七

 康男は、愛嬌を振りまいている山中を鋭く見やりながら、
「あの馬鹿、調子乗りやがって」
「いつか、どっちが中学校で番を張るか決めよう、って言ってたよね」
「おお、口ばっかしや。なんも言ってこん」
「野球部にいるよ」
「野球部やて!」
 私は岡田先生と先輩に山中がたしなめられたことを教えた。
「あのヤロに野球ができるわけないやろ。野球部で番張るつもりやないか。ま、ちょいま〈ちぐさ〉に睨まれとったら、そう簡単にはいかんやろ。チョッカイ出してきたら、すぐ言えや。つぶしたるで」
「ほとんど練習に出てきてない。やめたのかもしれないね。ちょいまちぐさって、岡田先生のこと?」
「おお、岡田がよう言うだろ、チョイマチグサ、チョイマチグサ。おっかないオッサンやで。このあいだ廊下で口笛吹いとったやつが、ほっぺた張られた。あの先公、俺の兄ちゃんみたいな目しとったわ」
 康男は愉快そうに空を向いて笑った。
「よく山中を殴らなかったもんだね」
「殴りがいのないやつは殴らんやろ」
「康男のC組って、直井聖四郎がいるクラスだよね」
「おお、トップの火星人な。ドベの伊藤と机を並べて坐っとる。火星人とアホ入道。見とるだけでおもしれえがや。直井は白鳥始まって以来の秀才だとよ。くだらん。おまえなんか野球ばっかしやっとっても、全校の五番以内やで」
 恥ずかしい気持ちがまた湧いてきたので、私は野球部のことに話題を移した。いつも更衣室の向こうまでボールを飛ばして、みんなの度肝を抜いていることを得々としゃべった。
「わかっとる。ボロ校舎の窓にすぐ金網張ったからな」
「今月の末に浄心中と練習試合があるんだ。一年生から四番だよ」
「あたりまえや。おまえは野球が本職やで。忘れんな」
 切れ長の目でまっすぐ私を見た。忘れるはずがなかった。
「今度は、中学生記録やな」
「うん。二年生までには達成したいな。……直井くんて、何かクラブ活動やってるの」
 直井のことが気にかかった。
「いっちょまえにテニスやっとる」
「ふうん、文化クラブじゃないんだ」
「おまえの野球とはちがうで。ただの運動よ」
 そういえば、ベーランの合間に下の校庭を覗いたとき、先輩に叱られながらラケットをまじめに振っている新入生たちの中に、片足の短い加藤雅江と、びっくりするくらい背の低い色白の眼鏡がいたことを思い出した。
 ―あいつが直井か。
 あいつなら、ズックカバンを肩に提げて、夕暮れの校門をひょこひょこ出ていくところを何度か見たことがある。両手の振り方がチンパンジーみたいで、まちがいなくどこかネジの一本外れた歩き方だった。あんな宇宙人みたいな秀才に、一度でも勉強で勝てたらどんなに愉快だろう。
         †
 戻ってきた実力試験の成績表を見ると、英語100、数学100、国語99、理科86、地理79、音楽85、美術87、技術家庭73、保健体育92、クラス成績一位、全校成績四位となっていた。英数国はすべて全校一位だった。これより七十点多く取ったのが直井整四郎だ。たぶん英数国は満点だ。化け物だ。英数国だけは、これからも精いっぱい肩を並べるようがんばろう。
 原田さんに使い古しの英和辞典をもらって、中学に入るまでにやっておけとサイドさんに言われていた英会話の本を、あらためてじっくり読んだ。わからない意味は単語の下にいちいち書きつけるようにした。それから中学生の勉強室の英語をこれまでよりも熱心に聴きだした。ラジオの講師の発音は、スモールティーチャーよりもへたくそだった。ガッカリしたけれども、書いてある内容は中三レベルだけあって、学校の英語よりはずっとマシだった。
 国語も聴きつづけた。いくら得意科目とはいえ、放送用のテキストに出てくる芸術家や評論家たちの言葉の多さに舌を巻いた。『ことばノート』というものを作り、新しい単語や言い回しにぶつかるたびに、丁寧に書きつけて、逐一暗記することにした。さらに語彙数を増やすために、週に一度、学校の図書館から本を借りてきて、メモをとりながら読むということもした。原田さんや小山田さんから、源氏鶏太とか柴田練三郎などのベストセラー本、野生のエルザのような外国の話題の本、カッパブックスの推理小説、難しそうな世界文学全集といったものをもらってきて、メモをとりながら手当たりしだいに読んでいった。
 性器が自分のからだの一部であると初めて気づいたときと同じような感覚が、私に自分の〈頭脳〉を意識させはじめた。アタマというのは母の好きな単語だった。しかし、彼女の意味するアタマは、世間を安全に泳ぎ渡るための手段であり、その手段を得るための肩書を築き上げる知恵のことにちがいなかった。私の考えた頭脳というのは、学校の勉強とはほとんど関係のない、数多くの言葉を駆使して自分で思考できる独創のことだった。
