二十八

 控え部屋の文江さんがマイクを要求した。千佳子が手渡す。
「ドラゴンズのみなさん、優勝おめでと。すぐそこで書道塾をやってる滝澤文江です。ご主人、こんなめでたい席に呼んでいただいてありがとね。スポーツ選手ってすがすがしくてええですね。お婆さんの目の保養になります。私ね、子宮癌を克服して、もう二年がきます。いまこうして好きな書道を教えて生きていられるのも、いろいろな意味で、神無月さんと和子さんが励ましてくれたおかげなんですよ。神無月さん、和子さん、命をくれてありがとう。なんか優勝とちがう話になってまったね」
 男たちの笑い、拍手。隣の節子がマイクを握った。
「優勝おめでとうございます。中村日赤で看護婦をしている滝澤節子です。いま先陣を切った文江の娘です。先月から今月にかけて、日赤ではお医者さんも患者さんもドラゴンズ優勝一色でした。興奮しました。優勝戦は北村の人たちと中日球場に観にいきました。興奮しました。充実した時間をほんとうにありがとうございました」
 マイクを渡されたキクエが立ち上がり、
「同じく日赤で看護婦をしている吉永キクエです。三年前の夏、名古屋西高で保健婦をしていたころに、神無月さんが青森高校から転校してきました。野球を中断してまで初志を貫徹しようとするその真摯な生き方に感動して、いっぺんにファンになり、夢中で追っかけの三年間をすごしました。おかげで人間として大きく成長しました。追いかけつづけたことに一ミリの悔いもありませんし、こうしてそばで暮らせることにこの上ない幸福を感じています」
 何やらいわくありげな三人の女の発言に、事情がわかっている男たちのあいだでかえって気分が和らいだ雰囲気になった。ビール瓶が頻繁にいききしはじめた。伊藤久敏が、
「みなさんは、神無月くんの女タニマチですか」
 キッコが、
「神無月さんは人間同士で壁を感じるのが大嫌いやから、オフリミットでないゆう雰囲気をみんなで保っとるんよ」
 カズちゃんが、
「私たちみんな、神無月選手の代理母というところかしら。みなさんはお母さんに恵まれてるでしょ? 親孝行の選手の話って掃いて捨てるほど耳にしますものね。神無月さんは信じがたいほど恵まれていないんです。私たちがいれば、神無月さんにも親孝行するチャンスが生まれますから」
 次の間の水谷寿伸が、
「神無月さんが親子のことで苦労したことは江藤さんから聞いてます。しかし、北村さんは、神無月さんが親子関係に恵まれていないということがなぜわかるんですか」
「さきほど不思議な巡り合せと父が言ったとおり、西松建設という会社で、神無月さんのお母さんと六年間いっしょに賄い婦をしました。神無月さんが小四から中三までです。じっくり拝見させていただきました。人間関係というのは、一見険悪に見えても、どこかに救いがあるものです。意地悪そうに見えてじつはやさしい人だったとか、けち臭そうに見えてじつは陰で物質的に支えていたとか。神無月さん母子に関しては、そんなことはいっさいありませんでした。意識的にせよ無意識にせよ、ひたすら神無月さんの行く手の妨害者でした。悪口を言っているつもりはありませんが、こういうめでたい席では控えるべきだと思いますので、これで」
 水原監督が、
「いや、具体的にはどういうことがありましたか。すでに聞いたことも含めて、実際お母さんのそばにいらっしゃった和子さんから少しでもお伺いしたいですね」
 江藤はじめ、選手たち全員が歓談をやめてカズちゃんを注目した。睦子や千佳子たちも耳をそばだてた。
「十歳以前のことは断片的に神無月さんから聞いただけで、実際に目にしたことはありませんが、推して知るべしだと思っています。私が神無月さんと出会った小五、小六あたりは、子供に対していやに邪険な態度をとる親だなぐらいにしか感じていませんでした。多少はそういう物腰が不愉快でしたけど、神無月さん本人が気にしていないようだったので、なんとなく見過ごしました。それが終生に渡る神無月さんの恐ろしいほど広い度量のせいだとわかるのは、三年も経ってからです。中一ぐらいから虐待の度合いが顕著になりました。まず第一の虐待は、弁当を作らなかったことです。朝は食堂が社員や労務者たちで混雑しているので、お母さんが息子の同席を煙たがり、そのせいで神無月さんは朝ごはんもほとんど食べませんでした。となると、伸び盛りの三年間、神無月さんは朝と昼を抜いて野球をやってたことになります。見かねて私は、おにぎりを握ってあげたり、菓子パンを持たせたりしたこともありますが、数えるほどです。第二に、勉強に障るという固定観念から、野球というスポーツや野球選手をしきりに馬鹿にしたことです。神無月さんがいくら記録を作って新聞に採りあげられても無視しましたし、肘が痛いと訴えたときも、オーバーに言って同情を惹こうとしてるんだろうと疑って、病院にやろうともしませんでした。結局、社員たちが無理やり連れていきました。その結果、即、手術でした。勉強を重視するくせに、神無月さんが好成績をとっても無視しました。男は頭だとふだん言ってる言葉に反して、勉強ができるようになってほしいわけでもなさそうなのが謎でした」
