十六

 それから十分も、二人あれこれとりとめのない話をした。たいていの人間は会話を盛り上げてほしいとか、おもしろい話を聞きたいとは思っていない。たわいもない会話で相手を引き留めたがる。人は自分をわかってもらいというよりは、相手の人間性をもっと知りたくて話をする。そのためには沈黙さえ愛する。
「郷という名前が大好き。ふるさとのように人を包みこむ雰囲気がするから」
「名は体を表わす? だといいな」
「歌も詳しいのね」
「一九五○年代から六十年代にかけてのアメリカン・ポップスというやつだよ。ぼくもちゃっかり流行の中で暮らしてきたということさ」
「音楽のない世界なんて考えられないものね」
「あの映画でシナトラの再婚相手役を演じてた女優が、エリナ・パーカー。サウンド・オブ・ミュージックにも、トラップ大佐の再婚相手役で出てた。再婚候補だったかな。カズちゃんと同じくらい圧倒的な美貌の持ち主なのに、そういうバイプレーヤー的な役をすることが多い。彼女は映画界ではそういう役どころにふさわしいという定評があるのかもしれない」
「どれほどの美貌かは知りませんけど、和子さんのほうがずっと上です。和子さんは、みめかたちが美しいうえに、心まで美しいから、脇役になんかなれないです。主役しか張れない。彼女は別格です。あら、もう二十分もしゃべっちゃった」
 私も相手を引き留めようとする。
「魚では塩鮭がいちばん好きだな」
「私はカツオの刺身」
「ベトナムのホー・チ・ミンという人が死んだけど、ベトナム戦争に影響はあるのかな」
 こういう堅い話も相手を引き留める材料になる。
「ホー・チ・ミンがインドシナ戦争でフランスをベトナムから追い出したあと、アメリカが入ってきて、親米派に武器を与えたせいで、暴れん坊の独裁政府ができちゃったんです。それに抵抗するベトコンをアメリカが軍事介入して抑えようとしたんです」
「ベトナム戦争だね」
「はい。ホー・チ・ミンは、ベトナム戦争では指導的役割を果たしてませんが、反米独立自由を唱えつづけたので、ベトナム人民の心の支えでした。ホー・チ・ミンが死んだことでどういう影響が出るかわかりません。でも、ベトナム戦争は泥沼化すると思います。……たくさんお話してくれてありがとう。じゃ、そろそろ電話切ります」
「うん、また来月。二年間、下通さんとはよく連絡をとり合うようにしてね」
「はい。四年で卒業できるようがんばります。ときどき手紙書きます」
「うん。電話でもいいよ」
「愛してます」
「ぼくも」
 わだかまりもなく応えられるようになった。自分から言うことさえある。
「元気で」
「神無月くんも。ときどき連絡します。さようなら」
「さよなら」
         †
 机の抽斗に入っていた時刻表で、午後一時三十九分に東京発ひかりの新大阪行が品川に停車するのを確かめ、ブレザーを着、ダッフルを担いでフロントに降りた。フロントに鍵を返す。十二時ギリギリにチェックアウトする。
「ご利用くださいましてまことにありがとうございました。貴重なサインをいただき、従業員一同心より感謝しております。また来月のお越しをお待ちしております。気をつけてお帰りくださいませ」
フロント全員が頭を下げる。玄関に待機しているタクシーで品川駅に向かった。これほど同じ場所からタクシーに乗っているのに、同じ運転手に一度も巡り合ったことがない。壮年の色黒の男だ。きわめて静かな男だった。道の半ばで落ち着いた調子でしゃべりはじめた。
「東京遠征、無事に終わってよかったですね。ホッとしました」
「ありがとうございます。厳重な警備のおかげです」
「国宝は何があっても守らなければいけません。……火野正平と新藤恵美が不倫で騒がれてます」
「はあ? 新藤恵美って、姿三四郎の?」
「あれは宇治みさ子です。倉丘伸太郎の相手役でしょう? 鼻の大きい女優」
「はい。ふうん、いまのいままで新藤恵美だと記憶ちがいをしてました」
「新藤恵美は、橋幸夫の『雨の中の二人』という映画の中で、藤岡弘と駆け落ちする役で出てました」
 サッパリわからない話になってきた。だいたい火野正平という男も知らない。
「神無月さんの大ファンは心配この上ない。自由に行動してほしいんですが、スキャンダルがないことで有名な人だけに、いったんそういう事態になると、あたりが大騒ぎになりますからね」
「気をつけます」
