五十八             

 江藤の六十一号と木俣の四十一号を祝うために、ロッカールームにコーチ陣の手で缶ビールが運びこまれた。大声で乾杯。ぬるい。いつものようにサバサバした水原監督が、
「これまでの世界記録だったマリスの六十一本を破ることが確実となったのに、金太郎さんをライバルにしなければならない運のない巡り合せで、世界日本ともに歴代二位の記録に終わることになるとはね。江藤くん、悔しいかね」
「いっちょん。この一年間の記憶が一生の財産であることば思うと、記録の一つや二つ、何ほどのもんでもなかです。野村が五十二本打ったのは二十八歳のときばい。達ちゃんは来年、二十六歳で樹立やろう。いずれキャッチャー歴代一位になることはまちがいなかろうもん。そっちのほうがめでたか」
「ありがとス! あと三年以内に五十三本打ちます」
 筋肉マン木俣が缶ビールを差し上げた。宇野ヘッドコーチが、
「二人とも、あしたから一本でも多くホームランを打ってくれ。金太郎さんはもう打たなくていいぞ」
 笑いが上がる。
「というのは冗談。百五十本は打ってほしいな。あしたの広島市民球場は、こっちの移動を考慮して、七時試合開始だ。二時間前に球場に入ればいいわけだが、なるべく世羅別館からみんないっしょに出かけようや。じゃ、あした広島で」
「ウィース!」
 回廊で江藤が近づいてきて、
「あしたの新幹線、何時に乗るか知っとうと?」
「知りません。菅野さんから切符を受け取るだけですから」
「その菅野さんに確認したばい。朝七時二十五分のひかり。それだけまちがわんようにな。八時十二分に新大阪着、そこからはよかろうもん。世羅別館には三時半ごろに到着するやろう。毎度の七時間ちょいの旅たい。帰りは羽田直通やけん、ラクばい」
「遠征も、いよいよあと一週間ですね」
「ほうやな。名古屋から広島へいくのがいっちゃんつらかばい」
「広島の二連戦までは、第四打席から出場ですね」
「ああ、一回か二回しか打てん。大事に打たんばっち気持ちになるばい」
「はい。代打の人の気持ちがわかります」
「わからんでよか。金太郎さんは全打席大事に打っちょるけん。あしたは伊藤久敏と外木場やろうな。乱打戦になる」
「あさっては星野さんと安仁屋。貧打戦ですかね」
「たぶんな。星野は勝たせんばな。百三十イニングいくのは確実やけんな」
「はい」
         †
 十月四日土曜日。六時起床。十四・一度。一面の曇り空。日中も二十度を超えないだろう。北村席でカズちゃんたちと軽く朝食。主人から『青い目で見た人気球団ジャイアンツと神無月郷の孤独』という長い記事を見せられる。記・ニューヨークタイムズ記者スチーブ・アンダーソン。
「悪口ですか」
「まあ、巨人にはね。露骨ではないですがね。神無月郷には大讃歌です」

 ジャイアンツに対するマスコミの取材攻勢はものすごい。メジャーのクラブハウスに も常に何人かの新聞記者はいるが、ジャイアンツには百人以上、それこそ黒山の記者がいつも押しかけてくる。勝とうが負けようが関係ない。今年破竹の進撃をつづけて早ばやと優勝を決めたたドラゴンズのロッカールームには、現在一人の記者もいない。廊下に何人かたむろしているきりだ。
 アメリカのヤンキースファンは、ヤンキースを愛しているというよりも、むしろ敬意を表しているという感じがある。ジャイアンツファンはちがう。彼らはジャイアンツに無垢の愛情を捧げ、ジャイアンツが何をしようが、どう転ぼうが、どう起(た)ち上がろうが、一途にジャイアンツを愛しつづける。
 ジャイアンツの人気は、ヤンキースとドジャースの人気を合わせたくらいすごい。いや、その評価でも過小だと言うべきだろう。ジャイアンツの人気はそんなものではないのだ。ホームグランドの後楽園であれ、遠征先の片田舎の球場であれ、ジャイアンツのゲームには試合開始の二十四時間前からファンが列を作りはじめる。ジャイアンツファンは日本人人口の六割を占めると言われているのもうなずけるところだ。
 ジャイアンツの選手の一員になることは、アメリカ陸軍士官学校の一員になるのと同じようなものという言い方ができるかもしれない。選手は個人的な立場を捨て、ジャイアンツの鋳型(いがた)にはまることを強いられ、まるでロボットのようにきびしく画一的なチームのプログラムに従わされる。さらにコーチの威圧的な態度に耐え、ふつうの人間ならとてもがまんできないような、門限そのほかの教条主義的な規則に縛られる。その《ジャイアンツ法典》とも言うべき規則には、口髭、あご髭、長髪の禁止、遠征時のカジュアルな服装の禁止、団体行動の際のネクタイ着用、キャバレーなどへの出入り禁止、球団フロントの許可なくマスコミのインタビューに応じることの禁止、等々、じつにさまざまな禁止事項が含まれている。
