十三

「それじゃ影響を受けられませんね。自分で申し出て、キャッチャーからファーストに転向したんですよね」
「ちょっとちがうんだ。へたくそだったんだよ。プロじゃ通用しないひどいキャッチングで、ピッチャー全員からクレームがついた。伊奈努さんとか中山俊丈さんとか、江藤さんが受けるとなると、もう勘弁してくれって言うんだ。それで杉下さんが、リーグ屈指の吉沢さんを抜けるキャッチャーには到底なれないと判断してファーストに回したんだ。とにかくバッティングがよかったから」
「監督が濃人になって、吉沢さんを放出して江藤さんにキャッチャーをやらせたのは、江藤さんにとってはありがた迷惑だったんですね」
「たぶんそうじゃないかな。日鉄二瀬のころから肘に持病を抱えてたから。あの三十七年。の一年間でかなり悪化しただろうね。翌年も新宅と併用でちょぼちょぼ使われた。板ちゃんは三十七年から三年間不調で、二勝から六勝しかしていない。不思議だね、歩調を合わせてるみたいだ。板ちゃんも肘に持病があったしね。以心伝心というやつかな。二人とも社会人時代、高校時代の猛訓練のせいというところまで、とにかく運気が似通ってる。こじつけかもしれないけど、俺はそう感じてる。三十八年から杉浦監督になった。新宅はその翌年に木俣が出てきて控えに回された。慎ちゃんはレフトに。慎ちゃんはファーストからキャッチャー、そしてレフトとコンバートされてもいっさい関係なし。バンバン打ちつづけてきょうまできてる。三百号」
「板東さんも去年まで七十七勝も挙げて、準エースをつづけてきましたよ」
「十年で百勝もいかなければ、準エースとは言えないよ。十勝以上をあげた年がたった五回だ。慎ちゃんみたいに発奮して成果を出せるのは天才だけだと、ものすごく早いうちから自分を見切っちゃったんだよ。決定打は入団一年目のオープン戦だった。西沢さんの引退試合を南海相手に中日球場でやったんだ。西沢さんの花道ということで、南海はエースの杉浦、中日は甲子園を沸かせた新人の板ちゃん。杉浦は西沢さんの三振も含めてバッタバッタ、板ちゃんは三回まで五失点。三回裏に九番で初打席が回ってきた。ピンチヒッターでも出してもらえれば、あそこまでショックを受けることもなく、その後の投手生命を延ばすことができたと思うよ」
「杉浦さんのボールのすごさにショックを受けたんですね」
「そう。板ちゃんの言ったとおりに言うと『ストレート、カーブ、ストレート。ボールが速すぎて見えない。カーブのスピードは俺のストレートより速かった。バットを振ることさえできずに三球三振。あれでまだオープン戦の調整段階だぜ。あんな球、これからどんなに練習を積んだって投げられるはずがない。プロとの実力差を否が応でも突きつけられた。俺ごときではプロで食っていくのに限界がある。俺は自分を見切ったよ』。……その試合で慎ちゃんは杉浦を打ち砕いたんだ。西沢が一打席で退いた四回裏、慎ちゃんが三番に入った。いつもの弾丸ライナーをレフトスタンドに突き刺した。杉浦との対決の初打席でだよ。板ちゃんに尊敬心が芽生えた。影響よりももっと大きなものだね。入団一年目から二人はずっとその関係で結び合ってるってことだよ」
 江藤がいつまでも板東を抱きしめていた理由がわかった。列車に乗り合わせた初日から深い友愛を感じてきたからだ。
         †
 翌二十一日日曜日。七時半起床。うがい、軟便、シャワー、歯磨き。曇天。二十一・九度。すっかり暑気は去った。
 テレビでプロ野球ハイライトをやっている。きのうの敗北に非難の声は上がっていない。まず板東の引退試合であったことが考慮され、レギュラーメンバーでほぼ全イニング戦ったことが考慮されていた。後半に一部のレギュラーを引っこめたのは、少しでも中軸選手に休養を与える気配りであったろうと好意的に受け取られていたし、控え選手を適宜用いたのは、消化試合のあいだに来年の戦力を多少でも閲(けみ)しておこうとする前向きの姿勢の表れだろうと、やはり好意的に受け取られていた。とりわけ、二試合に跨って六連続フォアボールのあと、同点に迫るホームランを打った私の真剣な戦いぶりから見て、この試合で戦略的に力を抜いたわけではないと明言している論者もいた。
 ロビーのベンチで午前の陽に顔を曝す。朝食を終えて通りかかった鏑木を誘って、山下書店までゆるいジョギング。
「江藤さんから聞きました。もうぼくたちには教えることはないって」
「はい、自主性を養うことがランニングの要ですから、神無月さんの入団以降、外からチームに手を加えることが何もなくなりました。ときどき二軍にもコーチングにいくんですが、まず足りないのは覇気ですね。精神性は手本がいさえすれば向上することなので、それは一軍に上がって神無月さんを目の当たりにするということを意味するんですが、そこは力を貸してやれないので、コンディショニングのほうに専念することにしました」
「トレーナーの勉強ですね」
「はい、池藤さんにくっついて勉強しています。まんいち神無月さんが故障したときは私にまかせてください。……故障しない人ですけどね。デッドボールすら一度もないんですから」
