四十三 

 対阪神二十一回戦。中日球場。新たな気分で見つめる。両翼九十一・四メートル、中堅百十八・九メートル、フェンスの高さ二・一三メートル、収容能力三万五千人。見落としている特徴はないか。何もない。
「美しい球場だ」
 太田に言うと、
「来年からはファールグランドも芝にするらしいです」
「ますますきれいになるね」
「後楽園は電光掲示板になるそうです」
「うちは?」
「少し遅れるでしょう」
「電光掲示はなんかいやだな。趣がない」
「みんなそうなっていきますよ。時代の流れで仕方ないですね」
 四時半、小川登板、投球練習開始。念のためブルペンに伊藤久敏が出る。小川はこういうことを気にしない。全幅の信頼を置かれていることを知っているからだ。
         †
 ガッチリ四ツの長い戦いになった。
 二回表、ノーアウトから二塁打で出た辻を山尾が送り、後藤が私への大きな犠牲フライを打って一点。ドラゴンズは九回まで江夏に散発五安打、六三振、二四球。内訳は高木二安打、木俣一安打、私は二回先頭打者で左中間二塁打、三振(外角に小さく変化するカーブを振って今季七つ目。江夏から三つ目。この分だと江夏に取られる三振はまだまだ増えていきそうだ)、フォアボール(盗塁をするも残塁)、九回裏に高木を二塁に置いてライト前へ同点適時打。一回から九回まで両チーム一得点ずつ。 
 一対一で延長戦に突入。小川続投。十回表、阪神得点なし。江夏続投。十回裏、中日得点なし。十一回表、フォアボールの吉田を置いて、田淵が私の頭上へ高々と十五号ツーラン。さすがの小川も疲れたようだ。ブルペンで断続的に投げていた伊藤久敏に交代。マウンドの投球練習の変化球に冴えを感じなかったが、それでも後続三人をどうにか凡打に抑えた。三対一で敗色濃厚。
 十一回裏、江夏続投。高木きょう三安打目をセンター前に打って出塁。二球目にヒットエンドラン。江藤高くバウンドするピッチャーゴロに倒れてワンアウト二塁。第二試合の江藤はまったく当たっていない。高木を二塁に置いて、私は江夏の内角シュートを右肘を畳んで掬い上げ、右中間最上段に百四十五号同点ツーラン。球場が興奮の頂点になる。木俣レフト前ヒット、菱川ライト線二塁打、太田フォアボール、ワンアウト満塁から一枝ショートゴロゲッツー。もう一手を詰められない。三対三。
 十二回表、右投げ左打ちの池田純一、ツースリーからフォアボール。池田はきょう早めにベンチ入りして、私のバッティング練習をじっと見ていた。五年目。これから阪神を背負っていく中堅選手だろう。このフォアボールは勝負の分かれ目になると感じた。バッティングのいい江夏は、張り切って初球をセンター前ヒット。ノーアウト一、二塁。藤田平に打順が回ってきた。私はライトスタンドへ白い糸を引いて飛んでいくボールをイメージした。
 ピッチャー左の伊藤久敏から右の水谷寿伸に交代。水谷は変化球が切れる。一点もやれない場面なので交代もやむを得ない。
 スコアボードの時計が七時三十五分を指している。三時間を超えた。阪神の応援スタンドを振り返る。法被を着たファンたちが大声を上げながら旗をしきりに打ち振っている。まだ勝利が確信できないからこそ闇雲に応援している。水谷寿伸、初球、シンカー。藤田するどい振りで足もとにファール。ボールが見えている。得意球のシンカーで空振りを取れないのは、腕を叩きつけずに小手先で投げているからだ。やはりここが勝負の分かれ目だ。二球目内角低目のカーブ。いい音がしてイメージしたとおりの白球がライトスタンド目がけて飛んでいく。中段に突き刺さった。スリーラン。六対三。藤田平が大股で颯爽とダイヤモンドを回り、チームメイトの手荒い祝福の中へ飛びこんでいく。
「藤田平選手、十五号ホームランでございます」
 応援団が狂喜乱舞し、紙吹雪が千々に乱れ飛ぶ。勝利を確信したようだ。
 ―終わった。
 水原監督がホームベースに走り寄り、佐藤球審にピッチャー交代を告げた。
「ドラゴンズの選手交代を申し上げます。水谷寿伸に代わりまして、ピッチャー水谷則博、ピッチャー水谷則博、背番号45」
 敗戦処理と見てスタンドから失望のため息が上がる。失望するのは早い。次は則博の代打からだ。肩で息をしている江夏のコンディションを考えれば、三点差はじゅうぶん逆転可能だ。だからこそ則博は後続を断たなければならない。
 ―水谷、速球で通せ!
