五十二

 グランド整備。トンボを牽くバイクがマウンドの周囲をぐるぐる回る。バッターボックスのラインを引き直す。プロに入ってから、特に甲子園球場のライン引きを見て以来、グランドキーパーの熟練ワザに注目するようになった。天候に合わせて土や芝の調整をしたり、試合前のバッティング練習の準備をしたり、試合後のあと片づけや再整備をしたりするのも彼らだ。彼らは朝から夜遅くまで働くとよく耳にする。背格好から見て、もとプロ野球選手はいなさそうだ。
 六回表。小川続投。長嶋三振。きょうの長嶋はまったく精彩がない。彼のいまの打率は三割一厘、ホームラン二十五本。王は三割三分四厘、ホームラン三十九本。三割打者というのはホームランを打たないかぎり、精彩がなく映るのがあたりまえなのだろう。しかし長嶋は接戦に強い。毎打席要警戒だ。国松ファーストゴロ。森センター前ヒット。代走に千田が出る。柴田の初球にすかさず盗塁。木俣のゆるい送球を高木はベース前で捕ってむだなタッチをせず、軽く小川に投げ返した。タッチしていてもセーフなのは明らかだった。柴田ライト前ヒット。千田還って三対三の同点。黒江空振りの間に柴田二盗。ツーアウト二塁。高橋一三ライト前ヒット! これが誤算だ。柴田生還。小川の油断が出た。しきりにグローブで膝を叩いたり屈伸運動をしたりして照れ隠しをしている。高田、速球で三球三振。四対三。
 六回裏。巨人のキャッチャーは森に代わって吉田が入った。伊熊セカンドフライ。一枝内角高目のストレートを叩いて、レフトスタンド中段へ十四号ソロ。水原監督と両手ハイタッチ、抱擁、尻ポーンの儀式。小川三振。四対四。
 守備交代のアナウンス。千原に代わってファースト江藤、伊藤竜彦に代わってセカンド高木、江島に代わってセンター中、伊熊に代わってレフト神無月。大歓声と拍手。
 七回表。小川続投。土井、三遊間の渋いヒット。一塁上で江藤にポンと尻を叩かれる。王、ライト中段へ四十号ツーラン。出たか。三塁側の内外野スタンドが大騒ぎになる。小川は別段渋い顔もしていない。六対四。水原監督に小川を交代させる気配なし。長嶋センター前ヒット。やっぱり一本出た。ノーアウト一塁。川上監督がのしのし出てくる。森永の代打末次、小川ひょいひょいとセカンドフライに打ち取る。吉田高いバウンドのセカンドゴロ、長嶋封殺。柴田ライトフライ。巨人はいま一歩を詰められない。
 七回裏。中サードゴロ、長嶋の前でイレギュラーして肩に当たる。あっという間に中は一塁を駆け抜ける。中の足の速さにあらためて驚く。高木、一、二塁間をゴロで抜くヒット。ノーアウト一、三塁。中が三塁までいっている。川上監督がまたのしのし出てきて、高橋一三から高橋明にピッチャー交代。これは危ない。高橋一三でなければ二点差を守り切れない。ヒゲの青い陰気な顔の高橋明。藤田元司とそっくりな投球フォームだが、藤田ほどは球威のないコントロールピッチャーだ。もちろん高橋一三に匹敵する球威などない。
「何やっとるんや、負けたいんか!」
 巨人ファンにも〈見え〉ている。江藤、初球内角低目のシュートを叩いて、左中間へ糸を引く深い当たり。スタンディングダブル。中、高木相次いで生還。たちまち六対六の同点。
「負けたいなら、とことん打たれろや!」
 四番太田フォアボール。手を拍ちながら一塁へ。ノーアウト一、二塁。木俣、高く上がるセンターフライ。江藤三塁へ。菱川がバッターボックスに入る。私はネクストバッターズサークルへ。菱川、初球、二球目と外角ストレートを打って、一塁線へファール。三球目、内角高目のシュート、ギシッ! 少し重心の内側の感じか。しかしラインドライブして、あっという間にレフトスタンド前段に突き刺さった。怪力だ。弾けるような歓声が上がる。長谷川コーチとタッチした菱川のスマートなからだが一塁を回る。
「菱川選手三十三号のホームランでございます」
 水原監督の片手ハイタッチと尻ポーン。仲間たちの袋叩き。参加する。六対九。
「七番、レフト神無月、背番号8」
 スタンドの怒号。半田コーチの雄叫び。
「セカンドビッグイニーング!」
 打席に向かうとき、川上監督の腰が一度上がってまた下りるのが見えた。ネット裏と一塁側スタンドにヘルメットを振る。大歓声が上がる。桑田、柴田、高田がゆっくりバックする。高橋明の陰気な四角い顔。
「お手柔らかに」
 と吉田の声。吉田孝司。二十三歳、五年目。森に次ぐ二番手捕手。そこそこのガタイで風采はいいが、派手さがない。ベンチで木俣が言っていた。