 ほとんどのチームはその影響のもとに大同小異のチーム体制を布(し)いている。そういう全体主義的なプロ野球界の因習の中へ〈革命者〉神無月郷が現れたのである。彼はジャイアンツフロントのみならず、アンチ神無月の市民を向こうに回して穏やかに革新的な抗議を繰り返し、悶着を吹っかけたり危害を加えたりした相手を穏やかにやりこめて、逆に彼らに深い感銘を与えた。
 神無月は自分のことを、ただ野球を楽しくやりたいだけの〈野球小僧〉にすぎないと打ち出す。謙虚からではなく、心の底からそう思って発言していることがだれの目にもわかる。
 彼の最大の特徴は、野球選手としての圧倒的な才能とパワーである。身長百八十三センチ、八十三キロの均整のとれたからだでスイングすると、打球は日本のどんな球場のどんな深い場所へも簡単に飛んでいき、外野スタンドを越えていくこともしばしばである。シーズンが始まって最初の一カ月間で、早くも王貞治の記録に迫る五十四本のホームランを打つと、相手チームの投手は彼との勝負を避けはじめた。広島戦では五回連続のフォアボールで歩かされるくらい徹底したものだった。そこへバット疑惑(川上監督による事実無根の抗議)、刃物を持った暴漢の襲撃、ファンレターによる度重なる脅迫とつづいた。彼は毅然とした姿勢でそのすべてに対処し、寛容な態度ですみやかな問題解決を図った。だれを責めることもなく、逃げ隠れすることもなかった。そういった一連のことが人びとを深く感動させ、彼に言わせると、ようやくプロ野球選手として〈市民権〉を得たという結果になった。
 大スターである神無月郷の不運には胸が痛むが、その不運に屈せずに徳を持って対処することによって、彼は国民ばかりでなく、日本プロ野球界の真の救世主となった。彼はジャイアンツの選手ではない。しかも、大スターでありながら、ジャイアンツの選手でないがゆえに圧倒的な人気者でもない。彼へのファンレターの少なさはつとに聞こえている。スターであることと人気は比例しない。この意味するところは大きい。日本社会の、ひいては、人間社会の矛盾を問うほどに大きい。
 スターであるとは強烈な光を発して衆に抜きん出ることであり、人気があるとはその光を愛されることである。スターは強烈な光を心地よいと思う人にしか愛されない。強すぎる光は、光に免疫のない人びとの目を痛めるからだ。幸いなことに、プロ野球選手はこの光に免疫がある。ジャイアンツのほとんどの選手たちもしかりであろう。彼らはこの光を心地よく浴びている。単なる熱狂的なファンとちがって、彼らにとって神無月郷は人気者である。ただ、いかんせん、プロ野球選手はライバルである神無月郷にファンレターを書けないのである。
 それと同じ事情からファンレターが少ないと言うのは、あまりにも穿った解釈である。なぜなら、ファンレターは専門家ではなく、愛ある庶民の書くものであり、愛がなければ書かないものだからである。プロ野球選手を除けば、神無月郷は少数の庶民にしか愛されていないのである。神無月郷よ、たとえわずかな人びとの愛でも、愛されていることは確かなのだ。その愛を孤独な満身に吸収して、いまの姿のまま、存分に、思いどおりに野球を楽しんでほしい。あなたは革命家なのだ。孤独は革命家の宿命である。


 七時に女将の手で肩に切り火。玄関に出てきた直人を中心にする女たち全員に見送られる。
「おとうちゃん、いってらっしゃい」
「愛してるよ」
「うん!」
 反射的に応えて、恥ずかしそうに抱きついた。キョトンとした顔のカンナを抱いているトモヨさんも、主人夫婦も、賄いやトルコ嬢たちも、慈愛に満ちた笑いを浮かべた。
 私の一人旅を心配した江藤の口入れからか、申し合わせて新幹線を同じくした監督、コーチ、選手、スタッフ、二十数人の一行が、そのまま七時間広島まで同道することになった。新聞記事の影響もあるような気がした。残りのメンバーは各自都合のいい方法で広島に向かうことになっている。
 睦子と千佳子に見送られて、七時二十五分発ひかりで名古屋駅を出発。グリーン車。ドラゴンズチームが一車輌の三分の一を占める。一般客もかなりいる。この車輌にしたのは、私が乗る箱を江藤が菅野にあらかじめ聞いていたからだろう。水原監督が、
「金太郎さんが迷子になったら、もう帰ってこれないかもしれないからね」
 江藤が、
「土地の人間にさらわれて、稚児さんか卑弥呼にされてしもうやろう」
 小川がブハッと吹き出した。和気藹々、三々五々、会話が交じり合う空気がうれしい。
 新大阪から八時二十一分の京都線快速姫路行に乗る。トレーナーたちの手で駅弁が配られる。とん蝶おこわめし。帯同の長谷川コーチが、
「一時間八分で姫路だ。乗り換え十二分。向かいのホームだからラクだよ」
 姫路までのグリーン車内では、本多二軍監督の用意したポータブルのカラオケセットが活躍し、選手たちを歓ばせた。私も江藤といっしょに一曲唄った。カラオケにないドラゴンズの歌。車中合唱になった。
