第三部


十一章 消化試合



         一

 九月十六日火曜日。曇り。二十五・六度。風あり。排便から始めて(便の硬さがこの数年とはちがう心地よいものになってきている)、律儀に日課をこなす。
 カズちゃんとメイ子がおはようのキスをし、
「あらためて、優勝、おめでとうございます」
 と言う。二人が朝食の支度をするあいだ、いつもブックスタンドに入れてある一日前の中日スポーツに目を通す。高く胴上げされている水原監督の写真と、スコアボードへホームランを打った瞬間の私の写真が〈優勝を祝った一発〉と銘打たれて一面に載っている。 
 心尽くしの朝めしを食う。辛子ナスと味噌汁。うまい。クジラカツ、胡椒をきかしたほうれん草炒め。うまい。キッチンの窓の外の雲が厚い。
 朝食のあと、二人は出勤。私は菅野と日赤往復。北村席へ。門前から公園の内部にかけて報道関係者がうろうろしている。
 永遠に終わらない自己達成の確認が、他人に評価されて有名になることでピリオドが打たれるなら、人の命はあまりにも単純で、さびしすぎる。黙々と自己達成に励んでいる姿を見すごされ、他人の手で確認の判を捺されず、有名にならなかった人間の人生は失敗の人生なのか。人間の失敗とはそんな単純なものなのか。西松の人びと、飛島の人びと、彼らは新聞に載らないし、ラジオにもテレビにも出ないが、すべてを包摂してかぎりなく偉大だ。カズちゃんも、山口も、トモヨさんも、素子も、トシさんも、雅子も、睦子も千佳子も、みんなみんな果てがなく偉大だ。私は有名ではなく偉大な人間になりたい。
         †
 川崎球場。対大洋二十五回戦。観客一万七千人。空席が目立つ。風が強い。スコアボードの旗が右へしきりに靡いている。
 水原監督はこの試合を負け試合に決めてきた。すべて控えメンバーで先発させ、レギュラーを休養させた。
 ピッチャー門岡、中継ぎ伊藤久敏、抑え水谷則博。キャッチャー新宅、ファースト千原、セカンド伊藤竜彦、ショート日野、サード徳武、ライト今年で退団の伊熊、センター江島、レフト江藤省三。
 対する大洋は、ピッチャー山下律夫、キャッチャー伊藤勲、ファースト中塚、セカンド近藤昭仁、ショート松岡、サード松原、ライト近藤和彦、センター江尻、レフト長田。ビシッとしたレギュラーメンバーだ。
 一回表、江藤省三、日野凡退のあと、徳武三遊間ヒット、千原フォアボール。ここで新宅が今シーズン第二号のホームランをレフト前段に打ちこんで三点を取った。そのまま八回まで無得点。二回以降ヒットは伊熊と日野の二本きり。
 大洋は五回裏に門岡から江尻が十六号ソロ、六回に伊藤久敏から近藤昭仁が四号ツーラン、同点。七回に水谷則博からピッチャーの山下が一号ソロ、八回に江尻が十七号ソロ。三対五。則博が打たれたのは意外だったが、二軍から上がってきたピッチャーがガチガチの一軍と対決すれば、結果はこんなものなのかもしれない。
 九回の表になった。水原監督は急に負けたくなくなったのか、まず私を水谷則博の代打で出した。期待に応え、山下からライト鉄塔に百三十八号ソロ。江藤省三の代打に兄の慎一が勇んで出て、センターオーバーの二塁打。日野の代打で出た一枝が一塁のベースぎわを抜く二塁打を放ち、江藤生還して五対五の同点。徳武の代打で出た高木がセンター前ヒット、一枝江尻の強肩を考え大事をとって三塁ストップ。千原ライトへ犠牲フライ。六対五と勝ち越し。新宅の代打木俣が初球をレフト上段へ三十八号ツーラン。瞬く間に八対五になった。怒涛の攻撃にスタンドも大洋ベンチも呆気にとられている。山下も何ごとが起きたのか理解できない顔をしている。江島サードライナーで攻撃終了。
 九回裏、水谷寿伸がクローザーに出た。この三点リードは危ない、と思ったとたん、近藤昭仁が右中間へ三塁打をかっ飛ばした。伊藤勲三振。松岡センターへ犠牲フライ。八対七。山下の代打重松、高く打ち上げるショートフライ。八対六で勝利。ほとんど負け投手になるところを、水谷則博に五勝目が転がりこんだ。
 ロッカールームで宇野ヘッドコーチが、
「あしたは大雨の予報で、中止の公算大だ。みんなゆっくり休んでくれ。たまには映画でも観にいってこい」
 川崎球場が休みなら、ネネも休みだ。ホテルに帰ったら電話をして、あした外で待ち合わせようと思った。事務的な気持ちはないが、救済の義務のようなものは感じる。中年や高齢の女の心のさびしさは、自分のからだを不用だと信じるさびしさからくる。
 池袋へ出て、封切り映画を見て、適当なホテルで一戦交え、駅のホームで手を振って別れよう。からだが満たされれば、ネネはしばらく心のさびしさを忘れていられる。そんな救済の思いに駆られるのも、私のからだが健康に動いているあいだのことだ。軟便や耳鳴り、頻脈、皮膚の弱さなどのことを考えると、とうていこのからだが長生きできるとは思えない。