「今年から吉田は背番号が49から9に替わった。むかしの藤尾の番号だ。キャッチャーの背番号は二十番台が多い。たとえば森が27、伊藤勲27、田淵22、加藤俊夫27、岡村29、醍醐24、種茂22てなふうにね。しかし、村上公康の10、田中尊の12、野村克也の19のように十番台のものもある。控えでいるあいだは番号が大きいのがふつうだ。吉田は槌田が23をつけてるから仕方なく9になったんだろうが、思わぬ大出世だ。出場試合数も槌田より多くなったしな」
「プレイ!」
 初球、外角カーブ、ストライク。ボール一つ外れている。福井球審のこだわりなので仕方がない。これはしたりと高橋明はしつこく攻めてくるだろう。早めに決着をつけてしまおう。二球目、外角シュート。しつこくきた。ラインぎりぎりにいざり出て、屁っぴり腰で叩きつける。少し先だがきちんと食った。
「アチャー!」
 吉田が叫ぶ。水原監督がレフトの空を見やって帽子を回す。美しい姿だ。グーンと伸びていき、中段に打ち当たった。ほんの少し観客席に穴が開く。
「金太郎さん、サンキュー!」
 背中にベンチから小川の声。高木と江藤が小躍りしながらベンチから走り出す。長谷川コーチとハイタッチ。王がファーストミットでポンと私の尻を叩く。
「芸術品です!」
「ありがとうございます!」
「神無月選手、百四十七号のホームランでございます」
 長嶋の前で水原監督とガッシリ抱擁。
「進軍ラッパが鳴りつづけてる。消化試合も突っ走るよ」
「はい!」
 いつになく手荒い歓迎。むやみやたらに叩かれ、抱きつかれる。
「すげえす、神無月さん、すげえす!」
 太田がほっぺたにキスをする。小川が首っ玉にかじりつく。六対十。
「はーい、バヤリース」
「ごっつぁんです」
「どんどんいくぜェ!」
「ヨホホーイ!」
 ピッチャー交代。初回からブルペンで投げていた宮田が出てくる。時計を見ると八時二十七分だった。江藤が、
「何年か前、宮田は肩を亜脱臼してな、鉄アレイで治したげな。宮田が八時半によう投げることに気づいたんは、後楽園の務台さんたい」
 サッパリした声のウグイス嬢だ。急いでアナウンスしてるようにも聞こえるが、湿り気のない事務的な声が彼女の売りなのだろう。
 八番一枝、二球つづけてぎりぎり外角カーブを見逃し、ツーストライク。見逃し方がすばらしい。つづけて外角は投げられなくなる。
「次のボールは内角高目のカーブで、ホームランです。二打席連続」
 カシーン! レフトポールぎわへ痛烈な打球が吸いこまれる。
「なしてわかったとや!」
「のけぞらせてからもう一度外角で勝負するだろうと思いました。最初に外角へ二球投げたので次に内角にくるのはセオリーです。シュートで攻めてデッドボールも辞さないというほど肝っ玉は太くないので、カーブでくるのはミエミエでした。勝負される前に一枝さんは打ってしまうと思ってました」
「ほう!」
「一枝選手、十五号ホームランでございます」
 千佳子に似ている流れるような走法。水原監督とハイタッチ。ホームベースへ歓迎に走った。細く硬い尻を叩く。畏れ多い気がした。六対十一。一枝は一人ひとりと握手しながら、
「長嶋はいま何本?」
 太田が、
「二十五本です」
「よしゃ!」
 白い歯を剥いて笑う。ベンチが大笑いになる。ほんとうに愉快な人間だ。バヤリースをごくごく飲む。小川、右中間を一直線に抜く二塁打。いい手首だ。代走江藤省三、丸いからだが二塁へ走っていく。小川とタッチ。お役御免の小川はベンチに拍手で迎えられ、力瘤を作って見せた。またまた大笑い。四者連続安打。まだワンアウト。きょうもバッティング練習になった。ブルペンに堀内が走っていく。江藤が、
「おととい投げたばかりやぞ」
 田宮コーチが、
「投げないだろう。消化試合だぜ。川上監督が試合を棄ててないところを見せてるんじゃないの」
「堀内はおととい負けとる。十三勝十一敗たい。一つでも勝ち星を増やしたいんやろうけど、五点差ではのう。逆転があると踏んだら志願して出るかもしれんくさ」
「もう逆転はないな」
「ほな、出てきよったら、あしたかあさってのウォーミングアップやろうな」
 打者一巡。中、ツーツーからファールで二球粘って、五球目の外角低目をうまくバットの先に乗せた。レフトライナーがゆるくお辞儀して、高田の前にポトリと落ちた。五者連続ヒット。省三、三塁ストップ。ワンアウト一、三塁。つづく高木がツーナッシングから真ん中カーブを狙いすまして三遊間を抜いた。省三還って、六対十二。ワンアウト一、二塁。堀内は出てこない。私はサークルを出ていく江藤の背中をベンチから見守る。
