四十

 私はホンザンに話しかけた。
「あれ、すごい机だね」
 自分のスチール机を思い浮かべながら、一枚板の机を指差し、
「あんなにいい机なら勉強のしがいがあるし、たこ焼きと同じくらい名人になれるのに。……参考書がほとんどピカピカじゃないか。勉強してないんだね」
「この机、豪勢やなあ」
 実力テストの成績がいつも十本指に入っている御手洗が立っていき、椅子にでんと座ると、団扇がわりにセルロイドの下敷きで顔をあおいだ。細い目が参考書をキョロキョロ見ている。
「きついなあ、神無月くんの言うことは。……ぼくは、禰宜(ねぎ)神官の家に生まれたから、義務教育なんてもともと必要ないんよ。どうせ中学を出たら神宮学院に進んで、ちょっと神道を学んだあと、父さんの跡を継いで、禰宜(ねぎ)官か祝(はふり)官になるだけやが。祭主や宮司(くうじ)みたいな顕職には、よほどのことがないとつけえへん」
 ホンザンのわけのわからない話をだれも聞いていない。仕方なく私は尋いた。
「ケンショクって、何?」
「最高の神職。長官。神主になる人間なんか、学校の勉強なんかやる必要あれせん。ほしけりゃ、あの参考書、やるで」
「俺にくれ」
 と御手洗が言った。
「ええよ」
「やめときなよ。本山くんは勉強する気で買ったんだから」
 と私は止めた。いいにおいがしはじめた。ホンザンは柄のついた鉄串で穴の境目を丁寧に切り分けながら、薄皮を畳んで中に入れ、やがてきれいに丸くなったかたまりをコロコロと何度もひっくり返した。
「親が買ってくれただけやが。ほんとに、やるで」
「卒業するまでは、とっておきなって。もったいない。役に立たない勉強だって、楽しんでやれば、けっこう気晴らしになると思うよ」
 陽気な部員たちもさすがに待ちくたびれ、無口になっている。
「もうええて、神無月。食おうぜ」
 デブシは割箸でたこ焼きをつまんで自分の皿に取り、ソースとマヨネーズをかけた。みんないっせいに箸を手にした。
「ちょっと待って」
 ホンザンは立ち上がり、台所の水屋の抽斗から青海苔の小瓶を持ってきた。
「お好みでどうぞ」
 だれもそれを振りかける者がなかったので、私は皿に取った三つほどのたこ焼きにまんべんなくかけた。熱くて舌が痛かったけれど、うまいと感じた。
「おいしいよ、本山くん!」
 ホンザンはうれしそうだった。彼は焼き上がったたこ焼きにいっさい手をつけず、残りの粉を懸命に溶き回し、
「今度は干しエビも入れるからね」
 とはしゃいだ。六人の野球部員は、次から次と焼きあがるたこ焼きを、アチチ、アチチと言いながら、すっかり平らげた。
「食った、食った!」
 デブシも大島も手を畳に突いてふんぞり返り、ふうふうやっている。ときおり窓から入りこんでくる風が、たまらなく快適だ。ホンザンは火箸で炭を灰に埋めながら、
「ね、神無月くん、神さまって、どう思う?」
 と訊いた。部員たちがそわそわ帰りたそうにする。
「神さま?」
 私は考えたこともないことを懸命に考えようとした。
「さあ、そんなものいないんじゃないのかな」
「そう、石とか、木とか、電車とか、建物みたいに、目に見える形ではおらんよね。ほんなら、目に見えん形でおる神さまって、何や」
「だから、目に見えない形でもいないんだよ。神主さんの子に、こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど」
「怒れせん」
「神さまって、自分に自信のない人が、自分より大切に思うために作りあげた、心のよりどころ、幻のお守りみたいなものじゃないのかな。でも、いつも勇敢に、しっかり自分というものを見つめている人は、神さまなんてものを考えたことがない。自分の感じることは自分だけのものだ、って信じてる人はね。そういう人は自分の中で大事にしてるものとか、自分に感動を与えるもの、たとえば風に揺れる木の葉とか、雨上がりの空気のにおいとか、海とか、空とか、好きな人とか、好きな本とか、好きな音楽とか。それだけが自分にとって確かなものだと思うんじゃないかな。そういうものだけが、自分にとって大事なんだって」
 関が聞き耳を立てている。私の正直な言葉はホンザンの心の絃を強くはじき、たちまち胸の中に快適な共鳴を引き起こしたようだった。
「その大事なものが、神無月くんの言う〈神さま〉ということやね」
「うーん、名前をつけるなら、〈神さま〉じゃなく、〈恋人〉のような気がするけど」
 ホンザンはにっこり微笑み、
「恋人か。なるほどね。恋人なら大事なものだ。……世間で言う神さまは、ぼくにとっても、神無月くんと同じように、ぜんぜん大事でないものなんや。この世界がどうやって創られたかという宗教上の問題も、ダーウィン流の進化論的な問題も、ぼくには何の関わりもない。そんなもの、ぼくの目から見れば単なる頭の中の遊びやね。神信心(しんじん)も、科学も、どっちもぼくは関心あれせん。みんな不幸が怖いんで、神さまという正体のないものにすがって、幸福になろうとしとる。不幸の中で最大のものは、死、やね。勇気を持って、と言うより愉快な気持ちで、いつも、現実の不幸も死も直視せんといかんのに。とにかく、話せてよかった。神無月くんはぼくの思ったとおりの人やった。なんだかすっきりしたわ」