 彼の速球はわずかにスライドする。カーブとスライダーの中間くらいだ。これが打ちにくい。願いが通じ、則博は全球ストレートをつづけた。吉田セカンドゴロ、カークランド三振、辻三振。ポンポンポンと十球で始末した。
 ―ヨーシ!
 やはり江夏続投。このまま抑え投手にバトンを渡せばラクに勝利投手になれるのに、後藤監督の打診に首を振ってのしのしマウンドに上がる。ドラゴンズコーチたちの、
「ヨ!」
「ホ!」
「さあ、いけ!」
 が始まった。則博の代打に江島が出る。長谷川コーチが、
「江夏の握力が落ちてきてるぞ。ボールがお辞儀してる」
 無口な江島は濃い眉の下の小さな目を光らせてうなずき、数回素振りをくれてからバッターボックスに入った。初球、得意の外角シュート、ストライク。まだまだ威力があるように見える。二球目、外角から真ん中へ小さいカーブが曲がりこむ。失投だ! 江島のバットが一閃する。いいフォロースルーだ。
「よっしゃー! 食った!」
 江藤が叫ぶ。センターの頭へ一直線に伸びていく。低い弾道で真っ黒いバックスクリーンへドスン。江島がピョンピョンスキップするように走る。おどけすぎだと水原監督に尻をこぶしでどやされた。一番打者の中が狂喜して後継者を出迎える。私たちも無秩序に押しかける。千原がヘッドロックをする。六対四。
「江島選手、五号ホームランでございます」
 中、三塁前へセーフティバント。成功! 途中までボールを捕りにいった江夏が激しく肩で呼吸している。田宮コーチの怒声。
「いける、いける! もうちょい!」
 高木、サード後藤の前へしつこくセーフティバント。後藤あせって二塁へ送球。セーフ! 江夏が引き攣った表情になる。後藤がマウンドへ走って江夏に謝った。江夏はドンマイというふうにグローブで後藤の胸をポンと叩いた。江藤がバッターボックスに立つ。
 セットポジションから、足の速い二人を警戒しながらの初球、外角高目へ速球。ストライク。ダブルスチール! 虚を突かれた辻はあわてて三塁へ送球する。セーフ。無謀に走ったわけではない。一塁を空けて、江藤との勝負を考えさせるためだ。勝負して打たれれば二点、勝負しなければ満塁で私を迎えることになる。歩かせて、私をゲッツーか外野フライに打ち取れば一点ですむ。江夏は微妙なコースでするどく勝負しながら、結局江藤をフォアボールで歩かせた。ノーアウト満塁。回ってきた。
 江夏はロジンバッグを拾って几帳面に触り、几帳面に足もとに置いた。
 ―敬遠はない。
 タダで一点を献上して、むざむざサヨナラのチャンスを広げることになる。球威でまともに勝負すれば、ゲッツーからサヨナラホームランまである。ホームランがある以上、球威だけで勝負はできない。彼はそう考えるはずだ。
 ―まず内外角のくさいコースにストレートを連投してくる。
 この一年間の戦いで、変化球は何を投げてもだめだと彼にはわかっている。高目の伸びのある速球だけが凡打の可能性を引き出せるボールだ。そう考えるはずだ。低目の速球でカウントを整えたあと、渾身の力で高目の速球を投げてくる。それを叩く。
 初球、力ある内角低目のストレート、見逃す。ぎりぎりストライク。喚声が渦巻く。三人のランナーが凍りついたようにベースから動かない。二球目、外角低目のストレート、わずかに外れてボール。打たない。打てるところを打たなければ負けるので打たない。ライトスタンドのドラゴンズ球団旗が大きく揺れる。実況アナウンサーの声が風に乗って聞こえてくる。
「中日ベンチも観衆も固唾を飲んで見守っております。神無月のバットが一閃するのを期待して見守っております。なんという緊張感、なんという試合展開でしょう! すべてが神無月登場のためのお膳立てにすぎなかったかのようです!」
 三球目のセットポジション。江夏が腕がしなり、振り下ろされる。
 ―きた!
 真ん中高目、浮き上がる猛速球。左手首を瞬時に寝かせ、猛烈に絞りこむ。ジャストミート! かすかにボールの下を叩いた。球場にどよめきが湧き上がり、歓声が爆発する。
 ―よし、いった!