「ユニフォームをかすったのと、ショートバウンドがスパイクに当たったやつ、二度ありましたよ。しかし、一年契約のつもりが長引きましたね」
「優勝した瞬間、神無月さんがスタンドを見回していた表情が忘れられません。あの静かな笑顔を何年も見ていたいと思いました。神無月さんが在籍するあいだの契約を本部に申し出て、フィールドのランニングコーチだけは欠かさないことを条件に、快く受理されました。ゆっくり勉強します」
         †
 午後から少し気温が上がり、すがすがしい青空になった。対アトムズ最終二十六回戦。先発は、長身ノッポの石岡。六年目二十八歳、またこいつか。大きなカーブでカウントを稼ぎ、速球で勝負にくる。低目のコントロールがよく、高目は伸びる。私はカーブを打つつもり。
 ドラゴンズは固定メンバー。先発星野秀孝。勝つ試合だ。
 一回表。石岡立ち上がり好調で、中ファーストゴロ、高木三振、江藤を三振に切って取る。しかし二回からはガタガタ。私は初球、外から急角度に曲がり落ちてくるカーブを叩いて、ライト前段にライナーの百四十号ソロ。水原監督とこぶしの突き合せタッチ。木俣も初球のカーブをレフト中段へ三十九号ソロ。照れくさそうにこぶしの突き合わせタッチ。ここで石岡は速球主体に切り替え、菱川セカンドゴロ。太田三振。一枝はその速球をライト前へ弾き返した。九番星野。彼は先天的にバッティングがいい。真ん中高目の速球を嬉々として右中間へ持っていき二塁打、一枝長駆生還。三点。中、内角低目の速球を左中間へ流し打つ二塁打、星野生還して四点。高木ショートゴロでチェンジ。
 三回、江藤高目のシュートをレフト上段へ五十九号ソロ。五点。ピッチャーサウスポーの巽一に交代。童顔、十年目、三十三歳。スリークォーターから投げるシュートの切れがいい。そう思っていたところへ、初球から膝もとのシュートを放ってきた。ボールに見えたけれど、思い切り掬い上げる。ライトポールの上方を通って防球ネットを越えていった。大ファール。もうここには投げてこない。二球目、自信のシュートを遠目の外角へ。飛んで火に入る―屁っぴり腰で強いスイング。ラインドライブする打球がかなり余裕を持ってレフトポールを巻いた。六点。
「鬼だァ!」
「神さま仏さま天馬さまァ!」
「タマヤー!」
 沸き上がり逆巻く喚声の中、長谷川コーチとハイタッチ、チャンスのファーストミットとハイタッチ、水原監督とハイタッチ、仲間全員と両手でハイタッチ。
「神無月選手、百四十二号ホームランでございます」
 木俣三振。ほんとうにドラゴンズ打線はメリハリがある。菱川、外角高目のカーブを叩いて、ライト中段へ三十一号ソロ。七点。太田、センターオーバーの二塁打。一枝、セカンド頭上のライナー、太田思わず飛び出し、中野から送球を受けた東条が太田にタッチしてアウト。
 四回表。ピッチャー緒方に交代。もうほとんどのピッチャーが、またこいつかになってきた。八年目、二十九歳、ドカタ顔。江藤が、
「去年一勝したきりの男くさ。ほとんど敗戦処理のバッティングピッチャー。どの試合も引退試合やな。気持ちよくフリーバッティングしちゃろうや」
 バッティングの好きな星野から攻撃開始。気持ちよくライト前ヒット。中、同じくライト前ヒット。高木の二球目、ダブルスチール。成功。球場じゅうにドドッと歓声が湧き上がる。高木センターフライ。星野還って八点。江藤、セーフティバント! 
「ヒョォォ!」
 ベンチの喚声。今季初どころか、彼の人生で初。もちろんまんまと成功して、ワンアウト一、三塁。水原監督が手を叩いて大喜びしている。
 緒方は私の登場にガチガチに緊張して、中と江藤がランナーでいるのを忘れ、ワインドアップして思い切り外角高目にスピードボールを投げてきた。体重を後ろ足に残し、楽なレベルスイングでレフトフライを打ち上げる。フェンスの前でロバーツが捕球。ショートの東条に返球する。中生還。九点。木俣フォアボール。ツーアウト一、二塁。簾内にピッチャー交代。スリークォーターのフォークピッチャーだ。菱川の代打に江島が出る。田宮コーチが、
「タクミ、フォークがこんうちだぞ!」
「はい!」
 初球、外角へスライダー。見逃す。ボール。二球目、フォーク、ショートバウンド、ボール。ピクリともせず見逃す。江島は今シーズンここまで三本のホームランを打っている。平安高校からおととしドラ二で入団。去年一年目からレギュラーで七十試合に出て、三試合連続を含む五本のホームランを打った。いかんせん打率が一割台なので、今年は一発屋として控えに回されている。私より六カ月年下の十九歳だ。三球目、カーブが内角から曲がり落ちてくる。百七十五センチ、八十二キロのガッシリしたからだが豪快に旋回する。
「ようし、一発!」
 田宮コーチと森下コーチが三塁ベンチから飛び出る。打球はふっ飛んでいくという感じで左中間中段に突き刺さった。四号スリーラン。背番号37が高く右手を突き上げる。来年はもっと若い番号に昇格するだろう。長谷川コーチとタッチ。水原監督とタッチ。私たちとタッチ。十二点。
