三十四

「御園まできたわよ。御園通に入ってみましょう。江戸時代からつづいてる商店街だから」
 少し入ったところで車を路肩に停め、まったく人けのない道を五人で歩く。三本ヅノのランタンが道の中央に連なっている。
「たいていの商店街は寺町と呼ばれて、お寺の周辺から成り立っていくことが多いの。でも御園通商店街は名古屋城のお膝元として発展してきたものよ。この通りが御園通と呼ばれてるのは、名古屋城の御園門につながってるから。四階建てくらいの門よ。江戸時代には御園通が名古屋城に向かうたった一本の道だったの」
 私たちはカズちゃんの知識に安心して心地よく聞く。
「これを真っすぐいけば名古屋城か」
「そう。名古屋観光ホテル、下園公園を通って、桜通を渡ってずっと先へいけば、三之丸の御園御門跡に出るわ」
 右にタナカずし、東(あずま)や料理店、パチンコ旭センター、中国料理菜香林、左に御園安田ビル(酔族館のビルに似ている雑居ビル)、東(あずま)ビル、東鮓(あずまずし)本店。
「この鮨屋は明治元年からやってるのよ」
「百年以上か!」
 右に眼科、硝子店、サウナ風呂、うどん屋、菓子店、八百屋、果物店、魚屋、左にきしめん屋、書店、喫茶店、自転車屋、外科、喫茶店。
「この裏手が御園座よ」
 カズちゃんが指差す。私は白い指の先の群青の空を見た。それからみんなで、ビルとモルタルの建物の混じった変哲のない商店街をもうしばらく歩いた。秀松堂せんべい店、名古屋弁の看板。

 
お土産にちょっとなもなもええがなも。うす皮饅頭山本屋

「よく売り切れる店」
「御園座ができたのはいつ?」
「明治三十年。それから御園通が賑わうようになったんですって。御園通って看板はそのころから揚(あ)がってるのよ」
「一八九七年か」
「どうしてパッと出るの?」
「明治は一八六七を足す、大正は一九一一を、昭和は一九二五を足すって、千年小学校のときに覚えた」
 他愛のない会話。楽しい。車に戻る。走り出す。百江が、
「お嬢さんは私と同じ名古屋生れですけど、私の何百倍も名古屋を知ってますね」
「ハタチ過ぎまで遊び歩いたから。それにキョウちゃんと同じで、散歩が趣味だしね。野辺地と東京は収穫だったわ。伏見通りを通って帰りましょう」
 一筋東の伏見通りに出る。白川公園を左に見て若宮北の信号を右折し、若宮大通を新州崎橋へ。堀川に架かる風格のある橋。渡って名駅南三丁目の交差点をゆるく右へカーブして下広井町へ。
「名駅通だ。右折して五分で笹島」
「そう、名だたるドヤ街。いまはだいぶ変わっちゃったけど、わざとらしいセックスのにおいプンプン。安ホテルが多いでしょ。スターナゴヤなんて何軒かあるけど、温泉ホテルの代表」
「見知らぬ女に勃つかどうか賭けるんだよ。ぼくは西高時代にカズちゃんに内緒で、ぴったり十回いったけど、七回勃たなかった。二回は半勃ち射精できず。一回だけ半勃ちのものを無理やりつかんで入れられて、ワーッと下からすごい勢いで腰使われて、射精一回。六十歳半ばの肥ったお婆さんだった」
「××さんかしら。その齢の肥った人は彼女しかいないから。どうしてもキョウちゃんをイカせたかったのね。キョウちゃんはかわいらしいもの!」
「中はユルユルだったんだけど、その必死な様子に感動して出ちゃった。そしたら豪快に笑って、ぼくの尻をペンペン叩いた」
 百江が、
「神無月さんらしいですね。その人もうれしかったでしょう。ゴムでした?」
「彼女だけは付けなかった」
 メイ子が、
「その人の気持ち、痛いほどわかります」
 素子が、
「わかる。うちも付けんかったから」
 カズちゃんが、
「……新州崎橋、きれいだったわねェ。納屋橋のすずらん灯もよかったけど、新州崎橋の四角い四つのランタンがきれいだった」
 メイ子は街並を見上げて、
「―すてきなドライブでした。ネオンがほんとにきれいでした」
「キョウちゃんといっしょだからよ。そうでなければ、ただの提灯ギボシとネオン」
「はい」
 素子をアイリスに、百江を家に送り届ける。
「またあしたね」
「またあした」
 カズちゃんは二人を誘わない。私をゆったり解放するつもりだ。
「散歩は歩きにかぎるわね」
「そうだね。それも夕方。川べりなんかがいい」
「掘削川じゃなく、自然の川ね」
「うん。木曽川みたいにデカい川はだめだな。川べりなんかない」
 メイ子が、
「蟹江の佐屋川なんかどうでしょう。百江さんから水郷の景色がきれいだって聞いたことがあります」
「あ、その名前の感じいいわね。あしたの夕方いってみましょう」