 姫路から九時四十一分発の山陽本線播州赤穂行に乗り換え、相生まで二十分。相生から十時二分発の山陽本線糸崎行に乗り換える。ここから糸崎まで二時間四十分。車中販売のアナゴ寿司など好みの弁当を買う。食後はみんな静かに週刊誌や睡眠にいそしんだ。糸崎駅で十二時五十八分発の山陽本線岩国行に乗り換える。ここから一時間二十五分、十六駅目が広島だ。
 名古屋からおよそ七時間。二時二十七分、広島駅に降り立ち、世羅別館が手配した広島観光の大型バス一台で、寒々しい整然とした街並を走る。春先は選手各自市営バスやタクシーで移動していたのが嘘のようだ。従業員たちがドラゴンズ選手連に親しみ、おのずと心を一(いつ)にするようになったことや、優勝チームに対する待遇方針の転換が理由だろう。
 駅前大橋を通って猿猴川を渡る。稲荷町。市電に出会う。背高の建物の間隔がかなり大きいので、圧迫感はなく、常に広々とした青空が見える。名古屋の次に好きな街並だ。園山勢子のことまでが町の雰囲気に重ねてなつかしく思われる。専立寺、稲荷町交差点、松川町の信号、東広島橋を走って京橋川を渡り、南詰を右折して名古屋と同じ密度の市街地へ入っていく。空に千手(せんじゅ)を広げるケヤキをメインにする雑多な並木に包まれる。緑が目を洗う。戦後の復興のために市民が供木したという百五十種類以上の樹木の群れだ。興禅寺を過ぎて右へゆるくカーブ、飲み屋、商店、民家、事務所がごみごみ建ち混じる道を進んでいく。感覚の糸が共振する慎ましい二車線の道路だ。ホテルが二軒、三軒。自転車が置いてある民家らしき門の奥に円隆寺。中央通りに出る。左に平和大通りが見える。右折して進み、さらに左折して世羅別館に到着。
 駅前から時間にして八分。二時三十五分、今年最後の世羅別館に到着。遠路やってきたという思いを初めて抱いた。電車で運ばれてきただけで確実にからだが疲労しているということだ。ファンや見物の人混みの中へ私たちを降ろしてバスが去っていった。四時半には戻ってくる。フラッシュが光り、テレビのビデオカメラが回る。
 斉木を筆頭に仲居たちが賑やかに出迎える。勢子もいる。彼女に視線を留めると、やさしく微笑んだ。一瞬下腹に力がみなぎった。先着陣がロビーの各所でくつろいでいる。挨拶する。アメリカにいってしまった足木マネージャーがいないので、各自でチェックインをすます。監督、コーチたちに挨拶して、割り当てられた部屋に消えていく。
 巨人軍オーナー正力亨寄贈の柱時計を横目に、いつもの二階一号室へ。荷物が届いている。ユニフォーム一式とジャージを窓ぎわの椅子に延べ、グローブとスパイクとタオルと眼鏡をダッフルバッグに入れる。バットの太い部分を両手で握り、思わずまぶたの裏の久保田さんに頭を下げる。バットケースに二本収める。運動靴を出す。準備完了。
 出発まで一時間ほどある。畳の上で三種の神器。左腕にほとんど右と同じくらいの力がついてきた。片手素振り五十本ずつ。薄っすらとかいた汗をシャワーで流す。
 小腹がすいている。朝はカズちゃんたちと少々、昼と午後には車中で弁当を食った。世羅別館は自室と宴会場の食事しかなく、弁当もルームサービスも提供しないので、広島球場の選手食堂で食うしかない。試合後に食事したければ外に出ることになる。菱川の部屋を訪ねて、バッティング練習前にいっしょにめしを食ってくれないかと頼む。
「もちろんオッケーです。広島球場でまあまあ食えるのは、カープうどんと、『はなおか』の肉の串焼きか牛丼です。一年じゅうカープ戦はその二つでオッケーです。ロッカールームに届けさせて食いましょう」
 礼を言って部屋に戻る。勢子の笑顔が浮かび、それ以外考えられない無聊な時間になる。
 下腹が痛いほどみなぎってきた。
 ―夜まで待てないな。
 ドアを開けて、勢子を探すために廊下に出ようとした。


         五十九

 お仕着せ姿の勢子が階段を上がってくるところだった。満面の微笑み。手招きする。勢子はドアから滑りこみ、
「三十分の休憩をとってきました」
「以心伝心だね」
「はい」
 抱き寄せ、口づけをする。
「蝶々、蝶々」
「え?」
「勢子のビラビラ」
「ま!」
 赤くなり、敷蒲団に仰向けになって着物をまくり上げる。私はパンティを脱がせ、少し乾燥している蝶形の小陰唇を引き伸ばすように交互に吸い上げる。
「ああ、神無月さん、好き……」
 すぐ濡れてくる。
「すぐしちゃうね」
「はい」
 グイと挿入する。
「ああ、すてき! 待ってたんです、これを待ってたんです」
 あわただしくピストンをする。
「あ、イク、うううん、イク!」
 強烈に収縮し、うねる。着物の上から乳房を握り締める。すぐに迫る。尻をつかみ、奥深く吐き出し、存分に律動する。
「神無月さん、し、死にそ、苦しい!」
 柔らかい襞がうねって亀頭を快適にしごく。腹も胸も脚も激しく痙攣する。両脚をカニのように広げた勢子に奥深く収めた格好で、抱き締め、口を吸う。
