三十七 

 メイ子が、
「オスメス同士がしっかり〈人間〉らしい愛情で結ばれていれば、子育ての責任などということを考えなくても、子はカスガイになれますね」
「愛があればカスガイはいらない。カスガイじゃなく、愛玩の対象になる。愛のない夫婦が多いのでカスガイが必要になるんだよ。父と母が愛し合っていれば、ぼくの存在は愛玩動物ぐらいに考えるだけですんだ。ポチやタマのようにね。責任云々など大げさなことを言い出すまでもない。子供なんてかわいいだけのもので、男女関係をつづけるうえで大して重要な存在じゃないよ。直人やカンナを見ればわかるだろう。―石女(うまずめ)は去るというのは、子供を産めない体質の女は婚姻制度から外されるという、いまではまったく流行らない封建時代のでたらめなしきたりだよ。ポチやタマの存在がなぜ婚姻制度に必要なのかわからないな。ただ、形式的な結婚は殺伐とした男女関係を引き起こすから、カスガイになるかわいい子供がいたほうがいいというのはとても示唆的だ。さびしい示唆だけどね。男と女が愛し合っていれば、子供は生活を彩るメンコイ同伴者になる。子供を見守って暮らすのは楽しい」
 睦子が、
「……神無月くん、自分のお父さんとお母さんを引き合いに出して、おトキさんと山口さんを励ましてるんですね」
「うん、結婚という社会制度と絡めてね。要するに、山口とおトキさんは、別れないという覚悟さえあれば、結婚なんかする必要がないし、子供を産めないことで悩む必要もないし、それがもとですったもんだして別れる必要もないということだよ。制度の枠組と関係なく、男女の最も純粋な形を実践できる幸運なカップルだということだよ。トモヨさんは子供を産んだけど、男と女の純粋な関係を守りつづけるために、ぜったい婚姻制度に繰りこまれまいとしてる。ましてや子供のいないカズちゃんたちは、まったく結婚する必要がないわけだ。最愛の人間を愛しながらそばにいることが、人生の全目的になる。愛情を目的としない結婚は、すべて世間体を取り繕うためになされるものだ。結納、婚約指輪、結婚式、披露宴、適齢期だとか、売れ残りだとか、恋愛と結婚は別よ、などという知ったような言い回しとか、すべて人目を意識した流行で、愛する相手のことなどこれっぽっちも考えていない。いや、相手を愛してなどいない。そんなしきたりを祝福するのは馬鹿だけだ。ぼくの母も父と別れて、やっと、自分の好きな男を愛せる人間らしい生活を取り戻せたのに、世間体がすべてだと信じこんできた固い頭のせいで、自分を幸福にすることができなかった。自分を幸福にできない人間は、他人も幸福にできない」
 カズちゃんがまぶたを拭いながら、
「愛のある結婚はかろうじて許してくれるのね。うれしいわ。形式的な結婚制度そのものを責めるのは正しいし、理屈もそのとおりだと思う。私のおとうさんおかあさんも、菅野さんも、水原監督さんも、コーチのみなさんも、江藤さんも小川さんも小野さんも高木さんも、十年前の私も、キョウちゃんの言うとおり、みんな世間体に振り回されて形を整えたの。でも、それは一人前の社会人になりたいからとか、世間に合わせて身の安全を図るためとかじゃなく、隠れ蓑のためだったと、やさしく考えてね。独身でいると世間の人たちに剣呑な感じを与えるから、それを避けて、人目の煩わしさを減らしたかったということだとわかってね。もちろん、キョウちゃんが私たちを責めることなんかしないということはよくわかってる。だって、私たちは不完全で臆病な人間だけど、愛があるから。形を整えようとした人間に愛があることはまずないわ。それなのにいま私が名前を並べたような人たちにはあるの。そのことにキョウちゃんは驚いて、私たちを愛してくれてる。それはみんなわかってる。結婚したことのある人もない人も、みんなわかってるの」
 おトキさんも目にハンカチを当てながら、
「一生勲さんのおそばにいます。前にも神無月さんに同じように諭されましたけど、またふらふら名古屋にきてしまいました。心に油断がありました。すみませんけど、神無月さんの試合は観ないで、あしたの午前に帰って吉祥寺の家で勲さんを待ちます。お掃除をして、片づけをして待ちます」
「うん、それがいいね」
 菅野が、
