三十一

 鮨職人も含めて森や島や寮から手伝いにきた料理人たちが座敷に呼ばれ、カズちゃんや素子たちにビールをさされた。賄いたちもテーブルにつき、飲み食いを始めた。くつろいだ時間が流れる。葛城が隣のテーブルの高木に、
「昭和四十年から去年まで四年間、キャンプは四国の松山だったなあ」
「そうでしたね。のんびりしたいいキャンプでした」
「そう、のんびり。宿舎が奥道後の旅館で、練習のあとよく湯に浸かったよな」
「毎日温泉気分でした。その前の別府や勝浦のキャンプに比べたら天国でした」
「ぬるま湯キャンプのツケが溜まって、去年の結果になったと俺は思ってる。まあそんな堅い話はいいとして、四十一年だったかな、松山市営球場に牛一頭差し入れたおっさんがおったろ」
「おりました、おりました」
 私は葛城のテーブルにビールを持って近づき、
「むかしは差し入れなんてものがあったんですか。今年の明石はなかったですよね」
 田宮コーチが、
「じつはあったんだよ。肉、酒、金一封なんてのはふつうだね。球団の大事な臨時収入だ。ほとんど二軍宿舎のほうに回った」
 中もやってきて、
「生きたままの牛一頭というのは初めてだったんじゃないですか?」
「びっくりしたよな」
 私は、
「その牛、どうしたんですか」
 今年からスタッフに入った水原監督や宇野ヘッドコーチや太田コーチも、興味ありげにからだを乗り出した。木俣が赤貝の握りをうまそうに頬張りながら、
「送り主の名前は坪内寿(ひさ)夫。船舶王、再建王、四国の大将。二本立て映画の上映を初めてやった人。映画好きの金太郎さん、聞いたことない? 来島(くるしま)ドックの再建で有名な人だ」
「さあ、そのクルシマドックというのを知りません」
 江藤が、
「仙人はふらふら雲に乗って下界を眺めとるだけばい。何も知らんでよか」
「おん齢五十五。全国の実業家でその名前を知らない人はいないとまで言われてる。とにかくやることが豪快で、プロ球団が松山でキャンプをやると聞いて、自分の手で牛一頭を牽いてきた」
 田宮コーチが、
「素人が牛一頭はつぶせない。そこで、現地のその筋の関係者にお願いしてさばいてもらった」
 私は、
「スポーツ選手は肉を食わなければならないと、最近では戒めにしてますが、具体的にイメージすると残酷ですね。太郎とか花子とか名前がついてたんでしょうから」
 菱川が、
「考えたくないすよ、神無月さん、俺もそのとき球場にいて、牛の顔見てるんすよ。キャンプのあいだじゅう肉ばっかり食ってました。かわいそうなことをした」
 木俣が、
「俺はブタの丸焼きでも平気だぞ」
 五つの桶がどんどん消化されていく。カズちゃんや天童たちの手のスピードが速い。鮨職人がうれしそうに見守る。菱川が、
「ブタは別でしょ。残酷さがないもの。このシャコ、絶品だなあ」
 主人が二人の職人に、
「ときどき握りにきてくださいや。今度は正月やな」
「連絡くだされば、いつでも参上します」
 太田が、
「……高木さんの服、高級そうですね。俺の吊るしの服とはダンチだ」
 脈絡なく陽気な話に流れていく。浅井が写真を撮りにくる。健啖家の高木は指を休めず、
「体格が合えばくれてやるんだがな」
 小川が、
「俺、三着ぐらいもらったよ」
 菱川が、
「高木さんの着道楽、車道楽はいろんな雑誌で紹介されてますよ」
 足木マネージャーが、
「シャツ、ズボン、背広だけじゃなく、鞄、靴も高級品志向です。けっして派手じゃないんですけど、高級だってすぐわかります。センスが抜群だし」
「足木さん、ほしいの」
「いや、……はい。身長が同じですから」
 睦(むつみ)五郎に似た顔を崩す。ドッと座が笑い崩れた。
「一着、本部に送ってあげるよ」
「ありがとうございます。たしか、一回着たらもう着ないんでしたね」
「二、三回着たらね」
 江藤が、
「長嶋と並んで、二大シャレ男と言われとるけんな」
「酒に金を使わない分、そっちにね」
 宇野ヘッドコーチが、
「モリさんは、釣りもやるんだろう?」
