四十九

 ソテツがとつぜん言い出した。
「……あのう、お嬢さんにお話があったんです。……私も来年から千鶴さんといっしょに高校にいってもいいでしょうか」
 私には〈訴えたい〉胸底の思いがない。だから思いを訴える人間を見ると新鮮で、胸がときめく。カズちゃんもそうだろう。私が訴えなくなったのはいつからだろう。
 サーちゃんの唾―いかなる理由からであれ、意識のあるなしに関係なく、一度でもほんとうでないことを言ってしまうと、自分の人間性に自信を失い、思いを訴えるのが後ろめたくなる。そしてすべてが変わっていく。嘘が信じられてしまったせいで真実を言えなくなるような、生来の嘘つきの陥る悪循環のことではない。自分の発言が虚言だったことを知らされた衝撃から、その後の自発的な訴えさえ信用できない孤独で小心な人間へと変わっていく。
「高校にいきなさい。いいことよ。学ぶことがもっと好きになるし、人を愛する心ももっと強くなるわ。物の見方が幅広くなるの」
「はい、高校にいきます」カズちゃんもソテツも、きっと、鏡に映すように相手の言葉や態度から自分のことがわかるのだろう。私は複雑な気持ちになる。私はきっと彼らに似た人間だけれども、彼らに映して自分の像を結べない。私のような相手を鏡にして自分を照らせない人間は、一生を孤独に過ごすべきで、人に愛されてはいけないと思ってきた。人の人生を台無しにすると思ってきた。しかし、ようやくそうではないと思えるようになってきている。相手を鏡にして正体の知れない自分の像など結ばなくてもいい。相手の像だけををこの目にハッキリ捉え、愛情を注ぎさえすれば、自分の孤独を相殺できると思えるようになった。
 何百キロも彼方からやってきたソテツとカズちゃんの語り合いがつづく。そうしてソテツは気づきはじめる。自分を擁護してくれる存在に。自分のことを教えてくれるのは他人で、成長させてくれるのも他人だという真実に目覚める。心を開いて話せる人の目を通じてのみ、自分のことを知ることができる。自分が信じて大切にしたい思いを確かめることができる。
「住民票はこっちにあるわね」
「はい」
「じゃ、やるべきことを言うわよ。中学校から内申書を取り寄せる、二月の初めに高校から願書をもらって書く、受験料の領収証を用意する。それを受験する高校に持っていけばほとんど終わり。この近くだと中村高校か名西ね。あとは三月上旬に試験を受けるだけ。一週間後に合格発表よ」
「そのあとはどうするんですか」
「入学手続に必要な書類を受け取り、制服の寸法を測ってもらうの。入学手続の期限は翌日までだから、家に帰ったらすぐ書類に書きこむのよ。翌日それを高校に提出したら、五日以内に入学料を銀行か郵便局で高校宛てに振り込むの。そのほかの雑費の払い込みは入学式の日までだからあわてることないわ。がんばってね」
 カズちゃんはこりこりしたソテツのからだを抱き締めた。孤独の底で私はカズちゃんに出会った。この抱擁が私の心を開いた。ソテツは不安そうに、
「五カ月の勉強で受かるでしょうか。千鶴ちゃんは毎晩しっかり勉強してるみたいですけど」
「ソテツちゃんも記憶力がいいからだいじょうぶよ。来年は十八歳だから、定時制を受ければいいんじゃない? 千鶴ちゃんももそうでしょう?」
「はい、定時制にしようと思います」
「名西には定時制がないから、中村高校ね」
「はい。キッコさんと同じように自転車でかよいます」
 ソテツはホッとした笑いを浮かべると、私にしなだれかかり、私のものを手探りで確かめると、
「抱いてもらえますか」
 と言った。私は笑いながらうなずいた。
         †
 九月三十日火曜日。二階の寝室で六時半に目覚めると、パンツとランニングを着せられていた。ソテツの仕業だ。曇。枕もとのタイメックスは十六・二度。キャッキャッという華やかな声がキッチンから聞こえる。美しい歌声を聴いている気分だ。女の声は痛みを呼び起こす。この世に愛があることを教えた女たちの顔が甦ってくる快い痛みだ。
 カズちゃんに愛を教えられて以来、私は出会ってきた女たち一人ひとりを懸命に愛しながら心に留めてきた。彼女たちはみな、原っぱで遊んでいたいだけの少年の心に、室内でも育むことのできる愛を植えつけた。私は彼女たちを記憶のアルバムに貼りつけて眺めながら、そのすばらしい心映えをいまも日々発見する。愛する者のすばらしい心映えを発見するのは、幸福なことだ。
 私は折々死を思いながら、その幸福に後ろ髪を引かれてきた。そうしてようやく、幸福を感じるままの自分自身でいることを愉快に感じられるようになった。彼女たちのおかげで、私はなりたかった人間に近づいていると確かめることができる。
 愛だけがあって、怒りも倦怠もない日常で、私は野球をする、文章を書く。人を愛せる人間はそれ以外のことを何もする必要がない。だから、してもしなくてもいい野球に、書いても書かなくてもいい文章に、安心して没頭することができる。野球をしているあいだ、文章を書いているあいだ、愛する人びとの息づかいを耳に聴きながら、安心して彼らと別れていることができる。そうできる自分がうれしい。私は生まれ変わりつつある。この清新な気分が長つづきしますように。
 ステーキを焼くにおい。柱時計が七時十分前を指している。七時間は眠ったようだ。からだじゅうに力がみなぎっている。ウン、と跳ね起き、ミズノのジャージを着る。一階に降りる。カズちゃんとメイ子と素子がいる。
「おはよう!」
「おはようございまーす!」
 彼女たちにも力がみなぎっている。厨房の大黒柱のソテツは、九時出勤のはずなのにもう北村席へ戻っていた。新聞とコーヒーが用意される。

  
神無月3億か?