 夜の十時、ホテルの部屋からネネに電話を入れた。一も二もなく約束が成立し、あしたの正午に池袋東口の階段を上ってすぐの信号の前で会うことになった。もう一人、胸にかかっている女がいる。セドラのアヤ。あした彼女の部屋から池袋へ出かけよう。
 十時半、シャワーを浴び、ブレザーに身を固めると、ふだんの近眼鏡をかけてロビーに降りた。フロントに鍵を預け玄関に出る。宴会場の遅い夕食会には参加しなかった。江藤たち一党も夜の街へ姿を消したので、宴会場の仲間たちに不義理をしている思いはなかった。
 スロープ下から少し歩いて紀尾井坂で個人タクシーを拾い、
「吉祥寺駅へ」
 と告げた。六十代の運転手は、
「千五百円ないし千八百円かかります。この時間なら渋滞はないですから、四十分ほどでに着きます」
「時間はかかってもいいので、安全運転でやってください」
 そう言って、五千円札を差し出した。
「オツリは取っておいてください。帰り道で客を拾えないとたいへんですから」
「ありがとうございます、遠慮なく。―このたびは優勝おめでとうございます」
「あ? どうもありがとうございます」
「路に立っていらっしゃったときに、一目で神無月選手だとわかりました。この時代に生まれ合わせて幸いでした。神無月選手をこの目で見ることができましたから。私、六十三です。ギリギリ間に合いました。冥土の土産にできます。百五十号を心から祈っております。プロ野球がつづくかぎり永久に破られない記録です」
「がんばります。校庭のソフトボールで毎試合ホームランを打ったと思えば、それほど大した記録じゃないですよ」
「アハハハ。噂どおりのお方ですね。直接お会いできてうれしいです」
 サインをくれとも言わず、それきり穏やかな顔で口をつぐんだ。
 御殿山には寄らないつもりだった。オフまでは会わない約束を守る。酔族館にもいかない。紀尾井坂を登り、左折して新宿通りに出る。四谷駅から新宿御苑を通り、南口の繁華街へ。ネオンの洪水。きらびやかな人工の街。
「空が真っ黒で、思ったよりきれいだ」
「はい。日本一です。野球場ほどではありませんが」
「そうですね」
 私は空のことを言ったのだ。新宿駅南口を右に見て高架橋をくぐる。ネオンのまばゆさは消えたが、まだまだビルの林立がつづく。ようやく高層ビルが途切れはじめ、初台、幡ヶ谷を通過。中野区をかすめる笹塚。
「この道は?」
「新宿通りに入ってからずっと国道20号線です。4号新宿線とも呼ばれてます。むかしの甲州街道ですね」
 明大前の標識。松原の信号を右折。十時五十五分。背の低いビル街を抜けていく。
「井之頭通りに入りました」
 永福町、浜田山、知らない標示板ばかりだ。
「あと十分ほどです。なつかしそうですね。大学時代はこのあたりに住んでいたんですか」
「阿佐ヶ谷と荻窪です。それから吉祥寺に住みました」
「電撃入団の家ですね」
「はい」
 運転手が寡黙に戻る。親しんだ街並を通って国鉄吉祥寺駅へ。
「ご苦労さまでした」
「ありがとうございました。いつも応援しております。ふだんはニューオータニのスロープ下に常駐です。いつでも声をかけてください」
「ありがとう、さよなら」
「失礼します」
 窓から辞儀をして走り去った。十一時十五分になろうとしている。眼鏡を外して胸ポケットにしまう。霧雨が降っている。ときどきまぶたにかかる。こじゃれた商店が数軒つづき、すぐに飲み屋や食い物屋の連なりになる。食い物屋は焼肉店とラーメン屋ばかり。豆腐屋、接骨院、化粧品店、薬局、不動産屋、小さなパチンコ屋、碁会所なども雑じっているのに初めて気づく。ちらほら見かける二階建てのマンションは一年前には一棟もなかった。細道に入り足を急がせる。セドラのドアの窓に薄っすらと灯りがある。営業中の明るさではない。おそるおそるドアを開ける。カウンターに洗い物の水音がする。
「ごめんなさーい、きょうは閉店でーす」
「……神無月さん?」
「はい、ぼくです」
 しばらく無言でいる。
「ひと回り大きくなって……。見ちがえちゃった。入って入って。ここに座って」
 カウンターに坐ると、まじまじと私を見つめ、
「優勝したばかりでしょう? こんなに夜遅くいいの、出歩いて」
「朝ごはんを食べにきた。あしたは雨の予報だから、試合中止。川崎球場はふつうの雨でも泥んこになる」
「御殿山は?」
「シリーズが終わるまではいかない」
「そう。……すっかり有名になっちゃって、ますます遠くなってく。小説書いたってニュース観て、すぐ中日新聞の購読申込みをしたわ」
 手を休めず洗い物をつづける。ボソリと、
「朝ごはんて……泊まってくれるってこと?」