「ああ、神無月さん、愛してます、死ぬほど愛してます」
 思いのたけを呟きつつ、なおも痙攣しつづける。ようやく痙攣が鎮まると、勢子はいつものように膣口にティシュを当て、そっと引き抜きながら名残の痙攣をする。ティシュを股間に挟んだまま下着をつけ、着物の裾をおろした。並んで横たわる。
「これだけのことと思わないでくださいね。女にとって好きな人に抱かれてからだをふるわせることは命より大事なことですから」
「よくドラマで、私はからだだけの女なの? と訊く場面があるね」
「愛情の何たるかを知らない人の言葉です」
「よくわかるよ、ぼくの実感でもある。あれから似島は?」
「一度、似島学園を訪ねました。ずっと心にかかっていたものですから。一万円、寄付してきました。みんなで神無月さんにお礼の手紙を書くと言ってました」
「届いた。オフになったら読もうと思ってる。似島の家族には会わなかったの?」
「はい。家はチラッと見てきました。見納め。もういきません。……神無月さんコチコチでしたよ。溜まってたんですね」
「四、五日してなかった。スッキリした」
「私も。生き返りました。ありがとうございました。じゃ、いきますね。今夜、がんばって。みんなで応援してます」
「ありがとう。がんばる」
 勢子はドアの外をしばらく窺ってから、スッと出ていった。
         †
 新天地、八丁堀。二台のバスが市電の線路に沿って左折。立町、紙屋町、直進。すぐに原爆ドーム前を右折。広島球場到着。球場の外を周回して三塁側の関係者駐車場へ入っていく。広島市民球場という大きな文字の上に、カープの球団旗と国旗とドラゴンズの球団旗がはためいている。ひしめく人の群れ。うどん、ラムネ、関東煮、甘酒などの幟が立っている。
「メンバー表ォォ、メンバー表はいらんか」
「弁当ォ、弁当はいらんか」
「ラムネじゃ、ラムネはいらんか」
「イカの丸焼きはいらんか」
「パンはいらんかな」
 長谷川コーチが、
「すごいだろ、広島の野球キチガイは。超満員だ」
 水原監督が、
「朝の四時から待ってる人もいるそうだから驚く。そろそろ十二時間だよ」
 菱川や江藤たちとロッカールームの長テーブルでめしを食う。カープうどんとはなおかの牛丼。カープうどんは、ねぎとナルトを添えたごくふつうの天ぷらうどんだった。立ち食いの味だが、まあまあいけた。はなおかの牛丼は美味だった。八十円と百二十円。計二百円なり。安い。庶民には高く感じるのだと太田が言う。吉祥寺の黒ねこの馬鹿高いクエ鍋を思い出す。
 四時。眼鏡をかけてバッティングケージに入る。五本放りこんで引っこむ。汗の蒸気のついた眼鏡をタオルでよく拭う。アトムズと最下位を競っているチームなのに、スタンドはビッシリ満員だ。球団の歴史とファンの愛情を感じる。スタンドで球団旗が何十となく揚々と揺れている。
 五時。広島カープのバッティング練習。西日がすごい。ほぼ全員当たっているが、特に山本浩司と田中尊の打球がするどい。
 六時半。両チーム守備練習終了。西日はすっかり沈んだ。瀬戸の夕凪の時間だが、真夏でないせいかそれほど蒸し暑くない。気温二十・○度。風がかなり強い。ホームからセンターに向かって真っすぐ吹いている。スコアボードの三本の旗が強くたなびき、中央が国旗で両側が球団旗だとハッキリわかる。バラバラとトンボと線引きが入る。カクテル光線が美しくグランドに映えはじめる。メンバー表交換。
 ブルペンの外木場を見つめる。あまり力をこめていない。十勝十八敗。酷使されて疲れ切っている雰囲気だ。ドラゴンズの左腕伊藤久敏は? 力をこめているが、切れがいまひとつ。がんらい速球投手なので直球に力がないはずはない。不調なのか? 江藤の言うように乱打戦になるかもしれない。伊藤久敏の顔と、右腕のベテラン水谷寿伸の顔との区別がつきにくい。伊藤久敏は細身の百七十五センチ、水谷寿伸はガッチリ型の百七十七センチ、利き腕も左と右でまったくの別人なのだが、あまり笑わないくすんだ顔つきの雰囲気がよく似ている。どちらも勝ち星が少ないせいだろうか。それなら、水谷則博も土屋紘も同様なので説明にならない。とにかく、あべこべの名前を呼びかけそうなので、近づいたことはない。 
 六時四十五分。広島球場名物、先発ピッチャーの成績紹介。投手成績をアナウンスするのは広島球場だけの特徴だ。
「中日ドラゴンズ伊藤久敏投手は、四十試合目の登板、五勝四敗でございます。広島カープ外木場義郎投手は、四十一試合目の登板、十勝十八敗でございます」
 デパートガールのようなシナのあるしゃべり口で、つづけてスターティングメンバーの発表に移る。
 中日ドラゴンズ、一番セカンド伊藤竜彦、二番ショート日野、三番センター江島、四番レフト伊熊、五番キャッチャー新宅、六番ファースト高木時、七番ライト佐々木、八番サード葛城。三巡したらこれがそっくり入れ替わる。
