十三

 医者の言ったとおり、激痛に苦しめられた。猛烈な痛さに、私は息も絶えだえにうなった。傷が痛むのか、腕全体が痛むのか、よくわからなかったけれど、とにかく痛くてたまらないので、一度だけ押しボタンで呼んだ看護婦に痛み止めを打ってもらった。ちっとも効かなかった。ダッコちゃんは枕もとにつきっきりで、
「がんばれ、郷くん、がんばれ」
 と励ましつづけた。ときどき目を開けると、ダッコちゃんは私の視線に応えるようにうなずいた。
 深夜に近く、ようやく私は眠りについた。
 しらしら明けに目覚めると、枕もとにカズちゃんがいた。驚いた。
「カズちゃん!」
 彼女は唇に指を当て、
「あちらさんが床に着いたばかりだから、ね」
 と言った。ダッコちゃんはこんな時間まで私を見守っていたのか。
「でも、こんなに早く……」
「起きられる?」
「うん」
 痛みはほとんどなかったけれども、腕全体が重く熱っぽかった。カズちゃんに表の廊下にいざなわれ、ベンチに座った。
「お母さんが見舞いになんかいかなくていいって言ったんだけど、私の大事なキョウちゃんを見舞わないわけにはいかないわよね。小山田さんと吉冨さんは、二、三日中に様子見にくるって。出勤前にきたから、こんなに早くなっちゃった。だからお見舞品はなし。……一晩中苦しんだんですって? あの気の毒な人が言ってたわ。あんなに献身的に……よっぽどキョウちゃんのことが好きなのね」
「ダッコちゃんていうんだ。背骨を折っちゃったんだって。ずっとぼくを見てるのは、たいへんだったろうなあ」
「朝ごはんまで起こさないようにしないとね」
 プリーツスカートの膝に手を置く。ふっくらとやさしい手だった。
「うん。いま何時?」
「五時少し過ぎたところ」
 腕時計を見るカズちゃんの睫毛が長かった。
「じゃ、タクシーできたの」
「そう。気が気でなかったから。亭主、グーグー寝てたわ。キョウちゃんも、もう少し寝ないと。これで安心したから、あとは退院を待つだけ。もうこないわね。お母さんが目くじら立てるから」
 そっと手を握って帰っていった。胸に温かいものがひたひたと押し寄せてきて、女から包みこむように愛されているという感じを生まれて初めて抱いた。年の差という感覚はいっさい思い浮かばなかった。
         †
 手術から三日ほど経った夕方、病室のドアが開いて、康男の顔が覗いた。
「あ、康男!」
 いつものとおり食後の仮眠をとっているダッコちゃんを起こさないように、忍び足で廊下へ出た。康男に並んで、リサちゃんも立っていた。
「この女、だれや? ここで入りにくそうにしとったで」
「酒井リサです。神無月くんと同じ飯場にいるんよ。棟は少し離れてるけど。神無月くん、これ」
 リサちゃんは大きな果物籠を差し出した。私は礼を言って受け取ると、それをそっと戸の内側に置いて、三人並んで廊下のベンチに腰を下ろした。康男がベンチの背にふんぞり返った。
「ちょいまちぐさに聞いて、びっくりしたわ。手術して労災に入院しとるて。病室、探すのに苦労したで。そこらじゅうけったいな野郎ばっかりおるな」
「特別病棟だからね。みんないい人たちばかりだよ」
 ほんの二、三日のあいだに私は、この病棟の人たちと親しく会話をするまでになっていた。ときどき私が病室を訪ねると、彼らは不自由な肢体を見られるのを少しも恥ずかしがらずに、気さくに応対した。彼らのほとんどが腰に分厚いゴム袋を下げていた。そのかたわらに、親類の者はでないとはっきりわかる女がいることもあった。人生の不幸を烙印された人びとに明るく接している付添婦たちに、私はしみじみとした印象を受けた。
 ダッコちゃんみたいに、人間的にもっと深い付き合いを求める男にとっては、不随者病棟で暮らす人びとは何ごとにつけ考えが浅くて、つまらない存在に見えるようだった。なぜみんなと話さないの、と訊くと、
「あの人たちと話していると、希望も情熱もどこかへ消えてしまうんだ。彼らには未来というものが感じられないし、やかましくしていても、まるで隠居所にいるみたいだ」
 ダッコちゃんは、自分の病室からほかの病室へ巡り歩くなどということはせず、たとえ彼らのほうから顔を出しても、ひどくぎこちなく、ぶしつけに振舞っていた。
「おまえの肘、そんなに悪かったんか」
 私はパジャマの袖をまくって、包帯を巻きつけた腕を康男に示した。
「切って開けたんだけど、すぐ閉じてしまった。指を動かす神経にカルシュームがくっついてたんだって。もう、投げられない」
「なんやと!」
 康男は大きく目を剥いて、ベンチから立ち上がった。
「野球がやれんようになってまうのか?」
 リサちゃんもびっくりして、悲しげに眉をしかめた。
「野球をやらなきゃ、死んでしまうよ。―右投げに変えるんだ」
「右投げ? 変えられるんか」