「打ったァ! 舞い上がった! 文句なし! 伸びる、ライトスタンドに向かってグングン伸びる! 完璧な一撃です! カークランド、動かない、ピクリとも動かない。どうにもならない。見送るのみだァ!」
 江夏が膝を落とした。轟々という歓声。あっという間に白球が看板を越えて夜空へ消えていった。足踏みをして喜ぶ長谷川コーチとタッチ。
「神無月、やりました! サヨナラホームラン、サヨナラ満塁ホームランです! 江夏が膝を突いてライトスタンドを見ております! いつまでもいつまでも見ております!」
 阪神の外野手がのろのろベンチに走り戻っていく。中ホームイン、高木ホームイン、江藤三塁を回りながら水原監督とタッチ。私はからだを傾けて二塁を回る。うれしそうな下通の声。
「神無月選手、百四十六号ホームランでございます」
 江夏が立ち上がり、三塁ベースに向かう私に手を上げた。私も手を上げた。三塁ベースを踏むのを確認した後藤が、
「感動しました―」
 と言った。水原監督が抱きつく。なかよしこよしのように手をつないでホームへ。
「ホームイン!」
 ベースを踏んだことを確認する佐藤球審の押し殺した声。いっしょに確認した辻がマウンドへ走っていって江夏の肩を抱いた。私は待ち構えていた連中に揉みくちゃにされた。小川がヘッドロックをかける。
「黒星を免れたよ。サンキューベルマッチョ!」
 水谷則博も駆け寄って手を握り、
「十球で一勝をいただきました! ありがとうございます!」
「試合終了でございます。ごらんのように、中日ドラゴンズ対阪神タイガース二十一回戦は六対八でドラゴンズの勝利となりました。勝利投手水谷則博、敗戦投手江夏豊。なお、サヨナラ満塁ホームランを打ちました神無月選手には、青柳総本家から金一封と贈呈用詰め合わせセットが送られます」
 報道陣がマイクとカメラを持ってグランドに雪崩れこんできた。秀樹くんに手を振る。カズちゃんたちに手を振る。マイクを突きつけられる。
「放送席、放送席、神無月選手のヒーローインタビューです。おめでとうございます。ドラマチックな幕切れでした!」
「はい、感激です」
「三連戦中二試合がサヨナラゲームでした」
「こういうこともあるんですね。しかも中学時代の野球部仲間です。驚きました」
「なるほど。太田選手も名古屋の宮中学校出身でしたね。同時にプロ入りも奇遇ですが、これもまためずらしいできごとです。ところでいまの試合、十二回表に三対六になったときのお気持ちは? 勝利の確信はございましたか」
「いいえ。それまでに自軍を頭の中で二度裏切りました」
「とおっしゃると?」
「頭の中で、勝つチームがコロコロ変わりました。十一回表、田淵さんのツーランには意表を突かれて、阪神。敗色を感じながらその裏にぼくのツーランで追いつき、中日。十二回表、藤田さんのスリーランは直前に予感したとおりだったので、こりゃ負けたと思って、阪神。江島さんの追撃のホームランと水谷則博の登板で、敗色を感じながらもファイトが湧き、中日。―よく高校野球などで、試合が終わってから『勝利を信じてました』とコメントする選手がいますが、実際は、負けるだろうと思いながら全力を尽くしましたと言うのが正直なところでしょう」
「自分のホームランもイメージどおりでしたか」
 三塁ベンチ前でも江夏たちが取材を受けている。
「いえ、天下の江夏さんから二打席連続でホームランを打てるとは思いませんでした。剛速球をフルスイングして、芯を食えたのはラッキーです。数ミリ外れていたらポップフライでした。江夏さんや村山さんや平松さんは、全力で勝負してきます。ぼくも全力で打ち返します。紙一重のところで、きょうは勝ちました」
 水原監督や水谷則博、江島や小川とカメラの前で握手し合い、質問に適当に答えながら、絶えずスタンドの声援に手を振る。すでに北村席の人びとの姿はない。相変わらず大小の球団旗や幟が揺れている。バンザイの声がする。祭りのあと。
「百五十号が見えてきました」
「その分、急に三振や凡打も増えてきたんです。あと十八試合で四本はかなり難しいと思っています」
「水原監督、いかがですか」
「百五十号という天文学的数字を実感できないというのが、正直なところです。三振や凡打という金太郎さんの言葉に胸が痛みます。ホームランの数字よりも、シリーズまでの疲労回復を願っています。打ちそこないが増えるのは疲労のせいです。それは全員に言えることで、残り試合のオーダーを工夫しながら、一人ひとりの体調を回復することを心がけていこうと思います」
