六十一

 十三対五。八時十七分。長いゲームになった。もっと長くなる。ワンアウト、ランナーなし。七番高木、左中間へひさしぶりに三十五号ソロ。十四対五。八番菱川、ツーツーからライト中段へ三十四号ソロ。三者連続ホームラン。十五対五。トリプルスコアになった。三塁スタンドから、
「おーい、もうこのへんで勘弁したれや。もう野球やめる言うて泣くけえ」
「ほうじゃ、ほうじゃ」
「もうストップしたれや、頼むけえ」
 中日ブルペンに星野秀孝が出る。小川はお役御免。
「小川に代わりまして、バッター徳武、背番号11」
 徳武ツーワンから痛烈なサードゴロ。ツーアウト。一塁スタンドから大声が飛んでくる。
「おっさん、ようやった、アウトありがとう!」
 打者一巡して、伊藤竜彦レフトライナー。チェンジ。
 七回裏。一塁スタンドとライトスタンドの応援がうるさくなる。
「ピッチャーの交代を申し上げます。小川に代わりまして、ピッチャー星野秀孝、ピッチャー星野、背番号20」
「ウオー!」
 空気をふるわす歓声。もう彼の名前は日本じゅうに知れわたっている。速球だけの投球練習。爽快だ。
 井上、古葉、山本浩司と速球一本槍で三者連続三振。みごとなものだ。ベンチへ走り戻るとき、マウンドで待ち構えていた星野がとつぜん抱きついてきた。味方ベンチから指笛が飛んでくる。
「神無月さん、高木さんと菱川さんの怒鳴り声に泣いたんですよね。泣いてくれてありがとう! 俺も神無月さんに泣いてもらえるようにがんばります」
「もうじゅうぶんがんばってますよ。怒鳴り声じゃなく、ピッチングでね。あなたもみんなも天才です。天才たちと野球ができる。それがうれしくて泣いたんです」
 星野はブォッと涙を噴き出した。
「さ、取れるだけ取りますよ」
 二人でベンチに駆け戻る。ひとしきり涙顔の男たちと抱き合う。江藤がいつまでも離さなかった。
 八回表。一枝センター前ヒット。江島レフト前ヒット。江島五の五。きょうのヒーローは江島に決まった。ノーアウト一、二塁。またピッチャー交代。
「西本に代わりまして、ピッチャー城野(じょうの)、ピッチャー城野、背番号46」
 城野? 長谷川コーチが、
「今年初登板だ」
 ストレートがズシンと重い。シュートも切れている。飛ばなさそうなストレートを打とう。筋力試しだ。
「バッター、四番レフト神無月、背番号8」
 勝利ではなくホームランだけを望む歓声の中、バッターボックスに入る。大きなピッチャーだ。垂れ目の童顔。気が弱そうだ。一塁スタンドから、
「勘弁しちゃってェ! 今年初登板じゃけえ」
 初球、胸もとのストレート。ボール。なかなか速い。二球目、外角低目のシュート。ぎりぎりストライク。みごとなストライクなのに、城野は戦々恐々とした表情を浮かべている。
「ようし、ようし、バッター案山子じゃ、ビシビシど真ん中に入れたれェ!」
 一塁スタンドから背中に声が飛んでくる。三球目、同じコースにシュート。ワンバウンド。ボール。田中尊が手でホームベースを掃く。困惑した横顔だ。田中は二、三歩前に出て、野次と同じように、
「ど真ん中!」
 と怒鳴る。苦肉の策だろう。ど真ん中に投げればどうにかなるというわけでもない。たぶん最悪のことになる。四球目、膝下のストレート。低すぎるが思い切り払う。一塁線を抜いた。よし、ひさしぶりの三塁打だ。打球がフェンスを舐める。走る、走る、山本一義がスライディングしてようやく追いつく。目の端に一枝と江島がホームを走り抜ける姿がよぎった。三塁へ足から滑りこむ。タッチ、一瞬コールが遅れたが、セーフ! 朝井が不満顔で大里塁審に詰め寄る。大里が首を横に振る。ベンチで中が拍手している。慈顔の水原監督と握手。十七対五。