「三番、ファースト、江藤、背番号9」
 歓声がこれでもかと押し寄せる。二球目を強振して大きなセンターフライ。中は三塁へ。一塁の高木動かないまま。ツーアウト一、三塁。太田の打席だ。木俣、菱川、一枝とつづく。ここで、江藤の予想どおり堀内が出てきた。三塁側スタンドから大歓声が上がる。彼の投球練習が終わるまで太田はベンチを出ない。私をまねて、じっと観察している。堀内の左首のホクロが大きく見える。江藤が、
「六点差やぞ。勝つつもりかいな」
 高木が、
「その気だろう。九回まで七人全員凡打」
 投球練習に迫力がある。私は、
「おとといどこに負けたんですか」
 田宮コーチが、
「広島。金田と堀内で十四安打喰らった」
「反動で好投されるとイヤですね」
 投球練習が終わり、マウンドでバッテリー打ち合わせ。太田ようやくバッターボックスに近づき、ブンブン素振り。プレイ。初球真ん中高目ストレート、ヘッドアップの空振り。二球目浮いて落ちるカーブドロップ、ヘッドアップの空振り。相手にならない。三球目真ん中高目ストレート、ヘッドアップの空振り、三振。
 八回表。小川に代わって土屋紘がマウンドに登る。ガチガチに緊張している。黒江、ワンスリーからフォアボール。すかさず盗塁。打たれてしまえを忘れている。木俣がマウンドに飛んでいく。背中を平手でドヤした。堀内の代打末次、ツースリーから当たりの悪いサードゴロ。菱川封殺をあきらめ一塁送球。ワンアウト二塁。高田、土屋の渾身の速球を巻きこむように叩いて、私の前へ痛烈な当たりのヒット。バックホーム。木俣へ一直線。私の肩と黒江の足の競争。黒江、私のバックホームのボールスピードを見て、三本間からあわてて戻る。ワンアウト一塁、三塁。土井三振。よーし、その意気だ。ツーアウト一、三塁。
 王登場。土屋の正念場だ。三塁側内外野席の歓声が高まる。勝てなくていい、王のホームランが見たいという歓声だ。初球外角高目へストレート、ブンと空振り。危ないコースだ。二球目胸もとへスピードボール、ぎりぎりストライク。
 ―急ぐな!
 たぶん私たち八人全員が〈急ぐな〉と念じた。三球目、内角低目のスライダー、足もとへファールチップ。四球目、外角高目へ速いカーブ。ボール。木俣が立ち上がり、土屋に向かって激しく肩を上下させる。土屋はうなずき、ロジンバッグを拾い上げて、念入りにはたく。五球目内角高目へ剛速球。高く上げた王の片脚が下りてきて、バット一閃。やられた! 低い弾道で一直線にライトボールに向かって伸びていく。ポールを巻いてライト最上段に突き刺さった。球場内に轟々と喚声が上がる。拍手の嵐。王は両手を女のように振る独特の走り方で黙々とダイヤモンドを回る。レフトスタンドから、
「王、よくやった!」
「世界一!」
「きょうはもういいぞ! ありがとう!」
 花道にタッチのみ数人の祝福。ホームイン。長嶋の握手、川上監督の握手。
「王選手、四十一号のホームランでございます」
 九対十二。長嶋真ん中低目の速球を早打ちしてショートゴロ。
「ドンマイ!」
「愛嬌、愛嬌!」
 めいめい土屋に声をかけながらベンチへ駆け戻る。


          五十三

 八回裏。五番木俣から。初球外角低目伸びのあるストレート、ストライク。堀内の投球間隔が長くなる。吉田のサインに何度も首を振る。三点差をひっくり返して勝てるかもしれないと思いはじめたのだ。二球目内角高目ストレート、ボール。ボールに気迫がこもっている。長い投球間隔、三球目、ど真ん中へパワードロップ、大根切り、ドン詰まり。ショート黒江の後方へ低いフライが上がる。黒江後退、高田前進、中間へポトリ。
「そらきた!」
「ダメ、いくぞ!」
 そう簡単にダメ押しできない。六番菱川。私はネクストバッターズサークルへ。菱川が足もとをしつこく均している。オープンにもクローズドにも踏みこみやすくするためだろう。吉田のサイン。堀内は一発でうなずき、投球モーションに入る。肘が引き絞られ、肩が回転する。バネだ! 美しい構えの胸もとへ剛速球。のけぞる。まさか次はパワーカーブではないだろうな。簡単すぎる。しかし、簡単でも打てない。二球目、予想どおり懸河のカーブ! 菱川踏みこんで強振。どうにかボールの上を叩いた。高いバウンドで王の前へ弾んでいく。菱川全速力で一塁へ。王前進して捕球し、一塁へ駆けこむ堀内へトス。クロスプレイ、セーフ!