 則武に戻り、カズちゃんとメイ子にお休みのキスをし、最近発見した〈客間〉のソファにジャージを着たままで身を投げた。カズちゃんの言ったように、家の中を点検して、ジム部屋の奥の風呂場の隣に発見した部屋だった。立派な畳間だった。掃除が行き届き、カラーテレビも置いてあった。テレビはもうやっていない。眠くはなかったが目をつぶった。慣れない会合をしたせいで、首の深いところにいやな疲労感がある。肩や背中がこわばり、耳鳴りの音も高い。気の合った人間同士でもこのありさまだ。納会や授賞式が思いやられる。青高の講演も気が重い。
 ようやく眠気が襲ってきたので、押入れから蒲団を出して、ジャージを着たままもぐりこんで睡魔にからだをまかせた。
         †
 九月二十六日金曜日。寝て起きると、七時前だった。寝が足りないが、いったん目覚めると、もう一度寝入るのは難しい。枕もとのタイメックスは十九・七度。カズちゃんとメイ子の話し声がする。私は寝床の中で、家庭生活そのものといったような物音を一つひとつ聴いていた。開け閉(た)てする戸障子の音、スリッパの音、トイレの水を流す音、冷蔵庫の扉を閉じる音、メイ子を呼ぶカズちゃんの声。北村席で目覚めるときは、厨房の賑やかな音や、楽しげな直人の叫びが混じる。
 寝苦しかったのか、いつの間にか服を脱いで下着だけの格好になっていた。ジャージが脱ぎ散らかしてある。カーテンを引くと薄曇。重そうな光が降ってくる日和だ。水原監督の笑顔が浮かび、何とも言えないうれしさに胸が鳴った。
 洗顔、歯磨、爪切り。いつも粘ついている聞こえの悪い右耳の垢も取る。右耳がネバネバしていることは、野辺地でカズちゃんに教えてもらった。西高の耳クソ取り名人の杉浦は言わなかった。今年は優子もカズちゃんと同じことを言った。中耳炎の後遺症でほとんど聴こえない耳だと教えた。左耳にたえずシャーという耳鳴りがしていることはまだだれにも言っていない。ボンヤリ遠い右の耳も、最近かすかな耳鳴りがするようになった。
 キッチンにいき、シンクに向かっている二人の大きな尻を撫で回す。カズちゃんが振り向いてキスをし、
「私はいまアレの真っ最中よ。メイ子ちゃんとしてね」
「私も危ない日です。アヤメの遅番の子を呼びましょうか?」
「いい、お腹に出すから、メイ子で」
 廊下の向かいの十畳の客間にいき、全裸にして畳に横たえる。私は座布団を二枚敷いて膝を突き、片脚を抱え、片乳を揉みながら陰部を吸う。すぐに達する。深く挿入する。どの女も包み具合がちがうだけで、カズちゃんの反応とほとんど変わらなくなってきている。いつもカズちゃんを抱いた感覚でいられる。メイ子は何度も達する。
「な、中にほしいですけど、外に出してください、ううーん、イク!」
 引き抜いて、陰茎を陰毛にこすりつける。律動するたびに精液が乳房やあごを目がけて飛ぶ。メイ子は烈しく痙攣する。
 静まって胸にティシュを使っている顔へ陰茎を持っていく。メイ子は必死でつかみ、深く咥え、吸い、舐める。カズちゃんがタオルをもって入ってきて、動きの緩慢なメイ子の胸や腹を拭き、私のものを丁寧に舐める。
「さ、私たちはごはんにしましょう。キョウちゃんの分は作っておくわね。からだじゅうベトベトだからシャワーで流しなさい」
 メイ子は立ち上がって下着をつけ、よろよろ私に抱きつき、唇を求めた。ディープキスをする。
「メイ子ちゃんは、心の九十パーセントをキョウちゃんに使ってるの。残りの九パーセントを私、自分には一パーセント」
「みんなそうです。でもお嬢さんは九十九パーセントを神無月さんに使ってます。一パーセントを私たちに、自分にはゼロ。毎日そうやって生きてます。驚きます」
「さあ、食べて出かけるわよ」
 うがい、軟便、シャワー。水気を拭っただけの裸で筋トレをしているあいだに彼女たちは食事をすまして出かけた。百三十キロのバーベル二回で終了。もう一度シャワーで汗を流し、下着を替え、新しいジャージを着る。キッチンで味噌汁を温め、冷えた目玉焼きでめしを食う。一膳。美味。玄関に菅野の声。日赤までランニング。
「節子さんとキクエさんは菱川さんといっしょに歌を唄ってもらえてよかったですけど、文江さんはさびしく帰りましたよ」
「一人ひとり気にはしているんだけど、カズちゃん以外の女に細かく気持ちが回らなくなってきた。……目の前で尻が動いていると、フッとその手触りを確かめたくなる。そんなセックスだけになった」