「もちろん」
「うれしい。何時間もいっしょにいられるのね。……初めて」
 中年女らしくなくウブなうつむき方をした。
「あしたの十二時に池袋で人に会うことになってる。昼前までいる」
 アヤは表へ灯りを落としにいき、ドアの錠を閉めた。店の灯りを限界まで絞り、スカートと下着を脱ぐとカウンターに置き、ボックス席のテーブルに肘を突いて尻を向けた。
「露骨だけど、いますぐ一回して。一晩お話をしているうちに、神無月さんにその気がなくなっちゃったら、私、悲しいから」
「そんなことありえないよ。いままでだって一度もなかったじゃないか。心配しないで」
 淡い灯りに大きな白い臀部が浮き立った。私は近づき、ズボンと下着を足首まで引き下ろした。
「待って、神無月さんのものを握らせて」
 屈んだまま後ろ手で、そっと握ってきた。
「勃ってくれてる。すてき……カリがめちゃくちゃ大きい! まちがいなく神無月さんだわ。入れて」
 クリトリスとその周囲がじゅうぶん濡れているのを指で確認して、そっと挿入した。長い小陰唇がまとわりつく。熱い。
「ああ、いい! 大きい!」
 動かさずに、乳房を揉みながら、大粒なクリトリスを押し回す。すぐに膣に力が出てきた。動きながらクリトリスに愛撫を加える。
「ああ、いい、ああ、神無月さん、とってもいい、ああ、気持ちいい、とってもいい、ううう、ごめんなさい、私、もうイク、あ、イクイク、ごめんなさい、イクイクイク、イク!」
 両脚が伸びて尻が突き上がった。膝を屈伸させながら、二度、三度と達する。収縮を繰り返す大きな腹をなぜながら動きはじめる。ぐいぐい締めつけてくる。いつものとおり子宮が降りてきて愛撫する。
「あ、だめ、やさしくして、ゆっくり、ゆ……ああ、たいへん、興奮しておかしくなってる、だめ、イク、イクイク、イクイクイク、イックウウ!」
 猛烈に尻が前後運動する。摩擦が尋常でない。急速に射精が迫ってきた。往復を激しくする。
「あああ、神無月さん、もうだめ、またイッちゃう!」
「ぼくもイク」
「イッて、イッて、あああ、イクイクイク、気持ちいー! イックウ!」
 グイと後頭部が反り返り、ガクンガクンと何度も痙攣する。律動を伝えるたびに反射が起こる。腹をすぼめ背中を反らす。際限なく繰り返す。膣が前後に蠕動する。反り返りが治まりだすと、水音が立ち、小便が強く床を打った。
「恥ずかしい!」
 必死で止めようとするので、私はグッと突き入れた。
「イ、イグ、イグウウ!」
 残りの小便が迸り出る。あきらめたように痙攣に身をまかせている。しっかり水切りをしたあとも、尻と腹がこまかくふるえつづける。引き抜くと、ヒッ、とうめいてもう一度大きく尻をふるわせた。精液が床に糸を引いて落ちた。間隔を置いて、二筋、三筋と落ちる。私はボックスの椅子に腰を下ろし、彼女の尻をさすった。ふるえが治まると、アヤは胸から出したハンカチを股間に当て、私と隣り合って座った。
 私の性器がまだ屹立しているのに気づいて、咥え、舐め、時間をかけて清潔にした。
「ここは汚いから、カウンターにいってて」   
 私はズボンを引き上げた。彼女はカウンターに置いてあったパンティとスカートを取ってきちんと身につけると、アヤは店の奥の納戸からモップと角バケツを持ってきて、丁寧に精液と小便を拭い取った。それからカウンターの隅へいって、おしぼりと雑巾を何枚か重ねて戻ると、拭き残した汚れを念入りに始末した。もう一度奥へ引っこみ、水音を立てる。一連の作業を見つめながら、人間は存在しているだけで面倒な生きものだと感じた。


         二 

 二人でカウンターに向き合う。淡い光の中で、心なしか顔や姿がかわいらしく映る。
「あさっての試合は何時から?」
「夕方から」
「……ほんとに朝ごはん食べてってくれる?」
「うん」
「神無月さんは二十歳よね?」
「うん」
「いつも不思議に思うわ。若いのにデキた人。美男子で、おまけにアタマもよくて、そのまたおまけにプロ野球選手。世の中にはそんな冗談みたいな人もいるのね。長く生きてきてほんとによかった。人生って、捨てたもんじゃないわ。さ、お部屋にいって、コーヒー飲みましょ。サイフォンでいれること覚えたの。おいしいわよ」
 アヤは店内の灯りを落とした。カウンターの後ろ口から二帖ほどのコンクリートの土間を通って、階段の上がり框に出る。風呂場につづく鞘土間が見える。上に昇れば、寝室と書斎にしている六畳間二つ、居間の四畳半一つ、キッチン、トイレ。アヤは風呂に湯を埋めにいった。いっしょに階段を昇る。
「立派な家だ」
「一人暮らしには贅沢ね」