 木俣、首のあたりの初球をマサカリ。レフトスタンドへ一直線。四十二号ツーラン。十九対五。止まらない。野球漫画のようだ。木俣に先んじてホームインするとき、ラジオアナウンサーの声が聞こえてきた。
「きょうも止めどもなく打ちつづける中日ドラゴンズ、情け容赦ありません!」
 十九対五。ピッチャー交代。安仁屋。あしたの先発予定だったはずだ。だれに命じられたということもなく、ここからは全員自発的に初球攻撃になる。試合を長引かせないためだ。空振りしたら二球目攻撃。三球三振も辞せずとにかく振る。江藤、セカンド右のライナー。古葉飛びついて、アウト。高木センターライナー、山本浩司拝み捕り。菱川ピッチャーライナー、城野グローブを弾いたがすぐ拾って一塁送球。アウト。
 八回裏。木俣がマウンドで星野に檄を与えている。最後まで気を抜くなということだろう。四番山本一義。ツーワンからパームで三振。衣笠、外角ストレートをうまく流し打って一塁の頭を越える二塁打。朝井の代打、苑田ストレートで三球三振。田中尊、外角カーブを引っ張って三塁ベースぎわを抜いた。このコースは考えていなかったので追いつけない。クッションボールを待ち、二塁へ送球。またも二塁打。衣笠還って十九対六。安仁屋三振。気を抜いたわけではない。うまく打たれたという格好だ。これを予測して木俣が檄を与えたとは思えない。その気配がなくても習慣的に与えた檄だったろうし、与えなくてもやられていただろう。野球は慣れることがない。常にシコリが残る。……お伽話のような人生はない。ただ克服するか否かで道が分かれるのだ。
 九回表。ふたたび初球攻撃。星野セカンド右を抜くヒット。
「一番伊藤竜彦に代わりまして、バッター太田、背番号40」
 パラパラという拍手。彼は中日球場以外では人気の〈抜け〉のような存在だ。ほかの選手とちがってこれといったインパクトがないからだ。しかしそんなくだらないことなど意に介さず、仲間の情熱に倣うという本分を果たそうとした。彼はツーツーまでじっくりボールを見て、五球目の外角スライダーを叩いてバックスクリーン直撃のツーランホームランを放ち、広島の観客にじゅうぶんなインパクトを与えた。
「太田選手、二十六号のホームランでございます」
 二十一対六。つづく一枝、セカンドの手前で撥ね上がって古葉の左を抜くヒット。
「何でもありかい、欲が深いでェ!」
 もう何をやってもドラゴンズの流れだ。
「三番江島に代わりまして、バッター中、背番号3」
 ウオーッという歓声。五打数四安打の伊藤と同様、五打数五安打の江島は〈もう休みなさい、来期は当確だから〉ということだろう。そうだろうか。甘すぎる気がする。中、初球を右中間へするどく打ち返す。ふだんなら三塁打コースだが、二塁で自重する。一枝一塁から長駆生還。二十二対六。ノーアウトニ塁。
「安仁屋ァ! 性根を据えてやれやァ!」
「恥ずかしいと思わんか! しっかりせえよ!」
「強盗に追い銭かい!」
 強盗ではない。強奪だ。
「金太郎! たまには三振せいよ!」
「金太郎どの! お慈悲を!」
「遠慮せんでええ、百五十号見してくれ!」
 左右のスタンドのものすごい喚声。時計は九時五十八分。そろそろ三時間だ。
 初球、外角シュート。またこれか。ボール半分外れている。大きく踏みこみ、左手首を押し出すように叩く。ほんの少し下をこすりすぎた。しかし飛んでいくだろう。いつもの期待に満ちた歓声。打球は高々と舞い上がり、左翼ポールの下方に当たって滑るようにグランドに落ちた。井上はボールを拾いにいかない。田代線審のホームランのジェスチャーがないので、ゆっくり走っていた中はフェンス直撃と思い直してスピードを上げ、三塁を回ってホームを駆け抜けた。森下コーチとタッチしようとしていた私は、あわてて二塁へ走って滑りこんだ。