「鉛筆も箸もちゃんと右手が使えるんだから、ぜったいボールだって投げられるようになるはずだよ」
「……そうか。ま、やると言ったらやる男だでな、おまえは」
 康男は憂鬱そうに腰を下ろした。
「それより、リサちゃん、手術はうまくいったの?」
 リサちゃんの目が輝いた。
「なんとかね。まだ突っ張る感じやけど。うまく皮膚はくっついたみたい。中三になったら、もう一度、こまかい移植をするんやと。私もこの労災で手術したんよ」
「ここでやったの! ヒゲの先生?」
「ヒゲはなかった」
「そう。うまくいってよかったね。おめでとう」
「ありがとう。早く神無月くんに知らせたかったんだけど、移植した皮膚がくっつくまでは恐くて」
「わかるよ。失敗だったら、カックンときちゃうもんね」
 クマさんの真似をして、両手の指を絡ませながらおどけて見せた。リサちゃんは何のことやらわからず、きょとんとした。
「ところで神無月くん、すごい成績やったね。リサ、びっくりしちゃった」
「またそれか。もう一カ月も前の話じゃないか」
「だって、すごいもの」
「リサちゃんだってすごいよ。あんなに勉強ができるなんて知らなかった」
「……神無月くん、リサとの約束忘れとらん? べつに忘れてもいいけど、たまには思い出してね。もうじき、スカートが穿けるようになるんよ」
 リサちゃんの顔を見ると、薄い皮膚の頬に長い睫毛が影を落としていた。
「こいつ、神無月のこれか」
 康男が小指を立てた。
「そんなんじゃないよ。名古屋にきてから、ずっと友達なんだ。リサちゃんは足の手術をして、それがうまくいったんだって」
「おまえ足が悪いんか。そう見えんけどな」
「皮膚の手術だから……。歩くのに不便はないんよ」
 リサちゃんは立ち上がって、康男の前で歩き回って見せた。ふと、加藤雅江が手術でこんなふうに回復できたらどんなにうれしがるだろうと思った。いくら手術でも、短い脚を長くはできない。
 そのまま三人いっしょに一階の玄関ロビーへ降りた。
「このごろ、桑原が寄ってきて、馴れなれしいでいかんわ」
「あいつ、今度いいもの見せてやるって言ってた」
「オヤジが三吉一家の手下(てか)でな、キワもの売って、しのぎやっとるのよ。くだらんものだで、見たらあかんぞ。くそ、桑原のヤロウ、一回シメたらんといかんな」
 私もリサちゃんも康男の言っていることがさっぱりわからなかった。康男は唇を噛んでポケットを探ると、五百円札を取り出した。
「これ、とっとけ」
「いらないよ」
「とっとけって。見舞金だがや。本でも買えや」
 そのままスタスタと玄関のほうへ歩いていった。
「ありがとう!」
「おう、はよう出てこいよ。退院祝いにラーメンおごったる」
 リサちゃんも小走りに康男のあとにつづき、振り返って手を振った。
「神無月くん、またね。今度、いっしょに勉強しようね!」
 すでに起き上がっていたダッコちゃんと、生暖かいりんごを剥いて食べた。残った分は別部屋の患者たちや付添いの人たちに配った。
 翌日の昼、スイカを提げた畠中女史といっしょに、母が初めて見舞いにきた。戸口に立って、形ばかりにダッコちゃんに頭を下げた。
「なんだかむさくるしい部屋だね。これで一日いくら取られるんだろう」
 母はいやな笑いを浮かべて、だれにともなく小声で言った。知っているくせに、皮肉れたしゃべりようだと思った。畠中女史はダッコちゃんに親しげにからだの具合を尋ねた。
「相変わらずです。私の場合、病気ではないので」
 母は私のベッドの脇に立って無表情にすましこみながら、しばらくダッコちゃんの様子を訝しげに見ていたが、五分もしないうちに、
「仕入れがあるから」
 と言って、そそくさと帰っていった。女史が洗い場に出てスイカを切り、持参したお盆に盛りつけて戻ってきた。
「食堂の冷蔵庫でよく冷やしてから、すぐタクシーできたのよ。おいしいわよ」
 ダッコちゃんと二人うなずきながら、二切れずつ食べた。食べきれない分は、通りがかりの看護婦を呼び入れて、その場で一切れ一切れ食べてもらった。どの看護婦も笑いを浮かべながら、うまそうに平らげた。
「お母さん、忙しそうですね」
 ダッコちゃんが女史に話しかける。
「そうなんですよ。十五人もの人たちの面倒を見てるんです。賄いのほかに、買出しもあるし、お掃除もあるし、洗濯物の世話だってあるんですから」
 ―そんなものはいつもカズちゃんといっしょにやっていることだ。洗濯物だって籠に入れておけばクリーニング屋が勝手に持っていく。忙しいはずがない。
「お金がかかるんで、頭にきてるんだよ」
 私はまちがいのないところを言った。
「馬鹿なこと言わないで。手術がうまくいってよかったって、お母さんほんとうに喜んでたわよ」 