「それはむかしからでしょう。お嬢さんへの純愛を軸にして回っている女関係です。神無月さんがどう感じているか知りませんが、私の目には、どの女に対しても神無月さんの深い愛情が感じられます。軸が増えたかなと思えるくらい、あれはお嬢さんを見る目です。突発的なセックスをするのは神無月さんのからだのためにもいいし、女のからだのためにもなることでしょうから、気持ちを回してあげてることになりますよ。……人生は長丁場です。長い目で見て、自分のぜんぶを曝け出しておいたほうがいいです。おかげで女のほうも、ほんとうに神無月さんの〈存在の重さ〉がわかるわけですから」
「……ランニングの帰りに文江さんのところにいってくる。いちばん気持ちが回らない女だからね」
「気持ちより手が回らないのは、節子さんとキクエさんと雅江さんでしょう。何も気にせず、迎え入れるだけにしたほうがいいですよ」
 ハッハッ、フッフッ、ハッハッ、フッフッ。
「カズちゃんと結婚したからといって、みんな身を引くわけじゃないだろうしね。カズちゃんがああいう人だから」
「無理でしょうね。いまのままでいくしかないでしょう」
 ハッハッ、フッフッ、ハッハッ、フッフッ。
「法元さんの入れこんでる選手、何ていったっけ」
「松本と言ってましたね。ドラゴンズが喉から手が出るほどほしい選手じゃないと思いますよ。いちばんほしいのは榊さんの狙ってる戸板でしょう。快速球と、落差五十センチのカーブ。法元さんにしても、第一の狙いは、松本よりも島根江津(ごうつ)工業の三沢ですね。ドラフトは、戸板、谷沢、三沢、松本の順になるんじゃないかな」
 フッフッ、ハッハッ、フッフッ、ハッハッ。
「戸板はいま日本軽金属で投げてるんですよね」
「はい、社会人企業は有力選手を手放そうとしませんから、今年すぐ獲れるかどうか。しかも戸板の場合、家族がネックになってるみたいですね。なぜだかわかりませんけど、プロ入りを家族が大反対したんです」
「ぼくみたいだ。戸板と話をしたいな」
「今年はもう未成年じゃありませんから、本人がプロ入りを表明すればいいだけのことです。何より戸板は気構えがいい。巨人以外ならどこでもいいと言ってるんです。テレビはほとんど巨人戦しかやらないから、いつもテレビを観ながら巨人の打線にどう投げるかを考えてきたんだそうです。浜野百三に聞かせてやりたいですね」
 牧野公園に帰り着く。この公園を対角線に走れば八十メートルある。八十メートルのあいだに障害物はない。菅野をベンチに休ませて、八十メートルダッシュを一分休みで三本。四本目から菅野が参加したので、さらに三本。一息ついてから三種の神器。
 数寄屋門の前で菅野と別れ、文江さんを訪ねる。


         三十五

 文江さんは仕事中の文机から振り返ってニッコリ笑い、
「きのうはご苦労さま。キョウちゃん、元気なかったよ。自分中心にものごとが動くと気詰まりに思うんやないの? 人を振り回しとると思うんやろ。気兼ねせんでええんよ。みんな心からうれしがっとるんやから」
 居間でメイ子と同じように両膝に座布団を敷いて、穏やかなコイツスをする。一度のアクメのたびに抽送を休みながら、十分で一交。射精をたっぷりする。文江さんの愛液の量が極端に増えている。愛液を吐き出しながら腹を絞って快感を確かめる喜びを覚えたようで、私の射精のときも一瞬目が白く返りそうだったが、気丈に腹を絞って感覚を確かめようとした。気を失うと膣がだらけることを自分でも知っているようだ。気を失うほどの強いアクメを自制することで、膣自体の蠕動と締まりが緊密なものになるということが私の表情からわかるのだろう。
 文江さんの股間をティシュで拭ってやる。
「ありがと、キョウちゃん。ごめんね、からだが動かんの」
 文江さんはそう言いながら、ヨイショという感じで起き上がり、私のものを含む。私は彼女の後頭部と背中と尻をやさしくさする。堅肥りのからだについていた弾力のある乳房が少し垂れはじめた。切ない愛情が湧いてくる。
 私は女たちのことをよく知らない。あまりにも控えめで、おのれに無関心な人たちだからだ。善良で気高い人びとはみんなそうなのだろう。彼らは厄介な人事をサラリと受け流す。理解できないことに不安を訴えたり、正義が行なわれないことに恐怖を訴えたりすることをむだな戦いだと知っている。
「長生きしてね」
「まだ五十一やが。心配せんで。やさしい人」
 ―死ぬもんかね。こう見えてもまだ六十を越えたばかりだよ。
 横浜の貸本屋のお婆さんの言葉を思い出した。あの白髪のお婆さんは荻窪のトシさんとほとんど同い年だったのだ! 