 言葉を基盤にしたすぐれたアタマを持つ、独創的な個性として自分の存在を意識することは、たぶんだれにでも経験できることではないだろう。それは、私のこれからの人生にとって、ある意味不幸なできごとだった。この世で幸福を享受できるのは、ほとんど自分の言葉を意識しない人間だと薄々感じていたからだ。そういう人間のほうが、幸福をつかむ機会が大きい。言葉の貧しさからくる彼らの薄っぺらい思考は、一般的な感性として多くの人びとに共有され、その貧しい言葉によって得られる喜びも、大半の人びとの喜びと重なるせいで、徹底的に幸福なのだ。公園でポータブルプレーヤーを鳴らしながらドドンパを踊っている人びと、野球場で一喜一憂する観客たち、美智子妃殿下に沿道から旗を振る人びと……彼らは自分の言葉を持たないせいで、幸福を運命づけられている。
 私は知らず知らずのうちに、そんな人びとの幸福を下位に見る歓びの習慣、つまり読書の習慣を作り上げていった。ことばノートはすぐにいっぱいになり、二冊、三冊と増えていった。このノートを作ることにかまければ、学校の成績はかならず落ちていくだろうという悪い予感があった。二年も先の数学や理科の勉強は相変わらずちんぷんかんぷんだったけれども、あと一年もすればわかるようになるだろうと期待して、根気よく聴きつづけた。社会科はどうしても好きになれない科目だったので、まったく聴かなかった。将来の仕事に結びつくはずの、夕食後の三百回の素振りは一度も欠かさなかった。バットを振る時間は、日々神聖なものに思われていった。とにかく十三歳の私の日常は、いやが上にも充実したものだった。
 実力試験、中間試験、期末試験―試験がやってくるたびに私は、素振りを終えてラジオ講座を聴いたあと、無理やり寝床に入り、夜中の三時過ぎに起きて、そのまま朝まで勉強することを繰り返した。結果は常にクラスの一番だったし、九科目の平均点は常に九十五点を超えた。直井整四郎の平均点は常に九十七、八点だった。勉強そのものの自信はとっくに溶けてなくなり、一瞬ライバルと考えた少年の姿が、畏敬と神秘と、恐怖までも混じり合った宇宙人の形であらためて立ち上がってきた。
 いずれにせよ、私は万年次席の勉強家の地位に満足し、その縮めがたい差を悲しまないことに決めた。国語と英語が、つまり、言葉の能力が彼を凌駕していると思いこむだけで自得しようと思った。しかも、私にはだれにも引けをとらない野球があった。勉強が得意な人間は少ない。もともと、構造のちがう学習能力と知能を持っているためだ。彼らの異質な雰囲気は、意識して作り上げたものではなく、その際立った能力から自然に滲み出てくる妖気なのだ。敵うはずがない。
 これからの三年間、私はせいぜい直井の次席に甘んじよう。野球と同じように、どんなことでも一番と二番とのあいだには決定的な差がある。 横井くん? あれは正しい競争ではなかった。彼が首席を外したのは、私の他意のないこけおどしに審査員がまんまと乗せられたせいだ。あれは不正だ。試験勉強のような正しい競争の場では不正は生じない。次席に甘んじる人間は、敗北者の中の最上位というだけのことだ。
 直井整四郎は相変わらず、テニスコートで、加藤雅江たちといっしょに真剣な表情でラケットを振っていた。彼のほかにも、秀才と呼ばれる何人かの異星人たちの華やかな噂がまるで小学校のときの守随くんや鬼頭倫子のように、ときどき耳に入ってきた。鈴木尚、甲斐和子、井戸田務……。彼らは変人で、不気味に頭が切れるという噂だった。そして彼らはみんな、旭丘高校か明和高校に進み、それから東大へいくだろうと言われていた。私にはそんな噂は立たなかった。野球しかできない、素人のマグレだと、眼光鋭く見抜かれていた。私自身でさえ、自分が門外漢だと知っていた。噂さえ立たないのを情けないとは思わなかった。
 廊下で出会う鈴木や甲斐は目立たない顔をしていた。仲間たちが、あいつが鈴木だとか甲斐だとか教えてくれなければ、けっして気づかない顔だった。美男子でもなければ、美人でもなく、どちらかと言えばくすんでいた。それでも彼らには、勉強を得意とする人間の異質な輝きがあった。私は守随くんや鬼頭倫子のことを思った。変人? 切れ者? 彼らもそんなことを言われていたような気がする。たしかに二人の行動は、奇妙な興奮に支えられているようなところがあって、美しいとは言えないその顔にしても、どちらも究極の自信からくる輝きを微妙に発していた。つまり彼らの顔は変人性と、切れる頭に咲いた独特の花で、見ようによっては、この上ない不気味さを宿しているように見えるということだった。その二つの花が中学生になって凋(しぼ)みかけているなどというのは、あり得ないことだった。