「野球をやらせたくないのに、うまくいって喜ぶはずはないよ。それより、うまくいったって医者が言ったの? 嘘つきだね。うまくいかなかったんだよ。そのまま閉じちゃったんだから。ぼくはもう、左腕で投げられなくなったんだ。そう知らせてやったほうが、かあちゃんは喜ぶよ」
 ダッコちゃんがさりげなく視線を逸らした。女史は困ったふうに眉を八の字にした。手術について、彼女はそれ以上話題を拡げようとしなかった。私はあらためて、女史が重荷を分かち合おうとしてここにきたのでないことを知った。
         †
「日をずらしてきたぞう!」
 日曜日の午前、小山田さんと吉冨さんが顔を出した。二人はダッコちゃんに気づき、あわててお辞儀をした。
「これは、これは、失礼しました。キョウちゃんがお世話になってます」
 女史から彼の事情は聞いているようで、ちらとベッドの寝姿を観察する。しかし、下手な同情心を湧かすことはしないで、すぐに他人に戻る眼つきになった。
「篠崎です」
 ダッコちゃんは、一瞬、〈日をずらして〉の意味をつかみかねたようだったが、先日の女史と私との会話から、さっと得心がいったようだった。
「女史が果物なんかは、ごっそり持ってきてるんだろ。じゃ、俺たちはこれだ。千年のあの店で買ってきた」
 小山田さんは新品の大人用のタイガーバットを二本提げていた。
「見せるだけだぞ。握るなよ。肘にひびくからな。勉強小屋に置いといてやる。これでバンバン大ホームランを打ってくれ」
「ありがとう!」
 彼らの顔つきからすると、私の悲劇は伝わっていないようだ。胸を撫で下ろした。
「ぼく、早くよくなって、グランドを走り回るんだ」
 吉冨さんがベッドに並んで座って、
「そうだ。キョウちゃんが走り回るじゃまはぜったいさせないからね。好きなだけ野球をやるんだよ。今度スカウトがきたら、俺たちがみんなで砦になるからね」
 ダッコちゃんがつらそうにうなずいた。
「あなたがたは、心から郷くんをかわいがっていらっしゃるんですね」
「かわいがるなんて、大それた。俺たちは尊敬してるんだよ。正真正銘の天才だからね」
「そうです。俺たちの宝物です。瑠璃も玻璃も照らせば光る、でしょ。俺たちは照明係ですよ。つまらないやつらに、けっしてそのじゃまはさせません」
「あのお母さんが、そのじゃまをしてるんですね」
「ご明察。中京のスカウトを追い返したからね。あごが外れたよ。この子の人生をなぶりものにしたんだからな。このままポシャッてしまったら、罪深いことをしたというだけじゃすまんぞ」
 ダッコちゃんは首をもたげ、いざって、上半身をベッドの鉄枠にもたせた。
「先日、お母さんにはお会いしました。お母さんの胸の内には、何か、人間不信か、根深い怒りといったものがあるんじゃないでしょうか。たび重なる傷心の経験に懲りて、だんだんひねくれてきて、不満のかたまりになって、精神的におかしくなるんです。怒りを自分に向ければ、対人恐怖や自己否定といった行動に走りますが、怒りを人に向けると、暴君になるんですよ。身勝手で、仕事依存で、社会的な出世や傷心に固執して、自分を優遇しない社会を批判したりします。そういう人は、自分が悪いなどとは天地がひっくり返っても思いません。悩むことすらありません。自分の心に複雑な嘘があるせいで、他人も怒りと複雑な嘘に満ちているにちがいない、信用できない、と思ってしまうんです」


         十四 

 小山田さんが、
「ハア、そのとおりだよ。じゃ、どうすればいいんだね」
「あなたがたのおっしゃるとおり、郷くんを守ってあげるしかないんです。お母さんは郷くんに腹を立てているんじゃなくて、じつは目の前にいない、自分を傷つけた人たちへの怒りに自失しているからです。郷くんはいい迷惑です。見たところ、郷くんは内へこもりがちなやさしい人間のようです。暴君というのは、そういう人を見ると怒りを刺激されて、ますます意地悪したくなってしまうんです。こういう人には対処法がありません。あえて言えば、あまり深く関わらないことです。そうすれば嫌われますが、そういう人からは、嫌われて相手にされないくらいでちょうどいいんです。どうしてもある程度関係を維持しなければならないのなら、おだてることです。歯が浮くようなおだてでも、そういう人は本気にします。常に優越感を感じながら、ひたすら自分を大きく見せていないと生きられないからです。高い位置に置いてあげ、優越感を感じてあげさせないと、またぞろ意地悪が始まります。暴君は人から好かれたいと思わないので、人を傷つけても平気です。それで悩むことはいっさいありません。郷くんは、これまでどおり自分のことに没頭して、お母さんと距離を置きなさい。やさしい人間は、だれとでも一様に親身に関らなければならないとつい思ってしまうものだけど、自己実現した人間は、深い関係を結ぶ人間の数は意外と少ないものなんだよ」