 ホンザンは、私とのいっときの会話の中でうまく使えた自分のいろいろな言葉のコレクションに、何とも言ない満足を覚えているようだった。
 ホンザン自身にしてみれば、私との短い会話は、ふだんの思索より深みのない、なんだかもの足りない一面的なものだったろうし、洗いざらい自分の胸の内をさらけだしたわけでもなかったと思うけれど、神さまの定義に彼の気持ちに合った解釈を私が口にしたことで、ニヒルな物思いが少しばかり和らぐ効果はあったようだった。
 私からすれば―ホンザンは単純に、がんじがらめにされている自分の将来のことで悩んでいるだけなのだと感じた。私は彼のことを、本に書いてあるような言葉を使う理屈屋だと思ったし、友情や、名誉のための努力や、生きていることが連れてくる感動や、そればかりでなく、彼の家業である神さまにも、ダーウィンとかいうどこかの人の学問にも、とにかくあらゆるものに、死というだれにでもやってくる宿命を優越させて、ひんやり納得する程度の頭の持ち主だと感じた。
 だいたい死なんてものは、恐れて忘れようとするものではなく、覚悟して受け入れるものじゃないだろうか。死は生きる精力を削ぐためにあるのではなく、死があるからこそ懸命に生きようとする人びとを鼓舞するためにあるのだ。死の恐怖も宿命も、神さまにすがって遠ざけるものではなくて、自分だけの心に素直に受け入れるものだ。
 好意的に見れば、ホンザンは知恵がありそうで、考えもスジがとおっている感じがするし、そのまじめな表情のおかげで、いつも何かを熱心に考えているふうな、好ましいタイプの男にも見えるけれど、私にとってこういう理屈の濃い人間の言葉はあてにならないのだった。ただ私は、自分がいつも気にしている暗い性欲の香りが、彼から少しもにおってこないのをうらやましく思った。
「……本山くんの言うことは難しすぎる。どうぼくを見こんでそんな質問をしたのかわからないけど、ぼくの頭じゃさっぱりわからない。きみにふつうの勉強なんか必要ないってことが、よくわかったよ」
「わけのわからんことをしゃべり合っとるなや。帰るぞ」 
 デブシがうんざりした顔で仲間たちを促した。みんな待ってましたとばかりストッキングを穿いて、どやどやと立ち上がる。関も名残惜しそうに腰を上げた。
「神無月、俺たちはいくぞ」
 私に笑ってうなずきかける。
「ちょっと待てよ。いっしょに帰るから。じゃ、本山くん、ごちそうさま。たこ焼きおいしかったよ」
 そう言って私も腰を上げた。ホンザンは私に並んで西門まで送って出た。耳もとに言う。
「神無月くん以外のやつらはガキやね。運動とか勉強とか、すぐに魅力がなくなることばかりに関心を向けとって、もっと大事な、精神的な内容を持ったものは、どうでもええと思っとるみたいやが。それに、食べるだけ食べといて、神無月くんみたいに、おいしかったもなければ、ごちそうさまもない。礼儀知らずや」
「もともときみが誘ったんじゃないか。お礼なんか期待しちゃだめだ」
「うん、言うとおりだ。じゃ、また遊びにきてね」
 早足で戻っていった。関が寄ってきた。
「神無月は頭ええなあ。神主さんの言うことはようわからんかったけど、おまえの言うことはシッカリわかったわ」
 学園ソングをきらいなはずの大島が、アスファルトの道に射してきた夕日を見て唄いだした。

  赤い夕日が 校舎をそめて
  ニレの木陰に 弾む声
  ああ 高校三年生
  ぼくら 離れ離れになろうとも
  クラス仲間は いつまでも

 また一番を唄いはじめる。私も唄いたくなって声を合わせた。あっというまに大合唱になった。
         †
 今年の夏は、埼玉にいかなかった。サイドさんとの約束を破ってしまった。いまの宮中のチーム力から考えて、十中八九決勝まで進める気がしていたし、自分のバッティングにも、右投げの肩にも、揺るぎない自信がついたからだ。勉強の本を開くよりは、毎日欠かさずボールを追いかけていたかった。なぜか自分にとって、いまそうしなければいけないような、差し迫った気がしていた。
 サイドさんに断りの手紙を書いた。

 冬休みに伺ったときにはお知らせしませんでしたが、実は去年の初夏に肘の手術をしたのです。手術から一年、すっかり右投げを完成させました。それというのも、手術がうまくいかなくて、左利きのぼくが左で投げられなくなってしまったからです。かなり苦労して、右投げを習得しました。完成してみると、右の肩は左よりも強い肩でした。みんな奇跡だと言っています。ぼくもそう思います。
 その右腕で毎日野球に打ちこんでいます。トーナメントのすべりだしは好調で、この分だと、たぶん準決勝か決勝までいけるでしょう。だから、今年の夏は、埼玉へいけません。でもだいじょうぶです。野球ばかりでなく、勉強もしっかりやっているのでご安心ください。おじさんのおかげで、英語はずっと校内で一番です。総合成績も全校の三本指を外しません。来年の夏は、高校受験の年でもあるので、かならずおじゃましようと思っています。椙子おばさんや善郎、寛紀によろしく。

 サイドさんから、すぐ、心ばえの利いたハガキがきた。

 手術のことは母ちゃんから聞いていましたが、右投げに変えたことは初めて知りました。大したものだと思います。だれでもできることじゃない。何をするにせよ、十代の前半は大切な時期だと、おじさんもよくわかります。がんばって! 
