二十二

 主人たちがきょうの釣果の話をしている。神無月さんがサラリーマンの三カ月分の金を稼いだとかしましい。
「はい、直人の玩具代とカンナの衣装代」
 カンナに乳を含ませているトモヨさんに差し出す。直人が私の膝に乗ってきて、札をいじくる。
「そんな。郷くんが使ってください」
「持ってても使わないから。ポケットはいつも間に合ってる」
 カズちゃんが、
「ダービーのときは私がもらったから、今度はトモヨさんがもらっときなさいよ」
「いりません」
「じゃ、千佳ちゃんとムッちゃん、二人で分けなさい」
「いりません」
「じゃ、キッコ、学費にして。これでおしまい。断ったらだめだよ」
「はーい。学費は間に合っとるから、素ちゃんと千鶴ちゃんと三人で服を買います」
 素子が、
「そんな高い服あれせんよ。ムッちゃんと千佳ちゃんもいっしょに、一万円ぐらいのええ服買お」
 カズちゃんが、
「一万円ぐらいならもっと買えるでしょ。ソテツちゃんもイネちゃんも買いなさい」
「やった! 私、セクシーなミニスカート」
 ソテツがはしゃぐ。優子が、
「私、前アキのパンティほしいんですけど。穿いたまますぐしてもらえますし、土手まで隠れて、真下しか開いてませんから冷えませんし」
 文江さんがいつか穿いて見せたパンティだ。カズちゃんが、
「私もほしかったんだけど、そんなエッチなパンティ、キョウちゃん喜ぶかしら」
「男ならみんな喜ぶ」
「そう? でも、そこらへんで売ってる?」
 三上ルリ子が、
「通信販売でも行商人からでも、いくらでも取り寄せられますよ。三百円から千円くらいです」
 百江が、
「私、神無月さんに抱いてもらえそうなときに前もって穿いておこうと思って、二枚ほど持ってます。もともと女は下着なんか穿かなくてもいいんですから。オシッコもそのままできるので便利じゃないかしら」
「じゃ、三上さん、五百円ぐらいのを三十枚買っておいて。ほしい人に配るから」
「はい。あした注文します」
「おトキさんも要る?」
「……二枚ほどいただきます。殿方を喜ばせることは、女の大事な務めですから」
 顔を赤らめてうつむく。素子とメイ子、イネと幣原まで手を挙げた。
「和子、私にも二枚」
 女将が恥ずかしそうに言う。主人が、おいおいと笑う。睦子と千佳子がキャッと手を拍って笑う。
「せっかくその気になっても、私が脱いどるうちにダメになってまうことが多いから。弛んだお腹とか毛とか見えんと、アワビちゃんだけ見えたら、興奮するんやない?」
「やだ、おかあさんのアワビちゃんなんて考えたくない」
「何言うとんの、おまえを産んだアワビやがね。手を合わせんと」
「あっけらかんすぎる。もっと秘密っぽくしなくちゃ」
「神無月さんの前で、秘密も何もあらせんがね」
「私たちも」
 千佳子が手を挙げると、女将が、
「あんたたちは、脱いどるうちに神無月さんがだめになることはあれせんから、ええの」
 素子が、
「キョウちゃんは、だれにもだめにならんよ。このパンティはただの興奮剤だがや」
 菅野まで手を挙げて、
「私も二枚。男にも大事なことです」
 座敷じゅうが大笑いになる。私は手を拍った。
「よし、有効利用できた」
 おトキさんが、
「私、五枚に増やしてください」
 そう言うとますます赤くなってうつむいた。彼女が山口を深く愛していることが痛いほどわかった。私はおトキさんに、
「山口から連絡あった?」
「途中経過は無意味だから、最終結果が出るまで連絡しないと言ってました。いままで連絡がないのは、順調に最終まで残ったということだと思います」
「そうだね。―いよいよプロか」
 直人の食卓が整い、ソテツたちのおさんどんも活発づき、和やかな夕食になった。主人が、
「小野、肩に違和感、シリーズまで戦線離脱か、とありますよ」
「そのほうがいいです。シリーズではどうしても投げてもらわないと。……中さんも大事を取ればいいのに」
 菅野が、
「そうなると思いますよ。あと二十一試合、小川さん、星野さんが六試合ぐらいは投げるはずですから、小川さんの最多勝と星野さんの防御率は堅いでしょう」
「百三十イニング、間に合うかな」
「いまのところ九十イニング投げてます。だいじょうぶでしょう」
 女将が、
「あしたの優勝会、森さんと島さんにも北村の厨房に入ってもらうことにしたんよ。和洋中ぜんぶ出さんとあかんでしょ。名古屋名物のホルモンも焼かんと」