 四畳半の居間に落ち着く。隣の寝室にむかしのように脱ぎ散らかしがない。家具調度が整い、清潔な部屋になっていた。アヤは風呂に湯を溜めながら、サイフォンでコーヒーをいれ、一組の洒落たカップに注いだ。私がコーヒーを飲んでいるあいだ、アヤは五分ばかり寝室に引っこみ、普段着に着替え、髪を揚げて出てきた。ギョッとした。輝いている。ひととおり化粧を落としてきたのだろう。ふだんの化粧がパステルふうの塗り具合なので、地肌を見たことがなかったのだ。いや、一度いっしょにあわただしく風呂に入ったことがあったが、化粧を落とした顔をじっくり観察しなかった。あらためて見つめると、皮膚もまったく悪くない。尻と同じようにつやつやしている。コーヒーをすする。
「うまい!」
「ね」
「名古屋の五十一歳の恋人にそっくりだ。癌で子宮を取ったけど、しっかり快復した」
「お気の毒……」
「そうでもない。セックスはかえって敏感になったし、からだも健康そのもの。ぼくを残して死にたくないって気持ちが、彼女を快復させたんだね」
「幸せな人、神無月さんにいつも逢えて。……お風呂入りましょう」
 下へ降りる。たっぷり湯が溜まっている。アヤの胸は大きい。文江さんと同じように少し垂れかかっている。腹は引き締まっているが柔らかそうだ。並んで床几に腰を下ろす。
「ちゃんと化粧落としますね」
 アヤは桶の湯で化粧を落とした。巻き上げていた髪を下ろす。肉づきはたっぷりしているが、からだのバランスはカズちゃんに近い。
「豊満だね」
「おでぶさんよ」
 アヤは私を抱き寄せ、自分の質量をすっかり預けながら抱き締める。
「何度でも逢いたいけど、これっきりでもいいっていつも思うんです」
 私は頭を洗った。アヤは私のものをしみじみ見つめて、
「神無月さんのものは名刀中の名刀ね。このカリ見て!」
 股間から頭だけ覗いているものを五本の指でつまんだ。
「初めて遇ったときよりも少し長くなってる」
「成長したんだね。親切な人たちに鍛えられたから。でも、つくづく奇形だね」
「おかげさまで、とっても気持ちよくさせてもらってます」
 私は笑いながらアヤの顔を見る。眉が小バサミで摘(つ)んである以外は、まさに文江さんそのものだ。
「化粧は極端に薄くしたほうがいいよ。じゅうぶん美人なんだから」
「美人? 初めて言われたわ。じゃ、そうしてみます。シミが目立つから厚くしてたんだけど」
「気にしすぎ。へこみジミなんかが出てきて、もっと目立つようになってからでいいと思う」
 私が湯船に浸かると、アヤは湯殿でからだを洗った。私が湯殿に出て仰向けに横たわると、アヤは嬉々として跨ってきた。ゆっくり腰を沈める。
「一回一回、思い出は完璧にしないと。ン……あああ、気持ちいい!」 
 たぷたぷと腹を揺すりながら激しく上下動する。
「あ、だめよ、イッちゃだめ」
 自分に言い聞かせる言葉に逆らって、グンと達する。私は尻をつかんで突き上げる。
「ううう、ふっ、イックウウ!」
 密着して動かさないまま達しつづける。子宮口が降りてきて蠕動が激しくなる。射精を促した。
「アヤ、イクよ!」
「あ、あい、あい、気持ちいィィ! イクイク、イク!」
 抱き締めて上下逆になって弾力のいい腹に腹を重ね、律動を叩きこむ。
「だめだめだめ、気持ちよすぎ! クク、イクイクイク、イイック!」
 引き抜いて抱き締める。腕から逃れて跳ねる。追いかけて口づけをする。プハッと息を吐いて離れ、痙攣をつづける。何をしてもむだのようだ。私は浴槽に戻ってアヤが沈静するのを待った。苦しげな恍惚の表情を浮かべて腹を跳ね上げている。しかしその痙攣もやがて穏やかになり、ときどきピクッと引き攣るだけになった。
「たいへんだったね」
「すっごい。もうじゅうぶん。死んでしまう」
 むっくり起き上がって、肩から湯をかける。いっしょに湯船に入る。湯があふれ、ふざけ合って押しくらまんじゅうになった。二人声を上げて笑った。
「六月十三日から金土日と三日間お店を閉めて、後楽園にいきました」
「後楽園の切符を買うのはたいへんだったろう」
「ええ。日刊スポーツを一年とるという契約で、新聞屋さんに少しお金を払って、なんとか内野特別席の入場券を手に入れてもらったの」
 固く抱き締めてくる。
「神無月さんのホームランのものすごさ。あっという間の場外ホームラン、看板にドスーン。三日間で七十三号から七十九号、七本見たわ。七十九号はライトスタンドのいちばん上の列に飛びこみました。この静かなからだから、あんな火花が―」
「ホームランはぼくの最高の快楽なんだ。快楽を仕事として与えてくれた人たちに毎日感謝してる。感謝というのはとてもいい気分だ。彼らとともに生きて、滅んでいこうと思う」
 からだを拭いてもらい、着てきた下着をつける。アヤはパジャマ。
「焼きソバ食べる?」
「うん」
