三振。森から王へ、王から土井、黒江、長嶋と渡り、長嶋が金田に下からトスして返した。あのボールに手を出すのはよほどコースを見切ったときだ。
 高木、バットを腰に寄せて引き、からだを沈めて構える。金田がユニフォームの腰をたくし上げて、おもむろに森を覗きこむ。肯定のそぶりも否定のそぶりも見せず、すぐに振りかぶり、胸を張り、投げ下ろす。34がはっきり見えた。膝もとの速球。空振り。キャッチャーからの返球を受け、寸秒をおかず、からだをかしげるように伸び上がって振りかぶり、投げ下ろす。縦に真っすぐ落ちるドロップ。ストライク。手が出ない。ネクストバッターズサークルの江藤がするどい目で見ている。三塁コーチャーズボックスの水原監督がパンパンと手を叩く。
「さ、モリミチ、いこ!」
「ヨ、ホ、ヨー!」
「ヤオヤオ、ヤオヤオ!」
 コーチ陣の得体の知れない声が出はじめた。三球目、胸もとの速球。空振り、三振。オオオーと観客がどよめく。彼らの存在を忘れていた。
 江藤が肩を怒らせてボックスに入る。渦巻く歓声。私はヘルメットをかぶり、ネクストバッターズサークルへ。金田はズボンの腰をたくし上げ、振りかぶり、ゆるく腕を振った。スローカーブ! 江藤はヘッドアップして空振りをした。笑いの混じった喝采。私は笑えなかった。すべての投球が私へのデモンストレーションだとわかるからだ。どれか一球でも打てるか、とほくそ笑んでいるのだ。打てるかもしれないし、打てないかもしれない。バッターボックスに立ってみるまではわからない。
 金田が返球を受けたわずかの隙に、江藤はホームベースに近づくように両足を移動し、さらにオープンスタンスに構えた。ストレートとカーブでインコースに突っこまれることに備えながら、アウトコースにきても踏みこんでさばいてやるという考えだろう。彼らしくなくバットを少し短く持った。それから一瞬ネクストバッターズサークルの私を見てかすかに笑った。かならずおまえまで回してやるという笑いだった。
 二球目、金田はインコース高目に自信の速球を放ってきた。江藤は振り遅れ気味に強くスイングした。詰まって鈍い音を立てた打球は二塁の頭を越え、突っこんできた末次のグローブの下をすり抜けて右翼線へ転がっていった。絶妙の流し打ちだ。江藤は二塁へ足から滑りこんだ。歓声が轟く。
「金太郎いけ!」
「金太郎さん、一発ブチかませ!」
「神無月!」
「神無月ィ!」
 スタンドで神無月コールが始まる。フラッシュが激しく光る。スタンド前列の報道陣がカメラをいっせいに構える。水原監督がパンパンパンパンと掌を連打する。バッターボックスで私は金田に向かって帽子を脱いだ。金田は無視している。
 構えた。金田が振りかぶり、ボールを離した瞬間、顔に向かってくることがわかった。曲がらない。それもわかった。私はスッとしゃがんだ。頭の上を通過した。森が私の背中でキャッチした。場内がしんと静まり、すぐに怒号に変わった。水原監督が富沢に向かって走り寄り、
「危険球!」
 とドスの利いた声で怒鳴った。一塁ペンチから田宮コーチを先頭に四、五人が飛び出した。
「意図的ではありません。すっぽ抜けと判断します」
 と富澤球審が言った。水原監督は飛び出してきた連中を掌で押し留め、すたすたと三塁のコーチチャーズボックスへ戻っていった。短い抗議のあいだ王とキャッチボールをしていた金田が、何気ない顔でふたたび振りかぶり、外角低目へ剛速球を投げてきた。
「ボール!」
 判定に不服で、金田は思わずマウンドを降りかかったが、思い直して戻った。森が、
「コース? 高さ?」
 と富澤にふつうの声色で聞いた。富澤は何も答えない。もう一度顔にドロップを投げてくる、と感じた。
 ―たぶんホームランにできる。


         七十六

 左耳の上にバットを立てて構えた。そのこぶしの高さから、曲がりハナをレベルに打ち抜く。三球目、ボールはやはり顔に向かってきた。さっきよりほんのわずかだがスピードがない。曲がるか。曲がった! 叩く。真芯だ。ファールポールに向かって一直線に飛んでいく。ドッと立ち昇る歓声。