 しかし、それは果たしてほんとうだろうか? 旭丘? 明和? 東大? まだ彼らは十三歳の中学生にすぎないというのに、岡本所長とまったく同じ平凡な話題に終始しているのはどうしたわけだろう。彼らはほんとうに変人で、切れ者で、異星人なのだろうか? 彼らに比べれば、康男こそはるかに不気味な変人ではないのか。彼は勉強というものを軽蔑していて、それに熟練しようなどという気持ちはこれっぽっちも持っていない。彼は一徹者で、とても激しいものの考え方をする。何も考えずに、的を得たことを本能的に言ってしまう彼の能力(言葉の能力!)は、勉強のような徒競走に鍛えられてできあがったのではなくて、その激しい気質と、複雑な経験の蓄積から爆発的に噴き出したものだ。直井たちのような誉れ高い秀才は、勉強ができるということと人格の異常さを結びつけて考えようとするむかしからの習慣に支えられて、なんとか面目を保っているにすぎない。ああ、なんて気の毒な連中だろう! 彼らは変人でも、切れ者でもない。たぶん、康男の言う火星人というのも幻にちがいない。彼らは映画にも、音楽にも魅かれないし、運動も音痴だし、本に溺れることもない。彼らは目先の競争だけを気にかけるごくふつうの人間で、その平凡さを隠すために大人らしい秘密ぶりに徹しているのだ。
 そう考えても、私は、直井整四郎のような勉強のプロたちと自分との距離を大きなものに感じた。それは、長島や王や山内に感じる距離よりもはるかに大きなものだった。
         †
 ひどくムシムシして、朝から霧雨が降っている。空も地面も黒ずんでいる。期末試験も終わり、夏休みが一週間後に近づいてきた。
 浄心中との練習試合を数日後に控え、一年から三年まで全員が日曜特訓にかり出された。お気に入りのタイガーバットを二本担いで出かけた。杉山薬局のカウンターから、外人顔のお爺さんが表をぼんやり眺めている。杉山啓子の西洋人形のような顔をもう何カ月も見ていない。何組にいるのかも知らない。相変わらずあのゲゲッという声を授業中に上げているのだろうか。四月の末ごろ、バックネットの裏からじっと練習を眺めているのを見たきりだ。見返すと、いつものきまり悪そうな微笑を投げてよこした。大楠の前を通りかかった。
「きょうも練習?」
 加藤雅江が箒を手に笑っている。
「試合が近いんだ」
「がんばってね」
 視線が合った。笑顔を期待しているようだったので、私は笑いかけた。中学生ともなると、だれだって意味もなく笑うことなんかしなくなるけれど、私は飯場で笑顔の重要性を教えられているので、いつでも笑っている。笑わない人間は気取っているか、依怙地になっているだけだ。
 加藤雅江の背に栗の木の植わった庭が見える。こんな天気なのに、その庭は不思議に温かく乾いた感じのする光があふれていて、霧雨に濡れた黄色い栗の花の一つ一つが、くっきりと鮮やかに見えた。玄関のすぐ脇に、椿や楓に囲まれた大きな楠木が立っている。大瀬子橋を渡って下校するとき、この楠木が見えてくるとかならず雅江のポニーテールが思い浮かぶ。
「この楠木、すごいな」
「先祖が植えたらしいわ」
「じゃ、加藤さんちは、平畑のヌシだね」
「八十年も住んでるんだって」
「ふうん。加藤さんはC組だったよね。寺田や直井といっしょだね」
「鬼頭さんもだが」
「担任はあの傷だろ?」
「そう、中村専修郎先生」
「何の先生?」
「地歴を教えてるんやけど、七十点以下をとると、答案返すときにビンの毛を引っぱり上げるんよ」
「七十点はきびしいなあ」
「私も一回やられちゃった。女の子は、頭ポンと叩くだけだけど。寺田くんは常連。五分刈りなんで、ビンがうまくつまめんの。そのたびに寺田くん、ザマ見やがれ、って言うんで、みんな大笑い。やられてないのは直井くんと、井戸田くんと、鬼頭さんと、ほかに何人もおらんわ」
「直井といっしょにラケット振ってたね」
「うん。でもキツイいんだ。やっぱり放送部に入ろうかなあ」
「それがいいと思う。いい声してるし」
「また、おだてちゃって。……実力試験の発表、見たよ。千年出身の子たち、みんな驚いとったが。鬼頭さんがやっと十何番に入ったくらいで、あの守随くんが影も形もないんやから」
「加藤さんも、ちゃんと載ってたじゃないか」
「あんなの、マグレ」
「ぼくも同じ」
「六年生の最初の生徒会、憶えとる? 神無月くん、途中で抜けていっちゃったでしょ。かっこよかった。神無月くんが勉強もできるってわかって、なんだかうれしくなっちゃった」
 皮膚の薄そうな顔に喜びがあふれている。こんなにきれいな顔だったかなと思った。
「じゃね」