「盛大にやらんとな。きのう水原さんからよろしくお願いしますって連絡がきたわ。ただシリーズで日本一になったときの会合は、過密なスケジュールを縫ってやらなくちゃいけなくなるだろうから遠慮したい、気を悪くなさらんようにと言っとった」
 カズちゃんが、
「このあいだ、リーグ優勝の祝いは恒例にしたいって言ってたわよ」
「それだけでもありがたいわ」
 玄関におとないの声がして、塙席の若い者が三人がかりで一斗樽を届けた。
「あした飲んでくださいということでした」
 奥の竃の土間に運んでもらう。主人は三人に手間賃を渡した。
「日本一になったときは、椿商店街こぞって大安売りをせんとね。ぼちぼち計画を立てましょうわい。塙のご主人にそう言っといてや」
「へい」
 男たちは低頭して帰っていった。私は箸を運びながら、
「椿神社はランニングの起点ぐらいにしか考えてませんでしたが、あんな小さい神社でも行事などがあるんですか」
「伊勢神宮の外宮ですからな。十月十六日の例祭と、初詣ぐらいですがね。無人の神社なので、浮浪者の溜まり場になっとる。太閤通を渡って朝鮮初等学校のそばにある牧野神明社は内宮に見立てられとります。牧野神明社は十月十五日の甘酒祭で有名です。外宮にはトヨウケヒメ、内宮にはアマテラスを祀っとります」
 女将が、
「牧野のほうは戦争で焼けたんやけど、椿のほうはだいじょうぶやったわね」
「七百メートルの距離が明暗を分けたわけですわ。神明社は昭和二十七年に再建されました」
 何という博識。皮膚に滲み通った知識。睦子が興味深げに聴いている。知識の源泉は好奇心だ。菅野が、
「いつかもお話しましたが、昭和二十年の三月十九日に、名古屋は大空襲を受けました。アメリカが、それまでの攻撃目標だった軍需工場を都市部に切り替えたせいです。三万戸の家が焼けて、十五万人が焼け出され、八百人が死にました」
「椿神社は空襲を生き延びたんですね。ご利益がありそうだ。ところで、朝鮮初等学校って何ですか」
「戦後すぐに開校した北鮮系の幼稚園と小学校です。太閤あたりは風俗街なので、商売柄朝鮮人が住みつきやすいんですよ」
 カズちゃんが、
「それにしても、キョウちゃん、ランニング長つづきするわねえ。感心しちゃう。青森じゃぜんぜん走らなかったのに」
「ときどき堤川の土手を走ってたけど、本格的に走りだしたのは大学からだね。小さいころから走ってる連中に追いつこうとしてね。長年のサボリのツケをいま払ってる感じかな。駅西のこのあたりがランニングしやすいってこともあるよ」
 主人が、
「ほとんど坂がないからですよ。中村区は平坦な土地でしてな、南は海抜ゼロメートル、北のいちばん高いところでも三メートルしかないんですわ」
 睦子が千佳子といっしょにソテツにお替わりの飯椀を差し出しながら、
「お父さん、戦後の遊郭というもののお話を少しお伺いしたいんですが」
 長なるでェ、と前置きをしてビールを含み、
「ごちゃごちゃしとらんのでわかりやすいのが、尾頭橋公園の周りの遊郭八幡園やな。太平洋戦争で焼け野原になったんやが、戦後すぐに公園といっしょに再建された。尾頭橋公園は、遊女と酌婦の盆踊りの場所やったんですよ。八幡園の芸妓たちは、もともと東海道の脇往還やった佐屋街道沿いの旅籠で働いとった飯盛女が元祖でな、大正のころに八幡芸妓置屋組合を結成したんです。揚屋十軒、置屋十四軒、芸妓三十二人といったチンマリしたものやったが。昭和十年代が最盛期で、揚屋七十六軒、置屋四十三軒、芸妓四百人。太閤のあたりより少し小さいくらいの規模やった。太平洋戦争に入ると、企業整備令のために中小企業がつぶされて、大企業の労働力に組みこまれてまった。料理屋も置屋もガクンと減った。そうして、戦争で焼け野原」
「でも、すぐ再建されたんですね」
「遊郭でなく赤線としてな。女たちは、国家が認めた娼婦なので公娼と呼ばれとった。そのころの尾頭橋の赤線は太閤より繁盛した。その追い風になったんが、なんと中日球場や。観客はもちろんやが、選手も八幡園で一戦交えて、そのまま翌日の試合に出場なんてやつがザラだったようや。その繁栄も、売防法でチョン」
 睦子は目を輝かせ、
「揚屋とか置屋とか、役割を教えてください」
