五十五 

 菅野が、
「神無月さん、お嬢さん、きのうは秀樹に立派な自転車を買っていただいて、ありがとうございました。夢中になって遅くまで乗り回してたそうです」
「よかったね。もっぱら散歩用だ。高校も西高に歩いていくんだろうから」
「西高に受かればいいんですけどね」
「受かるさ。何気なく」
「神無月さんとお嬢さんのいった高校なので、いってくれると、なんだかうれしいですけどね」
「学校なんてどこにいっても大したちがいはないけど、そういう連帯感が学校の効能なのかもしれないね」
 睦子がうれしそうに図鑑をぺらぺらやっている。カズちゃんがやさしい目で見つめる。
「そろそろトモヨさんと直人が帰ってくるね」
「そんだ、おやつ用意しねば。直ちゃん、蕎麦はまだ無理だすけ」
 三人の男たちが割箸を置いて立ち上がった。
「ごちそうさまでした。神無月選手、サインありがとうございました」
 睦子が、
「お手数かけました。余分な仕事までしてもらって、ほんとに助かりました」
 深々と頭を下げる。
「サービスの一環ですから。またご用の節はどうぞよろしく。佐川急便はこの五年、大阪から西へ営業を拡大してまいりましたが、これからは中部地方から北海道まで拡大する予定です。ご贔屓のほどよろしくお願いいたします」
 中年がコマーシャル調の口上を述べて、名刺を主人と女将に渡す。一家で式台まで送って出る。入れちがいにアヤメの中番の女たちとトモヨさん母子が帰ってきた。背中にカンナを負っている。抱き上げて直人にキスをする。引越し屋の背中が庭に消えたのを確かめてトモヨさんにもキス。
「雨、まだ強い?」
「午前よりはだいぶ弱くなりました」
 菅野が、
「雨の中たいへんだったでしょう。車出さなくてすみませんでした」
「ムッちゃんの引越しがきょうの菅野さんの仕事です。からだは二つないんですから」
「じゃ、私いってくるね」
 カズちゃんが傘を差してアイリスに出かける。千鶴が焼き上げたパンケーキを持ってくる。
「オヤツやよ、直ポン」
「ホットケーキ! ホットケーキ!」
 ソテツが、
「トモヨ奥さん、蕎麦は伸びちゃったので、温かいうどんにしますか」
「ええ、そうして。引越しうどん。海老天載せてね」
「はい」
「その前にカンナにお乳をあげるわ。オムツも心配だし」
 幣原が、
「散歩の前に一度替えておきました」
「あら、ありがとう。お散歩、雨の日はいいんですよ」
「どんな日もカンナちゃん喜びますから。直人ちゃんもそうでした。散歩好きは神無月さんの血です」
 千佳子が、
「おろしろーい」
「私、ちょっと勉強してきます」
 睦子が図鑑を持って二階へ上がっていった。主人が、
「勉強といえば、優勝会のとき足木さんが、来年から広報の仕事もやることになったので、消化試合の期間を利用して、二週間、アメリカのドジャースに合流して勉強してくると言っとりました。日本シリーズには間に合って帰ってくるそうやが」
「それでこのところ彼の姿を見かけなかっったのか。広報の仕事って何ですか」
 何度か人に問いかけた質問だ。菅野が、
「チームのPR、ファンへの対応、ファンレターの処理の仕方とかね」
「そんなことはいままでも彼はやってますよ」
 主人が、
「外国人選手の獲得と世話ゆうのもあるんですわ。好成績を残したときは契約金の吊り上げ交渉は当然として、日本人選手とちがってインセンティブゆう出来高契約を結ぶことが多いんです。三割打ったら百万円とかね。あとあとの面倒を避けるために、綿密な契約書作りが仕事になります。外国人選手との交渉の窓口になるのも広報の仕事なんですよ。退団のときには、いっしょに部屋の片づけもしなくちゃいけません」
「足木マネージャーの英語力は?」
「天知監督直伝で、ドラゴンズ一やそうです。独学もかなりしたらしい」
「もともと記憶力のいい人ですからね。外国人選手が即戦力にならない場合、足木さんはつらいことになりますね」
 菅野が、
「そうなると、とっとと帰ってもらうか、チームに残留して日本人選手の教育をしてもらうか」
「半田コーチのバックトスぐらいしか知りませんね。使い物にならないとわかると、今年のフォックスみたいに、ほとんど帰国させてしまいますよね。金のむだのような気がします」
 主人が、
「たしかに役に立つ外人はめったにおらんのです。昭和四十年の西沢監督の時代、一年間だけホイタックゆうピッチャーが中日におったんですが、十八試合に投げて二勝三敗、防御率も三点台でパッとせんかった。ところがこの男が近藤コーチに投手分業制を教えたんですわ。リリーフ板東はその走りやな。次の年には、小川、山中、板東、水谷寿伸、河村保彦の五人で六十四勝挙げましたよ」