 太田に代打が出る。葛城。フォアボール。ピッチャー交代。新人の藤原真。ここまで九勝八敗。江藤が、
「藤原は慶應で肘ば痛めとる。大学野球出身のピッチャーは、たいてい肩肘に爆弾抱えとう。浜野もそうやったろが。まともやったのは、南海の杉浦と阪神の村山ぐらいやろうもん。大投手はほとんど高校出ばい。バッターは高卒大卒関係なかばってん」
 一枝の代打、日野、三振。
 五回表、星野秀孝からの打順。きょう三本目のヒットが右中間への一号ソロになった。十三点目。中、高木、江藤と凡打し、店仕舞い。私も五回裏の守備から伊熊に交代した。
 星野は被安打三、フォアボール一つ。六回まで投げ切って降板した。
 五回の裏から八回の裏まで、中日は総取っ替えメンバーで戦った。ファースト千原、セカンド伊藤竜、ショート日野、サード徳武、レフト伊熊、センター江島、ライト葛城、ピッチャーサウスポーの松本、キャッチャー吉沢。藤原のできは意外とよく、彼から打ったヒットは千原の八号ソロ一本だった。
 七回裏、ツーアウトから、ヒットの東条とチャンスを一、二塁に置いて、丸山のショートゴロを一枝がハンブル、あわてて二塁に悪送球して、東条が生還。つづく久代が二号スリーランを打って、四点。同じ左腕の大場にスイッチ。大場は藤原と同様意外な好調で、散発四安打を打たれたが、どうにか九回裏までゼロに抑えた。
 十四対四で勝利。星野十勝目。ドラゴンズは九十勝十四敗五分け。百九試合を戦い終えた。残り二十一試合。
         †
 ニューオータニのロビーで、宿泊組と帰宅組ごたまぜになってさざめき合う。ユニフォーム姿の水原監督が、
「とにかく風呂に入って汗を流してから、めしを食う人は好みの店で贅沢しなさい。今夜帰る人はとっとと荷物をまとめる。じゃ次回は、二十七日土曜日午後、中日球場で」
 足木マネージャーが、
「二十七日から阪神三連戦です。二十八日はダブルヘッダー。あ、それから、あさって二十三日午後一時から、CBCのスタジオで優勝インタビューの収録があります。よほど都合が悪くないかぎり、一軍選手は参加してください」
 宇野ヘッドコーチが、
「阪神三連戦は、十九、二十、二十一回戦。日曜日はダブルヘッダー。そのあと一日置いて巨人三連戦。十月二日までは名古屋だ。十月四日五日と広島で二連戦。注目! 神無月くんはおとといの盗塁三個で三十八個になった。巨人の柴田が現在二十四個。うちの高木くんが二十個、中くんが十九個。このまま黙っていても、十中八九神無月くんの盗塁王が決まったと思う。最多出塁数もこのままだと四百を超えるだろうから、王を百五十前後凌いでタイトルを獲ったと思う。拍手!」
 盛大な拍手。中と高木が、おめでとう、と大きな声をあげた。意外な報せだった。四球や敬遠で走るチャンスが増えたおかげだ。うれしいタイトルだと思った。
「はい、それでは一週間お疲れさんでした」
「お疲れさんでした!」
 五日間の中休みに入った。からだじゅうの力が抜ける。汗を落としに部屋に戻る。風呂から上がって着替え、四試合分の荷物を段ボール箱にまとめると、ダッフルとバットといっしょにフロントに預けた。何人かのホテルマンたちにねだられ、色紙にサインする。まとめてホテル従業員にサインするのは初めてのことだ。チャンスを狙って色紙を用意していた客もちらほら寄ってくる。彼らにもサインする。従業員にカメラを託し、私といっしょに写真を撮る客もいる。カウンターの中へ招かれ、フロント係たちとも写真を撮った。足木や鏑木や池藤たちも寄ってきて、集合写真を一枚。宿泊組も降りてきて、それぞれリクエストを受けて写真を撮られる。江藤が、
「金太郎さんは帰るんやろ」
「はい、吉祥寺に。あしたの午前中に名古屋に帰ります」
「ワシらは新幹線の夜行ばい。じゃ、いくけん。二十三日のCBCセンタービルと、二十五日の北村席さんの優勝会でな」
「はい。楽しくやりましょう」
 江藤を頭に、菱川、太田、星野、江島、則博、土屋、そのほか何人かの帰寮組と固く握手し、帰宅組の吉沢とも握手して別れの挨拶をする。監督以下コーチ連、トレーナースタッフ、足木マネージャー、中、木俣、小野、小川、高木、伊藤竜彦、一枝、葛城、新宅、伊藤久敏らは宿泊組として残った。徳武と千原と江藤省三はタクシーで東京の実家へ去った。
 吉祥寺へいく予定はない。ただ部屋でのんびりと一人ですごし、あしたゆっくり出発するつもりだ。


         十四

 宿泊組の木俣や高木と、しばらく野球談義や裏話をしながらコーヒーを飲む。裏話のほうが多い。高木が、
「ベンチに水の入ってないバケツが置いてあるだろ」
「はい」
「あれ、蹴っ飛ばし用。ピッチャーが交代させられたり、バッターが三振食らったりしたときの鬱憤晴らしだね。去年は二十個以上潰れた。今年は一個。浜野。あいつはベンチの折り畳み椅子も、ロッカールームの机も放り投げた」
 彼の怒りの根はいまもってわからない。木俣が話題を変える。
「毎年開幕直前に、中日ドラゴンズの必勝祈願を熱田神宮でやるんだ。球団オーナー、監督、コーチ、レギュラーメンバーがお払い受けたりして」