「神無月さん、真青ですよ。血の気が退くほど、神無月さんは愛のないこの世のしきたりに怒ってるんですね。ありがたいなあ! 私どもの強い味方です。神無月さんがいてくれるおかげで、社会に対する疑問が自分に湧いたときに、自分は青臭い人間だとか、自分は社会的にレベルの低い人間だなどと思わないでいられます。人間として正しく美しく生きてるんだという自信が湧いてきます。ただ、私たちは世慣れているので〈形〉に対する怒りをうまく隠すことができますけど、一徹な神無月さんにはできない。それだけに、お嬢さんがいつもおっしゃってるように〈危険な〉感じがしますし、怒る疲労を考えると痛々しい」
 キッコが、
「神無月さんはいつも見えへん敵と戦うてるんやなあ。せやけど、それ、野球の訓練みたいに大事なことや思うで。見えへんものと手探りで戦うことを人生ちゅうんやろう? 戦いは危険やけど、戦士やさかい、うちらを守ってくれとるちゅうことにもなるんやろう。ただ、うちは好きな人をあんまり危険な目に遭わしたないな」
 カズちゃんが、
「そうよね、でも、キョウちゃんを出陣させないわけにいかないから、傷ついたときにしっかり介抱できるように、私たちも精々訓練しておかないと」
 素子が、
「メロメロにして引き留めることしか思いつかんわ。介抱って何、お姉さん」
「自分もいっしょに傷ついて、傷を嘗め合って、いっしょに回復することよ」
 カズちゃんはそう言うと、素子たちやアヤメ中番組と出かけていった。傍らで会話の一部始終をじっと聞いていた千鶴が、
「一心同体の相棒やから、いっしょに何でもするのがあたりまえということやね。うちもいつもそういう気持ちでおらんと」
 睦子が、
「私はそのうえで祈ります」
「何て?」
「きみ死にたもうことなかれって」
 千佳子が、
「それと拍手よね。下通さんがよく大きな拍手をお送りくださいってアナウンスするでしょ? ときどき目の前でするだけじゃなく、いつも心の中で拍手してること」 
 ソテツが、
「私は神無月さんに怒られた女です。神無月さんは一途な人間には怒りません。いまでは私もおトキさんや千佳ちゃんたちと同じ一途な人間になりましたけど、どんなに一途に生きてても、針の穴のような油断があって、そこから水が漏れて崩れることがあります。神無月さんはそう言いたかったんだと思います」
 イネが、
「オラ、穴だらけだすけ。……反省した。じっぱど考えねばなんねと思った」
 優子が、
「神無月さんを〈介抱〉できる女は、みんな神無月さんと長い歴史がある人です。私はついこのあいだ便乗しただけのおニュー。ちゃんとまじめに神無月さんと歴史を作るつもりで生きていかないと、逆に介抱されるだけの寝たきり老人になってしまう」
 キッコが、
「そんなこと言うたら、うちらみんなスカやが」
 ソテツが、
「いいえ、歴史は短くても、みなさんは、自分を磨いて、神無月さんを精神的にバックアップしようとしてます。私は何もしてません」
 睦子が、
「神無月さんを愛してるでしょう? それがいちばん大きな〈介抱〉だと思うわ」
「そうですね!」
 思わず女たちの背筋がピンとなった。私は感激にふるえた。今朝も文江さんに感激したばかりだ。戦う危険を敏感に察知して堅固な城を築き上げる人びと、人事をみごとな諦念で惜しみなく受け流す人びと、私も彼らのように生きたいけれど、得体の知れない〈キコツ〉が胸の底から衝き上げてきて、知ったようなことを言ってしまう。自分に意見などないと何度も決意したはずなのに。
「おトキさん、ごめんね。おトキさんにはわかり切ってることなのに、えらそうなことを言ってしまって」
 おトキさんは掌で新しい涙を拭い、
「いいえ、ありがたくて息が止まりそうでした。勲さんにもきょうの神無月さんのお言葉を重々伝えておきます。泣いて喜ぶと思います」
 主人が女将に、
「よかったなあ、おトキ。これからの二人の行く末が楽しみや」
 幣原が厨房から出てきて、
「おトキさんは油断なんかしてませんよ。山口さんのいないあいだ、少し手持ち無沙汰だっただけ。一週間もお手伝いしていただいて、ほんとにありがとうございました。助かりました。さあ、おトキさん、これから忙しくなりますよ。せいぜい目を回してください」
「はい、ありがとうございます」
 食卓がほとんど片づけられ、茶とコーヒーになる。話好きな主人の待っていた時間だ。
