二十二

「じゃ、中くん、シメをお願いします」
 水中眼鏡の中が走ってきて、
「二次会にいって浮かれてもいいですが、あしたはちゃんと走って、バットを振って、酒を抜いてください。じゃ、バンザイ三唱! せーの!」
「バンザーイ!」
「バンザーイ!」
「バンザーイ!」
「ヨーオ!」
 パンパンパン、パンパンパン、パンパンパン、パン、ヨ!
 水原監督とオーナー、社主、黒背広一行は、あらためて最敬礼して会場をあとにした。
 みんなストッキングを脱いで裸足になり、ユニフォームを着たまま大浴場の湯に飛びこんだ。報道陣も追ってくる。
「よか湯、よか湯」
 遠慮なくインタビューする。
「江藤選手、おめでとうございます」
「どうも」
「いまのお気持ち聞かせてください」
「よか湯です」
「二度目の優勝ですね」
 取り立てて新しい質問はないようだ。
「そう聞いとります。ワシは一度目です。二度経験しとるんは、吉沢さんと本多二軍監督と足木マネージャーと太田コーチだけばい」
「ビールの味、いかがでしたか」
「一本ぎり飲んだ。うまかったっち」
 小川に移る。
「今後の意気ごみ、聞かせてください」
「去年は、いまごろから失速したので、心してかかります。最後の最後までマウンドに立てるようにがんばります」
 どこまでもまともに答えてやっている。私は湯から上がってユニフォームを脱ぎ、パンツ一丁になって、カランで頭を洗う。ほとんどの選手が倣う。女のアナウンサーたちは恥ずかしがって去る。男のレポーターが、まだユニフォームのまま湯に浸かっている星野秀孝にマイクを差し出す。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「彗星のように現れて、目覚ましい活躍をなさいました」
「マグレです。これ神無月さんの口癖」
 カランの列がドッと笑う。
「優勝のビールの味、どんな味でしたか」
「ぼくはかけただけで、飲んでません。あさって、先発か中継ぎですから」
「今年の星野投手の大活躍はファンの目にはビックリ仰天でしたが、去年と何が変わったんでしょうか」
「コントロールがついたことですね。ノーコンで二軍に住みこんじゃってたのに、神無月さんに褒められたのがきっかけで一軍に駆り出されたんです。はたしてうまくやれるかどうか不安でしたが、みんな温かく見守ってくれたし、伸びのびと野球をやってるかたたちばかりなので、余分なことを考えずに思い切り投げることができました」
「満点!」
 小川の声にまたみんなで笑う。頭を洗い終えて、ドッと湯船に戻っていく。伊藤久敏が、
「湯がドロドロだぜ。もう一度シャワー浴びないといかんな」
「よか思い出になるばい。シリーズに勝ったら、ジャージでビールかけしたらどげんね」
 小野が、
「ペナントレースの優勝だけにしたほうがいい。連続のビールかけはほんとにからだに悪い」
 中が、
「もっともな意見です。喜びのピークは年に一度でいいかもね。長期にわたるペナントレースの優勝とちがって、短期決戦の日本シリーズに勝つのは別種の喜びだ。野球をやる真剣さの度合いはいっしょでも、結果に対するこだわりはペナントレースほどじゃない。重要な残業仕事を終えたという感じだろう。慰労会ぐらいがちょうどいい」
 高木が、
「なるほどなあ、勝っても負けても慰労会。水原さんも同じ気持ちじゃないの」
 一人のレポーターが、
「菱川さん、太田さん、EK砲とHO砲で、二組の阿吽の像と言われてますが」
 差し出されたマイクに太田が、
「へえ、知らなかった。うれしいすね。でも、俺たちは大砲というより、竹竿ぐらいの細い鉄砲ですよ。EK砲の十分の一の太さの砲を備えていれば、どんなチームも優勝できるでしょう。HO砲は合わせてホームラン五十本ちょい、中さん高木さんのNT砲も五十本そこそこ、ONだって合わせて百本打ったことがない。EK砲はあと六本で二百本いきますよ」
 私にマイクが向けられ、
「先天的な勝者としか神無月選手のことを表現しようがないですが、対極には大勢の敗者がいるわけです。彼らに対する神無月選手の認識はどういうものでしょう」
「考えたこともないですね。去りゆく者へは哀悼の気持ちはありますが」
「引退していく者たちへということですか?」
「はい。留まっているあいだは、だれもがかならず勝者か敗者になるので、とりたてて勝者や敗者を意識しようと思いません。偉大であれなかれ、去ってゆく者の背中は往時の華やかさを偲ばせるものですから、思うところは深いです」
「どういう深いお気持ちでしょう」
「何と呼びかけよう、すべての人は草、その栄光は野の花のようだ―人間という愛しい存在に祈りを捧げたくなります」
「?……。ありがとうございました」
 みんな風呂から上がってパンツを床に脱ぎ落とし、こぞってシャワーを浴びる。男のレポーターもカメラも去る。用意されていた大きなビニール袋にめいめいユニフォームや下着を詰め、更衣室に上がって、用意した下着と平服に着替える。銭湯のように大きな更衣室だ。太田が気を利かせて、ビールかけ会場の戸口のベンチに置いてあった私のダッフルを持ってきてくれた。サッパリとした気分で下着をつけ、ブレザーを着る。一枝が、
「最後のやつはマシだったけど、ほとんどのレポーターのインタビューは紋切りでつまらないな」
