四十六 
            
 ゆるい便をし、歯を磨きがてらシャワーを浴び、下着を替えて、ジャージを着る。味噌汁のいいにおいがする台所にいくと、カズちゃんがキッチンテーブルに新聞を差し出した。
「井手という人が正式に野手に転向ですって」
「ふうん、正式と言ったって、野手でもぐりこむ余地はないだろう。代打か守備要員で開花するかどうかだ。しかし、実力もないのにここまで騒がれる選手もいないね」
「東大出というだけで社会の花形だから。キョウちゃんにはぜんぜん関係のないことだけど。いずれコーチから球団代表の地位まで昇りつめると思うわ。人生、まずまず成功したと言えるんじゃないかしら。そうそう、十一月の末の香嵐渓」
「うん」
「紅葉の季節は、日曜祭日はすごい渋滞になるから、平日にしたら?」
「そうする」
「マークⅡで、千佳ちゃん、ムッちゃんといってらっしゃい」

  
井手野手転向
  
「ピッチャーに未練はない」 徳武からバットもらい練習
 中日ドラゴンズ井手峻(たかし)投手(25)が正式に野手に転向に転校することを発表した。
 東京六大学リーグでは東大のエースとして通算4勝21敗、昭和四十一年中日ドラゴンズからドラフト三位指名を受けて入団。四十年に大洋ホエールズに入団した新治(にいはり)伸治に次いで、史上二人目の東大出身プロ野球選手として話題になった(今年ドラゴンズに入団した神無月郷で三人目になる)。
 初年度から一軍に上がり、八月にサンケイアトムズ戦に先発。九月には大洋戦にリリーフで登板して初勝利を挙げた。その後二年間、肩の故障もあって一軍登板はなかった。
「今年のキャンプ終盤、十一秒台の足を活かして外野をやったらどうかと監督と球団代表からお話があって、自分なりに大きな決断をしました。それ以来、野手の練習をしてきました」
 今季かぎりで現役引退の決まっている徳武のバットを数本譲り受け、大幸球場で打撃練習に取り組んできた。二十六日に二軍を視察した水原監督と村迫球団代表から野手転向を正式に言い渡された。
「監督から、きみの将来を考えている、ポテンシャルを評価している、と言ってもらいました。素直にうれしかった。その気持ちに応えようと思います。野球がやれるならポジションはどこでもいい。だからもう、投手には未練はないです」
 一年目に十七登板、一勝四敗。それから苦節二年。一方、球団は井手の入団当初から野手としての可能性を視野に入れていた。
「がむしゃらに、何も考えないで、ボールを追いかけて、バットを思い切り振って、骨の髄から練習の汗をかく。そうすれば何か生まれるので、そうしなさいと伝えた」
 と水原監督は語った。井手も希望に燃える目で語る。
「簡単ではありませんが、自分の努力しだいで変わってくる。心機一転、自分のがんばりしだいで、これから世界が変わっていくと思う」
 守備位置はまだ決まっていない。まずは一心不乱にバットを振ることだけが目標だろう。


 鮭の味醂醤油焼き、ニンジンと大葉の和え物、ほうれん草・豆腐・油揚げの味噌汁、どんぶりめし。
「プロの世界では才能がすべてだ。本質的でない話題性で抜擢された人に、あまり明るい未来は待ってない」
「そうね。水原さんが親切な言葉をかけたのは、たとえ一試合でも、キョウちゃんといっしょに夢の東大コンビが実現することを願ったからでしょう。井手さんもせめて二割は打てるようにがんばらないと」
 朝めしを終えてコーヒーを飲んでいると、菅野から電話が入った。
「ミズノの営業部の中英(なかひで)という人から連絡があって、神無月さんにお話があるらしく、則武の番号を教えましたから、いまそっちへ電話がいきます」
「了解」
 二分もしないで電話がかかってきた。
「ミズノ営業部の中英と申します。いつもお世話になっております。さっそくのご相談で恐縮でございます。お約束を反故にするようでまことに申しわけございませんが、一年間だけでも、テレビにCMを流すことを了承していただけないでしょうか。スタジオ撮影等のお手数はおかけいたしません。路上をランニングしていただくだけです。新聞掲載分と合わせまして、相応の報酬をお支払いいたします」
 と懇請する。ちょうどミズノのジャージを着ていた。
「金のことは球団とマネージャーにお話しください。引き受けますよ。どうすればいいですか」
 ミズノの新製品の運動靴を履いて走り、適当な空地で久保田バットを振ってほしい、と言う。
「わかりました。きょうさっそくやりますが、そちらの準備は整いますか」
「はい、もちろん! 名古屋支社から撮影車を回します。運動靴はそのときにお届けします。何時がよろしいでしょうか」
「十時に北村席の門から出発します」