「気なんかつけなくていいです。そんなふうに神無月さんが縮こまっちゃうことにヤキモキするんですよ。戦後、野球選手がスキャンダルのタネになったことは一度もないです。プロ野球ファンの山口瞳という作家が書いてたことですけど、もともと野球選手は映画俳優と同様〈不良〉と見られてたから、女が近づかなかったからだそうです。たしかに戦後しばらく、野球場へいくのは映画館へいくのと同じで、感心することじゃないという風潮でした。球場のスタンドは遊び人が多かった。それがいつの間にか、紳士なんて言われるようになっちゃった、てね」
 しゃべりつづける。語調にやさしさが滲む。
「それで、ぼくのおふくろの考え方がよくわかります。野球選手は馬鹿で、ヤクザ者だって。なるほどそこからきてたんですね。そんなやつがスキャンダルを起こしたってあたりまえすぎて、注目に値しないというわけだ」
「神無月さんのお母さんも一般の考え方から抜け切れなかった人なんですね。いまはちがってきたようですが……スタンドのお母さんに帽子を投げている写真を見ました。神無月さんの悲しみが伝わってくる写真でした。野球選手もお母さんのような人にさえ注目されるようになってしまったんですよ。現代のテレビ芸能人やスポーツ選手の男女関係がよく騒がれるのは、もう馬鹿でヤクザだと思われてないからです」
「そうみたいですね。なぜかアウトサイダーでないと思われてるから、安心して詮索されて、行跡がすぐバレるようになってしまった」
「まあ、そういうわけです。いまの芸能人の秘め事がすぐ露見するのは、愛人に自制心がないからですよ。大切な秘密を世間にばらして、有名になりたがるから大騒ぎになる。明治や大正のころのスターは大勢の女と関係し、たとえ女に子供を産ませることがあってもそれが世間に知れることはいっさいなかったんです。女が惚れた男を大事にし、愛人の分をわきまえてました。男の名誉のために、世間が恥とすることはけっして宣伝しませんでした。自分を感じよく見せたいとか、いい人だと思われたいとか、そんな気持ちはさらさらなかったんですな」
 私のことを直観で見通して、深い親愛に動かされながら語りかけているようだ。
「……ぼくの背中が見えるようですね」
「見えはしませんが、そういうことがすこしもおかしくない超自然人だと思ってます」
「紫式部のころから日本はそういう女の国だったはずなのにね。たとえスターでなくても世間で活躍する男を囲む女たちもみんなそうだったわけでしょう」
「だと思います。それに比べて人気商売の人間など、馬鹿なヤクザなんだから、そんなやつの小さな秘密なんか知ったところで何の興味もない、ヤクザ者にとっても知られたところで痛くも痒くもないというのが通例だったはずですよ。それが、将軍も天皇も弄(いじく)られる時代になっちゃった」
「均等化が世間の隅々までいきわたったんですね。大衆社会の爛熟―。まあ、仕方がないですよ。彼らに野球をやめろと言われたらやめるし、目の前から消えろと言われたら消えます。彼らのような人間に大挙して押しかけられたら勝ち目はない」
「罪を犯してるわけでもないのに、お気の毒です。でも、そういうやつらにやられないように、神無月さんのファンたちは精いっぱいがんばってます。がんばると言っても、そいつらに乗せられないことが、精いっぱいのがんばりですけどね」
「追放したことを彼らがあとで悔やむようなとんでもない記録を作って、早々と意趣返しをしておきますよ。記録は追放されないでしょう。まっとうに正直に作った記録まで追放されるとするなら悲しいことです。そうなったら、精いっぱい楽しく野球をやった記憶を抱いて、悲しみながら余生を送りますよ」
「神無月さんは追放されません。国宝をドブに捨てるほど国民は馬鹿じゃない。そのままでいてください」
「たとえそうだとしても、行動には重々注意します」
 運転手は振り向いて握手を求めた。若者が少し老けたような顔をしていた。目が真剣な光を帯びている。
「残り試合、ケガに気をつけてご活躍なさってください」
「はい、ありがとうございます」
 品川駅前で降り、運転手とウィンドウ越しに辞儀をし合った。
 好意ある他人……人生の最大のパズル。不思議に思いはじめると、ピースの分析と配置をやめられなくなる。人間一般の習性とか、企みや嘘やてらいなども含めて、知性、感情の営みのあらゆることが魅力あふれるピースに見えてしまう。組み合わせて並べようとするけれども、完遂はしたくない。完遂すると空しくなるに決まっている。
 出札口で名古屋までの乗車券とグリーン券、それからホームの売店で缶ビールとホタテのヒモを買い、一時三十九分のひかりに乗る。ダッフルを荷棚に載せる。ベルが鳴り、窓が動きだし、ホームが遠ざかる。甘辛く煮しめたヒモを齧りながら、缶ビールを飲む。それほどうまいと感じないが、一人旅の気分にはなる。グリーン車に客は数えるほどしかいない。さびしい後頭部がポツポツ見えるだけで会話の声も聞こえない。