「揚屋いうんは、客と芸妓が飲み食いして、あとでマグワイをしに出かけていく出城。揚屋でマグワウこともあった。揚屋から出かけていくセックスだけの場所は、茶屋と呼ばれとった。置屋いうんは、揚屋や茶屋へお抱えの芸妓を派遣する元締め会社と考えればええな。派遣を依頼してくる会社は検番といった。遊び客は置屋にはこん。揚屋や茶屋ですることしたら帰ってまう。芸妓もすることしたら置屋に帰ってくる」
 木村しずかが、
「揚屋は、破風とか、垂木、欄間、庇、二階から客を見下ろす手摺の透かし彫り、引き分けの戸なんかに特徴がありますけど、茶屋は奥ゆかしいモザイクタイル、丸窓などが特徴ですね」
 意外な知識を披露する。おトキさんが、
「芸妓に対抗する勢力として、パブやスナックの女給が出てきたんです」
「芸妓さんはどういう格好を?」
「高島田に絹の着物、駒下駄」
「お給料は?」
 しずかが、
「歩合制で働きます。出張先の宴席の代金は一人二万円くらいですが、揚屋さんに三割払い、置屋さんが五割の看板料と諸経費をハネて、三、四千円を芸妓さんに払うのが相場です。北村席はいちばん経費をかけてるのに三割しかハネないで、私たちに七千円から八千円も払ってくれてました。銀座のホステスさんの日給並です。六千円しか北村には入りません。チップは持ち帰りオーケー。トルコになってからも同じです。それだけのことをしてるんですから、だらしない生活習慣を持った人や、給料に不満を言う人や、バンスの返済をグズる人や、病気持ちの人は雇われません。宴席での拘束時間は二時間、一人の客と泊まりになるときはその客が朝帰るまでです」
 丸が、
「繁盛しているときは芸妓さんも実入りがよかったですけど、売春防止法からこちら、さっぱりになって、お父さんお母さんがトルコに鞍替えしなければ私たち干上がるところでした。そこへお嬢さんが食べもの商売を始めて、ほんとに助かってます」
 千佳子が、
「パブやスナックの女の人の給料はどうなってるんですか」
 近記れんが、
「銀座のような高級な店だと日給八千円くらいですが、一般の店になると時給です。八百円から千円くらい。五時から十二時まで働いて、最高七千円。交通費や衣装代を引いたら大して残りませんね。北村に勤められたことがどんなに幸せかわかります」
 千鶴が、
「神無月さんに遇えたことがいちばんの幸せやわ」
 みんなで、そうよね、とうなずく。キッコが、
「神無月さんがおったら、余計なお金なんかいらんわ。……食費と服代と雑費は、アヤメで稼がせてもらっとるだけで足りとる」


         二十三

 素子が、
「テレビでキョウちゃんが、人生有卦に入った言っとったでしょう。身も心も有卦に入ったのはうちらでない? 物もお金もじゅうぶんやし」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんは神出鬼没。西松の飯場に現れ、青森高校に現れ、北村席に現れ、東大に現れ、中日球場に現れて、みんなを幸せにしたのよ。呼ぶ人がいたら、アメリカにもチベットの山の頂上にも現れるかもしれないわ」
 睦子が、
「いま同じことを考えてたんです。もし私が芸妓さんをしてても、ホステスさんをしてても、だれかと結婚してたとしても、きっと郷さんに遇えたって。だって郷さんはそういう人だから」
 素子が、
「ほうよ。お姉さんやうちらを見ればわかるがね。ぜったいキョウちゃんに遇えん人もおる。それはキョウちゃんを嫌う人や。逆にキョウちゃんが嫌いな人は、一度遇ってもすぐ遇えんようになる。キョウちゃんが会いたがらんから」
「おとうちゃん、おやすみなちゃい」
 トモヨさんと風呂にいく前の直人がキスをしにきた。形のいいふっくらとした唇にキスをし、頭を撫ぜる。ついでに髪のにおいを嗅ぐ。コーヒーのようないい香りがする。トモヨさんが、
「あまり洗わないようにしてるんです。子供の皮膚は薄いので、洗いすぎるとフケが出るようになるんですって。石鹸をつけるのは一週間に一度。湯洗いは三日に一度です」
 直人は幣原に手を引かれて風呂にいった。主人が、
「大病もせんと、親孝行な子やな」
 百江が、
「力もけっこう強くて、このあいだ庭の一升瓶を持ち上げて、ドンて放り投げてましたよ」
「危ないな。足に落としたらたいへんだ。見えないところに隠しとこう」
 ソテツが焦げ茶のカツを指差し、
「これ、おトキさんに教えてもらって、あしたのために予行演習したんですけど、スカロップ、どうですか?」