「ぼく、知らされてませんでしたよ」
「イベントが嫌いだって噂だったから、気を使ったんだろう。去年の優勝祈願は杉下監督だったんだけどさ、横からスイングするように拍手打つんだけど、彼がでっかい手でうまくやったあと、小山オーナーの拍手がほぼファールチップで、グシッ、みたいな音がしたんだよ。みんな笑いをこらえるのに必死で、たいへんだった。何も祈れなかったなあ」
 単純におかしかった。高木が、
「神頼みしてるときに、笑うのは不謹慎だものなあ」
「そうだよ、みんな必死で笑いをこらえてたぜ。で、最下位。あれ、オーナーの拍手のせいだろ」
 三人声上げて笑った。私は、
「神頼みと言えば、高木さんは何か験担ぎありますか?」
「試合前にファンに触られないこと、かな。運がつくんじゃなく、運を払われる感じがしてさ。金太郎さんは?」
「ぼくはほぼ運だけの人間ですから、運を途切らせないことは重要です。いつもユニフォームの尻ポケットにお守りを入れてます。運と同居」
「似合わないけど、わかるような気がする。むちゃくちゃな才能もラッキーだと信じてる男だからね。抜け上がった謙虚さだ」
 木俣が、
「そういう自力を恃まない信念は、謙虚さをもたらすだけじゃないよ。油断や傲慢の防止にもなる。ピッチャーは二回に打たれるやつが多いんだ。一回に好調な滑り出しをしても、そのテンションを保てない。上出来をホッとしちゃうんだよ。そういうときに、お守りでも握ってればテンションを維持してくれるだろう。金太郎さんが連続打席ホームランをよく打つのは、そういうこともあるかもな」
 アクのないすばらしい言葉だ。目が潤みそうになる。高木が、
「しかしあれだな、今年の歓声はすごいな」
「たしかに。ドワーッて感じだもんな。あの歓声聞くと、どうだ、うちの四番は、って威張りたくなるよな」
「中日は理不尽なイビリのないチームでよかった。金太郎さんは余計な神経使わなくてすんだ」
 私は心から驚き、
「そういうことが、かつてあったんですか」
 木俣が、
「中日はない。おたがい強く尊敬し合ってるからね。その点、大リーグにいちばん似てるチームだって言われてる。日本はほとんどのチームでイビリがあると聞くな。浮いてるやつがやられるそうだ。浮くというのは、いろいろなパターンがある。雰囲気、言葉遣い、人気度、才能、給料、などなど。中日でなかったら、金太郎さんはキャンプのときからとんでもなくイビられてたろうな。シゴキじゃなく、上下関係を利用した嫌がらせでね。中日はもともとそんな体質でないところへ持ってきて、才能だけじゃなく人格のすごさを見抜ける連中がほとんどだったから、ひれ伏すところまでいっちゃった。それを監督コーチが率先したから、ますますだね」
「日本はすぐに責任転嫁するところがあるからな。ミーティングをやらなくなったのは正解だよ。そんなものやると、中心選手やリーダー格の選手が話して終わることが多い。ドラゴンズは、ルーキーだろうが、試合にぜんぜん出ていない控え選手だろうが、きっちり自分の思ったことを言う。尊敬し合ってるからだよ。俺が瞬間湯沸かし器になるのも、尊敬心があればこそだ。一人ひとりをヒーローと感じて、見くびってないってことだ」
「精神的に力の不均衡がないってことだな」
「達ちゃんは相変わらずキレるな。利さんと双璧だ。さすが博士だよ。さあ、消化試合が始まったぞ。スタンドがさびしくなってきた」
 私は、
「一汗かいたあとの風が冷たく感じます。秋なんだなあって」
 高木が、
「赤とんぼが飛んできたり、虫の声が聞こえたりすることもある。自然を感じるというのは、俺たちもそうなんだけど、シーズン中のガツガツ感がなくなったということなんだよね」
「個人記録で気力を高めてるやつは、ペナントレースと同じように、ある意味ガツガツしてると言える。慎ちゃんの六十二本、俺の五十二本。ま、俺は無理だけど、慎ちゃんはマリスを抜くだろう」
「……整理対象選手が目立ってくるというさびしさもある」
「うん、ベテラン選手を引っこめて、若手や控えをパーッて使うことも出てくる。ベテランがビール飲みながらスタンドから野次飛ばしてるなんてことも見かけるようになる。味方選手にだぜ。ほのぼのとするな。それも消化試合の特徴だ」
 もっと話を聞きたいと思ったが、高木が膝を叩いて立ち上がったので、仕方なく私も立ち上がった。木俣も立ち上がりながら、
「来年バッティングコーチでくる杉山さんは、とぼけておもしろい人だよ。去年、松山のキャンプのとき、地元の人がフェンスのそばを歩いていた杉山さんに、コーチのかたですか、って聞いたんだ。そしたら杉山さん、いえ、愛知の豊田市の出身です、車の生産で有名な市ですって答えたんだ。その場にいた全員大笑いしたよ。ドラゴンズはそういうチームだ。いつまでも安心して野球をやってくれな」
「はい」