 ところで、もの忘れが早いのは人の世の常です。英語の勉強はもちろん、おじさんのことも忘れないようにしてください。いつでも再訪を待っています。不一。

 夏休みに入ってすぐ、西高蔵の沢上中と予選四回戦が行なわれた。もちろん和田先生が最初に決めた新メンバーで臨んだ。一試合だけでレギュラーを外された三年生の大半が、受験勉強を理由に参加しなかった。和田先生の予想したとおり、二回戦の今池中と、三回戦の前津中には、コールドまではいかなかったけれども、大差で勝った。私はすでに一試合に一本ずつ、三本のホームランを打っている。
 西高蔵町は宮中から歩いても三十分ぐらいのところにある。飯場に帰り着くぐらいの距離だ。和田先生に先導されて歩いていく。背番号のない洗濯したてのユニフォームが肩に軽い。スパイクがアスファルトにいい音を立てる。
 ふと私は、このあたりに高橋弓子の通う高蔵中があるんだなと思った。カズちゃんに女のからだの詳しい秘密を教えてもらったいまとなっては、あんな道徳女に入れこんだことが信じられなかった。あそこを見たくなったり、触れたくなったりするような気持ちこそ、何か深い、人間の愛情の本質に基づくことだと、このごろ思うようになった。愛情というのはそういうものなのかもしれないと感じることに、違和感はなかった。
 そういえば、高島台の京子ちゃんのときは、嫌悪感だけがあった。リサちゃんや杉山啓子や加藤雅江や清水明子や山本法子にも心は動いたけれども、あそこを見たいとは思わなかった。ありがみちこや本部陽子や錦律子や甲斐和子たちにいたっては、あそこがあることすら思いつきもしなかった。それなのに、カズちゃんの股間のものを見て、指先で触りたくなり、そうして触ったときは、あのけいこちゃんのときと同じくらい、清潔な、舞い上がるような気持ちになった。ひょっとしたら私は、けいこちゃんと同じくらいカズちゃんのことが好きなのだろうか? きっとそうだ、まちがいない。
「先生、きょうの試合は、熱田球場でやるんですよね」
 御手洗が息を弾ませた。沢上中が熱田球場のすぐそばにあるせいで、そこで試合ができるかもしれないと期待に胸をふくらませているのだ。
「まだ予選だろ。熱田球場でやるのは市大会の決勝戦だ」
 みんないっせいに笑った。デブシが言う。
「まず、準決勝までいくことが先決やが。そこまでいかんことには、話にならんで」
 ほうや、とキャプテンの本間があとを受けた。
「神無月が打てば、ぜったい決勝までいける。ただ、神無月が打てんときに、ほかのやつらが打てるかどうかが問題や。どうのこうの言っても、野球は結局打って勝つしかあれせんからな。ピッチャーが完全試合をしたって、味方が点を取らんと勝てん」
 ピッチャーの崎山と今を見て、和田先生は、
「腕を強く振って、なるべく速いボールを投げるようにしてくれ。中学生程度のカーブとかシュートなんかは、そこそこ当てられてしまう。速球は真中でも空振りが取れる」
 崎山がうなだれた。彼は地肩が弱いので速球はきつい。和田先生が笑って言った。
「コントロールがよければ、見逃しの三振が取れる。速くてもノーコンだと、フォアボールの山だ。な、今」
「はい……」
 声をかけてもらえない野津が顔を赤くしている。それを見てデブシが、
「野津、おまえは速球に磨きをかけろ。あのくらい速けりゃ、少々ノーコンでもええわ」
「はい!」
 野津はうれしそうに左肩を回した。


         四十一

「先生、県大会の決勝は中日球場ですよね」
 関が気の早いことを言う。
「ああ、県大会はな」
「市大会は熱田球場か。どっちでもええから、やってみたいがや」
 大島が大声で言うと、みんなの顔に希望に満ちた笑いがみなぎった。
 沢上中のグランドは、宮中よりも一回り小さかった。左翼の後方に鉄筋の三階建て校舎がそびえ、一塁側ベンチの後方から大きな体育館が白線に沿って右翼へ伸びている。右と左を背の高い建物に囲まれ、まるで箱の中に閉じこめられているようだ。ライトの背後に三メートルほどの高さの金網があり、その向こうにプールが見える。
「ライト側は、金網を直接越えた場合に、ホームランとします」
 体育教師らしい青年が言う。金網までは七十メートルぐらいだろう。金網を越せば八十メートル飛んだ計算か。片手ですくい上げてもすぐに入る。私はホームランの軌道を思い描くことができた。レフトは七十五メートルほどのところに三階建て校舎が壁を作り、一階と二階のあいだの壁に黄色いテープでホームランラインが引かれている。こちらもテープの上に当たれば八十メートル見当だろう。
 沢上中の監督が試合前のベンチに挨拶にきた。和田先生に深々と頭を下げる。見覚えのある顔なので、あらためて見直すと、去年まで体育を受け持っていた東条先生だった。
「おお、東条さん、あんたが顧問でしたか。どうですか、こちらには慣れましたか」
