四十

 九月二十七日土曜日。六時に目覚めた。曇。十二・八度。カズちゃんとメイ子の姿はまだない。うがいをし、下痢気味の便をし、シャワーを浴びながら歯を磨き、洗髪し、新しい下着とジャージに着替えて居間へいった。やがてのこと二人が起きてきて、おはようを言う。メイ子は、おはよう存じます、とかならず言う。その響きが好きだ。
 キッチンの物音がしはじめる。カズちゃんがコーヒーを落として持ってくる。メイ子が玄関に新聞を取りにいく。コーヒーをすすりながら中日スポーツを読む。山内一弘の手記が載っている。三十七歳球界最年長野手の本音という記事だった。おもしろ味のない堅苦しい話だろうと想像がつく。

 中日スポーツの読者のみなさんこんにちは。広島カープの山内一弘です。私が球界最年長であると知らされ、少なからず驚いています。金田投手や小野投手や阪神の吉田選手は、私より一歳年下なのだそうです。
 ベテラン選手の本音を語れと言われても、取り立てて申し上げることもないのですが、今日までどんなふうに野球生活を送ってきたかと問われれば、答えられることは多少あります。それは、自分がやりたいこと、やるべきことをやるということです。何か特別なことをするわけではなく、自分がいまやるべきことに時間を割くということです。毎日一つずつと思ってやってきました。ケガをしないようにしっかりからだを作るというのがメインです。これは昭和二十七年の入団以来変わらずやってきました。
 同僚の選手たちといろいろ話をしますが、それは彼らを指導したいからではなく、自分も勉強になることがあるからです。また、どの選手がどういう考えを持っているのか知っておくことも、チームプレイのためには重要なことだと思うからです。たとえば外木場のブルペンの投球練習で打席に立ったあと、彼と話をする。バッターとしての考えを言い、ピッチャーとしての考えを聞く。ピッチャーとバッターは考えていることがちがうとわかります。考えが同じなら、バッターはピッチャーの脅威にならないし、ピッチャーはバッターの脅威になりません。
 広島カープは今年最下位に低迷しています。これをくやしいと感じなければいけない。くやしいと感じないで来年キャンプにきた人間は、ロクな成果を生めません。ベテラン古葉がもう一度ショートに挑戦しようとして懸命にやっている。今津には負けないという強い思いが前面に出ている。そればかりではなく、今津との連繋プレイのためには今津の立ち位置を知らなければいけない。そのためには自分は何をしなければいけないかということを考えながらやっているのです。
 リーグ最年長という冠をつけられているけれども、年齢のことは考えたことがありません。自分はできると思ってグランドに立っているわけだから、現在の力でやるべきこと、できることをやる。そこは変わりません。


 本音、というほど暴露めいた話ではなかった。ふだんの心がけ程度のものだろう。ひどく稚拙でボンヤリした文章だが、言わんとするところは伝わってきた。
 ステーキ、クリームシチュー、めし。
「優勝が決まって気抜けする時期でしょうけど、精いっぱいがんばってね」
「うん、油断しないよ。しかし、五、六試合残して優勝というのが理想的だね」
「そうね、今年は強すぎたわ。ハラハラドキドキのほうが盛り上がりはあるんでしょうけど……来年からは少しずつそうなりそうな気がする。江藤さんの衰えに合わせてね」
 ジムトレ二十分。バーベル八十キロ五回。出勤前の二人を置いて出る。
 北村席の美しい玄関に入る。いつも明るい物音を立てている厨房は、玄関土間の右壁の隣にあり、座敷の廊下を隔てて調理場とめし炊き土間に分かれている。飯炊き土間は板敷きの調理場よりも一段低く裏土間一面にこしらえられている。玄関土間の左は客間の押入納戸に接して造りつけの大きな下駄箱になっていて、花瓶が載っていたり、グローブが載っていたりする。式台の端には電話台が置いてある。厨房と三間(ま)の座敷は、帳場と居間をまとめて挟んで二本の廊下で隔てられているが、厨房からの声や音は、なぜか座敷によく徹る。その逆も同じだ。
 居間で主人夫婦が茶をすすりながら新聞を読んでいる。トモヨさんがカンナに乳をやっている。聖母子像。
「すばらしい図だね」
「あら郷さん、おはよう」
 主人夫婦も頭を下げる。
「おはようございます」
「おはようございます。メシは食ってきました。八時から菅野さんと走ります。おトキさん帰った?」
「帰りました。くれぐれも郷くんによろしくと言ってました」
「人にばかりきびしいこと言っちゃう癖があるからね。深く意識してしゃべってるつもりじゃないんだけど」
 主人が、
「神無月さんは、人にも自分にもきびしいから」
「直人は?」
「座敷で幣原さんにごはんをいただいてます。お大名よ」
 座敷を覗くと、幣原が直人を膝に抱いてスプーンを含ませている。食卓についた女たちに順番にアコウダイの開き、目玉焼き、梅干、海苔、味噌汁が運ばれる。女将が、