「はい、西沢監督にヘラブナ釣りの薫陶を受けました。孤舟という釣り竿をいただきました」
「へえ! あの高級品中の高級品をか」
「はい、もったいなくて使ってません」
 キクエと節子がステージに上がり、
「『あなたの心に』を歌います」
 肩を並べて歌いだした。最近よく流れてくる歌だ。横で丸信子がギターで伴奏をつけているのに驚いた。

  あなたの心に 風があるなら
  そしてそれが 春の風なら
  私一人で 吹かれてみたいな
  いつまでも いつまでも

「中山千夏の歌ですよ」
 星野が言う。小川が、
「おまえは芸能通だな」
「千夏は紅白には選ばれませんでした」

  あなたの心に 空があるなら
  そしてそれが 青い空なら
  私一人で 昇ってみたいな
  どこまでも どこまでも
  だっていつもあなたは 笑っているだけ
  そして私を抱き締めるだけ

 簡単なメロディだが、潤いがある。驚いたことに菱川が飛び入りした。二人の女を両腕に抱き寄せ、彼らの口に合わせて重唱する。ドスとサビの利いた美声だ。

  あなたの心に 海があるなら
  そしてそれが 涙の海なら
  私一人で 泳いでみたいな
  いつまでも いつまでも

 菱川の白い歯を見ているうちに、一瞬、涙が湧いてきた。信子の間奏でウワーッと盛り上がる。キクエのスキャット。

  ルールルー ルールルー
  ラララーラーラーラーラー
  (三人で)だっていつもあなたは 笑っているだけ
  そして私を抱き締めるだけ

「よかよかよかァ!」
 江藤が立ち上がって拍手し、文江さんとカズちゃんが、水原監督と半田コーチが目にハンカチを当てている。浅井が真っ赤な目でステージを見つめていた。思い出したようにフラッシュを光らせる。走り戻る節子とキクエを睦子と千佳子が抱き止める。私は菱川としっかり握手した。私の涙を見て、思わず菱川も目を潤ませた。
「神無月さん―」
 感激を全身に表して私を抱き締めた。
 鮨桶が空になり、全員にコーヒーが出された。菱川が私の脇を去らず、
「合気道をやる警備員から聞いた話ですけど、暴漢を取り押さえたときの神無月さんの様子を感心して言ってました。刃物を避けてからだをひねりながら屈みこみ、相手の背中を掌で突いて腹這いにさせる。首筋を打ち据える勢いだったそうですが、神無月さんが思い留まったと言ってました。そこまで五秒もかからなかった。何か柔術をやっている人にちがいないと」
「何もやってません。反射的に動いただけです。バッティングと同じ。それに相手が素人でしたから。プロならやられています」
 水原監督が、
「金太郎さんは何をやらせても堂に入っているけれども、喧嘩の立ち回りと、もう一つ、碁将棋は似合わない。動と静の極致は似合わないということだね」
 太田が、
「どうしてでしょうか」
「烈しすぎる動きや、静かすぎる定着は美しくないからね。ボクシングと座禅、ゴキブリとナメクジを考えればわかるでしょう。どちらも美しくない。適度にリズミカルに動き、適度に静止するものが美しい。金太郎さんは美しい人だから、美しい所作しか似合わない。江藤くんたちのような荒くれ者も、所作が美しいので美しく見える」
 江藤が膝を叩いた。
「なるほど! バッティングと守備たい。ドラゴンズのベンチメンバーはみんな美しか」
 中が、
「褒めすぎ。千原なんかスイングがバタバタでしょ」
 千原が、ハーイ、すみません、と手を挙げる。
「スイングの筆頭は金太郎さん、次が慎ちゃん、菱川、葛城さんの順か。構えの美しさはやっぱり金太郎さんを筆頭に、モリミチ、慎ちゃん、菱川。フォロースルーの美しいのは金太郎さん一人だね」
 江藤が、
「異議なし。バッティングフォームの美しさは、守備の美しさにも結びつくばい。タコが進歩してきたのはそれたい」
 太田が、
「ありがとゴザマース!」
 主人が、
「やっぱり中さんと江藤さんは二人合わせて総大将ですな。すごい貫禄だ」
 村迫が、
「中日ドラゴンズにはキャプテン制がありませんので、来季も主将を置きません。神無月くんを核に一丸野球です」