「へえ!」
「全員十勝そこそこ、チームは二位でしたけどね。翌年小川は爆発して、二十九勝、沢村賞です」
「すごい貢献度ですね。そういう外人もいるんだ」
「まあ、ほとんどが箸にも棒にもかかりませんけど、そういうことを考えたら完全に外人獲得をやめるというわけにもいかんのですわ」
 菅野が、
「南海のブレイザーは、野村にシンキング・ベースボールを教えたそうですしね。野村の場合、もともと頭がよかったんだと思いますけど」
「日本人に影響を与えたゆうことでは、スペンサーゆう選手もおりますよ」
「去年まで長池と三、四番を打ってた人ですか」
「はい。サイクルヒットゆうのがとんでもない記録だと初めて日本のマスコミに教えたんは彼ですわ。四年前です。その年、野村と三冠王争いしとって、各チームのピッチャーが外人には獲らせん、日本人に獲らせるんや言うて協力し合って、オリオンズの小山なんかスペンサーを八打席連続で歩かせた。南海戦でも歩かされて、バットを逆さにして構えたのは有名な話です。去年の長嶋の素手のバッターボックスはそのバリエーションやね。神無月さんは投手や捕手の癖を見抜く達人と言われとりますが、スペンサーもそれで有名でした。ボデータックルゆう悪いことも流行らせたけどね」
 ホットケーキに満腹した直人が私の膝に乗ってきた。鼻を寄せて髪のにおいをかぐ。いい香りだ。
「雨で保育所つまんなかっただったろう」
「たのしかった。しんゆうコウキとおにごっこした」
「だれともケンカしなかったか」
「しなかった」
「そうか。いい子だ」
 いつまで経っても人の迫害ばかりが気にかかる。直人は千佳子の膝へ移っていき、胸を揉む。
「あは、直ちゃん、くすぐったい」
 ソテツ、イネ、女将と移っていって同じことをする。みんなさせるままにしている。
「ばあばのやわらかい」
 蛯名のバンに送られて早番のトルコ嬢たちが帰ってきて、
「直ちゃん、私のも品定めして」
 言葉の意味もわからず、かたい、やわらかい、と呟きながら次々と揉んでいく。女たちは、ホホホ、アハハ、と身をよじって笑う。千佳子が、
「新聞に載ってたけど、ジムを自宅に作ってるのは神無月くんだけだと思ってたら、あにはからんや」
「うん、ぼくだけじゃない。小川さんは洋間にジム用品を転がしてあるそうだし、木俣さんは―」
「そう、木俣さんのことが書いてありました。木俣さんは三年前に、庭にウェイトリフティング場を作ってたんですって」
「だってね」
「バーベル、ダンベル、膝を強化する器械、一式揃えてあるらしいです。総費用二百万円」
「則武の二倍だ。根性こもってる」
「今年、家を新築して、大きな庭にマシンを入れて打撃練習場を作ったんですって!」
「プロ根性もそこまでいくと徹底してるね」
「タイヤも立ててるらしいわ。それだけじゃないの。練習場の脇にサウナ、腰痛の治療のための牽引器を置いた小屋、地下にはスイングチェックのための鏡の間まで作ったって。総工費一千万」
「ふうん、そうなると、もう趣味人だ」
 菅野が、
「肘の衰えは本人も自覚しているらしくて、このあいだの優勝会でも言ってましたが、奥さんが肘に針を打ってるらしいです」
「え! 妻帯者だったの。肘が悪いことも含めて初耳だ。私的なことは、人はなかなか口にしないものだね」
 千鶴とソテツがコーヒーをいれて運んできた。イタリアのビスケットが出される。睦子も呼ばれて降りてくる。
「直人、硬いぞ。噛んでみるか」
 直人は歯を立てたが太刀打ちできないのであきらめた。噛んでみると、南部煎餅より少し硬い程度だ。固パンに近い味。甘い。
 中番のキッコや優子や百江が帰ってきたのと入れ替わりに、丸たちアヤメの遅番組が出かけていく。みんなでコーヒーを飲み、ビスケットを齧る。キッコが、
「うまいわ! イタリア人は贅沢やなあ」
「キッコはいまから学校?」
「ほう、大検と関係なく学校には出席せんといかんのよ。六時から授業開始やけど、その前一時間がお弁当の時間なんよ。そんなもん食べんでええさかい、いつも六時から出とる」
「自転車でどれくらい?」
「二十分。ここ五時半に出る。ソテツちゃんのお弁当をわざわざ持っていくより、早めの晩ごはんをソテツちゃんに作ってもらって、ここで食べたほうが時間のむだがないわ」