   
史上最高年俸へ  
 中日ドラゴンズ神無月郷外野手(20)の来季の推定年俸が早くも囁かれている。パーフェクトなプレーヤーに史上最高額が提示されそうだ。二十九日午後二時、この件に関して中日スポーツは、都内の自宅で休息していた水原茂監督(60)に電話インタビューを敢行した。質問に水原監督は最初静かなトーンで答えた。
「球団はきちんと動くと思う」
 流布している推定年俸のほうへ動くということか、とさらに踏みこんで訊くと、わずかにトーンが上がり、
「喧伝されている予想がどれほどのものかは知らないが、自分の意思はしっかり球団に伝えてある。アクションはかならず起こすはずです」
 と答えた。
 神無月は攻走守すべてが揃っただれもが認める万能プレーヤーだ。今季すでに、世界記録を八十五本も超える百四十六本塁打を放ち、抜群の選球眼と出塁率も誇らかに、あらゆる打撃各部門において前人未踏の道を歩んでいる。三冠ばかりでなく、打撃部門がいくつあっても、すべての賞を総なめすることになるだろう。盗塁王さえ確実視されている。黄金期を迎えた中日ドラゴンズが、過去の年俸規模から大きく上積みし、神無月を超大型契約で更改することは十中八九確実だ。三億円前後の条件を提示するものと予想されている。


「ほんとかなあ」
 カズちゃんが、
「五百万円でも契約するのにね」
「うん。ポケットの十万円と、生活費二十万円、年俸三百六十万なら文句ない」
 素子が、
「本気やから恐ろしいわ。そんなの、ちょっと出世したサラリーマンと同じくらいの給料やないの」
 メイ子が、
「トルコ嬢でもそのくらい稼ぐ人はいますよ」
「年俸がいくらになっても、ポケットには十万円だ。あとはカズちゃんと北村席のみんなに有効に使ってもらう。お店の改築費や祝賀会の費用なんかもぜんぶそこから出すようにお父さんに言っといて」
 カズちゃんが、
「せいぜい散財しないように心がけなくちゃいけないわね」
「そう? ポケット以外のところはぼくの知ったことじゃないよ。どれほどぼくがお世話になってると思うの。家や事務所まで建ててもらって。菅野さんや賄いや、アイリス、アヤメのひとたちのボーナスもそこから出して」
「そんなの売り上げ利益からいくらでも出せるわよ」
 熱々のステーキと、野菜たっぷりのカレースープが出てくる。メイ子が、
「朝昼晩いつでもいいから、毎日ステーキを食べることは長生きにつながるんですって」
 カズちゃんが、
「そうなのよ。ヘム鉄は血を造ってくれるし、Lカルニチンは脂肪を効率よくエネルギーに変えてくれるし、ビタミンB2は風邪をひきにくくしたり、傷の治りを早くしたりしてくれるし、トリプトファンというアミノ酸はストレスを和らげてくれるのよ」
 素子がカズちゃんの肩に手を置き、
「出た! 栄養学!」
 メイ子が、
「私も則武でお食事作るようになって、だいぶ研究しました」
 カズちゃんがうなずき、
「キョウちゃんへの愛ね」
 炒めたモヤシとピーマン、ほかにトマトと青菜が添えてある。
「ステーキのタレは梅おろしです」
「ぼくはふつうのウースターのほうがいいな」
「今度からそうします」
「キョウちゃん、せっかく作ってくれた人にそんなこと言うもんじゃないわよ」
「ごめん」
「いいえ、おいしく食べてもらいたいので、好みは言ってもらわないと。あ、付け合せもスープも、ちゃんと食べてくださいね」
「ほーい」
 素子が、
「これでも一応調理士なんやけど、キョウちゃんに何か作ってあげたことあれせんなあ」
「高円寺にいたころ、みんなでよく作ったじゃない」
「ほうやった。キョウちゃんは一月の終わりに名古屋にいってまったから、あれからもう八カ月か。早いもんやねェ」
 涙ぐむ。
「素ちゃんは泣き上戸ね」
「キョウちゃんと遇ってからのことは、思い出すとぜんぶ泣けるわ」
 カズちゃんも目頭を押さえる。メイ子もエプロンを目に当てた。
         †
 菅野のジャージ姿が玄関に現れるのと入れちがいに、三人の美しい女が出勤していった。
「きょうは高橋一三ですよ」
「まず復習。ホームラン五本」
「それだけですか? 十打数六安打、五本塁打、一内野安打、凡打四、一デッドボール、フォアボールなし、三振なし。カモです。予習は要らないですね。この三連戦で百五十号いくでしょう」