「キッコと丸ちゃんはアヤメの早番で出かけたわ」
「やっぱりキッコは働いちゃうんだね」
 トモヨさんが、
「申しわけないってどうしても思うみたいです。ムッちゃんと千佳ちゃんはファインホースで電話番」
「こんなに朝早く?」
 女将が、
「ファインホースの社員がくるのは九時からや。受け継ぎをしてくれとる。ときどき朝早くかかってくることがあるんよ。社員と交代するまでは、北村のだれかが詰めとる」
 トモヨさんが、
「応える言葉は簡単ですから。神無月は多忙を極めておりましてスケジュールを検討したうえでご返事いたします、ではご連絡先をどうぞ。そうやってメモをとるだけ。あとで菅野さんが折り返し電話してくれます。イネちゃん、郷くんにコーヒー」
「はーい」
 めしを終えた直人が、ごちそうさま、とかわいらしく手を合わせる。彼といっしょに縁側の畳に坐る。寝転がると、まねをして直人も肘枕で庭を眺める。一家の女たちが続々とめしを食いにくる。睦子と千佳子が千鶴と三上に電話番を交代して食卓に混じる。
「きょうは?」
 睦子に尋くと、
「千佳ちゃんとマンションにいってお掃除して、キンタロウとムッちゃんに餌をやったら、北村に戻ってきて万葉碑を訪ねる計画を立てます」
 二階の廊下から、掃除当番の賄いたちが雑巾がけをする足音が降ってくる。裏庭の水場で何台かの洗濯機が回る音が聞こえはじめた。
「山内一弘はいま何本ですか」
 主人は打撃三十傑に目を凝らし、
「二十本です」
「さすがだなあ」
「古葉、今津、興津、田中尊と並んで、山内もあとはないですね。一、二年でしょう。衣笠と山本浩司と水沼の時代になります」
「ピッチャーはどうです?」
「西本と竜と池田、それから大羽の四人は風前の灯やろね。ONも全盛期を過ぎてまったし、この数年の世代交代は激しいと思いますよ」
「きょうから阪神戦か。そういう選手を目に残しておかないと」
「来年姿を消しそうなのは、ピッチャーは村山、権藤、柿本、野手は本屋敷、小玉、吉田義男あたりやね」
「あと阪神戦は八つ、巨人戦八つ、広島戦五つで終わりです。大事に戦わなくちゃ」
 直人が私の腰に跨る。
「きょうはゆっくりだな、直人」
「きょうはほいくしょいかないの」
「ランニングのあとでいっしょに虫の図鑑を見よう」
「おさかながいい」
「よし、お魚の図鑑を見よう」
 早番のトルコ嬢たちが、近記れんといっしょに降りてくる。れんのほかは顔を見知っているだけで、名前は知らない。女たちは私に頭を下げ、直人の頭を撫ぜる。遅れて木村しずかも降りてくる。しずかはあと四年、れんはもうすぐ年季が明ける。れんが直人に向かって微笑む。私にも頭を下げたので、
「何時から?」
「九時からです。一時で上がります。早い時間はお客さんが少ないのでうれしい。今夜はしずかさんと応援にいきます」
 千鶴と三上が戻ってきて、幣原と電話番を交代する。幣原はほんの数日アヤメで仕事をしたが、ホール仕事が肌に合わないと言って、北村席の厨房専門に戻った。ジャージを着た菅野がやってきた。
「おはようございます。さ、いきますよ」
「はい」
 千佳子が、
「菅野さん、南山寮という児童養護施設から、オークションの品出しのお願いがきましたけど。連絡先をメモしておきました」
「ご苦労さまです。いまのところ、オークションに出せるのはノースリーブのアンダーシャツくらいかな。来年以降着ないでしょうからね。わかりました、あとで施設のほうへ連絡しておきます」
「あしたのダブルヘッダーのバックネット席、秀樹くんに伝えました?」
「はい、江夏と神無月さんの勝負が見れるって大はしゃぎしてましたよ」
 私は、
「ドラゴンズは手薄なメンバーになると思うから、がっかりしなければいいけど」
「クリーンアップが出ればじゅうぶんです」
「きょうはお父さんと菅野さんで座るんですね」
「ソテツがいきたいって言い出して。連れてくことにしました」
「よく解説してあげてください。よし、直人、帰ってくるまでにお魚の図鑑用意しておくんだぞ」
 うん、と元気よく一声応え、トコトコ離れの廊下へ走っていった。
         †
 薄曇。午後六時。十九・三度。微風。灰色の空がつるべ落としに暮れていく。観客は二万人余り。六分の入り。土日が休みのアイリス組といっしょにカズちゃんたちが一塁スタンドに、ソテツは主人と菅野に挟まってバックネット席にいる。下通の柔らかなアナウンス。
「本日は中日スタジアムにご来場まことにありがとうございます。間もなく中日ドラゴンズ対阪神タイガース十九回戦を開始いたします。先発メンバーの発表をいたします」
 藤田、安藤、和田、カークランド、藤井、辻恭彦、山尾、大倉、伊藤幸男。
 セカンド安藤統(もと)夫、背番号9、八年目三十歳、二割チョイ。今年から本屋敷に代わって正二塁手になった。これまで大した評判を聞いていない。試合前のケージの練習では、バットを短く持ち、脇を締めて短打を飛ばしていた。あとの選手は見知っている。田淵がベンチに退がっている。。