 東条先生は色白の顔をくしゃくしゃにして笑った。中学に入りたてのころ、体育の授業中に彼に褒められた記憶があった。東条先生がみんなを整列させ、初めて点呼をとったときのことだ。
「指先から足の先まで、ピンと神経が張っていて、じつにヨロシイ。見ているだけで、すがすがしい」
 ピシっと気をつけの姿勢をとっている私の肩を叩いた東条先生の右手には、人差し指がなかった。酒井棟の後藤さんは三本も指がないので、かえって滑稽な感じさえするけれども、きりりとした東条先生の手に一本だけ指がないのは不気味な感じがした。
「異動といっても目と鼻の先ですから。もともとこの近辺に住んでましたので、引越しする必要もありませんでしたよ」
「宮中では、バスケの顧問でしたな」
「ええ。私はもともと陸上ですから、こっちでも門外漢の野球をやらされることになりました。加賀美は活躍してますか。一年生なのに、バスケット部のエースでしたからね」
「あいにく加賀美のことは……。たしか、神宮の西門前の石材店の息子だったとしか」
「そうそう、加賀美石材店です」
 私は東条先生に言った。
「加賀美くんは、バスケ部の主将になったって聞きました。バスケだけでなく、鉄棒もすごくて、一年のときから大車輪ができるのは彼だけでした」
 新入生の学級委員投票のとき、加賀美幸雄と清水明子に投票したのをきのうのことのように思い出した。東条先生はうれしそうに、
「そうか、加賀美が主将になったか。そりゃあよかった。喘息持ちの、からだの弱い生徒でね。気になってたんだ」
 私は、加賀美の喉の星型のケロイドを思い浮かべた。
「小さいころ、ここに管(くだ)を突っこんで息したんだ」
 いつだったか加賀美がさわやかな顔で言っていた。あのときは何のことやらわからず気にも留めなかったけど、喘息だったのか。咳こんで呼吸ができなくなったとき、チューブで空気を入れたんだな。それで命が助かって、生きていることがありがたくて、加賀美はすばらしいスポーツ選手になろうとしたんだ。もちろん、抜群の運動神経を持っていたから、それができたんだろうけど。
「神無月くんみたいな選手のいるチームに勝つには、ピッチャーがよほど強力でないと。しかし、そのへんはしっかり準備したつもりです。どうぞお手柔らかに」
「こちらこそ」
 東条先生は頭を下げ、一塁側のベンチに去っていった。
「ほう、左ピッチャーできたか。金太郎対策だな。効果なしだろう。神無月は左を苦にせんからな。じゃ、こっちも……。おい、野津、いってみろ」
 相手ブルペンの様子を窺っていた和田先生は、何を思ったか一年生の野津に先発を命じた。デブシがびっくりした顔で、
「先生、また病気出したらあかんが。これからこつこつ勝ち抜いていかんといかん公式戦ですよ。消化試合じゃないんです。野津じゃ、まだ危ないと思いますけど。トーナメントやから、負けたら終わっちゃいます―」
「ちゃんと調べてあるんだよ」
 沢上中は左バッターを五人も並べているから、と言うのだ。ここの校庭は右翼のほうが短いので、左バッターにホームランを打たれたら大変だということだろう。
「七、八十メートルも飛ばせるのは何人もいないだろうが。ま、うまいこと野津が左の主力を抑えてくれれば、ボロ勝ちできるかもしれんぞ。レフトの後ろや左中間に飛ぶと長打になるから、金太郎、本間、それだけを頭に置いて守れ」
「はい!」
 試合は和田先生の思惑どおりになった。野津のノーコンが幸いして、沢上の左バッターはことごとく高めの速球や低目のボール球を空振りした。たまにど真ん中にきても、びっくりしてボテボテのゴロしか打てなかった。
 宮中の左バッターは私だけだったので、沢上中がわざわざ左ピッチャーを当ててきたのは効率が悪かった。おまけに、和田先生の言うとおり、私は左ピッチャーを苦手にしないのだ。おかげで右バッターは、デブシのスリーランホームランを含めて打ちに打ち、十四対一で五回コールド勝ちした。私は五打数四安打、フォアボール一つ、ホームラン二本という好成績だった。ホームランボールの飛距離は金網越えどころでなく、二本ともプールの向こうの生垣を越えていった。沢上中の入れた一点にしても、野津がフォアボールと内野安打で出した満塁のランナーを、デッドボールで押し出したものだった。今年が最後の本間は、レフトの黄色いテープの下にライナーで打ち当てたけれども、惜しくもホームランにはならなかった。
「完敗です」
 と言う東条先生と、和田先生は固い握手をした。
 帰り道、本間が和田先生に言った。
「先生、俺、もう受験勉強に入ってもいいんやないの。こいつらみんな、スゴイわ。とくに神無月と中村は、宮中始まって以来の最強コンビやな」 
「何言っとる。おまえが抜けたら、クリーンナップが崩れてガタガタになる。きょう圧勝できたのも、おまえが二塁打、三塁打でしっかりつないだせいだぞ。最終戦までがんばってくれよ」
「わかりました。でも、来年は、もう一人ぐらい左バッターを見つけたほうがいいと思います。一年の雪野ってやつ、けっこういいセンスしてるんじゃないんですか。あれに七番か八番を打たして、中村は三番にもっていったらどうですかね」