「バカの一つ覚えたい。こっちが気を使ってしまうばい。はいはいと答えとればよかばってんが、そうもいかんし」
 高木が、
「さすがの金太郎さんも困ってたね。ふつうは、ありがとうございます、最高ですしかないところを、みんな一生懸命答えてたよ。最後のあの詩みたいなもの、どういう意味?」
「華々しくなくても、勝敗と関係なく草のように強く生きて可憐な花を咲かせるものに呼びかける言葉はない、ただ感動すればいい、ということだと思います。旧約聖書の中のイザヤ書の第四十章です」
「レポーターが目を白黒させてたね。金太郎さんには、勝者とか敗者なんて観念がないからな」
 太田が、
「生まれながらの勝者というのは、当たってると思いますよ。神無月さんにはあまりビールをかけられませんでしたから」
 菱川が、
「貴く、畏れ多いもんね。来年もかけられないんじゃない。俺なんか、監督やコーチにもかけられなかった」
 中が、
「それは階級的なものだな。金太郎さんは階級と関係なく畏れ多い。とにかく私は冗談でなく目が痛かったよ。ゴーグルをつけさせてもらったけど、多少縁から入っちゃった」
 と言ってタオルを使った。私は、
「……オーナーはいい人ですね。首にかけてしまいました」
 菱川が、
「俺も胸にかけました。ああいうこと初めてじゃないですか。フロントのビールかけ、流行りそうですね」
 江藤が、
「顔だけかけんようにして、どんどんかければよか」
 小川が星野に、
「ドラゴンズだけそれが許されそうだな。あさってはおまえが先発?」
「さあ、中継ぎの気持ちではいますけど」
 小野が、
「門岡か水谷則でいって、星野はクローザーじゃない? 一つでも勝ち星ほしいのは、門岡、若生、土屋、水谷則だろ。健ちゃんと私も、何度かクローザーやると思うよ」
 その四人のピッチャーを含めて寮生たちは、すでに部屋に引っこんでいた。太田が、
「あさって、雨らしいですよ」
 小野が、
「また順延? 私はうれしいけど」
「私もうれしい」
 中が言った。みんなうれしそうな顔をした。私もうれしかった。
 ファンたちがまだ大騒ぎしている玄関で江藤たち寮住みの選手と別れ、小川、小野、高木、中、一枝の五人を大通りまで送っていった。彼らはめいめいダッフルを担ぎ、ユニフォームを入れたビニール袋を引っ提げた格好で、タクシーを拾って帰った。私は寮に戻って荷物を拾い、駐車場で待っていた菅野のセドリックに乗った。十二時二十五分だった。
「お疲れさまでした」
「菅野さんこそ、ご苦労さま。一時間遅くなりました。こんなに遅くまでありがとう」
「何をおっしゃる。私は神無月さんのシモベですよ。や、神無月さんの嫌いな身分関係の意味で言ってるんじゃないですよ。いつも自分の気持ちで、喜んで仕えてるということです。―いやあ、シビレました。あしたは全身麻痺で寝こんでしまうかも。ついにやりましたね。優勝おめでとうございます。神無月さんには何ということもないでしょう。いつも優勝してる人ですから。ほんとに……私はうれしいですよ……口で言えないくらい。逆風の中をスコアボードまで運んだホームラン。あれが神棚です。神無月さんの居場所です。私らはただ拝むしかありません」
 一時に数寄屋門に着いた。深夜を過ぎているにもかかわらず、北村席の門前はまるで昼間の竹園旅館だった。人だかりの中でフラッシュが絶えず瞬き、テレビカメラが接近する。時田、蛯名ら組員たちに護られながら門へ歩く。嬌声や歓声が上がる。近隣の人びとがこぞって駆けつけているのだ。
「オトコ、神無月!」
「ドラゴンズを優勝させてくれて、ありがとう!」
「百五十本!」
「神無月さーん、がんばってェ!」
 門内へ押しこまれる。女将やトモヨさんが抱きかかえるように出迎える。
 主人夫婦に混じって、妖艶なカズちゃん、若々しい千佳子、睦子、キッコ、千鶴たちが座敷にいる。文江さんや、先週につづいて今週も早番の節子、キクエ、ほかにきょう応援にきた女たち全員が座敷にいた。
「トモヨさん、風呂に入るから下着用意しといて」
「はーい」
 テーブルには祝宴の料理が用意されていた。尾頭つきの大きな鯛の焼き魚、鯛の刺身が卓の中央に載り、その周りにきらびやかな皿が散りばめられている。私はソテツにダッフルとビニール袋を渡す。ブレザーの上下を脱がされ、浴衣を着せられた。トモヨさん母子とトルコ嬢たちの大半は寝に引っこんでいたが、主人夫婦やカズちゃんたち、住みこみの賄いたちのほとんどは起きていた。
「優勝おめでとうございます!」
 私は辞儀をし、
「きょうは応援ありがとうございました」
 カズちゃんと小鳥のキスをする。
「目が真っ赤よ!」
「ビールは痛い」
 女将が、
「ビールかけ、ウロウロしとったな。かわいらしかったわ」
 主人が、
「感激しました。下通さんのアナウンスでピークになった。優勝のお祝いは、二十二日から二十六日のあいだにすることにしました。二十七日から中日球場で阪神三連戦ですから、二十五日ぐらいがいいですかな。水原監督と連絡をとって決めます」
「盛り上がるでしょう。じゃ、五分でシャワーを浴びてきます。ビールや泥を流し切れてないので」
 シャワーのあと、きょう飲まなかったビールをコップ二杯つづけて飲んだ。生まれて初めてうまいと感じた。主人がいまにも泣き出しそうな顔で、
「ついにやりましたなあ―」
 ひとこと言って絶句した。