「ありがと。何回も強う気をやって疲れてまった。このまましばらく休んでから仕事に出るわ」 
 乳首を含みながら、気づいて、濡れている座布団にティシュを当てようとすると、
「そのままにしとって。そんなことせんでええんよ。ほんとにやさしい人やね」
 裸の文江さんに口づけをして別れる。
 則武に戻り、昼近くまで五百野の終章の推敲をもう一度する。時間をかけたが、数箇所ですんだ。
 ―ついに脱稿。
 仕上がった原稿をカズちゃんの部屋の机に置いた。かわいらしいフクロウのペーパーウェイトを載せる。腹がへり、冷めた味噌汁をかけためしを一膳だけ食う。庭に出て、一升瓶左右二十回ずつ。片手腕立て二十回ずつ。
 昼の時分どきに北村席へいき、めしはあとでと断って、庭を眺めながら座敷の縁側の畳に横たわる。雲の厚い日なので座敷に煌々と蛍光灯が点いている。扇風機が弱風で回っている。予想どおり、直人が腰に乗ってくる。首っ玉にかじりつき、
「きょうはカレーだよ。カレーだいすき」
 はっきりした発音で言う。
「カレーはおいしいね」
「おいしくない」
 上機嫌に笑っている。きょうが週日だったことに思い当たり、
「きょう保育所は?」
「あさ、かたいウンコして、ちがでたから、カレーたべてからいく。おとうちゃん、ぼくのウンコみてくれる?」
「いいよ。いまするの?」
「ううん、あしたほいくしょにいくまえ」
「たくさん出る?」
「こんなに」
 両手を広げる。トモヨさんがやってきて、
「三日ぐらい出ないこともあるんですよ。そういうときは具合が悪くなって、無理にすると少しお尻が切れるんです。今朝がそうでした」
「二歳から痔になっちゃたいへんだ。見れるときは見てあげよう。直人、ごはんを食べないと死んじゃうのと同じように、ウンコやオシッコをしないと死んじゃうんだぞ」
「しにたくない」
「だから、三日も溜めないで、ちゃんと毎日ウンコしようね」
「うん。きのうテレビで、ライオンみたの」
「そう、怖かったろう?」
「こわくない。ガオー、ガオー」
 カンナに乳を含ませながらトモヨさんが笑いながらやってくる。
「見たのは十日も前なんですよ。過去はぜんぶきのうなんです」
「あした、おとうちゃん、やきゅう?」
「昼からね。朝はいっしょにいるよ。うれしい?」
 ニコニコしながら、
「うれしくない」
「二、三歳は反対語を言いたがるんですって。ほんとはとってもうれしいのに。保育所では〈イヤだ〉が流行ってるそうです」
 秋の庭が座敷の蛍光灯に照らし出されて美しい。菅野が持ってきた新聞に星野秀孝のインタビュー記事が載っていた。電話でインタビューを受けたようだ。

「球界ナンバーワンの折り紙つきの速球が決め球ですね。パームと相乗効果になって恐ろしいほどの奪三振率です。セリーグの三振奪取を江夏選手と二分してます」
「ぼくには決め球はないんですよ。ストレートとパームとカーブ。その三種類を投げるだけです。打ち取れたボールが決め球という意味なら、ストレートもいちばん速い変化球と言っていいんじゃないでしょうか。このごろ、ときどきストレートがナチュラルにシュートするので、それも決め球になるかもしれません。少しうれしいです」
 
 ストレートを変化球と定義づけるのは独特の哲学だと書いてある。目標はと訊かれて、
「来年から四年連続二十勝、四年連続最優秀防御率、できれば沢村賞一回」
 と答えていた。五連覇を頭に置いているのだ。ソテツが、
「ビーフカレー、いきますよ! サラダといっしょにどうぞ」
 幣原が、
「タンタンメンも作りましたから、そちらをお好みの人は、ライスといっしょにどうぞ」
 直人の前に甘口カレーがドンと置かれる。菅野が、
「星野さんの受け答えはスパッと気持ちいいですねえ。でも、なんで来年から四年と区切ったんでしょう」
「五連覇がチームの暗黙の合言葉だからでしょう」
「なるほど。CBCの優勝インタビューのとき、木俣さん、神無月さんにやさしかったですね。どうする? パスするかって。……ホロリときました」
「ぼくが中商にいけなかったことに胸を痛めてましたから。いつもこっそり見守っていてくれる感じがします」
「自宅の庭にバッティングケージを据えて、暇さえあればバッティングの練習をしてる人ですよ」