「よっしゃ、よっしゃ、よっしゃー!」
「切れるな!」
 太田の叫び。フェンスに当たるように見えたので全速力で走り出す。江藤もフェンス直撃と見たのだろう、猛烈な勢いで走っている。一塁ベースを踏む直前、白球が黄色いポールを低い位置で巻いたのが見えた。芝生席の観客が左右に割れた。手沢線審の右手が激しく回転する。江藤の背中がゆっくり二塁ベースを回る。金田が両手を腰に当ててライトポールを見ている。江藤のスピードに合わせて走る。歓声が止まない。
「すごいスイングだったよ」
 長嶋が声をかける。かすれた高い声だ。
「ありがとうございます」
 水原監督とロータッチ。ホームインする私の足もとを冨澤と森が見つめる。江藤と握手。
「難しいボール打ったな!」
「打とうと決めてました」
 村迫たちへピースサイン。みんな顔を見合わせくすぐったそうに笑う。ベンチの仲間とロータッチしながらダッグアウトに入る。半田コーチのバヤリース。
「芸術ね、美し、ホームラン」
「ツキくれ、ツキくれ」
 一枝が後ろから首に抱きついてくる。太田と握手。
「目の前で落ちかけたところを払った」
「スイング見えませんでした」
 木俣、三球とも高めのストレートを豪快に振って三振。スリーアウト、チェンジ。守備に走る。金田とすれちがう。
「年寄りに花を持たせんかい!」
「偉人は花まみれです。これ以上の花は要りません」
「ウハハハハ」
 ゼロ対二。
 二回表。大歓声の中、スーパースターがバッターボックスに立った。背番号3が鮮やかに目を射る。全身に緊張をみなぎらせているのがわかる。袖をたくし、バットの先を見上げ、構えに入る。左足でリズムをとっている。小野の初球、外角高目のストレート。ボール。身を乗り出しすぎた長嶋が審判の背中を回って戻ってくる。長嶋は高めに伸びる速球に強い典型的なハイボールヒッターだ。村山から打った天覧試合のホームランも顔の高さだった。低目はほとんど打たない。コースは問わないが、すべて腰から上を振る。膝から下のスイングはめったに見かけない。いや、金田から四打席連続三振を食らったとき、一球だけ外角低目のカーブをぎこちなくスイングした。空振りだった。低目が打てれば、彼は毎年四割バッターになるだろう。
 魅入られたように、小野がまた高目を投げる。ファールチップ。バックネットへ。助かった。長嶋のホームランはフェンスをはるかに越えるので、下がって守ってもむだだ。それが有効なのは王だ。三球目、内角低目のカーブ、見切って、ボール。そんなボールはどうせ見逃されるのだから、ぎりぎりのストライクでなければ打者を釣れない。だれもかれも簡単なことをやろうとしない。
 ―木俣さん! しっかりして。真ん中高目から外角低目へ落ちるシュートですよ。
 四球目、アチャァ! 外角高目のカーブだ。のめりながらバシッと打つ。ぐんぐん葛城の頭上へ伸びていき、芝生観客席の中段へ突き刺さった。外野の観客が歓声を上げて総立ちになる。喝采の中、長嶋は指を広げて腕を振る独特の走り方でベースを回る。美しい絵だ。バッテリーを痺れさせる持って生まれた才能が、外角高目へボールを呼びこんだ。彼は私のように難しい球を打つ必要がない。次々とチームメイトとロータッチ。列の端の川上監督と握手。だれもオーバーに騒がない。慣れている。一対二。
 スイッチヒッターの柴田が右打席に入る。腕力のある打者。要注意だ。私がラインぎわに深く守備位置を変えたのを見て、ライトの葛城もラインに少し寄って前進した。中は定位置のまま。
 柴田は葛城の言うような広角打者ではない。右は引っ張り専門の大物打ち、左打席では確実性はあまりないが、中学生のころの記憶からすると、まぎれもない引っ張り屋だ。真ん中低目を投げれば、からだを低くしてかならず引っ張りにくる。力があるので、左でもホームランを打てる。ラインぎわに寄ったのは、内角や外角のギリギリ低目を思い切り打つからだ。天才尾崎が衰えて、秀才柴田が生き延びた。そういう理不尽は許せない。どんな打球もアウトにしてやる。陽が背中から射している。フライを落とす心配はない。