 中日のスターティングメンバー。一番からセンター江島、セカンド高木、ファースト江藤、レフト神無月、キャッチャー木俣、サード葛城、ライト太田、ショート一枝、ピッチャー左腕の水谷則博。六勝目がかかっている。最近いやに老け面になってきて、同輩に思えない。昭和二十五年四月生まれだから、ほぼまる一歳年下だ。投球練習ではカーブとスライダーが切れている。
 マッちゃんが一塁塁審で出ているので、あしたの第一試合は球審の可能性が高い。第二試合は控えに回る。江夏はどっちに出てくるだろうか。
 プレイボール。藤田平が打席に入る。打撃三十傑で七位、二割九分七厘。このヒット屋でも三割は難しいのか。前進守備。初球外角カーブ、流し打ってサード葛城の前へ強い打球、グローブを弾かれる。内野安打になる。なるほど、葛城さんはからだが硬い。デビュー当時からこうだったとすると、相当ピッチャーを泣かせてきただろう。安藤ツーナッシングから外角スライダーを引っかけてショートゴロゲッツー。胸を撫で下ろす。和田、ツーワンから内角カーブを空振り三振。
 四回裏まで伊藤と水谷の坦々とした投げ合い。ドラゴンズは一枝のレフト前ヒット一本のみ。タイガースも藤田の内野安打と山尾のセンター前ヒットの二本のみ。私の第一打席は外角カーブを引っ張ってライトライナー。見切りが早かった。
 五回裏。私は先頭打者で打席に入り、フォアボール。しっかり盗塁。木俣の大きなライトフライで三進。葛城の代打菱川のレフト前ヒットで生還。一点先取。後続二人凡退。
 六回表裏両チーム無得点。七回裏。ワンアウトランナーなし。伊藤幸男の私に対する配球は多彩で、持ち球をすべて使ってくる。初球真ん中高目ストレート、ファールチップ、二球目アウトローカーブでツーストライク、三球目内角フォーク、四球目内角スライダー、二球外れて、ツーツー。五球目外角低目のストレート、ファール、六球目外角高目のシュート、ファール、七球目外角低目シュート。屁っぴり腰で左中間浅いところへ百四十三号ソロを叩きこんだ。ゼロ対二。
 八回表裏両チーム無得点。


         四十一

 九回表。伊藤幸男の代打田淵のヒットが私の前に転がってきた。強い打球だった。打球の強さに合わせて私も二塁へ強い返球をした。一番藤田平。
 ―則博気をつけろ。そいつは中日戦に不気味に強いんだ。
 そう思ったとたん、初球内角低目のカーブを掬い上げられた。太田一歩動いたきり、打球を見送った。ライト中段へ十三号ツーラン。則博が呆然としている。二対二の同点。三塁側内外野のスタンドがワンワン沸く。なぜか一塁側スタンドも沸いている。これが、ハラハラドキドキというものなのだろう。水原監督動かず。則博続投。
 ―落ち着け! さっきまで抑えてたろう。コンビネーションを思い出せ。
 安藤フォアボール。ノーアウト一塁。水原監督は動かない。三番、きょう当たっていない和田。代打にヒゲの辻佳紀が出る。一割バッター。木俣がホームベースの前に出て、強いシャドーピッチングを二度する。速球でこいということだ。内角高目と低目へ三球速球をつづける。ファール、ファール、ボール。四球目真ん中低目へきょう一番のスピードボール。ショートゴロ、6―4―3、よしゲッツー! まるで勝ったかのような大喚声。木俣マウンドへ。内角高目、たぶんそう言ったはずだ。初球外角高目速球、危ない! 叩き上げ。こっちへきた! ホー、レフトポールをはるかに外れる大ファール。二球目、内角高目の速球、よーし打ち上げた。セカンドフライ。
 九回裏。またも先頭打者。とてつもない喚声の中、ツースリーから外角フォークで空振り三振した! スタンドのため息のものすごさ。今シーズン六個目の三振。江藤が、
「見たろ、金太郎さんでもあのフォークは当たらんたい! 手ば出すなよ」
 木俣、二球つづけてショートバウンドのフォークを見逃す。三球目、外角低目のカーブをライト前へクリーンヒット。
「ヨ、ホ、ヨー!」
 菱川、初球のフォークを叩きつけてボテボテのライト前ヒット。
「ありゃ、名人たい、やっぱり手出すな!」
 ワンアウト一、二塁。七番太田。ベンチの激しい檄。
「タコ、男になれェ!」
「放り込んだれ!」
 初球、フォークのすっぽ抜け、辻佳紀、ジャンプして危うくキャッチ。長谷川コーチパンパンパン、水原監督のパンパンパンパン。初球内角低目のストレート、ボール。いい見逃し方だ。私は怒鳴る。
「太田、いけるぞ!」
 二球目、内角に落ちるフォーク。見逃す。ストライク。徳武が、
「オーケー、オーケー、よろしい、タコ!」
 三球目、真ん中から逃げるパワースライダー。田宮コーチが、
「それだ!」
 引っかけた! セカンド、バック、ライト前進、水原監督がグルグル腕を回している。捕られたらダブルプレーになる。それで木俣は水原監督を信じて全速力で三塁を回る。セカンドとライトのあいだにポテンと落ちる。
「ヨッシャー!」
 カークランド素手で捕って渾身のノーバウンド送球。木俣が滑りこむと同時に辻恭彦の強烈なブロックタッチ。セーフ! 