 雪野という名前を初めて聞いた。そういえばこの春に入部してきた小柄の左バッターが一、二度、バッティング練習をするのを見かけたことがあったけれども、本間の言うほどセンスがいいとは思わなかった。足が速いわけでもないのに、シュアなバッティングを気取ってチョコチョコ当てるだけで、内野がエラーでもしないかぎり出塁の見こみはなかった。
「なるほど、雪野ねえ」
 和田先生もあまり気乗りしない顔をしていた。本間も、左が貴重品なので、ふと目に留まった選手を、キャプテンらしく勧めてみただけのことだろう。
「あれ、先生も本間さんも知らんですか。雪野はこのあいだ辞めましたよ。一年のくせに勉強が忙しいから日曜日までは出てられない、って」
 デブシが言った。本間は、
「なんだ、通行人か」
 と苦笑して頭を掻いた。
「俺は神無月にゼンプクの信頼を寄せている。神無月がいるあいだは、左はいらん。いなくなったら考える」
「たしかにそうですね」
 本間が空を見上げてやさしい目をした。
         †
 灼熱の太陽に焼かれながら、四週つづけて日曜日ごとの試合をこなしていった。中村区の笹島中学校との五回戦(四対一)、天白区の平針中学校との六回戦(七対三)は、無難に勝ち進み、そしてきょう、昭和区の強豪北山中学校との準決勝を迎えた。
 きょうからは、背番号をきちんとつけ、九回表裏を戦うことになる。これに勝てば、すでに決勝進出を決めている同じ熱田区の日比野中学との決戦だ。みんなの願いどおり、目と鼻の先の熱田球場で試合ができるのだ。
 ここまでの六試合で、私は七本のホームランを打っていた。名古屋市の中学生記録は九本。決勝までいけるとして、あと二試合で三本打てば新記録になる。しかも、二年生のうちに達成することになるのだ。ぎりぎり間に合いそうな気がした。私をいたずらに緊張させないよう、和田先生はじめ、本間もデブシも関も、だれ一人としてそのことを口に出さなかった。
 レギュラー十一人、補欠五人、白鳥橋から名古屋駅まで市電に揺られていき、国鉄に乗り換えて鶴舞公園駅に向かった。縫いつけたり、フックで留めたりした背番号が、レギュラーの背中でピカピカ輝いている。
「かっこええな、背番号。やっぱり本間先輩の3がいちばんええわ。次は、関の1番やな」
 おしゃべりな大島のほかは、みんな沈黙している。
 鶴舞公園駅の改札を出るとすぐに、崎山が先発を言い渡された。目が充血していた。眠れなかったのだろう。私も同じだった。夜中に何度も目を覚ましては、玄関から庭に出て、笹の茂みに立小便をした。そのたびにシロが、ウホッ、と声をかけた。
 駅の出口に接するように、鶴舞公園の門が開いている。この駅は路面電車の分岐点になっているので、何本も細く光るレールの上を、宣伝文句を横腹に書きつけた玩具のような市電が右往左往していた。スパイクを鳴らして公園の緑の中へ入っていく。油蝉がしきりに鳴いている。
「むかしこの敷地内に鳴海(なるみ)球場というアマチュア用の球場があってな、昭和の初期に日本で最初のプロ野球の試合が行なわれた。いまその跡地は、自動車教習所になっとる」
「どことどこがやったんですか」
 めずらしく内気な高須が尋くと、
「名古屋金鯱(しゃち)と東京巨人。三連戦の初戦は、金鯱があの沢村栄治を打ちこんで、十対三で勝った。二戦、三戦は巨人が勝った」
 デブシが、
「へえ、もし鳴海球場が残ってたら、きょうの試合もそこでやったかもしれんがや」
「そうだな。鳴海球場は両翼百六メートル、センター百三十二メートルのバカでかい球場だったが、ちゃんと九十一メートルラインにラッキーゾーンがあった。年に五、六試合しかやらない地方球場だったんで、中日球場ができたあとはほとんど使われなくなってしまった。それからも細々と生き延びていたんだが、つい五年ほど前、完全に閉鎖された」
「よう知っとるなあ、先生」
 大島が感嘆した。
「俺は小学校も中学校も鶴舞だ。ここが地元でな。そういう話は、小さいころから何度も聞かされて、耳にタコができとる」
 緑したたる公園の中を、一路北山中学校へ向かう。スパイクが鳴る。和田先生はときどき足を止めて、
「名所の竜ヶ池や」
 とか、
「あれ見ろ、八幡山古墳だ」
 などと、さかんに指を差すけれど、だれも見ようとしない。
「あのテニスコートの裏は、名大の医学部。俺も名大を目指したが、スコンと振られて愛教大へいった。このあたりの地理は手のひらを指すごとくだ。何でも聞いてくれ」
 先生の思い出話や公園の設備の配置などに、だれも興味を持たない。それどころではないのだ。きょう勝たなければ、熱田球場はない。
「おい、おい、なに緊張しとるんだ。せっかく俺がリラックスさせたろうとしとるのに。もっとゆったり構えろ。俺はここまでこられただけでも、上出来だと思ってるんだぞ。ここ数年の宮中の成績を考えたら、準決勝までこぎつけられたのは、まぐれ以上のできだ」