 初球、外角低目ドロップ、見逃し、ストライク。危ない。そこは彼のライト前ヒットのコースだ。彼をランナーに出せばあっという間に盗塁される。
 川上監督がベンチでふんぞり返っている。どうしてあんなにふてぶてしいのだろう。水原監督とまったく態度がちがう。水原監督がベンチに安穏と座っている姿を見たことがない。少年のころ記録フィルムで川上のバッティングを見たことがある。ふんぞり返った力瘤打法だった。あんな不細工なバットの振り方をする男が、なぜ打撃の神さまなのか納得がいかなかった。ボールが止まって見えると言ったのも、ホームランバッターの小鶴誠だったということを後年中村図書館で知った。
 二球目、一転して真ん中高目ストレート。柴田は森昌彦とまったく同じ片手打ちで叩きつけた。きた! ラインドライブのかかった打球が伸びてくる。もう少し浅く守ればよかったか。伸びてくれ。スライディングキャッチの準備をする。滑る。捕った! すぐ右横に白線がある。スタンドから割れんばかりの拍手が湧き上がる。島谷に山なりのボールを返して、わずかに濡れている尻をはたいた。
「ナイスキャッチ!」
「サンキュー!」
 スタンドから、
「大統領!」
「いい男!」
 帽子を取って振った。歓声に黄色い声が混じる。線審の井筒が微笑を浮かべている。ワンアウト。
 六番末次。あのおとなしい構えだと、たぶん低目はうまく打つ。高目は窮屈に振る。反射的に振り抜いたときの詰まったレフト前ヒットが怖い。バッティング練習で見たところだと選球眼はなさそうなので、早打ちだろう。初球から打ってくる。かなり前進し、しっかりと前傾姿勢に構える。
 初球、内角高目、打ちごろのカーブ。野村ならホームランだ。詰まった。フラフラとサードに上がる。ファールフライ。島谷簡単に捕って、ツーアウト。やっぱり安全牌。失投すらものにできない。
 七番森。高目しか打てない片手打ちのバッター。どのコースでもいいから低目だけ投げていれば、叩きつけてゴロを打つか、見逃し三振をする。初球真ん中低目速球。掬い上げることができないので叩きつける。みごとにセカンドゴロ。チェンジ。私は井筒を振り返って、
「巨人で低目が打てるのは、王と柴田と金田と堀内だけですね。変わったチームだ」
 やはり微笑している。ベンチに帰って、小野に言う。
「小野さん、低目に投げていれば王と柴田以外はOKです。あとは全員、長嶋も含めて高目を得意にするバッターです。ダウンスイングの巨人の伝統なのかもしれません。金田と堀内は、低目をホームランするので気をつけてください。金田は高目を投げておけばだいじょうぶ。堀内は高目もホームランするので、コースをついてください。ピッチャーをやっていなければ、彼は大打者です」
 江藤が、
「堀内をテレビで観たとや?」
「はい」
「いい目しとるばい。あいつはバッター専門にやれば、一つはタイトルを獲れる男ばってん、肩がよすぎるけんピッチャーばしとる。惜しか逸材たい。金田は低目しか打てん。子供のバッティングやの」
 田宮コーチが、
「金太郎さんはほんとうに守備勘がいいな。百発百中だ」
「バッティング練習を見てましたから。素直なボールを打つときに、いちばん癖が出ます」
「島谷、金太郎さんはな、末次の打席のときにおまえのすぐ後ろにいたんだ」
「へえ! 超能力だな。柴田のときもドンピシャだった」
 私は、
「予知能力じゃなく、ただの経験則です。当たりハズレがあります」
 太田が、
「野球の神さまだから、何をやっても驚きません」
 二回裏。葛城が打席に入った。十四年選手。金田は二十年目。私が生まれたときから金田は野球をやっている。十七歳でプロ入り。翌年から十四年連続二十勝以上。二十五勝以上六回。三百九十五勝。しかし、負け数も歴代ナンバーワンで、二百九十四敗。つまり十勝七敗の割合だ。勝率が低いのは、弱い国鉄を独りで背負って全試合数の半分を投げつづけたせいだ。
