二十五
 
 次の記者の手が上がらない。司会者が、
「ほかに質問のあるかたいらっしゃいましたらどうぞ」
 一人もいなかった。フラッシュだけが瞬いた。
「では、以上で代表質問を終わらせていただきます」
 四人立ち上がり、帽子を脱いで一礼し、壇下の一軍選手たちとともに退場する。案内係に連れられて広い階段を二階へ降りる。曙の間。入団式と同じように大きな円テーブルを配置した祝賀会場には、スーツ姿の球団関係者たちが整然とつどっていた。そこへユニフォームの男二十人余りが入っていく。大拍手。全員最前方の円卓の並びへ導かれて着席。私たち三人が座った隣のテーブルに、小山球団オーナー、白井中日新聞社主、村迫球団代表、榊渉外部長、そのほか数名の企業家らしき人物が座っている。礼儀正しく挨拶する。小山オーナーがにこにこ笑い、
「かわいいなあ! 行儀もいいし。みんなで金太郎さんの父親役をしてるような雰囲気じゃないの。水原くんには孫か」
「はあ、目の中に入れても痛くないです。社会的に不完全さの目立つ男なので、それだけかえってね」
「今年はいじめられたよなあ」
「はい。不完全さが魅力になるかどうか、それがスターかそうでないかの分かれ目です」
 白井社主が小山オーナーに、
「大リーグ対策、万全だろうね。毎日、電話、陳情だろう?」
「突っぱねるだけですよ。人身売買は私の柄じゃない」
「榊くん、ドラフトもしっかり頼むよ」
「はあ、土屋、沢田、法元が目を光らせてますから。ドラゴンズのスカウトの腕は十二球団一の定評があります」
 村迫が、
「十五年、ほとんどAクラスだったからね。プロ野球の行方はスカウトが握ってると言っても過言ではないよ」
 白井社主が村迫代表に、
「スカウトより先に、きみがわざわざ出向いて金太郎さんの首に縄をかけたんだよ」
「いえ、最初から神無月さんがドラゴンズに向かって泳いできてたんです。私どもは岸で待っていて手を差し伸べただけです」
 すぐ傍らのマイクの前に法被を着た中老の男が一人、同じ法被姿の若い女の司会が一人出てきた。司会が、
「セリーグ制覇を成し遂げました中日ドラゴンズの選手のかたがた、そしてフロントのかたがた、あらためて優勝おめでとうございます。それでは食事会に先立ちまして、中日ドラゴンズ応援会長××さまからひとこと」
 法被の男がマイクの前に立った。
「悲願のセリーグ制覇を成し遂げた中日ドラゴンズの選手諸君、ありがとう! そしてリーグ優勝おめでとう!」
 それだけだった。
「ありがとうございました。今シーズンも××さまは応援会長として大活躍でした。来年も優勝目指してがんばってください!」
「俺についてこい!」
 掛け合いの意味が不明だ。応援会長である彼が試合中どこにいるのかも知らない。選手一人ひとりの名前が読み上げられる。いちいち立ち上がり、礼をしては腰を下ろす。拍手とフラッシュの嵐になったが、段取りがよくわからないので周囲のまねをして立ち上がりフラッシュを受ける。ビールをついだグラスを持った江藤が最前部に進み出て振り向き、
「中日ドラゴンズの優勝を祝して、そしてわれらが一族郎党の健勝を願って、カンパイ!」
 と叫んだ。カンパイとみんなで唱和し、グラスを飲み干す。あとはフロント陣の長広舌もなく、給仕たちの手でテーブルに料理の皿が並んでいくだけだ。ただ食って飲めばいいようだ。ビデオカメラの群れが取り囲み、動き回る。早くいきたいと口走った祝賀会もこんな具合では、本気で北村席へ引き揚げたくなった。目の前、いちばん近い皿に載っているステーキだけを食って帰ろう。水原監督が、
「リラックス。日本人は行事好きなんだよ。今年じゅうに免疫力をつけといてね」
「はい」
「すばらしい受け答えだったよ。インタビューアーもたじたじだった。追加質問がなかったのがその証拠だ」