「金太郎さんがドラゴンズを去るまで―」
 中がそう言って周囲を真剣な目で見回す。水原監督が、
「中くんの冗談はきついが、深い愛情がこもっているね。だいじょうぶだよ、金太郎さんは巌(いわお)のように根を生やした大木だから、切り倒されて枯れないかぎり、その場を動かない。……私は、黄金色に輝く一本の大木を取り囲む風景にいつも感動しているんです。その樹の周囲に黄金の光が広がっているからです。北村席のかたたちも、私を含めた選手たちも、その樹を囲む景色です。金太郎さんは大木のような人ですが、金色に映える風景を従えた黄金の樹です。私たちは彼のおかげで、きらめく黄金の風景と化すことができた。金太郎さんに去られれば、もとのくすんだ雑木や岩に戻ります。このまま輝く風景でありつづけることができたら、やがてそれぞれが黄金の樹木と化すことも可能でしょう。北村席のみなさまが一本の樹木の風景としてたたずむのと同じ気持ちで、われわれドラゴンズのメンバーもたたずみます。金太郎さんのおかげで、私どもはたがいに慈しみ合うことの大切さを学んだ。北村席のみなさん、あなたがたはすばらしい慈愛の人びとです。そのことに心から感動し、心から感謝します。慈愛はすべての原動力です。来年も再来年もまたこの席で、よい時期に恵まれて生まれてきたことの喜びを噛み締めようと思います」
 大拍手、喝采、指笛。小山オーナーが目を腫らしながら、
「きみたちのことは引き受けるからね。自主的な申し出がないかぎり、理不尽な引退もトレードもしない。安心したまえ」
 みんなそれぞれの喜びの表情を浮かべてたがいの顔を見つめ合った。葛城が、やるせなさそうな表情で周りを見回している。水原監督が、
「葛城くん、阪神とは移籍契約が成立してしまったの?」
「正式ではありませんが……」
「思うところがあるのかね」
 稲尾殺しと異名をとった大打者が萎れている。
「若手が台頭してきたいま、ピンチヒッターぐらいしか出番がないと思いますので、やはり、あと一、二年、新天地を求めてやってみます」
「そう。思い留まったら連絡くださいよ」
 水原監督がさびしそうにうつむいた。
「わがままを言ってすみません」
 榊が、
「阪神ではかならず主軸を打ってくださいね。ドラフトでは葛城さんの穴を埋めるようないい選手を採りますからね」
「……よろしくお願いします」
 顔をテラテラさせた村迫代表が、
「入江にクジラが飛びこんできてくれるような幸運はもう二度と望めませんが、日本一になれば、ドラゴンズ好きのマグロぐらいは飛びこんでくるかもしれない。みなさんの日本シリーズでの活躍を期待しています」
「オー!」



         三十二

 水原監督が、
「じゃ、賄いさんがた、コーヒーをお願いします。それを飲んだら引き揚げることにしましょう。これ以上長居しても、せっかくの会が尻すぼみになります。ところで、日本一になったときのビールかけはやっぱりやらないことになった。ビールかけはペナントレース優勝の場合だけ。もちろん今後も、シーズン優勝のビールかけと、北村席での優勝会はやりますよ」
 水谷寿伸が立ち上がり、
「尻すぼみにはしません。決めます。きょうは壁の花に徹してしまってすみませんでした。無口なサブメンバーの気持ちを代表してひとこと―感激して口が利けませんでした。この天国のような会合に参加させてもらえるのは、ベンチスタートを脱するための登竜門だと痛感しました。十一年目にもなってこんなことを言うのもおこがましいですが、常に新人の気持ちで努力し、この会合に列席させていただけるようがんばります」
 徳武が、
「スタートできるならまだしも、ベンチウォーマーにならないようにがんばらないとな」
 伊藤竜彦が、
「レギュラーより劣っているのは体力と技術だ。そこを鍛えないと始まらない」
 江島が、
「俺たちも、試合の勝敗を左右する大事な要員です。そこを意識しないと、鍛錬に身が入らない」
 千原が、