 ズバーンと胸もとの速球がきた。ストライク。一球目は見せ球にするのがふつうのピッチャーだが、金田は何も考えていない。球速に自信があるので、ちぎっては投げ、ちぎっては投げしているだけだ。それでも一瞬、無意識に何かを考える。それがわかる。次の球はストライクを取る外角低目の小さなカーブか、内角低目の外し球だ。ただしスピードを乗せる。どちらも手を出せば凡打だ。思い切り空振りして、金田に無意識の思考をさせたほうがいい。空振りすれば、もう一度胸もとの速球がくる。それをひっぱたく。二球目外角低目へ〈ゆるい〉カーブ。引っ掛けた。セカンドゴロ。土井が軽快にさばいてワンアウト。そういう手があったか。たしかに、ゆるくてもまともに当てられなければ凡打だ。
 七番島谷。正念場だ。百八十三センチもあるのに、振り回さずにするどく振る打法は金田に通用するかもしれない。太田が付属技としてマスターすべき打法だ。水原監督がコーチャーズボックスからきびしい視線を送っている。初球はかならずストライクだ。
「初球からだ―」
 私が呟くと、中が、
「島谷見ていくな、見ていくな!」
 と叫んだ。初球、大きなカーブ。きれいなレベルスイング。金田が差し出したグローブの先を抜けて、センター前のクリーンヒット。
「オッケー、オッケー!」
 一塁コーチャーズボックスの宇野ヘッドコーチがめずらしく声を上げた。スタンドが沸く。ベンチにいた長谷川コーチが走っていって宇野コーチと交代し、島谷と握手する。臨戦態勢という感じになった。江藤が、
「テレビに映っとるんやろう。これで島谷も全国区ばい」
 水原監督が島谷のほうを向いて手を叩いている。八番、小柄な一枝。江藤が、
「去年江夏は、奪三振記録四百一個というのを樹ち立ておったけんが、その四百一個目が修ちゃんよ。不名誉な記録たい。本人は一向気にしとらんがの」
 一枝がじっとベンチを見た。田宮コーチが半田コーチに、あいうえお、と言った。半田コーチは、
「エイ、エイ、オー」
 とぎこちなく応えた。金田が振りかぶり、投げる。島谷が走った。一枝は真ん中の速球を空振りした。肩の弱い森の送球がショートバウンドして、セーフ。木俣が、
「日本一アタマのいいキャッチャーと言われてるけど、勝負に大事なのは野球の技能で、アタマじゃない。キャッチャーは肩が強くないと」
「木俣さんの肩は球界ナンバーワンでしょう」
 私が言うと、
「田淵がきたから、ナンバーツーになった。どうのこうの言っても、野村さんには敵わないよ。肩は弱いけど、いまみたいな場合ならたぶん右へ外してアウトにしてるな。打撃にしても、リードにしても、この先何百年もナンバーワンだ」
 一枝が粘っている。大投手の直球や変化球にこれほどしつこく粘る能力のあるバッターが、年間打率が低いのはなぜだろう? 考えるまでもない。当てても打ち損ないが多いのだ。ほんの一握りの優秀なバッターも、十本のうち七本を凡打してベンチに下がる。ファンはそのたびに失望する。そして自分が七回失望したことを、たった三回の花火を見ることでやさしく忘れるのだ。私もたぶん、十回のうち五回も花火を打ち上げられないだろう。だからこそ、一回一回の花火を派手なものにしなくてはならない。
 一枝フォアボール。金田はデビューのころから、四球の多さは球界一だった。被本塁打も多い。やはりそれも対戦する相手が圧倒的に多かったからだ。小野は真ん中低目のストレートで三球三振すると、すぐに一塁側ブルペンへいって投球練習を始めた。
 ツーアウト、一、二塁。金田は小さな中の構えを見て、速球主体に切り替えた。二球連続で内角低目にストライク。ああ、次は打つな、と感じた。三球目、中は外角低目の速球を流し打ってレフト線を抜いた。島谷生還して三点目。一枝三塁へ。金田がベンチに向かってグローブを振り、ピッチャー交代になった。次打者の高木が、