 何人かの選手たちがグラスを持って上座のテーブルにやってきた。フロント陣や私たちにビールをつぐ。グラスを打ち合わせ、あらためて乾杯。江藤が、
「マスコミには、金太郎さんの言った十年間の走馬灯ゆうんはわからん。ワシらにはわかる。ワシらを喜ばせるために野球をやるちゅう決意……うれしかったばい」 
 目を拭う。高木が、
「感動したよ。ついていくぜ」
「なんてすばらしい人なんだ」
 星野が抱きついた。
「星野さんは小川さんのお墨付きです。来年の沢村賞、がんばってくださいね」
「はい!」
 小山オーナーが、
「飲んでばかりいないで、食った、食った」
 給仕たちやカメラマンの往来が激しい。フォークやナイフの音がかしましくなった。退廃の影の薄い実直な人間たちの中に安らぐ。優勝した試合の話はおろか、日本シリーズの話も出ない。優勝の感激は一瞬のうちに、目新しくない記憶として遠くへ追いやられたのだ。
 会場の外れのステージに芸能人が次々と登場して祝辞を述べた。女優の富士真奈美、声優の森山周一郎(犬山高校では本多二軍監督の後輩)、高木ブー。こうしてプロ野球選手は何気なく芸能人と知り合うのだと知った。森山の話がおもしろかった。
「私森山は、犬山高校では投手兼外野手としてプロ野球選手を目指しました。金田正一さん率いる享栄商業にも勝ったことがあります。中日の秋季練習がうちの高校で行なわれたとき、私は西沢さん、杉山さんら当時の主力選手相手に投げましたが、すべてレフトオーバーされ、プロは無理、将来はどうしようと悩み、野球の次に好きだった映画の道に入りました。役者とは言え、球場で応援するときのスタイルは演技なしの真剣勝負です。きのうも一塁側スタンドから周囲の客が振り向くほどの太い声で、もっとしっかり振れ! と叱咤しました。第一試合の神無月選手です。畏れ多いことを言ってしまいました。すべてドラゴンズを愛するあまりです。ごめんなさいね」
 大爆笑になった。高木ブーは、
「ドラゴンズには高木守道さんはじめ、時夫さん、一巳さんと、高木という苗字の選手が三人もいて親近感を抱いてました。それでドラゴンズ派になりました。安易と言えば安易なきっかけだけど、応援しはじめると選手にも詳しくなったりして、観る楽しみが増えて愛着がどんどん湧いてくるんです。そして今年のような奇跡に巡り合えた。神無月選手、そして優勝。感無量です」
 だれも笑わなかった。富士真奈美は、
「私はむかしから巨人ファンですが、長嶋さんから今年の中日ドラゴンズはおもしろいと言われて、新聞も東京中日スポーツに代えて、ちょっと浮気しました。浮気したとたんにとんでもない経験をしてしまったので、来年から本気に変えようと思ってます」
 選手たちは静かにしていた。おもしろくなかったからだ。
 三時半。参会者たちに挨拶をして玄関を出る。ステーキも何も食わなかった。通りの向こうに下園公園を見て、だだっ広い錦通を歩きだす。疲れている。眼鏡をかけ、タクシーを拾う。
「牧野公園まで」
 アヤメの前の道路で降りて、来客を導く私道の向こうの大きな建物を見やると、植えこみの潅木に沿って優勝の幟がはためいている。

 
祝優勝中日ドラゴンズ 月末まで全品二割引き出血サービス

「ただいま!」
「おかえりなさい!」
 百江が式台に出てきた。すぐにユニフォームを脱ぎ、ジャージに着替える。直人はまだ午睡から覚めていないようだ。好ましい幻のフィールドの外に出て、好ましい現実に戻る。往ききできるあいだは全力で往ききしよう。居間で主人夫婦と菅野が、カズちゃんと何やら興奮気味にしゃべりながら茶を飲んでいた。
「ソテツ、コーヒー!」
 あえて声を高く上げてみる。厨房でトモヨさんが返事をし、ソテツの代わりに千鶴がコーヒーを運んできた。女将が、
「神無月さん、たいへんなことになっとるがね」