 睦子が、
「時間割はどうなってるんですか」
「土日なしの月金で、一日四コマ。英数国理社を週に二コマずつ、合計二十コマ。授業は義理で受けとるだけや。ふだん家で五科目の勉強しとる。今年検定受けてまう」
「何月ですか?」
「八月と十一月。どっちでも好きなほう。八月は受けんかったから、十一月やね。試験は二日連続。十一月に合格した科目は、来年の八月には受けんでもええし、十一月に全科目受かってまったらそれで高卒資格はOK。いつでも大学受けれる。十一月の検定試験の出願が八月から九月にかけてやったさかい、タイムアウトぎりぎりやった。お嬢さんが今年の十一月に受けてまえ言ったさかい。……全科目受かるはずないと思うわ」
「もし何科目か残したら、来年の八月の試験の出願は?」
「四月から五月にかけて」
「全科目受かったら来年名大合格、何科目か落としても、再来年の名大合格は確実ですね」
「大学はそんな簡単なもんやないわ。……受かりたいけど」
「そうなるわ」
「二十四歳で。アハ」
「勉強に年齢は関係ありません」
 ソテツの手でキッコに早い夕食が用意される。優子が、
「今夜七時からNHKニュースで、ピッタルーガのダイジェストをやりますよ。三分程度でしょうけど。テレビガイドに載ってました」
 キッコが、
「それ、観たいなァ」
「十一時にもう一度ニュースがあります」
 幣原が応える。主人が、
「十五分のニュースの中の三分は、かなりのもんだがや」
 女将が、
「去年なんか、ピッタルーガのピの字も紹介もされんかったんやない?」
「日本人が出場せんかったからやろ。ことしは日本人初出場の山口さんが優勝したもんで大騒ぎや」


         五十六

 キッコが出かけ、トモヨさん母子とカンナを抱いた女将が百江や優子といっしょに風呂へいった。
「お父さん、ソテツの高校の件、よろしくお願いします」
 私が言うと、
「そのことなんやが、思い切って昼間の高校に三年間いったらどうかと思うんやがな。賄いは晩めしがメインやろ。ソテツがおらんと扇の要が抜ける」
 睦子が、
「そうですね。学校のお仲間より少しお姉さんになっちゃうのが気詰まりでないなら、そうしたほうがいいかもしれないわ。どう? ソテツちゃん」
「はい、なんだかうれしいです」
 千佳子が、
「そういうのは過年度生と言って、定時制や帰国子女に多いんだけど、昼間部でも何の問題もないわ。あと数カ月の勉強じゃ無理だから、来年一年がんばって勉強してからね。塾にいったほうがいいと思う」
 睦子が、
「河合塾に高校受験コースがあるのよ。週に一回、土曜日、朝十時から六時まで、英数国理社ぜんぶやるの」
 千佳子が、
「それ、いいじゃない。やってみたら」
「はい!」
「たいてい一月に申込で、四月に授業開始だと思う」
 私は、
「申込はカズちゃんについてってもらえばいい。お金は心配しなくていいからね」
 カズちゃんが、
「ついてってあげるわよ。心配しないで」
「ありがとうございます。千鶴さんは来年夜間にいくんですよね」
 千鶴が、
「そう、三月に。キッコちゃんと同じ中村高校。昼間部じゃないから試験なし」
 風呂上りのトモヨさん母子や女将や、百江や優子たちが食卓につき、アイリスから帰ってきた素子やメイ子たちも食卓についた。カンナは主人夫婦の脇の座布団に寝かされた。洗い髪の優子と百江が主人と菅野にビールをつぐ。おさんどんが始まる。
「さあ、山口さんだ」
 みんなで箸を動かしながらテレビの画面を見る。中国地下核実験やら、宇宙開発事業団発足やら、フジテレビをキーステーションにするフジネットワーク発足やらのニュースのあと、今週の話題と銘打って、ピッタルーガの大ステージが映し出された。食卓から拍手が上がる。国際的音楽コンクールにおける日本人初の快挙と放送される。優勝楯を授与される山口の姿。黒いスーツを着ている。
「昨年開催一年目にして世界的権威と目されることになった、このピッタルーガ国際クラッシックギターコンクールにおいて、みごと優勝の栄冠を手にしたのは、初出場の日本人男性でした。いま画面に映っている山口勲さん、二十歳です。東大コンバットマーチの作曲者としてもその筋に知られているかたで、昨年秋に東大法学部を中退し、ほぼ一年にわたる修練を積み重ねたのち、国内の主立ったギターコンクールに出場、すべての賞を総なめにしたという実績の持ち主です」