「そうなの? だから試合前のバッティング練習をあまりやらないんだね」
「弱った右腕の関節の冷凍治療をしたり、独りで石垣島までいって自主トレしたり、常に努力を怠らない人なので、健康博士とも練習の虫とも言われてます」
「まったくそうは見えないよね。冷凍治療って何?」
「マイナス十度からマイナス二十度の部屋でからだを低温に慣らしたあと、マイナス百二十度の本室に入るんです。三十秒、四十五秒、一分、一分十五秒、と十五秒間隔に時間を延ばしていって、最終的に三分まで延ばします。その間、皮膚が凍傷になりかけて痛むので、それを忘れるために走ったりジャンプしたりして動きつづけます。治療は一日に二度です。関節に病変のある人以外は完治します。木俣さんがあの肩の強さをいまも保っているのは、そういう努力のせいでもあるんですよ」
「すごいもんだなあ、先天的な才能に甘えることがない」
「神無月さんも同じじゃないですか。甘えたやつは、途中でリタイアするしかありませんよ」
「入団式のときに顔合わせをした竹田和史とか、三好真一という選手は、どうなっちゃうんだろうな」
「竹田は二軍戦に出てましたね。三好は深く潜行してるんでしょう。いずれチョロチョロ一軍で試されて、目立たずに消えていくんじゃないですか。おととしのドラ一の大場隆広なんか、期待の左腕ということで、金田の背番号34までもらって、三年間で五、六回しか登板してない。もちろんゼロ勝。一年目の後半にリリーフで登板して、連続三フォアボールでノックアウト。江藤さんがベンチにグローブを叩きつけて、下から出なおせ、と怒鳴ったんです」
 なになにと主人がビール瓶とコップを三つ持って縁側にやってきた。
「大場か? そのときのグローブが大場の顔に当たったんや。口惜しそうな顔をしとったそうや。一生忘れんやろ。去年アメリカのドジャースに留学して帰ってきたけど、やっぱり芽が出んな」
 菅野が、
「リリーフと言えば、その走りは板東さんです。CBC会館で板東さんは、大選手の片鱗も見せずに、タレントとして観客に溶けこんでましたね。彼は球団最年少の二十一歳で開幕投手を務めた男なんです。その後はリリーフに転校しましたがね。巨人の宮田が八時半の男なら、彼は八時四十五分の男だった。ぜんぜん騒がれなかったけど」
「宮田は昭和四十年に、抑えで二十勝を挙げたな。八時半に出てくればナイター中継に間に合うけど、四十五分じゃちょうど終わるころやからね。板東の人気は出んかった」
「来年星野秀孝が球団最年少の記録を破るかもしれません。開幕をまかされたら」
「はあ、大いにあり得ますね」
 カレーを食い終えた直人が走ってきて、
「おとうちゃん、いってきます!」
「じゃ、お義母さん、しばらくカンナをお願いします」
「はいよ」
 トモヨさんに手を引かれて直人は廊下へ出ていった。イネが、
「神無月さんも、めし食(か)ねが」
 と声をかけた。テーブルにつく。カレーが大盛りで出る。うまい。菅野が、
「お替わり」
 とイネに皿を差し出す。カズちゃんたちが、きょうは昼めしどきに帰ってきた。アイリスでは作らないことになっているカレーが食いたかったのだろう。二階から千佳子や睦子やキッコも降りてきて、あらためておさんどんが賑やかになる。アヤメの中番の優子たちが何人かで出かけていった。
「きょうアイリスを上がってきたら、夕方から散歩よ。佐屋川まで車でいきましょう」
 キッコが興味を示し、
「なになに」
「佐屋川にマークⅡで散歩にいくの。千佳ちゃんたちもいく?」
「はい!」
「じゃ、素ちゃんはローバーでメイ子ちゃんを乗せてって。キョウちゃんと千佳ちゃんとムッちゃんはマークⅡに乗せてくわ」
「じゃ私、素子さんが疲れたら、ローバーの運転、交代します」
「じゃ、帰りにそうしてや。メイ子ちゃんと二人でマークⅡに乗るで」
「はい、帰りはムッちゃんを乗せていきます」
「和子さん、いきも帰りも一人でだいじょうぶですか」
「へっちゃら」
 キッコたちがうらやましそうにする。
「あなたは勉強。おトキさん、夕飯は散歩の途中で食べてくるわね」
「わかりました」
 メイ子が、
「百江さんは?」
「いま椿町のおうちでしょう。きょうは遅番じゃない? ドライブは無理ね」