「わかりました。ありがとうございます。では十時に門前で」
 八時。出勤するカズちゃんたちと出る。快晴。十九・一度。北村席で菅野に事情を告げる。
「それをきょうのランニングに振替えましょう。ちょっとファインホースに顔出してきます」
 しばらく直人を膝に抱いてご本読み。『もりのなか』。子供と動物たちの森の中でのかくれんぼ。動物たちをいつの間にか見失ってしまって、心細くなったところへおとうさんが迎えにきて、肩車で連れ帰る。
 ―動物たちはまたこんどまで待っていてくれるよ。
 許しに対する信頼。生きていくための根っこ。
 十時、ファインホースから戻った菅野と玄関を出る。門前に控えていた撮影車にバットを渡す。運動靴を受け取って履く。ひさしぶりに、両手に一キロのダンベルを握ってテレビ塔まで走る。からだを鍛錬すればするほど、まだ足りないという不安に襲われる。ミズノのバンがついてくる。菅野が、
「旬の神無月さんを撮らない手はないでしょう。三種の神器もやりますか」
「やる。片手腕立ても。スイングは五回ずつ六コース振る」
 バンが私に並びかけると、菅野は気遣い、後方に下がって撮影しやすいようにする。腕が疲れてきたので、柳橋で菅野にダンベルを渡す。
「ウエ! こりゃ重い。たまらん」
 菅野は納屋橋で撮影車にダンベルを一時引き取らせた。伏見から栄までスピードを上げて走る。
 テレビ塔下の緑地で準備体操に入る。撮影車からバラバラと五、六人降りてくる。担ぎカメラ、ミキサーを首からぶら提げた音声係、ガンマイク係、バッテリー照明機材係。最後の男が私のバットを持って走ってくる。腕立てを始める。
 ライトのまぶしさにつられて、公園内の散歩者が寄ってきた。菅野は彼らの中にサッと混じった。ディレクターのような男が両手を広げて、撮影をじゃましないように見物人に言っている。見物人は遠巻きに取り囲んだ。片手腕立てを披露する。
「オオー!」
 群衆から歓声が上がる。三種の神器から素振りに移る。六コース、五本ずつ、できるだけスピードを乗せ、かつ力強く振る。屁っぴり腰のスイングがあまりにもするどいので、また大きな歓声が上がった。
「すげーや! 目にも留まらんで。あれならレフト場外にもぶっ飛んでくわ」
「神無月さーん!」
「イロオトコ!」
「天馬天平!」
 ん? それは白馬に乗っていた少年剣士だ。たしか少年画報だったな。私はバットをスタッフの一人に渡し、
「休んで、戻ります」
「了解です! 帰りも撮りまーす!」
 機材の収納にてんてこ舞いになる。菅野を手招きして呼び寄せ、二人で草にあぐらをかく。ディレクターらしき男が缶コーヒーを二つ持ってきた。
「すばらしいものが撮れました。ありがとうございます」
「どういたしまして。ふだんやってることですから」
 コーヒーを飲み干すと、尻についた芝を払い落とし、撮影スタッフからダンベルを受け取って立ち上がる。周りから大きな拍手が上がる。手を振り、桜通へ入って走り出す。しばらく拍手が追ってきた。日銀前の交差点で、ダンベルを菅野に預ける。
「両手に一キロを持って走るのは無理ですね」
 そう言いながら菅野もしばらくその格好で走る。途中で交代々々になる。バンが近づくと、ピョンピョンと三段跳びみたいに走って見せる。靴がよく撮れるだろうと思ってのことだ。桜橋、泥江町とスピードを上げる。噴水の向こうに青年像が見えてきた。青年都市と呼ばれている名古屋のシンボルだ。噴水と青年像のあいだを二両連結の市電が走り抜ける。バンは大名古屋ビルヂング前を回って則武のガードのほうへいき、私たちは大映上映館のある毎日ビル前の信号を渡る。コンコースを通って駅西へ。ふたたびバンがやってくる。窓から顔を出したディレクターに声をかける。
「コーヒー飲んでいきますか」
「いえ、仕事が押してますので、門にお二人が立つところまで撮ったら引き揚げます。コマーシャル放送は三十秒で、来月の十日ごろからです」
 北村席の門前で男たちが車を降りて整列する。ディレクターが、
「ほんとうにすばらしい絵が撮れました。神無月さんは俳優のように間合いがいい。驚きました。ファインホースのマネージャーとのツーショットも所どころに入れました。いいコマーシャルフィルムになります。ありがとうございました」
 バットを受け取り、一人ひとりと握手して別れる。握手のつど名刺を手渡された。庭石を歩きながら菅野が、
「あの青年像にはモデルがあるんですよ」
「へえ、あんな筋骨隆々、なかなかいないでしょう」