 水原監督が、
「男は肩書きだと言いたかったんでしょう。いくら勉強ができても、いくら野球ができても、世間的な肩書を得られなければクソだという考え方です」
 カズちゃんは水原監督にうなずき、
「一流大学を出て、ホワイトカラーのエリートサラリーマンからあわよくば経営者へ、それとも医者、法律関係者、学者、政治家。それが最高の人間で、あとはクズだという考え方です。ほんとうにそういう考え方をする人がこの世にはいるんです」
 小山オーナーが、
「北村さん、あなたも気づいていらっしゃるでしょうが、ほとんどの人間がそうですよ。プロ球団経営上層部もたいがいそういう考えなので、野球選手のことを人間と思っちゃいません。もちろん私が目を光らせているあいだのドラゴンズはちがいますよ。ただ、悲しいかな、いやラッキーと言うべきかな、神無月さんが生活の秘密をしつこく探られたりせず、言動が生意気だと世間から袋叩きにも遭わないのは、東大中退ということもあるんですよ」
 カズちゃんは、
「そうでしょうね。きっとそうだと思います。キョウちゃんのお母さんは、一流大どころか東大信者なので、東大に入ってナンボという考え方をしてました。人生、東大から始まる―バカでしょ? バカでも、そういう親の同意がなければプロ球団に入れないんですから、東大に入るしかなかったわけです。それがキョウちゃんの最大の苦しみでした。勉強の苦しみではなく、人間として本道を逸れているという倫理的な苦しみです。日本は悪しき親族社会です。親の存在は水戸黄門の印籠です」
 フロント陣が強くうなずいた。カズちゃんは言葉をつづけた。
「第三の虐待は、将来の希望の遮断です。スカウトを三度も追い返しました。一度は本人の目の前で、あとの二度は本人の目の届かないところで。野球選手の親でそんなことをする人間がこの世におりますか。東大でなければどんな夢を運んできても受けつけないんですよ。中京商業のことをバカ学校と陰口を叩いているのを何度も聞きました」
 選手の何人かが頭を掻いた。
「子供の将来より、自分の平凡な価値観のほうが大切なんです。神無月さんが八カ月にわたって親友の見舞いにかよいつづけ、それがもとで、ささやかな恋愛にウツツを抜かすようになったとき、お母さんは神無月さんを北へ流しました。殴る、蹴る、焼き鏝を当てるといったような虐待なら、対処のしようがあります。公に訴えるか、なんとか力で止めればいいだけの話なので。しかし、こういう精神的な虐待は止めようがない。逃げるしかないんです。どこかに逃げこんで保護されるしかありません。……留めの虐待は、お母さんは東大合格を心の底では望んでいなかったということです。驚くべき精神構造だと思いますが、神無月さんにどんな方面でも成功してほしくなかったんです。さんざん神無月さんを北へ南へ振り回した根っこにそういう深い気持ちがあったことが、名古屋西高に転校させたことでわかりました。西高は青森高校とちがって受験校じゃなかったんです。野球ばかりでなく受験の成功も遠ざけたんです。そのくせ東大でなければ、野球のクラブ活動をすることすら許さないという態度を通しました。神無月さんは意地でも東大に合格するしかなかったんです」
「ホオォォ!」
 座敷じゅうに深いため息が漏れた。高木が涙を拭わずに、
「俺たち、甘かったな!」
 太田と菱川が肩を揺すって泣いていた。水原監督が、
「よく生き延びたね! そして、みなさん、よく生き延びさせてくれましたね! ありがとう。心から感謝します」
 目をハンカチで拭った。村迫代表と榊が目を手で押さえた。カズちゃんが、
「もうこの話は金輪際しないことにします。キョウちゃんをゴールに迎え入れてくださった人たちにお話して、ザッツエンドです。さ、どんどん食べてください」
 小山オーナーが選手一同に、
「金太郎さんに関してなされる親族話は、今後門外不出、タブーだよ。きみたちの胸に収めておいてください。ほとんどのプロ野球選手は親族関係においては幸せ者だからね。つまらぬ反感のもとになる。先日金太郎さんに説教を垂れた長嶋くんが好例だ。野球選手ばかりでない。フアンの大半もこの種の話の信憑性を疑い、反感を抱く。金太郎さんは踏んだり蹴ったりになる。私たちだけがわかっていればいい。それじゃ、飲んで食おう」