         二十三

 女将が、
「帽子を投げてあげた相手の人のは、お母さんやったって?」
「はい、飛島の人たちが連れてきたみたいです。母の横に押美スカウトもいました。母の肩を抱いてました」
「押美さんというのは、中商に二度誘ったという?」
「はい、母を初めて叱りつけた人です」
 菅野が、
「江藤さんも帽子を投げてあげてましたね。……お母さん、泣いてましたよ。バックネットからよく見えました」
 カズちゃんが、
「わだかまりを捨てた押美さんには、お母さんに対する純粋な同情もあったんでしょうけど、一瞬でも遺恨を忘れて帽子を投げたキョウちゃんは死ぬ思いだったでしょう。男の中の男ね。江藤さんはキョウちゃんのオトコ気に感激して、思わず投げちゃったのね。親子の情なんてのはふつうの人にはあたりまえでも、キョウちゃんには未知のものよ。父親の情も母親の情も知らないの。親孝行を振舞うのは地獄よ。ニセモノだから。でも、飛島の人たちはきのう東京の中野に移転したはずよね」
「うん。わざわざ東京から駆けつけてくれたんだね」
「それもへんよね。きのう移転して、きょうあわただしく駆けつけるというのも。……そうか、大沼さんたち、きっときょうの優勝のことをテレビか新聞で知って、東京へいくのを一日二日遅らせたんじゃないかしら」
「でも、押美さんはどうやって……」
 カズちゃんが、
「いろいろなマスコミ情報からお母さんのいまの立場はわかるから、気の毒に思って押美さんのほうから訪ねていったんでしょう。ドラゴンズの優勝のことを知らせにね。過去のことに拘らない心の広い人だったのよ。そしたらたまたま大沼さんたちが優勝のことを知っていて、東京の移転を遅らせて中日球場に出かけていこうとしてるってわかって、じゃ私もいきますからお母さんもいっしょにいきましょうってことになったんだと思うわ。……きょうこそお母さんは、キョウちゃんを産んだことを誇りに思ったでしょうね。これからは明るい寮母さんで生きていってほしいな」
「それにしても、むかし何度も追い返した押美さんに、母はどう申しわけを立てたのかな……」
「申しわけなんか立てなかったと思うわ。とにかく押美さんのほうがお母さんのすべてを許したのよ」
 睦子がポトリと涙を落とし、
「保土ヶ谷のお父さんは見ていたでしょうか」
 千佳子が、
「見ていたに決まってるわよ。テレビで」
 私は、
「まったくちがう波長の人生を生きてるように思うけど」
 文江さんが、
「どこでどう生きてようと、新聞は読んどるよ」
 私は、
「ほんとに、どうでもいいんです。母恋し父恋しの時代は、生まれて八年で卒業しましたから」
 女将が、
「幼稚園、小学校、中学校、高校と、節目節目で親は喜ぶもんやけど、神無月さんは何一つなあ……かわいそうに」
 カズちゃんが、
「親が〈いなかった〉んだから仕方ないじゃない。おかげで私は、すてきなみなしごを手に入れられたわ」
 百江が、
「ほんとに神無月さんはなんにも拘らない人。きょうだって、エベレスト征服みたいな優勝をして、さっきまでビールかけをしてきたなんて見えませんもの」
 キッコが、
「ほんまや。すごいことなのに、神無月さんを見とると、何が起こったとも感じられへんわ。椿町商店街なんかたいへんやったで」
 キクエが、
「駅前が旗やノボリで満艦飾になってたましたね」
 素子がカズちゃんをまねてチョンとキスをしながら、
「キョウちゃんの目、気持ち悪いほど赤いわ。ビールかけキツかったんやね。今年、もう一回あるがね」
「白井社主の提案で、年に二回はやらないことになった。中さんは、日本シリーズは大事な残業やるぐらいのものだから、ビールかけなんかやらずに慰労会を開く程度でいいと言ってた。賛成だ」
 カズちゃんが、
「私も賛成。優勝したとしても、パレードだけでじゅうぶん」
 キクエが、
「きょうのブラバン、ワクワクしました。五十人もいたんじゃないでしょうか」
 睦子が、
「もっといました。東大のバトンガール、サマになってました。結成一年もしないうちにあそこまでなるなんて、驚きました」
「青いパンツだったね。ぼくは白いパンツでないとイヤな気がする」
 カズちゃんが得意そうに、
「私はいつも白」
「私も」
 睦子と千佳子と文江さんが手を挙げる。店の女たちが、
「やだあ、私、黒」
「私もたいてい色つきやわ」
 キッコが言うと、千鶴が、
「黒いところに黒はあかんでしょう。私もときどき穿いてまうけど」
 イネが、
「オラはフリルの白」
 節子が、
「私もだんぜん白」
 ソテツが、
「私、ときどきピンク」
 パンツの色に話の水門が開いた。メイ子と百江と幣原が恥ずかしそうに笑っている。菅野が、
「神無月さんに乗せられちゃだめですよ。うまいんですから。パンツの話をしてすごすにはもったいない時間です」
 そうたしなめて、きょうの試合そのものや、江藤の花束や、派手派手しかったセレモニーのことなどをしゃべった。文江さんが、
「福富選手がジャンプしたときは、心臓が止まる思いやったわ」
 メイ子が、
「江藤さんが一塁へ戻りかけたとき、節子さんとキクエさんがキャーって叫んだんです。そしたらスタンドに入ってました」
 女将が、
「さ、もう二時やよ。適当なところでミコシを上げてもう寝なさい。神無月さんはあさっても試合なんやから」
「はーい」
「ソテツ、帽子、まだあった?」
「一つあります。東京の試合はだいじょうぶです」
 菅野が、
「足木さんに二つ注文しときました。中日球場のロッカーに入れておくそうです。これからは気前よくあげるのは、ボールぐらいにしといてくださいよ」
「気をつける。あ、あした名古屋観光ホテルで、祝賀会を兼ねた共同記者会見があるんです。菅野さん、十二時くらいまでに送ってくれませんか。十二時半からです」
「了解。ランニングはどうします」
「十時からにしましょう」
「わかりました」
 カズちゃんたちとおしゃべりをしながら則武に帰った。睦子と千佳子もついてきた。夜中の二時にマスコミのオッカケはいない。メイ子が、
「祝賀会では、ほんとにビールかけはないんでしょう?」
「うん、記者会見のあと、食事をするだけ。ビールかけは、目に悪いのは一時的なものだから気にしないけど、ビールをかけられてないときにフッと手持ち無沙汰になるのがつらい。インタビューを受けてないと、なかなかだれもビールをかけてくれないからね。来年のビールかけのときは、レポーターに近づいていこうかな」
 素子が、
「馬鹿なこと言わんのよ」
「こうしてみると、つくづく恋人の数が増えちゃったな」
 カズちゃんがいたずらっぽい笑顔で、
「百人になったら記念パーティやりましょうか」
「無理だな。百年かかっても」
「じゃ、五十人にしましょう。教室一つ幸せにしたら、大したものよ」
 睦子が、
「たった五十人の中に入れてもらえて、うれしいです」
 百江も、
「私もしみじみ幸せです。……あの、神無月さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
 千佳子が、
「へんよ、愛し合ってる者同士お礼を言い合うなんて。男と女が自然に生きてるだけのことでしょう? おたがいに感謝の気持ちさえ持っていれば、その気持ち以外のことは何も考えなくていいと思う」
 カズちゃんが、
「そのとおりね」
「うん。それっていつもカズちゃんが言ってることだし、ぼくたちみんなが考えてることだね。純粋に人間的な付き合いだけをしてれば何も怖いものはないって。けど、その純粋というのが世間の人には問題らしくて、彼らの言う純粋さは、人間としての自然な純粋さのことじゃなく、世間の道徳に従う素直さを指すらしいんだ。ぼくたちを世間道徳の俎板に載せれば不純ということになりそうだ」
「反論なし。痛快だわ」
「うん、痛快だ。自然に生きるのはきびしいことだからね。道徳的に生きるのなんてラクなことだよ。基本は、見せかけることだけ。外に見せる形だけちゃんとしておくこと。彼らの得意技みたいだね。そうしておけば、いつもビクビクしなくてすむからだと思う。彼らはよほどビクビクしたくないんだね。きびしい生き方になっちゃうから。ぼくはドン引きの人間だけど、生まれつき恐怖感のないタチだから、引く感覚はわかるけどビクビクする感覚がよくわからない。遠慮と恐怖はちがうからね。だからぼくの周りには恐怖感のない引くだけの人間ばかり集まる。引く人間は世間事情に鈍感だから、迫害を受けやすい。……でもみんなはどこかちがうんだ。迫害を受けない。うまく引く人間だけど鈍感じゃないからだよ。とても頼りになる。ぼくが危うくなったら助けてね。いまのぼくはたまたま、どういうわけか、うまい具合にだいじょうぶになってるけど、いつ引きのへたさや鈍感さのせいで墓穴を掘るかわからない。助けてと言っても、世間の迫害から助け出してほしいんじゃなく、そんな重労働をしてほしいんじゃなく、迫害されてるときに見捨てないで庇ってほしいというだけのことなんだけどね」
 カズちゃんが、
「みんな、言わずもがなって顔してるわよ。だれよりも重労働をしてるのはキョウちゃんのほう。キョウちゃんの重労働にはいつも恩返しをするつもりでいるわ」
 素子が、
「うち、この帰り道、一生思い出すと思う」
「毎日いっしょに帰ってれば、思い出さなくてすむよ」