 水原監督が線審のところまで全速力で走っていき、ポールに当たったと抗議する。ワーワーと場内がどよめく。左翼手の井上に何か語りかけられていた線審の田代が球審の岡田のもとに駆けていき、ひとことふたこと言葉を交わすと、もう一度ポールまで走り戻って右手を回した。ドッとレフトスタンドに歓声が上がる。私は二塁を走り出て三塁を回りかけたが、止まった。岡田球審が根本監督に胸をぶつけられて抗議を受けている。水原監督が私のもとに駆け寄り、いっしょにホームを眺める。
「だれが何と言おうと、あれはホームランです」
「はい、ボールに当たりました」
 一塁側スタンドから、
「おどりゃ、何であれがホームランじゃ!」
「わりゃ、殺しゃげるぞ!」
「バカタレェ! 取り消せえ!」
「根本、しっかり抗議せえ!」
「田代、ワシらをなめたら、シゴウしゃげたるぞ!」
「根本、審判を殺せェ!」
「ほうじゃ、殺せ!」
「岡田、説明しろ!」
 岡田球審がバックネット裾に走っていってマイクをつかみ、
「外審は、ボールがフェンスの上部に当たってから撥ね上がり、レフトポールをこすって落ちたと判断してホームランのコールをいたしませんでしたが、左翼手の井上選手がポールの網に当たって真下に落ち、フェンスの上部で撥ね上がったと進んで申し出たため、ホームランと判定し直しました」
「バカタレェ、井上! おおもんたれ! 覚悟しとけ」
「二十点も取られて口惜しゅうないんか、このボケー!」
「ぜったい認めるな! ワシャ認めんぞ!」
「ありゃファールじゃ!」
 思わず微笑がこぼれた。かまわず水原監督と握手。岡田球審の手招きに従って、私はふたたびホームに向かって走った。一塁スタンドの怒声が顔にぶつかってくる。
「ポール直撃だ。はっきり見えたよ」
「はい、ぼくにもそう見えました」
 ベンチに向かう背中に容赦なく過激な野次が追いかけてくる。
「わりゃ、舌出しとるな!」
「恥ずかしゅうないのか!」
 物騒な雰囲気に心配して迎えに出た仲間たちと握手、タッチ、抱擁。
「神無月選手、百五十号のホームランでございます」
 カープファンは怒鳴るだけ怒鳴ると急速に静まっていった。おもしろいファン気質だと感心した。町並と同様、この球場もファンも好きだと思った。二十四対六。
 木俣ファーストゴロ。チェンジ。
 九回裏。今津、私への浅いフライ。井上三振。山本浩司、ツーツーから真ん中高目の速球をフルスイングして左中間へ十一号ソロ。勢いのある打球で、豊かな未来を感じさせた。江藤のようにどっしり構え、バットをチョコチョコ動かさないようにすれば、四、五十本はホームランを打てるだろう。
「神無月、見たか! これがホンモノのホームランじゃ! インチキとちがうでぇ」
 中日ファンが多いはずのレフトスタンドから声が投げつけられた。私は帽子を取ってレフトスタンドに頭を下げた。笑いが上がり、拍手が湧いた。許してもらえたようだ。
 山本一義三振。ゲームセット。二十四対七。小川二十三勝目。チーム九十六勝目。百勝が見えてきた。中が、
「あのお辞儀はよかったね。険悪な雰囲気が完全に鎮まった。ポールのネットに当たって垂直に落ちてきたからね。線審もよくわからなかったんだろう。井上は潔い男だ」
 ホームベース前でインタビューを受けている江島と水原監督を尻目に、サッサと引き揚げる。ロッカールームで冷えたバヤリースを飲みながら太田に訊く。
「博士、ドラゴンズは歴代チームの最高勝率にいくかな?」