 部屋に戻りベッドに横たわる。天井を見つめる。目をつぶる。私を取り巻く善良な人びとが発するきらめきがまぶたの裏を走る。根強い命への嫌悪が遠ざかる。善良でないものに対する怒りはとっくに捨てたと思っていても、まだどこか胸の底にくすぶっていることにふと気づくことがある。この先また善良でない人びとに苦しめられたら、命への嫌悪の淵に沈むかもしれない。それでは生き延びられない。
 ―怒りの記憶を封印していまに生きられるか。
 怒りを捨ててこそ、最も合理的な方策を見つけて、不合理な人生に立ち向かうことができるだろう。その方策はたぶん脆いものだ。脆いけれども、かろうじてその方策のおかげで、善良でないものへの嫌悪に攻めこまれることはなくなる。善良な人びととの連帯の絆を強めることで延命することができる。命を棄てるとするなら、理由はほかにある。私の延命にかかずらう人びとへの感謝の念が途切れることだ。
         †
 朝の十時まで眠った。カーテンを透く光線が曇っている。二十度くらいか。尿意を抱いて裸のまま洗面所へいく。小便と歯磨きと排便をすませ、シャワーを浴びてからロビーに降りる。テーブルにコーヒーをとり、手もとの新聞を開く。山口高志という初めて聞く名前の男に関する記事を読んだ。ほぼ三面ぜんぶを使った特集記事だった。         

 この春、関西大学野球部監督達摩(たつま)省一(33)は、就任五季目を迎えた。強い関大を押しも押されもせぬ常勝チームにするため、達摩は毎年好素材の発見に努めてきた。
 昨年達磨は関大の非常勤講師をしている先輩から、山口高志という無名のピッチャーの話を聞いた。昨年の春・夏と二季連続で甲子園に出場している神戸市立神港高校の三年生。ボールは速いが、プロのスカウトはマークしていない。理由は百六十九センチという身長だ。ほとんどのプロ野球関係者は、からだの大きな選手ほど将来バケると思いこんでいる。達摩は甲子園での審判の経験を通して、さまざまな有能な選手を見てきた。そのせいで、ガタイに対する偏見を持っていなかった。先輩の話を聞く前は噂ですら耳にしたことのなかった選手だが、ピンときた。
 今年、社会学部社会学科にトップ推薦をかけ合格させた。山口は、入学前にさっそく徳島県小松島の春季キャンプに参加した。同期のピッチャー長沢は言う。
「練習でタカシを初めて見ました。ぶったまげました。ダイナミックなフォームから投げるボールはとんでもなく速いし、砲丸みたいな重量感もありました。一度ブルペンでキャッチャーのまねごとをしながら受けたことがあったんですが、怖くて半身になってしまいました。それでも全力投球じゃないんですよ」
 山口はさらにそのボールに磨きをかけた。陸上部OBの大学職員がトレーニングコーチとして、二週間にわたる投手中心の体力アップの指導の任に就いた。二十キロランニング、ポール間ダッシュ三十本、いきはトップ、帰りはジョグ、五十メートルダッシュ五本、同じくいきはトップ、帰りはジョグ。ほぼ五時間にわたる過酷な走りこみメニューだ。血尿が出る選手も続出した。関節の可動域を狭め、肩や肘を痛めるとタブー視されていたウエイトトレーニングも積極的にやらされた。山口はまじめにこなした。彼が言うには、高校時代の真冬に、須磨浦を砂袋引っ張って走らされた特訓のほうがつらかったらしい。いずれにせよOBのトレーニングは実を結び、効果は如実に表れた。下半身が安定し、腕の振りが早くなったせいで、さらに球速が増した。ボールにパワーが加わったのだ。
 山口は一年生ながら、四年生のエース久保田に次ぎ二番手に座った。背番号は十年前の関大の先輩村山実の11をもらった。山口は期待を裏切らず、いきなり三勝を挙げた。いまのところ春秋七試合に投げて、自責点二、防御率○・六七。秋はあと二試合に投げる予定だ。
 現中日スカウト部長の榊慶彦は、山口のブルペンを見て驚いた。今年大阪森ノ宮の日生球場に大学リーグ戦を観に出かけたときだ。
「そりゃあ強烈でしたよ。山口がブルペンでウォーミングアップのための立ち投げを始めると、キャッチャーがミットを下に向けて捕球するんですよ。かぶせる感じ。それくらいボールがホップして伸びるってことです。立ち投げでですよ! 全盛期の尾崎が髣髴としました。試合になってもすごかった。バットに当たらない。当たってもボールがなかなかバットの芯を食わない。ベチャッて音が多かった。とにかく当たればマシなほうで、キャッチャーフライでもカーンといい音がした。三年後のドラフトで彼がセリーグにきたら、神無月くんの好敵手になる。一瞬その思いがよぎりました。もしうちにきてくれたら、星野と二枚看板で十連覇も夢じゃありません」
 この秋、関大は三カード目の近大戦から達摩がチームを離脱し、コーチの木村憲治が指揮を執っている。達磨がチームを離れた理由は、学生運動の激化である。東大闘争の余波は全国の主要大学に広がっている。関大も内ゲバで死者が出たり、学校施設やグランドを使えない時期もあったりした。達摩はいったん監督の任を離れ、学生課の一職員として事態の沈静化に尽力することになった。そういう苦境の中で、関大は春につづいて秋もリーグ優勝を決める勢いで突っ走っている。もちろんその原動力の柱は山口高志である。