「でも先生、目標は優勝だと言ったじゃないですか」
 デブシが噛みついた。
「あたりまえだ。どんな勝負ごとも、目標は優勝にきまってるだろ。とにかく、ゆったりとした気持ちで、全力を尽くす。ふだんの練習の成果を、試合で確かめる。じつにうれしいことじゃないか。世間じゃ、三池争議やら、釜ヶ崎暴動やら、きびしい現実にヒーヒー泣いとるときに、何の心配もなく野球を楽しめる幸せを思うと、ほんとに涙がチョチョ切れるよ」
 ミイケとかカマガサキとか、何のことやらだれもわからないし、わかったところで聞く耳はない。そんな耳を持っているのは直井整四郎ぐらいだ。
「きょうは作戦なし。何の指図もせんから、自由にやってくれ。打ち勝つんだろ、キャプテン」
 本間に向かって含み笑いをする。みんな先生につられて愉快な気分になってきた。
「はい!」
 和田先生はヨシとうなずき、
「夏がきたかよ、宮中のお庭には、ドンブリバチャ、浮いた、浮いた、ステテコシャンシャン、と」
 鼻歌をうそぶく。御手洗が、
「それ、岡田先生も唄っとった!」
「岡田さんから教えてもらったんだよ」
 北山中学校は、公園から外れた商業地区の中ほどにあって、平たい校舎に囲まれた広いグランドには、一面に柔らかそうな土が敷かれていた。ライトの後方は鉄筋校舎からつづく渡り廊下が通っているきりで、そこまでは優に九十メートルはあった。センターには体育館、レフトの背後には金網越しに大きなテニスコートが広がっている。その金網までやはり九十メートルほどある。
「ホームランの決めはどうなってますか」
 私はいつものとおり、主審に尋いた。
「え、ホームラン?」
 和田先生がニヤニヤしている。私にとって常に関心事はそれだけなのだ。主審は北山中の教師ではなかった。彼に呼ばれた体操教師らしい塁審が走ってきて、
「ホームランですか? 左翼はテニスコートに飛びこめばOKです。右翼は渡り廊下の屋根をノーバウンドで越えた場合、センター方向は、校舎か体育館の一部にノーバウンドで当たればホームランとします。……しかし、ランニングホームランは別にして、ここではまずホームランは出ませんよ」
「そうかなあ―」
 と私が首をひねると、デブシが、
「俺も一発いくぜ!」
 と張り切った声をあげ、遠くテニスコートを眺めた。


         四十二

 本間がジャンケンに勝って先攻を取った。ガッツポーズが上がる。これでいつもどおりだ。北山中のピッチャーは下手投げで、大してスピードがなかった。アンダースローには去年の与野のボールで慣れていたから、簡単に打ち崩せるとみんな思った。
「与野さんより遅いで。あれなら、ソフトボールを打つみたいなもんやろ」
「神無月の全打席全ホームランが見れるかもな」
 そうは問屋がおろさなかった。低いところから浮き上がってくる球が、膝もとでナチュラルにシュートしたり、外角へひょろりとカーブしたり、胸のあたりから地面すれすれに落ちたりするので、みんなきりきり舞いすることになった。
「なんだ、あれ。中学生のくせに、魔球か?」
 二回に関がフォアボールを選び、三回にデブシ、御手洗がそれぞれボテボテのヒットを打ったきりで、あとは五回まで全員凡打を繰り返した。私も二打席つづけて打ちそこないのセカンドゴロだった。
 崎山はいつものコントロール重視で、のらりくらりと抑えるつもりだったのが、早くも二回に、四番から七番まで、シングル、二塁打、シングル、三塁打、と四連打を食らって三点を失った。和田先生はあわてて今にスイッチした。するとおもしろいことに、いつもは全力投球の今が、カーブ主体の意外な軟投で後続を内野ゴロに切って取り、そのあとのイニングは得意の速球をびしびし決めて、なんと五回までパーフェクトに抑えた。
 六回表の宮中の攻撃は六番からだった。変則の球筋にようやく慣れてきた大島がしぶとくフォアボールを選んだのを皮切りに、高田の一塁線を抜く三塁打で一点を返し、御手洗のレフト前ヒットで二点目、ピッチャーの今までが一、二塁間のイレギュラー安打でつづき、関のセンター犠牲フライで御手洗が帰ってさらに一点返した。あっという間に同点になった。これで打線が調子に乗った。高須のセカンドゴロで今が三塁へ進み、本間のライト前ポテンヒットでついに逆転した。さらに私、デブシと、シングルヒットを打って打順が一巡し、合計七点をもぎ取った。七対三。
 九回の表、先頭打者の御手洗はショートゴロに凡退したが、今がピッチャー強襲の内野安打で一塁に出ると、とうとう北山中は左のオーバースローに交代した。速い。ベンチから見るかぎり、野津以上のスピードだ。しかし、このくらいの速球のほうがコースを見定めて打ちやすい。
「こうなったら、コールド、いったれ!」
 和田先生が叫ぶ。準決勝からはコールドの規定がないことを忘れているのだ。私はおかしくなって、くすくす笑った。とたんに、関がサードの頭を越える二塁打を打った。ワンアウト二塁、三塁。