         二十三
        
 九月十五日月曜日。目覚めると八時半だった。二十四・一度。カーテンの外に雨が降っている。雨脚が強い。
 毎日が幻のようで、江藤のホームランのほかは昨夜の試合の詳細を思い出せない。水原監督の檄も幻のようだ。
 カズちゃんとメイ子はすでに出勤している。うがい、歯磨き。下痢気味の便をする。シャワーを浴びてサッパリし、ジャージを着た。三十分ジム部屋で筋トレ。きょうはテーブルにキッチンパラソルがない。代わりに置いてある新聞を読む。中日スポーツ。大見出しが初めて見る赤字だった。

 
やった中日! 一丸の優勝
 
中日十五年ぶり二度目のリーグ優勝
 九月十四日、アトムズ戦ダブルヘッダーの第一試合を引き分けることでマジックを1とした中日ドラゴンズは、第二試合を一対十六で難なく勝利し、十五年ぶり二度目の優勝を華々しい大差勝ちで飾った。百五試合を消化して八十七勝十三敗五分け、勝率六割九分六厘。巨人はここまで百一試合を戦い、五十七勝三十八敗六分け。残り二十九試合を全勝しても八十六勝三十八敗六分け、勝率六割八分五厘となり、逆転の可能性がなくなったため、中日の優勝が確定した。水原茂監督(60)は就任一年目にして、自身十度目のリーグ制覇となった。なお、優勝時のチーム勝率は八・七○で史上最高、この先全敗してシーズンを終えても六・九六で史上八位の勝率となる。これまで一シーズンのチーム勝率の最高は、昭和二十六年の南海ホークスの七・五○である。ドラゴンズは九十四勝すればこの勝率を二厘上回ることになる。残り二十五試合で七勝することはたやすいであろう。
 今季の中日は開幕六連勝でスタートダッシュに成功、強打で首位の座を一度も譲らなずに走り通した。南海ホークスと大毎オリオンズの持つシーズン十八連勝の日本記録を大幅に更新する二十七連勝を記録するなど(なおニューヨーク・ジャイアンツが持つ世界記録である二十六連勝も塗り替えた)、シーズンのチーム総得点、総本塁打の記録まで更新するという勢いで突っ走った。
 神無月郷の記録も異次元のものである。百五試合目にして百三十七本塁打(日本記録王貞治五十五本・百四十試合、世界記録R・マリス六十一本・百六十一試合)、打率六割五分一厘(日本記録大下弘三割八分三厘、世界記録ナップ・ラジョイ四割二分六厘)、三百十六打点(日本記録小鶴誠百六十一、世界記録H・ウィルソン百九十一)。異星人神無月郷の異様な噴火が止まないかぎり、来季以降も中日ドラゴンズがシーズン連覇を重ねていくことはまちがいない。
 さて、日本シリーズもこの勢いで駆け抜けるのだろうか。思わぬ苦戦をするドラゴンズの姿を見てみたい気もする。いずれにせよ、中日ドラゴンズ、優勝おめでとう! ファンの夢を叶えてくれてありがとうと声を大にして叫びたい。