「このあいだ新聞に載ってましたけど、一リーグ制の時代は昭和十三年の大阪タイガースの八割二分九厘で、二リーグ制以降は昭和二十六年の南海ホークスの七割五分零厘ということでした。うちはきょうの勝ちで九十六勝十五敗になったので、残り十四試合を全敗しても勝率七割六分八厘、二リーグ制以降の日本記録は達成してます。戦前からの記録も考えて、八割三分にするには、ええと……百四割る百二十五でいいわけか……八割三分二厘で少しリード、と。百四勝しなくちゃいけません」
 江藤が、
「あと八勝ね! 残り十四試合しかなか。そろそろペースダウンしてきとるし、八勝六敗は無理たいねえ」
 太田コーチが、
「うちは個人記録のラッシュなんだから、チーム記録なんか云々するのは贅沢だ。昭和十三年か……俺は慶應で名三塁手としてならしてたな。黄金の内野陣なんて言われてな、ハハハ。ま、それはいいとして、大阪タイガースの八割二分九厘は、春三十五試合、秋四十試合しかやらない時代のプロ野球の話だよ。いまと比べものにならん」


         六十二

「八割二分九厘の内訳はどうなってるんですか」
 私が訊くと、
「春季タイガース、秋季ジャイアンツの優勝。タイガースの勝率八割二分九厘、ジャイアンツ七割六分九厘。春のタイガースはピッチャー王国でな、御園生崇男(みそのおたかお)が十勝一敗で勝率一位、西村幸生が一・五かなんぼで防御率一位。その二人で二十一勝もした。チームは二十九勝六敗。勝率八割二分九厘は当然の結果だよ。最多勝利は巨人のスタルヒンの十四勝だ。タイガースの打撃となると、景浦将(まさる)が三十一点で打点王を獲ったくらいのもので、ホームラン王はイーグルスのハリスの六本、首位打者は巨人の中島康治の三割四分五厘。いまのドラゴンズとはぜんぜんちがうな。うちには三割五分以上打ってるバッターが三人もいる。ホームランも打点もとんでもない数だし、百勝、ピッタリ八割でいいんじゃないの? あと四勝か。十敗もできるわけだ。とにかく百三十試合で八割以上という驚異的な勝率は、二シーズン制になって以降、永久に破られないだろうな」
 田宮コーチが、
「利ちゃん、あしたどうする?」
「タクミの全出ですよ。私は完全休養。きょう一本打ったから、三割二分を超えたでしょ。打率の維持にもいいしね」
 小川が、
「あしたの先発だれ?」
 長谷川コーチが、
「水谷寿伸」
「オス!」
 無口な水谷が手を挙げた。
「門岡と若生と水谷則博で抑えてもらう。できれば寿伸、一人で勝っちゃって」
「オス!」
 難しいだろうと思った。水原監督と江島が戻ってきた。
「寿伸くん、あしたは十点取られるまで代えないよ。のんびり投げなさい。これ以上無理だと思ったら、申告ね。代えてあげるから」
「は!」
「あしたからキャッチャーは、最終戦まで十四試合、木俣くんでいきます。木俣くんはいま四十二本。十四試合で五十二本までいく可能性がありますからね。野村くんを超えて五十三本を達成したら、次の試合から交互に吉沢くんと新宅くんの先発でいきます。一本でも多くホームランを打ってください」
「はい。がんばります。でも監督、十四試合で十一本は無理だと思いますよ」
「無理なことに挑戦しなさい」
「わかりました」
「あしたで、控え選手の試用期間が終わる。めいめい、コーチの言に従って、巨人戦の帯同を決めてください。名古屋に残る場合も、来年につながるように努力してください」
「ウィース!」
「小野くんと山中くんはあしたの試合が終わったら、帰名して、ゆっくり休むこと」
「わかりました!」
 長谷川コーチが、
「ところで、水谷則博が今季ウエスタンリーグの最高勝率を獲得した。拍手!」
「オーッ!」
「立派!」
 拍手がロッカールームに満ちる。則博がペコペコとお辞儀をする。高木が、
「感想、感想!」
 長谷川コーチが、
「控え選手たちに遠慮しないで、思うところを言いなさい。上を目指す選手にはかならず参考になるはずだよ。物まねで言わないように」
 ドッ!