「高須! フライを打て、フライだ!」
 ベンチから和田先生が大声で叫ぶ。いいアドバイスだ。犠牲フライを打つつもりで楽に振れば、当たりどころがいいと長打になる。高須は低目の球を思い切りすくい上げた。浅いセンターフライになった。
「なに力んでるんだ! 犠牲フライも打てんのか」
 和田先生の贅沢な愚痴が聞こえてきた。ランナー動けずツーアウト。内気な高須はうなだれてベンチに帰ってきた。本間が何か考えごとをするような表情でバッターボックスに入った。一球目、ど真ん中のストライクを見逃す。
「それにしても、芸がないな。何球もつづけて真中にストレートを投げてきやがる。変化球は一つもないぞ。本間ァ、でっかいの頼むわ!」
 和田先生がテニスコートを指差して叫んだ。本間は先生を見てニッコリ笑ったかと思うと、なんとサード前にセーフティバントを敢行した。サードはびっくりして一歩も動けない。三塁から今が生還して、八点目。これで五点差になった。ツーアウト一塁、三塁。何点取っても野球に安心はない。私はバッターボックスに近づきながら、ちらりとライトの渡り廊下を見た。
 ―内角、低目。内角、低目。
「いけ、金太郎! 一発決めろ!」
 和田先生の叫びに重なって、金太郎! 金太郎! という仲間の声がいくつも重なって聞こえた。
「金太郎さん、ホームラン! 金太郎さん、ホームラン!」
 北山ベンチに奇妙な緊張が走った。もう勝ち目はないという意味ばかりでなく、私のホームランをぜひ見てみたいという期待から固唾を呑んで見守る雰囲気だった。私はどうしてもホームランを打って見せたくなった。
 初球だ。何が何でも、初球をひっぱたく。少々外角でも、高くても、とにかくひっぱたく。直球だけのピッチャーはたいてい暴投を怖がる。だからど真ん中に投げてくる。ぜったい初球からストライクを取りにくる。
 ―打ち損じませんように!
 キャッチャーがホームベース前に出て、外野にバックするよう指示した。ピッチャーが振りかぶり、投げ下ろす。思ったとおり、ストレートがきた。低くはないけれども、外角の打ちごろの高さだ。しっかりと手首を利かせて叩いた。
「いったァ!」
 味方ベンチが沸き上がった。右中間にライナーがぐんぐん伸びていく。あっという間に打球は鉄筋校舎の二階の窓ガラスを突き破った。
 ―よし、これで八号。
 ホームベースにチーム全員が出迎える。金太郎さん、金太郎さん、と言いながら抱きついてくる。デブシが、どんなもんだというふうに敵のベンチを睨みつけ、和田先生と本間は小躍りしながら握手し合っていた。
 九回裏、今は三者三振に抑えて、十一対三で勝った。ホームベースに集合。礼。何人かの敵選手がまぶしそうな目つきで私に握手を求めた。北山中の監督がベンチに走って挨拶にきた。
「完敗でした。しかし、神無月くんは聞きしに勝るスラッガーですね。バッティングはもちろんのこと、守備もすばらしい。すごい肩だ。全国中学生ナンバーワンじゃないですかね」
 私は肩を褒められたことが何よりうれしかった。これで完全復帰したと思った。服部先生は満面の笑みで、
「ありがとうございます。神無月はじめ、将来有望な選手が何人かいます。見ているだけで楽しいですよ」
「ぜひ優勝してください」
「はあ、なんとかこのチャンスを生かすよう、がんばります」
 みんなで宮中まで意気揚々と引き揚げる。いよいよ決勝だ。
「あと二本やね、新記録まで」
 関が言う。本間が寄ってきて、
「おまえが入ってきた去年の春は、俺、天狗になってたころでな。最初のフリーバッティングで度肝抜かれたわ。ええもの見させてもらった二年間やった。野球やってて、こんなに楽しかったことないわ。ありがとう。ぜったい記録作れよ」
「はい」
 がやがやしゃべり合っているデブシたちの話題は、もっぱら熱田球場の広さについてだった。和田先生の情報によると、両翼九十二メートル、センター百十六メートル。とんでもなく広い。ラッキーゾーンは設置しないとのこと。外野のあいだを抜かれたら、まちがいなく三塁打かランニングホームランになる。センター本間との左中間の守りを万全にしなくてはいけない。
「本間さん、左中間のフライはぜったい声を出してください」
「オーライ! ライナーで抜かれたら、どっちが中継に立つ?」
「先輩です。いっしょに追っかけちゃったときはしょうがないけど、そうでないかぎりぼくが塀まで追っかけます。直接バックホームすることがあるかもしれないから」
「わかった。おい、高田、右中間はどうする」
「本間さんのほうが肩いいから、俺が中継に入るわ」
「了解」
 スカウトが他県からも何人もネット裏にくるだろうという御手洗の予想だった。あの押美さんもその中にいるだろうか。いいところを見せたい。できれば新記録を―彼がきてくれたら、今度こそ母も折れるかもしれない。
 宮中の正門を入ると、和田先生がみんなの士気を確かめるように大声で言った。