「オース!」
 忙しそうに動き回る森と島の姿が廊下に覗いた。男たちの旺盛な食欲の前に、最初のコースの洋食の皿が平らげられていく。アルコールをたしなまない女たちにめしがよそわれ、賄いの手で惣菜が盛り分けられる。片づいた皿の代わりに、和食と中華の皿が並べられていく。焼きシシャモの南蛮漬け、イカの煮つけ、茄子の煮浸し、塩焼きそば、唐揚げ、餃子、明石焼き、海鮮炒め、枝豆、冷奴。ビール片手の男どもの箸がうれしそうに前後左右し、物色のために止まったりする。直人がしきりにスプーンやフォークを使っている姿がかわいらしい。太田たちが寄ってきてあぐらをかく。
「俺たちはわかってますからね、ぜんぶわかってますから」
 菱川が、
「よく、生きて、ここにいてくれました。ほんとにもうぜったい離れません」
 星野が、
「その意志の力の百分の一でも、ぼく、もらいます」
 小川が、
「ドラゴンズ以外のヒーローインタビューなんてのは、高校野球も含めて水戸黄門の印籠だらけだからな。クサクサするぜ」
 水谷則博が、
「あのころ、めし食わないで野球やってたんですね。それで、あのホームラン。……すみません」
「何が?」
「何も知らなくて」
「人のことなんか、教えてもらわないかぎり知ることはできないよ」
 土屋が、
「そんな身の上の人が、人に目をかけるなんて……。ありがとうございます」
 高木がやってきて、
「金太郎さんが困ってるじゃないか。さあ、飲んで食おう。めったに食えんごちそうだぞ。健ちゃん、トルコ嬢たちにビールをつぎにいこう」
「おしゃ」
 ついでに私にビールをさしていった。主人が首を差し伸べて、
「小山オーナー、いま天知さんはどうしていらっしゃいますか」
「中日新聞にときどき評論を書いてもらっています。ラジオ中継のゲスト解説なんかもやってるみたいですよ」
 水原監督が、
「天知さんは、私のリンゴ事件のときの三塁塁審です。私が今年からドラゴンズの監督をやるようになったのも何かの縁でしょう。二十九年のドラゴンズ優勝の翌年、彼をモデルに『男ありて』という映画が撮られてますね」
 菅野が、
「主演は志村喬でしたね。天知さんは、明大時代に杉下にフォークボールを教えたことで有名な人ですよ」
 中が、
「ドラゴンズを日本一にしたこれまでただ一人の監督です。水原さんで二人目になるでしょう」
 村迫球団代表が、
「昭和二十九年というのはドラゴンズにとって画期的な年でしてね、人情家で有名だった天知さんは二十四年に監督になって、四位、二位、二位と好成績をつづけていたにも拘わらず、人情は勝負のじゃまという理由で、二十七年に統率実権のない総監督、つまりいまの私の立場に降格させられました。その天知さんが、ふたたび監督に返り咲いた年が二十九年だったんです。名鉄に経営を委任していたのをむかしどおり中日新聞社に戻し、加えて、チームの名称も名古屋ドラゴンズから、むかしどおりの中日ドラゴンズに戻して再スタートしたんですよ」
 主人が、
「憶えとりますよ。監督天知俊一、ピッチャー服部受弘、太田信雄、そこにいらっしゃる太田コーチです。それから杉下茂、伊奈勉、大矢根博臣、石川緑、近藤貞雄」
 太田コーチが、
「ありがとうございます、名前を挙げていただいて」
「何をおっしゃる、名ピッチャーが。左腕の速球本格派、新人のときに藤本英雄を抑えて二十勝四敗、最高勝率、最優秀防御率、新人王」
「ありがとうございます。二十九歳で入団、新人王という記録はまだ破られていないそうです。自画自賛」
「そうですよ。堂々と自慢してください。それからも二年連続で十二勝を挙げ、初のリーグ優勝にも大きな貢献をなさった」
「第三戦の負け投手です」
「そうでしたか? ご愛嬌ですね。じゃ、つづけさせていただきますよ。キャッチャー野口明、河合保彦、吉沢岳男(吉沢が照れくさそうに隣部屋のテーブルで手を挙げた)、内野手は西沢道夫、国枝利通、岡嶋博治、牧野茂、土屋亨、井上登、児玉利一、外野手杉山悟、原田徳光、足木敏郎(主人の下座で手を挙げる)」


         二十九

 一枝が、
「足木さん、何かしゃべってよ。いつも黙ってるんだから」
 小川が、
「しゃべらせると長いぞう」
 温顔の足木がハハハと笑い、
「私は昭和二十八年に、一度ライトの守備についただけで、引退しました」
「有名だぞう」
「翌年、トレーナーとしてドラゴンズの優勝を経験しました」
 知られている話なので、みんなにこやかにうなずく。主人が、