 特筆されるのは、速球投手といえば長身という通念(たとえば金田正一184、尾崎行雄176、江夏豊179、堀内恒夫178、星野秀孝178)を覆して、169センチという小柄なからだで、日本の野球史上ナンバーワンの速球を投げるという点である。その秘密は、腕を真上に伸ばして完全円を描くように振り下ろす担ぎ投げに加えて、地面に指がつくほどからだを前方に深く折り曲げる独特の投法である。これはだれもまねのできない彼だけの特徴である。長沢が山口に訊いたことがある。
「なんでそんな人間離れした速球が投げられるんや」
 山口が答えた。
「球を離す瞬間に手首を立てるんや。ボールに力が加わる」
 リストの反動で生まれるパワーをボールの推進力にプラスさせるということだ。ふつう投球寸前に手首や手のひらは直線状になる。瞬間的に手首を後方に折ることなどまずできない。山口はそれをやる。やはり他の投手に決してまねのできない山口だけの特技なのだ。
 ―早くプロへこい、山口高志。そして、神無月郷との一騎打ちを見せてくれ


 たしかに山口高志という名を聞いたのは初めてだった。榊さんがその無名の山口なる人物を見にいっていたとは知らなかった。山口のヤの字も口に出さなかった。私との勝負はまだまだずっと先のことだと考えたからだろう。リリースの瞬間に手首を立てることはできない。直前に立てるのだろう。それはすべてのピッチャーがやっているが意識はしていない。山口の場合はあえて意識するということだろう。彼のしていることは、私のバッティング作法に似ていると思った。インパクトの直前に左手首を返して地面に平行に送り出し、そこから絞りに入るという作法だ。それは私にしかできないと江藤は言った。山口のように意識はしていないが、自分のバッティングの重要ポイントと感じてきたのは事実だ。山口高志という名前が急に身近なものとなった。四年後、彼が社会人へいかなければ、グランドで会える。


         十五

 ロビーにはもう一人も仲間たちがいない。もう一つ別の記事を読んだ。神無月郷という人間に対するドラゴンズの選手たちの感想という記事だった。これまでのインタビューの断片を集めたものらしかった。

 江藤「この世の人ではなかと思っても、どうしょもなく惹かれるばい。ワシは人間としての成長の模範にしとる。野球に関してはすごすぎて参考にならん」
 星野「温かくて、とてつもなく大きい。いっしょにいられて毎日が夢のよう。夢の人」
 菱川「すごいスイングですよ。学べない。そんなことどうでもいい。泣きたくなるほど好きな人」
 高木「彼といっしょにプレイできることに感謝している。ぶっ飛びすぎてて学習させてはくれないけど、自主的な努力をきっちりさせてくれる。偉人だね」
 中「彼のおかげで選手寿命が三年は延びた。どんな薬よりも効くカンフル剤」
 太田「中学一年の春に出会ってから惚れこんでます。死ぬまでいっしょにいます」
 小川「心の宝。考えるだけで胸が熱くなるよ。女よりタチが悪い」
 小野「ジャンヌ・ダルク。やっぱり天馬。地上の人じゃない」
 一枝「全力で思いどおりに生きようとしてる人間だね。人間は見習えても、技術的にはぜったい見習えない人間。ただ、そういう人間がいると思うと勇気のもとになる。人間捨てたもんじゃないってね。それを痛感させてくれた初めての男」
 木俣「純粋無垢の極み。雪野原。握手するといつも目が熱くなる」
 沢「私の仏さまです。毎日お祈りしてます」
 千原「並んで立ち小便できない人。感想なんて畏れ多い」
 江島「どこかへいく途中でふらっと立ち寄って、いっしょに野球をしてくれてるんだなって感じてます」
 徳武「きれいな雛人形。野球をやってるのが不思議。ユニフォーム姿にゾクッとするね」
 葛城「野球人生ぎりぎり間に合って出会えた。神無月くんもいつか年とるのかなあ。考えると怖い。いや、考えたくないね」
 伊藤久敏「明石の公園で井手といっしょに散歩してたとき初めて口を利いたんだよね。雨の日でね。濡れたベンチに寝そべってた。奇妙な感じがして話しかけた。最初は新米のくせにえらそうなことを言うやつだと思ったけど、そのあとすぐに、怠惰に生きてるやつをするどく嗅ぎつける恐ろしい人間だとわかった。猛烈に反省したね。今年五勝できたのは彼のおかげです」
 門岡「口を利いてもらえるだけでありがたいです。そばにいられて毎日が楽しい」
 伊藤竜彦「遠い人。黒い空で星のようにキラキラ光ってる。いつも映画スターを観るような感じで眺めてます」
 水谷寿伸「技術、人間性、すべてにおいてみごとな人としか言いようがない。眺めてるだけですね」
 水谷則博「中学のとき、ばかでかいホームランを打たれました。あのころから悔しく思わなかった。次元のちがうホームランでしたから。入団式のときそのことを言ったんですけど、神無月さんは何も憶えてないんです。相手ピッチャーのことも、自分のホームランのことも。この半年で、人間のレベルがちがうということもわかりました。彼は記録のことなんか何も考えていない。ときどき教えてあげたり、表彰してあげたりしないと、ぜんぶ忘れてしまいますよ」