「もう一歩進めて、いい意味でエゴイストにならなくちゃいけないと思う。自分中心に考えるということだよ。縁の下の力持ちじゃなく、自分が主役だ、チームを引っ張っていくのは俺だって考えるということ。そこに練習意欲と技術がついてくる」
 水原監督が小刻みにうなずき、
「きみたちの心意気はじゅうぶん伝わってきた。出場回数の多い少ないだけのことで、きみたちのことを控えなどとはけっして考えていないからね。心底期待しているんです。ただドラゴンズのレギュラーは、運だけのぬるま湯に浸かっているわけじゃない。ひたむきさがちがう。そのあたりをしっかり学んでください。バッターに対する具体的なアドバイスは一つです。一本でも多くホームランを打てるバッターになること。それで初めてチームの駒になれます。ピッチャーの場合は、持ち球の開発に精進すればいつでも逆転可能です」
 コーヒーを最後まで飲み、
「ごちそうさま。北村の旦那さん、ごシンゾさん、きょうはすばらしい会を催していただき、ほんとうにありがとうございました。繁盛に誇らず、誠心誠意のおもてなし、感じ入りました」
 主人が、
「こちらこそ、節目の大事な祝勝会を当家で催していただき、光栄の至りです。至らぬところもあったと思いますが、その点は来年以降に期待をつながれて、どうかご勘弁ください」
「一点もございませんでした」
 女将が、
「来年以降も、毎年お待ちしております」
 半田コーチが、
「とてもすてきなユウショ会でした。一生忘れません」
 宇野ヘッドコーチが、
「カールトンさん、あなたの顔出しはこれで終わりじゃないですよ。日本一の会も、納会もある」
「はい、でもワタシ、来年はハワイに帰りますので、残念ですがキタムラさんチの会はこれが最後です。ホントにいい思い出になりました」
 二軍から一人だけ参加した長谷川コーチが、
「私たちもカールトンさんのビッグイニングとバヤリースを忘れませんよ。向こうでも野球関係の仕事をするんでしょう?」
「しばらくゆくりして、それからボチボチ子供たちを教えたりしよと思います。本部に写真と手紙、送ります」
 田宮コーチが、
「東映が半田さんをコーチにほしいって言ってたけどな」
「とにかく一年は、ノンビリさせてもらいます」
「だね。十年も日本にいたんだもの、骨休めしなくちゃね」
 カズちゃんが、
「酔ってしまって億劫なかたは、うちにお泊まりください。部屋はたくさんございますのでお気兼ねなく。優勝するしないに関わらず、毎年この時期を恒例のドラゴンズ激励会にしたいと思いますが、いかがでしょうか」
 小山オーナーが、
「ぜひそう願いたいですな」
「こちらこそ、よろしくお願いします。どうか、来年、〈同じメンバー〉でお集まりください」
 ドッと笑いが上がる。吉沢が、
「来季、なんとか私もこの席に留まることができました。イベントのあるときにかぎらず、日を選んで遊びに寄らせていただきます」
 女将が、
「どうぞ、どうぞ。遠慮せんと、みなさん、いつでも遊びにきてちょうよ」
 浅井が、
「高輪プリンスの授賞式のとき、私も会場に入ってよろしいですか」
 小山オーナーが足木マネージャーに、
「中日新聞のカメラマンと同席できるように手配しておいてください」
「承知しました」
 柱時計が十時を回った。水原監督がコーチ陣に目で合図をし、
「きょうはごちそうさまでした。相変わらずのプロの味を堪能させていただきました。この上なく楽しい集いを催していただきまして、まことにありがとうございました。年に二度、三度、ここに会合できることを励みに、また一年がんばります。酔いつぶれて北村席に宿泊するような不届き者はおりません。いたら連れて帰ります」
 江藤が豪快に笑う。
「ご主人、万歳三唱ばお願いします」
「はい! みなさんご起立ください」
 ザーッと立ち上がる。一瞬天井が低くなったように感じられた。
「昭和四十四年、中日ドラゴンズ、チーム創立二度目の優勝、バンザーイ!」
「バンザーイ!」
「バンザーイ!」
「バンザーイ!」