 女たちの食欲は凄まじい。スプーンの音がかしましく鳴る。たちまち何人かお替わりの声が上がる。睦子が、
「佐屋川ってどこですか」
 カズちゃんが、
「蟹江。菅野さん、ここからどのくらい?」
「四十分かかりません」
 私は、
「蟹江って、菅野さんが二十五年前、工場に勤めてた町ですよね」
「はい」
「そうなの! 知らなかった」
「中学を出てから五年ほど。そこで女房と知り合って、名古屋に戻ってから結婚しました」
 私にしたのと同じ説明をする。
「名駅通から大須通の六反へ出て、運河町を左折、四女子町(しにょしちょう)まで真っすぐ。そこから環状線に乗って稲葉公園まで真っすぐ。右折して、国道29号線を走って、荒子、高畑、新前田橋を渡って、あとは道なりに一本」
「29号線て八熊通のことね」
「はい」
「わかった。念のため、略地図書いといてくれる?」
「わかりました」


         三十六

 食事が終わるころ、トモヨさんが帰ってきた。女将からカンナを受け取ろうとしたとき、ちょうど玄関の電話が鳴った。
「あ、山口さん! え? 優勝! はい、はい、おめでとうございます! ちょっとお待ちください。おトキさん!」
 厨房からおトキさんが走り出てきて、トモヨさんから受話器を受け取った。
「はい、私です、きのう、はい、はい、三人に残って、はい、はい、そうですか、おめでとうございます! 月曜日ですね。はい、私は日曜日に帰ります。あしたは神無月さんの試合を観にいきます。ほんとにおめでとうございます。はい、いま替わります」
 私は涙まみれのおトキさんから電話を受け取った。
「ぼくだ、やったな!」
「おお、やった。さっそく日本の三つのレコード会社から打診された」
「いよいよプロだね」
「ああ、やっとおまえを見守りながら、安心して暮らせる」
 おトキさんがカズちゃんに肩を抱かれている。
「家には連絡したか」
「あとでな。こっちはまだ午前の十一時だ。ゆっくりかける。健児荘の羽島さんに連絡するのが先だ」
「白百合荘だ」
「おお、そうだった。きのう最終結果が出たんだが、疲れちゃってな、喜びを噛みしめながら爆睡した。きょうは三時から、ピッタルーガ作製レコードの吹きこみをして、あした会主催の市内観光をしたあと、晩餐会、日曜日は酔い覚ましに散歩しがてら買い物をして、月曜日の飛行機に乗って帰る。何か土産のリクエストはあるか」
「ペーパーウェイト」
「わかった。いろいろ買って帰るよ。和子さんに替わってくれ」
 カズちゃんに替わった。素子と睦子も電話口に寄り添って、おめでとう、おめでとう、とキャーキャーやっている。
「スパゲティの詰め合わせ!」
 とカズちゃん。
「カントチーニビスケット」
 と睦子。
「石鹸」
 と素子。最後に主人に替わって、しばらく笑顔で祝福していたが、ついにハンカチで顔を拭いながら堅苦しく、ほんとにおめでとうございました、と辞儀をした。切れた電話をしばらく握り締めている。女将が、
「来年は、おめでとう会をせんとね」
 千佳子が睦子と顔を見合わせ、
「早くレコード予約しなくちゃ」
 主人が、
「北村席のみんなに買ってもらわんとな。ちょっと待て、きょうの新聞」
 朝日と毎日を持ってきてペラペラやる。
「おお、載っとる! 第二回ミケーレ・ピッタルーガ国際ギターコンクール、日本人青年が快挙。優勝者は日本の無名ギタリスト山口勲さん、二十歳。山口さんは青森県立青森高校在学中より、現中日ドラゴンズの神無月郷選手の無二の親友であり、東京大学野球部のコンバットマーチの作曲者として一部に知られた存在であった。昨年より毎年九月にイタリアのジェノバ近郊のアレッサンドリアで開催されているこのコンクールは、若手ギタリストの登竜門の呼び声高く、二年目にしてすでに世界的な権威と目されている。なお、山口さんの優勝記念アルバムは、ドイツ・グラモフォン社から十月に発売される。日本国内での今後の演奏活動は未定だが、リサイタルライブ、スタジオ録音ともに、日本数社が契約の名乗りを上げている」
 カズちゃんが、
「完全にプロね。おトキさん、しばらく東京で暮らすことになりそうよ」
「はい、がんばります。名古屋での演奏旅行もあるでしょうから、まったくこちらと疎遠になってしまうということはないと思います」