 私は話を途中にして大瀬子橋へ向かって歩きだした。気になって振り返ると、雅江が手を振っている。少しからだが傾いていた。取り立てて私の気を引くようなところはなかったけれど、それでも、これで彼女のぜんぶだと信じられるものがあった。


         八

 すでに先輩たちがグランドに集まり、霧雨の中、走りこみをしていた。デブシがしゃがんだ格好のまま、太田を相手に丹念に送球練習をしている。デブシは肩のよさを認められて、今度の試合ではキャッチャーの控えに入ることになった。関や高田や御手洗たちも外野の隅でキャッチボールをしている。関と御手洗はまだ補欠だけれども、太田も高田も守備のうまさを買われて、それぞれサードとセカンドの守備要員に指名された。
 フリーバッティング。レギュラーだけが予定の打順でバッターボックスに入る。一人五球、三めぐり。いままで四番だった本間は五番に入る。バッティングピッチャーをやっているのは本格派の轟だ。もちろん与野よりもボールが速い。ちょうど私が打席に入ったとき、トレパン姿の岡田先生が傘をさしてグランドに現れた。
「轟、おまえ、ナチュラルシュートするから気をつけろ。浄心のピッチャーは速いそうだぞ。練習は直球だけにしろ」
 五本のうち三本を生垣の外にたたき出し、一本ファール、一本を体育館の壁に打ち当てた。
「相変わらず怪物だな。その調子で今度の試合も頼んだぞ」
 われながら最近打球の伸びがすばらしい。この数カ月で、腰と手首にぐんと力がついてきたことが自分でわかる。背も百六十五センチまで伸びた。それでも野球部の中ではまだ一番小さい。ときどき踵が痛むことを吉冨さんに言ったら、成長期に骨が急に伸びる証拠だと教えてくれた。中学生のうちに、もう五、六センチは伸びるだろうと言った。本間も私に負けまいと、レフトへぽんぽん大きな当たりを飛ばしている。球拾いが右に左に走って懸命にボールを追いかける。その合間に、羨ましそうにこちらを眺めながらシャドーバッティングをする補欠もいる。
「ようし、守備につけ!」
 正捕手の笹岡と補欠のデブシが、ノックをする岡田先生の左右に立った。太田と高田も守備要員として控える。
「内野!」
 守備のチームと言われるだけあって、さすがに先輩たちは球ぎわの処理が手慣れている。でも抜群にボールさばきがうまいのは太田だ。レギュラーの里中よりはるかにうまい。一塁に送球するコントロールも正確だ。手首が柔らかいのだろう。秋に里中がいなくなったら、二年生を差し置いて太田がサードにすわるかもしれない。
「外野、いくぞ!」
 ライト布目、センター本間、レフト私の順で飛んでくる。私は高いフライが灰色の空から落ちてくるたびにシングルハンドで捕球し、ワンステップして二塁へ低いボールを投げ返す。
「十本ずつ、バックホーム!」
 バックホームになると私はいつもノーバウンドで矢のような送球をするので、内野も外野も動きを止めて私の遠投に眺め入る。岡田先生もこれだけは楽しみのようで、わざとプレハブに打ち当たりそうな大きなフライを打ってくる。
 バックホームの三投目を返したとたん、左肘の奥に激痛が走った。関節の奥をナイフで突き刺されるような、覚えのある痛みだった。
 ―またきた!
 私は左肘を抱えこむと、堅く目をつぶってしゃがみこんだ。腕全体がジーンと痺れている。私はまるで肘の奥の音に耳でも澄ますようにじっとしていた。本間が駆け寄ってきた。
「どうした!」
 感づかれたかもしれない。
「肩がギクッときて。だいじょうぶです」
 嘘をついた。しゃがんでいる目の前の地面がゆらゆら揺れた。
「肩か。無理すんな」
 本間が駆け戻っていく。ちょうど体育館の出入り口からバスケット部の連中が走り出てきて、センターの後ろの空間で、ダッシュの練習を始めようとしている姿が目に入った。加賀美が溌剌と先頭切って駆け出した。
 ―あいつ、バスケ部だったのか。
 私は絶望の中で、関係のないことを考えようとした。ライト、センター、レフトと容赦なく順番にノックのフライが落ちてくる。あわてて捕球し、痛さの程度を確かめるようにわざと強く投げ返す。肘の先からちぎれるように痛い。ヤケのように腕を振ってみる。痛みは増すばかりだ。どうすればいいのだろう。ギブアップしようか。
「だいじょうぶかァ!」
 しつこい本間の声。同情というよりは、何かを察したような響きがある。私は問題ないという様子でグローブを振りながら、とつぜん女みたいに泣きたくなった。またフライが落ちてくる。岡田先生と本間の手前、何ごともないように捕球して、返球のフォームに入る。
「くそ!」
 思い切り腕を振り下ろす。しかし痛みに対する恐怖のせいで、肘を鞭のように弾き出す動作ができない。ボールは勢いのない山なりになった。弱々しい返球がスリーバウンドでようやくホームベースに届いた。
「どうしたァ! ひょろひょろ玉だぞ!」