 おトキさんが、
「トンカツにデミグラスソースを滲みこませたものです。カラシをつけていただきます」
 私は一口齧り、
「酒の肴にはいいけど、ご飯のおかずにするなら、もう少しソースを濃くしたほうがいいね」
「はい。そうします。お酒のつまみでも、もう少ししょっぱいほうがいいと思います」
 ソテツとイネが一口含み、うなずき合う。
「きょうの茄子のフライはおいしかったよ」
 千佳子が、
「メンチのバター焼き、最高。二つも食べちゃった」
「あしたは鮨も出すんです」
 主人が、
「洋食と中華はうちでやって、和食は大名古屋ビルヂングから、築地の『青空』の職人さん二人にきてもらうことにしたわ。江戸前寿司」
 イネが、
「洋食、中華、鮨と、コースのように出すんだず」
「直人はまだ鮨はだめだね」
 トモヨさんに言うと、
「七、八歳まではなるべくあげないほうがいいとお医者さんに聞きました。十二歳くらいまでは生ものの免疫ができあがらないって節子さんやキクエさんも言ってましたし。でも食わず嫌いになっちゃうので、五歳ぐらいまでに本人が食べたいと言ったら、ワサビ抜きで食べさせようと思うの。江戸前の炙り寿司なら、いまでもだいじょうぶじゃないかしら。コースの最後なので、寝てしまうと思いますけど」
 カズちゃんが、
「五時ぐらいからだから、興奮して起きてるんじゃない? 食べたがったら食べさせてあげればいいわよ」
「ええ、そうします」
 直人を追って風呂へいった。千佳子がメモをスカートのポケットから出して、
「女将(おかあ)さんに言われて会次第を作ったんです。お父さんの開宴の辞とお祝いの言葉から始まって、菅野さんの乾杯の音頭、それから食事、食べてるあいだに、ひとことしゃべりたい人には次々マイクの前に立ってもらいます。球団が浅井慎平という新進写真家を呼ぶそうです。会の様子や記念写真はすべてその人が撮るんですって」
 菅野が、
「大須の人ですよ。旭丘高校から早稲田の政経。広告写真の賞を獲ったあと、二、三年前にビートルズの写真集を出してます。神無月さんを撮るためなら、ギャラなしでもくるんじゃないですか」
 主人が、
「ファンクラブじゃないんだからノーギャラでは動かんよ。意外とシラッとして、まじめに撮るんやないか。写真はぜったい外に洩らさないことを条件に呼んだそうや。小山オーナーが言うには、中日ドラゴンズ球団創設四十周年のアルバム作りの一環やと。浅井カメラマン本人は、名古屋観光ホテルに泊まりこんで、大門の遊郭街を撮るのを楽しみにしとるらしいです」
 私は少し感情が動き、
「残ったものがどんなに美しく見えても、遊郭は女の苦しみが詰まった悲しい器です。親が借りたカネに振り回される苦しみ。からだが蝕まれる苦しみ。カネが原因の生活の困窮なんて娘を売り飛ばすほどの苦境じゃありません。ただの手もと不如意です。娘といっしょにいくらでも苦労できる。それを人生の苦しさと思いこんで親が娘を売り飛ばした。その娘が、親の借金を返すために重労働した挙げ句、結核にやられたり、性病に罹って顔やからだに瘤ができたり醜い穴が開いたりすることのほうが、まぎれもない人生の苦しさです。そんなものは古きよきものじゃない。そういう苦しみの詰まった建物なんか撮ってどうするんだろう。滅びゆく風景、とかなんとかもったいつけて、そんな写真を見て、だれが何をイメージするというのかな。そこで育ったわけでもないし、苦しい経験をしたわけでもない。自分が直接経験していないそんなものに郷愁なんかあるはずがない」
 言い出したら止まらなくなった。
「農村の経済的に不如意な状況や、カネによって一時しのぎをする親たちの様子や、娘が妓楼の格子のあいだから張見世をしている風景や、額や頬や背中に膿の洞(ほら)穴が開いている具合を撮影してこそ、人生の真実を訴える作品になる。それを見る者は、親も娘も不如意のまま飢え死にしたほうがマシだったと思うだろうからね。つまり、人生はリアルタイムにしか観察できないということです。名所旧跡を写したものに賞を与えるやつがいるとしたら、そいつは詐欺師だ」
 食卓が静まっていることに気づき、
「あ、ごめん、祝宴の次第だったね」
 千佳子が、
「あ、はい、すばらしい話だったので、聞き入ってしまって……」
 おトキさんもうなずいている。カズちゃんが、