「オープン戦の三回は別にして、江藤さんと神無月さんのアベックホームランの回数が出とりますよ。四十四回やそうです。去年のONの十四回をはるかに超えました。もちろん永遠に破られない記録です。開幕戦から始まって、一試合に二回アベックホームランを打つダブルアベックホームランは合計四回。今年の五月二十二日に神宮でONが一回記録しとるだけですから、これも新記録です。甲子園の場外が二十回目のアベックホームランでした。江藤さんは五十九本のうち四十四本がアベックホームランだったんやな」
 菅野が、
「チームが強すぎると、かえって首脳陣は張り合いがなくなるかもしれませんね。コーチなんか、うるさいことを言うのが仕事でしょ」
 主人が、
「来年は、宇野さんと太田さんは残って、半田さんと田宮さんがいなくなる。徳武さんが入り、杉山さんと井上昇さんが呼ばれて、あとは二軍からの昇格か」
 菅野はうなずき、
「森下さん、長谷川さんでしょう。徳武さんと杉山さんはまず二軍から出発じゃないですか。井上さんや吉沢さんも。とにかくコーチは新人教育以外することがないですよ。そうだ、日本シリーズに優勝した場合、パレードは十一月八日土曜日、午前十時半、名古屋駅旅行公社前出発と決まったと、球団本部からファインホースに連絡ありました。集合場所は九時半に中区の商工会議所ビル三階の会議室、そこに実行委員会のメンバーが控えているそうです。ユニフォーム一式持参、委員の指示どおりに着替えてから、中日新聞社のバス三台で名古屋駅前へ移動、パレード車に乗り換えて中日ビルまで行進です」
 主人が菅野に、
「十一月は、パレードも含めて目いっぱいのスケジュールやろ」
 二杯目のコーヒーが出て、賄いたちも長々と脚を伸ばす。
「はい、目が回るほどです。名古屋市民栄誉賞は牧原さんを通して秋月先生に頼みこみ、月末予定を前倒しにして六日にしてもらいました。市役所庁舎、二時です」
「秋月先生は牧原さんの後ろ盾やからね。じゃ、秋月さんも出席するということ?」
「はい、杉戸市長といっしょに。八日はパレード。十日に阿蘇山でマツダ自動車のコマーシャル撮影、朝七時五十五分小牧空港発、九時二十五分熊本空港着。一日三便しかないんですよ。ご友人の中介さんが出迎えます。その日に一泊して、翌日帰名。向こうからくる便も三便で、九時五十五分、十五時十分、二十時五分、好きなので帰ってきてください。電話をくれれば小牧まで迎えに出ます。十五日は中日球場でファン感謝祭。十六日は名古屋観光ホテルで一時から球団納会。甲子園の最長不倒表彰は十九日に入れました。甲子園球場内特設会場の予定だったのを名古屋観光ホテルに切り替えてもらいました。兵庫県知事がくるそうです。各賞授賞式は二十二日の土曜日なので、日曜日、月曜日と、飛島ファンクラブ、東大ファンクラブの時間がとれるでしょう。高輪プリンスホテルには、二十二日と二十三日、二泊の予約を入れました。二十四日の東大ファンクラブの会合のあと、吉祥寺でくつろがれればいいでしょう。東大ファンクラブと飛島ファンクラブの日程は白川さんと大沼所長さんに連絡しときます」
「二十三日に飛島のファンクラブ、二十四日に東大ファンクラブだね。二十三日は飲みすぎても、もう一泊できると。二十四日はサインが主になるから、それほど飲まないだろうな。こまごまとありがとう」
「まだまだ。十二月一日から七日までの青森帰省の際の青高講演会は、六日の午後一時からです。ホテルは駅前にしようと思いますが」
「だいじょうぶ、正門前の白百合荘に泊まるから」
「そうですか、わかりました。青森から帰って、十二月十三日一時から中京商業講演会、十五日十一時から中日ビルで契約更改、二十日二時からCBCのトークショー」
「殺人ワザだけど、野球よりは疲れないかも。十二月二十一日から一月いっぱいまでは寝て暮らせるね」
「いえ、まだです。二十三日一時から千年小学校講演会、二十五日昼ごろ王選手訪問。二十七日久保田五十一さんが昼ごろ訪問。大晦日は栄生の蕎麦屋竹井で年越し蕎麦。これで全日程終了です」


         三十八

 三時に帰ってきた直人と、芝庭でゴムボールのバッティング。スイングの形がとてもよくなってきた。おもちゃグローブでキャッチボール。ボールを受けるときのグローブの出し方を教える。これはまったくできないので、素手で受けさせる。三メートルほどの距離だが両手で確実にキャッチする。じゅうぶんに褒めたあと、いっしょに風呂に入る。胸に抱いて湯に浸かる。トモヨさんが入ってきて、石鹸なしの素手で直人の髪を洗う。