 すたすたとベンチに去る。


         四十四

 テレビレポーターは勝利投手の水谷則博ではなく小川にマイクを向け、
「延長十一回、途中降板でした。現在二十勝の高橋一三を凌いで二十一勝、ハーラーのトップに立っております。二度目の沢村賞が見えてきましたね」
「背面投げが汚点ですが、なんとか獲りたいと思ってます。二十五勝すれば確実だろうと思いますが、それはちょっときびしい。それにしてもきょうは負けがつかなくてラッキーでした。金太郎さんサマサマです」
 もう一度私と握手。ようやく則博にマイクを向け、
「六勝目を挙げた水谷選手、ひとことお願いします」
「タナボタたい。金太郎さんが棚の後ろに隠れとって、ときどき餅を落としてくれるばい」
「……声帯模写ですか?」
「はい、江藤さんです」
 レポーターは思わず噴き出した。ほかの記者たちも笑いさざめいた。ベンチで水原監督が笑っている。
「すみません、つまらないオドケをしてしまって。まじめな気持ち、ほんとに棚からぼた餅です。うれしさより先に感謝です」
 江島にマイクを移し、
「江島さん、反撃のノロシの五号、おみごとでした」
「無我夢中ですよ。二年目ですし、そろそろ結果を出さないと、来年からの楽しい野球に参加させてもらえなくなりますからね」
「中選手の後継者と言われてますが」
「中さんはまだまだ衰えません。当面、太田くんとのライト定位置争いになります。いまのところ、大差をつけられてます」
 三塁ベンチ前から去っていく江夏が、もう一度手を挙げた。私も帽子を脱いで辞儀をした。
         †
 セドリックで席に帰り着くと、まだ九時前だった。カズちゃんたちはいたが、女将は離れに退がり、百江は帰宅していた。睦子もいなかった。
 ユニフォームを脱ぎ、ランニングシャツとパンツになる。トモヨさんに浴衣を着せられる。キッコと千鶴が天童と丸を誘って風呂へいった。私も、と言って、三上ルリ子と近記れんと木村しずかがあとを追う。
 トモヨさんとソテツのおさんどんで遅い晩めしになった。薄切りごぼうとゴマをまぶした海苔巻きおにぎり、きしめん。私にはそれにメンチ丼がついた。菅野が秀樹の肩を抱き、
「やあ、楽しい試合だったな。ホームランはいいなあ」
「うん。ギューン、スーッと空に消えていくんだ。信じられない」
 私は、
「夜は特に空に上がるボールがきれいに見えるね。ぼくもいつも感動する」
「他人ごとみたいですね」
 とメイ子が笑う。千佳子が、
「逆転また逆転という試合は、わくわくしすぎて心臓に悪いです。藤田平という選手がスリーランを打ったとき、私、その裏の逆転を直観したんです。でも、江島さんがホームランを打つとは思ってなかったので、予想が狂って、一点差で負けるって考え直しちゃいました。凡退、凡退、神無月くんのソロホームラン、最後に凡退って」
 主人が、
「ほうや、江島さんがヒットで出れば、チャンスが広がったと思うけど、ホームラン打ってまうとランナー貯めるのがたいへんやと考えるわな。そこへセーフティバントの連発とダブルスチール、芸術やったな。不思議なのは、神無月さんがホームラン打つって確信しとったことや」
「この三試合で三振を二つしました」
 カズちゃんが、
「チャンスと関係ないときね。キョウちゃんも人間だなって感じる瞬間よ。三十日からの巨人戦が楽しみだわ。毎日観にいこうっと」
 きしめんをすすりながら言う。
「うちもいく。名古屋で観れる最後の巨人戦やろ」
 素子がはしゃぐ。トモヨさんが、
「早く直人を連れて観にいきたいわ」
 カズちゃんが、
「五、六歳なら安全だと思うけど、球場で駆け回るとたいへんね」
 主人が、
「じっとしとれんやろうしな。ま、小学生ぐらいまで待つんやな。それより、カンナの遊び相手がおらんが」
 カズちゃんが、
「そんなの要らないわよ。私が小さいころ、遊び相手なんかいた? お店のお姐さんがたばかりだったでしょ。それでいいの」
 千鶴たちが風呂から上がってきた。キッコが、
「ソテツちゃん、きしめんだけもらえる?」
「はーい。みなさんそれでいいですね」
 ソテツはトモヨさんと三上ルリ子と幣原と四人で厨房にいく。キッコが、
「きょうの江夏はすごかったねェ。八回までゼロ行進。九回に神無月さんの同点ヒットで一点取られたきり。十一回に神無月さんの同点ホームラン、十二回に神無月さんの逆転満塁サヨナラホームランで負けちゃった」
 菅野が、
「レギュラーがどうにも打ち崩せないピッチャーを前にしたときに、『神無月さん、なんとかしてください』と助けを求める。すると神無月さんは助ける―すごいことですね」