「神無月さんの涙の意味を噛みしめました。すぐれた人たちといっしょに野球ができることに心から感激したときに流れる涙です。感激したときは自分がいなくなる、それがとても大きな意味を持っているということです。……俺もやっとそういう感激ができた気がします。ラッキーもあって、一軍で六勝も挙げさせていただきましたが、実力だと自惚れてる部分があった。いつも胸の中に自分がいました。……入団以来この一年間、ほとんどファーム暮らしでした。二軍とはいえ、放っておいてもエースで四番、認められまくって人生を送ってきた人ばかりです。たぶん口惜しさを原動力にして野球をやっているにちがいありません。そういう気持ちで、一軍で通用するほどの頭角を現すのは難しいです。たとえ二軍で目立ったとしても、二軍での数字は正規の記録にカウントされることはない。いくらがんばっても、永遠に育成契約の選手のようなものです。それがまた口惜しい。その堂々巡りです。……抜け出そうという思いばかりで何もわかっていない。チラッと一軍に顔を出す機会があったときにわかりました。自分と一軍選手とのレベル差は歴然としているということです。高校時代なら、多少甘くても打ち損じてくれたボールを、一軍選手は逃さずヒットにするし、ボール球は簡単に見極められます。長打もコンスタントにがんがん打つ。とにかく大天才の集まりです。そういう人たちを抑えるピッチャーのレベルも飛び抜けたものです。そういう人たちを見て感じなければいけないことは、彼らに追いつきたいとか、押しのけたいじゃなくて、彼らといっしょにいたい、いっしょに野球ができる環境にいられたらうれしいという気持ちです。その思いを長つづきさせるためには、日々野球をやるうえでの気力の質を変えないとだめだと気づきました。口惜しさを基盤にして気力を保ってはいけない。彼らにあこがれ、彼らといっしょにいたいという願いを基盤にしなければいけない。なぜ俺ほどの選手がここまでやっているのに認められないのか、これほどの成績を挙げているのになぜ一軍に呼ばれないのかと考えるのじゃなくて、純粋に天才たちに感激し、あの人たちのような才能をなぜ持って生まれなかったのかとたっぷり悲しい思いをするべきです。そうすれば、悲しみの中で、彼らといっしょにいるために自分には何が欠けているか、それを補うにはどういう努力をしなくちゃいけないかと考えるようになります。小粒な自分の才能を活かそうとする ための努力ではなく、大粒の才能のない自分が彼らといっしょにいるための努力とはどういうものか、と考えるようになります。……適材を伸ばす、自分にできる技能だけを伸ばす、それに気づきました。スピードではなく、投球術。それに対してはのんべんだらりとした練習はけっしてしない。その結果、どうにか彼らの仲間入りができるようになって、油断のない鍛練生活に入ることができたんです。……すみません、話が長くなりました。二軍で最高勝率を挙げたからといって、おいそれと通用する世界でないことはわかっています。星野秀孝さんみたいな天才が、コントロールではなくスピードを伸ばすということに気づかずに、一年以上も二軍暮らしをしたんですからね。……いま俺は、みなさんといっしょにプレイができて泣きたいほど感激しています。最初からみなさんといっしょにプレイしていた神無月さんですら、それに感激して涙を流す。俺が泣かないでどうするんだということです。自分があこがれを基盤にして努力できた人間であることを喜んで、これからもがんばります。どうか長い目で見守っていてください」
 ふたたび盛大な拍手が上がった。水原監督は拱手して大きくうなずき、頬を濡らした江藤がヘッドロックをかけた。
         † 
 風呂に入って宿着に着替え、一階に降りる。畳の宴会場に豪華な食事が用意されていた。アジの南蛮漬け、オコゼとクルマエビの新鮮な刺身、カツオの椀、タイの塩焼、ハモの天ぷら、野菜のてんぷら、小鰈の唐揚げ、ジュンサイの味噌汁、めし。仲居たちが十人以上も立ち働いている。勢子もいる。上座に坐った水原監督がよく通る声で、