 その格好で店のカウンターに戻る。カウンターの灯をほんの少し明るくする。それでも薄暗い。目に馴染んできた薄明かりの中でフライパンの音が立ち昇る。
「幻が座ってるみたい。……ときどき思い出して泣いてました。恋しくて。二十も年上の女が情けないわね。でも、また逢えてよかった。いつも、もうこれでじゅうぶんていう気持ち」
 カチャカチャと焼きソバを皿に移す。
「はい、大盛り。食べて、力をつけて、何本でもホームランを打ってください」
 割箸を割って渡す。はふ、はふ、と焼きソバをすする。腹が満たされていく。アヤは目を細めて見つめている。
「きれいな人。空から降ってきたの? きっとそうね、天馬だもの。後楽園の試合、清潔なユニフォーム姿がスッと立ってて、この世のものと思えなかった」
 女は男をこれほどに愛慕できる。四戸末子を思い出した。ユリさんを思い出した。心臓が縮んだ。
「残しちゃったわね」
「ぼくも胸がいっぱいだから」
「歯が浮く言葉だけど、信じる。ふつうの人じゃないもの。芸能人の女とお忍びならわかるけど、巷のこんなオバチャンのところに……」
 アヤは残りの焼きソバをきれいに平らげた。
「あのおいしいコーヒー、もう一回飲もうか」
「ええ、そうしましょう」
 店内の灯をすっかり落とし、階段を昇っていく。アヤの棲み家。つやを出した細い廊下が居間の明かりに反映する。居間から寝室へいき、窓を開ける。ビルの壁しか見えない。狭い空から大粒の雨が落ちてきた。心なしか風もある。水面が揺れるような罪の意識が萌(きざ)した。いつもの感覚だった。感覚の奥に自分への憫笑がうごめいている。
 寝室を出て、二人キッチンのテーブルに落ち着く。アヤはもう一度サイフォンでコーヒーをいれる。
「おいしい。店でも出してるの」
「ええ、リクエストがあるときだけ。見よう見まねでいれたコーヒーだから、あまり自信ないの」
「都立西高出身て言ってたけど」
「正確には、都立第十高等女学校。私が卒業した翌年に改称して、都立西高等学校という男女共学校になったの」
「高校時代は新宿や池袋によく遊びにいった?」
「いきました。特に池袋。高校時代はちょうど戦後の闇市が盛んなころで、焼け跡にバラック建てで長屋式の露店が出てた。千軒以上。飲み屋もあった。市電も走ってた。池袋東口は闇市の先駆けだったの。食料や衣料が不足してる苦しい時代だったけど、戦時下とちがって開放感があふれてたわ。女子供は近づいちゃダメと言われてたけど、好奇心旺盛な若者には当然抑えられるわけもないものね。神無月さんの生まれた昭和二十四年に、西武百貨店池袋本店ができて、闇市はだんだん消えてった。三十七年に東武百貨店できて、闇市は完全に姿を消したわ」
「ほんの七年前か」
「まだ少し闇市の面影が残ってる場所もあるわ。美久仁(みくに)小路がそうね」
「どのへん?」
「東口のppmの信号を真っすぐいって、豊島女子学園の手前。池袋はいまもミルクホールって名前をつけた喫茶店が多くて、いい感じ」
 豊島女子学園がどのあたりかわからないが、聞いているだけでほのぼのとした気分になる。
「ふうん、不思議だなあ。ミルクホールなんて明治や大正のころの名前だよね」
「そう。牛乳とパンなんかを置いて、軽い食事をしてもらう店をミルクホールって言ったの。関東大震災からこっち、飲み物中心の喫茶店が流行るようになった名残」
「関東大震災!」
「それほどむかしのことに感じないわ。大震災は大正十二年だから、私が生まれるたった六年前。大震災のあと、池袋駅の東口から南北に明治通りがバス路線として開通して、すごく賑わったの。バーッと喫茶店が並んだ。と言っても、家十軒に一軒ぐらいだけど……もの心ついてから何年も見てきたミルクホールって看板が目に焼きついてます」
「そういう時代に育ったんだね。……六畳二つ、四畳半一つ、台所、風呂、便所。一人暮らしには贅沢なくらいだって言った理由がわかる。でも、一人暮らしはあきらめと孤独が基本だから、どんなことも贅沢に感じさせるんだ。ほんとはさびしいはずだよ。……せいぜい訪ねてくるようにするからね」
「ありがとう……。名古屋の五十一歳の人も一人暮らしでしょう?」
「うん。でも、書道のお師匠さんをしながら人と接して忙しくしてるから、一人暮らしのようなさびしさはないと思う。ひと月に一回くらい抱いてあげてる。五十代だし、セックスもそのくらいでちょうどいいんじゃないのかな」
「少ないと思う。いくら病み上がりでも、こんな気持ちいいこと、ひと月もがまんしてたら身も心もおかしくなっちゃう。私は長年一人暮らしに慣れ切ってるから、何カ月、何年に一度でもがまんできるけど、好きな人がそばにいて、いつも抱いてもらえる可能性があるとなると、疼いて仕方なくなるかも」