 天童が、
「私、あまり野球を知らないんですけど、ここで打ってほしいというときに神無月さんが裏切ることってめったにないですよね」
 主人が、
「めったにどころか、ほぼゼロやろう。チャンスでないときに、こっそり凡打しとるわな」  
 風呂上りの女たちが、でき上がってきたキツネきしめんをいっせいにすする。主人は、伸びたうどんが好きだと言いながら、ゆっくり食っている。私はメンチ丼を平らげ、ゴロリと肘枕を突いた。カズちゃんが足の爪を見て、
「伸びてる。手も」
「自分で切る」
 ソテツから爪切りを受け取り、縁の廊下に出て爪を切る。パチンパチンやりながら、
「お父さん、夜爪を切るとなんとやらと言いますね」
「親の死に目に会えんと言うわな。世を詰めるゆうんは早死にするゆうことやでね。早く死ねば親の死に目には会えんわね」
「なるほど。ぼくは長生きしても、親の死に目には会いません」
 座が静まり返った。
「みんな静かになっちゃったなァ。不人情なことを言ったからですね。黙っていればいいのにひとこと多い。お馬鹿さんすぎて、ふっと反感を抱いちゃいますよね。ぼくもみんなのようにやさしくなれるように自分を鍛えてます。気に障ったら、心の中で、情の薄い人間の部分だけ切り捨ててください。ささやかな反感を抱いても、それはぼくの一部に対してだとぼくは知っているし、包みこむように愛してくれるみんなをぼくは愛し、感謝しているので、いつもの生活をつづけながらここにいますよ。叩き出されるまでは出ていきません」
 カズちゃんが、
「キョウちゃん、それは誤解よ。あんな親なら仕方ないと、みんなしみじみ納得して静かになっちゃったの。だいたい死に目にしか親と会わない人なんか、ふだんからその親を愛してないということよ。キョウちゃんは、恋人であり母親である私たちをいつも愛してくれる。私たちのそばにいてくれる。その人の言うことに反感なんか持つはずがないわ。やさしい親なら、キョウちゃんだって、死に目どころか、のべつ幕なしに会いにいってると思う」
 菅野が、
「そうですよ。私も社長も、神無月さんのお母さんに会ったんですよ。さすがにあの人の死に目には、私が子供でも会いにいく気がしません。神無月さんの言うことが百パーセントわかって、胸にきたんです。ああいう親子にならないように努力します」
 秀樹の頭を撫ぜた。千佳子が、
「ちゃんと特殊な感情だってわかって聴いてますから、だいじょうぶです。いつもそうですけど、お母さんのことを言うときの神無月くんは、ちょっと鬼気迫るものがあって、みんな呆気にとられてしまうんです。だれが神無月くんに反感を抱くもんですか。それどころか、嫌われまいとして必死です」
 れんが、
「私たち凡人は、本心はどうあれ、世間の常識どおりに親に孝を尽くしてますけど、盆正月や死に目に会いにいくくらいが関の山で、ふだんは案外無関心なんですよ。そこまで親を嫌えるということは、ふだんから関心を絶やさずに、本気で愛し憎んできたということです。いまはともあれ、お母さんを愛していたころの神無月さんが偲ばれます。そういうやさしいを見守っていられて、私はほんとうにうれしいと思っています。あら十時。しずかさん、寝ましょう」
 れんとしずかがお休みなさいと言って立ち上がった。天童と丸も柱時計を見上げ、
「私たちも寝ましょう。あした早番だから」
 れんたちにつづいて座敷を出た。トモヨさんが、
「考えすぎちゃいけませんよ、郷くん。私たちは郷くんがすべてなの。自分が難しい人間だと思われてるなんて考えちゃだめ。郷くんは、やさしくて、大きくて、単純な人。思わずしゃべってしまう冷たい言葉も、私たちの耳には単純で大らかに聞こえてくるの。野球と小説のことだけボーッと考えて生きててね。さ、私も寝ます。お休みなさい」
 カズちゃんがチラリと敷居の外へ出ていくトモヨさんの背中を見た。
「イネちゃんと交代ね。赤ちゃんは目を離せないから」
「カンナはまだハイハイはできないの?」
 千佳子が、
「七、八カ月目からだと思います。筋肉とか関節が丈夫にならないとハイハイできないんです」
 主人がソテツに瓶ビールを持ってこさせ、独酌してコップを傾けた。