 メディアの関心は、山口の才能ではなく、日本人であり、しかも東大中退というところだった。コンテストでいちばん重視されるのは話題性で、いちばん軽視されるのは才能だとわかり愕然とする。山口は天才とも鬼才とも異才とも紹介されず、日本人であり、東大中退であることだけを繰り返し喧伝された。スポットライトの下で山口が弾くギターの美しい音色は、数秒聞こえてきただけだった。私はテレビの画面から眼を逸らし、めしを食うことに集中した。
「ぼくの紹介のされ方とちがうね。天才という言葉が一度も出てこない。ピッタルーガの権威と、山口がその権威を征服したことにしか関心がないようだ」
「残念ね……天才って怖い言葉だし、悔しい言葉だもの。でも、あっという間に有名になるから、これからはうるさいほど言われるようになるわ」
 カズちゃんが言うと睦子が、
「一般の人が価値を認めるのは、努力しても得られない才能より、努力目標になる肩書なんですね。東大なんて……。天才は、何百万人何千万人に一人、日本に百人もいないでしょう。肩書のある日本人は何千万人もいるし、東大には一年間に何千人も合格します」
「それでも東大は日本最高の権威よ。これからも変わらないわ。どんな形でも認められるのはいいことだと思いましょ」
 千鶴が、
「早くレコードが出んかなあ。じっくり聴きたいわ」
 睦子が、
「三日にドイツグラモフォンから記念アルバムが出ます」
「ワシは十枚注文した。保存しとく」
「来月は日本グラモフォンから、スタジオ録音のデビューアルバムが出ます。千佳ちゃんと五枚ずつ予約しました。―山口さんは天才です。それをいちばんよく知っているのは山口さん本人です。だれも言わないなら、私たちがいつも言ってあげなければと思うでしょうけど、郷さんと同じように山口さんも、自分のことに無関心な天才です。人が言うとうるさがります。二人には天才であることが何の価値もないから」
 ソテツが、
「自分が天才であることに無関心でいられるのって、すごいですね」
「すごいと思います。自分のしたいことだけに没頭して、評価を忘れるんですから―だから千鶴さんみたいに、じっくり聴きたいというほんとうのファンが増えるんです」
 菅野が、
「ただホームランを見たい、だね」
「はい。ホームランを打つことが郷さんにとってすべてだし、山口さんはギターを弾くことがすべてです。二人はそれを見てほしいだけです」
 カズちゃんが、
「好きなことをしてるだけなのに、コンテストが付いて回るのはつらいところね。勝ち抜きでのし上がることは天才に似合わないけど、若さと才能に注目されてるうちは、そうなる宿命なんでしょうね。山口さんもコンテストがなくてもデビューできるなら出場しなかったでしょうけどね。もともとコンテスト好きの宮本武蔵みたいな人もいるけど、才能があるせいで戦うと勝ってしまうから、次々と挑戦者が現れる。宮本武蔵がコンテストをくだらないと思って落ち着くことができたのは、かなり晩年よ。自分の才能やそれに対する評価に関心がなくなったからね。キョウちゃんや山口さんのように、若いうちからそういう晩年の気持ちでいる天才に敵う人なんていないわ。さ、お風呂に入ろうっと」
 哺乳瓶を持ったイネがカンナを抱いて離れに退がった。私は式台に出て、グローブとスパイクを磨く。直人が傍らでじっと観察していた。
「おとうちゃん」
「ん?」
「ぼく、やきゅうせんしゅになる」
「そうか。じゃ、小学生になったらゴムボールじゃなく軟式ボール、中学生になったら硬式ボールでいっしょに練習しよう。野球部には小学校五年生から入りなさい」
「うん!」
 私の言葉の意味もわからず、元気よく返事をする。トモヨさんがやってくる。
「さあ、寝なさい。子供は早寝早起き」
「はーい」
 トモヨさん母子が去ると、私は式台からもう一度食卓に戻って、ビールに加わった。
          †
 十月二日木曜日。則武で七時半起床。快晴。十九・七度。うがいからジムトレまで一連のルーティーン。バーベルは百キロを五回やった。腹具合が悪く、二度下痢をした。朝めし抜き。菅野に連絡してランニングも中止。
 昼めし北村席で天ぷらきしめん。芝庭で素振り百八十本、三種の神器。少し気分が落ち着く。様子を見守っていた菅野に、
「きょうはごめん。腹具合が悪くて、走っているうちにおかしくなるのがいやだったので」
「このごろ朝冷えこみますからね。きょうから厚い蒲団にするようお嬢さんに言っておきます。やっと顔に血が差してきましたよ」