「ヨォォッシャー、金太郎さん、ダメ押し!」
 私は帽子を尻ポケットに納め、ヘルメットをきつくかぶってバッターボックスに向かう。
「ヨ!」
「そりゃ!」
「ダメ押しのダメ押し!」
 牧野コーチがマウンドに走り、堀内に打診。内野が集まる。堀内がうなずき、集合が解かれる。堀内は敬遠などしない。外角一本。私は福井球審に辞儀。デッドボール覚悟でボックスのかなり前方に出て構える。堀内はグローブで口を隠すようにしながら吉田のサインを覗きこむ。川上監督がベンチ脇に出て立っている。
 堀内は投球動作に入るとき、振り子のように両腕を振るワインドアップをしない。グローブをスッと面上に差し上げた首の後ろに持っていく仕草から、肩を美しく回転させて投げ下ろしてくる。いまはやむなくセットポジション。
 初球膝もとのパワーカーブ、空振り。外角顔の高さから膝へ落ちてきた。ものすごい落差だ。二球目胸もとへストレート、わずかに外れてボール。気迫のあるボールだ。このボールは振ってもせいぜいファールチップだ。三球目真ん中高目のストレート、明らかにボール。ワンツー。敬遠はない。三球とも意図的にコースを投げ分けている。勝負は外角一本。四球目、真ん中へ切れ味するどいカーブドロップを落とす。見逃す。ストライク。打てば菱川と似たような凡打になっていた。堀内はロジンバッグを手のひらと甲でポンポンともてあそび、足もとに落とす。何をどう計画しようと、最後は外角速球しかない。喚声が重なって押し寄せる。五球目ど真ん中、腰のあたりの絶好球がきた。意外! 腰を強く回転させてブンと振り抜く。ファールチップ。浮いてきた! 三振を覚悟する。プロ野球選手になって初めてバッターボックスを外した。素振りを三本。
 ―外角高目ストレート、外角低目ストレート。よし! それ以外なら三振してしまえ。
 六球目、外角低目ストレート! 屁っぴり腰ではなく思い切り踏みこみ、ガツンとひっぱたく。喚声! 左中間、レフト寄りにスライスして伸びていく。打球が低い。高田が追いつきそうな勢いで走る。中タッチアップの構え。高田フェンスぎわでジャンプ。十センチほどグローブの上を通過して、スタンド最前列に飛びこんだ。スタンドで弾んでグランドに戻ってくる。レフト線審が走ってきてグルグル腕を回す。柴田がのろのろグローブで拾って、なすすべもなく立っている。その柴田を堀内がボンヤリ眺めている。長谷川コーチとタッチして悠揚とダイヤモンドを回る。
「神無月選手、百四十八号のホームランでございます。いよいよ百五十号が近づいてまいりました」
 水原監督とがっちり握手。
「そろそろクールダウンして、日本シリーズに備えなさい」
「はい!」
 仲間たちの律儀な握手攻め。律儀な抱擁。スタンドのざわめきが止まない。九対十五。ツーアウト、ランナーなし。一枝三塁フェアフライ。しゃがみこむ長嶋の後ろへ黒江が捕球に走る。長嶋は三塁後方のフライは決して捕らない。美学だと主張しているけれども、怠慢もいいところだ。黒江、しゃがみこんだ長嶋に躓き、ポロリ! こうなる。
 川上監督が福井球審に歩み寄る。堀内に代わって、ルーキー山内新一登板。コントロール一本のピッチャー。球威はない。彼がワンアウトを取るのは至難だろう。
 時計が九時を回ろうとしている。土屋に代打、高木時夫。背番号31。ひっそりと生きている男たちの一人。ときどき木俣達彦という大樹の陰から出てきて、その存在を再認識させる。九年選手。一割打者。すでに三十二歳。浦和高校出身の秀才と聞いているけれども、私は浦和高校を知らない。中はネクストバッターズサークルへ向かわず、堀込基明がバットを振っている。
 山内がスイと投げる。高木時夫初球打ち。交通事故。センター前へぶっ飛んでいった。このままサンドバッグになる。見えた。中の代打に堀込が出る。去年、眼病で長期欠場した中の穴を埋めた男。どの試合も引退試合を覚悟して臨む崖っぷちの選手。三十歳。ツーツーから、外角のゆるいカーブを二球選んでフォアボール。せっかくのチャンスにフォアボールではさびしい。川上監督はベンチに腰を据えてしまった。
 二番高木。初球を引っ張って三遊間の深いところへ。黒江ジャッグル。内野安打。三塁スタンドから呆れたような嘆声が上がる。一塁スタンドは大喜びだ。