「自分から交代を要求するのは、むかしから金田だけだよ」


         七十七

 背番号18がベンチからあわてて出てきてマウンドに向かう。ビュンビュン投球練習を始める。堀内恒夫、二十一歳、百七十八センチ、七十三キロ。痩せていて首が長い。江藤がパチンと手を叩き、
「悪太郎が出てきおった。球は速いばってん、軽かけん、当たると飛ぶ。狙うばい」
「どうして悪太郎って言われてるんですか」
 ベンチから身を乗り出していた葛城が、
「マスコミ嫌いでね、新聞記者に対する態度が大きいというんで、一度二軍に落とされたとき、〈悪太郎これで終わり、天狗の鼻が折れた〉って書かれたんだよ。マスコミに復讐されたんだな。練習はさぼるわ、寮の門限は破るわで、見かねた王にぶん殴られたらしい」
 高木が打席に向かう。歓声が上がる。人気者だ。メガホンを口に当てあらんかぎりの声を振り絞って叫ぶ少年たち、同僚とビール片手に好き勝手な怒鳴り声を上げる中年サラリーマン、弁当を頬張りながらサーカスでも観るようにめずらしそうに見守る家族連れ。野球選手に思い焦がれるファンたちだ。私もかつて彼らの中に入り混じって、フィールドの土と芝の美しいコントラストに熱い視線を注いだ口だ。幸運な巡り合わせで、いまこうしてその美しいグランドに立っている。かつて私が注いだ視線がいま私に注がれる。
「堀内のボールの特徴を教えてください」
 振り向いて、本多二軍監督に訊く。太田に訊いたような気もするが、もう一度確認だ。三十八歳の本多は、チームきっての美男子で、球界の長谷川一夫と言われている。入団式のとき水原監督が、神無月くんにお株を奪われちゃったね、と彼に話しかけているのが聞こえた。木俣をスカウトしたことは有名で、去年杉下監督の代理をしたことでも一目置かれている。彼はほとんどベンチの後部に立っていて、グランドに出ることはない。十五年前に中日が初優勝したときの一番バッターだった。センターで、俊足で、左利き。中の初代目だ。
「江藤が言ったように球は軽いけど、ギューンと反り上がるように伸びてくるよ。金田より、いや、江夏よりスピードがある。カーブドロップというやつがすごくてね、一度浮いてから、クンと落ちる。研究熱心な男だから、対戦したバッター一人ひとりの記録を丹念につけてる。二度目の対戦からは苦労すると思うよ。いまもどっかで神無月くんの記録をつけていたかもしれないね。そうだ、じつは長嶋はああ見えても、対戦したピッチャーの特徴をちゃんと記録してるんだよ。そのノートを見てから球場に入る」
「まったく知りませんでした」
「あ、それから、堀内は牽制がうまいから気をつけてね」
 柔らかい語り口だ。面倒見のいい人情家の風情がある。堀内のフォームを見る。きれいだ。しかし、投げるたびに帽子が横にぶれる。それが目障りだ。
「太田、投球練習って何球?」
「球数は決められてませんが、本人が十球以内で決めます。長すぎると審判が止めることがあります」
 堀内はストレートを四球と、するどいカーブを一球放った。
 ツーアウト、二、三塁。高木がバッターボックスに立った。ひどく緊張している。首から上に二度もデッドボールを喰らっているせいだ。去年はそれでシーズンの大半を棒に振った。様子を見ると、今回はそういう種類の緊張ではなさそうだ。先陣切って堀内に当たる責任感に燃えている表情をしている。ネクストバッターズサークルから江藤がしきりに声をかける。シャッターの音があちこちで上がる。
 きれいな振りかぶりだ。胸を張り、腕をしならせながら投げ下ろす。初球、ど真ん中のストレート。キャッチャーの顔の高さにスパーンと収まる。ストライク。手が出ない。百五十キロは優に出ている。プロに入って見た中でいちばん速い。ドキドキしてきた。あのボールを打てるだろうか。二球目、同じストレートが一直線に高木の頭上を越えようとする。大暴投か? いや、頭の高さから胸を横切って落ちた!