 つづいて三本締め。イヨー、パパパン、パパパン、パパパン、パン。
「ヨッシャー!」
 記念写真は撮らなかった。もうじゅうぶん撮っている。中折れ帽をかぶった水原監督につづいて、一同ぞろぞろと廊下へ出る。水原監督につづいて一人ひとり主人夫婦とカズちゃんと握手していく。一枝が深く頭を下げて長く握手していた。文江さんが、
「つまらない書ですが、監督さんの『赤誠』を私なりに書いてみました」
 風呂敷包みを渡す。
「ありがとうございます。師匠の手は文句なしに信頼しております。あとでじっくり拝見して、東京の自宅の書斎に飾らせていただきます」
 賄いたちが式台に出、端座して別れの挨拶をする。おトキさんが深々と平伏した。私は傘を連ねる何人かの一家の者たちといっしょに門まで見送りに出た。小山オーナーが、
「年明けには、かならずわが家を訪ねてください。チームの仲良しもいっしょでいいからね。日が決まったら村迫くんを迎えにやるよ」
「はい、かならず参ります」
 門前で江島、徳武、千原らの控え陣が私と固く握手をする。きょう、ほとんど口を利かずに飲み食いしながら、上気した顔で周囲を固めていた面々だ。浅井が折り畳んだ脚立を担いで微笑みながら、
「ゾクゾクしっぱなしでした。もうこんな不思議な、迫力のある写真は撮れないでしょう。ありがとうございました」
 チームのだれかれに見境なく頭を下げた。村迫と榊が強く私の手を握った。村迫が、
「八坂荘以来、恥ずかしながら、ずっとアガッてます。この気持ちであと十年もすごせたら、思い残すことは何もありません」
 榊が、
「戸板は必ず射とめますからね。一位指名はうちだけでしょうから」
 一家の者が客人一同に親しげな挨拶をする。おトキさんが千佳子と睦子とリレーをしながら、コーヒーカップの入った紙袋を一人ひとりに手渡す。運転手三人にも渡した。おトキさんは榊に二つ渡して、
「これ、法元さんに」
 と言った。半田コーチが女たちに、
「みなさん、きょうはありがとネ。しばらく、これでお別れ。ドラゴンズのみんなに会いたいから、またくるよ。日本にきたら、かならずキタムラさんチに寄ります。そのときお会いしまショ」
 田宮コーチも、
「私も来年から東映のコーチでいきます。本拠地が東京になります。機会がありましたらかならず寄らせていただきます。お元気で」
 宇野ヘッドコーチが、
「私は残留だ。また一年付き合ってもらいますよ」
 太田ピッチングコーチが、
「私もウーやんといっしょに残留です。よろしくね」
 おトキさんたち全員が頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 土屋が私に、
「来年またここにこれるようにがんばります。神無月さんに恥ずかしくない野球をやります」
 と言って私の手を握った。江島が、
「今回もあまりしゃべれなくてすみません。みんなを見てるだけで胸がいっぱいでした」
「みんな得手不得手があります。しゃべりたいときにしゃべればいいんです」
 小雨が降っている。門前に居残っていたカメラマンたちのストロボの閃光の中に、通りを警固する松葉会の組員たちが垣根のようにが浮き上がる。黒塗りの車二台と、ムスタング、リンカーンにつづいて、タクシーが道いっぱいに十台ほど並んだ。どの車も雨にキラキラ光っている。近所の人たちが通りの辻に集まり傘を並べて見物している。水原監督が私の手をとり、
「親から虐待を受けるとかならず起きる問題がある。慈しんでくれるはずの相手から傷つけられて育つと、自尊心がやられるということです。私は金太郎さんをへりくだった謙虚な人間だとは思っていない。自分を尊く思えない気の毒な人間だと思っている。中くんはじめ、みんなが心配してるのはそこだ。自分を労わってほしい。自分を見捨てないでほしい。……そして私たちのそばを離れないでほしい」
 ボロリと涙をこぼした。私は水原監督に抱きついた。彼はギュッと私を抱きしめた。江藤と中が私の背中に抱きついた。