 三番江藤慎一―豪快で、謙譲で、包容力抜群で、才能も飛びぬけている奇人。水原監督、山口と並んで私が終生愛する男。去年のオールスターの第一戦でサヨナラホームランを打ってMVPになったことを何かの雑誌で読んだことがあったが、江藤の口からは一度も聞いたことがない。飲ませれば一升近く空ける酒豪であることもちょくちょく耳にするけれども、私の前ではその気配をオクビにも出さない。正直な話、私が袖なしユニフォームをやめたのは、自分の好悪よりも、あまりにも彼に似合わなかったからだ。秘密。
 初球、いつものバランスの崩れた空振り。ここからライト打ちになる。そのパターンが有名なだけにピッチャーは悩む。外角に投げられない。山内二球目、内角へシュートを落とす。わずかにボール。江藤はベンチの私をチラリと見る。アベックホームランを狙うというサインだ。私は帽子の鍔をひょいと上げて応える。三球目、外角低目のストレート。見逃す。ストライク。次の配球を読むのがたまらなく楽しい。十中八九内角シュート、十中一二外角カーブ。真ん中ストレートはない。四球目、外角低目カーブ、一塁スタンドへファール。次はまちがいなく内角シュートだ。やや三塁側へ爪先を広げる。ワインドアップ、投げ下ろす。きました。膝あたりのシュートを掬い上げる。
「ヨッシャー!」
「健太郎にボーナス!」
 叫んだのは小川本人だった。まともに芯を食った打球が夜空にギューンと舞い上がる。当たりが低いので中段かと思ったが、看板の裾まで飛んでいった。グランドスラム。
「江藤選手、ついに六十号のホームランでございます。かの偉大なベーブ・ルースの記録と並びました! ちなみに今シーズン四十五本目のアベックホームランでございます」
 王は心をこめて江藤の尻をポーンと叩いた。水原監督と片手ロータッチ。出迎えの選手全員と、手のひらをペチペチ打ち合わせていく。私と抱き合う。なぜか花束の贈呈はない。九対二十一。
「四番、ライト太田、背番号40」
「タコー! もう一本ボーナス!」
 この回九点取ってまだ攻撃が止まない。初球、膝もとの小さなカーブ、見逃す。ストライク。二球目、外角へ浮き上がるストレート、ファールチップ。けっこう速い。山内は堀内をまねて、グローブで口を隠して吉田のサインを覗きこむ。短くうなずく。三球目、外角高目へシュート。ファールチップ。空振りを取りにきているのだ。四球目も外角高目へシュート。一塁側スタンドへファール。五球目もまた外角高目へシュート。これも一塁側スタンドへファール。球場じゅうが拍手喝采になる。太田は見逃した初球の内角カーブを待ち、山内は外角高めで打ち取ろうとする。見応えのある根競べだ。ツーナッシングのまま、六球目、内角低目に甘いカーブがきた。山内の根負け。五球目までの勝負をむだにする失投だ。素直に掬い上げる。上段確定の角度で上昇する。
「そりゃあ!」
「タコォォ!」
「ナイスバッティング!」
 宇野ヘッドコーチとタッチ、王のグローブとタッチ、長嶋の素手とタッチ?
「ワンダフル!」
「ありがとうございます!」
 水原監督と抱擁。小川と抱擁。
「太田選手、二十五号のホームランでございます」
 九対二十二。木俣きっちりサードゴロで本日のドラゴンズ仕事納め。
 九回表。ピッチャー山中巽、背番号21。スタンドがどよめき、ちがう意味でドラゴンズベンチもどよめいた。たぶん水原監督はこれを彼の引退試合にするつもりなのだ。みんな一瞬のうちにそれがわかった。大柄なからだがゆっくりマウンドに上がる。噛みしめるようにピッチャーズプレートの土を掘り、踏み出し位置を均す。木俣と投球練習を始める。いちいち手首で指示しながら投げる。直球に力がある。変化球を一とおり投げる。決め球のフォークは投げない。末次に代打が告げられる。なつかしい桑田武のユニフォーム姿が打席に入る。いまはエイトマンではなくセブンマンだ。私は眼鏡の位置をしっくりさせた。
「プレイ!」
 背番号7が鮮やかに浮き上がる。底なしにさびしい。初球、外角低目スライダー、桑田のバットがピクリと動いて止まる。ボールのコールを聞き、サッとバッターボックスを外す。手に土をまぶし、握ったバットの先を見上げる。すごい緊迫感だ。たぶんもう二度と彼の姿を見ることはない。山中が木俣のサインにうなずく。桑田はバットを立て、左肩をのめりこませて構える。森徹によく似ている。山中は振りかぶり、投げ下ろす。内角、腰の高さのストレート。バット一閃。フェアラインに沿って伸びてくる。私は一瞬走りかけたがやめた。ファール。ポール左の最上段に飛びこんだ。喚声。小学生時代のナイター中継で何度も目にした豪快なスイングだが、実際目にする迫力は格別だ。いまもなおエイトマンがそこにいる。三球目、内角低目のシュート、ボール。ナイス選(セン)。レフトスタンドの声援が沸き返る。消化試合とは思えない熱中ぶりだ。エイトマンは生きている。四球目、ど真ん中のフォーク! ヘッドアップ、空振り。長嶋のようにヘルメットは飛ばなかった。ツーツー。少し長い間合い。五球目、外角速球。打った! ライト前へ痛烈な当たり。ワンバウンドで太田が抑える。うれしい。スタンドも拍手喝采。山中もなぜか満足そうだ。今年初ヒット、そしておそらくこれが最後の打席だ。