「ヨッシャ、タコ、バンザイだ!」
 球場が沸きに沸く。太田の気力のサヨナラ打。ベンチやスタンドの檄にみごとに応えた一発だ。二塁ベースの手前からピョンピョン跳ねながら引き返してきた太田をマウンドへ走って出迎えた水原監督がガッチリ抱き止める。チームメイトの祝福のドヤシ。私も加わった。
「太田、ナイスバットスピード!」
「ありがとス!」
 サヨナラ勝ちは今シーズン七度目。新人とベテランの白熱した投げ合いと、適当にパラパラ出たヒット。最終回以外あまりスタンドが沸き立つことはなかったが、プロらしい試合だったと感じた。
 両チームともに七安打。九回裏に中日にヒットが三本まとめて出ていなければ、たぶん引き分けに終わる試合だった。水谷則博は被安打七、三振五、四球五、自責点一の完投で六勝ゼロ敗。インタビューは水原監督と水谷と太田。
 ―あと二十試合。
         †
「スポーツ選手というのは最高の職業ですね」
 帰りの車で菅野がしみじみ言った。
「サラリーマン稼業なんてのは、会社が儲かった損したなんてのをうれしがったり嘆いたりしながら、飲んだり、食ったり、おごったり、たかったりなんて生活を一年じゅう繰り返してるだけですからね」
「それも世間に足並を揃えた立派な生き方でしょう」
「立派かもしれませんが、足並揃えるのは楽しくはない」
「楽しくないのは商売が大きすぎるからでしょう。気楽じゃないですもんね。大きな企業限定の憂鬱ですね。宿主しだいで喜びも悲しみも幾年月なんてね。トルコ風呂やアイリスやアヤメの商売は楽しそうだな」
 主人が、
「そのとおりや。零細企業の経営は気楽やし、楽しいで」
 ソテツがニコニコうなずいた。私はソテツに、
「楽しかった?」
「はい! 屁っぴり腰のホームラン、初めて見ました。地面のそばで扇風機が回るみたいで、おもしろかった」
「菅ちゃん、来月から羽衣とシャトー鯱の入口と通路に自販機置こう思うんやがな。コカコーラとサントリー。飲料メーカーと直接の契約やと、オペレーターとちがって手数料取らんし、自販機の管理と運営までやってくれるでな」
「県警生活安全部ですね。届出書を書いてくれれば提出にいきますよ。女の子たちも喜ぶでしょう」
         †
 九月二十八日日曜日。八時起床。曇。気温十七・九度。うがいから始まるルーティーン。ジムトレなし。そのあいだにカズちゃんとメイ子はアイリスへ。菅野と日赤往復。
 キッチンパラソルに肉じゃが、ハムエッグ、シラスオロシ、守口漬、納豆、豆腐とワカメの味噌汁の鍋。鍋を暖め、どんぶりめしを食ったあと、北村席へいく。ひさしぶりにフラッシュ。カメラマンの姿がチラホラ。優勝後の日常風景の撮影だろう。組員は一人。羽衣で一度見た顔だ。たがいに丁寧に挨拶をし、門を入る。
 居間に秀樹くんがきていた。ソテツに栗饅頭と紅茶を振舞われている。
「きょうは百四十四号ですね」
「うん、打ちたいね」
「ソテツさんの言ってた屁っぴり腰打法が見たいです」
「よほど遠い外角なら打てるかもしれない。技ありは滅多にやらないんだ。やっぱり内角低目だね。技ありよりは、一本」
 幣原のいれたコーヒーを飲んだあと、ユニフォームをピチッと着こみ、主人、菅野親子とセドリックで十時出発。優勝の幟や旗がまだ片づけられずに、沿道のいろいろな店先で揺れている。秀樹くんはまぶしそうに眺める。
 消化試合ということもあってか、優勝が決まって以降、中日球場の警備体制はすっかり緩み、松葉会の組員も二人ぐらいしか姿を見せない。彼らに礼をする。直角の姿勢で返される。ファンの人混みだけは相変わらずだ。試合前はサインを断る。それを知っている少年たちは、格別残念そうな様子もなく私を見送る。ユニフォーム姿の親しい人たちに、きょうも回廊で、そしてロッカールームで再会する。きょうのいのちも輝く予感がする。
 十時四十五分、二十二・六度。無風。バッティング練習開始。監督たちといっしょに菱川や太田の練習ケージの後ろにつく。背後を新聞社のカメラマンが何人もうろついている。蒲原はいない。水原監督に東海テレビの腕章をつけた記者が貼りつく。ケージを出てきた太田に、
「きのうのライト打ち、宮中のころの一塁線を抜く打ち方と同じだった。チョコンと当てるんじゃなくて、しっかり振ってたね」
「振り遅れ気味にして、からだの中心まできたボールを、バットヘッドを下げずにしっかり打ち抜きました」