 山口から電話が入った。
「やったな、優勝おめでとう! 偉業だぞ、神無月、これは偉業だ。健児荘の四畳半から飛び立って、スポーツ選手という仮の姿であまねく影響力を発揮できるようになった。日本一という勲章をつけてな。まぎれもない偉業だ。しかし、おまえの価値からすればくだらない勲章だ。―小説の連載が始まると聞いて、胸が苦しくなるほどうれしい。ひょんなことから本来の姿を世に曝すことになった。勲章の要らない世界で生きられる。勲章をくれようとするだろうがな。……泣かせてくれ」
「だいじょうぶ、勲章はくれないよ。そんなに素朴で親切な人たちじゃない。文学に勲章は要らない。ぼくは愛する人たちに読んでもらえるだけで満足なんだ。ありがとう山口、おまえのくれた命で野球の記録が残せたし、好きな文章も書けた。ピッタルーガ、がんばれよ。祈ってる」
「……サンキュー。相変わらずだな。作品の評価は俺たちの朗報になるというだけにしとくから、安らかな気持ちで書いてくれ。いやだと言っても、文学史に残る。二十日に出発だ。帰ってきたら連絡する」
「おトキさんは留守番か」
「ああ、外国にはいきたくないと言ってた。俺も独りのほうが気楽だ。じゃな」
「じゃ」
 文学史ではなく、新聞社の文筆家雇用目録に名が残るだけだ。野球選手が小説を書いたということで―。芸術の世界というのはそんな簡単な人間関係で成り立っていない。百メートル飛んだホームランを百メートルと計ってくれる人びとの世界ではない。芸術の達成度は、権威ある複雑な人びとが複雑な感覚で計る。その感覚は私には思い及ばないものだし、知りたいとも思わない。
 私には、芸術は技術的な達成度を云々するためにあるのではなく、特定の人びとを慰撫し救済するためにあるとしか思えない。たしかに計測可能な〈記録〉には、勲章を与えて顕彰するべきだ。しかし芸術は、何を基準にしても、計測不可能だ。特殊な状況にある少数の人びとの魂に訴え、その人びとに感謝されるにすぎない。そういうものに勲章は要らない。その少数の人びとでさえ、魂を慰撫された事実を忘れ、勲章そのものに感謝するようになるからだ。太古から芸術に携わる人間に勲章は与えられなかった。声価が高まっただけだった。そして彼ら芸術家もそれで心から満足していた。
 菅野から電話。
「雨が強いです。祝賀会から帰ったら走りましょう。少しは小降りになってると思うので」
「そうしますか」
「手に入れられる新聞をぜんぶ買って北村のテーブルに積んでおきました。祝賀会から帰ったら読んでください」
「読むのはまかせます。中日スポーツを読んだからもうじゅうぶん。めぼしい記事があったら、あとで教えてください」
 傘を差して北村席へ出かけていく。コメダ珈琲を右に笈瀬川筋に出る。ビルと駐車場の多いさびしい道。人けはない。前方に見える椿神社の小森の緑が目の救いだ。新築のアイリスを過ぎる。百江の家。椿神社。道の反対側はアーケードつきの店が並んでいるが、駅西銀座に気を取られてこれまで見すごしていた。焼鳥屋、魚問屋、焼肉屋。優勝の幟。すぐに駅西銀座になる。優勝の幟の列。横断提灯と幟が目を射る。