「中村武史という人で、昭和三十三年にあの像が建ったとき二十二歳、いま三十三歳ですね。東海高校から名工大に進んだ槍投げの選手です。初代ミスター名古屋に選ばれ、ミスター愛知にも選ばれ、ミスター日本の三位にもなったかたです。その経緯で、二年生のときに野々村一男という西区の彫刻家に頼まれてモデルになって、写真を撮られたり、ポーズをとらされたり、制作にまるまる二年間もかかって、けっこうハードな学生生活を送ったみたいですよ。制作中に野々村さんは中村さんに、彫刻では実際よりも手足を大きく作るんだ、そうしないと空間に伸びていく手足が小さく見えて迫力が出ない、と語ったそうです。野々村さんはもう還暦を過ぎたかたで、現在愛教大の美術の教授をしてらっしゃいます。中村さんは英語の翻訳か何かの仕事をしていると新聞で読んだことがあります」
 式台まで出迎えた主人夫婦に撮影の様子を伝える。主人が、
「さっきミズノ本社の保田さんから電話がありました。六千万円の契約で、CM効果による明らかな増収分は、歩合を別途計算して支払うそうです。マツダの中介さんからもファインホースのほうに連絡があって、撮影日の夜に、熊本市内のホテルで契約を取り交わすとのことです。車種は十月発売のファミリア・ロータリーSS。東名高速と西名阪自動車道全線開通を記念しての発売だそうで、放映は来年一月より半年間、売れゆきが上昇した場合はさらに半年間の延長。最初の半年は八千万円。売れゆきの上昇があった場合、次の半年は一億五千万円ということでした。ギャラは撮影終了時に三分の二、第一回放送日に三分の一を振りこみ、次の半年分は七月の第一回放送時に一括して支払うそうです」
「はあ、よくわからないけど、とにかくサインすればいいだけでしょ」
「心配なら、松葉さんの弁護士をつけましょうか」
「だいじょうぶです。向こうの指示に従います」
 菅野が、
「〈乙〉のところにサインすればいいんですよ。会社住所と、会社名と、代表者名、その三行に書きこみ、捺印します。実印をお嬢さんからもらって持っていってください」
「会社住所って?」
「愛知県名古屋市中区栄四丁目一の一中日ビル。会社名は株式会社中日ドラゴンズ。代表者名は神無月郷。則武の家の住所を書きこむことがあるかもしれませんので、それも含めて、熊本にいくときにメモをお渡しします」


         四十七 

 菅野とシャワーを浴び、湯に浸かる。
「収入のカサが尋常でないので、怖くなりませんか」
「三十万円ぐらい持っていると怖いけど、何千万とか億となると架空の金額なので、ちっとも怖くない。びっくりもしない。あした、あれはまちがいだったって言われても、ああそうかと思う。いくらもらったって、最終的にはクニという権力者に搾取されるか、助けを必要とする国民に還元されるわけで、やっぱり架空のお金だね」
「才能のある人から搾り取ってふところを肥やしたうえに、国民から崇められるんですから、みんな権力者になりたがるはずですね」
 背中を流し合う。
「ほんとにね。庶民はかつがつ貧しく暮らしていける才能があるし、ヤクザは小金持ちから上前をハネる才能があるし、芸術家は霞を食って生きる才能がある。ところが、才能を持った人から搾り取るのに才能は要らない。権力だけあればいい。適度を超えた途方もない金は、才能のない権力者のふところに流れこむという仕組みだ。この世の最高の強者は、才能のないタカリ屋じゃないの? そういうふうに生まれついた人は、人生、ラクだね」
「権力者にも、試験で勝ち抜くという苦労があったんでしょうけどね」
「寺田康男いわく、勉強なんかガキの遊びだがや。登竜門通過に必要なのは権力欲という根性だけ。才能は要らない」
「神無月さんに権力はないと?」
「ぼくは有名なだけで、人をあごで使う力はない。使われる側だ」
 さっぱりして食卓に混じる。トモヨさんと千佳子が楽しそうに料理の話をしている。
「カズちゃんたちは?」
 トモヨさんが、
「もうほとんど夕食しかこなくなりました。アイリスの賄いが北村に負けないくらいがんばってますから。いずれアヤメもそうなるでしょう。店員の食堂を改築したようです」
「北村はディナーだけになるね」
「ちょっとさびしいですね」
「昼めし食ったら、井手さんの練習を見にいってくる。―いや、やめよう。気が散っちゃう」
 菅野が、
「きょうは中日球場で一軍の控え選手と合同練習してるんじゃないでしょうか」
「だね。やめます」
         †
 則武に戻り、ひさしぶりにステレオを聴いた。ポップスや流行歌から始めて、ラフマニノフやモーツァルトまで、三時間ばかり。フォー・シーズンズのラグ・ドールが胸に沁みた。このEP盤はタケオさんからプレゼントされたものだったことを思い出した。歩いて十分もかからないところに浅野一家が住んでいる。不思議な気がした。