 広島カープは、一番レフト井上、二番セカンド古葉、三番センター山本浩司、四番ライト山本一義、五番ファースト衣笠、六番サード朝井、七番キャッチャー田中尊、八番ピッチャー外木場、九番ショート今津。
 一塁側ベンチ上で、ラッパの音に合わせて三三七拍子の音頭。市電のチンチンに似た鈴の音。鍋の蓋を叩く音。もと広島の監督で、戦後の広島カープ初の大スターだった長谷川コーチが、
「昭和二十五年に、広島電鉄の運転士たち四人で広島球団史上初めての応援団が結成されたんだ。ゲームのある日には皆勤で足を運んだ。応援団の名前はメチャメチャ楽団。応援の仕方はいまもまったく変わらない。新しく付け加わったのは、旗を振ることぐらいかな」
「中日の応援は鉦太鼓ですね」
「うん。巨人は関屋さんの紙吹雪」
 七時。予定どおり対広島二十二回戦試合開始。プレイのコールの直後、伊藤竜彦、ライト前へ火の出るような当たり。遠慮がちな歓声。森下一塁コーチとタッチ。遠征には彼と長谷川コーチ、それに本多二軍監督が帯同する。長谷川コーチと本多二軍監督はベンチで声を出している。二番日野、ボテボテの三塁前のゴロ。二塁フォースアウトだけ。江島ツーワンから三塁線を抜く二塁打。ワンアウト二塁、三塁。伊熊ライトへ犠牲フライ、日野還って一点。新宅、ファーストゴロ。この走り出し、得点の仕方にいやな予感がする。三巡し終えるまで点が取れない?
 一回裏。井上セカンドゴロ。古葉三振。山本浩司三振。走らないボールに手こずるということがあるのだろうか。これもいやな予感がする。早々と爆発する?
 二回表。高木時に代打千原! 高木時は一割そこそこのバッターだけれども、一打席もバットを振らずに代えられるのはさすがに口惜しいだろう。しかし、水原監督はいやな予感を吹き払おうとしたのだ。高木時はこだわりのない顔でバットをバットスタンドに戻した。千原、ツーツーからフォークで三振。代打の人選をまちがえた。千原は申しわけなさそうに高木時にぺこりと頭を下げた。高木時は微笑で返した。こういうときの二人はどういう気持ちなのか知りたい。
「残酷だな……」
 私が呟くと江藤が、
「金太郎さんには一生わからん気持ちやろな。ワシが時夫なら荒れ狂う。ファーストの当て馬とは薄々感じとったばってん」
 高木時がベンチ裏に去った。中が、
「慎ちゃんも知らないのか。時さんは、去年のコーチ兼任から今年選手専任に戻されたんだ」
「知っとる」
「で、春先に張り切りすぎて、右のアキレス腱を傷めた。それがよくならない。水原さんはファンに彼の名前を忘れさせないために先発させたんだよ。高木〈時夫〉ってアナウンスするだろ? 当て馬のつもりじゃなかったんだ」
 いやな予感を吹き払うためではなかった。勝負と関わりなく、人を慈しんだのだ。私は恥ずかしくなった。佐々木セカンドフライ。葛城、ワンナッシングから二球目をレフト最上段へ六号ソロホームラン。いつもながらみごと。遠慮がちな歓声。あまり球団旗も振られない。水原監督の尻ポーン。野球はひたすら楽しくやればいいのだ。だから出迎えも派手に楽しくやる。半田コーチがバヤリースを元気に差し出す。二対ゼロ。大毎のミサイル打線のもと同僚田宮コーチが、
「おい、隆ちゃん、楽しそうだな。相変わらずいい打球だ。しかし金太郎さんのまねして水原さんに抱きついても、サマにならん」
「そう言うな。これが最後のホームランかもしれないんだからさ」
 と言って豪快に笑う。伊藤久敏ファーストゴロ。
 二回裏。山本一義、ピッチャーの足もとを抜くセンター前ヒット。衣笠、左中間突破の二塁打。やはり滅多打ちになるな。これはこれで楽しいと思おう。朝井フォアボール。ノーアウト満塁。球場がドンチャン騒ぎになる。一割打者の田中尊が初球のゆるいカーブをライト佐々木の前へ弾き返した。二者生還。たちまち同点。朝井三塁へ。外木場センターへ犠牲フライ。一点追加。二対三。今津レフト前ヒット。ワンアウト一塁。一番に戻って井上右中間の二塁打。今津長駆生還。二対四。小川がブルペンに向かった。古葉ライト前へ痛烈なヒット。井上還って二対五。まだ代えない。
「おーい、中日さんよ、もうこの試合はカープの勝ちじゃ。電車のあるあいだに帰りんさい!」
「ほうじゃ、ほうじゃ」
 味方のはずのレフトスタンドから聞こえてくる。山本浩司、レフト伊熊の前へ球足の速いヒット。ワンアウト一、二塁。水原監督がベンチ前に出て、球審に手を挙げる。三点のハンデを献上したところで容赦してほしい、ドラゴンズの先発打線では三点返すのが限度なのでということだろう。
「中日ドラゴンズの選手交代を申し上げます。伊藤久敏に代わりまして、ピッチャー小川、ピッチャー小川、背番号13」
 初めてまともな歓声が湧いた。カープファンの落胆の嘆息も混じっている。伊藤久敏から小川がボールを受け取る。小川はうなずきながら伊藤の肩をポンポンと叩く。おまえの敗けなど消してやる、水原監督が三点差をひっくり返しにかかったんだから安心しろ、と。