「神無月さん、気ィ使わせてすまんかったな。親という言葉に反応して神無月さんが何か言い出すと、その迫力にワシらは一瞬息を飲んでしまうんですよ。ワシは神無月さんをいやだなと思ったことあれせん。オーバーな言い方かもしれんが、心の奥底で神無月さんが、自分なんか捨ててくれと思っとるんやないかと感じて悲しかったんです。そういう気持ちになるのは、小さいころから捨てられてきたからやと感じて悲しかったんです。それで息を呑んでまう。どうして神無月さんみたいな宝物を捨てる人たちがおったんやろうねえ。信じられん。ワシは神無月さんが天才やとわかっとるし、天才はからだの中に、ワシらには理解できん別の何かを飼っとるということもわかっとる。ワシはそれも宝物やと思っとります。それもこれもぜんぶ気に入っとるんです。結局、宝物だとわかって大事に思う人と思わない人がいるゆうことやないかと思うんですわ。大事に思わない何人かと神無月さんは遇ってきた。たぶん、大事に思う人が出てきたのは、西松の飯場あたりからやないかと思います。そりゃうれしかったやろうねえ。そのうれしさも何年もせんうちに、神無月さんを大事に思わない人たちに叩き潰された。それで頭がワヤになってまったんでないんですか。気の毒やと思います。でも忘れてください。神無月さんにはそういうやつらが入ってこれない城ができました。城の中では何をやってもいいし、何をしゃべってもかまいません。ワシらがびっくりしたり、黙ったりすることはあっても、反感からやない。大好きな人間の新しい面を発見してうれしがっとると思ってください。これからも遠慮なく好きなことを言ってくださいや。好きな行動をしてくださいや。男は神無月さんといつまでもしゃべっていたいし、女はいつまでも神無月さんにかわいがってもらいたいんです。ワシらは神無月さんがおるから、神無月さんに好かれとるから、大口叩いて生きていられるんですわ。胸張って、大手を振って生きていられるんですわ」
 主人は私がついだビールをついで飲み干し、
「ああ、ゴッツォさん。……秀樹くん、あんたもやさしい顔しとるね。きょうはいいところを見たよ。ヒーローというのはこういうもんや。深くて、大きくて、複雑で、人の気持ちをいつも気にして、最終的に自分を捨てとるんよ。自分を捨てることができる人間をやさしい人と言うんだよ。さ、ワシは風呂入って寝よ。神無月さん、あしたはノンビリ休んでな」
「はい。そうします」


         四十五

 イネが離れから戻ってきた。カズちゃんが、
「ご苦労さま。たいへんね。トモヨさんに体型が似てるもんだから頼られちゃうわね。私とムッちゃんもトモヨさんと体型が似てるけど、いつもそばにいるような時間が取れないし、ごめんなさいね」
「なんも。めんこくて、見てるだけでうれしぐなるじゃ。おや、秀樹ちゃん、野球おもしろがった?」
「はい。大逆転で勝ちました。夢みたいでした。今度の書道展、『白球』という題で出すつもりです」
「ほんだな。いづ?」
「来年の二月です。滝澤塾の中学生代表で出品します」
 カズちゃんが、
「いいわね、白球。キョウちゃんのホームランをイメージしながら書くのね」
「はい」
「入賞したら何か買ってあげる。何がいい?」
「……自転車」
 菅野が、
「こら、図々しいぞ」
「いいじゃないの。中学校は遠いの?」
「天神山中です。歩いて五、六分」
「お城のほうへ散歩したいんでしょ」
「はい。お城や、庄内川のほうへも」
 菅野が、
「なかなかいっしょに散歩してやることができないものでね」
「しょうがないわよ、忙しいんだから。自転車があれば、友だちのところにも簡単に遊びにいけるわ」
「自転車はあるにはあるんですが、もうオンボロで」
「チェーンが切れたりしたら危ないわよ。二月は先すぎるわね。あした学校から帰ったらアイリスにいらっしゃい。笹島の自転車屋にいこ。善は急げよ」
「ありがとう!」
「申しわけありません、お嬢さん」
「ぼくもついてくよ。あの自転車屋は、西高時代によく預かってもらった店だ。母の目を盗んでいろいろ駆けずり回ってたから」
 素子が、
「私もその相手の一人やろ?」
「うん、素子以外にも、法子とか、雅江とか、北村席とかね」
 カズちゃんが、
「あのころは、自転車と菅野さんが大活躍だったわよね」
「はあ。社長よりもそっちでしたね。いまもほとんどそうですが。神無月さんとは親子以上の関係です。離れられません。……じゃ秀樹、いこか。神無月さん、あしたは何時に?」
「十一時ぐらいにしましょう」
「わかりました。じゃ帰ります、お休みなさい」
 秀樹くんも、
「お休みなさい、ごちそうさまでした」
 と頭を下げた。
「神無月さん、ぼく、神無月さんが大好きです」
「そう。ありがとう。ぼくも秀樹くんのことが大好きだ。これからも仲良くしようね」