 岡田先生ががっかりしたように怒鳴る。とぼけて急場をしのがなければならない。
「すみませーん! ちょっと、肩が!」
 私は左肩を押さえながら大声で叫び返した。肘の痛みを訴えるよりも、肩の具合が悪いと言ったほうが悲惨な感じがしない。それは長く野球をやっている者にしかわからない切実な感覚だ。
「肩は投げて治せ! 気にするな!」
「はい!」
 私は最後まで痛みを辛抱して、バックホームをやりぬいた。肘を畳まないでまっすぐ伸ばし、肩だけを回すようにして投げた。不思議なことに、そうやって投げると、案外強いボールを返すことができた。
 ―どうということはない。またあのときみたいに、何日か経ったらケロリと治るさ。
 岡田先生がノックを終えて職員室へ引きあげたあと、与野の命令で走りこみをやらされた。一塁までのベーラン十本、ダイヤモンド全力疾走五本。これだけは補欠も全員参加しなければならない。私は肘のことを頭から吹き飛ばそうと、だれよりも懸命に走った。膝に手を支(か)ってあえいでいる仲間を横目に見ながら、私はあしたに保証のある彼らの疲労を嫉ましく思った。さらに一周、二周、最後の一人になるまで走りに走った。とうとう、もう一歩も走りたくないと思ったとたん、与野の「オッケー!」の声が上がった。酸っぱいものが喉いっぱいにこみ上げ、食いしばった歯のあいだからあふれそうになったので、桜の木の下にいって吐いた。ぐったり疲れたからだに、汗で湿ったユニフォームがたまらなく重く感じる。
 補欠たちに混じって、何気ないふうに後片づけをすますと、私はユニフォームを着たまま、暗く沈んだ気持ちで一人家路を急いだ。翳っていくアスファルト道を市電が通り過ぎる。汗の滲(し)みたユニフォームが鉄のように重たい。肩に担いだ二本のタイガーバットも金棒のように重い。大瀬子橋を渡り、加藤雅江の大楠を過ぎる。杉山薬局を過ぎる。灯りの点りはじめた商店街を過ぎる。顔を上げる気にならない。
 ―これで終わりかもしれない。将来を嘱望されたスラッガーもあっけなかったな。
 事務所の前に腰を下ろして番をしていたシロが、私を見つけて飛んできた。足もとにまとわりつく。頭を撫でてやる。勉強部屋へ帰り着くと、ユニフォームも脱がずに畳にあぐらをかいてへたりこんだ。森徹のホームランをふと思い出した。手のひらにボールを受けた瞬間の痺れが甦ってきた。私はその希望に満ちた光景を思い返して身悶えした。今朝文の黒い顔が浮かんだ。
「あのとき、あいつがくすぐりさえしなければ……」
 立ち上がって机に向かう。図書室から借りてきた『モンテクリスト伯』のページが開きっぱなしになっている。もうそんなものはどうでもいい。本立てに教科書の背表紙が見える。そんなものもどうでもいい。コニー・フランシスも、ニール・セダカも、どれもこれもどうでもいい。私にはもう、去年みたいに腕立て伏せをして痛みを確かめる気力はなかった。熱に浮かされたように、壁に向かって何度も、終わりだ、終わりだとつぶやいた。
「フォッ」
 シロの抑えた鳴き声が聞こえた。戸口を見ると、母が立っている。私はスタンドの光に照らされた彼女のけわしい顔に気づいて、ゾッとした。
「何ぶつぶつ言ってるの。ごはんだよ。聞こえないの?」
 隣の部屋から猫の親子が母の声にニャーと反応した。
「―何時?」
「八時になるよ。早くしなさい」
「わかった。猫にごはんあげたの」
「やったよ。かわいがりもしないくせに、わざとらしい」
 母が去ったあとも、戸の脇で首をかしげながら主人を待っているシロを、私はしばらくのあいだぼんやり眺めていた。冷たく湿っているユニフォームを脱ぎ、ワイシャツとズボンに着替えてから外へ出た。夾竹桃の茂みが白い布を広げたように見える。蛾が一匹その上を低く飛んで、食堂の明かりのほうへ近づいていく。シロがそのあとを追った。食堂ではまだおおぜいの男たちが卓についていたけれども、だれの顔とも判別がつかない。うわの空で味噌汁めしを掻きこむ。
「きょうはカレーとホワイトシチューなのよ。おいしいわよ。猫メシなんか食べるのよしなさい」
 カズちゃんが笑いを含んだ声で言う。
「ほっときなさいよ、さっきから不貞腐れてるんだから」
 その険のある声を聞くと、私はなぜかげっそりした感じになった。不機嫌に生きられる人間が羨ましかった。腕の奥の痛みの記憶が戻ってきた。
 ―もとを見つけて、えぐり出せばいいんだ。いつか関が言ってた、ネズミ。きっとそれが走り回って、肘を掻き回してるんだろう。今度こそ医者に診てもらわなくちゃ。
 カズちゃんといっしょにせっせと食器を洗ったり、ビールの栓を抜いたりしている母の横顔を見ると、私はとても痛みのことを言い出す勇気がなかった。母は野球を憎んでいる。肘が痛いなんて言ったって、ハナから聞く耳を持たないだろう。