 座敷も騒々しい。テレビやラジオのニュースで大きく取り上げられたせいで、五百野の評判があっという間に津々浦々にいきわたったのだと言う。幻が戻ってくる。いや、現実と幻の区別がまったくつかなくなる。ホームランを打った感触も、ものを書いた感触も甦らない。主人が、
「あっという間に日本じゅうですわ。テレビ出演やらインタビューやら、依頼が殺到しとります」
 第一話をまるまる読み上げたラジオ局もあったらしい。菅野が、
「ファインホースの事務所にも席のほうにも、電話が引きも切らず入るんです。私も社長も取材を断るのに大わらわです。いま千佳ちゃんとムッちゃんが事務所で応対してます」
「すみません、出演依頼やインタビューは受けないということで一貫しといてください」
 主人が、
「二、三日もすれば収まるやろう。何ということもありませんわ」
 菅野は電話番の睦子たちに伝えにいく。すぐに戻ってきて、
「朝日グラフの売れゆきがすごいと、いま鯖井さんから連絡あったので、どうも、と言っときました」
 女将が、
「何日か前、謝礼のほかに、二百何十万円か振りこまれとったよ。よっぽど売れとるんやないの。写真集みたいなもんやから。うちにも二冊くらい送ってきてたでしょう」
「おお。居間の本立てにあるで。もう一冊は離れの本立てに飾ったる。もうシワシワになっとるが」
 私は菅野に、
「また取材の依頼がきても、よほどスケジュールが空かないかぎり、きちんと断ってね」
「ガッテン」
「きょう気持ちが決まった。ぞろぞろ芸能人がプロ野球界に貼りついてる。現役をやめたら、吉沢さんみたいにコーチなんかやらないで、球界とは縁を切ります。あの人すごいなあと思うような美しいプレイをする人びとがたくさんいて、それだけで楽しくなるという日常が送れるなら、スタンドの観客の気持ちになれるから残っても意味があるけど、それは望めそうもない。……引退してそのままチームに残る人、球界を離れて第二の人生を歩む人のちがいは何だろうね。とてつもない記録を達成したからといって、引退後スタッフに入らない人もいるし、逆に、現役時代大した成績を残していないのに、すぐスタッフに入る人もいる」
「残る人というのは、まず第一に、一匹狼でなく、球団に大きな貢献をしたタイプ、第二に、現役時代から独自の野球理論を持ち指導に向くタイプ、第三に、もとから球団の派閥に組みこまれているタイプ、といったような人たちでしょうね。球界特有のルールもあるから一概には言えないでしょうが、最終的にはフロントが扱いやすい人柄とか人間性の持ち主だと思いますよ。組織である以上、ハチャメチャな一匹狼がスタッフになりづらいのはどの世界でも同じです。神無月さんは、外見は第一のタイプに見えて、じつは扱いづらい一匹狼です。現役でこそ、営利主体のフロントとうまくやっていけますが、引退して利益に貢献しない姿勢をとったら、たちまち衝突します。テレビ解説か監督でもやって、頻繁にコマーシャルに出てくれないと」
「マスコミが、他人にやさしい人間としての生き方を教えてくれることもあるし、そのおかげで自分の価値を見定めて生き延びることもできるし、癒しさえ与えられることもある。でも、それはあくまでも現役として活躍しているときのことで、引退したあとまで、有名人漁りの団体や、マイクつきのビデオカメラ抱えた人たちと付き合って、やさしい人間でいるのはごめんです。やさしい人間として完成するには、とてつもない努力が必要だからね。ストレスで死んでしまう」
「そこが神無月さんのネックです。企業というのは宣伝で成り立っていますからね。神無月さんの考えだと、引退したあと、レストランかどこかに入ったとき、客たちが神無月さんのことを元プロ野球選手だなんてまったく知らず、何の注意も向けない―そんなのがいいんでしょ?」