「はい。神無月さんのおかげで、おとうさんのことや、いろいろな人たちのことがよくわかるようになりました。このごろ学校でも伸びのびやれるんです」
「よかったね、心がシンプルになったおかげだね」
 菅野親子を玄関まで見送った。
 座敷にカズちゃんと素子とメイ子、千佳子、ソテツ、千鶴、三上ルリ子が残っていた。ソテツが、
「さっきの話を蒸し返すようでなんですけど、神無月さんが私たちに反感を持たれてるって感じたほんとうの原因を知りたいんです。……びっくりしてしまって」
「そんな深いものはないよ。自分の言葉が引き起こしたみんなの沈黙にビックリしたんだ。特別な反応に突き当たると、単純だった時間が特別なものになる」
「沈黙……ですか」
「うん、特別なもの、小さく、そして何の仕掛けもないもの、たわいないことを語り合うことから醸し出されるもの―シンプルな反応。なんの罪も、飾りもない、とても大事なものだ。そういう単純なものが、自分が場ちがいなことを言ったせいで、特別なものに変わる。不安な特別なものにね。ああ、やっちゃったなと思う。言わずもがなの説明が始まる。……かならずそれは、カズちゃんの言うように誤解なんだ。これまで経験した、愛のない人たちの沈黙とはぜんぜん質のちがうものなんだ。一人ひとり親切に説き聞かされるまで気づかないことじゃない。だからぼくはアホなんだよ。拍手に好意を感じて、沈黙に反感を感じるなんて愚の骨頂だよ。すまなかったね」
 メイ子が、
「五百野を読むと、神無月さんが静かな心をどれほど望んでいるかがわかります。人と摩擦しないで生きようとして、小さな胸を痛めてきたんです。人の反応に異常に敏感になったのもうなずけます」
 カズちゃんが、
「私たちがわかっていれば何の問題もないのよ。キョウちゃんが心を許すのは、野球と私たちだけ。千鶴ちゃん、厨房、慣れた?」
「はい、三上さんとがんばってます。松の内明けからときどきアヤメにも手伝いにいきます」
「千佳ちゃん、まだ先の話だけど、里帰りはどうするの」
「ムッちゃんとイネさんと年末からいってきます」
 千佳子の顔を見ているうちに、青高入学式の大講堂で見た愛らしい横顔や、窓辺の読書や、体育祭の韋駄天、意外なズーズー弁、大きな握りめし、次々と思い出した。建物があり、樹木があり、風がある中にいた千佳子を思い出した。思い出の詰まったからだを抱き締めた。千佳子は驚いて抱き返した。
「五年間、いっしょだね」
 千佳子は腕を解き、
「はい」
「一人ひとりの思い出で、頭がパンクしそうだ」
「私は一人だけ」
「スタンド敷き、また編んでくれる? 同じ柄で。引越しを繰り返しているうちに、二つともなくしちゃった」
「青と白の格子縞ですね。今度は少し大きめのを作ります。二カ月くらいかかるわ」
 カズちゃんが思わず目頭を押さえた。座にいた女たちももらい泣きした。
「私……ムッちゃんみたいにハッキリした学問的目標もないし、法律というのも魅力を感じなくなってきたんです。裁判制度というのが胡散くさく思えて。でもがんばります。司法試験予備校にもかよいはじめたし」
「のんびり好きなようにすればいいさ。時間はたっぷりあるんだ」
「自分が何になりたいのか、よくわからないの」
「なるものなんてない。生きてる場所にいつづけるだけだろう。なるとするなら、子供が青年に、青年が老人になるだけだ」
「でも、立場を決めなくちゃいけないでしょ?」
「使う側に? 使われる側に? 二つに一つだ。人間ですと言うだけじゃ、そこにいつづけられないものね。自分を使われる側に決めて、少しばかりの肩書をつけて、周囲に相応の反応をしてもらうというのがいい。その反応が生甲斐になる。医者も学者も役人も、御用とつけば使われる側だ。それでも使われる側がいい。金を資本主義の論理で無機的に増やす心配をしなくてすむ。自分の生活のためにもらうことに一喜一憂しながら楽しく生きられる。法律家も、プロ野球選手も、カズちゃんやお父さんのような小企業主も同じだ」
「使う側はお金を増やす心配があるんですね」
「うん。政治家や資本家は経済というイデオロギーにぞっこん惚れてるから、それに雁字搦めになってる。国家とか拡大再生産というイデオロギーだ。使われる側はそんなくだらないイデオロギーとは無縁に生きられる。人間に雁字搦めになってればいいだけだ」
「和子さんやお父さんは資本家じゃないんですか」