「ひと練習していくぞ!」
「オー!」
 全員の声が上がった。
         †
 八月二十五日。最終日曜日。一晩降りつづいたしとしと雨が明け方にやんだ。ラジオからまた坂本九のスキヤキが流れている。曲に合わせて歯笛を吹く。歯笛を吹くたびに、鶴乃湯の柴山くんを思い出す。母は休みで寝ている。
 背番号8のユニフォームに身を固め、グローブを差したタイガーバットを肩に担いで食堂へいく。社員のいない食堂で、日曜出勤のカズちゃんが作った目玉焼きとアジの開きでどんぶり一膳のめしを食う。彼女は日曜には夕食を作るだけでいいことになっている。昼間に出てきたのは、私にめしを食わせるためだ。
「はい、これも」
 差し入れの牛乳を一本飲む。
「きょうは決勝なんだ。熱田球場」
「がんばってね」
「うん。あのスカウトが、またくるかもしれない」
「ぜったいくるわよ。今度こそ、お母さんも降参ね」
「だといいんだけど」
 カズちゃんが頬にキスをする。柔らかい唇だ。外国映画のようだ。
「ケガに気をつけて」
「うん」
 見送られて表に出る。バットを担ぎ、カズちゃんに手を振る。
 まだ道のところどころに水溜まりが残り、遠くの空に明るい雲がかかっている。雲のへりが金色に輝いているのは、陽射しが強まってくる証拠だ。私はわざと水溜まりをスパイクで踏んだ。ついに日比野中学との決勝戦だ。熱田区内の中学校同士で優勝を争うのは数十年ぶりのことだと和田先生が言っていた。熱田球場―きょうは、二本打ちたい。記録を塗り替えたい。また楠木の下で加藤雅江に遇った。彼女はあらかじめ玄関に出て、私を待ちかまえていた。
「がんばって。決勝戦やね。ホームラン記録もかかってるんでしょ?」
 何でも知っている。善良そうな目―いつも悲しそうな、そしてがまん強い目。
「うん。二本打たないといけないから、難しいかもしれない」
「きっと打てるわよ。ちょっと、後ろ向いて」
 雅江に背を向ける。
「わあ、背番号8、かっこいい!」
「……交換日記、さぼってゴメン」
 私は背中のまま言った。
「いいの、いいの、それどころやないでしょう。はい、こっち向いて。これなめて元気出して」
 大きなザラメの飴玉だった。私の手のひらに載せる。私は笑顔で口に放りこんだ。
「きょうは家族で出かけるところがあるから、応援にいけんけど、ごめんね」
「いいんだよ。応援にこられたら、かえって緊張しちゃう」
 飴玉で頬っぺたをふくらませながら、大瀬子橋から雅江に手を振った。いつにも増して雅江はきれいな顔をしていた。
 宮中の正門に全員集合。トレパン姿の和田先生をはじめ、みんな洗濯したてのユニフォームをさわやかに着こんで立っている。
「出発!」
 歩きはじめたとたん、だれからともなくこの夏の高校野球の話題になる。大島が、
「中商は三回戦で横浜に負けたで」
「優勝はどこや」
 御手洗が訊く。勉強家の御手洗は、あまりテレビを観ないようだ。
「大阪の明星。四十年ぶりに出て、優勝してまった。大した選手もおらんのによう」
「甲子園に出るだけ、大したもんでにゃあか」
「長嶋や野村や山内みたいに、甲子園と関係ない人もいるよ」
 私の言葉に、
「そうだ、情熱と努力さえ忘れなければ、夢はかならず叶う」
 和田先生が真剣な顔でしめくくった。なぜだろう、夢と聞いて、ふと水のように静かな気分が全身を浸してきて、私は懸命にそれを沸騰させようと努力した。
 二十分も歩かないうちに熱田球場に着いた。東海三県の高校球児が毎年集まって熱戦をくりひろげる野球場は、小ざっぱりしたものだった。内外野のスタンドが質素な造りなので、土のフィールドだけが目立つ。でもそれがかえって重厚な感じがして、私は武者ぶるいをした。エンゼル球場よりも立派なダッグアウトがある。バックスクリーンにシンプルな緑のスコアボードがそびえている。外野は一面の天然芝。二メートルほどの高さのコンクリートのフェンスが柴を囲んでいる。両翼に92と書いてある。和田先生は帽子をかぶり直しながら、
「さすがにこの広さじゃ、金太郎ぐらいしかスタンドに入らないだろう」
 九十二メートルの距離がいやに近く見える。二本いけるかもしれない。観客はほとんど内野席に集中していて、外野には百人もいない。一塁側の日比野中のベンチの上に、二十人ほどの男女生徒の応援がきていたが、三塁側は地元の人たちに占められていた。
「だれもきてないな。きょうが決勝だって知らないのかなあ」
 関に言うと、
「先生たちが四、五人きとるで。それから、あそこにおるの、山本やろ」
 三塁ベンチのはるか上のほうを指差した。山本法子がいた。彼女が目についたとたん、一つ、二つと、友人ではない生徒の見覚えのある顔に気づきはじめた。徒党を組んでいないだけで、何十人かの生徒がちゃんと観にきていることがわかった。ネット裏にスカウトとおぼしき面々が並んでいる。目を凝らしてみたけれど、その中に押美の顔はなかった。水のような気分が深くなった。



(次へ)