 対巨人二十回戦。六時試合開始。十九・八度。風がかなりある。おとといと同様、レギュラーの一部は後発。江藤、私、木俣の三人。巨人の先発浜野百三。成績は四勝二敗で中日時代のまま。中日の先発は水谷寿伸、四勝零敗。
 試合開始三十分前にソテツ弁当をしっかり腹に入れる。
 予想に反して投手戦になった。王四十二号ソロ、中二十二号ソロで、一対一のまま九回まで両チーム凡打を繰り返し延長戦に入る。八回四番伊熊の代打で出た私は、ノーアウトランナーなしから敬遠気味の外角高目のボールを叩いて左中間奥へフライ。十回から両軍ピッチャー交代。巨人城之内、中日門岡。十回、十一回と両チーム無得点。その間私は十一回ワンアウト一、三塁から浅いライトフライ。犠打ならず。後続も凡退。
 十二回表。長嶋看板直撃の二十六号ソロで一点追加。二対一で十二回裏に入った。まだ八時四十分。一番中からの打順。
「利ちゃん、何かやって!」
「サード、サード!」
 中日コーチ陣の声に脅されて長嶋が三塁ベース横につく。セーフティバント警戒だ。中は初球、二球目とセーフティの格好をして巨人内野陣を揺さぶり、三球目内角低目にきたストレートをしたたかに叩き上げて、ライトスタンド中段へ二十三号同点ソロ。サヨナラの予感で球場全体がざわめく。
「モリも何かやって!」
「サード、サード!」
 長嶋は動かない。中日ベンチに笑いが充満する。高木ワンツーから低目に食いこむシュートを打たされてショートライナー。
「慎ちゃん、好きにやって!」
「江藤さーん!」
 一塁側スタンドに嬌声が上がる。睦子と千佳子たちだ。江藤ツースリーから外角カーブを打ってライト前ヒット。まるで決勝打を放ったみたいにバンザイしながら一塁へ走る。スタンドを揺るがすいっせいの拍手、声援。鉦、太鼓が追いかける。木俣はネクストバッターズサークルに入るのも忘れてベンチから私を見守る。水原監督が両手を腰に当て、ライトスタンドを眺めている。
 初球、城之内はいつもより球速を落として外角に変化球を投げてきた。ベースをすれすれに外れるカーブだ。振りにいっても微妙にタイミングを狂わされている。
「ボー!」
 二球目、腰のあたり内角いっぱいのストレート。球二つ外れている。
「ストライーク!」
 ―え?
 ありがちなコールだ。私がからだを引かなかったせいだ。敬遠するつもりはなさそうだ。三球目、外から外へ落ちるカーブ。ボール。ゆるすぎて、セッセッセー、ドン、のリズムに合わない。もともと得意なピッチャーではない。工夫が必要だ。問題はバットを振り出すタイミングだけ。中がほとんど両足を固定して打ったことを思い出す。足幅を広げ、オープンスタンスで低く構える。次はスピードを乗せたストレートだろう。セー、ドンで打とう。
「そうきましたか、神無月さん」
 森の声。
「当たってないので、何でもやってみます」
 四球目、首の高さの快速ストレート。ボール。きょう初めての速球。いい攻めだ。ワンスリー。森のサイン出しが長くなる。狙いはゲッツーだとわかっている。真ん中から外へ逃げるシュートだな。ストレートのタイミングはしっかり計ったので、次が変化球でも打てる。五球目、外角ぎりぎり外れるストレート。振る。三塁スタンドへファール。ツースリー。木俣はまだウェイティングサークルに入らない。オープンスタンスにとる。長いサイン。森は内角に片膝を落として低く構えた。ミエミエのカムフラージュ。決め球は外と決まった。六球目、外角低目へスピードの乗ったシュート! オープンをクローズドに戻しながら踏みこみ、強振。田宮コーチの声。
「ヨォォォーシ!」
 水原監督がレフトスタンドへ真っすぐ両手を突き出した。スタンドの悲鳴。ベンチの怒声。
「そりゃ、サヨナラ!」
「サヨナラァ!」
 ラインドライブした打球がレフトのポールを巻いて中段に飛びこんだ。高田がぼんやり見送った。長谷川コーチとタッチ。
「神無月選手、百四十九号のホームランでございます」
 王の声も長嶋の声も聞こえてこない。水原監督と強いハイタッチ。ホームインして待ち構えている江藤に尻をパンパン叩かれる。怪力の菱川と木俣に両脚を抱え上げられる。巨人守備陣がベンチへ引き揚げていく。球審が右手を挙げ、ゲームセットの宣告をした。
 川上監督がベンチから腰を上げない。王や長嶋や、脇に控えているコーチ連中といっしょに、下通のアナウンスに耳を傾けている。