「二塁ランナーを還すためにライト方向を狙ってたんだね」
「はい、意識をライトに置いてました。それでタイミングを遅らせたんです」
「スイングスピードがすばらしかった。ゆるく振ってたらかえって芯に当たってライトライナーだったかも」
「はい、ありがとス」
 灰色なのに高い空。時計台の旗は垂れている。十三回まで仕切られたスコアボードを見る。ボード右上にUMPIREの掲示。CH松橋、1佐藤、2大谷、3太田、L大里、R鈴木。中央下段の途中経過ボードは、巨人―広島、大洋―アトムズ、阪急―ロッテ、近鉄―南海、いずれもまだ空白だ。
 江夏のシュートに備え、左腕の松本忍に食いこむシュートを投げてもらって打ちこむ。オープンスタンスで打つと一塁線に切れることが多いので、並行スタンスにして振り出しを少し遅らせる。だいたいセンター方向に飛んだ。本番では、江夏のスピードに合わせて振り出しを早めればいい。
 鏑木に見守られて、ポール間ダッシュ。休みながら二往復。三種の神器。片手腕立て二十回ずつ。江藤に支えられて倒立歩行。ポール間片道を目指すも、センター付近で挫折。肩関節にしっかりとした力ができていない。ジムトレに励もう。
 ドラゴンズのバッティング練習が終わるころ、阪神ナインがベンチに姿を現した。十一時四十分。さっそく田淵がチーム担当の新聞記者たちの取材を受けている。十一時五十分から二人一組でバッティング練習開始。藤田と田淵、大倉と和田、というふうに若手のカップルから打っていく。
 十二時。開場と同時に観客が雪崩れこむ。休日、ダブルヘッダー。江夏の登板を期待して、あっという間にスタンドがぎっしり埋まった。きのう空席が見えていた内野席の最後方、外野席との境目あたりも隙なく埋まっている。
 ソテツ弁当をロッカールームで食う。食堂のものを食うことに抵抗がある。誘われれば食いにいくけれども、時間をかけずに流れ作業で作られたものは滋味が薄い。駅弁も同じだ。一人の人間を想って作る単品の弁当を一人で食うことにあこがれる。
 食い終えてベンチに戻り、眼鏡をかけ、もう一度旗を見る。やはり無風だ。眼鏡を外す。敵ベンチでも、パンや握りめしを食っている連中がいる。三十五歳のカークランドが打っている。ポンポン観客席に放りこむ。あとのバッターは見どころなし。
 きのうのソテツの席に秀樹くんが座っている。一塁ベンチ上方には、きのうにつづいてカズちゃんを頭にアイリスやアヤメの女たちが十人ほど。
 阪神の試合前ノック終了。水原監督と後藤監督のメンバー表交換。
 一時半、下通のスターティングメンバー発表。ショート藤田平、セカンド安藤、ファースト藤田訓弘(のぶひろ)。南海からきたばかりの偵察要員。南海でも野村の当て馬専門だったと聞いている。たぶん第一打席に入る前に遠井に代わる。ライトカークランド、センター藤井、キャッチャー辻恭彦(やすひこ)、レフト山尾、サード大倉、ピッチャー村山。江夏ではなかった。これで第二試合の先発は百パーセント江夏と決まった。
 中日は、江藤と私と木俣のクリーンアップと、菱川と太田を外した。一番から、セカンド高木、ショート一枝、ファースト千原、レフト伊藤竜彦、キャッチャー新宅、サード徳武、ライト葛城、センター中、ピッチャー星野秀孝。千原から中までは二打席ぐらいで交代させるつもりだろう。四番伊藤竜彦のアナウンスにスタンドが一瞬ざわめいたが、消化試合のアトラクションとして納得した和やかな拍手に変わった。目玉は彗星星野のピッチングだとわかっている。
 二時。松橋のするどいプレイボールの声。藤田平が打席に入った。星野が屈伸運動をする。レフトスタンドで阪神の球団旗が大きく振られ、いっせいに歓声が上がる。
「タイラ、タイラ、ホームラン!」
 きのうの同点ホームランが頭にある声援だ。初球、振りかぶり、右膝が胸まで上がり、からだが前方に移動し、肘が畳みこまれ、からだが前屈し、左腕がしなるように叩き下ろされる。内角の猛速球。詰まった当たりがふらふらと一枝の後方に上がった。徳武と伊藤竜彦と三人で追う。ポトリと三人の真ん中に落ちた。よく見る図だ。三塁側スタンドの大歓声。澄みわたって耳に心地よい。星野は明るい顔で、コースが悪かったなというふうにうなずいている。安藤、ツーツーからレフト伊藤竜彦の前へこれまた詰まったゴロのヒット。二打席連続でヒットを打たれるのは星野にしてはめずらしい立ち上がりだ。ノーアウト一、二塁。藤田訓弘に代わってピンチヒッター遠井吾郎、内角の速球に詰まってファーストゴロ、3―6―3のダブルプレー。ツーアウト三塁。カークランド、星野はコースを散らす実験でもするように、内、外、高、低のボールくさいところに投げ分けてみて、結果フォアボール。星野は一点もやらないつもりのようだ。彼の意図がわかったのか、一塁側のベンチやスタンドから拍手が上がった。五番藤井、速球、パーム、速球で三球三振。これだけで阪神の攻撃らしい攻撃が終わってしまった! 