 打者一巡。四番、巧打者山本一義、ホームランもある。南海にいきたかったのだが、カープ後援会会長の池田隼人に説得されてカープに入団したというのは有名な話だ。九年間でベストナイン一度。無冠。ツーツーから内角高目の釣り玉を振って三振。衣笠、レフトライナー。佐々木と伊熊は大忙しだ。
 三回の表。伊藤竜彦、初球をレフトオーバーの〈シングル〉ヒット。打球が速すぎてクッションボールがまともに返ってきた。日野またもやボテボテのサードゴロ。フォースアウト。三番江島、ワンスリーから左中間浅いところへライナーの六号ツーラン。伊藤竜彦と江島が当たっている。中が、
「きょうは、私はお休み。田宮さん、監督によろしく」
「そうするか。タクミにもう一本出そうだしね。静養してちょうだい」
「ほいきた。シリーズもタクミと半々で出るかな」
 四番伊熊レフトフライ。新宅三振。新宅はこれで代えられる。四対五。


         六十

 三回裏。朝井ショートゴロ。田中尊、センター前へワンバウンドのヒット。外木場、ピッチャー前へバント。小フライになりアウト。田中すぐに一塁へ帰る。今津ピッチャーライナー。
 四回表。千原三振。佐々木キャッチャーフライ。葛城ショートライナー。観客はうれしくてたまらない。
 四回裏。井上ファーストライナー。古葉三振。山本浩司三振。小川スイスイ。これはうれしくない。
 五回表。小川三振。伊藤竜彦、右中間のテキサスヒット。当たりに当たっている。日野セカンドライナー。日野はお役御免だろう。江島粘りに粘って、九球目をセンターバックスクリーンへ打ちこむ七号ツーラン。田宮コーチの予想どおり、もう一本出た。バカ当たり。伊藤竜彦と並んで三打数三安打。この二人は替えられない。水原監督の尻ポーン。六対五。逆転。中が、
「ついに後継者が出たぞ。老兵たる自分を思わず意識してしまった」
 高木が、
「気が早いよ、利さん。あしたも見てみないと。それに、タクミ、足がないでしょ。華麗さもないし」
 そのとおりだと思った。伊熊、高く舞い上がるライトフライ。これで伊熊も交代。
 五回裏。ドラゴンズの守備が一変する。伊藤竜彦はセカンドから佐々木の引っこんだライトへ回って(一番のまま)、日野に代わってショートに一枝が入る(二番)。センター江島のまま(三番)、伊熊に代わってレフト神無月(四番)、キャッチャー新宅から木俣へ(五番)、ファースト千原のまま(六番)、セカンドに高木守道が入る(七番)。葛城に代わってサード菱川(八番)となる。打順は一番伊藤竜彦、二番一枝、三番江島、四番神無月、五番木俣、六番千原、七番高木、八番菱川、九番小川。
 山本一義、うまく流し打って私の前にヒット。衣笠、外角カーブにのめってセカンドゴロゲッツー。朝井、セカンドゴロ。スタンドからブルペン脇のベンチに坐っている球場整備員に怒声が落ちてくる。
「こらっ、そこのトンボ、おまえらしっかりカープのこと考えて整備をせえよ。カープの打球がスパスパ中日のグローブに入るやないか。細工しとるんか」
 意味不明の野次だ。グランドキーパーも言い返す。
「どう細工するんや。荒らしとけゆうんか。わやくそ言うな。カープのグローブにもスパスパ入っとるわ。ワシらに当り散らしてもしょうがないわい!」
「やかましい! カバチたれるな」
「ほうじゃ、カープが負けたら、おまえら、シゴウしたるけェのう」
「ほうじゃ!」
「なに、クソぬかしとる。カバチタレが」
 笑っていいのかどうかわからない。剣呑な感じはしない。
 六回表。五番木俣から。内角のシュートに詰まりながらも、三遊間の深いところへ内野安打。エヘ、エヘ、という感じで森下コーチとタッチする。明るい表情に才能があふれている。一流選手は並の選手とはちがった、いわく言いがたい輝きを発する。
 千原正念場の三打席目。私はこの静かな男が好きだ。ピッチャーで三年間芽が出ず、バッターに転向してさらに三年。打率、打点、ホームラン、どれをとってもレギュラーの水準に達していない。来期、強打者に変身して控えを脱することができるかどうか。それは一流ピッチャーの決め球をかならず打とうとすること、できれば打てるようになることにかかっている。きょうは代打で出てから二三振。今シーズンここまで八本のホームランを打っている点では、まちがいなく控えの水準を超えている。それだけが一筋の光明だ。
「千原さーん!」
 私の声に、バッターボックスへ向かっていた背番号43が振り向いた。
「左中間! バットを放り出して!」
 千原は笑ってうなずいた。私の声は外木場にも聞こえたはずだ。打てるなら打ってみろと、意地でも外角へ放ってくるだろう。初球、外角低目カーブ見逃し。ストライク。二球目、外角高目ストレート見逃し、ストライク。
 ―なんだ、そんな簡単な外角球を打たんのか。左中間だと? もっと難しい球を待ってるのか、しゃらくさい!