「中日対巨人二十回戦は、ごらんのとおり二対四をもちまして中日ドラゴンズが勝ちました。勝ち投手門岡、敗け投手城之内。本日は最後までご観戦いただき、まことにありがとうございました。お帰りの際はお忘れ物のございませんよう、またお手近のゴミ、煙草の吸殻等は、所定の場所にお捨てくださいますようお願いいたします。明日(みょうにち)中日対巨人二十一回戦の試合開始時間は、午後六時半でございます」


         五十七

「浜野はいいところで引っこみましたね。そこそこ投げたし」
 ハンドルを繰りながら菅野が言う。主人が、
「先発の控え選手をほとんど抑えたんやからな。なんのかんの言っても、もと中日のドラフト一位なんやから、この調子でがんばってもらわんと。フロントも放出したことを後悔する楽しみがないやろ」
「言いますねえ。ま、秋と春のキャンプが正念場だと思いますよ。それにしても門岡の四勝目は大きいですね。シリーズにつながるんじゃないですか」
 仲間を三人ずつ乗せた素子と千佳子のローバーが、セドリックの前後を走る。前方を見つめたままでいると、バックミラーで私の視線に気づいた菅野が、
「神無月さんの周りの女の人たちを見ていると、胸が熱くなりますよ。人間がここまで一途になれるものかって」
 主人が、
「男だって一途になるからな。ときどきワシも、寝床で涙が出てくることがある。神無月さんの顔を思い出しただけで胸が痛くなるんだよ。息子でもない、同朋でもない、愛人でもない、何なんだろうってね。おトクもそうらしいわ。神無月さんがホームランを打って三塁を回ってくるたびに、水原監督が抱き締める気持ちが痛いほどわかるってな」
 菅野が、
「神無月さん、試合が終わったあとは、何を考えてるんですか」
「いつも同じです。いまここにこうしているのは、どう生きてきたからだろうって。ものごとがうまく回るようになってからいつもそう思うようになりました。むかしはそんなこと考えもしなかった。幸せすぎるんですね。幸せすぎるから、いまを疑い、過去を振り返る。人間というのはもっと不幸でないと、未来を思う集中力を欠きます」
 菅野が、
「……神無月さんが幸せすぎるとは思いませんよ。からだが過去を思うようにでき上がってる人です。過去を思いながら、いまを一生懸命生きるようにでき上がってる。私たちはその恩恵を受けてるんです。神無月さんが不幸になって未来のことなんか思われた日には、私たちがたまらない。置いてけぼりです。……過去と言ってもすぐ過去のことは……終わったばかりの試合のこととか、打ったホームランのこととか、そういう、少し前のことは思い出さないんですね」
「……没頭していたことは思い出しません。何かに没頭していないときいつも頭に浮かぶのは、なぜここにいるのか、あとどれだけここにいられるのか、その二つです。そこへ周囲の人たちのことや、長く会っていない人たちのことが紛れこんでくる。胸がいっぱいになります」
「……ワシは、できれば神無月さんに日ごろそういう張り詰めた気持ちで生きてほしくないなあ。たしかに人間としてすばらしいことやとは思う。しかし、仕事をしておらんときぐらい、何もかも忘れてのんべんだらりと生きてほしいんですよ」
 菅野はこっそり目を拭い、
「社長、神無月さんが張り詰めるのは野球をするときだけです。そのほかの時間は、私たちのためにだらっと生きてくれてます。……神無月さんはすばらしい人です。私たちが思ってるよりずっとね。山口さんも、お嬢さんも、みんなわかってます。……私たちみたいな凡人からは逃げてくれてもいいのに、神無月さんは逃げない。身の振り方を私たちに決めさせるんです」
 菅野はもう一度目を拭った。主人も鼻をすすりながら、
「神無月さんのやさしい気持ちはわかっとるけど、それでもワシはしがみつくよ」
「そうですよ、社長、そういう気持ちでいれば、神無月さんはずっと私たちのそばにいてくれますよ」
 思わず涙が流れてきた。
「そんなやさしい言葉をかけられたら、長生きして迷惑をかけますよ……ぼくは……いままでだれ一人、自分以上に愛したことがなかった人間です。人は自分で自分を愛する以上に他人から愛されると、最高の喜びを得ます。その喜びを人に与えられない……みんなそんなふうにぼくから愛されないさびしさを渋々受け入れてきたと思います、こいつはそういうやつなんだって。でも……北村席の人たちだけはちがってました。ぼくのことを愛のない人間だなんて思わなかったし、言いもしなかった。初めてでした。そんなことを思いも言いもしないで、ありのままのぼくを受け入れてくれた……それでいいって」