「痺れるわね。正義感もここまでくると、天のイカズチね。この雷で、少なくとも私たちだけは感電して生き返ったわ。で、千佳ちゃん、マイクの前のおしゃべりの次は?」
「あ、はい。マイクの前のおしゃべりの次は、アトラクションです。かくし芸のある人には進んでやってもらいます。なければカラオケをバックに歓談してもらいます。適当な頃合に、最後にお父さんの閉会の辞。記念品のお渡し。お見送り、となります」
 女将がカズちゃんに、
「記念品は、もう準備できとる?」
「うん、届いたわよ。コーヒーカップ五十個。キッチリ包装して、提げ紐付きの小さな紙袋に入れた。ノリタケの高級なカップなので気に入ってもらえると思う。お茶碗よりジジむさくなくていいでしょう。みなさんが帰るとき、玄関の外に五人ぐらいで女の花道を作って、一人ずつ渡していけばいいわね。あしたアヤメの遅番の人は?」
 勤めたばかりの三上ルリ子が手を挙げる。
「休んじゃってちょうだい。有給にするから。キッコちゃんも学校お休みにしてね」
「あたりまえやがね。うち、トランプ手品できるから、隠し芸やるよ」
 拍手。主人が、
「ワシ、安木節やるかな」
「やめときゃあ、みっともにゃあ。直人の教育に悪いわ」
 女将にピシャリと言われた。
         †
 あしたの準備の確認をしておくと言うカズちゃんたちを残して、百江の家まで幣原といっしょに歩く。五十歳と四十二歳。この二人とは何度情を交わしてもかまわないと思っている。
「私が、安全日だからいっしょにお願いって、百江さんに持ちかけたんです」
「どういうわけか二人と寝るの大好きなんだ。大歓迎だよ」
「ありがとうございます!」
 二人同時に言う。
「中年女があの声を合わせたら、地響きです。恥ずかしいです。耳を塞いでてくださいね」
「そうやって遠慮なく歓びを表すのがすてきなんだよ。あした、だれかリクエストしてくるかな」
 今月に入って、厨房からアヤメに替わった幣原が、
「ソテツちゃんはいま生理です。きのうきょうと、私ソテツちゃんのお手伝いにアヤメから厨房に呼ばれたんですけど、厨房頭のソテツちゃんは責任感が強くて、ぜったい仕事を休まない人なんです。つらそうでした」
「そうなの? じゃ、ソテツはしばらくお休みだね」
 百江が、
「神無月さんはあした人一倍疲れるでしょうから、則武ですぐにお休みになったほうがいいです」
「あしたは文江さんも節子もキクエもくるからなあ」
「気にしないことですよ。頼まれても、あしたはだめです。だれもそんなことを期待してきませんから」
「千鶴はどうしてる?」
「千鶴ちゃんは足抜けしてから、三上さんといっしょに厨房に入りました。一人部屋はさびしいからって、三上さんと同じ部屋に住んでます」
「ルリ子も千鶴も、幣原さんがアヤメに移った代わりを務めてるんだよね」
「はい」
「それなら、よっぽどがんばらないと。でも、どうして幣原さんはアヤメに移ることになったの?」
「百江さんが、右腕が欲しいって言ってくれて。ほとんど並んでレジを打ってます」
「思ったとおり、幣原さんのレジ打ちはすばらしい技ですよ」
「北村席に入る前、スーパーヤマナカでレジを打ってましたから」     
 この謎の女に質問してみたくなった。
「幣原さんは、名前は照子、四十二歳だったね」
「はい」
「身の上、聞いてもいい?」
「はい。大した身の上じゃありません。ありきたりで、退屈すると思います」
「生まれは名古屋?」
「はい、昭和二年の十二月に亀島に生まれました」
「じゃ、まだ四十一歳だ」
「はい、あと三カ月で四十二です」
 百江が、
「亀山だったら、すぐそこね」
「はい。けっこう大きな農家の長女です。下に弟が四人、女は私一人です。則武尋常高等小学校を昭和十五年の春に卒業して、その年に創立したばかりの地元の調理学校に入りました。三年間学んで卒業し、昭和十八年に、これも設立したばかりの愛知タイヤに食堂の調理士として入社しました。十六歳のまじめな女の子でした。三年間勤めた十九歳のときに、そこの社員といい仲になって……。奥さんのある人で、子供を一人堕ろしました。それがきっかけでその人とはうまくいかなくなって別れました」
「神無月さんの言うとおり、ほんとに男と女ってよく別れるわね」
 幣原は、