 三時十四分、名古屋着。ムッと厚いホームから改札を抜けて、煌々と明るい中央コンコースへ出る。混雑はしていないが、かなり人が歩いている。太閤通口へ出、靴音を立てて歩く。腹がへっている。北村席のガレージ裏の所有地に二階建てのモルタル造りの立派な建物がデンと建っている。ファインホースという看板が二階の壁に掲げてある。たぶんこの建物の一室に私の〈業績〉が集積されていく。
「ただいま!」
「あ、帰ってきた」
 カズちゃんの声だ。
「お帰りなさい!」
「お帰りなさい!」
 主人夫婦、素子、メイ子、睦子と千佳子、厨房の連中も式台に出てきた。菅野とトモヨさんの姿がない。直人を迎えにいっているのだろう。
「みんなどうしたの、きょうはお休み?」
「私たち三人だけアイリスお休み。あしたのCBCスタジオは公開録画らしいから、千佳ちゃんとムッちゃんもいっしょにCBCセンタービルにいってきたの。百人定員だから焦っちゃった。十時から二時間も並んで、たった五枚の整理券を手に入れてきたのよ。キッコちゃんや千鶴ちゃんたちにもいってもらった。彼女たちは四枚。あしたはアイリスとアヤメを臨時休業にして、九人でスタジオに観にいくわ」
 女将が、
「残念やけど、うちらとトモヨたちはいけんわ。台所からは千鶴一人だけ。実況放送するらしいからそれで観る」
「みんなそれでよかったのに。物好きだな」
「キョウちゃんのすることは何でも近くで見ておきたいもの」
「ありがとう。でも、百人定員でよく十人もとれたね」
 千佳子が、
「みんな配布の二時間前にいきましたから。私たち五人のほかには、メイ子さん、キッコさん、千鶴さん、百江さん、優子さん」
「そう言えば、おトキさん、名古屋にきてる?」
 カズちゃんが、
「二十日の夜にきて、さっそく元気に働いてるわよ。いまアヤメのほうを手伝ってくれてる。中番で出てもらったから、もうすぐ帰ってくるんじゃない」
 女将が、
「二人が戻ってきたときのために、ちゃんとした家を用意せんと」
「山口は当分忙しいですよ。イタリアで箔をつけて帰ってきたら、しばらく東京が活躍の場になると思います。名古屋にくるのはまだまだ先ですね。睦子、万葉集の公園、どうだった?」
「お粗末でした。その分、竹園旅館がすてきでした。神無月選手の紹介できましたと言ったら、設楽さんという仲居さんが親切に世話してくれて、おさんどんにもついてくれました。結局二泊して、千佳ちゃんと二人で西宮の近所をバスで観光してきました。お寺、貯水池、森林公園、植物園、いろいろあって楽しかった」
「植物園のほうが西田公園より、よほど充実してたわね」
「管理が行き届いているからよ。万葉集は約四千五百首あって、その三分の一の千五百首に、花や木の名前が詠みこまれてるんです。その草花をやたらに公園の土地に無差別に植えても、寒暖や風雨でじょうずに育ちません。四季の温室を作って管理したほうがいいに決まってます」
「西田公園には、どんな草木が植わってたの。ぼくがいったときは、ほとんどの花が影も形もなかったけど」
「ただ植えただけで、管理がへたなせいです。たとえばハネズ。ニワウメとも言って、春に咲く淡いピンクの桜なので、跡形もありませんでした。説明板に歌だけが書かれていました。夏まけて、咲きたるはねず、ひさかたの雨うち降らば、移ろひなむか。巻八の千四百八十五、大伴家持です」
「どういう意味?」
「春に咲くはねずが、夏を待ち受けてやっと咲いた。雨でも降ったら色褪せてしまうんじゃないかしら。表面上はそういう意味です。季節遅れにやっと実った恋がだれにもじゃまされないことを祈った歌だと思います」
 メイ子が、
「女の人は、私みたいな中年?」
「季節遅れということですから、そうかもしれません。それとも、男の情熱と努力がやっと実ったということかも。女は受け身ですから」
 カズちゃんが、
「浜松に万葉の森公園というのがあるらしいわよ。そっちのほうが近いし、春になったらローバーでいってみたら?」


         十七

 ソテツとイネがいいにおいをさせて天ぷらうどんを持ってきた。さっそくすする。主人が、
「一週間の突貫工事で、ガレージの右手に二階建てモルタルの事務所をもう一棟建てましたわ」
「さっき見ました。立派でした」
 主人はうれしそうに笑い、
「いままでの建物はひっくるめて景品置き場にします。電話を置いて、事務員もちゃんと男子三名女子二名雇いました。長い目で見たら駅前のビルの事務所を借りるよりはむだがないですからな。小屋じゃなく新築家屋の申請を先月から出しとりましたから、ちゃんとした建物ですよ」