「きょうのお話、おトキさんから聞きました。そういうすてきな心持ちの人に抱いていただいて生まれた子です。大事に大事に育てます。カンナも」
「直人の耳も鼻もよくなった?」
「はい、すっかり。カンナはぜんぜん手がかかりません」
「また乳首が伸びてる」
「フフ、仕方ないですね。授乳期が終わったら、根気よく縮むのを待ちます」
 四時半にカズちゃんと素子とメイ子が三十分ばかり早上がりをしてきたので、睦子、千佳子といっしょに佐屋川へドライブに出る。気温二十二・九度。カズちゃんは菅野のメモを確認して、笹島から名駅通に入る。素子のローバーもきちんとついてくる。下広井町から六反の交差点へ。名鉄の高架をくぐり大須通に入る。滑らかな運転だ。ハンドルさばきもブレーキの踏み具合もすばらしい。
 灰色のビル街に涼しい彩りを添える銀杏並木。木々の間隔が疎らなので心が安らぐ。中川運河を渡る。イチョウ並木が途切れる。カズちゃんが、
「中川運河は、名古屋港から国鉄笹島貨物駅を結ぶために掘られたのよ。名古屋の中心的な水上輸送路。中川ってむかしの笈瀬川のことなの。大正のころには堀川の輸送能力に限界がきてたから、この運河を建設したわけ。水位の高い堀川と松重閘門でつないだのは昭和七年だから、私の生まれる二年前。ウンコ川の堀川とつないだせいで水質が悪化してしまって、名古屋港から取水して改善したのよ。いまも相当な量を導水してるわ」
「ふうん、笈瀬川っていまはないの?」
「下水として地下を流れてるわ。目に見える川としては消滅したってことね」
 わかりやすい話にみんなで耳を傾ける。運河町を左折。ふたたび銀杏並木。今度は密度が濃い。睦子が、
「五時過ぎに佐屋川の岸に到着したら、ちょうど夕景色が見られますね」
「そうね、このごろ日が沈むのが五時五十分くらいだから、ゆっくり散歩しながら見られるわ」
 食い物屋や飲み屋がポツポツ混じる平坦な街並。ときおり高層マンションが現れてビックリする。私は、
「大須通って、どこからどこまで?」
「鶴舞公園駅の交差点から、黄金跨線橋南の交差点まで、三キロぐらいかしら。さっきの運河町を直進した坂の先が黄金(こがね)跨線橋。中村区と中川区の境にかかる橋。三年前に開通したばかりよ。いろいろな線路を跨いで、一キロぐらいの長さ」
「見なくても想像できる。跨線橋のそばの家って、古くさいのが多いんだ。青森の古河跨線橋を思い出す」
「ほんとね!」
 後部座席の睦子と千佳子が同時に言った。
「そろそろ空がオレンジっぽくなってきたよ」
「だいじょうぶ、まだ昼下がりの光よ」
 カズちゃんはダッシュボードから菅野のメモを取り出してチラッと見た。
「オッケイ、あとは四女子町(しにょしちょう)まで一本」
 ときどき現れる歩道橋の文字を読む。中川区愛知町、中川区四女子町一丁目。二つ目の歩道橋で四女子町の標示が出た。岐路を左へ小さくカーブ。
「よし、環状線に乗ったわ。ここから松葉公園まで真っすぐ」
 一本と真っすぐばかりだ。自分を鼓舞しているのだろう。
「カズちゃんでも知らない道があるんだね」
「そりゃそうよ。いくらヤンキーでも、物好きにほかの区まで出張しないから」
 空の淡いオレンジが濃くなった。あっという間に松葉公園。右折標示に蟹江の文字。松葉公園の茂みを右に見て右折。
「国道29号線、通称八熊通。名前は知ってたけど、走るのは初めて。終点まで正真正銘一本道、八キロちょい。二十分もかからないわね」
 家並が少し高くなる。ビルが多い。青々とした銀杏並木が相変わらずつづく。荒子の交差点で市電に出会う。アイボリーと緑のツートンカラー。千佳子が、
「あ、笑った。ほんとに神無月くんて市電が好きね」
 そう言って、助手席にアーモンドチョコレートを差し出す。
「お、サンキュー」
「好物でしょう? 和子さんから聞いて、私もムッちゃんも食べるようになったの。美容にもすごくいいみたいだし」
 高畑。中川区役所の標示。その建物がどこにあるのかわからない。歩道橋も見当たらない。不意にウトッときたところで、ゆるい勾配へ。坂の頂点に大きな橋。見慣れた庄内川の光景。曇り空が広い。目の前に《←蟹江》の大きな標示板。カズちゃんがメモを見る。