 九回まで星野は、藤田平二本と安藤とカークランドの一本の三安打に抑えた。藤田の二安打目は、八回表の十四号ソロホームランだった。中日の攻撃もザトペック村山相手に六回まではそれほど華々しいものではなかった。
 一回裏、高木三振、一枝三振、千原ライト前ヒット、伊藤竜彦ショートゴロ。
 二回裏、新宅レフト前ヒット、徳武フォアボール、葛城三振、中セカンドライナー、星野センターフライ。
 三回裏、高木センター前ヒット、一枝ライト前ヒット、千原センターフライ、伊藤竜彦サードライナー、新宅三振。水原監督は回が終わるたびにとぼとぼとベンチに引き揚げてくる。
 四回裏、徳武レフト前ヒット、葛城サードゴロゲッツー、中ライト前ヒット、星野レフトライナー。


         四十二

 坦々と試合が進んでいき、四回を終わってふだんより早くトンボが入る。ホームベースの白線が引き直される。下通のアナウンス。
「中日ドラゴンズ、選手の交代を申し上げます。キャッチャー新宅に代わりまして、木俣、背番号23、ファースト千原に代わりまして、江藤、背番号9、サード徳武に代わりまして、菱川、背番号4、ライト葛城に代わりまして、太田、背番号40、レフト伊藤竜彦に代わりまして、神無月、背番号8」
 さあここからだという歓声。内外のスタンドに活気がみなぎる。
 五回裏、高木が打席に入る。一塁側の喚声がこれまでの三倍にも五倍にもなる。村山が帽子を脱いで顔を上に振って前髪を上げる。独特の癖だ。肉づきのいい中年顔にビッショリ汗をかいている。帽子をかぶり直す。ここまでフォークを一球も投げていない。体調が悪いのかもしれない。
 初球、フォーク! 高木、驚いたように空振り。二球目、内角ストレート、レフトへ高いフライが上がる。山尾が捕ってワンアウト。一枝、フォークで二球つづけてストライクを取られたあと、外角カーブをセカンドゴロ。江藤、初球のフォークを打ってピッチャーゴロ。いつもながら江藤は冒険心旺盛だ。村山はここからフォークを使いだした。体調は悪くなさそうだ。
 六回裏、轟く喚声の中を先頭打者でバッターボックスに向かう。松橋にヘルメットを取って挨拶する。応答がないのがうれしい。ベンチのかけ声が激しい。
 初球フォークと考えて、わずかにオープンスタンスをとる。ボールが内角に落ちてきたときがいちばん打ちにくいからだ。外へ落ちてきたら、オープンからクローズドへ思い切り踏みこむ。真ん中に落ちてきたらオープンのまま押っつける。いずれにせよフォークは予測していないとさすがに打てない。きのうの三振もそうだった。
 村山は帽子を取り、アンダーシャツの腕で額を拭う。帽子をかぶり直し、振りかぶって、ザトペックで投げ下ろす。初球外角カーブ、ボール。フォークでなかった。
 私はビーンボールまがいでふんぞり返ったとき以外は、ピッチャーの次の投球までけっしてバッターボックスを外さない。これがプロ野球史上ただ一人だということで話題になったことがある。高校野球でもたしか、緊急な事態が生じないかぎり投球間にバッターボックスを外してはいけないことになっているはずだ。私に言わせれば、バッターボックスを外して何をしたいのだろうということだ。満員のスタンドでも眺めて悦に入るつもりだろうか。ボックスを外すことでプロであることを誇示しているのではないか? 素振りをしたり、手に砂をつけたり、サインを確認することは、ボックスに入る前にすませてあるはずだし、そうすべきだ。ドラゴンズの選手も、ピッチャーの投球間隔が短すぎたりするときや、空振りしたときや、次の球種を考えるためにボックスを外すことはたまにあるけれど、習慣的に外してむだな時間を費やす愚は犯さない。