 もう一度家の中を回ってみた。メイ子の離れへまずいって、ドア口をチラと眺め、渡り廊下を引き返す。中廊下の左から順に、ついこのあいだ発見した十畳の客部屋、十帖の風呂場、二十帖のジム部屋、六帖の便所、十畳の客部屋。その向かいに入側縁に十二帖の音楽部屋、並びに十畳の客部屋、十二帖の居間、入側縁の突き当たりに十帖の洗面所・洗濯室・便所。隣に十二帖のキッチンと食堂。隣にキッチンの壁で仕切られた玄関。ここで一区切りつき、中廊下をジム部屋のほうへ引き返す。突き当りの階段を上がると、二階廊下の表庭側に、私の十二畳の寝室兼書斎、カズちゃんの十二畳の寝室兼書斎、十二畳の客部屋、便所。廊下の反対側に十二畳の部屋が二つあった。メイ子の離れと、母屋の食堂と風呂場と便所を別にして、部屋が十一もあった。カズちゃんと私のために建てられた家だが、メイ子と三人で暮らしても広すぎる。
 二階の十二畳の客部屋の壁に掛軸が垂れている。どの部屋の畳も棚もガラス障子も、鴨居も敷居も桟も、隅々まで掃除が行き届いている。カズちゃんとメイ子の尽力ばかりでなく、大勢の女たちの協和の力を感じる。カラス障子を開けて裏庭を眺め下ろすと、掻き集めた枯葉が大きなゴミ箱に捨てられていた。
 十二畳の書斎の机に向かう。ノンブル1。牛巻坂。エピグラフはなし。第一章。千年小学校。転校の初日から書き出す。康男との出会い。白い校庭での対決。ごく初期の交友まで。

  ……そして、その幾年かというもの、私はいつもこんなふうに信じることができた。寺田康男は私を連れて、だれにもかれにも準備されているわけではない真実の中へ、危険とあこがれがひとつになっている胸おどる時間の中へ、私を導き入れようとしているのだ、彼はおそらく、私がいままで見たこともない桃源郷に通じる戸口に立ち、清潔な微風をおぼつかなく呼吸しながら、私を手招きしているのだ、と。

 五百野よりも滑らかに筆が進む。十四枚。いい出足だ。半年で青森へ向かう夜行列車まで書ける。しかし、筆の滑らかさは思考の深さに比例しないと直観が囁く。もっと言葉を吟味し、ゴチゴチ彫琢しなければいけない。
 四時過ぎ、北村席から電話が入り、秀樹くんがきていると知らされる。アイリスの裏口に寄って、店のユニフォームを着たままのカズちゃんと出かけていく。
「いいの?」
「三十分くらいでしょう。だいじょうぶよ」
 秀樹くんは学校帰りの制服姿でカバンを提げて門前に立っていた。
「ツノダのテーユー号って、ハンドルが高すぎたり低すぎたりで、サドルの調整が難しそうだから、乗ってて疲れるんじゃないかしら。ブリヂストンにしましょう」
「はい。でもブリヂストンは高級自転車です」
「不都合はないでしょう?」
「でも、高いから」
「子供はつまらないこと考えないの」
 どこかで聞いたことのある言葉だ。クマさんだったか、荒田さんだったか―。
 笹島町西のバス停前まで歩く。上田サイクル。店名を初めて知った。秀樹くんは、店の中ほどの一段高いステージに展示されているブリヂストン自転車を見つめる。
「それがいいの?」
「はい―」
 私もいちばん気に入った。平たい横籠付き。オーソドックスなバンドブレーキ式の自転車だった。カズちゃんが、
「これください」
「はーい。ありがとうございます」
 中年の作業服の男に一万九千円払った。並んでいる品物の中でいちばん高かった。保証書を受け取り、登録番号を貼ってもらった。秀樹くんはめずらしそうに横籠に鞄をそっと納れ、私たちの先に立って走り出した。西口まで乗っていった。
「うれしそうね」
「男は文房具と自転車とオーディオが好きだからね」
 秀樹くんはロータリーを一周して自転車を降りた。
「神無月さん、和子お姉さん、ありがとうございました」
「何かほしいものがあったら、お父さんじゃなく、私に言ってね」
「はい」
 私は彼の肩を叩き、
「入賞したら、高級筆と硯のセットを買ってあげる。がんばれよ」
「はい。じゃ、さようなら!」
 颯爽と走り去っていった。
「小説を書き差してるから、もう少しやってから席にいく」
「わかった。じゃね」
 アイリスの前で右と左に別れた。
         †
 牛巻坂の原稿の前に座ったが、すでに緊張が失せている。いつだったか思いついた『無物語』あるいは『詐欺天使』のアイデアを思い出そうとしてもスムーズにいかない。
 ―ただの人。
 睦子のジャズレコードを流しながら、ステレオの前で毛布をかぶって午睡。ヘレン・メリル。
 針の擦過音で目覚め、ステレオを消す。三十分しか寝ていなかった。ボンヤリした頭でジムトレ二十分。素振り百八十本。プロ野球選手はこれしかすることがない。いや、これしかしたいことがない。
 ―したいことがない?