「庄内川の新前田橋よ。ここまでが八熊通。この地図だと、少し先の新川に架かる榎光(えのきひかり)橋が狭くて渡れないから、庄内川の岸沿いに南下して、一色大橋を渡るわね」
 この南下が幸いした。走っているうちに雲の背景に橙色の光輝が拡がり、川の〈焼け戻し〉のせいで、空と川が一体になって染まった。見惚れるほどの美しさだった。
「すばらしい!」
「すごーい!」
 睦子と千佳子がパチパチと拍手した。私たちは、刻々と色合を変えていく空に見入った。
「夕景色は庄内川の風物詩として有名なのよ。佐屋川では日が沈んでるわね。それでもいってみましょう、せっかくきたんだから」
 薄暮にスモールライトが点いた。一色大橋で庄内川を渡り、つづいてすぐ三日月橋で新川を渡り切ると、低く古い街並が見えた。二階家の瓦屋根がなつかしい。岸沿いに29号線へ北上して戻っていく。
「あと十分くらいかな。予定時間オーバー。おいしいごはんを食べて帰りましょう」
 急に寂れてきた景色の中を走る。近鉄線のガードをくぐる。道の片側は稲田か畑、片側は小森か量販店か大工場。戸田川、福田川、蟹江川を渡って、ついに佐屋川到着。
「着いたわよ! 佐屋川。ぎりぎり日没セーフ」
「ウオー!」
「キャー!」
 空が燃えるように赤い。カズちゃんがメーターを見て、
「十六キロぐらいしか走ってないわ。五時三十五分か―。近いわりに五十五分もかかっちゃったわね」
 橋のたもとから土手ぎわへ下りて、川の姿が見えない土手下に二台の車を停める。すでに二十台以上停まっている。人の姿がないな、と思って振り返ると、ナイター設備のある大きな釣り堀に四、五十人たむろしていた。西ノ森へら釣場という看板が立っている。看板の横が焼肉サヤ川という二階建ての店。まずそうだ。
 みんなでぞろぞろ降り、伸びをする。大瀬子橋によく似た雰囲気の橋のたもとまで歩いて戻り、欄干に凭(よ)って赤い空を映す川面を見下ろす。色を映していても、もちろん堀川より濁っていない清流だとわかる。カズちゃんがメイ子に、
「これ、日光川かもしれないわよ。きのうちょっと寝る前に百貨事典で調べてみたんだけど、佐屋川って管理河川じゃなくて、普通河川て言うらしいのね。日光川に流れこむただの細流。養殖場や釣り堀もあって、水郷と言われてる。佐屋川はもっと細い川だと思うわ。それにしても百江さん、いつこんなところにきたのかしら」
「さあ、聞きませんでした」
「三人の子が小学生のときに、電車遠足か何かについてきたのかもね。有名な水郷公園があるから。近鉄線の蟹江駅からすぐでしょう」
 民家の群れに細流が進入する水郷らしき景色は、ここからは見えない。とにかく空が美しい。岸辺の散歩など不要だ。それでも散歩道を求めて、川の見えない土手下へ下りずに、赤味の薄れてきた空の下を一筋離れたアスファルト道へ入りこんでみる。大きな間隔を空けて民家が連なり、空地はすべて水田になっている。水郷というのはこれか。しかし、舟に掉さして農民夫婦がいくような細流はない。日光川の景色は草の堤に遮られて、ついに川面が間近に見える岸に近寄ることはできなかった。
 とにかく夕陽に向かって走れの目的は達した。土手下の車に戻る。素子とメイ子がマークⅡに乗りこんでくる。ローバーは睦子を乗せて千佳子がハンドルを握る。ヘッドライトを点けて出発。
「水田の向こうにもう一本、細い川が流れていたでしょう? あれを佐屋川というのかもしれないわ。あの川のもっと細い支流が水郷を作ってるのかも。吉川英治が東海の潮来と言ったくらいだから、きっとそうよ」
 鄙びた町並を戻っていく。食べ物屋の看板に目を凝らす。
「焼鳥は食いたくないな」
 素子が、
「ラーメンもいらん」
「中国料理か。赤い家が毒々しい」
 メイ子が、
「台湾料理。ここも赤いですね」
 民家の五軒に一軒は豪邸だ。中古車店と喫茶店が多い。
「金持ち部落みたいやね」
「そう、蟹江町の財力は全国市町村平均の約二倍。蟹江は鉄道も道路も名古屋と結ぶにはとても便利だから、名古屋市のベッドタウンの中で十本指に入るくらいの発展をしたのよ。高校がないから文化レベルはいま一つね」
 蟹江川を渡る。うなぎ屋。だれも食指を動かさない。古い家並、広い道。
「あ、漬物若菜!」
 カズちゃんが声を上げた。
「何やの」
「漬物の老舗、蟹江の若菜。買っていくわ」