「心より先に肉体で結びつくからでしょうね。子供を堕ろしたことがどういうわけか家族に知れて、勘当されたような格好になって、翌年の昭和二十二年の一月に会社を辞めました。兵庫の有馬に流れていって、温泉宿の賄いをしました」
 七、八分の道が終わろうとしている。私と百江は幣原のしゃべるままにしておいた。
「二十歳から十六年間、三十六歳まで有馬で暮らしました」
 私は、すでに聞いた話のように、
「そこで結婚して―」
「はい、え? 私、この話はしてないと思いますけど」
「この話も何も、ぜんぜん身の上話はしてない。それが自然だと思ったから」
「和子さんには結婚なんかしたことがないって言いましたけど……」


         二十四

 しばらく赤ひげ薬局の辻にたたずむ。駅裏のガードが見通せた。
「ガード下の店もだんだん少なくなるね。文江さんのむかしいきつけだった天丼屋がガード下にあるんだけど、なんとかがんばってほしいね。シロギスの天丼がうまい」
 百江が、
「天鷹ですね。おいしそうな名前だわ。今度文江さんといっしょにいってみようっと」
 ここは浅野とよく歩いた道だなどと、もう思い出話を語る気にならない。幣原が、
「街の美化とやらで、ガード下もだいぶ撤去されました」
「建物だけじゃなく、記憶も撤去されちゃう。ほとんどの日本人は、古いことは憶えていたくないという変わった気質を持ってるからね。古さを何よりも嫌う。この国に千年住んでも、ただ隅々まで新しくなっていくだけだ」
 百江が、
「女房と畳は新しいほどいいって言いますものね」
「新しいものは何でもすがすがしくて気持ちがいいという意味だね。女房が熟成していく姿に馴染んでいけなかった男の世迷言だ。たしかに古いものを〈そのままの形で〉新調してくれれば、なるほどとうなずけることわざだけど、日本人は風雪で丸く柔らかくなったものをトゲトゲカクカクしたまったく別の新しいものに変えてしまうからね。背の低い角のない和風の建物が背の高い四角いビルに変わっていく。土の道が、車の通れない小路までアスファルトに変わっていく。商店がスーパーに変わっていく。サロンがキャバレーに変わっていく。バーがスナックに変わっていく。遊郭がトルコに変わっていく。共通点はどれもこれも情緒を失っていくことだね。風俗業をやるにしても、妓女哀史の時代は過ぎたんだから、情緒のある遊郭の風情を店内に残したまま改造すればいいんだ。でも、新しがりの庶民がそれを許さないので、北村のお父さんも近代風のトルコを造らざるを得なかった。―女房と畳の話に戻すね。馴染んだ反応をしてくれるまま外身(そとみ)を若返らせてくれるなら歓迎するけど、いくら外身を新しくされても、長く付き合ってしっくりきている中身を、トゲトゲカクカクした反応の悪いものに変えられたらたまらない。愛せなくなる」
 百江の家へ歩き出す。幣原が、
「さっきの話ですけど、私、二十五歳のときに十歳年上の板前さんと結婚しました。次の年に女の子も一人できて、三、四年、その子を中心に何不自由なく暮らしていたんですけど……」
 百江が玄関戸の錠を開けた。一間の戸を滑らせて玄関に入る。清潔な一帖半ほどの土間がある。右に括りつけの下駄箱。
「さ、入って。そんな話するの、つらいでしょう」
「いいえ、だいじょうぶです」
 三人で履物を脱いで下駄箱に納れ、居間に入る。百江が壁のスイッチを押すと、蛍光灯の明かりがテーブルの上に落ちる。テーブルの前に私はあぐらをかき、女二人は横坐りになる。
「……私のせいなんです。……私、前の男の子供を堕ろして以来、セックスがすっかり嫌いになって」
 子供か夫でも死んだのかと思ったら、そういうことか。百江も拍子抜けしたように、
「それで旦那さんとうまくいかなくなって……」
「いまの私を見たら信じられないと思いますけど、ほんとにそうだったんです。からだの悦びも一度も経験しませんでしたし、特に子供が生まれてからは、疲れたとか、あしたが早いとか、適当な口実を言って、ほとんど夫とセックスしなかったんです。当然の結果になりました。夫は幼馴染みと浮気をして、子供を連れて出ていきました。四歳の女の子は夫になついていましたので、喜んでついていきました。出ていったと言っても、何百メートルも離れていない夫の実家です。いたたまれなくて、正式に離婚し、いちど亀島の実家に戻りましたが、孫を取り戻せないとわかると、けんもほろろに追い出されました」