 男二人は感心して、大きくうなずき合い、
「俺たちのこれまでの態度はまちがってなかったということだな。だいじょうぶだよ、篠崎さん、目の届くかぎり、キョウちゃんは俺たちが守る。じゃな、キョウちゃん、早く退院して戻ってこい」
「篠崎さん、あなたは悪運にめげない強い人だ。長生きしてください。どんな形でも長生きすることが、あなたのような強い人間の義務だ。このあいだ、朝方ここにきたのは北村和子さんという人です。彼女も強い人です。キョウちゃんを母親代わりに、いやそれ以上の気持ちでこよなく愛している女です。彼女から聞きました。あなたは手術の夜、キョウちゃんにずっとついていてくれたそうですね。その不自由なからだで、よくぞそこまで面倒見てくれました。人間の強さというのは、そうしたものです。キョウちゃんも強い人間だ。スカウトを追い返されたあとの態度でわかる。精神的なパニックも起こさず、こんなに静かにいられるなんて、ふつうの強さじゃない。強い人間を守れるのは強い人間だけです。弱い人間の意地悪に陥れられないように、俺たちも強くなろうと思います。少なくとも、おばさんはキョウちゃんの母親です。そのことだけは忘れないようにしてね」
 二人は代わるがわる私の頭を撫ぜ、それからダッコちゃんに深くお辞儀をして帰っていった。
         †
 その夜、消灯のあと、ダッコちゃんがだしぬけに、
「これは、ほんとうにあった話だよ」
 眼鏡をわざとゆっくりはずして、恐ろしげな顔をしてみせた。大学生の彼は、ふだんから自分の専門に関することは読書の中に閉じこめておいて、私と話をするときは、ふるさとの花だとか、樹だとか、お寺や、仏像や、キリストの生涯とか、そんなふうなことばかり話す。きょうは様子がちがっていた。
「こわァい話なんだ」
「そんな顔しても驚かないよ。お化けなんかこわくないから。お墓だってちっともこわくない。横浜じゃ、お墓を通って登校してたんだ」
「お化けの話じゃない。お化けなんて、派手なスタンドプレーがこわいだけで、その人の個人的事情に深い共感や悲しみを覚えるところまではいかない。これは、ほんとうにあった話なんだ。……信号手って知ってる? 踏切番ともいうけど」
「知ってる。踏切小屋にいて、遮断機とかポイントの番をしてる人でしょ」
「そう。ぼくの知り合いに踏切番のおじさんがいてね、その人が話してくれた話なんだ」
 どうせ、だれかが飛びこみ自殺でもした話だろう、と私は思った。自殺した人の脚がちぎれ飛んで、対向電車の窓を突き破ってだれかに当たって大ケガをさせたと、このあいだ飯場の食堂でみんなわいわいやっていた。そんな話、こわくもなんともない。
「そのおじさんが、夜行列車が定時に通過したあと、人間の叫び声のようなものを聞いたような気がして、見回りに出たんだ。線路に出て、声がしたほうを懐中電灯で照らして見たら、細い帯みたいなものが落ちていて、おやっと思って、しっかり目を凝らすと、その赤い帯が長く、長く、つづいてる」
 私はベッドに起き直って、ダッコちゃんのスタンドのほうを見た。静かな表情なので、私はかえって恐ろしい気分になった。
「……帯にしちゃ、へんにぬるぬる光ってるし、長すぎるんだな。何だろうと思って懐中電灯で照らしながらずっと追っていったらね―」
「何だったの?」
 ダッコちゃんはうつむいてしばらく黙っていた。それから突然上半身を持ち上げると、
「た、す、け、て、くれー」
 とかすれた声で叫び、両手を一直線に高く差し上げた。ダッコちゃんの端正な顔が、床頭の明かりに浮き上がって不気味に歪んでいる。
「懐中電灯の光の中に、男の顔がァ!」
 私は息を呑んだ。
「からだが半分しかない男が、踏切番のおじさんに向かって両手を突き出しながら、タスケテ、クレー、って、かすれ声で叫んだんだ!」
 ダッコちゃんは喉仏をごくりと動かすと、急に悲しげな表情になった。私はその男の姿が一瞬のうちにイメージできた。
「轢かれたんだね! 自殺でしょ」
「自殺じゃなかった。あとで調べたら、乗客だった。どういう事情かわからないけど、デッキから誤って落ちたんだ。それで車輪に巻きこまれて、まっぷたつ」
「じゃ、赤い帯って―」
「うん、腸だったんだ。切断されたからだから飛び出した腸。それがズーッとしごかれて引きずられた……」
 パッとダッコちゃんの両手が私に向かって突き出された。私は、ウワッ! と叫んで身を反らした。ダッコちゃんは満足そうに会心の笑みを洩らした。
「こわいだろう」
「おっかない。ほんとの話だよね?」
「もちろん。……その男の人はすぐ死んじゃったんだけど、死ぬまでは目が見えてたわけだから、からだが半分なくなったあとも、まだしばらく生きてる自分を感じてたってことになるね。苦しくて、さびしくて、心の底から絶望してたろうな。だから踏切番が自分を見つけてくれたときは、うれしくて思わず手を差し出したんだ。……どんなに絶望した人でも、最後の瞬間は生きたいんだね。ねえ郷くん、これはこわいというより、悲しい話だと思わないか」