「無理、無理。このごろ打ち損なうことが多くなってきたんです。ボールと衝突したときにバットを重く感じるし。最終戦のあと、日本シリーズまで何日あるんですか」
「二十一日に終わって二十六日からだから、五日です」
 椿神社から駅西銀座を走り出す。曇り空。気温は十七・三度。爽快。
「家の中を見学できる遊郭ってない?」
「日吉町の松岡旅館ですかね。たしか食事もできますよ。ほかにもいろいろ見てきましょうか」
「うん。浅井慎平とはちがった目でね。その中に悲惨な生活が実際に詰まっていたことを想像しながら、できるだけむかしを偲びたいんだ。たまに楽しいこともあったろうけど、苦しいことが大半だったと思う。どういう苦しみだったかは想像するしかない。たぶん重労働や、貧しい食事や、性病、肺病なんかだと思う」
「会ったこともない人間のことをそこまで考えるんですね」
「考えてもいまさらだけど、彼女たちと引き比べたわが身の幸福には感謝できると思う」
「そのとおりですね……。そうだ、優勝会の引き伸ばし写真が送られてきましたよ。鴨居がたいへんなことになってますから、ファインホースのほうへ移さないと」


         五十

 金時湯を左に見て環状線を渡り、中島町から寿町へ。何十回も走った道、これからも何十回も走る道。古書店、畳屋、郵便局、スーパー、薬屋、喫茶店、煙草屋などが立ち並んでいる平凡な町並だ。羽衣もシャトー鯱の姿も紛れこんでいる。
「どの家も建て替えを繰り返してるみたいだけど、町の空気自体が古そうだね」
「古いです。女将さんもおっしゃってたとおり、開幕直後から大須に旭遊郭があったんですが、規模が大きくなって中村に移転してきたんです。三万坪の敷地を造成して、関東大震災のあった大正十二年の四月から営業を開始しました。四十五、六年ほど前ですね」
 もと妓楼の〈春福〉を眺める。植えこみのある民家になっている。軒下にずらりと雲肘木(くもひじき)が並ぶ。玄関先にゴミ出しされたソファ椅子に猫が丸まっている。玄関扉が開いていて二階へ昇る階段が見えた。最下段に花模様のタイルが貼ってある。
「大震災は九月だよね」
「はい。その五カ月前に営業開始です。中村遊郭はそれから十年余りで東洋最大の規模になりました」
 市松模様の緑と白のタイルがモダンな、もと遊郭らしき建物がある。玄関上部に《およし》という屋号が認められる。朱に塗られた二階の手すりと細格子を見上げる。あそこに遊女がずらりと並んで顔見世をしていたのだろう。カズちゃんや睦子がそんな運命を背負っていたとしたら―私は一瞬戦慄し、それからこの上ない感謝の念に満たされた。
「空襲で焼け残った妓楼が八十軒ほどあったので、中村遊郭を名楽園と改名して八百人の娼妓で復活させたんですが、売防法で転業を余儀なくされました」
 この先、五分も走れば日赤だ。令女プールを前方に見て、もと牛若楼だったビジネス旅館牛わかと、塙席経営のトルコ銀馬車に挟まれた道を右折する。電柱に日吉町とある。在の大地主の鵜飼病院を過ぎ、松岡旅館に到着。玄関の欄間に、右から左へ松岡商店。裏手に回りこんで一本北側の路地に入ると、松岡という櫓型の箱看板が建っている。大きな入母屋の屋根や高欄、べんがら塗りの透かし塀などがそのまま残っている。ここにも市松模様のタイルがずらりと貼られている。縁取っているのは雷紋のタイルだ。大正時代の建築物はタイルが特徴だったようだ。すぐ斜向かいに、松岡旅館に負けず劣らず豪勢な遊郭建築が残っている。料亭稲本。朱塗りの壁が曇り空の下に映える。松岡旅館に目を戻す。
「十年前に修復増築して、いまの形になりました。売防法以降は旅館をやってます。どうのこうの言っても、もと妓楼の料理旅館ですから、ほとんど利用客はないはずです。入ってみましょう」
 引き戸を滑らせて土間に入り、出てきた四十年配の女将に挨拶する。
「室内見学をさせていただきたいんですが。できれば食事も」
「どうぞ、どうぞ、上がってくださいや」
 白髪の番頭や、老若の仲居たちも出てくる。
「うわ、神無月選手!」
 若い仲居の一人が叫ぶ。着物を着こんだ女将があらためて私を注視する。