「私たちはこのとおり非凡な〈野球人〉にすぎないが、金太郎さんはそれに加えて非凡な〈人間〉だ。そのほうがずっと大切なことだ。じゃ、あさって、中日球場で」
 窓から手を振り、フロント陣、水原監督以下コーチ陣の車が出発した。浅井が窓から身を乗り出して辞儀をした。後続の選手一人ひとり、私と手を握り合ってからタクシーに乗りこむ。江藤と中は涙を拭いながら乗りこんだ。高木と小野はじっと私を見つめながら手がつぶれるほど強く握手してから、ムスタングとリンカーンに乗りこんだ。木俣が、
「もっとわがまま言ってくれ。浜野百三や島谷みたいに、健太郎さんやモリミチみたいにもっと俺たちを困らせてくれよ」
 と肩を叩いた。菱川が、
「神無月さん! 一生ついていきますよ」
 星野秀孝が抱きついてしばらく離れなかった。太田が、
「俺、この一年、いつも宮中の一年を取り戻してる気持ちでした。宮中の一年がドラゴンズの一年に入れ替わって、夢みたいです」
 どの車の窓からも手が振られた。私は最後の一台が曲がり角へ姿を消すまで手を振りつづけた。相変わらずフラッシュが光る中を組員たちに護られながら門内へ戻った。節子とキクエが両側から手をとった。


         三十三

 一家が居間に集まる。
「来年は催し物をもっとしっかり計画しましょう。新人の選手もくるでしょうしね。会が始まる前に、どんなに面倒でも、小山オーナー、水原監督、コーチ代表、選手代表、北村席のおとうさん、賄いの幣原さんに、一分でも二分でもきちんとしゃべってもらって、会に締まりをつけないとね。あとはきょうの調子でいいと思うわ」
 カズちゃんの提案に千佳子が、
「ムッちゃんとがんばって工夫します」
 文江さんが、
「ようまとまった会やったで、堅苦しくなくて」
 節子が、
「写真屋さんに、一年間の選手たちの活躍をスライド写真で流してもらうというのは?」
 女将が、
「それ、ええやないの。よう結婚式で見かけるがね」
 キクエが、
「会がたけなわになったころがいいですね」
 主人が、
「なんとか手配しとくわ」
 菅野が、
「写真撮影は年中適当にみんながやるので、ネガフィルムは不自由しないでしょう」
「やっぱり、踊りとかしっぽりしたもんも入れんとあかんで。めでたごとやからな。そうや、神無月さん、オフのゴルフはどうします? 納会には球団納会と選手納会がありますが、選手納会のときはかならずゴルフコンペがありますよ」
「参加しません。ゴルフなんて覚える気がしない。納会をする旅館でノンビリしてます」
 菅野が、
「ゴルフは、たいてい岐阜か長野です。球団納会は名古屋観光ホテルでしょうが、選手納会の宿はゴルフ場のそばの温泉でしょうね。選手納会のほうは思い切って出席しないという手が最善ですね。選手会行事なので球団幹部は出席しません。一泊旅行して、初日に宴会、二日目にゴルフをやるんです。宴会は飲み比べみたいなシッチャカメッチャカなものになってしまう。まあ、忘年会のようなものですかね。先輩や移籍組や二軍や裏方も含めて二百人くらいになりますから、気骨(きぼね)が折れますよ」
「球団納会だけにします。早めに江藤さんに連絡しといてください」
「わかりました。球団納会は首脳陣も参加するので、無礼講みたいに愉快をしてハッチャケることはないです。サッサと終わります」
 主人が、
「心配なのは納会のあとの秋季キャンプですよ。あれは主に入団二、三年の新人のためのものでしょう。球団との選手契約は、基本的に二月から十一月となっているので、球団には拘束力があるわけです。神無月さんが十一月以降の行事には参加しないという契約を結んだとしても、新人たちに反感持たれないかなあ」
 菅野が笑いながら、
「それはだいじょうぶです。新人でもレギュラーとして一年間活躍した選手は参加しなくてもいいことになってます。秋季キャンプは、ベテラン選手や、実績のある選手は志願して参加するというのが基本です。有力な選手たちは、各自に調整がまかされていて、疲労を回復するために秋季キャンプは免除するというのがほとんどのチームの方針です」