 私の頭の中に、切断されて上半身だけになった男が、目を剥き出して必死に助けを求めている残酷な図が浮かんだ。
「人間というのは自分だけが一番つらい目にあってると思って生きてるけど、その男の人みたいな、恐ろしい、ぜったい救われない運命に比べたら、ご大層に悩むほどのことでもないと思わないか。たとえギリギリのところでも、生きつづけられるだけマシだ。……それは、ぼくのような立場の人間にもあてはまることだけど、程度の差こそあれ、みんな同じことさ」
 ダッコちゃんのまじめな目は、瞬きもしないでこちらを見つめていて、私の胸の奥にくすぶっている考えまでえぐり出すようだった。
「……肘のことや、かあちゃんのことを言ってるんでしょ」
「ん? そうかな、そういうふうに思ったの」
「ぜったいそうだよ」
 悟ったような少年の眼が、半身の痺れた青年に意外な苦痛を覚えさせたようだった。
「そんなつもりはなかったんだけどね。……考えさせちゃったかな。そう考えたということは、郷くんも、思いがけない不幸のおかげで、かえって勇気が湧いてきたということだね。……じつは、自分のことを言っただけなんだ。ぼくは暗い気持ちになると、いつもその男の人の絶望した形相を思い浮かべることにしてる。中途半端な自分の命をハラワタが煮えくり返るほど軽蔑してるくせに、その命にきちんと縛られて、寝たり起きたり、食べたり、おしゃべりしたりしてる自分は、彼に比べればずっと幸福な人間なんだって。そうすると、なんて自分は可能性にあふれているんだろうって思えてくるんだ」
 ダッコちゃんの眼鏡がさびしく光った。
「……と言っても、ぼくにとって、いつも目覚めは一つの死ではあるけど。それもあらゆる死の中で、いちばん恐ろしい死なんだけどね―」
 ダッコちゃんは私にはわかりにくい、大人の言葉で締めくくった。それは年齢の差を超えた友情の証だった。
「退院しても、ぼく、ときどき見舞いにくるよ」
「うん、思い出したときだけでいいからね」
 ダッコちゃんは何かほっとしたふうにそう言うと、微笑みながら薄いタオルケットを顎まで引き上げた。
         †
 入院は十日間ですんだ。夏休みに入るのとほとんど同時だった。一週間の病院生活で身についた習慣といえば、
 ・ベッドのシーツをしっかり伸ばして敷く
 ・朝晩二回歯を磨く
 ・何か言おうとしている人とはできるだけ長く話をする
 ・消灯のあと二階の病室から忍び出て一階の薬品くさい廊下をうろつく
 それくらいのことだった。人気のないしんとした夜の廊下を歩くのは、とても気持ちがよかった。少なくとも、野球のグランドにいるときよりも落ち着いた気持ちになった。頭がひんやり冷えて、古い悲しい思い出がどんどん湧いてくるようだった。そういうときは急に日記みたいなものが書きたくなったけれど、私にはその習慣も、思いつく言葉もなかった。
 逆に、昼間は頭がぼんやりした。観察したり悲しい思いに浸ったりすることが億劫になって、だれかがだれかを見舞っているのをぼうっと眺めたり、廊下を往復したり、待合室のテレビを観たりしながら、ただ時間を潰しているだけだった。病室の外には関心が向かなかった。窓から昼間の空を眺めたのは、たぶん二度か三度にすぎなかった。いつも同じ明るさの人工の光の下をぼんやりさまよっているうちに、いつのまにか左腕の分厚い添え布をはずされ、退院の日が近づいてきた。
 医者も看護婦も、飯場の人たちや康男のように目立ったところがなく、みんなまとめて一人しかいないように感じた。だから、夜の廊下と、ダッコちゃんの話と、不随者病棟のほかには、ほとんど関心が湧かなかった。たしかに気分のいいときは、医者や看護婦のいる景色もなかなか趣のあるものだったけれども、彼らを見ていると、たいていの場合、軽いめまいや、頭の中で何かざわざわするものや、ちぐはぐした感じみたいなものにつきまとわれた。彼らは私をだました人びとだった。
 どうやって右投げに変えようか―その課題だけが、いつも頭の中で逆巻いていた。退院が近づき、これでやっとベッドから降りて、陽が照ったり雨が降ったりするほんとうの空の下で計画を実行できると思ったときには、何とも言えずうれしかった。
 退院の日の午前、クマさんがクラウンで迎えにきて、小物や蒲団をトランクと後部座席に詰めこんだ。左腕は、まだ三角巾で吊るしたままだった。ダッコちゃんが松葉杖をつきながら玄関まで見送りに出た。
「ようやく、病院ともおさらばだな」