 トモヨさんがカンナを寝かしつけに離れへいった。女将が、
「おトキ、山口さんの足もとが固まるまで、女中で通すんよ」
「心得てます。一生そのつもりです」
 カズちゃんが、
「山口さんは、おトキさん以外の女とはぜったい結婚しないわよ。でも、無理にほかの人との結婚を勧めたり、自分から別れたりしちゃだめ。入籍もだめ。芸術家は自由が命。つらいでしょうけど」
「毎日が夢だと思って暮らしてきましたし、もともとそんなこと願ってもいませんでしたから、ちっともつらくありません」
 主人が、
「おトキは五十過ぎて女の花道を飾ったんや。神無月さんと山口さんのおかげでな。うちはそんな女ばっかりや。ありがたいことや」
 女将が、
「おトキ、おまえの内助の功で一人世の中に大物を送り出したな。おめでと。おまえがおらんかったら、たぶんもっと時間かかっとったで」
 私は、
「そのとおりです。どんな天才も一人では何もできません」
 睦子がとつぜん、
「マンションを山口さんとおトキさんに明け渡して、私、北村席に住みたいんですけど」
 カズちゃんが、
「いいわよ、上の八畳を使いなさい。山口さん云々より、ほんとは早くそうしたかったんでしょ?」
「はい。マンションに入ったときから……。千佳ちゃんが羨ましくて」
「金魚は業者に運んでもらいましょう」
「金魚はここの池に放します。そのほうがキンタロウもムツコも幸せです」
「それも業者にやってもらいましょう」
 菅野が、
「今月中にやっつけちゃいましょう。山口さんはまだまだ名古屋に移ってこないと思うけど、そのほうがムッちゃんの精神衛生にいいわ。千佳ちゃんといっしょに行動できるし、神無月さんがそばにいるのがなによりでしょう」
「はい。うれしい。ところで、名古屋市や一宮市にも万葉歌碑のある公園がたくさんあることがわかったので、ノートを持って歩いてみることにしました。百以上もあるんです」
 私は、
「へえ、おもしろそうだね。たとえば近いところだと、どこ?」
「まとまってあるのは東山公園の植物園で、万葉の散歩道というのがあります。そこに十四基。それから、春日井市東野町の万葉の小径、そこに十五基。あとはぼちぼち遠出します。県内のことですから、大したことありません」
「カメラを持って回るといいよ」
「はい」
 カズちゃんが、
「暇になったら、キョウちゃんも参加しなさい」
「そうだね。キャンプとオープン戦のあいだか、オープン戦と開幕のあいだ」
 女将が、
「私もいこうかね、トモヨと直人を連れて」
 カズちゃんが、
「私もいきたいわ」
 千佳子が、
「私がローバーで連れてったげる」
 おトキさんが、
「こんど名古屋に遊びにきたときは、私も参加します」
 あれほど親しかったのに、余儀なく離ればなれになった人びとのことを、またしつこく思い出した。十人も、二十人も名前が浮かんだ。時間が経てば、彼らはどんどん増えていく。一人でも多くの人と別れないようにしなければならない。私はおトキさんに、
「いつも山口そばにいてね。会うは別れの始めというでたらめを信じちゃいけない。どんなときも愛する人と離れちゃいけない。離れて暮らす悲しみを思ったら、どんな困難も克服できる」
 カズちゃんが、
「キョウちゃん、何も言わなくていいのよ。おトキさんはわかってるから」
 おトキさんが、
「いいえ、しっかりわかってませんでした。神無月さんは、私が少しでも油断しないように励ましてくださったんです。神無月さん、ありがとう。私は平凡な人間なので、甘えて油断すると、ひょいと愛する人を失ってしまうかもしれません。気を引き締めます」
 私は微笑み、
「うん、ぜったい別れちゃいけない。……ぼくの人生は、最初から別れのイメージで始まったんだよ。切断のイメージだね。ふと気づいたら母がいなかった。ぼくは油断なく母を待った。そして、お盆にいっとき帰省した母に泣きついて連れ出してもらった。人と別れたくないぼくの人生の始まりだ」
 睦子が、