 まったく当たっていない吉田、初球真ん中高目のストレートを打ち損って、キャッチャーフライ。柴田フォアボール。黒江レフトフライ。どんなゆるいフライでも落下してくるボールは迫力がある。しっかり捕球する。ゲームセット。
 木俣がマウンドに駆け寄り、山中の腰を抱き上げた。内外野が集まる。水原監督がマウンドまで出向いて、目を潤ませた山中と握手する。野球通の観客にしかわからない、もとエースのひっそりとしたお別れピッチングだった。星野秀孝が率先してベンチ前に出迎え、握手しながら頭を下げた。選手全員が星野に従ってベンチ前に並んだ。
「ナイスピッチング、巽くん」
 太田コーチが肩を抱く。山中は一とおりコーチ連と握手してから、整列しているチームメイトに向かって背筋を正した。
「弱冠二十五歳、まだまだみなさんといっしょにがんばりたいのですが、肝臓病のせいで慢性の腰痛に悩まされ、快復の兆しも見えてこないので、長期休養に努めることにいたしました。ぜひともドラゴンズに戻ってもう一度投げたい。……しかし、おそらく休養のまま引退の運びとなると思います。……優勝の喜びに浸らせていただけたことを心から感謝しています。長きにわたって、ほんとうにありがとうございました。あっという間の八年間でした」
 タオルで目を覆った。拍手が湧き、だれかれとなく肩を抱いた。山中は水原監督の手招きでインタビューマイクの前に呼ばれ、同じことを言った。
「よくやった!」
「剛速球、忘れへんぞ!」
「じっくり静養しろ!」
「コーチで戻ってこい!」
 スタンドから暖かい声がかかる。川上監督と王と長嶋がやってきて、握手し、肩を叩いて、一塁ベンチへ去った。山中は彼らの背中に律儀に頭を下げた。


          五十四

 十月一日水曜日。朝から大粒の雨。気温も十五度と低い。ランニングは中止して、牛巻坂のつづき。十一時まで書く。
 北村席にいき、新聞を手に昼めしまで座敷でゴロゴロする。端の座敷で幣原がカンナのオムツを替えはじめる。見にいく。からだが大きいことにびっくりする。
「頭の骨がまだぜんぶ閉じてないのでフワフワしてて、ちょっと怖いです。ほーらサッパリした。よちよちよちよち」
 脇を抱えて抱き上げると、ジーッと幣原の顔を見つめる。
「ほんとにきれいな女の子ですねェ。最近寝返りもするようになったんですよ。うつ伏せになると危ないので目が離せません。八時に起きて、十時半に授乳。それから乳母車で散歩。動き出すとすぐ寝ます。散歩から帰ったら粉ミルクで授乳」
「それを三人でやってるんだね」
「奥さんも入れて四人です。オシメ替えは何てことないですけど、夜中の二時か三時ごろの授乳がたいへんです。人工乳になることがほとんどです。四人にかぎらず、子育ての経験のある人はかならず手伝ってくれるので、全体的にそんな苦労じゃないんですが、とにかく夜中の添い寝がたいへん」
 そう言って座布団の上に仰向けに寝かした。首をきょときょと、手足を愛らしく伸縮させる。眠ったので、幣原は台所へいった。イネが交代でやってくる。
「カンナはふだんどこにいるの?」
「離れのベビー蒲団だす。眠ったらいっしょに昼寝でぎます」
「直人はカンナをかわいがる?」
「とぎどぎ頬っぺ突っつくくれで、あまし近寄らねな」
 足木マネージャーから第二戦をあしたに順延する旨電話で通知があった。あしたあさってと三戦まで行うと言う。その翌日は広島へ飛んで土、日と二連戦だ。四日から西へ東へ一週間の遠征に出て、帰名したら日本シリーズまでほとんどホームだ。それを考えるとホッとする。
「菅野さんは?」
 女将が、
「ムッちゃんの引越し」
「あ、そうでしたね」
「和子と千佳ちゃん連れて出かけたわ。耕三さんもいっしょ」
「わざわざお父さんまで。雨の中、たいへんだな」
「午後から小降りになるようなことラジオで言っとったよ」

 
神無月神がかり! 