 祝優勝中日ドラゴンズ

 おめでとう! 我らがドラゴンズ

 宿願成就

 優勝割引セールのタテカンも並んでいる。十字路を過ぎて、あかひげ薬局。ここにまで優勝の幟。

 よく効く! すぐ効く! 今夜間に合う精力剤 中折れ・早漏防止

 その看板の前の信号に初々しいセーラー服の少女が立って、単語カードを見ている。微笑む。砂糖小麦粉雑穀後藤商店から曲がりこむ。小崎商店。むかしながらの八百(やお)よろずの惣菜店だ。古い家並の住宅地へ曲がりこむ。牧野小学校。少し高級な住宅地。左折して牧野公園の緑。北村席。
 トモヨさんと賄いたちは厨房のテーブルで食事中だった。すでに直人は登園してしまったようだ。座敷のテレビに主人夫婦や菅野や一家女たち釘づけになっている。睦子が真剣な視線をテレビの画面に注いでいる。主人が、
「ほれ、神無月さん、またやっとるわ。朝から中日ドラゴンズ優勝の特番ばかり流しとるが。きのうの夜中に撮ったフィルムやろ。水原さんグッタリやが。マスコミは遠慮を知らん」
 名古屋観光ホテルのきれいな広間で、水原監督が記者団を前に優勝インタビューを受けていた。深夜だろう、水原監督の目が少し窪んでいた。
「きょうの第一戦、引分けに終わりましたが、力を抜いたということはありませんか」
「ありません。真のプロフェッショナルとは、安定したパフォーマンスを観客に見せつづけられる人のことです。力を抜いたのではなく、安定したプレイを見せようと冷静に振舞ったんです。あと先考えずに命じられたとおりのプレイに熱中する高校球児とはちがいます。うちの選手はみんな、観客を満足させられるプロです。そのプロが最善を尽くした結果です。二試合目には神無月くんのホームランも三本出ましたし、水谷則博くんもふだんにないがんばりを見せました。相手チームの意地もあって、たまたまああなっただけでしょう。そのおかげで、劇的な優勝を飾ることができました」
「胴上げで十回も宙に舞いましたね」
「選手たちの掌の温もりが背中に残っています。優勝まで私を支えてくれた掌です。感謝しながら胴上げを噛みしめました」
「昨夜のビールかけはいかがでしたか」
「少しだけ参加させていただきましたが、みんな遠慮して私にはかけませんでした。老人にはかけるなよと、前もって言ってあったせいでしょう。コーチ陣にはやられました」
「最下位からリーグナンバーワンまで一気に駆け上がりましたね」
「神無月くんによってチーム全員が野球をする喜びに開眼しました。気持ちが固まったとなると、ドラゴンズは技術的にはもともとすぐれ者の集まりですから、おのずと駆け上がるだけになります。そこに勝ちたいという欲が加われば怖いものなしです。ただ勝敗にこだわると、せっかくの技術にムラが出ることが多いのでうまくいきません。ほんとうに無欲に理想の状態で駆け上がったと思っています」
「優勝した瞬間の思いはいかがでしたか」
「これまで監督として経験してきたどんなリーグ優勝よりも、比べものがないほど大きな満足感を覚えました。選手も、コーチも、マネージャーも、スコアラーも、トレーナースタッフも、球団フロントさえも、無欲恬淡として野球そのものを愉しんだ結果が今回の優勝でした。無欲と無気力とは異なります。常に気力は充実していました。野球を愛しているので、エネルギーが途切れることはありませんでした。とは言え、スポーツ選手にケガはつきものです。中くんは膝、小野くんは肩、山中くんは内臓の不具合というふうでしたが、みんな懸命に調整しながらがんばった。彼らを誇りに思います」
「十一月の日本シリーズの采配は、どのようなものになるでしょうか」
「レギュラーシーズン残り二十五試合に七試合が加わっただけと考えて、まったく同じように戦います。短期決戦という考えはありません。勝てる試合は一気呵成にいき、負け試合にはこだわらない。できることなら、シリーズも優勝で飾りたいので、ピッチャー陣の獅子奮迅の活躍を期待しています」
「ピッチャー陣がポイントだと」
「もちろんそうです。来季を占うポイントでもあります。三本柱となる小川くん、小野くん、星野くんを中心に、控えの伊藤久敏くん、水谷寿伸くん、門岡くん、若生くん、土屋くん、水谷則博くんの飛躍を望みます」
「シリーズの相手は、阪急、近鉄、ロッテに絞られましたが、対策は何かお立てになりましたか」
「どことぶつかっても、早い回でのピッチャー攻略を目指します。それに手間取ると苦戦することになるでしょう」
「中日ドラゴンズの強さの秘密は、どんなところにありますか」
「明るく、楽しく、元気に、そして真剣に」
「では最後に、十五年間、きょうの日を心待ちにしていたファンのみなさまにひとことお願いします」
「長いあいだ辛抱強く待っていてくださって、ほんとうにありがとうございました。われわれとあなたがたの情熱が相俟って金剛力となり、ここに十五年ぶりの優勝を成し遂げることができました。さらにいっそうの情熱をもって努力し、あなたがたに日本一の報告をできるようがんばります」
 インタビューが終わって、座敷のみんなが拍手した。ようやく次のニュースに移った。と思ったら、優勝までの道のりという別のテーマで特番がつづいていく。
「さすが慶應ボーイは言うことがちがうわ」
 千佳子が、
「水原監督のお話って、とってもおもしろい」
 女将が、
「ほんとにヤクザの親分さんやわ。男やね。神無月さん、祝賀会の食事なんて、食べとる暇もないし、緊張して食欲ものうなるで、朝ごはん、たんと食べとき」
「はい。じゃ、ミートソースを」
 ソテツがうれしそうに立ち上がる。
「バタートーストと、サラダも作ります」
 睦子が、
「私はコーヒーをいれます」
 さっそくスパゲティを炒める音、コーヒーのにおい。
「お父さん、中折れって何ですか。あかひげ薬局の看板に書いてありました」
 主人は首を掻き、
「やっとる途中で、中で萎むことですわ。五十過ぎたらわかります。若いうちは縁のないことですよ」
 女将が、
「女が欲深でなければ、問題にもならんことなんよ。男はその気になれば、歳と関係なくだいじょうぶや。でも、その気がなくなったら何歳でも卒業やな。女は単純やから、その気があってもなくても死ぬまでできるんよ。男が申しわけながることはあれせん」
 男と女の身と心の神秘の奥は深くて美しい。どちらにも愛があれば、肉体の不調は取るに足らないことだと女将は言っているようだった。賄いたちが掃除洗濯にかかった。トモヨさんが背広を抱えてやってきて、
「郷くん、きょうは紺の上下にしてくださいね。ネクタイも紺のワンタッチ」
 そう言って、イネを連れて離れの掃除をやりにいった。私は主人に、
「あ、そう言えば、きょうはユニフォームでくるようにと言われてたんでした」
「そうですか。じゃ、トモヨにユニフォームを用意させましょう」
 主人は立ち上がって離れへいった。トモヨさんがホーム用のユニフォームを持ってきた。
「足もとはスパイクですか?」
「白ズック」


         二十四

 私は厨房にいって、ソテツと睦子のおさんどんでスパゲティを食った。千佳子も厨房にきて、大窓の外を眺めながら、
「私、雨が大好き。神無月くん、何か雨の歌知ってる?」
「雨雨ふれふれ、かあさんが……」
「そんなのじゃなく、神無月くんの好きな歌」
「水原弘の黄昏のビギン」
 睦子が、歌ってください、と言うので、囁くように歌いはじめる。二つの頬が私の肩にぴったり触れる。ソテツと幣原がテーブルに腰を下ろした。
「一番だけね」

  雨に濡れてた黄昏の街
  あなたと遇った初めての夜
  二人の肩に銀色の雨
  あなたの唇……濡れていたっけ
  傘も差さずにぼくたちは歩きつづけた……雨の中
  あのネオンがぼやけてた
  雨が止んでた黄昏の街
  あなたの瞳に映る星影