「最高だね。無名人には自由な時間がたっぷりある。充実というのは、人から注目されることじゃないんだよ。そんなのは十歳児の夢だ。夢を果たすことで人のためになる時期にいるときは、自由というエゴを捨てて、拘束を嫌わずに人びとの幸福に貢献するのは正しい生き方だと思う。やさしさと強さという人間の理想を追究できるし、それで自分も癒されることが多いからね。……水原さんが引退するまではそうやって生きる。名を捨てて自由なエゴを獲得したあとは、注目なんかされてたら、おちおちものも食えないし、寝ることも、団欒を愉しむことも、旅することも、ウンコもセックスもできない」


         二十六

 主人が、
「菅ちゃん、神無月さんと話をしとれ。ワシ、ちょっと寄り合いに顔を出してくるで。二十五日の祝勝会のこと報告してくる」
 菅野は廊下に出ていく主人の背中を見送りながら、
「そろそろ、プロ野球に不満が出てきましたね」
「ドラゴンズ以外に対してね。水原監督はぜったいやらないけど、あのスタメン偵察要員ていうのやめてほしいな。複雑ぶってむだなことをしているだけだ。観客が気づかないうちに代えられてる」
「たいていの監督が好きですね。ゲームそのものより、作戦が好きなんでしょう。ゲームに負けたときの言いわけもききます。一生懸命やったが、作戦がまずかった、と言えばそうかと許してもらえますからね。何もせず放っておく監督が、いちばん勇気がありますよ」
「ピッチャー自身のの作戦もちゃんちゃらおかしい。初球打ちで有名なバッターがいるとする、打ち気にはやるバッターを外角初球カーブで空振り、二球目低目のスライダーでゲッツーに打ち取る、なんてね。そんなにうまくいくはずがない。一発逆転を喰らうのがオチだ」
「初球のカーブをじょうずに打っちゃうかもしれませんもんね」
「そう。ピッチャーは力のあるボールを投げるにかぎる。まだまだ不満があるよ。甲子園はなぜラッキーゾーンなんかつけて、広い球場という特色をなくしちゃってるんだろう。あそこに落ちるホームランがニセモノくさく見えてしょうがない。打ったほうが恥ずかしくなる。プロなら両翼百十メートルくらい、ナンてことないでしょ」
「甲子園はセンターが百二十メートル、これはいいんですよ。右中間、左中間が百二十八メートルもあるという変則形です。そこへ打った打球をホームランにしてやりたかったんでしょう」
「それでも百三十メートル飛ばせばいい。それでこそホームランだ」
「ふつうはそうはいきません。大リーグ級の飛距離と言われる神無月さんとはまったくちがいます」
「それを甲子園の売りにすればいいんだ。広くても狭くても、硬いフェンスがないとホームランの醍醐味を味わえない。後楽園のヘラの部分を網にして、それに当たったらホームランにしたらおかしいでしょう? 二塁打ならわかるけど。きっちりヘラを越えないとホームランにしていない。甲子園もラッキーゾーンはエンタイトルにすべきです。あの中にブルペンなんかこしらえて、フィールドの中を余計な選手が動き回っちゃだめですよ。日本一美しい球場が台なしだ」
「私にも不満があります。水原監督のことじゃなく、一般の監督のことです。神無月さんやドラゴンズの大半の選手とちがい、所詮プロ野球選手は自己顕示欲のかたまりです。それが指揮官になるのだから、監督になっても目立とうとする。やることは決まってます。主力の選手をあえて入れ替えたり、くすぶっている選手や故障明けの選手を復活させることです。これをやると、監督としての力量の証明になって名監督と言われるからです。水原監督はちがいます。肝心なところでは主力を入れ替えません。くすぶっている選手をあえて引っ張り出さないし、故障明けの選手は使わない。……諸監督に対するそういう不満が長年あったんですが、今年はスッキリしました。そういう監督がどんどん負けますから」