「あ? はいはい、いつもテレビに出とる人やが。こんな寂れたところへようこそいらっしゃいました。××さん、案内したげて」
「はーい!」
 番頭一人と二、三人の仲居がぞろぞろと案内に立つ。合船場にあったような大きな柱時計を横目に二階に上がってすぐ、圧巻の大広間が拡がった。大きな焦げ茶色の天井板はすべてヒノキから挽かれている。木曽の材にちがいない。現代ふうのシャンデリアが二つ垂らしてあるのは時代の流れだろう。西側のステージには松を描いた襖を開け、中央に神棚が祀ってある。ステージの欄間(らんま)には扇子が彫られていた。絢爛豪華という表現がぴったりだ。番頭がしゃべりだす。
「この旅館は中村遊郭の北側、最も格式の高い日吉町に位置します。このあたりの店を利用できたのは財力のある人たちだけだったので、南側の庶民的な遊郭とはちがって大きな宴席にも使われました。この広間はいまでは結婚式などにも使われます」
 得意そうだ。仲居の一人が走ってきて、カメラを向ける。菅野が、
「この時間、お客さんは?」
「トルコ帰りの流れで、ごはんを食べにきてる人たちがチラホラ。あなた、有名な菅野さんでしょう?」
「有名ですか」
「はい。神無月選手に命を捧げているマネージャーさん」
「そのとおりです。捧げてます」
「蛯名さんが褒めとりました」
「ああ、ここらあたりは松葉さんのシマですね」
 番頭が、
「はい、一本ジマです。松葉会さんがまとめてくれるまでは、三つ、四つの組から搾り取られてたいへんでしたよ。北村さんが太閤連合会長になられてから、松葉会さんが仕切るようになって、ガラリと変わりました。ありがとうございます」
「秋月さんの力もありますが、神無月さんの力がいちばん大きいですよ」
「はあ、蛯名さんもそのようなことを言っとりました。みんな神無月選手には心から感謝しとります。うちは料理屋ですので、きょうは食事をしていってもらいます」
 私は、
「質素にお願いします。ごはんはいりません。試合前に弁当を食いますから」
「わかりました。じゃ、次の間へどうぞ」
 広間を出てツヤのある板廊下を進むと、小さく区切られたいくつかの部屋が中庭を囲むように造られている。廊下をいき過ぎる仲居たちが握手を求めてくる。握り返す。
「この様式が、一般的な妓楼の造りです」
 さくら、菊、梅など、花の名が冠された小部屋は、欄間にそれぞれの部屋の名の花をあしらった透かし彫りが施されていて、戸を開けて中を見ると、どの部屋も障子や明り窓や天井に花を散らした凝った造りになっている。
「小さな店ですと、一、二、というふうに部屋番号がふられておったんですが、うちのような格式の高い大店になりますと、部屋の名前にも内装にも趣向を凝らして客をもてなしたんです」
 一室の窓を開けて空地の向こうを見ると、高いコンクリートの壁がそびえている。菅野が、
「〈嘆きの壁〉と呼ばれる代物ですね。哀れですね」
 番頭も痛ましそうな目でうなずいた。明かり障子に枝模様の桟を走らせて工夫を凝らした梅の間に導かれ、白布をかけたテーブルで食事をする。質素にと言ったのに、仲居たちの品出しで盛りだくさんの贅沢料理を食うことになった。
 前菜は省いて、椀ものから出された。ハマグリの潮汁。蛤の歯応えがよく、美味。
「うまい」
「おいしいですね」
 菅野は満悦至極だ。お造り。中トロ、ヒラメ、ブリ、イカ。ビールを出しましょうかと問われたが辞退した。煮物。
「鶏の治部(じぶ)煮でございます。金沢の郷土料理で、削ぎ切りにした鶏肉に小麦粉をまぶして、麩と野菜といっしょに醤油汁で煮たものです」
「いいダシですね。じつにうまい」
「ありがとうございます」
 焼物。伊勢海老の姿焼き。トロリとしたゆばソースがかけてある。プリプリの食感。仲居の一人が、
「ほんとに、いい男ですねェ。うっとりしちゃう」
 目を細めて言う。ほら、と私は言って指を見せる。
「ゴツゴツしてるでしょう」
「ほんとですね! この手でホームランを打つんですね」
「中学校のころからこの手です。興ざめですよ。足は二十八センチ。バカの大足。顔もゴツゴツしてます。無骨な男です」
 菅野が、
「神無月さんは自分をブ男だと本気で信じてますから、聞き流してください」