「その優勝の年のことをいま思い出してます。杉下三十二勝、石川緑二十一勝、杉山悟二十八ホームラン。全球団勝ち越し完全優勝。人情監督天知さんを日本一にするというスローガンのもとに、対西鉄日本シリーズ四勝三敗でみごと日本一、涙の胴上げ。天知さんの話では、杉下の肩を気遣って連投を避けたせいで一敗したのを八百長と言われ大いに腹を立て、最終戦で杉下が完投勝利したとき、野球人を馬鹿にするなと号泣したということでしたな。翌年監督を辞めたのは少しでも疑われたせいだったと聞いとります。人情家で頑固一徹な人だったんですな」
 主人の博識に浅井がカメラの手を休めて目を丸くしている。小山オーナーが、
「むかしから中日は情の勝ったチームでしてね。濃人がくるまではね。昭和三十六年に濃人が天知カラーの一掃を図って、井上、吉沢、森、伊奈、大矢根、岡島をトレードに出した。当時のオーナーの意向でもあったようだけどね。だれだったかな、名前は忘れた(忘れるはずがない)。おかげで、江藤、高木は育ったが、権藤は潰れた。それで濃人は総スカンを食った。私は、三年前の四十一年にオーナーになったが、そのときに心に決めたことは、ドラゴンズに人情を取り戻すということだった。水原さんに監督要請したのはその一環です」
 法元は箸を下ろすと、トイレにいくような格好をしてそっと廊下に出た。あとを追った榊がすぐに戻ってきた。
「法元は大阪へいきました。大商大付属出身でいまデュプロ印刷にいる松本幸行(ゆきつつら)という左ピッチャーの獲得で忙しくしてるもので。私は日本軽金属の戸板のことで頭がいっぱいです」
 菅野が、
「戸板は去年、広島の六位指名を蹴ってますね」
「はい。青森の三本木農業出身の剛速球ピッチャーです。神無月さんが太鼓判を捺してるピッチャーです」
 主人が榊に、
「スカウトも、東に西にたいへんですな。年にどのくらいの数を見るんですか」
「私と、チーフスカウトと、サブチーフとおりますが、一人で三百人くらいです。都市対抗、夏の甲子園といった大会を経るごとにその数が減っていき、ドラフト前には数人に絞られてます」
「スカウトのフルイにかけ尽くされた選手が入団するわけですな」
「そうともかぎりません。一人のスカウトが数人ずつ、入団候補のリストを球団フロントに渡し、最終的に〈フロント決定〉を待つわけです。ドラフト会議当日になると、スカウトは会場の控室の放送モニターの前に陣取り、固唾を飲んで会議の進行を見守ります。自分の担当する選手が指名されればこれほどうれしいことはありませんが、一人も指名されない年もあります。担当選手が指名された場合、家族を交えての入団交渉、仮契約とつづき、本契約を交わしてようやくスカウトの業務完了です。神無月さんの場合は、何の苦労もありませんでした」
 小山オーナーが、
「天から降りてきたからね。かぐや姫みたいに竹を切る手間もいらなかった」
「そうなんですよ。下交渉はたしかに村迫代表が名古屋西高校時代に一度当たられましたが、そんな打診もものかは、私どもの球団に直接やってきてくださったという形でしたので、面倒な入団交渉らしきものはなく、最初から仮契約、直後の本契約こみの電撃入団という形をとりました。もろもろの事情から、お母さんとは事後承諾の形で、本人を別にして話し合いをしました。薄氷を踏む思いでしたが、社運がかかっていたので、水原監督まで駆り出して必死で猪突いたしました。とりわけ、東大の鈴下監督の大学中退に関する尽力と、飛島建設寮での交渉に同席して、お母さんの気持ちを和らげてくれた社員のかたがたの助力が大きなものでした」
 小川が、
「監督と社員か。金太郎さんはよほど手続が嫌いなんだな」
「はい、面倒なことは気が滅入ります。手続を求める人はたくさんいますが、そんなものを無視してチャンスをくれる人がいちばんです」
 カンナの世話を終えたトモヨさんが戻ってきて、太田や星野秀孝といっしょにビールをついで回っている。つぎ役の中に古株の吉沢や伊藤竜彦も混じっている。直人は水原監督や選手たちの膝を巡って一人ひとりに笑顔を与えている。最後にやはり睦子の膝に落ち着いて、ジュースを飲んだりする。江藤が、
「金太郎さんはポワーとそこにおるだけたい。手続やら何やら、そんな苦労はハタの者がすればよか」
 水原監督が、
「そのとおりだよ。手続なんてのは苦労らしい苦労に入らない。せいぜい、ポワーとしていてもらうために、要塞を作ってあげないとね。ただ、手続を必要以上に細かくしようとするやつの対処にはちょっと苦労する。形式主義者はしつこいから」
 予想どおり、鮨が出る前に直人がうとうとしはじめた。選手たちがやさしく微笑む。浅井が睦子に寄っていってその様子を小型カメラで撮る。
「愛らしい日本人形ですね。文句つけようのない被写体だ」
 カズちゃんが、