 長谷川コーチ「人間じゃない。でも抱き締めるとあったかいんだなあ」
 田宮コーチ「どんな割れ鐘も、でかくていい音を出させるメガトン撞木(しゅもく)だね」
 半田コーチ「生きたままレジェンドね。千年、二千年、もっとね」
 森下コーチ「もう一度生まれ変われたら、幼稚園から会いたいね。いっしょに三輪車乗ったり、アメ玉買ったりして遊びたいね」
 水原監督「永遠に抱いていたい赤ちゃん。目の中に入れても痛くない」


 顔がゆがんで涙が流れた。
         †
 サツキでフライドチキンとジャムトーストを食った。部屋に戻ってダッフルにジャージを詰めていると、電話が鳴った。
「上野さまからお電話です。おつなぎしましょうか」
「はい、お願いします」
 明るい声が飛びこんできた。
「遅ればせながら、あらためて、中日ドラゴンズ、優勝、おめでとうございます!」
「ありがとう」
「三冠王おめでとうございます!」
「ありがとう。まだ決まってないけど」
 深い信頼を感じさせる軽やかな笑い声。近況報告を始める。
「毎日新聞に就職したマッチョ臼山さんは、今年は大阪本社のスポーツ部で見習いをやって、来年から中部支社だそうです」
「名古屋駅前の毎日ビルだ」
「臼山さんもそれを楽しみにしてました。半年は取材できるって。俺は神無月の唇に長いキスをした唯一の男だって自慢してました。あ、それから、ドラゴンズ球団広報の下通さんという女のかたから、神泉のマンションのほうに直接電話があって、ウグイス嬢の話はスムーズに上へ通ったから、安心して二年後の試験を受けてほしいとのことでした。神無月くん、ありがとう!」
「よかったね」
「はい、ほんとに。中日球場のベテランアナウンサーだそうですから、事前にアナウンスの専門学校で勉強するよりは、下通さんから直接学んだほうがいいと思ってます。それより、あと二年間のうちに、もっと野球そのものを詳しく学んで、スコアブックをしっかりつけられるようにならないと」
「スコアブックはぼくもつけられないよ。そんなのどうでもいいとは思わないけど、つけられない選手が多い。じゃ、さっそくテスト。マウンドの高さは?」
「アメリカでは昭和二十五年から去年までは三十八センチに統一、今年からは二十五・五センチに統一。日本はまだ三十八センチです。角度とスピードをつけられるので、相変わらずピッチャー有利ですね」
「正解。じゃ次。肘にいちばん負担のかかるボールは?」
「フォークボール」
「正解。理由は?」
「指を広げると、肘の内側と外側の腱につながってる肘に負担がかかり、手首を振らずに固定して投げなければいけないので、その負担が最大限になるから」
「正解。沢村賞を三回も獲ったフォークの王様村山は、なぜか肘は痛めなかったけど、指と腕の血行障害を起こした。今年十二勝を挙げて、二百勝まであと三勝と迫ってる。ぼくの尊敬するピッチャーだ。関大出身の彼の後輩に、山口高志というとんでもない後輩が現れた。その記事を今朝読んだ。重いフロートボールが武器のようだ。その新聞記事の中でドラゴンズの榊スカウト部長が言ってるように、きっと四年後にライバルになると思う」
「神無月くんは浮き上がるボールを苦にしないんでしょう?」
「厳密に言うと、速球を苦にしない。だから、バッターボックスの前に出られるんだ。浮き上がるのはだいたいボックスの真ん中へんで最高点になるから、ボックスの前に出ると浮き上がる前に叩くことができる」
「球界随一の動体視力、瞬間視力、コントラスト感度の持ち主という記事も読んだことがあります。そういう目の力はナイター向きでもあるんですって。暗い球場でも明るい球場と同じようにプレイできるって」
「トリ目だから、それは無理だ。同じようにはプレイできないけど、眼鏡をかければ苦労ないね。じゃ次。理想的なホームランの打球角度は?」
「二十五度。ただし、バットの真芯より五ミリ程度先で捉えること」
「正解。四十五度だと内野フライになる」
「でも、そうできるのは才能がなければ無理だと言われてます」
「かもね。五ミリ先なんて狙ったことないから、才能があるということになるのかな」
 詩織は話の水を名古屋に向けた。
「名古屋のみなさんはお元気ですか」
「うん、元気。カズちゃんは喫茶店と食堂の経営、素子はその社員として一生懸命働いてる。睦子と千佳子は名古屋大学にかよってがんばってる。素子と千佳子は夏期合宿で運転免許をとったよ」
 法子が、
「私も原付しか免許がないから、名古屋にいったら車の免許をとろうっと。和子さんはときどき電話をくれます。困ってることはないかって。ありがたいです」
 名残惜しそうに息を継ぎ、
「道でファンに寄ってこられたら、どう対応してるんですか?」
「ぼくだとわかっても、意外と声をかけてこないものだよ。ホテルの玄関とか、球場のゲートとか、ここならだいじょうぶという場所でしかキャーキャー言わない。道端で三船敏郎や石原裕次郎に出会っても、あ、あれは、と袖引き合うくらいで寄っていかないだろう? 身近の愛する者以外、人というのは根本的に関心がないんだよ」