 ぜんたい、生まれたかったか。生まれるしかなかったから、生まれることしかしたくなかったのだ。彼らと暮らしたかったか。暮らすしかなかったから、暮らすことしかしたくなかったのだ。彼らと遇いたかったか。遇うしかなかったから、遇うことしかしたくなかったのだ。彼らを嫌いたかったか。嫌うしかなかったから、嫌うことしかしたくなかったのだ。彼らを愛したかったか。愛すしかなかったから、愛すことしかしたくなかったのだ。
 したいことがない? あたりまえのことを言うんじゃない。したいことがないのにするしかないから、それしかしたくない―それこそ〈命〉の正体だ。食い、眠り、動き回りたくないのにそうするしかないから、それしかしたくない。それが人生であり、疲労し尽くすまでつづくのだ。
 ランニングキャップをかぶり、自転車を駆って、静かな命のほうへ、道や空や、草や木や水のほうへ出かけていく。賑やかな命をなつかしむ場所に戻ってくるために。
 夕暮が近い。太閤通を市電と競争するように稲葉地まで走り、大正橋の手前を左折して、道端の草を眺めながら庄内川の河川敷を進む。右へ進めば名城大付属高校の運動場だ。いまはだれにも会いたくない。
 アスファルトの細い路。汚れた川が静かに流れている。適当な草の切れ目を見つけ、自転車で土手を下りていく。薄暗い草と砂利の空き地に出る。たたずむ。丈の高い草のせいで川の姿が見えない。足もとを見回し、シロがいないことを確かめる。弱い川風が草を撫ぜて吹き抜けていく。それだけ。すばらしい。
 自転車を牽いて土手の斜面を登る。岩塚に向かって走る。右側に川の姿が見える。泥色の川が色相を変え、かすかに光を吸って黒くうねる。左側の暮れなずむ一帯に、民家やビルの明かりが輝きはじめる。道は暗くなる一方だ。手を前に伸ばして乾電池の電灯をつける。白いガードレールがさびしく浮き上がる。
 土手に切られたアスファルト路を降りていく。飛島寮。開放門が閉まっている。社員寮と食堂の建物とコンクリートの駐車場はそのままだ。敷地の角に古びた飛島建設岩塚寮の標示柱が立っている。きょうまで知らなかった。母と降り立った一駅。
 開放門の前の整備工場のシェパードが私に向かって剣呑な表情で吠える。とっぷり暮れはじめた。太閤通へ引き返す。杉浦の理髪店の前を通り過ぎる。三島平五郎ちゃんを思い出すので、中は覗かない。ようやく人恋しさが萌してくる。
 稲葉地町の電停から殺風景な街並を帰っていく。ときおりタバコ屋や、文房具屋、トンカツ屋や、スーパー、医院が混じる。ほとんどが崩れ落ちそうな平家か二階家だ。医院は眼科や歯科ばかり。ときおり、ヘッドライトを点した市電と並んだり行き交ったりする。いっしょに夜を走る友だ。稲葉地本通、鳥居西通、電停二つ三つで大鳥居に出る。
 無性に北村夫婦たちの顔がなつかしくなり、大鳥居のふもとにある和菓子屋孝和堂に入る。昭和十四年創業と店内の壁紙にある。たぶんそれ以来置かれているにちがいない奇妙な形の頑丈そうな待合椅子に坐って、立てこんでいる客の隙からガラスケースを眺める。黄昏どきになぜ客が立てこんでいるのか想像はつく。帰宅途中に名店に立ち寄って、家族にサプライズを買っているのだろう。
 うす皮、豆大福、あんころ餅、葛(くず)桜、おはぎ、道明寺、栗まん、わらび餅……。客に紛れて、豆大福、おはぎ、栗まんを十個ずつ買う。自転車を飛ばして帰る。
「ただいまあ!」
 直人が飛びついてくる。一家全員いる。主人が、
「遅いよ、神無月さん、めしが終わってまうが」
「自転車で庄内川まで散歩にいってきました。孝和堂の和菓子です」
 菅野が、
「おお、孝和堂。創業三十年ですね」
 女将が、
「おはぎ買った?」
「はい」
「あそこのオハギは米が大粒でおいしいんよ。みんな、別腹がきたで」
 カズちゃんが折箱を開く。自転車の荷籠で揺られて隅に寄っている。ソテツとイネと幣原が三種の和菓子を三枚の大皿に盛った。賄いたちが日本茶を用意する。一家の者たちはめしを途中にして、大喜びで三種類の菓子の一つに手を差し出す。おはぎを、豆大福を、栗まんを頬張る。直人まで栗まんを齧った。心が満たされる。これしかすることがなかったのではないし、これしかしたことがないのでもない。こうしたかっただけだ。