 
打率6割5分8厘・148本塁打・337打点
 百十三試合が終わった。九十四勝十四敗五分け。勝率八割七分零厘。まだこの数字はこの世のものだとうなずくことができる。一リーグ時代は大阪タイガースの八割二分九厘があり、二リーグ分裂後は南海ホークスの七割五分零厘がある。しかし個人成績のこの数字はどうだろう。四百四打数二百六十六安打。六割五分八厘。三百三十七打点。この世のものではない。彼のホームランには、私たちは無理やり免疫を作った。おそらく天馬は王貞治に輪をかけたホームラン打ちの職人なのだろうと納得して。しかし、この虚構のような打率と打点に免疫ができるだろうか。
 神がかり。デッドヒートがない。神は絶対物であり、競争などしないと言えばそれまでだが、われわれ庶民は〈競り合い〉を目撃して興奮したいという平凡な願望がある。神無月郷が人に戻る日―辛抱強くそのときを待つしかないのか。それぞれの数字が半分になる日を待つしかないのか。そうすれば、彼は少なくともホームランだけで傑出した存在となり、打率と打点ではデッドヒートに巻きこまれるだろう。
 とは言え、われわれは絶対物を崇拝する。巨人・大鵬・卵焼き。世界に誇る神無月郷が人に戻ってほしくないという気持ちも一方にあるのだ。彼を抑えるために各チームのピッチャーが研鑽を積み、また彼の背中を追うバッターが研鑽を積み、球界全体のレベルアップにつながるという期待からだ。その期待を実現するためには、彼を天上から地上の土俵に引きずり下ろす方策が立てられなければならない。さもなければ、球界こぞって腕をこまねきながら、天の霹靂が収まるのを無力な目でやりすごすだけになるだろう。
 神でさえ工夫し、努力している。神無月がインパクトに入る直前に、微妙に足の位置やスタンスを変えていること、あるいは巷間につとに聞こえた鍛錬の苛烈さはご存知だろう。あれしかない。神の研鑚には人の研鑚をもって対抗する。即刻十一球団足並を揃えて、少なくとも神無月に倍する研鑚に傾倒しければならないということだ。


 
小川二十二勝 二度目の沢村賞当確 

 という記事が、私のよりも小さい見出しで載っていた。三十五歳、二度の沢村賞。神無月というマグレと、小川というホンモノ。価値の大きさが見失われている。来年、もし百本のホームランを打てたら、私は自分を信じる。それまではどうしても、この結果が才能のよってきたるところだと確信できない。三十歳で入団して、五年間のあいだに二度沢村賞を獲る男はホンモノだろう。
 昼めし。私は天ぷらきしめんとライス。
「雨が降ると、寝て、食って、セックスするだけだね」
 おさんどんのトモヨさんに言うと、
「そうしてくれると、みんなうれしいんですけど、郷くんはなかなかグータラしてくれませんよね。何やかやいろいろとやってます。休まない人だから」
 ふと思いつき、きしめんをそそくさすすり終えると、
「ちょっと本屋にいってくる」
「ほら始まった」
 傘を差して、名鉄百貨店の丸善書店に行く。万葉集の花に関する本がほしい。それをきょう引越してくる睦子にプレゼントしたい。
 目当ての本は、大学関係の専門書コーナーで見つかった。万葉植物事典。万葉植物を読む、という副題がついている。北隆館。牧野富太郎の植物図鑑を出版した会社だ。A4判五百七十ページ。図版はすべて牧野植物図鑑による、と帯にある。一万二千円。内容から推測して信用できる値段だったので買う。包装して紙袋に入れてもらう。
 席に戻って、女将とトモヨさんに説明する。女将が、
「千佳ちゃんにもプレゼントしてあげんと」
「法律書は図鑑がないでしょう」
 トモヨさんが、
「本屋に連れていって、好きな本を選ばせてあげたら? デートのつもりで」
「そうだね」
 ソテツがやってきて、
「私にもお料理の本買ってほしい」
「ソテツも教科書が必要なの?」
「ないよりはあったほうが何かと参考になります。図鑑のようなものでなく、ただの月刊誌ですけど」
「わかった。今度買いにいこう」
 トモヨさんが直人を迎えに出るのとほとんど同時に、どやどやと主人と菅野たちが引越し屋といっしょに荷物を運んできて、ヨイショ、ヨイショと二階へ上がっていった。カズちゃんと睦子と千佳子もつづいた。痩せた力持ちの男たちが、二度、三度と大物小物の荷物を持って往復する。机と書架が重そうだ。大きな空の水槽を腹に抱えた男が、
「これはどちらへ?」
 髪に雨のしずくをつけた睦子が、木製の台を抱えてやってきて、
「もっと大きくなったら、池に放そうと思うんですが」
「ああ、さっきの池ですね」
「はい。でも小さいうちは室内で飼おうと思います」
 縁側とは反対側の座敷の隅を指定する。柱の脇にコンセントがある。睦子の据えた台に男は水槽をきちんと置き、ふたたび運んできたかなりの量の砂利を敷く。睦子が私に、
「きのうの晩、しっかり洗った砂利です」