「その人も、二十何年も孤閨を守ってきた人だから、我慢はふつうのことなんだよ。強い愛情がなければ毎日したって何の喜びにもならない。からだの喜びだけを求めてかえって空しくなってしまう。愛があれば、数少ない充実のためにいくらでもがまんできる」
「すてき……。癌は再発してないんですね」
「してない。いまは順調だ。警戒も怠ってない。ぼくはいつもまんいちのことを考えてるけどね。自分なりに心準備もしてる。とにかくいまはだいじょうぶ。アヤは、親戚は東京?」
「うん、じつは池袋の生まれ。育ちのほとんどは吉祥寺。両親も親戚も相変わらず池袋に住んでる。いままでこんな話、したことなかったわね。適当に嘘言ってたかも」
「アヤは嘘を言わないよ」
 二人キッチンを去り、六畳の寝室に落ち着く。テレビ、箪笥、鏡台、扇風機、文机、書架、すべて小ぎれいにしてある。
「本がたくさんあるね」
「実家が明治通りで雑貨屋さんしてたから、少し裕福だったの。ラジオの少女歌手やってたのもそのころ。十代のころに杉並に越してきて、女学校では茶道部に入ってた。多少は本を読んだけど、教養というほどのものにはならなかった。……読書なんて、さびしさを紛らすためのものよ。世間にはろくな本がないから。越してきたと言っても、なんだか辛気くさい実家で暮らすのがいやで、第十高女に越境入学して、下宿したの。ときどき池袋に帰ってたけど、本気で歌手を目指すようになってからは、いろいろあってちょっとグレちゃって、池袋には寄りつかなくなった。こんな商売するようになって、いまでは実家や親戚とはすっかり疎遠。法事ぐらいしかお付き合いはないわ」
「人まねでない人生はすばらしいよ。……人間て、さびしいものだ。犬や猫のように独自に生きられない。いっせいに学校にいって、いっせいに勉強して、いっせいに金儲けのために世間とやらに出て、人に雇われたり、商売をしたり、貯蓄にかまけたり、人にめでたがられて結婚したり子供を育てたり、だれにも振り返られずに老後をすごしたりする。どれもこれも人まねだ。その行動自体がさびしいんじゃなく、人まねがさびしい。アヤは人まねでなく生きてきた。でもね、よく考えるとその独自性も怪しいもんだ。人まねでない行動を探してみても人間世界には一つもない。意義など無理に見つけようとしても見つからない。そんな者同士、ただ一つの寄る辺は、愛し合うことだけだ。そんな存在でも愛してくれる人がいるということ、そんな存在でも愛さずにいられないということだ」
 涙を溜めてアヤが抱きついた。
「つまらない女ですけど、末永くお付き合いしてくださいね」
「こちらこそ」


         三

 アヤは小首をかしげ、
「……女がたくさんいると、マスコミの目がたいへんね」
「みんな徹底した秘密主義を通してるから、だいじょうぶ」
「秘密にするのなんてあたりまえのことですね。青い鳥を逃がしちゃったら一生不幸だもの。……心から愛してます」
 アヤの大きな胸を弄びながら、
「いつかぼくに誘いをかけてくれたことがあったけど、有望な歌手を育てたことはあったの?」飲み代をタダにしたりして
 アヤは首を横に振り、
「専門家じゃないから育てるなんてできない。……五年前、目をかけてあげた子が一人いたわ。セドラの常連さんで、ときどき得意そうにみんなの前で唄ってみせて、とっても渋いハスキーな声なので、みんな驚いてた。私は、歌心がないなって思った。いろんな店で喉自慢しながら、二十五近くまでふらふらしてた。……見かねて、私がむかし落ちたレコード会社に紹介してオーディションを受けさせてあげたの。でも二度落ちて、とうとうクニに帰っちゃった」
 阿佐ヶ谷一番街のアシビのミドリちゃんを思い出した。ママの顔は思い出せなかった。
「つらい話だね。……でも、ふるさとでいい男に遇い、いいお母さんになって、むかし取った杵柄で、カラオケ仲間たちから尊敬されながら生きていく。そういう生き方もすばらしい」
「やさしい人……」
 試合の疲れが出て、うとうと眠りに入る。一打席しか出場していないが、その一打席のために常にからだが準備しているので、全打席出場したのと同じくらい疲れる。アヤも一日の仕事の疲れが出たのだろう、私の胸にそっと手を置いて寝息を立てはじめた。 
         †
 九月十七日木曜日。九時起床。タイメックスは二十一・四度。アヤはすでに起きて朝風呂の用意をすませ、キッチンでコーヒーをいれていた。いいにおいがただよってくる。寝室の窓にきのうよりも強い雨。カーテンを分けて見上げる空が狭い。キッチンへいく。
「あ、神無月さん、おはようございます」
「おはよう」
「お風呂どうぞ。歯ブラシも用意しておきました。すぐご飯にしますからね」
「どうもありがとう」