 ……だれもかれも生まれたかったのだ。会いたかったのだ。愛したかったのだ。そのほうがあたりまえのことだ。命の正体だ。それこそ、疲労することなくつづく私たちの人生なのだ。……あの人たちを嫌いたかったのも、紛れもない私の人生だった。だれに強いられたことでもないとうなずかなければならない。女将が、
「キッコにもおはぎ残しといてや」
 私は直人を膝に抱いて、栗まんを齧った。菅野と幣原も栗まんを齧った。天童と丸、三上と近記と木村は、おはぎを一つ残すように遠慮しながら適当につまんだ。夕食がふたたび始まり、私も箸をとった。


         四十八

 夜八時。早めに北村席を出てカズちゃん、素子、メイ子と帰る。百江はきょうもアヤメの遅番。歩きながら、たまにはテレビ三昧をしてから寝ようということになる。
「夜食作るわね」
 素子がアイリスの前でさびしそうに手を振る。
「このごろ栄養士の勉強しとらんから。お休みなさい」
「お休み」
 則武に帰ると、さっそくメイ子とカズちゃんがキッチンに入ってめしを握る。八つ握った。昆布、シジミの佃煮、二つずつ。私は、
「二つ多いんじゃない?」
「ぜったい、素ちゃんくるわよ」
 そう言って笑う。味噌汁はナメタケと豆腐。味噌を入れるだけに準備する。
「これで夜食オーケーよ。さ、テレビ観ましょうか。キョウちゃんが少し夕食に遅れたくらいでおとうさんもおかあさんも、菅野さんまでソワソワしちゃって。いいかげんキョウちゃんなしで暮らせるようにならないと」
 メイ子が、
「なしは無理です。お父さんたちだけでなく、みんな無理だと思います」
「四六時中見てなくてもいいでしょ。自由に暮らしてもらえばいいの。いつもそばにいてくれるんだから。そうでしょ?」
「そうですね、やっぱり贅沢はいけませんね」
「そうよ。私はいつも、キョウちゃんに自由にしていてほしいって気持ちでいるわ。悪さをしてるわけじゃないし、結局人のために生きてるんだもの」
 そう言ってカズちゃんは私を抱き締めた。私は、
「ありがとう。いつもそう言ってくれるね。でも、自由でいると孤独になるんだ。つまらないことを考えちゃうしね……。孤独の中で最悪なことは、時間が猛烈な速さで過ぎるということなんだ。時間て不思議なものだ。まばたきをするあいだに十年が過ぎる。それはだれにとっても苦痛だろうね。お父さんや菅野さんたちや、カズちゃんたちも同じだと思う。でも、みんなでこうしていると一日はとても長い」
 カズちゃんはもう一度私を抱き締めた。
「ありがとう、そう言ってもらうと心が安らぐわ」
 居間へいく。きょうは月曜日。セリーグのプロ野球がないので、テレビ番組は多彩になる。『NHKおたのしみグランドホール』、『スパイ大作戦』、『世界のワンマンショー』。ほとんどカラー放送。いざ腰を落ち着けて観ると、残酷なほどくだらない。途中から観たおたのしみグランドホールが始まって五分もしないうちに、カズちゃんは画面から顔を逸らし、
「あさって、菅野さんといっしょに、ムッちゃんの引越しの手伝いにいってくるから、メイ子ちゃん、アイリスよろしくね」
「はい。午後までかかるでしょうね」
「うん。終わったらお店に入る。夕方からは、中日球場の巨人戦、二戦目よ」
 こんばんは! という声が玄関にして、素子が居間に入ってきた。やっぱりという顔でカズちゃんが微笑む。
「いらっしゃい。さびしくなったんでしょ」
「うん、ちょっと。めずらしくテレビ観て団欒なんて言っとったで、混ぜてもらうことにしたわ」
「来年の栄養士の学校そろそろ決めないとね。どの専門学校も二年制だったわよ」
「もう決めとる。西区の名古屋文理栄養士専門学校。栄養士の試験はきびしいから、資格取るのに二年は勉強せんといかんゆうのもようわかる。そのあと、三年の実務経験も必要なわけやろ。キョウちゃんと旅行する楽しみがずっと先に延ばされたわ」
「十二月にいっしょに青森にいってくる?」