「そうですね、遠くから眺めているだけね。文字どおり星のように。私たちみたいに、身近の愛する人がスターだというのは、ほんとに特殊な関係ですね」
「……このごろつくづく、スター性を伴う仕事は、形式的な結婚生活と相容れないものだってわかってきた。そういう人たちの結婚生活がつづくほうが驚きだ。優秀なスターなら優秀なほどつづかないだろうと思う」
 詩織が、
「優秀性と結婚生活とどういう関係が?」
「優秀さを発揮することは使命なんだ。結婚生活などという厄介ごとに関わる暇はない」
「厄介だと思うからじゃないかしら。私たちも結婚しているようなものだけれど、迷惑に思わないでしょう?」
「愛情を大切に思っているので、おたがいに意識しなくても迷惑をかけ合うことはないんだ。そういうわがままのない関係は結婚とは言わない。男と女の友情関係だ。セックスを伴うというちがいがあるだけで、男同士の友情とまったく等価値なものだ。結婚は不自然な契約だ。一夫一婦は不健全だし、不毛な喧嘩や不快な妥協だらけで、しだいにカップルは自分を見失い、惨めな姿を曝す。ぼくの母のようにね」
「お母さんも結婚しなければお父さんと愛し合えたと?」
「結婚という制度に拘らなければその可能性があっただろうね。父しか肉体の悦びを与えられない相性だとわかれば、深く愛しながら父だけに拘ることができたし、そうでなければほかの恋人を探すことが自由にできた。形式に拘ってぐずぐず結婚生活をつづけたので、愛情の喜びを経験することもなく、結局自分を見失ってしまったんだ。父は歌人として立つのは夢に終わったけど、少なくとも一級建築士として優秀さを発揮する使命があった」
「優秀でない人が人口の大半でしょう?」
「だね。その大半の人たちの和合のために形式はある。彼らは結婚して、厄介ごとの中で助け合いながら生きればいい。使命なんかないんだから、せめて形式を守って厄介ごとを克服していかないと生きてる感じがしないだろう。母はそういう人びとの常識の中に父を巻きこんだんだ。もともと異質な父をね。父は母の世界を云々しなかったはずだ。使命のある人間は使命のない人間に口を出さない。それなのに母は父を云々した。で、厳重な警戒態勢を敷かれちゃったわけだ」
「逃げたんですね」
「うん。ぼくは世間人のことを、数を頼む権力だと考えてる。つまり、自分たちの意見や生活様式に絶対的な後援者を持ってる人たちだとね。そういう人たちには勝てない。そう思うからには、とにかく彼らから逃げて、少数の、権力を持たないけれども破天荒な心を持った、異質を支援する人たちを後援者にするしかない」
「江藤さんも、高木さんも、ほかの大勢の選手も結婚はしてるけど、ほとんど〈生活〉というものを感じさないですものね」
「日々野球人の使命を果たし終えたとき静かな生活の中に戻って落ち着きたい、そのための塒(ねぐら)を用意しておきたい、ということなんだと思う。世間のしきたりに従わなければ万人の是認する塒は手に入らないから、結婚をするしかない。でも、求めたのは静かな生活であって、結婚生活ではない。彼らは結婚生活にかまけて使命を捨てるつもりはない……」
「神無月くんは覚悟とは少しちがうようですね。野球のほかにも、もっとたくさんの使命があるみたい」
「ぼくは才能を発揮すること以外に使命はない。ただ、その使命を果たし終えたときに、静かな塒で落ち着きたいとは思わない。愛し愛されながらただ生きる、波乱があればその中で生きる、という覚悟をしてる。そのためには静かな塒は強いて求めない」
「それこそ人間らしい生き方だと思います。私たちは世間的には常識外れですけど、人間としてまちがっていないということですね。せっかく覚悟してくれてる神無月くんの期待を裏切るようですけど、努めて波乱を起こさないようにがんばります。……もう少しお話していいですか」
「うん、もちろん」
「神無月くんの得意な映画について話してください」
「ぜんぜん得意じゃない。いき当たりばったりに観た映画を憶えていたりいなかったりするだけ」
「それでいいです」
 私はしばらく考え、 
「昭和三十五年の映画に、フランク・キャプラ監督の『波も涙も暖かい』という名作がある。フランク・シナトラとエディ・ホッジスが父子を演じるほんわか人情劇。東大に入ったばかりのころ、オールナイトで観た。テレビのホテルを経営するグウタラ親父と、彼を慕う一人息子との愛情物語だ」
「その映画、六年生のころおとうさんに連れてってもらって観たわ。ソバカスの男の子がかわいかった。あの子がエディ・ホッジス?」
「そう、恋の売りこみの」
「え、あの……」
「アム・ゴナ・ノッコンニュア・ドア、リンゴンニュア・ベル、タッポンニュア・ウィンドー・テュー」
 詩織はパタパタと受話器を叩く。
「その映画を観たとき、こいつがあのエディ・ホッジスか、と何だかなつかしくて、記憶に残ったというだけの話なんだ」



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