 マークⅡを駐車場に入れると、ローバーもついてくる。睦子が、
「どうしたんですか」
「老舗の漬物屋らしいよ」
「わあ、おもしろそう」
 みんなで嬉々として店内に入る。明るい洒落た店内だ。ガラスケースやら樽やら置いてある。薄桃色の清潔な前掛けをした女店員が店内の各所にたたずんでいる。
「守口漬ください」
 カズちゃんは躊躇なくガラスケースの店員に注文する。
「守口大根を酒粕と味醂粕に漬けこんだものよ」
 店員に一口どうぞと言われ、みんな爪楊枝で一切れつまむ。こくが深く、すっきりと甘じょっぱい。カズちゃんはほかに、八丁味噌ゴボウ、名古屋玉子を買う。玉子の漬物というものを初めて見た。またぞろぞろと出る。愉快。
 トヨタのファッションルームと道を隔てた豪邸の駐車場に、トヨタの自動車が三台並んでいる。思わず素子が声を上げて笑った。私は、
「効果的な宣伝だ」
 カズちゃんが、
「自家用車は一台きりで、二台はトヨタが宣伝料を払って置かせてもらってるのかもしれないわね。二台だけピカピカしてるもの」
 六階建てマンション、幅が数百メートルもある何かの工場、コメダ珈琲店。戸田川を渡る。鮨屋の看板。
「鮨か。やっぱりいらないな」
 豪邸、書店、豪邸。
「なるほど文化レベルね。ここまで本屋が一軒だ」
 カズちゃんが、
「文化レベルのもう一つのバロメーターの喫茶店は多いのにね」
「映画館がゼロ、パチンコ屋がゼロ。娯楽も精神的レベルの高さを示すよ。そろそろ豪邸に飽きてきた」
 メイ子が標識を見上げて、
「キョウコメダ三丁目」
 カズちゃんが、
「供米田(くまいでん)よ」
「読み方を知ってるということは、何かで有名な土地ですか?」
「私も最初読めなかったから印象に残ってただけ」
 私は、
「そういうのってあるよね、オテアライかと思ったらミタライ、ドカタかとおもったらヒジカタ」
 カズちゃんが、
「ヒジって、土とか泥という意味なのよ」
「ああ、泥江(ひじえ)町!」
 メイ子が、
「ほんとですね!」
 素子が、
「早よ帰って、漬物でごはん食べよまい」
「賛成!」


         三十九

 榎光橋の手前で右折。新川沿いに走り、近鉄線の踏切を渡る。三日月橋を左折して一色大橋へ。二本の川を渡り切り、そのまま一挙に昭和橋通三丁目まで走って左折し、これまた一挙に松葉公園まで北上した。黒い空の下を七十キロ以上のスピードで走る快適なドライブだ。後ろはだいじょうぶかとバックミラーを見ると、しっかりついてきている。メイ子が、
「お嬢さん、ほんとに運転がじょうず」
「千佳ちゃんもやるわね」
 素子が、
「運動神経ええんよ。ぜったいまねできんわ。運転が向いとらんムッちゃんもつくづく安心やろ」
「素ちゃん、代わって運転してみる?」
「いや、やめとくわ。ローバーがもっとじょうずになってからにする」
「よかったァ」
 とメイ子が言うと、素子はメイ子の肩を叩いてケラケラ笑った。
「これしばらく乗り回して慣れなさい。いつ使ってもいいから」
「うん」
 四女子(しにょし)町。メイ子が、
「なんですかね、この地名」
「高校生のころ、地名由来事典で調べたことがあるの。むかしこのあたりを治めていた領主に七人の娘がいて、それぞれ嫁がせた場所に一女子、二女子と名づけていったのね。いまは、二、四、五の地名しか残っていないわ。ジョシではなくニョシと読むのは、漢音が入ってくる以前の呉音の読み方だそうよ。善男善女(ぜんなんぜんにょ)も呉音。呉音は五世紀半ばから六世紀末の中国の南北朝時代に日本に入ってきたから、隋や唐以前のとんでもなく古い時代の地名だということになるわね」
 私は、
「さすが学者!」
 素子が、
「ムッちゃんもどえりゃあモノ知っとるよね、お姉さん」
「ほんと。感心しちゃう。ムッちゃんはいい学者さんになれるわ」
 メイ子が、
「睦子さんはよく調べものをして、頭に刻みつけるのが趣味みたいなところがありますけど、神無月さんは野球でそういうことをしたりするんですか」