 優子がぼんやり宙を見やりながら、
「男の情ってすごいですね。大きくて……。最後に水原監督が神無月さんと門のところで抱き合ったとき、泣いちゃいました」
 女将が、
「五、六歳の子ってかわいいでしょう。水原さんは神無月さんのこと、大人の人間としてきちんと尊敬しながら、色気づく前の子供みたいにかわいらしいと思っとるんよ。そういう愛情って理屈がないから、どえりゃ強いものになるわね」
「そろそろ、ワシ眠なったわ」
「それじゃあ、うちらはお風呂をいただいてから寝ましょうわい」
 夫婦の去る背中を見つめながら百江が、
「一人ひとりの選手の愛情もすごいですね。特にレギュラーの人たち。赤穂浪士みたいで感動しました」
 素子が、
「キョウちゃんが殺されたら、切腹覚悟で仇討ちするわ。うちら、甘えとれんて思ったもん」
 かよいの賄いたちが後始末を住みこみにまかせて、めいめい私たちに挨拶して帰っていった。文江さんと節子とキクエは幣原たちに混じって後片づけに精を出していた。
 厨房で一日クロコに徹していた森と、島と、青空の職人二人と、アヤメの職人四人がテーブルへ呼ばれ、カズちゃんにビールを振舞われながら祝儀袋を渡された。私と菅野はキッコと千鶴にビールをさされた。睦子と千佳子も混じってビールをさした。
「気さくな人たちばかりでしたね」
 鮨職人の一人が言う。もう一人の職人がうなずき、
「築地で東映や巨人の選手たち相手に握ったことがありますが、横柄でまいりました。ドラゴンズの雰囲気は和やかで型破りです」
 森が、 
「黄金の大木の背景という話は、心からうなずけましたよ。神無月さんは、人ではないでしょう」
 島が、
「人だとすれば、最高の人ですね。宗近棟梁も言ってました。まずそばに寄れない、そばに寄って口を利いても、上の空になってしまうって」
 私は、
「照れくさいからやめてください」
「いやあ、ハハハハ」
 睦子と千佳子がやさしく笑った。菅野が私に、
「葛城さん、あとに嘆きを残しましたね。もらってますね」
「え?」
「阪神からもらってます。返せない金額をね。だから水原監督の誘い水にも乗れなかったんです。水原監督、何か感じた顔でうつむいたでしょう? 葛城さんは失策の多い人で、パリーグ時代はショート、サードでリーグ失策ナンバーワンを三年連続でやってます。中日にきて外野に回されてからも、年間四つ五つやってました。今年は失策ゼロですが、守備機会が少なかったからでしょう。四球をめったに選ばないので、出塁率も低い。今年六十試合以上に起用されて二割三分、ホームラン五本。打棒と言えるものじゃないです。その選手を水原監督は引き留めるつもりがあったんです。葛城さんはもったいないことをしました。他球団からロートルを獲るのは阪神の伝統です。彼を獲るにはそれなりの考えがあるんでしょうが、ピンチヒッターか、ファーストぐらいをやらして、ときどき長打に期待するといった程度だと思います。このまま中日にいれば、その程度の打棒でも、吉沢さんのようなコーチ職にありつけたかもしれないのに、早まりましたね」
 職人たちが、
「なるほど、あり得ますね。そういうことだったのか」
「カネで動くと、ロクなことにならない」
「……葛城さん、そんなにお金に困っていたんですかねえ」
 菅野が、
「仔細あってということなんでしょうが、私生活は謎ですからね。既婚者かどうかもわかりません。ギャンブル好きだという話は聞いたことがあります」
 私は葛城の話に胸を衝かれ、傍らにいる老若の職人たちに言った。
「彼が愛していたのは、つまり喜ばせたかった相手は、ドラゴンズの仲間たちやファンたちだったはずです。つまらない欲のせいで……だれを愛しているか伝えられなくなってしまった。人生経験豊富な人たちを前に口はばったいことを言うようですが、金を愛すると人間そのものに焦点が定まらなくなります。プロ野球選手と同様、職人は腕が命です。腕に報いるのはお金ではなく、その腕に喜んでくれる人びとと、その腕が人びとを喜ばせているという自分だけのひそかな誇りです。―おたがいがんばりましょう。今後とも、どうぞよろしくお願いします」