 カズちゃんに、
「事務員はどうやって募集したの」
「菅野さんが先月から中日新聞と名古屋大学に宣伝をかけてたの。この一週間、菅野さんが北村席の座敷で面接して決めたんですって。名大の大学院生も一人きたみたい。社名はファインホースに正式に決まって、会社用の門を別に造り、看板も上げたわ。トロフィーとか楯、記念品、賞状、賞品なんかの管理はもう一棟のほうでやって、イベント処理、スケジュール作成、キョウちゃんの使用ずみ用具のオークション手配といったことは事務所でぜんぶやるの。企業登録もちゃんとすましておいたわ。お金関係は、税金も含めて、うちの会計士や税理士に一任してあるから安心。これで菅野さんもやっとマネージャー業に打ちこめる。たった一人でこんなことできっこないもの」
「彼は天才だけど、からだは一つしかないからね。使用ずみと言えば、直人の使い古したおもちゃ、上板橋の河野さんに送ってあげて。服なんかもね」
「会いにいってあげたの?」
「うん。試合が雨天順延になったから。大学院合格のお祝いを言いにね。子連れの女中さんを雇ってた。玉子丼をごちそうになって帰ってきた」
「河野さん、さびしかったのね。オバアチャンになったつもりでしょう」
 トモヨさん母子が菅野と保育所から帰ってきた。さっそくカズちゃんがトモヨさんにサッちゃんの話をすると、
「離れがおもちゃだらけになってたから、助かります。名案ですね」
「おとうちゃん、やきゅう」
「よし、きょうはキャッチボールをやろう。お父ちゃんの胸にちゃんと投げ返せるまでやるぞ」
「あしたからキョウちゃんも忙しくなるわね。日本シリーズが終わったら、もっとたいへんでしょう」
「祝いごとに出席するのは気が重い。会社人間はみんなそうだろうけど、プロ野球選手にも社会人特有のいろいろな節目がある。入団とか、一軍昇格とか、結婚、受賞、移籍、負傷からの復帰、引退とかね」
「優勝もね」
「うん、仲間といっしょに乾杯する大切な節目だ。ぼくは根が社会人じゃないから、チームに貢献はしても所詮部外者なんだよ。人生歴や入団までの経緯からしても、ぼくは彼らとは異質の人間だ。自分に関係しないイベントに出席するのはどうかと思う。でも彼らはまじめながんばり屋だ。どれほど気が進まなくても、彼らの節目を祝ってやるべきだと思う。ぼくのウワノソラの存在がじゃまじゃなければね。ただ、どんちゃん騒ぎがうまくできない。そんな気持ちを抱えながら、これから何年も出席しつづけるんだろうね」
 睦子が、
「郷さんがじゃまになるなんてことはあり得ないわ。……郷さんの人生は、野球と関係のない節目だらけ。どんな選手も、しょっちゅう野球を中断するなんてことはなかったでしょう」
 カズちゃんが、
「社会人の特徴って、中断がほとんどないことね。連続の階段を昇っていく人生。途切れたらそこでキャリアを失ってしまう。たとえばたいていの野球選手は、小中高大まで、野球野球の連続、そうしてドラフトかスカウトまでの一本道。キョウちゃんは、何度もキャリアを失っては取り戻した紆余曲折の道。おまけに、社会人であることから逃げようとしてる、いいえ、逃げおおせなければいけない環境に囲まれてる。その条件の下で社会人を振舞ってる。考えたらやりきれないわね。せいぜい、どんちゃんやりなさい。それも神秘的で、よく似合ってるから」
 メイ子が、
「神無月さんと私たちとの関係も、マスコミに覗かれたら一巻の終わりですね」
「そう、キョウちゃんは一巻の終わり。私たちは何も終わらない。不公平よね。私たちも終わる覚悟でいないと」
 みんなでうなずいた。
 苦境は去り、強者は残る? これも過ぎる、きょうだけのがまん? そこまで傲慢なことはだれも考えられない。カズちゃんの言うように、終わる覚悟でいなければならない。
 ボールとバットを抱えた直人に手を引かれて芝庭に出る。トモヨさんと菅野に見守られながら、直人と丁寧なキャッチボールをする。私は下から投げ、直人はかわいらしいオーバースローで投げ返す。あちらこちらにボールが乱れ散り、私の胸にきちんと返ってくるまで二十回も三十回も投げなければならなかった。それでも直人はうれしくて仕方がないらしく、あらぬ方向に飛んでいったボールを喜んで取りにいく。