 クマさんが言った。それは私の正直な気持ちでもあったので、私は思わずクマさんに笑いかけた。ダッコちゃんも同意するように笑っていた。彼は名残惜しそうに私の手を握った。私も強く握り返した。友情に似た親しい思いを伝えたかった。
「遇えてよかった。神無月郷という名前をずっと忘れないよ」
「ぼくもダッコちゃんのこと忘れません。毎日励ましてくれてありがとう。ときどき、お見舞いにきます」
「リハビリついででいいよ。郷くんの貴重な時間がもったいない」
「……はい」
 時間が貴重なのは私だけではないと思った。病気の快復を計るための時間という意味なら、ダッコちゃんの時間のほうがはるかに大切だった。少なくとも私は、彼よりも全体的に健康だった。
「どんな障害があっても、野球をあきらめないでね」
「もちろんあきらめません。ちゃんと計画と希望があるんです」
 ダッコちゃんはそれが何かは訊かなかった。ただやさしくうなずくだけだった。クマさんもダッコちゃんに手を差し出し、
「あんたみたいな人もこの世にはいるんだな。カズちゃんや吉冨から聞いて驚いたわ。あんたこそ人生あきらめるなよ」
「はい。ありがとうございます。私にも郷くんと同じように、計画と希望がありますから」
 そう言って足もとを見つめた。
「表に出なければ手に入らないものはないかい。買ってきてやるぞ」
「だいじょうぶです。お心遣い、ほんとうにありがとうございます」
 二人はもう一度手を握り合った。
 車が走り出すと、私は助手席の窓から身を乗り出して、寝巻のまま松葉杖にもたれているダッコちゃんの姿に長いこと手を振った。クマさんが殻つきの南京豆を一握り、上着のポケットから取り出して私の掌に載せた。
「西田のクニから送ってきたやつだ。俺にも剥いてくれ」
 二人でポリポリやりながら飯場へ帰った。うれしかった。うだるようなアスファルト道も、通りすがりの人びとも、風にきらめく街路樹も、紫がぬけて白っぽくなったアジサイの群れも、目にするものすべてが微笑みかけているように見えた。
「最初のうちは無理するなよ。ゆっくりやれ」
「うん。一カ月くらいは、ほっておかないとね」


         十五 

 食堂で社員たちがみんなで南京豆を食べていた。楽しそうに大騒ぎしながら殻を床一面に散らかしている。ようやくここに帰ってきたと思った。
「千葉の実家から届いた上物です」
 と西田さんが愛想を振りまいている。
「おう、天才のお帰りだ。なんだ、痛々しいな」
 三角巾を見て小山田さんが言った。吉冨さんが立ち上がり、ギュッと私を抱きしめた。照れくさかった。
「今夜はキョウちゃんの退院祝いだ。カズちゃんが自腹切って牛肉買ってきたんだぜ。すき焼きだ」
「みんながカンパしてくれたのよ」
 女史も、彼女の兄さんも、原田さんもいた。みんな笑っていた。女史の兄さんが寄ってきて、
「あのときはすまなかった。きみが新聞に載るほどの名選手だとは知らなくてね」
 原田さんが、
「無事これ名馬。これからはじゅうぶんケガに気をつけるんだよ」
 吉冨さんが、
「トゲのあること言うなよ。名馬だって、夜道の石は避けられないんだよ。そうだろ、キョウちゃん、それ、野球が原因じゃなかったんだろ」
 するどい勘だ。
「うん。いたずらばかりするやつに後ろの席からくすぐられて、腹立てて振り向いたときに机の角で肘を打っちゃったんだ。それが原因だって」
「やっぱりね。夜道の石だ。これから気をつけるのは、野球そのものでの酷使だな。バットもあんなに振らなくてもいいよ」
 小山田さんが三角巾の肩口を揉んで、
「ちょっと痩せたな。しばらくカバンを左手に提げて登下校したらどうだろ。それだけでもだいぶちがうと思うぞ。さて、すき焼きの準備にかかるか。バイショクの栄をたまわるとしよう」
 女史に寄り添って小さくなっていた母が、
「すみません、野球小僧ごときに、こんなにしていただいて」
 彼女はにこりともしなかったが、みんな笑顔を崩さなかった。バイショクの意味がわからなかった。
「グローブ磨いてくる」
「おお、いってこい。バットも振ってこい」
 小山田さんが背中から声をかけた。私がもう左腕を使えなくなったことを、畠中女史とダッコちゃんしか知らなかった。野球に詳しくない女史は、私が洩らしたことは手術がうまくいったあとの私の疑心暗鬼にすぎなくて、別に人に知らせる必要もないと思っているのだろう。
 勉強小屋に戻ると、肘を手術したことがまるで夢のように思われた。でも、小さな玄関の隅に立てかけてある二本のタイガーバットと、机の上に置いてある左利き用のグローブが、夢を見ていたわけではないことを教えた。
 私は国語辞典で、バイショクをひいた。陪食―身分の高い人といっしょに食事をすること、とあった。読みさしていたモンテクリスト伯が目の前にあった。考えられないほど初々しい勉強意欲が湧いてきて、私はあらためて第一章から読みはじめた。