「やっぱり鮨まで起きてられなかったわね」
「歯を磨いて寝せてきます」
 トモヨさんとイネが抱いていった。これできょうは彼女たちは宴会に戻ってこない。足木が選手のほうを向き、ビール片手にマイクをとった。
「ちょっと思い出話をさせてください」
 小川が、
「ほらきた」
「オー、聞くぞ!」
 江藤がはしゃいだ。足木は渋みのある声で語りだした。 
「これだけ長く裏方をやっておりますと、いろいろな選手の言行が記憶に残ります。ふたことみこと語りながら思い出に浸りたくなりました。聞いてくれそうな人たちばかりですので―。いま話題に出た天知監督からまいります。彼は英語に堪能なかたでした。原書で野球の本を読んでおりました。その本でフォークボールというものを知って、杉下さんに教えたと聞いております。スウェーとかヒッチとかいう言葉は天知さんが言いはじめたものです。次に杉下さん。金田さんと杉下さんが投げ合う試合は早く終わりました。一時間台。二人とも抜群のコントロールをしていたからです。杉下さんはフォークの神さまと言われていますが、じつは自他ともに認める速球ピッチャーでした。ただ、いちばんすごかったのはコントロールです。小山正明じゃないですが、まさに針の穴を通すようなコントロールでした。彼の悩みの種は肘痛。右肘が伸びないまま曲がっているんです。グランドでは痛そうな顔つきはぜったいしませんでした。よく揉んであげました。トレーナー時代の話を少し。大矢根博臣。からだの硬い選手で、お辞儀をしても四十五度までしか曲がらない。肘も硬い。ある日、腰がよく曲がり、肘も柔らかい日があって、彼のからだを揉みながら、きょうはノーヒットノーランできるんじゃないの、と言ったことがあります。実際その日、彼はノーヒットノーランをやりました。夢を見ているようでした。次に板東英二。全身バネの速球派。杉下さんと同じように肘痛が悩みでした。ゴムチューブを巻いて投げたこともあります。明るい男で、一度も弱音を吐きませんでした。あの根性があれば、ラジオテレビで成功することまちがいなしです」
 片耳に聞きながら雑談する人間半分、じっくり耳を立てる人間半分。女たちのほとんどは耳を立てていた。
「ここで、人物と関係のない思い出を一つ。私の生涯で何をおいても忘れることができないのは、昭和三十四年九月二十六日の伊勢湾台風の日です。ドラゴンズはその日広島戦で遠征していて、世羅別館に泊まっていました。夜、テレビを点けると、広小路通りの柳の木が強風にたわんでいるシーンが映っていました。この時期台風がくることはめずらしくありませんでしたから、大型と報道されても、いつもの台風だろう程度にしか思っていませんでした。翌朝、名古屋で相当な被害が出たというニュースを聞いても、そうかと思ったくらいです。その日、広島とのダブルヘッダーを終えて、夜行で名古屋へ向かいました」
 一枝が、
「新幹線がない時代で、遠征はつらかったですよね。俺は三十九年入団だから、一年だけだったけど、そのつらさをよく憶えてる」
「はい、まいりました。車窓が明るくなったころでしたかね、大阪付近で、台風の被害で名古屋まで帰れないかもしれないという情報が飛びこんできたんです。それからしばらくすると徐行運転になり、とうとう大垣駅で列車が止まってしまいました。ここから先へはいけませんというアナウンスに仕方なく列車を降りて、タクシーに分乗して名古屋の堀越合宿所に向かいました。名古屋駅付近でわれわれを待っていたのは、目を覆うような恐ろしい光景でした」
 経験者も未経験者も耳をそばだて、座が静まった。私は熱田駅の陸橋から眺め下ろした光景を思い出していた。
「全壊した家、家、家。寸断された道路。台風が去ってまる一日が過ぎているというのに水がほとんど退いていない。合宿所に着くのに歩ける道を歩いて三時間かかりました。着いてびっくり、外壁は崩れ、窓ガラスは割れている。―中日球場はどうなってるんだろう、ふとそう思って自分のバイクを探しました。水浸しになってましたが、なんとかエンジンがかかりました。飛び乗り、通れる道を探しながらどうにか球場にたどり着きました。水浸し。スコアボードは骨組みだけ。トレーナー室は全滅。使い物にならなくなった薬や備品を片づけていると、満潮になった名古屋港から水が流れこんできました。命からがら逃げましたよ。……五千人以上のかたが亡くなったと聞きました。……あの台風の年に神無月さんが名古屋にやってきたと今年になって知り、時期を重ねて並々ならぬ因縁を感じると同時に、神無月さんは被災地の人びとを激励鼓舞するために、台風に逆らって舞い降りてきた天馬だったと知りました。私はひそかにそう信じています」