「ドラゴンズの選手自体が、新陳代謝に積極的だからですよ。現在の地位にこだわらないで、よいものに席を譲ろうとするんです。監督が差配する必要がない。くすんでいる選手を登用して、たまたま活躍しても、永続性を感じなければ、その後は使わないというきびしさも持っています。根気よく使うなんていう、監督の美徳のように言われているイイフリコギもしません」
 菅野は傍らにあった新聞を開き、
「新聞読んどいてくれと言われましたが、吉田義男が今年で引退です」
「ほかには?」
「巨人の金田、八時半の男宮田、中日の吉沢さん、板東さん、アトムズの村田元一、無徒史郎、赤井、大洋のジョンソン、佐々木吉郎、阪神の小玉、柿本、広島の横溝、阪急のアグリー、ウィンディ、南海のブレイザー、東映の伊藤芳明、西鉄の田中久寿男。これからもっともっと発表されますよ。二軍を入れたら百人以上でしょう」
「……容赦ないね」
「天国と地獄です。プロ野球は恐ろしい世界です。失礼なことを訊きますが……どうして神無月さんは書くんですか」
「書くことがどんな感覚か知りたいんです。自分の考えていることや感じていることに触れたい。たとえ一瞬でもね。中三の冬、野辺地の机に向かって、初めて読書らしい読書をしたときのことが忘れられない。そのときぼくは初めて、いまいる場所より大きな世界を見た。ニヤけ顔した馬鹿な野球少年の世界よりも大きな世界をね。……もっと見たくなった」
「書くことで」
「うん」
 書くことで自分をどう律するべきかわかっている。他人を模倣しないこと。模倣すれば他人の人生を生きることになる。生きていけるけれども、安っぽいものまねの人生だ。自分の選んだ人生を生きること。自分を知る機会を失わないために、そして永遠に自分を疑わないために。
 ファインホースの電話のピークは過ぎたようだった。千佳子と睦子が事務所から戻って、頭を突き合わせながらノートを繰っていた。睦子が、
「電話がきた分は一応メモをとっておきました。河北新報という宮城県の新聞社が、今回の連載が終わったあとの新たな連載をぜひ一考願いたいと言ってきましたけど」
「太宰治が昭和二十年にパンドラの匣(はこ)を連載した新聞社だね。畏れ多い。少なくとも次の作文が書き溜まって、推敲してからだね」
「わかりました。……郷さんの書くものは作文じゃありません。作品です」
「作文は書きっぱなしでいいけど、作品はほころびが生じたら、その理由を問わなくちゃいけなくなる。どうしてだろうって。……理想……たぶん、器の小さいつまらない理想を描こうとしたからほころびたんだってわかる。そしてそれが罪悪感になる。作文には罪悪感がない」
 睦子が、
「器の小さいつまらない理想なんてありません。理想というものはそんなネガティブなものじゃないんです。トルストイのように罪悪感なく自分の理想を描くことこそ文学者の正しい姿勢だと思います。郷さんは正しい姿勢で、身辺報告の作文ではなく人間の真実を追求する作品を書いてます。ふつうの思考では理解できないものですけど」
 千佳子が、
「ほんとに神無月くんの作品は子供でもわかる文章で書かれているのに、奥深くて、複雑で、それでいて胸を打つの。みんなそれがわかると、ちょっと信じられなくなって、シャクな気もするから、神無月くんの謙遜に合わせると思うわ。野球選手の書いた作文て」
「だから郷さん、自分の書いたものにわざわざ枠をはめないで放っておいてあげて。読む人の勝手な解釈と判断にまかせましょう」
「うん、わかった。そうする」
 西宮への旅の仕度のために二人は千佳子の部屋へ去った。イネが足に直人をまとわりつかせながら、カンナを抱いてやってきた。トモヨさんも厨房から引き揚げてくる。
「郷くん、東大の鈴下監督が、装着感がもっとよくなった眼鏡を送ると電話してきましたよ。傷がつきにくくて、防水機能もアップしたらしいんですけど、念のために防水ワックスも送るそうです。それから―」