「ストーライク!」
 これは無理だ。曲がりハナが頭の高さでは征服できない。胸のほうへ落ちてくるときにはからだの真ん前にボールがある。うまく打ててもサードライナーかサードフライ、せいぜいレフトフライまでだ。ぎりぎりボックスの後ろに立ち、落ち切ったところを掬い上げるしかないが、それは至難の業だ。バントも難しい。遅いカウントだとボールになったり暴投の恐れも出てきたりするので、堀内としても追いこんでからこの球を放るわけにいかないだろう。早いカウントで投げてきたら見逃そう。これを決め球にしてきたら、なんとかファールを打って抵抗しよう。三球目、まったく同じカーブドロップ。
「ボール、ハイ!」
 やっぱりそうだ。目くらましのために投げているのでボールになることが多いのだ。ワンツー。もう投げてこない。ワンスリーにしてカウントをわざわざ悪くする必要はないからだ。内か外のストレート勝負。高木の構えからすると低目が強そうに見えるので、内か外か真ん中の高目にくる。その中でもとりわけ内角高目一本。高木もそう読んで、少しオープンスタンスに構えた。ベンチの連中が身を乗り出した。
 四球目、内角高目へストライクを取る速球がきた。上から叩く。一枝と中が同時にスタート。ドン詰まりの打球がふらふらとショートとレフトのあいだに上がる。高田の前にポトリと落ちた。一枝生還。水原監督がグルグルと腕を回している。中の足と高田の肩の競争だ。レフト浅い位置からノーバウンドのバックホーム。送球が高い。滑りこみ、タッチ、セーフ! 中が飛び跳ねてベンチに戻ってくる。高木が二塁へ走る。森あわてて送球。タッチ、セーフ。長嶋と土井が堀内のところへ走っていく。江藤が豪快に素振りをし、のしのし打席に向かった。私はネクストバッターズサークルへ。巨人のブルペンで城之内が投げはじめた。小野も肩を冷やさないようにのんびり投げている。ツーアウト、ランナー二塁。一対五。
 初球、みごとなカーブドロップ。外角へ反れ、ボール。江藤はピクリとも動かない。二球目、内角をえぐるシュート。ストライク。動かず。森がゴショゴショ言っている。江藤は無言だ。百パーセント外角低目ストレート。江藤がチラリと私を見た。私は指で外角の真っすぐを示した。スライダーかもしれないという動作をつけ加える。江藤はうなずき、少しクローズドに構えた。
 三球目、外角低目、縦に割れる切れのいいカーブ。腰を入れてしっかり叩いた。引っ張る形になり、打球がセンターへ伸びていく。柴田バック。背走からすぐに背番号を向けて疾走になる。ジャンプ。抜けた。高木ホームイン。江藤は二塁へ頭から滑りこんだ。轟々と上がる歓声。一対六。半田コーチが、
「金タロさん、もうイッパーツ!」
 森と王がマウンドへいき、堀内に何か言う。長嶋と黒江も寄ってきて腕組みをした。土井はポツンと江藤のそばに立っている。王、長嶋たちは散会し、審判のコール。とにかく堀内の直球の浮き上がりを見たい。
「ぜったい打たさないよ」
 森がボソッと言った。
「マグレで打ちます。これまでもその連続でしたから」
「マグレを通用させたらプロの沽券に関わる。江藤みたいには打てん。彼は堀内に強いんだよ」
 初球、本多コーチの言うように真ん中低目のストレートがギューンと弓なりに浮き上がってきた。ストライク。これか! すばらしいボールだ。胸が躍った。
「すごい……」
「マグレでも打てんよ。さっきの大根切りはうまく当たったな」
「はい、千回に一回のマグレです」
 二球目、はっきりと顔を狙った直球がきた。私はサッと後ろへ跳びすさった。あごの先をすれすれにボールが通過していった。私は勢い余って尻餅をついた。球場内が騒然となり、ストロボが何発も焚かれた。水原監督とベンチの叫びが聞こえ、その瞬間、私は両手を差し上げて振りながら、水原監督とベンチを制した。しかし三人、四人、かまわず私のそばに駆けつけてきた。菱川がバットを握っている。守備位置から飛んできた黒江や土井に叫ぶ。
「神無月さんにぶつけたら、おめえら叩っ殺す!」
 グランドに押しかけた選手同士、胸を突き合わせて睨み合う。殴り合いになったら放棄試合になりかねないので、だれも手を出さない。堀内と長嶋と王は仲間たちの背後に隠れている。私は彼らのあいだに坐ったまま大声を上げた。