 軟便をし、シャワーを浴び、歯を磨き、洗髪してから湯船に浸かる。耳鳴りは遠く聞こえるくらい。コーヒー。アヤは日刊スポーツを用意する。

   
神無月毎度の百四十メートル弾
 十六日川崎球場対大洋二十五回戦。中日ドラゴンズ神無月郷外野手(20)がまたまた特大弾を放った。九回表ノーアウト、三対五の二点ビハインドで水谷則博の代打で登場し、完投勝利目前の山下律夫からライト照明塔半ばに打ち当てる推定百四十六メートルの特大ソロホームラン。百三十八号。これで中日は勢いに乗り、江藤、一枝、高木、木俣の代打攻勢に移ると、二塁打、二塁打、シングル、スリーランと連打して一挙に五点を奪って逆転、そのまま快勝した。チーム八十八勝目。あしたの大洋戦を入れて十カード、残り二十四試合となった。野球ファンの興味は、ドラゴンズの百勝と神無月の百五十号本塁打、その二点に絞られた。奇しくもあと十二勝、あと十二本―。
 なお大リーグでは四百四十フィート(約百三十四メートル)以上を特大ホームランとしている。甲子園球場の場外弾を含めて、これまで神無月が何本の特大弾を放っているのか見当もつかない。


 カウンターで朝めしを食った。アヤは、きょうのおつまみに出すつもり、と言って、冷蔵庫にある残りものをほとんど天ぷらにした。豚肉、ソーセージ、チクワ、タマネギ、ゴボウ、ミョウガ、生シイタケ、ネギ、ナス。私は醤油と大根おろしで、一種類ずつぜんぶ食った。
「年内にもう一度これるかもしれない。約束はできないけど」
「無理しないで。いつでも待ってますから。野球も小説も、がんばってね」
「うん」
「球場には時間を作って、できるだけたくさん観にいきます」
 十時半。相合傘で吉祥寺駅までアヤと歩いた。晴れ上がった表情をしている。私は睡眠がもの足りない気がした。改札口で明るく握手して別れた。だれも私たちを見ていなかった。人は目的を持ってうつむいて歩くので、プロ野球選手ごときに目を留めないということがこの半年でじゅうぶんわかっている。目を留めるのは接客商売の人間か、徹底したミーハーか、マスコミ関係の連中だけだ。しかし眼鏡をかけるぐらいの最低限の努力はして、なるべく面倒は避けなければならない。
 まだ待ち合わせの時間まで余裕があったので、新宿で途中下車。紀伊国屋書店に立ち寄る。思想書のコーナーへいく。左右田(そうだ)喜一郎・文化価値と極限概念、北村透谷・徳川氏時代の平民的理想、羽仁五郎・東洋における資本主義の形成、小倉金之助・日本の数学。背表紙に圧倒され、何も手に取れないまま、ただ書棚の前をうろうろする。中に題名がわかりやすい福田英子・妾(わらわ)の半生涯という文庫本があったので、を引き出してページを開ける。擬古文とまではいかない古風な文体だが、自分を徹底して罵る〈はしがき〉を一読して、読んでみる気になり、買う。
 池袋まで数分の山手線の車中でわずかにさきへ読み進める。秀才の誉れ高く、男装で通学していた少女時代、近所の子供たちから〈マガイ〉とからかわれた事実を的確な嘲笑罵倒だったと認め、みずからをマガイモノとして第一章を始める。あとはホテルに帰ってから読むことにして池袋で降りる。
 西武百貨店を背面に見上げる池袋東口ロータリーの前で傘を差して立つ。信号の横断路の半ばに、二酸化炭素濃度を表示する電光板が建っている。柴田ネネのやってくる気配を覗いながら、眼鏡越しにppmの電光板を見つめている。
「神無月さん!」
 背中からやってきた。傘の下のあでやかな笑顔が私を見上げる。ふんわりとしたスカートに下半身を包んでいる。ニッコリ笑って、
「あいにくの雨で、たいへんだったでしょう」
「いや、からだを休める恵みの雨だ。二回できるね」
「はい!」
「お腹は?」
「すいてます」
「池袋で有名な料理店知ってる?」
 ネネは、
「月亭(つきてい)というのを聞いたことがあります。北口らしいです」
「反対口だね。探すのはたいへんだ。タクシーに乗ろう」
 新宿駅や池袋駅は構内を突っ切って反対口へ出るのは一苦労だ。百円の初乗り料金でいける距離だと思ったので、タクシー乗り場の若い運転手に、
「申しわけない。つりはいらないから」
 と言って五百円札を渡す。彼は上機嫌で車を走らせ、何曲がりかして踏切を渡り、さらに何曲がりかして、月亭の前につけた。白提灯に墨字で日本料理月亭、雨に濡れた木製の大看板に同じ文字。繁華街の真ん中に落ち着いた雰囲気で異彩を放っている。周囲に静かなたたずまいのラブホテルもある。一石二鳥だ。
 水を打った石玄関から渋い格子戸を引いて入る。石土間の大花瓶にホウセンカズラの緑がかった白い清楚な小花が活けられ、片隅に古びた石灯籠。予約はしていないと和服の仲居に告げると、支配人のような背広男が飛んできて、彼女に耳打ちをした。通りがけの廊下から大部屋を覗くと、五、六十人が相席していた。