「ぼくはまずしないね。してる選手が多いみたいだけど。学問は刻みつけた知識が定着する。野球では刻みつけて定着させたつもりでも、現場で肩すかしを食らう。結局、現場でめまぐるしく考えることになる。だから予習はほとんどしない。サボってるわけじゃなく、直観を働かせてマグレを引き寄せるのに忙しいだけ。基本は勝ち負け、白か黒か―肌に合ってるスポーツだ。学問はマグレを期待する営みではないし、勝ち負けのスポーツでもない。堅実な定着が基本になる知的作業だ。本物の精神的行為だね。それをメイ子のように趣味と考えるのはすばらしい観察眼だ。学問て趣味の高じたものだからね。玄人の野球も趣味とか娯楽とも見て取れるけど、突き詰めれば精神的行為じゃなく勝負事だ」
「野球文化ってよく言われますけど。精神的行為みたいに」
「文化? 文明とか文化というのは個人的なものじゃないよ。動向とか趨勢というものだ。二割か三割のマグレのをめぐって、勝ったり負けたり、それに一喜一憂したりすることは文化文明的行為じゃない。チャンチャラおかしい。勝負事をしている連中に文化も文明もない。趨勢を打ち出してえらそうにふんぞり返っている野球選手を見ると笑える」
 メイ子が、
「学者も文化人も、ふんぞり返っていると笑えます」
「学者はふんぞり返らない。絶えず精神的活動をしてるから、ふんぞり返る暇はない。ふんぞり返るやつは文化人だ。文化人というのは文化とは関係のない、もちろん趨勢など作り出すこともできずに、学者のふりをしているごく個人的な詐欺師のことだから、ふんぞり返るのが商売だ。常に多勢(たぜい)を恃(たの)んでふんぞり返る。野球選手は個人的な存在だけど、趨勢を打ち出す詐欺師じゃないから文化人のまねはしない。自分の行為は個人的な趣味や娯楽に留まるもので、大勢(おおぜい)に影響を与えるものじゃないと認識していれば、人は威張り腐らないものだよ。個人的な趣味や娯楽に浸っているのに、大勢を意識して威張るやつは異常だろう?」
 カズちゃんが、
「学者も野球選手も真剣にわが身を追いこみながら時間を使ってるという意味では、同じタイプの人間ね。学問とスポーツ、知的能力と肉体的能力―土俵がちがうだけで真剣さは同じでしょ。キョウちゃんの言うように、学問研究も勝負事も、突き詰めれば個人的な趣味や娯楽にいき着くわ。大勢の精神を巻きこむことはできないし、巻きこむことは本道じゃない。文化人は個人的な趣味や娯楽にいき着かない。大勢の精神を巻きこもうとする趨勢や権力にいき着く。できもしないのにね。それがふんぞり返りという身振りの正体だと思うわ」
 素子が、
「キョウちゃんもお姉さんも迫力あるゥ」
 メイ子が、
「趨勢って、大勢の精神を巻きこむことなんですね。はっきりわかりました。文化人の意味もはっきりしました。すごい説得力だった」
「とにかく、学者もスポーツ選手も常に鍛錬しなくちゃいけないから、ふんぞり返ってる暇はないんだよ」
         †
 七時半。トモヨさん親子三人と幣原の姿はない。みんな夕食を終わりかけているところへ、若菜の漬物を出すと一座が大喜びになり、一膳だけ別腹ということで、熱い飯に載せたり茶漬けにしたりして相伴する連中がかなり出た。私たちもソテツとイネのおさんどんで茶漬けを食った。女将が守口漬と八丁味噌ゴボウの薄樽を見つめながら、
「ようけ買ってきたねェ。しばらくオコウコに不自由せんわ」
 と言いながらうまそうに茶漬けをすすった。菅野は守口漬で、主人もゴボウ漬でサラサラ掻きこむ。主人が、
「夕景色にかぎらず、川景色で県一番の絶景は香嵐渓やろう。ここから車で二時間弱でいける。秋の紅葉で有名や。十一月にいってみたらどうですか。抜けの暇はあるでしょう」
「いいですね。菅野さんにスケジュールを立ててもらいます」
 菅野が、
「まかせといてください。十一月末に空きがあると思います。ところで神無月さん、今年左ピッチャーから何本ホームランを打ったと思います? もちろん憶えてないでしょう」
「はい。……さあ、二十本くらい?」
「二十八本です。左と対戦すること自体少ないので、ほぼ全員から打ったことになります。じゃ、左方向のホームランは?」
 主人が、
「半分くらいやないか?」
「そんなにいってません、三十本です。センターも含めると四十六本。じゃ―」
「場外ホームランは、とくるんでしょう?」
「はい、照明塔とスコアボード直撃も含みます。看板は場内にします」
 千佳子が、
「ノートを調べるとすぐわかるんだけど」
 私は、
「意外と少なくて三十本くらい?」
「その二倍、ぴったし六十本です」
 女将が立ち上がり、