 ドッと八畳の個室に笑いが満ちる。蒸し物。鱈の身と白子と多量のネギ。絶品。牛ヒレステーキ。焼き茄子とシシトウとジャガイモが添えてある。うまい。きょう二度目のステーキなのに抵抗がない。カズちゃんの言うように、きっとストレスがぐんと減るだろう。私にストレスなどあるのだろうか。酢の物。マツバガニ。肉のあとなので、さっぱりして食いやすい。菅野にだけめしが出る。シラスワカメごはん。
「食べなくていいんですか、神無月さん」
「白米は腹がふくれる。試合前に弁当が食えなくなる」
 デザート。メロン。
「ごちそうさまでした。大満足です」
 菅野と二人で頭を下げる。女将と仲居たちがやってきて、
「お口に合いましたでしょうか」
「味の品がよく、とてもおいしかった。料理の出てくるタイミングも、仲居さんの手際のよさも、古い器もすばらしかったです」
 番頭が、
「畏れ入ります。まだ日が高いし、走ってお帰りになるのはからだに障ります。タクシーを呼びましょう」
「いや、ゆっくり歩いて帰ります。廊下の軋む音が郷愁を誘いました。ちょっとした見学のつもりが長居をしてしまいました。お勘定を」
 番頭が、
「ご冗談でしょう。名誉のお客さまからお金はいただけません。今夜の巨人戦、がんばってください。テレビで応援させていただきます。北村のご主人によろしくお伝えください」
 女将が色紙を差し出す。うなずき、文江さんのサインをする。
「ありがとうございます。玄関に飾らせていただきましょうわい。またこのあたりにいらっしゃったらお立ち寄りください。ごちそうさせていただきます」
「今度は冷酒と、天ぷらと、茶碗蒸しをつけてください」
「まあ!」
 ホホホホ、ハハハハと賑やかな笑いが上がる。
 玄関まで店じゅうの者に見送られ、手を振りながらジョギングの態勢に入る。椿神社を目指して走り出す。
「ああ、おいしかった。神無月さんといっしょにいると、毎度ご相伴の人生ですよ」
「菅野さんがぼくに貢献してくれてる度合いを考えたら、当然の報酬でしょう。ぼくも幸運に揉みくちゃにされてる人生だ。何がなにやら。……あの色紙が福の神になればいいんだけど。……さびしい部屋だった。装飾がかえってさびしかった。あんな部屋で女たちは病気になっていったんだね。かわいそうに」
「……考えもしませんでした。あの世の女たちも喜んでいるでしょう」
「お父さんはこの町の実力者なんだなあ。知らなかった」
「面倒見がいい人でしてね。それも大きい徳ですが、商店主たちのふところ具合を改善したという点が大きいですね。神無月さんのおかげです。社長もよくわかってますよ」
 席に帰り着き、菅野が主人に松岡旅館のことを話す。彼らが話しているあいだに下痢をする。つづけて二度食事をしたせいだろう。十一時半。庭に出て一連の鍛錬。主人と菅野が午前の見回りに出かけるのとちょうど入れちがいに、天童優子が早番でアヤメから戻ってきた。
「いっしょに風呂に入ろう」
「はい!」
 女将とトモヨさんが顔を見合わせてうれしそうに笑う。
 私がシャワーで頭を洗っているあいだに、優子は秘所を丁寧に洗う。二人で湯船に浸かる。松岡旅館へいってきた話をする。
「優子は山梨の笛吹川のそばで育ち、中学出てからトヨタ自動車に入って、貧しい家を助けるためにトヨタを辞めて、それから北村にきたんだったね」
「はい」
「トヨタは一年で辞めたの?」
「半年です。あんまり給料が安かったもので。同じ部屋の友だちにしていたその愚痴を耳に挟んだ全国周りの斡旋屋が私に声をかけて、北村に連れてきました」
「女衒というやつだね。北村席もそんなことをしてたのか」
「人買いがあたりまえの時代です。旦那さんを悪く思わないでください。こちらにきたのは昭和二十四年でした。神無月さんの生まれた年ですね」
「それから二十年、太閤の町を見てきたわけだ」
「はい、花街の最後の十年間ほどを。それからの十年間は青線とトルコ」
「きょうぼくが見てきた松岡旅館以外の風物をアットランダムにしゃべってみるから、優子も知ってることを思いつくままにしゃべってね」
「はい」
「寿湯」
「百年以上前にできた銭湯です。お湯に中将湯(ちゅうじょうとう)を入れてます」
「……?」
「もともと婦人薬でしたが、風呂に入れても効くということで、改良されてバスクリンになりました」