「けっこう大した身の上じゃないか。それで北村席に?」
「はい。賄い求むという新聞広告を見て、ここをお訪ねしたら、最初に面接してくださったのがおトキさんで……。三十のときからですから、もう十二年経ちます」
「十二年目に神無月さんに遇えたのね?」
「実際は八年目です。初めて神無月さんが北村席にいらっしゃったとき、私三十八歳でしたから。……四年間の片想いでした」
「よかったわねえ」
「はい。……だれにも言いませんでしたが、何カ月か前、朝早く廊下で偶然神無月さんと出会って、図々しく手をつかんで部屋に引きずりこんだんです。思いを遂げるにはもうその方法しかないと思って。自分にそんな勇気のあったことにビックリしました。神無月さんは仕方なく応えてくれて……。生まれて初めてイカせてくれました。オシッコ漏らすほど強くイキました。抱いてもらえればそれだけでいいと思っていたのに、ぜんぜんちがった快楽を教えてくれたんです」
「わかるわ。私と同じ」
 女たちもは私のせいで付き合いがかぎられたものになり、いや、付き合いは八方でしているのかもしれないが、〈独り〉になった。彼女たちは、私より孤独な人間だ。私には彼女たちがいるけれども、彼女たちには私しかいない。いつか彼女たちに考え直してもらわなければならない。孤独でなくほんとうに幸せだったころのことを。
「優子の言ってた穴つきのパンティって、後ろからもできるの?」
 百江に唐突に問いかけると、まじめな話をしていた幣原がプッと吹き出した。百江がすぐに調子を合わせ、
「できますよ、ご存知のくせに。文江さんから聞きました。いちばん最初にそのパンティで神無月さんにしてもらったのは文江さんなのよ。すごい勇気。おケケの終わるあたりからお尻の穴まで開いてるんですって。脚を開けば、前からでも後ろからでもかならず入ります」
「お母さんまでほしがると思わなかったな」
 百江が、
「すぐしてもらえるのは女の願いです。年と関係ありません」
「お母さんが下着を脱いでるあいだに萎んじゃうって、そんなことあるのかな」
「男も四十半ばを越えると、よくそうなります。あいだを置いてセックスする人は特にそうです」
 幣原は、
「オシッコしたら、脇に伝うことがあるでしょう? 下着が濡れてしまいますね」
「私もそう思う。ふだんは穿かないほうがいいかも。神無月さんにしてもらえるとわかった日だけにしたほうが……」
「とつぜんしてくれることって、めったにないですよ」
「恋人たちよ、愛を忘れ、耳を傾けよ、女は窓辺の花、男は冬の風。ロバート・フロスト」
「なんですか、それ」
 百江が、 
「その言葉、わかります。女はきびしい風に散らされないように、部屋の中にいるんですね。女は見守られるだけのもの、男は冷たいものという意味かもしれませんね」
「男は美しい女のそばを冷酷に吹き過ぎるだけの存在、愛など云々できる柄じゃない、女は男の吹き過ぎる音だけを聞け、という意味だろうね。ぼくには紋切り型に聞こえる。ぼくはただ忙しいだけだから」
 幣原が、
「その人、だれですか?」
「アメリカの詩人。五、六年前に死んだ。こんなことも言ってる。愛というのは、どうしようもなくセックスしたいという抑えきれない欲望だって。これは紋切り型じゃない。でもやっぱりぼくには紋切り型に聞こえる。セックスしたいという衝動じゃなく、幸福を与えたいという祈りだ。だからセックスが相手の幸福にどうしても必要だとわかればセックスする」
 百江が、
「神無月さんは、それを実行してますね」
「セックスは愛情に基づいた行動のごくごく一部にすぎないからね。大事なことは愛する相手に向かって行動を起こすということだ。ぼんやり思っているだけじゃだめだ。行動が伴わないと、ぜったい愛にいき着けない。プラトニックラブというのは、精神的な清潔さから遠いし、純愛から遠い。心から愛していれば、触れたくなる。身も心も喜びを伝えたくなるし、それを受け取りたくなる」
 幣原が、
「優子ちゃんのパンティの提案は、とても勇気のある行動だったわ。みんな感動して手を挙げたもの。女将さんまで。……百江さん、神無月さんのことが死ぬほど好きなのね。見てるとよくわかる」
「あなたもでしょう?」
「ええ」
 思い出してほしい。自分の歴史の一コマを、孤独でなくほんとうに幸せだったころのことを。〈行動〉を起こすに値する相手に向かって行動していた日々のことを。百江は、