「こら、キョウちゃん、腹いっぱい食わないと大選手になれないぞ。スポーツ選手は、からだが資本だからね」
 吉冨さんの明るい声だ。明るくしながらも、根に母に対する消せない反感を持っている様子が目つきからなんとなくわかる。
「少しは、勉強しろって言ってやってくださいよ。みんなして、この子に甘くするんですから」
「学校の成績はいいんだろ? 酒井の娘さんが言ってたよ、キョウちゃんは全校の五本指に入ってるって。しかし、少年よ、野球に励め」
「五本指か何か知りませんけど、一度か二度の試験ぐらいで―」
「おばさん、たしかに勉強もたいへんかもしれないけどね、野球の道はその何倍も甘くないんですよ。とにかくキョウちゃん、うんと食べて、大きくならなくちゃ」
 吉冨さんは私に目配せして食堂を出ていった。
 ―吉冨さんはピッチャーをやっていたという話だ。ピッチャーは肩や肘を壊しやすいし、それで悩んだことがあるかもしれない。ひょっとしたら、医者にいかないで治す方法だって知っているかもしれない。
 私はそそくさと猫メシを掻きこむと、寮の二階の麻雀部屋へいった。すでに小山田さん、吉冨さん、西田さん、もう一人、最近臨時入社した畠中女史の兄さんもいて、四人張り切った顔で点棒を揃え終わったところだった。二本指の後藤さんが、シワの寄った赤黒い首を伸ばして見物に回り、麻雀を覚えたてらしい女史の兄さんにああだこうだと講釈をしている。後藤さんは酒井棟の機械職人で、ときどきこうして事務所に麻雀だけをやりにくる。彼とは道端の挨拶以外、あまり口を利いたことがない。どうして指をなくしたかは、いつかリサちゃんから聞いたことがあったけれど、忘れてしまった。
「畠中の兄貴はエンコ入社だ」
 と、いつか小山田さんが風呂場で言っていた。渋い顔をしていたところを見ると、エンコ入社というやつはよくないことらしい。
「あのう……」
 みんながいっせいに笑顔をこちらに向けた。
「肘が痛くて、ボールが投げられないんだ。去年の秋もこうなって、しばらくしたら治ったんだけど……」
 私はドアの脇に立ったまま、吉冨さんに向かって、すっかりしょげかえった調子で言った。畠中女史の兄さんが、ひげの薄いツルリとした顔に不機嫌な表情を浮かべた。彼はいつも事務所の隅で暗い顔して、ボーッとしている。ついこのあいだも私が、
「畠中さんも、吉冨さんみたいに野球をしてたの?」
 と訊いたら、
「うるさい、あっちへいけ!」
 と怒鳴った。利己的な感情というのは絶対的なものだ。絶対的なものに逆らうことは難しい。彼は女史や西田さんとはぜんぜんちがって、私にばかりでなくシロにも辛く当たって蹴飛ばすし、しょっちゅう不満らしい視線をあたりに投げている。


         九

「ちょっと見せてみて」
 吉冨さんは私を麻雀卓の傍らに呼ぶと、肘の周囲を目で念入りに調べ、くぼみを押してみたり、骨の突起をグリグリしてみたり、それから関節に耳を当てながら、無理やり屈伸してみたりした。
「いたたた……」
 錐(きり)で揉みこむようなするどい痛みが関節の奥で暴れた。痛む場所も痛む具合も去年とまったく同じだった。西田さんや小山田さんも心配顔で覗きこむ。
「ゴリゴリ鳴ってるね。腫れてないのが、かえっていやな感じだ。キョウちゃん、こりゃ大ごとかもしれんぞ。病院にいったほうがいい」
 吉冨さんの顔が笑っていない。〈大ごと〉という言葉が頭の中でこだました。
「そうだ、野球ができなくなっちまうぞ。日本国の損失だ」
 小山田さんも真顔で言う。畠中女史の兄さんは鼻先であしらうように聞いている。
「かあちゃんは、きっと病院にいかせてくれないよ。お金がもったいないって言うにきまってる」
「そういう問題じゃないだろ! よし、俺からおばさんに言ってやる。あした女史と千年の労災病院へいってこい」
 社員や土工たちは、病気とか怪我をすると、かならず労災病院の名前を出す。その病院がどこにあるのか、私は知らない。小山田さんの視線を受け、すでに吉冨さんが顔色を変えて立ち上がっている。
「心配するな、いま吉冨がおばさんに話しにいくから」
「麻雀、どうするんですかァ」
 女史の兄さんが苛立たしげに言った。私はその様子を見て、目の奥がチカチカ痛んだ。
「天才の危機だ。麻雀どころじゃないだろ!」
 小山田さんが一喝した。吉冨さんと西田さんが早足で食堂へいった。女史の兄さんは、こんな小わっぱのどこが天才なんだというふうに、暗い目で私を睨みながら、未練たらしく麻雀牌をいじっている。後藤さんが黄色い歯をむき出して愛想笑いをし、
「国家の危機じゃ、麻雀なんか打ってられんな。さて」
 と言い捨てると、私の頭をなぜて引き揚げていった。