 話の区切りがついた感じで足木はマイクをテーブルに戻した。すべてのテーブルから思わぬ大きな拍手が湧き上がった。一枝が、
「やっぱり人物と関係ある話になりましたね。手がこんでましたよ」
 中華の皿鉢がどんどん出てくる。エビチリ、酢豚、春雨サラダ、ちゃんぽん、餃子の追加、チャーハン、豚足、胡瓜クラゲ。私はチャーハンをどんぶりに盛り、残りの惣菜をすべて皿に取り、本格的な食事を始めた。ソテツがおさんどんをする。江藤が、
「ソテツさん、豚足ば焼いてもらってよかですか」
「はい」
「酢味噌や煮こみも悪くなかけんが、表面ばパリッと焼いたほうがうまか」
「シロとアカと、二種類ありますけど」
「よう知っとるな」
 高木が、
「何だ、それは」
 ソテツが、
「シロはふつうの煮豚足に胡椒を振りかけて焼き上げたもの、アカは煮豚足を魚介とコチジャンのタレに漬けて焼き上げたものです」
 木俣が、
「それ、俺にもください」
 飲み食いのざわめきが大きくなった。果てのない食欲だ。私はチャーハンをレンゲで含みながら足木に語りかけた。
「ぼくはその月の末に、東海一号という電車に乗って、横浜から名古屋にきたんです。熱田駅付近の陸橋をのろのろ通過しました。窓から泥水に浸かった町を見下ろすと、板切れやゴミの吹き溜まりの中に豚の死骸が浮かんでました」
 中が、
「どこから流れてきた豚だろねえ。犬や猫ならわかるけど」
 主人が、
「熱田という名前のとおり、熱田区は新田地帯やったんです。一番町、二番町というのは開発時の田んぼの区割り名です。どこで豚を飼っていたかわかりませんが、多少畜産農家のようなものは残っていたと思いますよ。天白のほうへいくといまでも田畑や畜舎が多いですからね」
 知らなかった。
「千年(ちとせ)という町名の由来は何ですか」
「明治の初めにあのあたりの新田が合併して村の名を決めたとき、鶴がようきとったことから千年村とつけたんです。鶴は千年」
「なるほど」
 睦子が、
「さくらだへ、たづ、なきわたる。高市黒人。万葉集二百七十一。熱田の遠浅の鶴を歌ったものだと思います。いま勉強中です」
 みんなポカンとした。菅野が、
「桜田は南区だから、鶴が鳴き渡っていくのはやっぱり千年あたりからだな」


         三十

 主人が左右にビールをさしながら、
「ところで、足木さん、マネージャーの前はトレーナーをやっとったんですか」
「はあ、二十八年に引退してから三十七年にマネージャー業を拝任するまで、かなり長いことやってました。私の経験から言わせてもらえば、大成する選手にはかなり身体的な特徴があります。第一に撫で肩、第二にバネのある下半身、第三は手が大きいことです」
 江藤が、
「ワシもタコも怒り肩ぞ。金太郎さんは手が小さか」
 私は、
「手首から中指の先まで十九センチです。阪神の村山さんは二十二センチあります」
「そう言われると……。私の経験上ですから。権藤博のことが頭にありましてね」
「大天才の権藤さんから逆に法則を作ったんですね。一人ひとりは特殊です。特に天才は一般化はできません。大矢根さんの例もあります。体型よりも、からだの柔らかさでないでしょうか」
「たしかにそうなんです。権藤はいまの三つの条件を満たしたうえに、驚くほど柔らかい筋肉をしてました。昭和三十六年に入団するやいなや、いきなり六十九試合に登板して、四百三十イニングを投げ、三十五勝十九敗、三十二完投、十二完封、防御率一・七○。翌三十七年には六十一試合に登板して、三百六十二イニング投げ、三十勝十七敗、二十三完投、六完封、防御率二・三三。神無月さんの三冠と同様、不滅の記録です」
 小川が、
「それで肩を壊して、サヨナラだろ。三十八年には十勝十二敗、俺が入団した三十九年には六勝十一敗。ピッチャーとして最後の年だった。翌年から三塁手だ。三年間もやらされて気の毒だった。ただ、リストの利いたいいバッティングしてたな。堀内みたいだった」
 木俣が、
「スタミナ抜群、カーブとシュートは馬鹿切れ、ストレートは確実に百五十は出てたと思う。完投しても翌日は投げられるすごい回復力だった。爪がよく割れるのは気の毒だったけどね」
「私もよく治療してあげました。尾崎もそうですが、速球ピッチャーの宿命ですね。星野くんはだいじょうぶ?」
「はい、何ともありません。ただ、年間三百、四百イニング投げたら、どこかやられてしまいますね」
 小川が、
「俺、二十九勝した年、二百八十イニングだった。二百五十ぐらいで止めとかないと、選手生命縮めるぞ」
 小野が、