「何でもありません! よけるときに踵がつまづきました!」
 高木が尻坐りしている私のそばにひざまずき、
「だいじょうぶか。あごに当たってないか」
 長谷川コーチが、
「手首ひねってないか」
 次打者の木俣が、
「肘撲っただろ。痺れてるか」
 一枝が、
「ケツ撲ったぐらいならすぐ治るから、心配するな」
 慰めたり、励ましたり、次々に慰撫と激励の言葉をかける。私は審判マスクを手にした富澤に腕を抱えられて立ち上がった。富澤の目が充血していた。木俣が尻をはたいてくれた。水原監督がベンチの川上をひと睨みすると、森の胸前に近寄り、
「おまえたちみたいなケチな野郎どものやり口を神無月に教えるつもりか!」
 どすの利いた、いかにも軽蔑にあふれた調子だった。森は水原監督に向かって皮肉らしい微笑を浮かべようとしたが、その笑いは監督の冷然とした視線の前に凍りついてしまった。監督は心の底まで見透すように森を見つめた。森は冷笑を浮かべたまま睨み返している。二人に中が割って入ると、森はプイと横を向いて、
「そんなに大事なら、ベンチに飾っとけばいいだろう」
 押し殺した声で言った。
「なんだと、きさま! 本気で言ってるのか!」
 森の態度に業を煮やして監督が怒鳴った。それを機にドラゴンズ連中の感情が一気に爆発した。ほぼ全員がベンチから走り出てくる。巨人ベンチからも走り出てくる。小川が、
「ふざけんなや!」
 森の胸倉を突いた。金田が小川の胸を突く。本多二軍監督が堀内と森に罵詈雑言を浴びせる。太田や葛城や木俣たちのいきりたった身ぶり。あちこちでつかみ合いが起こり、審判員総出の仲裁が入る。二塁から駆けつけた江藤が、
「みんな、引け引け! 堀内、おまえが謝らんかい!」
 徳武が周囲を睨み回して、
「おまえら仕置き人か!」
 すんでのところでだれもがこぶしを控えている。受けて立つ巨人の連中の態度には、何か混乱や問題が起こるとたちまち表面に滲み出す下衆な人間特有の嘲笑があった。だれの雑言とも知れず、私に向かって、
「おまえ、大げさじゃねえか?」
「オーバーに倒れて人の気を引くんじゃねえよ」
 騒ぎは球審や塁審がやっと静寂を取り戻させるまで何分もつづいた。審判員たちでさえこうした騒擾をうまく鎮めることができないのだ。明石の観客が辛抱強く待っている。すでにベンチに川上監督の姿はない。どこかに避難したのだ。それを確認した水原監督が呆れ顔で、
「よし、引き揚げ!」
 水原監督の大声に富澤球審がふとわれに返り、
「ゴーバック! ゴーバック!」
 大声を張り上げながらフィールドとベンチを指差した。中が仲間を押し戻し、
「さ、試合をやろう! 私たちがやりたいのは喧嘩じゃない」
 水原監督が、
「金太郎さんに免じて、試合再開といこうか!」
 水原監督の不思議なほどの落ち着きぶりに圧倒されて、巨人チームがざわざわと散りはじめた。江藤がセカンドベースに戻り、ドラゴンズチームもベンチに戻った。堀内や長嶋や王が小走りに守備位置についた。水原監督が、
「金太郎さん、きみのおかげで乱闘にならなくてすんだ。気を取り直して打ちなさい。こんなことはすぐ忘れるよ。あしたの新聞は読まなくていい。プロの洗礼とかなんとか書かれるだけだから」
「はい。抗議してくださって、ありがとうございました」
 江藤が鬼のような顔で二塁ベース上にあぐらをかいていた。騒ぎを大きくするまいと懸命にがまんしていた様子が看て取れた。彼は暴力行為で知られた男なのだ。私は手を上げた。彼も手を上げた。長嶋と王がわざわざもう一度ホームベースに走ってきて、
「ソーリー、ソーリー、堀に悪気はないから、許してやって。はい、スタンバイ」
「すみませんでした。よくよけてくれた。きみがケガをしたら、この先野球をやるのがつまらなくなってしまいますよ」
 二人明るく言って守備位置に戻った。堀内がマウンドで帽子を取って振った。私もヘルメットを取った。球場がふたたび静寂を取り戻した。バックネットを振り返って、久保田さんを見た。小山オーナーや村迫といっしょになってうなずいていた。



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