 この子を愛している。この子を囲む世界を愛している。人生の棚卸しをしてこの庭の中で暮らそうか、と一瞬思う。しかし、思いは長つづきしない。野球を囲む世界への次元のちがう深い執着があり、その世界から与えられる甚大な幸福がある。その喜びを抑えながらこの世界だけで暮らしても、かならず波風が立ち、苦しくて呼吸ができなくなる。庭から出かけていけば、たちまち私の呼吸は整い、喜びに満たされ、波風が静まる。……しかし、そのとたんに波風が恋しくなる。愛情に充ちた異界のざわめく空気を吸いたくなる。私の立てる波風が大切な彼らを救済する役目を果たし、そのことに私が別の次元の幸福を感じることになるとわかっているから。そしてそれが繰り返される。―私は二つの異次元の世界をいききするしかない。
         †
 九月二十三日火曜日。七時起床。カズちゃんと客部屋で寝て起きた。私が起きる前にカズちゃんは床を出て厨房にいっている。私は脱糞し、歯を磨きながらシャワーを浴び、ザッと洗髪もする。ジャージを着、最後に枇杷酒でうがいをした。
 八時前、みんなで食事。焼き鮭、目玉焼き、茄子の炒めもの、菊のおひたし、ワサビ菜とトロロ昆布の吸い物。直人は、カブと豚挽肉のそぼろ餡かけ、昨夜のおかずのカレイの煮つけを少々、甘い鶏そぼろごはん。
 睦子といっしょに二階から降りてきて食卓に加わった千佳子が、スクラップブックを開き、
「神無月くんが私たちの高校時代からの友だちで、ずっと付き合いがあるってことを知ってる同級生がいてね、その人のお父さんがスポーツ新聞の記者らしいの。この記事にあるピッチャーが、将来神無月くんの強敵になるんじゃないか、できれば神無月くんに渡してほしいって持ってきてくれたの。関西大学一年生の山口高志って選手。暇なとき読んでみて」
「知ってる。でも読んどくね」
 私が読んだものと同じ記事だった。
 おさんどんをするおトキさんの髪が黒い。女将が、
「おトキ、念入りに染めすぎやないの」
「耳もとの白髪を染めるのがたいへんで」
「染めすぎると、髪が薄くなるから気ィつけや」
「はい」
 睦子が、
「半白でもおトキさん、とても魅力的です」
 百江が、
「私は、半白は似合わないんですよ。おトキさんは染めないほうが知的で、すてきです」
 キッコがようやく降りてきて、明るい顔で箸をとる。
「うち、十一月の大検受けることにしたわ」
 カズちゃんが、
「そうよ、善は急げよ。何日」
「八日、九日の土日」
 千佳子が、
「高校では一番だし、六月の名大オープンでも、全国の千番に入ってたし、軽く突破しちゃうわよ」
「来年は河合塾にかよおうて思っとる。文学部を受ける」
 睦子が、
「一年やれば確実よ」
 キッコはもりもり二杯食い、
「じゃ、CBCまで勉強してくる」
 二階へ上がっていった。カズちゃんが、
「法子さんから電話がきたわ。酔族館、すっかり有名人のいきつけになっちゃったみたい。中央線沿線の有名人はほとんどきたって。タレントの青島幸男、頭の体操の多湖輝、文学関係では唐十郎、谷川俊太郎、漫画家だと水島新司とか、楳図かずおとか。みんな話すことがおもしろくないし、ブ男だって。たくさんお金使ってくれるから愛想よくしてるだけだって言ってた」
 素子が、
「スケベな人もおるんやろ?」
「たいていの人がホステスさんのお尻を触るらしいの。女親分の法子さんのことは触ろうとしないみたいだけど、後ろからお尻に手を回してこっそりそういうことやってるの見ると、吐き気がするって。神無月くんはスケベにしてくれるほどうれしいけど、ほかの男はとにかく気持ち悪いって言ってた」
 女たちがザワッと笑う。
「あと三カ月と少しね。お店を出すときは、水原監督と球団から花輪が出ることになってるし、ほんとにありがたいこと」
 主人が、
「北村席も出すぞ」
 私は、
「九月から建設にかかってるはずです。何カ月か前に神宮まで散歩しがてら、内田橋へいって下ごしらえだけ見てきました。周りの環境は抜群です」
「十二月の中ごろに内装が完成して、二月一日開店と聞いたわ。いよいよ近づいてきたわね」
 ランニングの身なりをした菅野が、ファインホースの五人の社員を連れてやってきた。カズちゃんは彼らをテーブルにつかせてコーヒーを出す。男三人は、生駒、苗村、玄野と名乗り、女二人は、日高、久世(くぜ)と名乗った。名大生は経済学部大学院生の苗村と、理学部数学科二年の日高の二人だった。生駒は二十五歳の青年で、私立高校の教員を辞めてきたと言い、玄野は四十代の頭髪の薄い男で、球団広報の社員だが、上からの命令で手伝いできた、いずれ本部に戻ると言った。久世は今年の春高校を卒業して家事見習いをしていたが、私の大ファンなので、新聞の募集広告を見たとたんに応募したと言った。
「ひょっとして、名古屋西高校?」
「いえ、菊里です。星ヶ丘の」
 眼鏡をかけた日高は、