         †
 数日して抜糸をした。六対に並んだ縫い穴の跡が生々しかった。縫い合わさった傷口から、赤い肉が細く覗いていた。糸を抜いた若い医者が言った。
「くっつきが悪いのは体質かもしれないね。でもだいじょうぶ。四、五日もすれば自然とカサブタができるから」 
「薬指と小指が、少し痺れてるんですけど」
「二、三カ月したら、治ります。それ以上長くかかることはないから安心して」
 ダッコちゃんの病室に回ったけれども、計画と希望の歩行訓練に出ているらしく不在だった。いつものように整ったベッドの枕の上に、分厚い数学の本が載っていた。
 宮中に向かうつもりで労災病院前から市電に乗った。リハビリが始まるまでしばらくのあいだ、肘の曲げ伸ばしができないので、用心のためにまだ腕を三角巾で吊るしている。小指と薬指をそっと動かしてみる。痺れているようでまだ思いどおりにならない。たぶんリハビリが終わっても、もとの握力は戻ってこないだろう。こぶしを握る感覚からそれがわかる。せいぜい腕立てをして、腕力だけは回復しておかないといけない。電車の窓から明るい日差しを浴びた街路樹が見える。風にそよぐオヒョウの大きな葉が涼しそうだ。
 白鳥東の停留所で降りる。宮中まで歩く道でテニス部のランニングにぶつかった。直井の小さいからだが列の中にあった。先輩の掛け声に合わせて声を張りあげていた。滑稽な感じがした。彼には運動というものが似合わない。雅江が舟を漕ぐような格好で最後尾を走っている。彼女はうつむき、声を合わせ、真剣な面持ちをしていた。
 ―まだテニス部をやめていなかったのか。
 前方にぐんと脚を投げ出し、反り返った姿勢のまま地面に着地する。すぐ軸足を次の場所に移し、ふたたび新しい勢いで悪い脚を投げ出す。そうやって空間を獲得する。彼女は障害に安んじて怠ける特権をじゅうぶん持っているのに、ああやって懸命にがんばっている。かわいそうに。それでも、ダッコちゃんよりはずっとマシだ。両脚が動くのだから。
 雅江は私に気づかずにギクシャク走り過ぎた。
 職員室の戸を引くと、夏期出勤の何人かの先生が机から振り向いた。岡田先生の顔があった。
「神無月ィ! 退院したのか」 
「はい、水曜に。きょう抜糸でした。糸を抜くまでは、なるべくじっとしてるようにって言われてたんで、学校はずっと休んでました」
「手術したのは肘だったんだって? 肩が痛いなんて、嘘を言いやがって」
「すみません。肘なんて言ったら、絶望すると思って」
「まあな……。お母さんから電話もらって、びっくりしたよ」
「練習試合、どうでした」
 すでに二回戦の常滑中との試合が終わって何日か経っていた。
「浄心に大差負けしてしまった。いやあ、与野が打たれたのは仕方ないとして、打線がさっぱりでな。常滑にも敗けた。やっぱり大砲がいないと勝てん。……で、どうなんだ、手術の結果は。一、二カ月で戻ってこれるんだろう?」
 岡田先生は不安そうな顔で訊いた。
「〈それ〉なんですけど。二週間ぐらいリハビリにかよえば、治療はおしまいです。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「しばらく、試合には出られません。―左は、もう使えないんです」
 岡田先生はとっさに私の言葉の意味を理解しかね、チョットマテというふうに片手を上げた。
「ちょ、ちょい待ち草。使えないって、どういう意味だ?」
「手術は、ただ開けて、閉じただけでした。指を動かす神経に、カルシュームが溜まっていて、それを削り取ると、指が動かなくなる危険があるんだそうです」
 岡田先生は深くうなだれた。
「それじゃ、試合に出られないというより……もう、野球はできないということじゃないか」
 あまりの落胆ぶりに、私は思わず先生の手をとった。
「左では、ね。心配いりません。―右投げに変えようと思ってますから」
 私はおおらかに笑った。岡田先生は、そろそろ子供らしい丸みが削れてきている四番打者の顔を見つめた。それから、肩から吊った三角巾へ視線を移した。
「……左腕では、もう投げられないんだな?」
「はい。このまま酷使すると、どんどんカルシュームが溜まっちゃうんだそうです」
 先生は私の手をそのまま握り、
「しかし、金太郎さん、右投げに直すったってなあ」
 私は先生の手を離し、右腕を投球フォームで振って見せた。
「ほら、だいじょうぶです。なんとかなりますよ」
 岡田先生は物思わしげに二度三度うなずきながら、顔に暗い翳が射さないように努力していた。
「左打ちから右打ちに変えるのとは、わけがちがうぞ。左投げから、右投げに変えたなんて話、聞いたことがない」
「とにかくやってみます。もちろん、バッティングは、ずっと左でいきます。右打ちには変えません。ホームランが打てなくなりそうで。とにかく、野球をあきらめるわけにはいかないんですよ」