「……ええわ。楽しみは先にとっといたほうがええ。五年経ったらあたしは三十四。いまのお姉さんと同じくらいの年や。いまのお姉さんの気持ちを考えながら旅したいで」
「気持ちも何も、ただ三十五歳というだけのことよ。五年後、私は四十、メイ子ちゃんは三十七、ソテツちゃんは二十二。キョウちゃんは二十五。それだけのこと。そう、文理栄養学校か。名門よ。創立して十何年かしら。生徒は百人くらいかな。スポーツ栄養論を教えることで有名ね。キョウちゃんの栄養管理が学べるわ。学費は心配しないでね」
「百万くらい貯まったわ。二年間で七十万やから、ぜんぜんだいじょうぶ」
「せっかくぼくという高給取りがいるのに、ふところを痛めないでよ。そんな大事な金を使わなくていい。何かいいことをするときに金がかかるなら、ぼくに言えばいいんだ。きょうだって二億三千万のコマーシャルを撮ってきた。使い切れないだろ」
「ありがと……」
 カズちゃんが、
「何かあったら私に言いなさい。キョウちゃんのお金預かってるから」
「はい」
「栄養専門学校は原則的に高卒しか受験資格はないんだけど、例外として受験資格審査に合格した者という項目があるから、一度、私とおとうさんが足を運んでくるわ」
 私が、
「寄付金?」
「のようなものね。例外というのはそういうこと。十万程度。宇賀神さんからあらかじめ校長に連絡を入れてもらって、それから面接のときに、素ちゃんの経験と人格を見てもらうの。それで百パーセントね。入試日はいつだっけ?」
「十月から三月末まで八回。そのどれかを受けることになっとる」
「早めに受けて、かならず入学するという誠意を見せといたほうがいいわね。四月の入学までゆっくりできるし。来月は?」
「第一、第四土曜日。十一月に一回、十二月に一回、一月に一回、二月に一回、三月に二回」
「細かいことはわかってる?」
「うん。試験科目は国語の現代文だけ。試験開始は十時から。試験時間は五十分。あとは五分程度の面接。その日のうちに合格発表」
「第一土曜日にしましょう。十月の四日ね。三日に寄付金納めてくるわ。素ちゃんは本をたくさん読んでるから、国語一科目なんて屁のカッパ。とにかく早く合格して安心しといたほうがいいのよ」
 メイ子が風呂を入れにいって、しばらくして戻ってきた。
「いつでも入れますよ」
 素子を見て、
「素ちゃん、赤くなってる」
 カズちゃんが、
「ひさしぶりだものね。ジンジンして、我慢できないんでしょ」
「……うん、あの……パンティ」
「あれ穿いてきたの!」
「うん」
「見せて、見せて。じつは私とメイ子ちゃんも、キョウちゃんがそろそろだと思って、朝から穿いてたのよ。スワというときに備えておこうと思ってね。でも、キョウちゃんにぜんぜんその気がないみたいで、肩すかし。そうなるとスースーするだけで、なんかいやらしいの。そこばかり気にしちゃう」
 愉快になった。
「ほんと? 言ってくれればよかったのに」
「素ちゃんがきてくれて助かったわ」
 みんなでさっそく私の寝室へいく。素子がパンティだけになって脚を開いた。
「終わったばかりやが。腫れとらん?」
「うん、だいじょうぶ」
 カズちゃんが、
「わあ、グロテスク! ここだけ素ちゃんじゃないみたい。私たちのもこう見えるのね。すごく興奮する」
 カズちゃんたちもパンティ一枚になって、大きく開く。こうして比べるとはっきりわかる。飛び抜けてカズちゃんのものが美しい。私は安心して全裸になり、素子の股間にひざまづいた。膨らんだ陰唇やクリトリスを触る。
「ああ、キョウちゃん……」
「グッショリだね。黒光りしてる。入れるよ」
「うん、お願い」
 二人が起き上がってじっと見入る。カズちゃんが子供っぽく興奮して、
「入ってく入ってく、大きな頭が入ってく。ああ、見てるだけでへんになりそう。ねえ素ちゃん、気持ちいい?」
 こんなカズちゃんを見るのがめずらしく、うれしい。
「うん、すごく……す、すぐ、イキそ」
「入ったばかりよ、素ちゃん、がまんして」
「あかん、がんばってもがまんできん、イク、キョウちゃん、お口、お口ちょうだい、キスして、あああ、イク!」
 寄せた口を吸わないうちに陰阜を跳ね上げる。ぶるぶる腰と二つの乳房が痙攣する。