「私は三十三勝したとき、三百四イニング投げた。それが最高だ。稲尾は三百七十イニング以上投げた年は、三十五勝、三十三勝を挙げてる。四十二勝を挙げたときは四百四イニングだ。権藤くんの四百三十イニングという投球回数は勝ち星のわりに異常だよ。私や稲尾より十から二十も完投が多い。完投負けが多いせいだろうね。負け試合でも酷使されたということだ。かわいそうに」
 ビール瓶が新しく林立し、トイレにいく人数が増える。おトキさんが便所の位置を教えて歩く。下に四つ、上に四つの便所で足りずに、庭の垣根にしてもらってけっこうだと主人に言われて、庭に出ていく男たちもいる。水原監督は米飯をめったに食わないことで有名で、酒の肴をあてにひたすらビールを飲んでいる。菅野が足木に、
「マネージャーという仕事は見てるだけでたいへんそうですね」
「いまは切符の手配とか部屋割りくらいで、大してたいへんとも思いませんが、むかしは給料袋を運ぶのがたいへんでした。給料日になると、当時矢場町にあった球団事務所で給料袋を受け取り、それを風呂敷に包み、50ccのバイクに乗って直接中日球場に持っていくんです。監督、コーチ、選手全員の給料です。事務所から球場まで十五分、強盗に襲われたらどうしよう、一生かかっても弁償できないな、いつもそんなことを考えながら運んでましたよ。風呂敷に包んで何千万円も運ぶなんて、大雑把な時代でした。球場に着いたら、試合終了まで風呂敷のオモリです。試合後ロッカールームにやってくる一人ひとりに給料を渡し、領収書のサインをもらいます。いたずらっ子は江藤さんです。いつもいちばん分厚い給料袋を持っていこうとするんです。それはじつはマーシャルのもので、百二十万も入っていました。江藤さんは四十万です。ちなみに私は四万五千円でした」
 水原監督が、
「いよいよ江藤くんあたりの話まできたね。これから長く友人でいる人たちの概略を知っておかないと」
 足木は顔の前で手を振りながら、
「監督のほうが詳しく予習してると思いますよ。江藤さんというかたは豪放に見えて、野球選手にはめずらしく気配りのあるかたでして、私どものような者とも顔を合わせるたびに、いつもお世話になっとります、と言うのが口癖です。いつだったかうちの女房が電話を取ったとき、あまりにも丁重な口の利き方なので、一瞬江藤さんとは信じられなかったと言ってました。この容姿や言動からは想像できない誠実さと繊細さを持ち合わせた人です」
 江藤は餃子を立てつづけに口に放りこみ、
「足木マネージャー、照れくさいけん、やめんね」
 星野秀孝が、
「足木さんはチーム全員の電話番号を憶えていると聞きましたけど。ピッチャーとしては、その記憶力うらやましいです」
「自慢のように当たりますが、特技だとよく言われます。マネージャーとして必須のことなので、必要に迫られてこうなりました。いまでも杉下さんや西沢さんの番号を憶えてます。選手のだれもが品行方正というわけではありません。なかにはヤンチャな選手もいます。遠征に出ると、チームの宿舎とは別のところに泊まろうとする人もいます。ドラゴンズはそういうことにうるさくありませんから、私は融通をきかせてやることになります。しかし、何かあったときのために連絡だけはとれるようにしておかなければなりません。それで緊急の連絡先だけは教えてもらってました。その連絡先は実家や知人などには言えないものです。証拠を残すわけにはいかない。それが知れたら、私の信用もガタ落ちです。だから脳味噌に電話番号を刻みこむしかなかったんです」
「穏やかじゃねえなあ。俺はその一人だけど、あとはだれだ」
 と小川が大声で言った。
「ほぼ、全員です」
 監督のテーブルまでワーッと笑いが弾けた。千佳子がマイクを持って立ち上がり、
「さあ、隠し芸タイムです。われこそはと思われるかた、どうぞ!」
 場にそぐわないと思ったのだろう、トランプ手品を予定していたキッコをはじめ、一芸を引っさげて壇上に昇ろうとする者は一人もいなかった。歓談しているほうが楽しいのに決まっている。と思ったら、水谷則博がひょこひょこ壇に昇っていって、声帯模写をやりはじめた。水原監督、森下コーチ、半田コーチ、江藤、小野、中、高木と披露していく。目を剥くほど驚いた。そっくりなのだ。みんな笑いに笑った。水原監督が、
「投球術もそのくらいうまくなりなさい。金太郎さんのまねはできないのかね」
「神無月さんは木のような人ですから、まねするポイントがないんです。徳武さんなら」
 そう言って、俺が早稲田で四番を打ってたころはな、とやりだした。徳武本人が膝を叩いて笑った。笑いにむせながら、
「バルボンのアジャパーよりおもしろいぞ」
 小山オーナーが、
「大阪弁のバルボンか。勝利インタビューでアジャパーってやってたね。チームメイトが悪ふざけで日本語の正式な挨拶だと教えたらしいんだが、あれはおもしろかった」