 千佳子を呼び、二人でバケツに汲んだ水に塩素中和剤を溶きながら十杯ほど水槽に投入し、人工の草を沈めて、最後にカズちゃんが小振りの金魚鉢に泳がせていた二匹の金魚を水槽の中へ解き放った。睦子は手慣れたふうに酸素循環器を水槽に取り付けた。プラグをコンセントに挿して完了。ぶくぶくと泡が立ち昇る。二匹の金魚が元気よく泳ぎ回る。かわいらしい生きものだ。同じくらいの大きさなので、どちらがキンタロウかわからない。睦子が察して、
「色の薄いほうがキンタロウです。神無月さんは色白だから」
 カズちゃんが蕎麦屋に電話する。私は睦子にあてがわれた二階の新しい部屋へいき、主人や菅野と合流して、小型のステレオセットを据えたり、机の位置を整えたりするのを手伝う。睦子と千佳子も上がってきて、書棚に学術書とそれ以外の本を分類して入れる。買ってきた本のことを言う。
「え! それ、有名な本です。兵庫県の万葉学者で歌人の中嶋信(のぶ)太郎さんが解説してるんです。ありがとうございます。高すぎて手が出なかったんです」
「引越しおめでとうの意味でね」
「おめでたいも何も、郷さんのそばにきたかっただけです」
「居間の紙袋に入ってるからね」
「はい、うれしい」
「千佳子にも今度専門書を買ってあげる」
「ほんと!」
「うん、いつかいっしょにいこう」
 三人の引越し屋が遠慮した目で私たちのことを見ていたが、菅野に何か確認するようなことを語りかけ、菅野がうなずくと男の一人が、
「あのう、神無月選手、サインいただけますか?」
「いいですよ」
 お仕着せの下のワイシャツを示し、油性ペンを差し出して左胸を指差した。
「みなさんですか?」
 三人がうなずく。私は文字が染みないように素早く書いた。
「ありがとうございます!」
 いちばん年配の男が、
「人間になど戻らないでください。スーパーマンでいてほしい。そうでなければ私たちの希望でなくなります」
 今朝の新聞のことを言っている。彼らはワイシャツを労わるように制服のチャックを閉めた。
 希望? バッターという職人は、攻撃者の知恵を読み取り、侵入のコースを予測し、スピードを嗅ぎ当て、迎撃する。それ以外のことを考えようとしない。そんな小さな世界に生きている人間をスーパーマンと呼んで崇めてはいけない。スーパーマンは勧善懲悪という倫理の世界に関わっている。そのための超人力であって、正義の成就という目標がある。正義とは縁のない個の技芸の練磨をしているだけの職人の目標は、職人個人の充実であって、そこでデッドエンドだ。彼らのどこにも、集団が希望を託せる要素はない。職人の達成が第三者に美的な感激をもたらすことはあるかもしれない。しかし、第三者の感激が職人の心理的な満足に結びついたとしても、それは究極の目標ではない。技芸の達成だけが真の目標だ。そんな人間に向かって、
「あなたは私の希望だ」
 と言えるだろうか。希望とするべき人間は、カズちゃんたちのような、個の達成を願わないで包摂的な愛情を注ぐことのできる人間だ。
 業者を交えて引っ越し蕎麦が振舞われる。天ザル。女将が、
「山口さんからイタリア土産が届いとるよ。ステージの上に積んどいたでね」
 ソテツとイネが運んでくる。私の文鎮は、鶯色をした平べったい天然石だった。石の種類はわからない。睦子はカントチーニビスケット。素子が、
「カントチーニってどういう意味?」
「齧るときのコリコリという音のことです。イタリアではビスケットのことをカントッチとかビスコッティて言うらしいの。親戚の叔父さんがイタリア旅行の土産で買ってきてくれたことがあったんです。小麦と砂糖にアーモンドや乾燥フルーツを練りこんで、二度焼きした硬いビスケット。コーヒーに合うんです。あとで食べましょう」
「なんで呼び方が二つあるの?」
 私が訊くと、
「カントチーニはコリコリ、ビスは二度、コッティは焼くという意味です。二度焼きコリコリ」
 女将が、
「ムッちゃんは学者やね」
 主人が、
「大学者になってや。万葉公園巡りはいつからかの」
「巨人戦が終わってからです。きのうの試合を観にいけなかったから、あと二試合はどうしても観ます」
 ずるずる蕎麦をすする音が部屋に満ちる。引越し屋の若い男が、
「広島戦が終わるまでに、百五十号いくといいですね」
 サインを求めた中年が、
「江藤が六十号、王が四十一号ですから、百四十八本というのは信じられない数ですね。あと十七試合か。どこまでいくんだろうなあ。一試合に一本として、百六十か……」
「そううまくはいきませんよ。それ、カズちゃんのスパゲティ?」
「あら、そうみたいね。さっそく今夜作りましょう」
 幣原がやってきて、梱包を受け取った。
「欧州は硬水なので塩を入れて茹でなくてもかまわないんですが、日本だと少し入れないとだめですね」
「欧州という言葉はいい響きだね」
 千佳子が幣原に、
「何のために塩を入れるんですか」
「下味をつけてしゃきっと引き締め、ヌルヌルするのを防ぐためです。塩は澱粉が糊みたいになるのをじゃまするんです」
 イネが、
「ソテツちゃんと幣原さんも料理博士だおんた。これ、素子さんの石鹸でねが?」
 ソテツが、
「そうね、けっこう入ってるみたい。あとで一つもらおうっと」



(次へ)