「富沢マスターですね」
「はい。スパイクを三足送ったそうです。からだが少し大きくなったように見えるから、二十七・五センチじゃなく二十八センチにした言ってました」
 チビと言われた少年が、並以上のからだになっている。指の節もごつごつしている。これは幻でなく現実だ。
「ありがたい。東京から帰ったらそのスパイクでやろう。二人には名古屋名物をうんと送っといてください。それから岐阜の久保田さんにも」
 きちんとしたワンピースに着替えた千佳子と睦子がたのしそうに降りてきた。カズちゃんに買ってもらった小振りな革の手提げバッグを手に提げている。千佳子が、
「じゃ、お母さん、菅野さん、あとはお願いします。これから西宮へいってきます。十八日の午後に帰ります」
 女将が、
「気をつけていっといで。金魚の餌はだいじょうぶなんやな」
「マツモを浮かべておいたので、しばらくだいじょうぶです。十八日にマンションのほうに直接帰ってからこちらにきます」
 二人は私にキスをして、浮きうきと出ていった。
 優子たちアヤメの中番組が帰ってきた。
「天気悪いのに、信じられんくらいお客さんがきたねェ」
「杉本畳店の向かいに山田工業ゆう大きなビルが建ちかかってるでしょう。あの現場の人たちが朝昼晩と食べにくるのよ。十二月に完成らしいわ」
「中川区が本社の大きな会社らしいわよ。オフィス家具の専門メーカーで、従業員が二百人以上おるって」
「また、どっとくるね」
「このあたりで、大食堂っていったらアヤメだけだから、ライバルおらんもんね。お嬢さんの先見の明はすごいわ」
 口々にしゃべりながら、端の座敷で足を伸ばす。優子が、
「記者会見、あっという間に終わってしまいましたね。ちょうど混雑する時間帯だったから、店のテレビを観てる暇がありませんでしたけど」
「選手の話以外はつまらない会合だった。観なくてよかったよ。ああいうことやるのは球界のしきたりなんだろうね。水原監督の命令なら、しきたりでも何でも出ていくけど」
 キッコがソテツのおさんどんで箸をとるころ、カズちゃんや素子たちがアイリスから戻ってきてテーブルに着いた。直人が、おねえちゃん、と呼びかける。
「よう、美男子、これからごはんだね。うんと食べて大きくなりなさい。スープもたくさん飲んで」
「うん」
 キッコを流し見て、
「お、女生徒、まじめに登校だな。毎日熱心に勉強してるって聞いてるわよ。感心。大検なんかトットと受かっちゃうのよ」
「うん、がんばる」
 直人はカンナに乳をやっているトモヨさんの脇にちょこんと坐って、黙々と食べているキッコの口の動きを見つめる。幣原が直人の前にプレートを持ってくる。直人はそれをキッコの隣へ運んでいっていっしょに食べはじめる。カズちゃんが、
「トモヨさん、ソテツちゃん、きょうはお昼をいただくけど、あしたからけっこうよ。森さんと島さんのほかにコックさんを二人雇ったんだけど、店舗を拡張したところに食堂の空間を作ったから、お昼は賄いをしてもらえるようになったの。長らくご迷惑をおかけました」
「そう? でも、これからも都合がつかないときは遠慮しないで食べにきてくださいね」
「うん、ありがとう。キョウちゃん、さっき記者会見の様子を実況してたのよ。いつものとおり小気味よかったわ」
 素子がふざけて私の膝に尻を下ろしてキスをした。それから台所の手伝いにいった。テレビが点いた。大相撲九月場所三日目、つづいて六時のニュース。川端康成サンフランシスコ特別講演『日本文学の美』の話題。この人は美に関心があるようだが、情緒纏綿と見せてペダンチックな文章に美が感じられない。
 寄り合いから戻ってきた主人がアイリスの新しい料理人の話を聞き、カズちゃんに、
「そのコックは新聞広告で採ったんか」