「ああ、バスクリンか。じゃ、中村映劇」
「終戦の年にできた名古屋で一番古い映画館で、ピンク映画専門です。旭座という芝居小屋を改装したものです。切妻の下壁の妻飾りは、ムカデの浮き彫りです。昭和の初めに流行ったらしいです。〈成人映画は中村映劇え〉という微笑ましい看板が掛かっています」
「……?」
「〈へ〉と書くべきなのに、〈え〉と書いてあるんです」
「ああ、それはユニークだな。めったにやらないまちがいだ。でも、まちがいと言っていいのかどうか。〈は〉は〈わ〉、〈へ〉は〈え〉と発音どおりに書くのが正しいと思うけどね。てふてふじゃなく、ちょうちょう、とね。じゃ次に、大門小路」
「大門横丁じゃなく大門小路ですね。むかしの友だちがやってたスナックがあって、よく知ってます。あそこは、入口が狭くて、通れるのかな思うくらいですけど、入ってみると思ったより広いんですよ。ゴミ袋や農具なんかが並べてあって、すごい生活感です。お店は八つあります。ぜんぶスナック」


         五十一

 湯船を出て流し合う。背中を流してやる。
「大門小路にはFの形をした枝道があるんですが、人が立ってたりすると怖いです」
 後ろ手にそっと握ってくる。
「……いま入れたら、一秒でイキます」
 石鹸まみれのからだを四つん這いにし、スッと挿し入れる。
「好き、イク!」
 石鹸に包まれた乳房を握り締め、烈しく緊縛してうねる膣に亀頭をこすりつける。
「あ、イク! うう、イク! 好き好き、イク! はあああ、イック!」
「優子、イク!」
「あ、ああ、神無月さん、愛してます! クウウ、イクウウ!」
 私が律動するたびに反り返る。かつては遅漏だった自分が女のアクメに合わせてかぎりなく早漏に変化(へんげ)できるのがうれしい。結合部に湯をかけ引き抜く。痙攣をつづけている優子の声がない。覗きこむと、焦点のない視線を前方に据え、昨夜のカズちゃんの状態になっている。収縮する腹が精液を吐き切ったのを見計らい、手桶で床の精液を流すと、肩を貸して湯船にいっしょに入る。うつむいた耳もとに、
「金時湯、豆タイル柱のアパート」
 などと囁きかけても、抱きすがるだけで、何も応えない。
         †
 昼めしはもちろん抜いた。主人夫婦と菅野は、ひさしぶりに昼食を食べにきたカズちゃんたちとまだ松岡旅館や料亭稲本の話をしている。
「稲本のほうが松岡より味はええけど、高いでな。祝い事のときしか使えんわ。直人とカンナの七五三の祝いは稲本でやるか」
「ほやね、廊下も部屋も明るいし」
 女将がうなずく。菅野が、
「嘆きの壁もありませんしね」
「ありゃいかん。早よ取っ払わんと」
 十分ほど遅れて優子が降りてきた。笑顔のカズちゃんにお尻をポンと叩かれる。
「イキすぎちゃったんでしょ。優子さんは敏感だから。私もきのうちょっと気を失っちゃったの。女も中年になると、からだが見境なくなるわね」
 優子は照れたように笑い返す。主人が女将と顔を見合わせ、
「見境がないからこそ、神無月さんのエネルギーにもなる。神無月さんは遠慮が嫌いやから。女たちが神無月さんにしっかり仕えとるのは北村の幸せのもとやな」
 私は、
「ときどき、まったくやる気のなくなる何日間かがありますけど」
 女将が、
「そういうときはしっかり休まんとあかんよ。義理で女の子に声をかけたらあかん」
 トモヨさんが、
「そうですよ。女はいつでも、何歳までも性欲があるんですから。郷くんがしたいときに声をかけてあげればいいんです。義理マンはだめ」
 素子が、
「キョウちゃんなら義理マンでもええわ。うちキョウちゃん以外にはぜんぜん性欲なんか湧かんもん」
「もちろんそうですけど」
 トモヨさんは照れくさそうに笑う。私は主人に訊いた。
「椿神社から真っすぐ商店街をいって、環状線に出る手前に金時湯という銭湯があるんですが、あれは古いんですか」
「昭和三、四年からやっとるね。あそこまでは竹橋町なんですわ。ときどき私も寄り合いのついでに入りにいきますよ。ドーンと真ん中に浴槽があるのが温泉ふうやね。関東ではめずらしい形や。浴槽の角が丸なっとるのは事故防止のためやと番台のおばさんが言っとった。井戸水を沸かしとるもんで、不純物は入っとらんし、水の質も柔らかい。芯からあったまるで」