 二球目、外角ストレート、高く外れて、ボール。目立たぬように十センチほど前へいざりオープンスタンスのままにする。三球目、内角低目へスピードの乗ったボールがやってくる。ストレートではない。すぐに急角度で落ちるだろう。落ちかかる。ゴルフスイングで掬い上げた。その瞬間、スタンドの応援旗の動きも喚声も止んだ。白球がライトの空高く舞い上がる。息を吹き返したように狂気じみた歓声が上がる。
「神さまァ!」
「キンのすけェ!」
「足柄山ァ!」
 ボールが看板の外に消えた。長谷川コーチとタッチ。掌の合わせ方が、あわてず騒がずという感じになっている。個人記録が伸びていくだけのホームランなので、当然そうなる。
「神無月選手、百四十四号のホームランでございます」
 水原監督とも冷静にタッチ。
「おみごと! 一本一本が永劫不滅の記録だよ」
「ありがとうございます!」
 チームメイトの厳粛な握手の出迎え。星野秀孝の抱擁。
「ありがとうございます、神無月さん、勝たせていただきます」
「まだ一点ですよ」
「はい、ここから大量点になります」
 ベンチでバヤリースを口に含んだとたん、レフトへ打球が舞い上がった。
「木俣選手、四十号ホームランでございます」
 ホームインも間もなく、つづけてキン!
「菱川選手、三十二号ホームランでございます」
 つづけてカーン! 太田、右中間を抜く二塁打。つづけてギン! きょう八番に入っている中、ライト前段へ一直線のツーラン。
「中選手、二十一号ホームランでございます」
 ひさしぶりの集中攻撃で五点取った。村山はさばさばした顔で降板した。懸河のドロップ権藤に交代。星野は外へ逃げるドロップを振って三振。高木、やはりドロップを打ち損なってサードゴロ。ツーアウト。一枝、一球目内角カーブを見逃し、二球目の真ん中高目ドロップを出会い頭にカン! レフトフェンスぎりぎりに飛びこむホームラン。
「一枝選手、十三号ホームランでございます」
 ゼロ対六。江藤、懸河のドロップを打ってボテボテのセンター前ヒット。打者一巡。江藤の意気に感じ、私もドロップを打つことにする。難しいボールを打ちにいかなければ先がないと考える選手は少ない。これまで権藤とは五度対戦して、十二打数八安打三ホームラン、二フォアボール、一敬遠。お得意さんだ。最短の九十二メートルのホームランは彼から打っている。
 一球目、あらためて球筋を見る。ど真ん中のドロップ、ストライク。ほとんど垂直に落ちてくる。松橋さんの右手がクルクル回る。権藤はスリークォーターと言うよりは、真横から腕を振るサイドスローだ。誓いの魔球の二宮。顔に向かってボールがやってくるように錯覚するが、あごのあたりで急に角度を変え、ほぼ真ん中高目に落ちる。真ん中に落ちる確率は九割以上だろう。ボールを追いかけてからだを揺らすことさえしなければ、真ん中でボールを捉えられるということだ。あえてボックスの前に出て曲がり鼻を叩く必要はない。二球目、危険を察知したか、権藤は外角のストレートを投げてきた。遠く外れてボール。彼のストレートは速い。三球目、予想どおり顔を目がけて伸びてきた。いや、頭上だ。ドロップを内角に落とすつもりだ。瞬時にオープンスタンスに変え、動かず待ち構える。内角のかなり高目に落ちてきた。クソボールだ。掬い上げられないので、強く払うしか仕方がない。顔の高さで左掌を押しこみながらレベルスイングをする。真芯だ。二メートル十三センチ、日本一低い外野フェンス目がけてボールが伸びていく。江藤が二塁から三塁へ懸命に走る。私も二塁打と見こんで懸命に走る。カークランドも頭上へ伸びていくポール目指して大股で走る。球足が速い。カークランド、ジャンプ。届かない。コンクリートフェンスにぶち当たった。大男がボールの処理に手間取っているあいだに、江藤は三塁を回ってホームイン。私は三塁に滑りこんだ。ゼロ対七。水原監督が松橋のところへ歩いていく。
「三塁ランナー、神無月に代わりまして伊熊、背番号25」
 お役御免、第二試合に備えろということだ。私はベンチへ走り戻った。木俣、しっかり三振。ドラゴンズ七回裏、八回裏と〈まじめに〉無得点。一対七でα勝ち。星野は、打者三十一人、被安打三、三振十二、四球一、自責点一、十一勝目を挙げる堂々たるピッチングだった。
         †
 試合が四時五分に終わったので、第二試合は四時半開始と発表された。ダブルヘッダーの場合、第二試合は第一試合終了から二十分ないし三十分までのあいだに始めなければならないと定められている。松橋さんは控えに回って佐藤清次が球審となり、ライトに寺本勇が入った。