「私は明和高校です」
「明和? 直井聖四郎知ってる? 中学時代の同級生なんだ」
「知ってます。いつも全校五番以内の秀才でした。東大の理Ⅰにいきました」
「らしいね。東大では遇えなかった」
「私も高校以来会ってません。名古屋西高出身の金原小夜子さんとは、名大に入ってからの友だちです。彼女が、いいアルバイトがあると教えてくれたんです。私は夕方五時から十時まで詰めて電話を受けます。都合が悪いときは金原さんが代わってくれることになってます」
 千佳子と睦子が顔を見合わせた。カズちゃんが、
「金原さんて、花屋にきた人ね」
「そう、名大の数学科にいった」
 千佳子が日高に、
「今度金原さんに紹介してください。いっしょにお茶を飲みましょうよ」
 睦子が、
「ひょっとして金原さんて、目の吊ったきれいな人ですか? ポニーテールの」
 睦子が訊くと、日高は、
「そうです。すごく頭いいの。トップクラスの成績です」
 睦子は、
「ときどき大学の食堂で見かけます。やっぱりあの人だったんだ。西高の同級生で名大にいった人がいるって郷さんから聞いてたから」
 また千佳子と顔を見合わせる。


         十八

「スケジュール管理は私がします」
 もと高校教員の生駒が言う。
「出納簿はぼくがつけて、球団の支払いと対照します」
 と苗村。手伝いの玄野は、
「イベントの吟味は私がいたします。神無月さんのお返事を最終的に菅野さんに報告します。そのあと決定事項を相手方にお伝えします」
「オークションの手配と、記念品や賞品の整理は私が」
 と久世。カズちゃんがやさしい目で見た。私の好みの顔立ちだと思ったのだろう。私はまったく心が動かなかった。
「よろしくお願いします」
 カズちゃんたちといっしょに私も頭を下げた。事務員たち五人が引き揚げると、睦子と千佳子は勉強を兼ねて会場参加の仕度をしに二階へ上がり、直人は居間で主人夫婦とお絵描き。通園の準備はまだ先だ。一家のほかの者たちは座敷と厨房に散った。
 菅野とランニングに出た。曇。気温二十三・三度。CBCセンタービルまで走ることにする。
「何キロぐらい?」
「四キロですね。往復一時間弱で帰ってこれます」
 笹島からケヤキ並木の広小路通を走る。市電の往来がなんとも楽しい。ときどきワンマンカーが走るが、有人カーがほとんどだ。
「番号2は笹島を直進して稲葉地へ、11は笹島から曲がって名駅へいきます」
 肩からタスキにカバンを掛けた男の車掌。
「京都に次いで日本で二番目に市電が走ったのがこの広小路です」
 銀行の群れ、信託銀行の群れ、証券会社の群れ、ホテルとキャバレーの群れ。市電と併走する自家用車、バス、タクシー、たまにオート三輪、たまにトラック。柳橋から納屋橋にかけて縦列するビル広告の群れ、『いつも新鮮なバヤリース』、名宝スカラ座。
「外国映画封切館です」
 日東紅茶、太田胃散。堀川を渡る。広小路伏見、古風な同和火災海上の細長いビル。広小路本町。遠く電電公社のマイクロウェーブ塔。中央信託銀行。広小路呉服町。左に栄町ビル、右に丸栄百貨店、明治屋、安田信託銀行。栄到着。電停が広い。クスノキとトベラのグリーン地帯を見下ろすテレビ塔を左に見て、右に下通の住んでいる中日ビル。東新町の信号を渡って右折。広い歩道を走る。右手に東急ホテル、左折、ふた筋走って、八階建てのビルに到着。
「千代田会館ビルです。ここの七階に、CBCテレビとCBCラジオがテナントで入ってます。ここには会社があるだけで、スタジオはCBC会館のほうにあります。帰りましょう」
 戻りの道すがら、新栄の交差点の角地に、漫画ふうの男女のモザイク壁画を貼りつけたビルがあった。
「ここがCBC会館。一階がスタジオです」
「けっこう入り組んだところにあるね。走って二十五分、車なら信号につかまっても十分か」
「はい。十二時に出ればじゅうぶんです」
「江藤さんたちから連絡あった?」
「まだ九時です。もう少ししたら電話がくるでしょう」
 東新町の交差点から錦通へ出る。緑の木立が埃でくすんでいる。ビルの連なる四角い殺風景な景色。真っすぐ走り通せば名古屋駅前に出る。右にテレビ塔。裾に広がる小さな森が、緑のスカートのように見える。白く低い空。キャバレー美人座、グランドホテル、名古屋東映、網走番外地。エディーズの看板。

 
踊れるパブ 
 
凄い迫力! 安くてびっくり! 外人総勢二十余名大挙来演! アメリカがやってきた! 七時まで二千五百円ポッキリ! サントリーオールド飲み放題 料理各種食べ放題 大いに飲み 大いに食べ 大いに踊りフィーバーしよう!