「うん、小口商人だ。イデオロギーは要らない。会社じゃなく使用人のためにお金を増やす心配は多少あるけど、規模が小さい経営だから、資本主義の論理じゃなく、ただの商才で乗り越えられる。その分、金じゃなく人間にかまけていられる。……どういう立場をとるにせよ、気持ちは高校一年の千佳子のままでいてほしいな」
「はい―」
「さ、キョウちゃん、きょうは則武に帰って、ゆっくりテレビ観て、お風呂に入って寝ましょう」
「うん」
 カズちゃん、素子、百江、メイ子と帰る。いつものように百江、素子の順でお休みを言って別れる。
 メイ子は先に風呂に入り、パジャマ姿で上がってくると、居間でNHKの報道特集を観ていた私たちに、
「CBCの東芝日曜劇場を観て寝ます」
「何それ」
「フジ三太郎の最終回です。九ちゃん。三十分番組なのでそれを観たら本を読んで寝ます」
 と言って離れへ引っこんだ。何のことやらさっぱりわからなかった。私たちは中京テレビ日曜洋画劇場を観ることにした。007ロシアより愛をこめて。諜報物。ジェームズ・ボンド役のショーン・コネリーの唇がいい。マット・モンローの主題歌は飯場の三畳でよく聴いた。ボンドガールのダニエラ・ビアンキのふとした表情がカズちゃんに似ていて、ドキリとした。自然、そういう流れになり、風呂にも入らずカズちゃんの寝室で一度交わってから寝た。
         †
 九月二十九日月曜日。六時半起床。尿意と関係なくコチコチに朝勃ちしている。前の夜にすると朝はかならずこうなる。目覚めたばかりのカズちゃんが本能的に握り締め、
「待ってて。きのうもメイ子ちゃん、歩き方が切なそうだったから」
 離れへいき、すでにエプロン姿になっているメイ子を連れてきた。メイ子は私の屹立したものを見たとたん、
「え、いただけるんですか?」
 メイ子が下着を脱ぐのを見てカズちゃんは、
「私、朝ごはんの仕度してるから」
 と言って出ていった。愛撫しようとすると、
「すぐください」
 私の胸に両手を突き、スカートを落下傘にして尻を落とす。無言であわただしく上下に動き、重いうめき声を発して激しく達すると、腰の動きを止めて五度、六度と痙攣した。覆いかぶさって抱きつき、尻を上下させて激しく痙攣する。愛液が陰茎のつけ根にほとばしり、摩擦がゾッとするほど心地よいものになる。とつぜん射精が迫り、吐き出す。
「あああ、うれしい! 神無月さん、うれしい、イクウウ!」
 唇を求め、しゃぶるようにキスをする。私はメイ子の尻を抱えこんで律動する。痙攣が止むのを根気よく待つ。いつもより長い。一人きりなので思う存分達することができるのだ。落ち着くまで口を吸ってやる。
「ふう、もうだいじょうぶです。ああ、信じられないくらい気持ちよかったです。ありがとうございました。生き返りました」
 メイ子はティシュをボックスから引き出し、膣口に当ててそっと抜く。しばらく宙で尻を跳ねてから、ゴロリと仰向けになる。自分でスカートを腹まで上げ、新しいティシュで股間を拭く。
「ああ、幸せ! ひと月にいっぺんぐらい、腰が重くなるんです。一日じゅう濡れて―」
「カズちゃんが、歩き方が切なそうだって」
「恥ずかしい。お嬢さんは何でもお見通し」
「ぼくは日を置いて適当にしてるから苦労はないけど、二十日もひと月もほったらかされる女はたいへんだ。歩き方までおかしくなっちゃうよね」
「でも神無月さんは気にしちゃいけません。やさしさもほどほどに。女はヤマを越えたらけっこう平気なんです。どうしようもないときは、オナニーだってできるんですから。クリトリスの快感は男の射精よりも強いですから、男よりも女のほうがふつうにオナニーをします。千佳ちゃんに聞いたんですけど、教習所で夜になると、こっそりオナニーをしてる人がけっこういたんですって。ただ……」
「ただ?」
「こんなに強い快感を知ってしまうと、オナニーをするのは馬鹿らしくなります。それから、一人の男に操を立てる女はオナニーをしません。だから、郷くんに開発された女はぜったいオナニーをしません」
「じゃ、ぼくは気にかける必要があるじゃないか」
「いいえ、せっかく操を立てているんですから、女がじっと待つべきです。ほんとに、女のからだって厄介ですね。何十回だってイッちゃうんですから」
「だから飽きないんだ。何ものにも換えがたい財産だ。ありがとう。ほんとに、ぼくは幸せ者だ」
 メイ子はギュッと一物を握り、起き上がると、愛液に濡れた私の陰毛と陰茎をゆっくり舐めた。
「これのおかげでそうなったんです。お礼をいうのは私たちのほう。さ、台所にいきます」



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