 菅野が、
「神無月さん! 私たちこそ自分のことで精いっぱいの人間なんですよ。だから私たちこそ神無月さんにすがって迷惑をかけますよ。神無月さんに悪いと思いますけどね。神無月さんはどこにもいけず、私たちを支えなくちゃいけなくなる。それでも図々しく、ここにいてくれと無理強いしたいんですよ。ここいて支えてほしいんですよ。……神無月さんの代わりに、健康で常識的な人間が私たちのそばにいるとしますね。悩みごともささやかなもんです。月々いくら稼げるか、将来大物になれるだろうか、旅行の予算が多すぎないか、喧嘩はストレスのもとだから穏便に暮らしたいとかね。……そんな人間は支えにならないんです。神無月さんの不思議な非常識と悩みごとに、驚いて、わくわくして暮らしたいんです。それを見たり聞いたりしながら、神無月さんとつるんで暮らしたいんです」
 私はユニフォームの袖で涙を抑え、
「西松の飯場に入って以来、ずっと驚きつづけてきましたけど、北村のみなさんは極めつけです。幸せです。ああ、ユニフォームが汗だらけだ。幸せに生きてるんですねえ。しっかり幸せに生きて汗をかいたんだ。ゆっくり風呂に浸かって、さっぱりして、コーヒーを飲もうっと」
 二人の中年男は声を上げて笑った。何千人と知り合っても、愛することのできるかぎられた人たちがいて、彼らとだけ自然と微笑み交わし、おたがい飽きずに同じ言葉をかけ合うことで、自分のありようを絶えず決定する。きのうからきょう、きょうからあしたへ刻々と変わっていく人生を、きのうと寸分も変わらないものと信じ、手離せない最善のものだと信じる。そういう人びとがいる。愛の人びと。永遠に? きっと。
         †
 十月三日金曜日。七時。一人寝から目覚める。幼いころから目覚まし時計で起きたことがない。目覚まし時計をセットしたこともない。自然と目覚める。つまり、起きようと思った時間から寝過ごしたことがない。起きるまで、身近で物音や人の気配があっても影響されない。三時間、五時間、十時間でも、決めた時間まで眠る。翌日―私のささやかな未来はそれだけだ。
 曇。少し冷える。十五・一度。窓から眺め下ろす垣根と庭木の密度がビッシリと濃くなった。うがい、軟便、シャワー、歯磨き。爪切り、耳垢。
 目玉焼きをつつきながら、
「うちの生垣、濃くなったね。しっかり花が咲いた。庭木も育ってきたし」
 メイ子が、
「キンモクセイのオレンジの花って、とてもきれい。サザンカは葉っぱの掃除がたいへんですけど」
「庭に地植えで作った生垣だから、みっしり育ってくれるか心配だったけど、サザンカがうまく効いて隙間なく茂った。キンモクセイは幹がとても太くなる木なので、間隔を空けて植えてあるね。年々もっとみっしりになる。職人がよく考えてる。離れの後ろの孟宗竹もよく育った」
「柿の木もヤマボウシの木も大きくなりました。実が食べごろです。一粒食べたんですけど、干し柿みたいな食感で、神無月さんが言ってたとおり、とても甘くて驚きました。きょうあすにでも捥(も)いでたべましょう。枇杷は育ちが遅いですね」
「葉っぱで枇杷酒を作れるまでかなりかかりそうだね」
 カズちゃんが、
「百江さんの家、シロアリで根太がめちゃくちゃだってわかったんだって。まだ築二十五年よ。粗末な造りの家だったのね。もうとうてい住める家じゃないから、取り壊して地所を売るんですって。老後にはじゅうぶんなお金になるでしょう。ここに越してくるように言ったわ」
「やっと空き部屋が役立ったね。四人家族。家庭の雰囲気が出てくる」
 メイ子が、
「優子さんが神無月さんの世話役にぴったりですよ。百江さんと同じアヤメだし」
「そうね、声かけてみましょ。さびしがり屋の素ちゃんにも」
 とんとん拍子に決まるだろうと思った。
         †
 中日球場。対巨人二十一回戦。
 駐車場から選手通用口までの警備体制が通常どおりになった。松葉会組員たちもいるけれども、その表情から険しいものがだいぶ削れてきた。
 江島、伊藤竜、千原、伊熊と入念にバッティング練習。次に高木時がケージに入ったとき、外野で私の屈伸を手伝っていた鏑木が、
「時夫さんはきょう先発なんですね。彼は浜野百三さんとは北陸遠征以来の大の仲よしでしてね、いまも連絡を取り合ってるようですよ。九年目か。浦和高校という受験名門校から日大。日大では田宮コーチの後輩になりますね。八時半の男宮田とバッテリーを組んで一度優勝しているそうです。三十六年に入団して、三、四年ほど一軍でそこそこの活躍をしてたんですが、木俣さんと新宅さんが現れてからは控えに回っちゃいました。来年からは吉沢さんのあとを継いでブルペンキャッチャーに徹するでしょう。きびしい世界です」