「明石の夜から、夜も日もなく神無月さんのことばかり考えてます。三十歳も年下の人のことを」
「神無月さんに年齢はありませんよ。若いとか年とってるとか、そんなふうに女のことを見ない人なんでしょうね。きっとそれは神無月さん自身に年齢がないからなんです。お願いしさえすれば、百歳のオバアチャンでもしてくれると思います」
「ぼくは美しいものしか愛せない。いま、東京に六十三歳の美しい女の人がいる。水泳やらジョギングやらで、からだを美しく保ってる。それ以上に土台がいいし、皮膚もきれいだ。これが変身してしまったら、たとえば全身シミだらけシワだらけになって、あそこも濡れない、感じない、イカないなんてふうになったら、たぶんセックスはできない。そのことは、その人にもわかってるはずだ。女がいろいろな手段で肉体を美しく保てるのは七十半ばまでだと思う。干からびた女は抱けない」
 幣原は、
「……そうかもしれませんね。私の希望にすぎませんね。神無月さんが百歳の女の人のからだに貼りついている姿は不気味だし、気の毒です。私、まだ四十二だし、美しく、敏感でいるためにがんばろうと思います。私には神無月さんがすべてですから」
 百江が、
「がんばれば、あと十五年も抱いてもらえるとわかって、うれしくなりました。神無月さん、夜食は何がいいですか」
「焼きソバ」
「ちょうどあります。ライスとお味噌汁も」
 百江は居間の右手の寝室の障子を開けて入り、スカートと下着を脱いで敷布団に膝を突くと尻を向けた。私は幣原といっしょに百江を追って入ってズボンを下ろしたが、だらりと垂れている。幣原は睾丸を握りながら咥える。誠実に一心に舌を使うのですぐに可能になった。百江に挿入する。二度、三度と気をやらせて、抜き取る。幣原は痙攣している百江を敷布団に横たえ、仰向いて、この上なくやさしい表情で私に脚を開いた。幣原の薄い胸を吸いながら、逞しくなったものを突き入れる。すぐに烈しく気をやりだした。やがて私にも限界がやってきて、幣原の中へ迸らせた。
 寝室の小振りな柱時計が十二時を打ちはじめた。私はシャワーに立った。
         † 
 裸の百江が、タイル貼りの小さな流しで調理する姿を眺める。
「手慣れたもんだね」
「北村さんの賄いに入って、三度のお食事を出してもらうまでは自炊でしたから。幣原さん、もう回復したかしら」
「とても敏感な人だけど、もうだいじょうぶだよ」
「……夢みたいですね、こんなふうにしてるの」
「金で買えないものはあるけど、思ったほど多くない。愛する人間と充実した時間をすごすのもその一つだよ。そうやって生き延びる一分は金で買えない。ところで、ぼくが自分以外の女とするのを黙って見ているのは、充実した時間?」
 幣原が裸でやってきて、
「神無月さんには信じられないでしょうけど、そうなんですよ。私のようなオバサンにとっては、自分がオンリーになるより、自分の愛せるオンリーがいれば最高に幸せなんです。感心するのは、オバサンの百江さんはもちろんそうだけど、お嬢さん、千佳ちゃん、ムッちゃんのような人たちが、私たちのようなオバサンと同じ気持ちでいることです。ぜったいオンリーワンになりたがらないんです。もちろん、神無月さんがオンリーワンになれと言えば、喜んでそうなるんでしょうけど、いまの状態をとても自然なものと思ってる」
 キッチンテーブルに三人向かい合って、焼きソバと味噌汁。幣原が、
「百江さん、独り暮らしって、さびしくない?」
「ちっとも。この家はただの寝場所と思ってるから。寝て起きたら、すぐ北村だもの。五十にもなって、こんなに忙しく毎日を送れるなんてうれしくて。何カ月かにいっぺんはこんなすてきなことをしてもらえるし、ときどき、お嬢さんのおこぼれもいただけるし。何よりも、いつも神無月さんのそばにいられることが最高の幸せ」
 小腹が満たされた。百江と幣原は食事の後始末をした。それから幣原は服をつけて帰った。私と百江は狭い風呂に肌寄せ合って浸かったあと、もう一度交わった。
「今夜は帰るけど、さびしくない?」
「いいえ、心はいつも神無月さんといっしょです。明石で決めたことです」



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