「森さんがむかしの同僚をスカウトしてきてくれたの。七万円の給料のところを十万円出すって言って。コツコツ昇給してあげるつもり」
 晩めしが始まった。おさんどんに交じるトモヨさんのエプロン姿が美しい。
「いい腕には金を出すのがいちばんの誠意やからな。ところで、神無月さん、ちょっと気が早いんですけど、西宮球場の下調べをしましたよ。両翼百一メートル、ブルペンのあるラッキーゾーンまで九十一・四メートル、中堅百十八・九メートル」
「ラッキーゾーンがあるんですか。ちょっといやだな」
「甲子園と西京極もいやでしたか」
「はい」
「まだ試合をしたことはありませんが、大阪の藤井寺にもありますよ。ナイター設備のない球場ですけど」
「そうですか。阪急ブレーブスのホームランバッターは、長池と―」
 菅野が二杯目の茶碗を幣原に差し出しながら、
「矢野ですね。いまのところ長池が三十一本、矢野が二十二本」
「スコアボードには大型のカラースクリーンがついとります。四年前からです。日本一早かったんじゃないでしょうか。内野は土、外野は芝。収容人数五万五千人、鉄傘つき二階席、背つき椅子の内野席、照明塔六基、選手用浴場、記者室、広いトイレ、すべてが最新最高の設備の球場です。郵便局まで入っとります。外から見ると六階建てのビルですよ」
「問題はラッキーゾーンだな。両翼は深くてもセンターが浅いから、右中間左中間が後楽園よりずっと狭い。チョンと低目を掬われたら入っちゃう。苦戦しそうだな」
「神戸新聞を取り寄せました。前評判は阪急の四連勝が圧倒的に多くて、いちばん控え目な予想でも四勝二敗です。その理由がふるってて、ドラゴンズの管理能力の低さが致命傷らしいですわ。こうです―むかしから中日の管理体制はとりわけ甘く、練習時間や集合時間、寮の門限もうるさくない。そのため選手たちは好き放題できる。女性問題で寿命を縮めた選手は数知れない。そんなチームは、いざというときに力を発揮できないものだ」
「単なる中傷ですね。だいたい、数知れずってだれのことですか。そんな選手、聞いたこともない。みんなプロ野球選手として円熟期に入ってる年齢ですし、一人ひとりがリーダーとしてチームを引っ張ってきたんです。女どころじゃないですよ。それに、阪急はまだペナントレースの優勝をしてないでしょ」
 菅野が、
「近鉄と一ゲーム差です。残り二十五試合。ロッテとは七ゲーム差なので、ほとんど一騎打ちですね」
 カズちゃんが、
「マスコミの言うことにいちいち目くじら立てちゃだめ。プロ野球選手が誇れるものは野球の実力のみ。それをどうのこうの言われるようになったら、初めて進退を考えればいいのよ。あ、キョウちゃん、一月分までの五百野の原稿、落合さんに送っといたから」
「サンキュー」
 菅野が、
「作文なんて言っちゃって。スポーツ選手は無知だと思われてるから期待に応えてあげたんでしょ?」
「本音です。実際、ぼくは無知だから。でも、もうそういうことは言わないことにした。……ときには無知であることが精神的にいいこともあるんだけどな」
 菅野は耳を指で塞ぎ、
「聞く耳持ちません」
 笑いながらカズちゃんはクリームシチューをスプーンで掬って口に入れた。菅野が、
「オフは、テレビ、新聞、雑誌と各メディアに引っ張りだこになります。五百野も出版の方向へ動くでしょう。自主トレを怠らないようにしましょう」
「もちろん。サボるなんてことはぜったいない」
「あしたはどこへ走りましょうか」
「八時、日赤往復」
「オーケイ。則武へ迎えにいきます」
 夜道をいつものメンバーと歩く。百江がいなくなり、素子がいなくなる。則武に帰り着くと、メイ子が離れへ去り、カズちゃんだけが残る。



十章 優勝 終了


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