「次、私!」
 引き抜き、カズちゃんにのしかかる。
「ああ、入った! うう、すてき、気持ちいい! あああ、キョウちゃん、心から愛してる、ああすごい、強くイク、イクイクイク、イク!」
 抜いて、メイ子でゆっくり往復する。
「か、神無月さん、だめ、イク!」
 抜き去り、きれいな形に覗いているカズちゃんの性器に屈みこんで吸い上げる。
「キョウちゃん、うれしい……あああ、も、もうイキます、イク!」
 すぐに挿入する。
「気持ちいい! 私締まってる? キョウちゃん気持ちいい?」
「とてもいい、もうすぐだ」
「いま出さないでね、出さないでね、最後にちょうだい! ウッ、イク!」
 抜いて、素子に挿し入れるとたちまちグロッギーになる。メイ子に移ったとたんに複雑な襞に絡みつかれる。一瞬危うくなった。慎重に往復してどうにかメイ子を悶絶させ、カズちゃんに移る。
「ああ、大きい! ちょうだい! うんと出して、あああ愛してる!」
「イクよ!」
「好きい! イクイクイク、イ、イッ、クウ!」
 四度、五度と律動する。
「ウププ、イク! あああ、イク! ククク、イクウウ!」
 ジュッと愛液を吐いた。あごが真横に落ちて喪心した。ほかの二人を見ると、メイ子が大きく股を開き、陰阜を跳ね上げながら、チュッ、チュッと飛ばしていた。素子は丸くなって痙攣している。抜き取り、カズちゃんと素子のあいだに入って仰向けになる。赤く腫れた亀頭が呼吸している。この淫らな様を見て、悖徳の極みだと思わない人間がこの世にいるだろうか。愛する女たちのほかにだれにも見せられない姿だ。私の心を知ってか知らずか、虫の息の素子がすがりついて、含み、舐める。荒い呼吸をしながら言う。
「キョウちゃん、ほんとにありがと」
 息を吹き返したカズちゃんが、 
「ごちそうさま。最後、わからなくなっちゃった」
 メイ子が、
「最高です……いつも」
 口々に言い、安らかに腹で呼吸する。カズちゃんの脂汗の浮いた腹を撫ぜる。股間を拭き終わった三人の女が起き上がり、愛液に濡れたパンティを脱いで手に提げ、連れ立ってよろよろ風呂へいく。私もあとを追い、抱き合って湯船に浸かる。メイ子を目の前に見つめながら、カズちゃんと素子を両腕に抱く。素子が、
「ソテツちゃんが遊びにくるかもしれんよ。さっきそんなこと言っとったわ。あしたの朝は九時出勤にしてもらったそうやで。……そろそろ後片づけ終わるころやから、もうすぐやない?」
「十時すぎくらいね。私たちはもういいから、かわいがってあげて。そのあとでおにぎり食べましょう。もう二つ握っておくわ」
 四人身づくろいして、居間のテレビの前に座る。おたのしみグランドホールが終いに近づき、前川清が歌っている。カズちゃんが、
「NHKだからこういう番組はすぐ終わると思ったけど、もう半年にもなるんじゃない? 長つづきしてるわねえ」
 メイ子が、
「今年の四月からですから、ほんとですね」
 中継ぎのミニ番組からスパイ大作戦にチャンネルを切り替える。殺人者の罠〈友よ、静かに時を待て〉。
 ジムの友人が死刑宣告を受けた。バーニー、ローラン、ウィリーの協力を得たジムは二十四時間以内に友人の無実を証明し、真犯人を見つけることができるのか。すぐに引きこまれる。コマーシャの合間にめいめいトイレに立ったりしながら、息つく暇もなく終盤の佳境に入る。このドラマはこのあたりがいちばんおもしろい。素子が耳を立て、
「ほらきた!」
 ソテツの、こんばんわァ、という声。
「こっち、こっち」
 素子が居間へ誘う。ソテツはトコトコやってきて、
「あ、みなさん、こんばんは」
 とお辞儀をした。みんなでアハハハと笑う。カズちゃんが、
「もう、私たちはすませたから、ゆっくり抱いてもらいなさい」
「はい!」
 ソテツが私の唇に吸いつく。
「愛してます。大好きです」
 またみんなの笑いが上がる。
「ここ、いいとこだからあなたもいっしょに観なさい」
 五人でハッピーエンディングを観終わる。


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