 外木場はそう思う。そして難しい球を投げてくる。シュートだ。どうせそれを決め球にしているのだ。
 ―次だ、千原さん。
 三球目、外角低目高速シュート。やっぱり確認のために投げてきた。ここは待っていなければ打てない。千原はわずかに踏みこみ、両手を離さずバットを投げ出すようにスイングした。バットの重さを両腕で引き受けながら、ごく自然なフォロースルーになる。ジャストミート! 打球がギューンと左中間に伸びていく。井上と山本浩司が白球を簗(やな)に追いこむように走る。打球が二人のあいだをすり抜けフェンスに打ち当たる。木俣が二塁から三塁を回り、悠々生還する。田宮コーチが、
「開眼したか!」
 二塁ベース上で千原が私に手を挙げている。私も手を挙げる。七対五。高木フォアボール。外木場が江夏のように肩で息をしている。
 ―こら、まだへばるなよ。
 菱川、初球外角のスライダーを空振り。千原が走った! 三盗。田中あわてて送球。セーフ! 高木は走らず。中が、
「おお、めずらしい! 陽三郎、今年初盗塁だ」
 半田コーチが、
「三年で、三つ目ネ」
「きょうはワシも休日たい!」
 江藤がうれしそうに叫ぶ。菱川強烈なショートゴロ。ゲッツー。その間に千原ホームイン。八対五。小川、大きなレフトフライ。すばらしい手首だ。ほんとうに私はこの才能あふれる人たちの一員だろうか。
 六回裏。外野スタンドから大歓声が上がり、ドラゴンズの球団旗が激しく振られる。何ごとかと見ると、センターの江島が左中間スタンドに帽子を振っている。私はライトの太田と低いワンバウンドでキャッチボール。観客が大喜びする。江島が気づいて中継に加わる。
 田中尊サードゴロ。菱川の強肩。なんとすばらしい! やんやの喝采。外木場セカンドゴロ。高木のスナップスロー。やんやの喝采。今津、右中間のライナー。太田スライディングキャッチ。やんやの喝采。鉦やラッパで球場が祭りのようになった。何かのマグレでここにいるとしても、私はけっしてここを離れたくない。
 七回表。一番伊藤竜彦、左中間へ計ったように落とすシングルヒット。みごととしか言いようがない。二番一枝、三塁前へセーフティバント成功。とにかくみごとだ。朝井から送球を受けた衣笠がほんのわずかハンブルするあいだに、伊藤竜彦三塁へ。もう芸術の域だ。江島背中を丸めて渾身の力でボールを打ちひしぐ。ライト前ヒット。四の四。伊藤も江島もほんもの。伊藤ホームイン。九対五。ついにピッチャー交代。外木場の大きな尻が一塁ベンチへとぼとぼ戻っていく。
「外木場に代わりまして、ピッチャー白石、ピッチャー白石、背番号55」
 武器は外角の速球とカーブ。速球と言ってもそれほど速くはない。ボールがクネクネ変化するのが厄介だ。マウンドの投球練習を見ながら長谷川コーチがベンチからネクストバッターズサークルに寄ってきて、
「デッドボールに気をつけてね。白石は気の荒い男だからね。私がカープの監督だったときに国鉄四国から獲った選手だよ。当時は体重が七十一キロしかなかったけど、いまは八十キロ超え。スピードは落ちたがボールは重くなった。……とにかくカッカしやすい男でね、これまで金太郎さんにこてんぱんにやられてるから、ちょっと心配なんだ」
「はい。迎えにいきませんから、だいじょうぶです」
 長谷川コーチはうなずいてベンチに去った。
 ノーアウト一、二塁。長髪の四角い顔が眼鏡越しに私を睨みつける。野球選手の顔ではない。サラリーマンによくいる一癖も二癖もありそうな上役顔だ。セットポジション。白石はキョロキョロと一塁の江島と二塁の一枝を睨み、グローブを胸に抱えこんで投げ下ろす。顔に向かってくる。曲がるか? 曲がらない。しゃがむとヘルメットの上をストレートが通り過ぎた。三塁スタンドの怒声。中日ベンチから四、五人が顔を突き出す。白石が私を睨みつけている。私も睨み返す。二球目、ストレートがくるぶしに向かってくる。飛び上がって避ける。
「こらあ、白石、ぶち殺すぞ!」
 三塁ベンチから瞬間湯沸かし器の高木が剣呑な声を上げる。菱川が威嚇する。
「生きて帰さんぞ!」
 白石はわれ関せず焉(えん)とボールをこねる。とつぜん涙があふれた。タイム。眼鏡を外しアンダーシャツで拭く。
「白石ィ! 神さまが泣いとるやないか、ええかげんにせえよ!」
 一塁ベンチ上の広島ファンの声だ。水原監督がコーチャーズボックスから走ってきて、