「油断なく待っていた子供を連れていったお母さんのほうに油断があったんですね」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんのような別れたくないという覚悟がなかったのね。三沢では何の子育てもしていないもの。国際ホテルの部屋に放っておいたり、妹夫婦に預けたり。キョウちゃんも連れ出してもらった甲斐がなかったわね」
「……彼女は渋々ぼくを連れていったんだね。憎い夫を思い出させるぼくをね。いつ止むとも知れない〈不機嫌〉が始まったのも、そのころからだったと思う。恋焦がれたあこがれの人は、やさしくない人だった。その不機嫌と冷たさのせいで父は母から遠ざかったとはっきり感じた。そういう思いが無意識のうちにぼくの心に氷を張るようになった。でも幼いぼくは母と暮らすしかなかった。振り回されながらね。ヤドリギとして生きるしかない以上、振り回されてもしょうがない」
 私は女将のついでくれた緑茶を飲みながら、
「母は熊本を出てからずっと離婚係争中だった。きっと母が判子を捺さなかったんだろうと思う。婚姻制度で縛りつけて男のふところを搾取しながら、子供を中心にした家庭の経済的な安定を求める、しかも不機嫌で冷酷に振舞いながら―そんな図々しいことが許されるはずがない。本を読んでも、映画を観ても、世の中にはそんな女ばかりだ。母も例外じゃなかった。典型的な女……。横浜で会った父の愛人のサトコは、まったく別の菩薩のような女だった。父を深く愛していて、ぜったい父と別れないという覚悟が見えた。彼女がぼくの理想像になった。……正義漢の父が、打算的でエゴイストの女と喜んで暮らせるわけがない。父は恐らく、子供を中心にした家庭に搾取されることを人間として美しくないと考える男だったんだろうね。母を愛していれば、そんな美学を捨てても母と別れない覚悟を持てただろうにね。父は母を愛していなかった。まちがいなく母も父を愛していなかった。父は自分を愛する女を捨てるような男じゃない。横浜で会ったとき、一瞬でわかった」
 女将が、
「事情を知らん世間からは無責任男と思われたやろうな」
「ええ、即死だったでしょうね。個人の事情などどうでもいいというのが世間だから」
「捨てられた子供も世間の人と同じように親を怨むのがふつうやけど、神無月さんはあこがれたんやものなあ。変わっとる」
 千佳子が、
「テレビや映画も恨みがましい子供の話ばかり。……神無月くんも、結局、正義漢のお父さんに捨てられたことになったわけだけど、そのことはどう思ってるの?」
「生物界でオスというのは子供に関しては無責任な動物だと思うし、受験期の英文でそういう内容のものをかなり読んだ。人間だけはそういう生物ではないと思われてるところがまちがった出発点だってね。人間は動物の本能を〈理解〉できる。動物には理解できないので、子育てに関してはちゃらんぽらんになる。〈理解〉できるという一点につけこまれて、人間のオスは苦労することになった。法律という枷をかけられてね。―子育ての分業を合法にするために男を縛る婚姻制度が生み出された」
 千佳子が、
「親族法の序論にも書いてありました」
「法律で縛りつけないと、子育てを放棄して女から女へ種蒔きをして歩くのが男の本能だからね。つまり、子供を産むことを前提に考え出された、生殖可能な夫婦のための福祉が婚姻制度だよ。子供を作らない、あるいは、子供を作れない男女には不要な制度だ。父は母と結婚する以前から、その制度に取りこまれることを美しくないと考えるタチだったんだね。周囲の願いで余儀なく結婚したんだろうと思う。そこが父の唯一の失敗だね。そしてぼくが生まれたとたんに、愛する女と出ていった。自分の美意識に従った勇気ある行動だ。そういう男を追いかけて、養育費を求めて裁判を起こす―気が知れない。スッパリあきらめて、どういういきさつからでも産んでしまった子を懸命に愛し育てるのが、法律の枷をはめられた人間の行いだ。日々不機嫌に、その子を相手に父親に関する愚痴を言い散らし、父に似たその子の欠陥をなじり、ついには放り捨てて、振り出しの安楽な生活に戻るなどというのは、法社会の人間としてあるまじき行動だ。母は結婚という制度に甘えたくせに、その甘えがもたらした結果の尻拭いをしなかった」




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