「キョウちゃん、ちょっと俺にも見せてみろ」
 小山田さんは吉冨さんを真似て、私の肘を曲げたり伸ばしたりした。
「なるほど、肘の奥から、ギッ、ギッて、おかしな音がするな。骨が擦れ合う音じゃない。何だろ、固いゴムが引っ張られるみたいだぞ」
 真剣な面持ちで言う。
「畠中のお姉さん、いっしょにいってくれるかな?」
「いかせるさ。休みを取るように俺たちが頼んでやるから。おい、あんたからも言ってやってくれよ。この子は名古屋市のホームラン王なんだから」
 小山田さんは女史の兄さんを鋭い目で睨んだ。
「……わかりました。言っておきますよ」
 気が乗らないふうな返事をした。
 翌日、私は学校を休んだ。
 母が学校へ電話を入れに事務所にいっているあいだ、私は部屋を見回して気づいたことを、たとえば、机の裏に貼りつけたエロ本のチェックや、レコード棚の整理や、ひょっとしたら中断することになるかもしれない(そんな予感があった)ラジオ講座のページの確認といったことを、すべてゆっくりとやりながら、なんとか肘のことを忘れて時間をつぶそうとした。
「山田先生に電話しといたからね」
 いっしょに病院にいくわけでもないのに、母は私が出かけるまでのあいだ食堂をカズちゃんにまかせ、六畳部屋で猫を抱きながらぷりぷりしていた。
「おまえはむかしからオーバーなんだから。ただの筋肉痛じゃないの?」
「筋肉痛なんかじゃない。きっと、関節の骨だよ」
 何ごとにつけ大げさなのは母のほうだった。わけても父のことをほじくり返すときは、悪意のこもった大げさな表現をすることが多かった。たとえばこんなふうに― 
「父ちゃんは生まれつき、女好きのハグレ者だったんだ。家にいるときは、まるで当てつけみたいにふさぎこんで、麻雀仲間や飲み友達がきたりなんかすると、もう生きいきしちゃってね。握りめし作れ、寿司をとれ、茶をいれろ。関白ぶっちゃってさ。ふらふらと外へ出たがるのも、結局は女と遊びたかったからだよ」
 鼻に小じわを寄せて、冷たいもったいぶった調子で言う。
「派手なネクタイを締めて、チェックの背広なんか着たりして、出たり、戻ったり。しばらく帰ってこないかと思うと、金をせびるときだけ戻ってきて、また逃げ出していくんだ。そのうち悪い女に引っかかって、〈出たきり雀〉になって、とうとう取引相手の会社から金をだまし取って、姿をくらましちゃった」
 なんという嘘つきだろう。ぼくは父をこの目で見たのだ。彼がそんな人間であるはずがない。私はそんなでたらめを聞かされるたびに、父に憐憫に似た友愛を感じないではいられなかった。横浜の下宿の階段と、サトコのさびしそうな笑顔を何度も思い出した。
 このごろでは、私にとって父と母が別れた事実など、どうでもよくなった。実際のところ、離婚などというものは、父とサトコのつつましく美しい生活を考えれば、退屈なややこしさと絶え間ない争いに満ちた、ぱっとしないものでしかなかった。
 出勤してきたクマさんが、吉冨さんから私のことを聞きつけて、勉強小屋の玄関に心配そうな顔を出した。
「だいじょうぶか、キョウ」
「たいしたことないのに、大騒ぎしてるんですよ。横浜にいたときも、学校にいきたくないだけの理由で、歯が痛いとか、頭が痛いとか」
 私はすさんだ表情になった。
「ほんとに痛いんだ!」
「だから、医者にでも何にでもいけばいいでしょ! どれだけ金がかかるんだか。あくせく働いても何にもなりゃしない。その程度のからだなら、中京いかなくてよかったじゃないの。かあちゃんの先見の明に感謝しなさい」
「おばさん! 何でたらめ言ってるんだ。中京とかスカウトとか、そんなのは才能さえあればいずれどうにかなる問題だ。野球はキョウの命だよ。野球をやりつづけられるかどうかが問題なんだ。肩や肘は野球選手の生命線だ。これにキョウの一生がかかってるんだ」
「だから病院にいけばいいと言ってるでしょ。勉強もしないで野球ばかりしてるからこんなことになるのよ。これに懲りて、もう野球はやめなさい」
 クマさんがハッと息を詰めた。彼は見開いた目を母から離さなかった。気まずいときがしばらくつづいた。彼は唇をゆがめて微笑むと、
「……事務所で畠中女史が待ってるぞ。病院にいってこい」
 と私に言った。
 小糠雨が降っていた。私は畠中女史の傘に入って歩いた。千年から市電に乗った。車内はがらがらだった。私は窓の外のヤマモモの並木を見つめながら黙っていた。
「きっと、なんでもないわよ」
 女史は私を慰めようとして、きっぱりとした口調で言った。そして、いつもよりも快活に振舞いながら、私の手の甲をやさしく叩いた。女史のからだから、かすかな香水のにおいが立ち昇る。私はそれを車内の湿った空気といっしょに吸いこんだ。