 伊藤竜彦が、
「引退が近いころには仲間の通訳みたいなことしてて、スペンサーがホームランを打ってインタビューされたときに、スペンサーものすごいうれしいゆうてましたわなー、と適当なこと言ってたですね」
 とバルボンの口まねをしてみせた。則博もさっそくまねた。よく似ていた。小山オーナーが笑い、
「則博くん、ヒーローインタビューで、その声帯模写いけるかもしれないな。そうそう、アジャパーのバンジュンはドラゴンズの大ファンでね。きょうもここに駆けつけたかったらしいんだが、駅前シリーズや旅行シリーズの撮影が忙しくて無理だと断ってきた。来月七日の巨人戦で始球式をやることになった。ほくろの位置がそっくりだというんで、特に一枝くんのファンだ」
 田宮コーチが、
「そんなわけで、七日の一番バッターは修ちゃんでいく。利ちゃんは八番に回ってくれ」
「聞いてました。了解です」
「ミスター・ジャイアンツ勝利の旗で、バンジュンは巨人ファンのタクシー運ちゃん役で出てますが、実際は巨人ファンじゃないんですか」
 私が小山オーナーに尋くと、
「あれは出演依頼があったからだよ。バンジュンはむかしから、根っからのドラゴンズファンです」
 千原陽三郎が、
「つかぬことを伺いますが、こうして見ていると、神無月さんは振舞いが自然で、社会性がないなんて思えないんですけど」
 私は、
「気に入った集団に依存して生き延びるのと、見知らぬ集団で策を凝らしながら生き延びるのとはまったくちがいます。ぼくは無策の人間なので、一般の社会集団では生き延びられません」
「百号ホームランでも、オールスターでも表彰されましたけど、表彰状を受けるのは無策ですか。一般社会で生き延びるための有効な策だと思いますけど」
「メダルは仲間の励みになります。ぼくだけの問題でないので受けます。社会で生き延びようという策を凝らした結果じゃありません」
 江藤が、
「わかったとね? これからは金太郎さんにくだらん質問したらいけんぞ」
「よくわかりました」
 千原が首をさすった。千佳子が、
「それではどうぞみなさん、ご自由にカラオケをなさってください」
 水原監督がテーブルのあいだを動き回るおトキさんを呼び止め、
「山口くんは大活躍のご様子、常々新聞で拝見しています。水原がいつも応援しているとよろしくお伝えください」
 山口を親しく知っている江藤も目を輝かせる。水原監督が山口とおトキさんの関係を知った経緯はわからない。今年の春に、彼がよしのりや御池たちと名古屋に遊びにきたとき、たまたま江藤、小川、高木、菱川、太田も遊びにきて、おトキさんも交えて親しく語り合ったことがあった。山口のギターも歌も聴いている。彼らをつてにして聞いたのかもしれない。
「はい、ありがとうございます。かならず伝えます。もうすぐイタリアのコンテストから東京に帰ってきます」
 江藤が強くうなずき、
「優勝するやろのう」
 幣原が廊下から顔を覗かせて、
「いまからお鮨を握ってお出しします。大名古屋ビルヂングの築地青空の職人さんが、この厨房で握るお鮨です」
 職人二人が廊下に膝をつき、頭を下げると緊張した面持ちですぐに引き下がった。鮨ができてくるまでのあいだ、選手たちの中から喉自慢が、一人、また一人とステージに向かう。千佳子と睦子が機会操作に立つ。
 口ほどにもなくほとんどの選手が音痴だったが、星野秀孝の喉には張りがあり、江島と小野は味のある渋い声をしていた。星野は『長崎はきょうも雨だった』を、江島は『白いブランコ』を、小野は『きょうでお別れ』を唄った。フロントの中では水原監督がただ一人、
「昭和六年、田中絹代の『マダムと女房』の主題歌、唄うはエノケン」
 と言って、『私の青空』を唄い、田中絹代との事情を知っている選手たちから大喝采を浴びた。高音の伸びるすばらしい美声だった。

  夕暮に仰ぎ見る 輝く青空
  日が暮れてたどるは わが家の細道
  狭いながらも 楽しいわが家
  愛の火影のさすところ
  恋しい家こそ 私の青空

 夕暮の青空……首筋が粟立った。ずらりと鮨桶が用意されると、拍手が上がり、浅井までが撮影を小休止してつまんだ。出勤まぎわの女たちは鮨を一つまみ二つまみし、フロント陣や選手たちや運転手たちにまでビールをつぎ回ると、みなさんどうぞごゆっくりと言って、身支度をしに二階へ上がっていった。水原監督が彼女たちの横顔へ、
「花を添えてくださって、ありがとうございました」
 と頭を下げた。



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