「村山くんはすばらしいピッチングだったね。うちの打線でなければ軽く抑えられていたよ」
 水原監督が言うと、長谷川コーチが深くうなずき、
「村山は、あと二、三年はじゅうぶんいけますね」
 そこへベンチ裏からひょっこり村山が顔を出した。
「もちろんいきますよ」
 みんな驚いて思わず拍手した。
「ワシ、来年から監督兼任ですわ。ドラゴンズ戦は投げません。まるでバッティングピッチャーやっとるようやからねェ」
 水原監督が、
「ドラゴンズ戦を投げないなら、十五勝はいけるよ。なんせスピードが衰えない。沢村賞三回もうなずける」
 長谷川コーチが、
「どんなときも全力投球。フェアな人ですからね。回転のちがうフォークを投げ分けられるのがすごい。フォークピッチャーにありがちな暴投がほとんどないし、死球が極端に少ない。長嶋にはゼロでしょう」
「はあ、たしかそうですねェ」
 情報通の太田が、
「三沢高校の太田幸司は村山さんの大ファンだそうです。まねしようとしてるみたいですが、無理ですね。あのザトペックは球界に一人です」
「ありがとう。やる気が出るわ。三連覇、五連覇の話が新聞記者からよう出ますが、精々じゃましますよ」
 後藤次男監督もふらりとやってきた。
「ムラ、やっぱりここやったとね。もう話は終わりかい。ワシにも話させい。あと十分ぐらいええやろ。水原さん、ドラゴンズのみなさん、お別れにきたよ。長いあいだほんとうにお世話になりました。来年からムラをよろしくな。今年うちをみごとに失速させてくれたドラゴンズともこれでお別れたい。苦い思い出ばかりやが、俺も選手もドラゴンズと闘うたびに成長させてもらった。来年からサンテレビの解説だ。〈クマさん〉で売り出すことになっとる。よろしくな。そこにおるかわいらしい天馬くんのおかげで、プロ野球界は生き返ったよ。天馬くん、いい風ばかり吹くわけやないと思うが、逆風は背を向ければ追い風になる。がんばれよ」
「はい、がんばります。監督は九州のかたですか」
 江藤が、
「熊工ぞ。郷土の大先輩たい。自転車で甲子園にかよっとる豪傑ばい」
「メシの種以外は、どうでんよか。自転車でメシ食っとるわけやなかけんね」
 スターティングメンバーがアナウンスされている。村山が、
「ええ声やなあ、日本一や」
 ショート藤田平、セカンド吉田、ファースト田淵、ライトカークランド、キャッチャー辻恭彦、センター山尾、サード後藤、レフト池田。
「九番ピッチャー江夏、ピッチャー江夏、背番号28」
「ウオオォ!」
 入団三年目の伊藤久敏が、
「俺と土屋は後藤和昭とは駒大の同期だ。バッティングより守備の人。日本軽金属で三年やって、去年ドラフト外で阪神にきたんだけど、早ばやと今年から顔を出したな。ジュニアオールスターのMVPらしいよ」
 春先からずっと見かけているずんぐり体型の背番号30を思い出した。ノッポの大倉と三塁手の定位置争いをしているようだが、いまのところ明らかに劣勢だ。
 ドラゴンズは、センター中、セカンド高木、ファースト江藤、レフト神無月、キャッチャー木俣、サード菱川、ライト太田、ショート一枝、ピッチャー小川健太郎。固定メンバーだ。
「ガッチリ四ツ相撲とはいかんが、そのつもりでぶつからんとな」
 後藤監督の目に涙が滲んでいるようだった。田宮コーチが、
「後藤さん、俺は来年から東映です。カールトンさんは帰国。牛若丸さんはどうなってるの?」
「フジテレビと関西テレビで解説。いずれ監督になるやろ。ムラの次やないか。じゃ、いくかな。そろそろだ」
 村山は、
「アメリカに連れていかれんようにな」
 と私の手の甲をポンポンと叩いた。私は笑いながらうなずいた。村山と後藤はドラゴンズベンチの全員と握手して回廊へ出ていった。
 少しレフト方向に風が出てきた。私はブルペンの江夏を見つめながら太田に、
「江夏はいま何勝?」
「十二勝九敗。今年から星野の天下ですよ」
 星野が、
「高橋一三さんと堀内さんがいます。来年からですね」
 水原監督が、
「使いすぎないようにするからね。来年は二十五勝を目指しなさい」
「はい! がんばります」



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