「そりゃそうだ、おまえは野球選手になるために生まれてきたんだ。うん、そのアイディアはいいとして、投げる感覚ってのはどうなんだろうな……」
「自分の腕で投げてるって感じがつかめるまで、二カ月くらい練習期間をください」
「二カ月? それっぽっちでいいのか!」
「はい、じゅうぶんです」
「うーん、おまえならできるかもしれんな。……よし、二カ月でも、三カ月でも、納得がいくまでデブシや太田と練習してみろ。試合には、ピンチヒッターで出してやる」
「や、右投げが完成するまでは、練習にも試合にも出ません。ベンチにも入りません。そんなことしたら、絶対やりたくなりますから。中村や太田の邪魔もしたくないので、とにかく当分一人でやります」
 そうか! と岡田先生は大声を上げた。職員室じゅうがこちらを見た。
「よし、わかった! 何か手伝えることがあったら、遠慮なく言ってくれよ」
「はい」
 私は元気よくお辞儀をして職員室を出ると、グランドの仲間の顔を見るために上の校庭へ登っていった。なつかしいかけ声が聞こえてきた。石段を登りつめないうちに、デブシの丸い顔が覗いた。下の校庭へ球拾いにいくところだった。私は小さく手を振った。
「神無月やないか!」
「やあ、ひさしぶり」
 デブシはめずらしそうに三角巾を見つめた。
「もうええんか」
「リハビリが終わるまで、あと二カ月ぐらいかな」
 関節の曲げ伸ばしを回復させるリハビリは、糸を抜いて二週間で終わるけれど、自分なりの計画は二カ月のメドを立てている。そう伝えた。
「そのくらいかかるやろな。ええ顔色しとるがや。野球やりたて、うずうずしとるんでにゃあか」 
「そりゃそうだよ。ちょっとみんなに挨拶していこうと思ったんだけど……」
「いこまい、いこまい。いまレギュラーが、フリーバッティングしとるとこだが」
 イグゼ、イグゼ、という声が合唱のように聞こえてくる。関や太田の元気な声も混じっている。デブシは先に立って、グラウンドのほうへ戻ろうとした。とつぜん不安が押し寄せてきた。
「やっぱりいい、きょうはやめとく」
「なんでや」
「バッティング見るのが、つらい。打ちたくなる」
「そんな腕で打てるわけないが。がまんもいっときやろが。ええからいこまい」
「手術、失敗だったんだ」
「なんてか!」
 デブシはあらためて三角巾を睨み、
「もう野球やれんのか!」
 と声を荒くした。肉づきのいいあごがふるえている。
「そうじゃない。手術しても治らない神経の病気だとわかって、開いたあとすぐに閉じたんだ」
「……もう、野球やれんやないか」
「やれるよ。右投げに変えようと思ってるんだ」
「右投げ! そんなの無理やろ」
「やってみせるさ。やるしかないだろ。こんなこといちいち説明するの面倒だし、みんなが大事な練習してるときに、迷惑だよ。だから、帰る」
 デブシは球拾いも忘れて、長話をする身構えになった。
「右投げて……。いまから練習するんか」
「そう、きょうから」
 泣きだした。
「おまえが野球やめたら、俺は、俺は……」
「心配するな。二ヵ月後にかならず戻ってくる」
「簡単やないやろ……」
「簡単じゃないさ。でも、がんばるしかないんだ」
 本間や足立の楽しげな、のんびりした声が聞こえてきた。
「おまえがおらんと、宮中はもう終わりやで」
「だからがんばるんだよ。腕を振り下ろした感じなんだけど、なんだか左より右の肩のほうが強そうなんだ」
「左よりか! すげえな。左より強いてどんなもんか、見てみたいわ」
「うん、楽しみにしててよ。四番は、本間さん打ってるの?」
「おお、神無月が戻ってくるまでの留守番や言っとる。本間さん、フォーム改造したで。近鉄の土井みたいな格好になった」
「円月殺法か」
「おお、けっこう鋭い当たりを飛ばしとる」
「右投げのこと、みんなに内緒にしといてね」  
「あたりまえだのクラッカー。だれにも言わん。はよ戻ってこい。そのとき、びっくりさせたれ」
「うん、毎日ランニングだけには参加するよ。じゃあね」
 堀川端の道を帰っていくとき、またテニス部にいき当たった。今度は雅江が気づき、笑って手を振った。私も振り返した。通り過ぎるとき、気がかりなふうに三角巾を見た。雅江は手術のことを知らないのだろうか。
「ノーダン満塁、それチャンス、大きなホームラン かっとばせ……」
 歩きながら、横浜の福原さんの家で観た『ホームラン教室』の主題歌がふと口をついて出た。歌詞に、野球に打ちこんでいる者だけの胸に響いてくる何ともいえない郷愁があって、私は口ずさみながら、この歌がそのまま自分の人生になってほしい気がした。         



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