「いいかげん同情のアンテナを張るのはやめたくなりますけど、やめられない。同情するのは失礼だとはわかってるんですけどね。失礼な同情をされても、野球と腐れ縁を断ち切れない人たちにも責められるべき点は多いと思います。投げられない、打てないとなったら、プロ野球選手はすぐさま身を引くべきです」
「……生活がありますからね」
「プロ野球は夢の世界です。夢の世界を現実生活に利用しちゃいけない。現実生活をしている人たちに夢を与えられるかどうかが夢の世界の住人の資格です。現実生活はどこでもできる。生活はフィールドの外ですべきです」
「コーチや私たちのような仕事につける人間は、ラッキーですね」
「はい。フィールドに近い外です」
 一塁側の内外野スタンドが詰まりはじめた。太田と菱川がやってきたので、ポール間ダッシュ二本。
「太田、そろそろホームランいけよ。菱川さんにだいぶ水をあけられただろう」
「八本です。今年は負けですね」
 菱川が、
「それでも二十五本いってる。田淵がいまのところ十五本だ。上出来じゃないか。来年は四十本以上だな」
「はい。田淵は二十四、五本いくでしょうから、俺もあと五、六本打って差をつけておかないと。東京で盛り返します」
 来月の十八日まで中日球場の巨人戦がないとあって、開場したとたんに内外野ビッシリ満員になった。巨人のバッティング練習。長嶋、土井、王が当たっている。水原監督と川上監督がケージの後ろで親しげに話をしていた。水原監督の帽子が大きすぎる。でも愛嬌がある。ロッカールームでソテツ弁当。きょうはすき焼き弁当。美味。
 堀内が三塁側ブルペンで熱心に投げている。きょうも球が走っている。中日ブルペンは小野! シリーズ前に試しに投げてみようという感じなのだろうが、心配だ。
「五回まで五点覚悟だな。どうしても投げてみたいと言うんでね」
 太田コーチが小川と話している。
「いざとなったら星野に助けてもらいましょう」
 先発メンバーの発表。下通の潤った声。風呂上りのサッパリした気分になる。この声ともしばらくお別れになる。あしたあさってと広島に遠出して、六日の午後には東京だ。四日から十日まで一週間の東西遠征になる。あわただしい。
 巨人、レフト高田、セカンド土井、ファースト王、サード長嶋、ライト末次、センター槌田、キャッチャー吉田、ピッチャー堀内、ショート黒江。中日は、センター江島、セカンド伊藤竜、ファースト千原、レフト伊熊、キャッチャー高木時夫、サード葛城、ライト佐々木孝次、ショート日野、ピッチャー小野。
「一回表、読売ジャイアンツの攻撃は、一番、レフト高田、背番号8」
 小野は初回からほとんど無理のない半速球で通した。五回ワンアウトまで投げ、吉田を除いて全員一安打ずつ、打者三巡、四失点で降板した。四点の中には堀内の二号ソロも含まれていた。肩の具合は悪そうに見えなかったし、小野の表情も明るかった。試運転という意味では合格点だろう。中日は四回終了まで江島と葛城の二安打のみ、零点。
 五回表ワンアウト。小野に代わって水谷則博登板。二塁に黒江を置いて、ツーワンから高田をカーブで三振、ツーツーから土井を直球でショートゴロに打ち取る。
 五回裏。千原、伊熊と連続ヒット。ここで高木時が右中間突破の二塁打を放ち、二者が還る。四対二。堀内から三者連続安打。目を瞠った。葛城、佐々木、日野と外野フライでチェンジ。
 六回から八回まで、水谷則博は土井、王、長嶋にシングルヒットを打たれて一点を失いながらも、打者十二人を抑え切った。九回門岡にタッチ。長嶋を二塁に置いて、槌田ライト前ヒット、一点追加。六対二。
 七回裏からメンバーチェンジした中日打線は大爆発せず、江藤(六十一号。マリスとタイ記録)と木俣(四十一号。捕手歴代二位)が九回裏に二発の花火を上げただけだった。私の二度の打席はライトファールフライと、サードライナーだった。きょうの堀内のスピードは、私の目には別次元のものに見えた。
 六対四で敗北。勝利投手堀内、敗戦投手小野。負けたチームはグランドからサッサと引き揚げることができるのがうれしい。



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