 職人たちは恐縮して深々と頭を下げた。
 彼らが傘を差して帰っていくと、菅野は文江さんと節子とキクエをセドリックで送っていき、千佳子は睦子をローバーで送っていった。ひとしきり高かった厨房の皿拭きの音が静かになった。
 主人夫婦が、あれこれ反省をする。車代を一人ひとりに渡すのは失礼だし不便だから前もって足木マネージャーに渡すべきだとか、優勝会の会場を椿商店会主催にして設けないといずれタニマチ連から苦情が出るんじゃないかとか、会合がマスコミに洩れない方法はないかとか、解決のつきそうもない問題に頭をひねって楽しんでいる。そうして最後には、商店会の優勝出血サービスの期間を今月いっぱいにしよう、などと明るい話題で締めくくり、離れへ去った。
 女たちも優子や丸信子や三上が中心になってしばらく茶を飲みながら、会合に参加した選手たちに対する好意あふれる人物月旦(げったん)に花を咲かせていたが、一時間もすると眠くなって腰を上げた。キッコは勉強をしに二階へ去り、トルコ嬢たちはテレビの前に集い(十二時以降は放送休止なので、CBCの『11PM』か、NHKの『生活の知恵』か、東海テレビの『テレビナイトショー』しか残っていない)、あしたの早出のアヤメ出勤組は風呂へいった。
 ふと、からだが窮屈な感じがして、一日じゅうブレザーを着ていたことに気づいた。ブレザーを脱ぎ、ジャージに着替える。
「カズちゃん、帰ろうか」
「帰りましょう」
「マークⅡで、広小路をドライブして帰ろう」
「なんかいいわね。じゃ、お嬢さんがた、ドライブして帰るわよ」
 素子、メイ子、百江に声をかける。
「はーい」
 後片づけを終えて厨房のテーブルで茶を飲んでいるソテツや幣原に、それからテレビの前にいた近記れんや木村しずかや三上ルリ子たちにお休みを言って外へ出る。霧雨。
 笹島の交差点。交差点の西と東ではビルの高さがまったくちがうので落ち着かない。広小路通に入る。深夜のケヤキとナンキンハゼの並木。やがてイチョウ並木に変わるはずだ。車の数が少ないので、アスファルトがかなりヒビ割れていることに気づく。ビルの谷間に市電は走っていない。ワイパーの動きに郷愁を感じる。―雪を刷いた記憶。いつだったか。
「市電て深夜は走らないの?」
「土日は駅前十一時五十分始発、平日は十時五十二分で終わりね」
 十一時を回っている。何台か出会えるだろう。柳橋交差点から納屋橋へ。
「堀川……。名古屋は堀川の街だね。むかしは大瀬子橋の下を流れる川だけが堀川だと思ってた」
 素子が、
「キョウちゃん、木もぜんぶわかるんやろ。ええなあ」
「素子もこれはわかるよ。葉っぱの形で」
 カズちゃんがゆっくり道の肩に車を停める。
「あ、イチョウ」
「ね」
「葉っぱの形でわかるのはイチョウくらいだね。枝でわかるのは柳。さっき橋のたもとにあったね」
 走り出す。堅三蔵の交差点。
「この漢字読めなくて、菅野さんに教えてもらった。何度見ても覚えられないなあ」
 カズちゃんと百江は微笑み、素子とメイ子は同時に、
「カタサンゾウ」
 と言った。百江が、
「タテミツクラです。江戸の初めのころ、堀川の岸に尾張藩の大きな蔵が三つあったのでそう呼ばれました。江戸時代ずっと、このあたりは蔵でいっぱいだったそうです」
 カズちゃんが、
「三つの蔵を建てたのは福島正則。名古屋生まれで、豊臣秀吉の家来。秀吉が死んだあと家康の家来になったの。家康が名古屋城下を造るとき、堀川を掘れって命令された。城の石垣を造った加藤清正のことはよく知られてるけど、堀川を掘った福島正則のことは知られてないみたい」
「そうか、堀川は福島正則か。城や町を造るのに必要な材木、石、瓦のような重くて大きなものを運ぶのには船がいちばんだもね。だから堀川を掘ったのか。名古屋城から熱田まで六キロ……」

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