 座敷から大きな拍手がやってきた。
「えーん」
 ソテツが泣き出した。千佳子と睦子がハンカチを使う。幣原もポタポタと涙をこぼしている。私は自分の歌で泣いたことがない。私は自分の天分に感動できない。感動する他人がいつもなつかしい。
「少し晴れてきましたよ。よし、じゃ神無月さん、ちょっくら走ってきますか」
 菅野の声が飛んでくる。
「オシャ!」
 那古野方面に向かって走り出す。菊井町から枇杷島へ。鳥居通りを引き返すコースだ。
「送迎の運転手、新しく雇ったらどう。ファインホースも忙しくなるでしょうし、けっこう見回りや帳簿の仕事もたいへんじゃない?」
「私がやります。譲れません」
「中日球場の待機だって、いくらゲーム観戦できるとはいっても、きつい。光夫さんの言った序列というのも会社組織には大事です。北村席は大所帯になっちゃったんだから。アヤメもアイリスも経理の専門家を置いてるんでしょ」
「はい。もう算盤弾きじゃ無理です。北村の公認会計士と税理士が両方に手を貸してます。私どものような素人は、日銭計算しかできませんからね。帳簿は一括して専門家に見てもらわないと」
「動くお金が何千万だもの、仕方ないね」
「とにかく神無月さんの送迎は私がやります」
 日赤へ曲がりこみ、一本道を帰る。帰りつくと、汗でぐっしょりになっている。シャワーを浴びる前に、庭で三種の神器。
         †
 十一時四十五分。トモヨさんたちに見守られながらユニフォームを着る。睦子のお守りも尻ポケットにしまった。自得して生き延びることと、渇え、屈服して瞬間を生きることはちがう。つい数年前まで私は、野球や抱擁は愛を乞うことより大事だと思いこんでいた。自得できるその二つが心安らぐ場所だった。心の自立に安らぎながら生き延びてきた。錯覚だった。野球も抱擁も心安らぐことのない場所だった。自得してはならない。自得して安堵の中に生き延びるのではなく、屈服して一瞬の枯渇を癒されながら生きなければならない。命懸けで愛を乞いながら生きなければならない。
 みんなに心配そうに式台に見送られ、白いズック靴を履き、玄関を出る。傘を差さずに心地よい霧雨の飛び石を歩き、門を出る。セドリックの助手席に乗り、また大勢に褒められるために出かけていく。十分で名古屋観光ホテルに到着。
「帰りはタクシーだから、迎えにこなくていいですよ。ひょっとしたら、タクシーもやめて桜通を散歩しながらゆっくり帰るかも」
「わかりました。夕食までには帰りますね」
「かならず」
 車を降り、菅野に手を振ってから、ホテルの玄関前に立つ。制服のボーイにドアを開けられてロビーに入る。水原監督、江藤、小川が記者たちに囲まれていた。私と同じようユニフォームに白ズックの格好をしている。一般の客が歩き回っているが、ファンの徒党はいない。三人に笑顔で挨拶する。
「それではまいりましょう」
 十二時半。黒スーツに黒ネクタイの男に導かれて、エレベーターで三階へ昇る。桂の間。やや高いステージの奥に白布が張られ、それを背景に球団旗が横断している。長テーブルに椅子が四脚用意されていた。そこの空間だけが明るく、壇下の記者席は暗い。映画館のようだ。記者やカメラマンの何百もの後頭部がうごめいている。最前一列は、ドラゴンズの一軍選手たちがユニフォームを着て控えている。
 私たちが入っていくと盛大な拍手が上がり、会場全体が明るくなった。ドラゴンズの歌をバックに水原監督が脇階段を上り、帽子を取って右から二番目の席についた。帽子をかぶり直す。選手がつづく。江藤は帽子を取りながら監督の右隣に、左隣に私、私の左に小川が着席した。帽子をかぶり直す。歌が一番だけで止み、
「えー、みなさまよろしいでしょうか」
 壇上の隅から司会の声がやってくる。
「向かって左から江藤選手、水原監督、神無月選手、小川選手の順で座っていらっしゃいます。えー、一九六九年度セリーグ優勝チーム中日ドラゴンズ、監督水原茂、選手江藤慎一、神無月郷、小川健太郎の四かたでございます」
 ふたたび盛大な拍手。
「ではよろしければさっそく始めたいと思います。質問時間三十分ということで、共同記者会見をただいまより始めさせていただきます。それでは代表質問をお願いいたします」
 壇下が再び薄暗くなり、一人の記者が立ち上がった。
「では代表質問を行わせていただきます。まず、昭和四十四年度ペナントレース、セリーグ優勝、おめでとうございます」
 別の声が天井のスピーカーから降ってくる。声の主がどこにいるのかわからないまま、私たち四人は頭を下げる。会場のだれかがマイクを握っているのだ。
「中日スポーツの××と申します。よろしくお願いいたします。水原監督に質問いたします。昨日九月十四日、ついに十五年ぶりの球団史上二度目のリーグ優勝を成し遂げられました。あらためていまのお気持ちをお聞かせください」
 優勝直後の質問と同じだ。全国のテレビに落ち着いた映像を流すための形式的な会見だとわかった。うれしいです、とか、最高です、では芸がない。答える側に苦労を強いる厄介な質問だ。
「百五試合、あっという間でした。ほとんど打撃力で勝ち取った優勝ですが、攻撃力が去年のように噛み合わないままなら、きびしい道のりになっていたと思います。ラッキーでした」
「監督のチーム作りの方針が実ったという手応えがあるのではないでしょうか」
「方針らしきものはございませんでしたので、確認の手応えといったものは感じられませんでした。何度も申し上げてきましたが、明るく楽しく野球をするというのが方針らしからぬ方針のようなもので、一戦一戦というより、一瞬一瞬大切に野球をしてきました」
「優勝の要因のポイントとして挙げるとすれば、どんなものがございますか」
 私はあくびをこらえる。