「どうした、金太郎さん!」
「すみません、こんなすばらしい仲間と野球をできるのがとつぜんうれしくなって」
「そうか! 私もうれしいよ。布団に入るとよく泣くんだよ。さ、涙を拭いて。一本いこう」
「はい」
 キャッチャーの田中尊が、
「すげえなァ……」
 と呟いた。球審の岡田が横を向きカクテル光線を見上げた。鉄フレームのあいだからチラと覗いた目に涙が光っている。気を取り直して、さあバッターアップ、と言った。水原監督がサードコーチャーズボックスへ走り戻る。私は眼鏡をかけ直した。
「プレイ!」
 白石三球目のセットポジション。田中尊が立ち上がった。外角へ高く遠く外すはずのボールがすっぽ抜けて、高く、近く、になった。大根切りで叩き下ろす。センターの右へ飛んでいく。山本浩司が前進しながらスライディング。ワンバウンドしたボールが肩に当たって撥ね上がった。右中間へ転がる。一枝生還。転がったボールを山本一義が抑え、バックホーム。江島二塁から三塁を回って突入。クロスプレイ。タッチ、アウト! 沸き上がる喚声。私は二塁へ。十対五。
「どうしたんなら、カープは! 胸クソ悪い! 解散せえ!」
「情けないよのう!」
 根本監督がマウンドへ走り、白石から無理やりボールを奪い取る。白石は不貞腐れたふうに肩を揺すってベンチに戻った。一塁スタンドからブーイングの雨が降り注ぐ。サイドスローの大男西本明和に交代。西本は八月に五勝目を挙げたきり勝ち星から見放されている二線級だ。ゆえのない反感をぶつけ合って戦うよりはマシだが、力のないピッチャーは打ち倒しても張り合いがない。とんでもない大量点になる。
 木俣、初球を叩いてレフト線へ二塁打。私が生還して十一対五。ベンチに駆け戻った私に中が、
「とつぜん感動して泣いちゃったんだね」
「はい」
「わかるよ。私もしょっちゅうそうなる」
 太田が、
「俺もっす!」
 菱川が、
「俺、いつも泣いてます。泣きながら野球ができて、デーレーうれしいです」
 岡山弁が出た。二塁打を打ったばかりの千原にピンチヒッターが出る。
「千原に代わりまして、バッター江藤、背番号9」
 水原監督のパンパンパンが激しい。もちろんマリスを抜くホームラン記録を狙わせるための起用だ。一枝が、
「慎ちゃん、一本打ったら休んでいいよ!」
 高木が、
「何日でもいいぞ!」
「金太郎さんが休むならな」
 バットを二本カチンカチン振りながらバッターボックスへ歩いていく。これでたぶん二点が入る。
「トーレェ!」
 案の定、ワンナッシングからションベンシュートを叩いてレフト看板へ六十二号ツーランをぶっ飛ばした。
「江藤選手、六十二号のホームランでございます。このホームランをもちまして、昭和三十六年にニューヨークヤンキースのロジャー・マリス選手が記録した六十一本を抜き、世界日本ともに歴代二位の記録達成でございます」
 水原監督とガッシリ抱擁。ホームベースを過ぎたあたりで着物姿の地元女性から花束贈呈。敵味方なく大歓声、大拍手。球場側の用意周到さに江藤が目を丸くしている。花束を抱えたまま私たちと順繰りタッチ。おめでとう、おめでとう、おめでとう。半田コーチが、
「コングラチュレイション!」
 江藤はバットボックスの前でバヤリースを一気飲み。
「ばってん、この手際のよさはすごかなあ」
 江藤が呟くと宇野ヘッドコーチが、
「きょうのは造花だね。どの球場でもいくつか造花の花束を用意してる。だから突然の大記録でもあわてることはないんだ」
 江藤が、
「これ、造花でなかぞ。よかにおいしとるばい」
 本多二軍監督が、
「埃のたかった造花もたしかにいつも用意してるけど、使われることはまずないな。少年野球くらいじゃないか。節目の記録では生花がずっと用意されてるんだ。球団と提携している花屋から取り寄せてね。この二試合では慎ちゃんの〈マリス抜き〉しか目ぼしい記録がないから、百パーセント用意されてたろう。ノーヒットノーランや完全試合は、試合中に花屋に電話するんだな」
「いままで五、六回花束をもらっとるばってん、いっちょん知らんかった」
 プロ野球十一年選手がまた目を丸くした。あの喚声と拍手。このホームランであらためて、中日ドラゴンズがホームランアーティストたちの集団だという声価が定まったような気がした。



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