 飾りパンティとブラジャーをつけた外人の写真までついている。
「ビックリマークだらけ。情報満載の看板だな」
 菅野が笑っている。伏見の大交差点。ビルの背が伸びはじめる。名前も知らない大きなビルの群れ。名古屋観光ホテル通過。洋燈と枝垂れ柳の錦橋。麦藁帽子の男の棹差す舟があねさん被りの女を乗せて堀川を下っていく。ビル街の中の別世界。
「すばらしい!」
「いいですね!」
 西柳町から名鉄百貨店前に出て、きょう何度目かの市電と行き当たる。ロキシー、アスターのネオン看板。大名古屋ビルヂングを右手に見上げながら名古屋駅到着。壁に文字盤が刻まれた大きな時計のある正面口から、天井の高いコンコースに飛びこむ。高い梁に掛かった大時計を見上げながら歩きだすと、汗がいっときに噴き出してきた。
「いやあ、けっこう走りましたね」
「汗だらだら。早くシャワー浴びよう」
 早川浴場口。新幹線出入り口。
「昭和三十九年、新幹線が東京―名古屋間を走ったときの一番列車は、ひかり1号でした。二時間二十九分。さて、その特急券プラス二等の乗車料金は?」
「なに、クイズ? 二千円」
「惜しい! 千七百二十円。一等はその二倍でした。五年前の大卒の初任給は二万円そこそこだったので、とんでもなく高い料金だったんです」
「ふうん、こだまは?」
「こだま1号は三時間十五分で走りました」
「四十六分も遅いね。かなり廉かったんでしょう」
「いいえ、どちらも特急ですから、同じ値段だったんです」
 コンコースを抜けると、左に椿町の信号、右に椿町北の信号。椿町の信号を直進して四筋いけば牧野小学校、小学校の裏手に回れば牧野公園前の北村席。椿町北の信号を直進すれば椿神社、椿商店街(駅西銀座)入口、百江の家、アイリス、そして則武の家。椿町北の信号を右折して二筋いけば文江さんの家。猫の行動範囲。私のテリトリー。
 北村席に帰り着くなり、門の前でトモヨさん母子と出会った。一対の光輝体。
「おとうちゃん、いってきまーす!」
「いってらっしゃい!」
 彼らの背中を見送った視線を巡らすと、ガレージの裏手のファインホースが立ち木の繁みに背を守られて涼しげだ。菅野はうれしそうに頭を掻き、
「駐車場を拡張するために空けてあった土地ですよ。奥までずっとそうです」
 牧野公園に向かってファインホースの看板が掲げられ、堂々としたたたずまいだ。
「事務員も決まって、肩の荷が下りたでしょう」
「これからも彼らの統括はします。社長とお嬢さんが先月から動いてくれましてね。一人じゃいろいろと処理し切れなくなってましたから助かりました。立派な建物でしょう」
「立派です」
 玄関を上がり、居間にいた主人夫婦に帰宅の挨拶をし、厨房から挨拶に出てきたおトキさんにも挨拶してから、菅野と風呂へ急ぐ。
「おトキさん、きれいになったなあ。ほんとに女の人生は男しだいですね」
 私は頭にシャワーをしぶかせながら、
「逆もまた真です。……性が介在しなくなったときに男女関係は馥郁とした〈人間〉関係を成就させると思うけど……。いつそんなときがくるんだろう」
「神無月さんにはとっくにきてますよ。神無月さんはセックスを問題にしてませんから」
 シャワーから上がってサッパリすると、菅野は背広を着、私はジャージを着た。居間でコーヒーを飲んでいるときに江藤から電話。ちょうど戻ってきたトモヨさんが電話を受ける。はい、はいと何度か返事をし、受話器を置いた。
「十二時半に、一階のロビーで待ってるそうです」
「わかった。おトキさん、天ぷらきしめんと、どんぶりめし。菅野さん、ネクタイを締めてくれますか」
「オッケイ。社長、ネクタイを一本貸してください」
 主人が、
「和子が何本か買ったやつをトモヨが持っとるはずや。ワンタッチも何本かある。……しかし、ノーネクタイのほうが神無月さんらしいですよ。表彰式じゃないんだから」
 菅野も、
「そうですね、そのほうがいいですね。カラーシャツを着ればいいでしょう」
 言われたとおりにする。CBCに出かけないアヤメの従業員たちとめしを食う。天ぷらきしめんは私と菅野だけ。みんなきちんとした昼食だ。ソテツが、
「おトキさん、こちらにいるあいだに、うどんとうなぎのおいしいダシの作り方教えてください」