 千佳子がファインホースから戻ってきた。
「足木さんから、広島球場と、甲子園球場と、似島の子供たちからの感謝状をこちらへ転送したって連絡がきました。ふざけたものや、罵っているようなもの、住所氏名を書いていないもの、返事やサインを要求しているものは破棄したそうです」
「ふうん、残った手紙には、できれば返事を書いてほしいということだね」
 千佳子が、
「その中でもうれしい手紙には、でいいんじゃないでしょうか」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんをうれしがらせるのはたいへんよ。捨て身じゃないと」
 優子が、
「捨て身というのはどういう手紙ですか」
「大好きです。返事はいりません」
「わあ、捨て身! それなら読む必要もありませんね」
「そ、時間は恋する人が独占しているという覚悟。捨て身の基本よ」
 千佳子が、
「私、生まれてきて、和子さんに遇えてよかった」
「キョウちゃんにでしょ」
「はい」
「素ちゃん、メイ子ちゃん、きょう中日球場の帰りに金時湯にいってみようか。私、いったことないのよ」
「いこまい! 千佳ちゃんもいこ。肌によさそうだで」
「はい。そんないいお風呂があるんですね。あしたの午前中にムッちゃんが越してくるから、あしたも二人でいってきます」
 千鶴が廊下から顔を出して、
「あたしも連れてってや」
「くどいようだけど、メイ子ちゃん、あしたの午前、アイリスお願いね」
「はい」
 菅野が、
「業者と私でだいじょうぶなんですがね」
「そうはいかないわよ。かわいい妹の引越しなんだから」
         †
 中日球場。対巨人十九回戦。曇。三時のベンチ気温二十一・二度。旗はライト方向へゆらゆら動く程度。肌に風は感じない。フリーバッティング開始前に水原監督がロッカールームで、
「この三連戦、三連敗覚悟の調整メンバーでいくからね。先発メンバーの四打席目からレギュラーの出番とします。それで八試合ほど様子を見ます。来年の起用のヒントにするためです。八試合あればじゅうぶんでしょう。と言うより、過去に悔いを持っていそうな人たちを八試合使いつづけます。過去は無理だが、未来は変えられる。最善を尽くすように」
「オシ!」
「オリャ!」
 宇野ヘッドコーチが、
「その後の最終十試合、十月十一日の広島戦ダブルヘッダーからは、日本シリーズのスターティングメンバーでいく。レギュラーはこの八試合で少しでも疲れを取り、微調整もしておくように」
「ウィース!」
 フリー五本のあと、ゆっくりフェンス沿いに三周。最後の周回のときに下通にピースサインを送る。あとはひたすら巨人軍のバッティングケージとブルペンを見つめる。二十三日のアトムズ戦で二十勝に到達し、小川に並ぶ二十一勝目を狙う高橋一三が投げている。
 百七十八センチ、七十八キロ。二十三歳。広島県の無名校北川工業出身。五年目。極端な怒り肩。フォアボールの多い速球ピッチャー。得意球は右バッターの外角に落ちるスクリューとシュート。
 ドラゴンズのブルペンは小川健太郎。三十球ほど投げて引っこんだ。守備練習は二塁送球五本。バックホーム一本。
 五時五十分。ロッカールームでソテツ弁当を噛みしめて食べる。唐揚げと肉野菜炒め。美味。生きていることを振り返る貴重な時間。飽きない独りめしの時間。
 観客二万二千人。七分の入り。巨人戦にしては少ない。下通の潤いのある声がゆったり流れる。巨人のスターティングメンバーは、高田、土井、王、長嶋、国松、森、川内、黒江、高橋一三。
「センター川内? 初めてですね」
 江藤が、
「柴田の当て馬かもしれんばい。これが最終試合かもな」
 田宮コーチが、
「今年初のスタメンだ。広島から去年のシーズン中に深沢と交換トレードで巨人にきた。まだ二十一だ」
 深沢? と尋き返すのも面倒だった。ドラゴンズの先発メンバーは一番から、センター江島、セカンド伊藤竜、ファースト千原、ライト葛城、キャッチャー新宅、サード徳武、レフト伊熊、ショート日野、ピッチャー小川の順。主審は甲子園ラバーの福井。外角に甘い審判だ。ボールになる外角球をストライクにされる可能性が高い。高橋一三の外角球(私には内角球)はとんでもなく有利だ。追いこまれてから見逃さないように、そのことだけ頭に入れておく。