「そろそろ私は帳場に入りましょうわい。男はどうでもいいこと調べて喜んどる。おトキも野球話になんか付き合っとらんと、早く台所をすまして休みなさい。あしたは出発前にお土産買いに歩かんと」
「いえ。お土産は買わずに、起きたらすぐ仕度して帰ります。勲さんがイタリアから戻りしだい、イタリアのお土産はこちらに送ります」
「ほう。じゃ、みんなごはんがすんだら自分の持ち場にお戻りや」
「はーい」
 ソテツが、
「おトキさん、台所はいいから、みんなとゆっくりお話してて」
 菅野が、
「じゃ、社長、私らも見回りに出ましょうか」
「ほうやな、いこ」
 カズちゃんが、
「菅野さん、近いうちにムッちゃんの引越しよろしくね」
「はい、今月末あたりに業者を頼んでチャンチャンとやります。蛯名さんでもいいな。とにかく安心しといてください。きょうはムッちゃん、帰らないんでしょう?」
「はい、あしたおトキさんと野球を観たあとで帰る予定でしたから。来月から大学にかよいがてら万葉公園巡りです」
「了解。ぬかりなくやりますから安心しといてください。神無月さん、あしたのランニングは、昼めしの前ですね」
「いつもの八時で。日赤まで。則武から朝北村にきて待ってます」
「はい。あしたのネット裏はおトキさんがいかないことになったから、ムッちゃんだけですか」
「あなたとおとうさんだけよ。ムッちゃんと千佳ちゃんは、優子さんと信子さんといっしょに一塁スタンド。私を含めてほかの人たちは日曜のダブルヘッダーに勝手にいくわ。日曜の年間席は秀樹ちゃんも座らせてあげて。第一試合か第二試合のどちらかに江夏が投げるわよ」
「ありがとうございます、そうさせていただきます」
 主人と菅野が出ていくと、ほとんどの女たちは二階に上がり、テレビの前に坐る者もいれば、雀卓につく者もいる。女将が帳場に入る。カズちゃんが、
「おかあさん、手伝おうか?」
「ええよ、だいじょうぶ」
「じゃ、私たちも少しお話したら帰りましょう」
 女だけの座敷が広々となった。コーヒーが出る。カズちゃんはおトキさんに、
「山口さんの実家とは親しくしてるの?」
「はい、気に入ってもらってます」
「つまらないむかし話はしなくていいのよ」
「してません。北村席の賄い婦だと言ってあります。息子さんの女中のつもりでいる、それ以上になりたいともそれ以下でありたいとも思わない、息子さんの将来のじゃまになるとわかったらすぐに身を退く、とはっきりと申し上げました」
「はっきり申し上げましたはいいけど、そういうことは最終的に山口さんの判断することだから、先走りして自分から言い出さないようにするのよ」
「はい、わかってます。お母さんと妹さんには、いろいろ東京見物をさせていただきました。とてもやさしいかたたちです。菊田さんは、二、三週間にいっぺんは三鷹のほうに顔を出してくれます。福田さんと三人いっしょに、週一の水泳教室にかよってます」
「その様子なら、東京で暮らすのはだいじょうぶそうね」
「勲さんのそばであればどこでも。じゃ、私、あした早いので寝ます。このままご挨拶しないでお別れするかたもいらっしゃると思いますけど、ごめんなさいね。神無月さん、ほんとうにありがとうございました。いつもそう思うんですけど、どんなに感謝してもし切れません。ふつつか者ですが末永いお付き合いをお願いいたします」
「山口にいつまでもかわいがってもらってね」
「はい。ありがとうございます。じゃ、お嬢さんがた、お休みなさい」
「お休みなさい」
 おトキさんはやっぱり自室へ退がらないで、厨房に入っていった。私たちは優子や丸たちといっしょに『今週のヒット速報』しばらく眺めてから、睦子と千佳子に門まで送られて北村席をあとにした。アヤメの遅番組が帰る前だった。
 則武の居間で、カズちゃんたち二人と金曜11PMを観る。私たちの好きなカラー放送番組。今年からカラー放送に切り替わった。ふだんの曜日とちがって、色気を出さず、競馬、フィッシング、ゴルフ、麻雀など、大人の娯楽タイムという雰囲気。大橋巨泉、朝丘雪路の軽さもいい。ユーモアと笑い。人生において笑いは大事な要素だ。
「巨泉のあだ名知ってる?」
「知らない」
「めがねまんじゅう」
「うまい」
 この番組が終わると一日の放送自体が終了する。



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