「ネズミって言うんだ。……切って取り出さなくちゃいけないかもしれない」
 女史はネズミの意味がわからずに、ぼんやり私の顔を見つめた。
「野球ってこわいのねェ」
「こわくないよ。ネズミなんか取っちゃえば、もとに戻るから」
 今朝文のことがまた頭をよぎった。どう考えても、机の角に肘を打ちつけたことが原因だったにちがいないのだ。
「畠中さんのお兄さん、いつも不機嫌だね」
「……こういう仕事に慣れないみたい。人夫を相手に一日じゅう外にいると、つくづく疲れるんだ、って言ってるわ。性に合わないのね。今月で辞めるらしいの」
「エンコって、何?」
「コネのこと。そんなこと、みんなに言われてるのね。兄さんは時期外れの試験を受けただけで、エンコじゃないわ。慶応の工学部を出たのよ」
「ケイオウって、トウダイよりすごい大学なの」
「トウダイほどじゃないけど、難しい大学よ。なかなか入れないわ」
「お姉さんはどこの大学?」
「私は高卒。大学にいけるほど頭がよくないもの。勉強も好きじゃなかったし」
 私は、象のような細い目を剥いて怒鳴りつけたお兄さんの顔を思い出し、あんな粗暴な顔をしてても、結局、名門大学を出ているのだと思った。
「お兄さん、こわい人?」
「こわくはないけど、プライドの高い人」
「プライドって?」
「自信のこと」
「やっぱりね」
「やっぱりって?」
「中途半端な自信があると、いま生きている場所で一生懸命生きられなくなって、あきらめが悪くなるってこと。徹底的に自信があれば、何だってあきらめられるし、その反動で一生懸命生きられるよ」
「きついことを言うのね」
「別にきついと思わないけど。おねえさんは会社辞めないよね」
「結婚するまではね」
 畠中女史は美人ではなかったけれども、肉づきがよくて、色が白かった。それは私の好みの体型だったので、私の目にはカズちゃんと同じように、いつでも手を伸ばして触れてみたい女の人の範疇に入っていた。でも結婚という言葉を聞いて、手を伸ばしたくない人に変わった。愛情そのものを大切にしないで、ただ社会の枠組みだけに希望を持つ人に、私は興味をなくしてしまう。彼女のただよわせる香水のにおいも、トイレの消臭剤のにおいに変わってしまった。
 労災病院前で市電を降り、大きな四階建ての病院の玄関へ、女史の傘に入っておそるおそる近づいていった。いろんな薬品の混じり合ったにおいがしてくる。受付で診察券を作ってもらい、外科へいくように言われた。広い廊下を歩き、外科の外来ベンチに腰を下ろす。二十人くらいの患者たちが、同じ方向に頭を並べて、ぼんやり前を見つめたり、本に目を落としたり、隣の人と話したりしていた。ベンチの横は大きなガラスに四方を囲まれた中庭で、長方形の地面に何本か背の低い潅木が植わっていた。私は手のひらを大きく開いて、ゆっくり肘の屈伸をしてみた。ゴリゴリという音がする。痛みの芯のあたりの窪みをじっと見つめた。
 ―治らなければ、プロ野球にいけない。
 一心にそのことを考えた。呼吸が苦しくなるような気がした。
「吉冨さんや小山田さん、ほんとうに心配してたわよ」
「一年生から四番を打つことになったんだ。これで、うんと活躍したら、きっとあのスカウトがまたきてくれると思う」
「そうよ、そうよ」
 女史は、一年生で四番を打つという言葉よりも、記憶に新しいスカウトという言葉に反応して、すぐに同意した。
 三十分が経った。
「いつになったら呼ばれるのかな」
「大きな病院だから患者さんの数が多いのね。辛抱して待ちましょう」
 女史はハンカチを握った手を膝に置いて、真っすぐ前を向いていた。診察室に入っていく人たちがどこか哀しげで、よろよろしているように見える。私は大ガラスの庭木を眺めることで気を散らそうとした。吹き抜けの天井から光のかけらが心細く落ちてくる。
 また三十分が経った。私は腹が立ってきた。
「こんなにたくさん患者がいたら、どうせ、適当にしか診てくれないよ。なんだか悪い予感がする。この肘、ネズミじゃないような気がしてきた。帰ろうよ」
 畠中女史はそれでも明るく悠然としていた。
「帰ったら、治るものも治らなくなっちゃうでしょ。男の子は泣きごとを言っちゃだめ。キョウちゃんの治りたいって気持ちは、ぜったい神さまに通じるから。そんなに思いつめなくてもだいじょうぶよ」
 そう言って、私の頬っぺたを指でつつき、唇を一文字に結んで見せた。
 肘が痛まなかったころがあまりにも遠いむかしのことのようで、こうして重い心を引きずって病院へやってきた自分が、ついこのあいだまでグランドをあんなに陽気に駆け回っていた人間だとは信じられなかった。



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