「ワッショイワッショイのおミコシ野球。高揚感を保ちつづけることです」
「昨年度最下位のプレッシャーはありましたか」
「最下位からの振り子の頂点は優勝だなと思い、振り子を最大まで振り切ろうという意欲が湧きました。期待されない分、プレッシャーはございませんでした」
「応援してくれたファンのみなさまへのメッセージをお願いします」
「たゆまぬ励ましに対して、深甚の感謝をいたします」
「ありがとうございました」
 つづいて別の記者が立ち上がり、所属社名と名前を言う。
「江藤選手にお伺いします。いまのお気持ちをお聞かせください」
 いまのお気持ちって、何だ?
「これはうちの連中もよく言うことですが、神無月くんが開幕第一戦で三ホームラン、二戦で二ホームラン、三戦で四打席連続ホームランを打ったとき、今年はいけると確信しました。あの気持ちを忘れられません。だからいまの気持ちはと聞かれると、やっぱりいけたか、と答えるしかありません」
 九州弁が出ない。
「優勝の瞬間、涙を流しておられましたが、江藤選手の涙を目にしたのは初めてのことでした。感慨ヒトシオだったのですね」
「プロ入り十一年目の初体験ですから、ドーッときました」
「ファンのみなさまへひとこと」
 だれを思い浮かべればいいんだ?
「日本シリーズもがんばります」
「ありがとうございました」
 次の記者。
「神無月選手に質問いたします。中日ドラゴンズは細かい野球ができないとよく言われますが」
 会場がザワッときた。
「先天的に細かい神経がないと、大技を発揮できません。大まかな神経でも小技は発揮できますが、大技は無理です。大技も小技も勝利に結びつきますが、大まかな神経と小技だけでは大量の勝利には結びつきません。つまりドラゴンズは細かい神経で、大技を発揮し、大量の勝利を手にしてきたということです」
 期せずして、記者たちから拍手が上がった。同席の三人も満足そうにうなずいている。
「ありがとうございました」
 次の記者。
「小川選手にお伺いいたします。いまの気持ちをお聞かせください」
「はい、うれしいです」
 私はニヤリとした。
「今シーズンは、エースとして先発陣を引っ張っていく充実感といったものがあったんじゃないでしょうか」
「去年、オシャカでしたからね。今年も去年以上ということはなかったんですが、強力なバックのおかげで、楽な気持ちで投げられましたし、勝ち星もたくさんいただきました。背面投げは顰蹙買いましたね、すみません」
「二度目の沢村賞という評判ですが」
「ぜひ、ください。齢だし、今年が最後のチャンスですから。来年は星野秀孝でしょう」
「ファンのみなさまにひとこと」
「連日の超満員、ありがとう!」
「ありがとうございました」
 次の記者。
「江藤選手、ファンに対する意識の持ち方をお聞かせください」
「ワシには難しい質問をするのう。五秒、考えしゃしぇてくれんね」
 博多弁が出た。
「……うん、応援者の支持ば得るためには、技術の向上はもちろん自分に対する至上命令と考えて、そのうえで選手各自がプロ意識ば持つこと、つまり、プロ仲間としっかり連繋し合い、プロをつづけさせてくれる応援者にその技術ば披露することやろうと思う」
 記者席から拍手が上がる。次の記者。
「小川選手に質問です。ベテラン選手が後進に接する心構えのようなものをお聞きしたいのですが」
「はい、ひとこと、自分の全力の姿を見せること」
「ありがとうございました」
 次の記者。
「いま一度水原監督に質問いたします。日本シリーズに対する自信のほどをお聞かせください」
「バズーカ砲で強肩で俊足の神無月くん、やはりバズーカ砲でアベレージヒッターの江藤慎一くん、セリーグナンバーワン強肩キャッチャーのマサカリ木俣くん、大物も打つホーバークラフトの名センター中くん、チーム指折りの強打者かつ守備の達人高木くん、彼の華麗なバイプレイヤーで水も漏らさぬ名ショートの一枝くん、躍進目覚ましい剛力ホームランバッター菱川くん、ムードメイカーで強打者かつコンピューターの太田くん、どこからともなく彗星のごとく現れた剛球ピッチャー星野秀孝くん、チームの信頼厚い快刀乱麻の大天才小川くん、チームのまとめ役で人格者二百勝間近の小野くん、ほかに水谷寿伸くん伊藤久敏くんをはじめとする目立たないけれども実力派の中継ぎ陣、イキのいい若手の土屋くんと水谷則博くん、江島くん千原くん葛城くん徳武くん伊藤竜彦くん新宅くん江藤省三くんのような底力のある控え陣、いやはや選手層がじつに厚い。これで負けたら自分の采配ミスだと断言できるほどの自信があります」
「ありがとうございました」
 次の記者。
「では、神無月選手に質問をいたします。いまのお気持ちをお聞かせください」
 東大優勝の記者会見よりひどい。いったいプロ野球選手に個体差はないのだろうか。ファンは個体差を認めないのだろうか。
「優勝した瞬間は、スタンドと中日球場の空を見上げて泣きました。十年間が走馬灯のように駆け巡りましたから。それから、大好きな選手たちが大好きな監督を胴上げしている光景を見て泣きました。春のキャンプのとき、彼らを喜ばせるために野球をやろうと決意しましたから。いまは、早く祝賀会のほうへいきたいです」
 記者席に笑いの波が立った。
「まだシーズンは終わっていませんが、今季のご自身についての思いはどういうものがございますか」
 気持ち、思い、気持ち、思い、か。
「マグレです。来年もつづいてほしいです」
「チームの強さの秘密はどういうところにあるとお思いですか」
「わかりません。ただ、プロ野球選手は自分のいいところを見せようといつも考えていますから、青森弁で言う〈エエフリコギ〉が結集すれば、チームとしてすごい力になるんじゃないでしょうか」





優勝その5へ進む


(目次へ戻る)