「はいはい。麺類はいままでの味つけで合格よ。うなぎのタレは白砂糖じゃなく、黒糖を使うといいの。醤油、みりん、お酒、黒糖を一、一、半、半の割合で鍋に入れて、トロリとするまで竹べらで掻き混ぜること」
「はい」
 エプロンから手帳を出して書き取っている。
「睦子と千佳子は?」
 ソテツに訊くと、
「とっくに栄に出かけてます。ローバーでいきました。素ちゃんはもう一台のローバーに千鶴ちゃんとキッコちゃんを乗せていきました。お嬢さんはマークⅡです。メイ子さん、百江さん、優子さんといっしょに。下通さんと待ち合わせて、お昼は中日ビルの食堂で食べるって言ってました。二十店近くあるそうです」
 菅野が、
「あそこは、地下二階の〈うな文〉が有名ですね。熱田神宮の蓬莱軒よりうまい。セドリックに乗せていくのは?」
 主人がニヤリとして、
「ワシ」
「社長もいくことにしたんですか」
「やっぱり見ておきたいでな。菅ちゃんもいっしょに立ち見しよう」
 女将が、
「整理券がないと立ち見させてもらえんのやないの」
「神無月さんの身内や言えばだいじょうぶやろう」
「そうですね。言ってみますか」
 灰色のカラーシャツに紺のブレザーを着る。ズボンも紺。
「すてき―」
 ソテツが嘆息を洩らすと、イネが、
「これだば、後ろのほうさ隠れてねば目立つべ」
 女将が、
「目立ったほうがええんよ。みんな神無月さんを見にくるんやから」
 十二時、記者やカメラのほとんどいない門前をセドリックで出発。さっきランニングしたばかりの広小路通を車でいく。
「小学生のころは、この広小路通のビルがかぶさってくるように見えたものだけど」
「大都会名古屋の象徴でしたよね。いまはどこもかしこもビルだらけで、広小路だけというわけじゃありません」
「この扇を開いたようなケヤキ並木の緑は、もっと鮮やかだったような気がする」
「そうでした。いまじゃ排気ガスでくすんじゃって風格がないです」
 助手席の主人が、
「風格があるのは、名古屋城前の大通りやな」
 私はうなずき、
「そうですね、ユリノキ、楠木」
 三越が見えてくる。
「この映画館街は忘れられない。おふくろの弟一家に連れられて裕次郎の『紅の翼』を観にきた。西松の人たちともよくいっしょにきた」
 菅野が、
「名宝会館、朝日会館、名古屋松竹、広小路劇場、丸栄ピカデリー、ミリオン座、名古屋日活、ヘラルドシネマ、九館もありました。錦通には名古屋東映がありましたね。朝日会館、ピカデリー、日活は閉館したし、松竹も来年閉じるらしいです。映画がどんどんテレビに押されていきます」
「西松のクマさんだったか吉冨さんだったか、いずれ映画はテレビにやられると言ってたけど、ほんとにそうなっちゃった。……ビルというのは道端の石ころだね。拾う気にもならない。ぼくたちはこのビルのどの一つにも入らないで、一生を終えるんですね」
 納屋橋を渡る。橋のたもとにはかならず枝垂れ柳だ。ビル、ビル、途切れることなくビル。丸栄。市電がのんびり走っていく。忘れられない松坂屋。栄の大交差点。名前に反してひっそりとした往来だ。高い空にテレビ塔がそびえている。中日ビルを過ぎる。いまごろ女たちは下通と昼めしを食っているだろう。CBC会館到着。
「適当な駐車場に車を停めて、玄関に入りましょう」
 会館に隣接する二十四時間三百円のパーキングにセドリックを停めて、小ぶりな玄関へ歩いていく。一階の大ガラス窓のほとんどを使って、ドラゴンズメンバーのポスターが貼り出されている。〈特集番組〉というタイトルが目を引く。
 玄関に入る。まばゆいフラッシュ。待ち構えていたようだ。一階ロビーにはすでに水原監督はじめ全員集まっている。やはりみんな打ち揃ってスーツを着ている。私に向かって手を挙げる。監督が、
「おお、北村さん、菅野さん」
「きょうは立ち見です」
 小山オーナーが係員に、
「お二人に見やすい席を用意して」
「はい!」
 小山オーナー、監督、コーチ陣以外はほとんどカラーシャツにノーネクタイなのでホッとした。ポスターの貼られていない大ガラス窓から陽が射しこむ空間に、スーツを着た老若の男女社員や係員がたむろしていて、ドラゴンズの選手や関係者が到着するごとに、スタジオのドアへ案内していた。無機質な廊下の壁の処々に5ch・CBCというパネルが貼られている。



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