「あそこでいいんだけど」
「こちらへどうぞ」
 仲居に従って広い階段を上り、六畳の四人部屋に通された。掘炬燵式になっている。
「神無月選手でございますね。お忍びと拝見いたしましたので、こちらの個室でおくつろぎくださいとのことです」
 私は眼鏡を外した。
「ありがとう。まず、生ビールの中ジョッキを二つ持ってきてください」
「承知しました。少々お待ちくださいませ」
 ネネが肩をすくめて笑う。
「その顔は隠しようがないです。大部屋なんかにいって、騒がれなくてよかった」
 仲居は据え置きのポットから二つの茶碗に麦茶をついだ。違い棚の花瓶に濃い紫の葛(くず)が形よく活けてある。テーブルの上の品書きを見る。
「飛騨牛のすき焼き、まずこれだね。それから、山菜のてんぷら、どんぶりめし」
「私は、ランチの刺身定食」
「それから、ウニ茄子ステーキも一人前ください」
「はい、少々お待ちくださいませ」
 しばらくして、女将らしい中年女がさっきの仲居といっしょにビールを運んできた。
「ようこそいらっしゃいました、神無月さま。ご来店いただき光栄でございます。このたびは優勝おめでとうございました」
「どうも、ありがとうございます」
「きょうのご様子ですとお忍びでしょうから、お食事が終わるころにタクシーをお呼びいたしましょうか」
「いや、それには及びません。忍びというほどのことでもないので、そのあたりをぶらぶらして帰ります。立教に学生野球のころの友人もいますし、そいつを訪ねようと思ってますから」
「そうですか。帰りは裏手からお出になりますか」
「いえ、自然に出ます」
「わかりました。目立つといけませんので、お帰りの際のこちらの応対もさりげないものにさせていただきます。ごゆっくりどうぞ」
「どうもお気遣いありがとうございます」
 たしかに、ホテルに入るところを写真に撮られたりしたら厄介だけれども、その種のカメラマンは芸能人専門だ。プロ野球選手を追いかけることはまずない。女将が畳に手を突いて去ったので、仲居に注文を確認する。仲居も平伏して去った。
「やあ、まいった。公の場所ではのんびりしてられないね」
「有名というのは不便なものです」
「逆境に興奮して、もう、チンボに血が入りかけてる」
 ネネは身を屈めて笑う。
「やっぱり、夜に私がニューオータニに参りましょうか?」
「これから何時間も待つのは蛇の生殺し。食事したらそのへんのホテルに入ろう。その種の商売人は見て見ぬふりをするから」
 飛騨牛のすき焼きは、しいたけ、豆腐、ネギ、エノキ、花形ニンジン、白菜などを甘辛いタレで煮こんで、じつに美味いものだった。飯のお替わりができるというので、二杯食った。山菜の天ぷらはグリーンアスパラが特に味わい深かった。ネネは、
「本マグロでしょ、生ウニでしょ、かんぱち、アオリイカ、どれもこれも、とても新鮮!」
 とか、
「ウニと茄子の相性が抜群!」
 などと言いながら大喜びで箸を動かした。
「刺身定食だけじゃ足りなかったろう?」
「ほんと」
 部屋で勘定をすまし、仲居に心づけを千円渡した。玄関で女将に手渡された靴べらを使った。
「ごちそうさまでした。とてもおいしかった。またきます」
「心待ちにしております。どうぞご都合のよろしいときにお運びくださいませ。ありがとうございました」
 野球に関して励ましの言葉をつけ加えたそうだったが、遠慮して深く頭を下げた。二人表へ出て歩き出す。雨が強い。
「ごちそうさま。ほっぺが落ちそうでした」
「準備オーケー?」
「もちろんです。歩きづらいくらいです。腰も張ってます」
「ひさしぶりだものね」
「はい、いつだったか忘れました」
 裏通りへ入る。飲み屋や風俗店を抜けていく。傘を差した背広姿の牛太郎が私たちを見つめている。通りを抜け切ると、人けのない一角に、ホテルアトランタという入口の狭い連れこみがあった。建物自体も嵌めこまれた厚板のように薄い。ご休憩二時間千五百円。朝五時から夕方五時までサービスタイムとなっている。ためらわずに入る。たがいの顔が見えないようになっている穴場の女に三千円渡し、
「これで、部屋の清涼飲料水を一本ずつ飲めるようにして。お釣りはいらない」
「ありがとうございます。三階の二号室へどうぞ」
 鍵を渡され、小さなエレベーターで上がる。窓も何もない部屋。シングルベッド、コーヒーテーブル、怪しげな有料テレビ、小型冷蔵庫、ソファ、ガラス張りの浴室。二人裸になってベッドに横たわり、百円を入れてテレビを点けてみる。ボカシの入った、あえぎ声だけのわざとらしいエロビデオ。料金分が終わるまで流しっぱなしにする。



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