 一回表。高田がバッターボックスに入る。伊熊がラインぎわに守備位置をとる。私のまねだ。小川の二球目、外角低目のカーブにチョンとバットを出して、一塁線を抜いた。高田にはこれがある。少年のように両手を振るまじめな走り方で二塁へ滑りこむ。土井、二球目の内角カーブをショートフライ。三番、小川の苦手な王、二球空振りのあと、三球目外角のストレートを無理やり引っ張ってライト前ヒット。やられた。高田生還。一点。長嶋サードゴロゲッツー。
 一回裏。江島、ツーツーから内角低目のカーブを三遊間ヒット。高橋はすぐにストレート主体に切り替え、伊藤竜彦をセンターフライ、千原をセカンドライナー、葛城を三振に打ち取る。東京球場のオープン戦以来、水原監督は葛城に目をかけている。私も彼のむかし語りには感動する点が多く、好きな男の一人だ。
 二回表。国松三振。森セカンドゴロ。川内三振。当て馬じゃないのか。
 二回裏。新宅外角ストレートを見逃し三振。徳武外角ストレートを見逃し三振。大男の左バッター伊熊。三年前、中商のライト四番で出場して春夏連覇し、ドラ一で入団している。二十一歳。水谷則博の先輩だ。何度かこの復習をして覚えてしまったが、強肩俊足の好打者という評判は羊頭狗肉だ。今年で退団というのもうなずける。外角へ逃げるカーブを見逃し三振。福井球審の癖を研究していない。努力不足。プロ野球選手にとって怠惰は致命傷だ。高橋は福井のジャッジに便乗するつもりのようだ。
 三回表。黒江セカンドゴロ。高橋一三ショートゴロ。高田レフトファールフライ。伊熊数歩前進して得意げに捕球。ドンピシャの守備位置だった。
 三回裏。日野ファーストフライ。小川三振。打順が一巡して、江島内角速球を叩いて左中間二塁打。
「ヨッシャー、イケェ!」
 田宮コーチの蛮声。伊藤竜、外角スクリューをチョンとセカンドの頭に打ってベテランらしい適時打。たちまち一対一の同点。
「連打、連打、連打ァ!」
 千原外角高目のカーブを引っ張ってライト前ヒット。三連打。ツーアウト一、三塁。ここで終わると何か空しさが残る。一枝が、
「タカさん、一点お願い!」
 期待に応えて葛城、真ん中低目のストレートを打って左中間を抜く二塁打。二者生還。一対三。葛城の持ち味は高木と同じように左中間に伸びるこの打球だ。阪神に移ってもやっていけるだろう。四連打。
「ビッグイニーング!」
 四人ともストレートと変化球をまんべんなく打ち返した。高橋一三が打ちこまれている。きょうの打線を信じていなかった一塁側スタンドの歓声がようやく高くなる。球場に声や音が戻ってくると、観客がグランドを見つめていることがあらためて意識される。新宅キャッチャーフライ。
 四回表。土井センター前ヒット。王ライトフライ。小川がグローブで胸を撫で下ろしている。長嶋レフトライナー。伊熊拝み捕り。国松の代打森永セカンドゴロ。川上監督がベンチで立ったり座ったりしている。
 四回裏。徳武サードゴロ。伊熊セカンド強襲ヒット。今シーズン初ヒットか? 憶えていない。日野三振。ベンチに走り戻ってきたとたん、宇野コーチから、
「もう上がっていいぞ、修ちゃんに交代!」
 徳武が、
「ぼくも菱川に交代だ。きょうは戦力にならん」
「わかった。修ちゃん、菱、五回の守備からいけ」
「よし!」
「オス!」
 小川ツースリーから三遊間を抜くヒット。ツーアウト一、二塁。江島、ピッチャーゴロ。
 五回表。サードに菱川が、ショートに一枝が入る。森ライト前ヒット。川内の代打柴田センター前ヒット。やっぱり当て馬のようなものだった。黒江ショートフライ。高橋一三レフトフライ。伊熊の守備が軽快に見える。軽快すぎると守備だけの人に思われる。高田ライト前ヒット。森還って二対三。柴田三塁へ。土井フォアボール。王ショートゴロ。小川ピンチを凌ぐ。このまま膠着か。
 五回裏。伊藤竜、三振。千原、レフトオーバーの二塁打。当たっている。葛城の代打太田、セカンドゴロ。千原動けず。新宅の代打木俣、右中間を破る二塁打。千原還って二対四。徳武に代わって入った菱川サードライナー。


消化試合その10へ進む


(目次へ戻る)