「ここの宴会場のふだんのラストオーダーは夜十時なんだよ。足木くんに予約の電話を入れてもらった。いま十時半。三十分遅れたけど、いつも融通を利かせてもらってるからね」
 食卓が整えられていく。宇野ヘッドコーチが、
「十二時前後には食事をすませて、とっとと寝るように。あしたは平常どおり六時半試合開始だから、ゆっくり最後の晩めしが食えるよ。いまから飲みに出るやつは、度を過ごさないようにな。適当に飲んで、二時までには帰って寝なさい」
 ウィースの声がないのは、今夜はみんな疲れていて飲みに出るどころではないということだろう。長谷川コーチが、
「あさっては昼ごろの飛行機だ。ゆっくり寝てられるぞ」
 高木が、
「さっきの則博の話だけどさ、コーチで殺されるということもよくあるんだよ。速球ピッチャーをコントロールピッチャーに直そうとか、長距離ヒッターをシュアなバッターに改造しようとかな。巨人や阪神に多い。ドラゴンズにそういうコーチは一人もいない。伝統的な放任主義のおかげだ。才能の芽が摘まれない」
 江藤が、
「納得できるまで手もとから離したがらないコーチちゅうのも、ヤバかぞ」
 中が、
「それは選手個人にポリシーを貫く勇気がないからだよ。イヤだと思ってるのに反対できないような気弱な人間なら、サラリーマンをやったほうがいい。素直と臆病を混同しちゃだめだ。各チームのいま表舞台に立ってるやつらの中にも、将来危ういのがチラホラいる。大口叩きというやつだけど、マスコミや周りに求められるままに発言しているからそうなっちゃうんだ。プロの選手は鈍感なくらいヌーボーとしてなくちゃいけない。それこそ精神力の強さだし、才能の証だよ。則博の言うように、あこがれをもとに努力することはまちがってない。しかし努力するだけじゃだめだ。結果を出すべきところで才能を発揮できる精神力が必要なんだよ」
 日野や伊熊が箸を止めて、じっと耳を傾けている。菱川が彼らに説き聞かせるように、
「俺も二軍をいったりきたりが長かった。肝心なことは、プロになるのが目標じゃだめだということなんだ。新人ながら、三十四試合にも出させてもらったけど、当時、俺の本職のポジションだったライトには移籍してきた葛城さんがいた。俺はポジションを奪えなかった。葛城さんはハングリーでギラギラしてた。一方俺は、プロになるのが最終目標だったから、プロらしくクールでスマートにプレーしようとしてたんだ。プロになった解放感でいっぱいだったからね。練習が終われば外出は自由だし、小遣いもたっぷりある。ついつい遊ぶことに熱中して、野球のほうがおろそかになる。たちまち肥ってしまった。それでも活躍できればだれも文句を言わないさ。葛城さんと自分との能力差はそれほどないと感じてたから、どうして俺を使ってくれないのか、出してくれさえすれば活躍できるのにとイライラしてた。上にしてみれば、なりふり構わず貪欲に練習するほうを使いたいのはあたりまえだ。俺は人間として子供だったということだよ。そうして五年もむだめしを食って、今年、神無月さんに遇った。どんな輝かしい天才も、その輝きを得ること以上に輝きを持続することのほうが難しい。神無月さんが輝きを持続できるのは、自分なりの特殊な鍛錬と、中さんの言った信念があるからだ。中さん本人も、江藤さんも高木さんも木俣さんも一枝さんもみんなそうだ。二軍のまま、あるいは一軍半で解雇される選手というのは、プロのほんとうのきびしさを知らない。知る前に自分に負けてしまうんだ。だからものすごく次元の高いプロの闘いに参加できないんだよ」
 江藤が、
「よし、講釈は終わりだ。寝るぞ」
「はい。タコ、寝ようか」
「はあ……もう一膳食います。感激しました。努力をしろ、練習をしろ、ハングリーになれという理屈がわかって。でも、理屈どおりに努力はしても、一軍レベルになれない選手っていますよね」
 日野と伊熊の肩がピクリと動いた。私は、
「太田、そんな選手なんていないよ」
「いや、神無月さんにはこのレベルの話は理解できないと思いますよ。俺も菱さんも理屈どおりに努力して、なんとか一軍レベルになれました。いくらかレギュラーに近い素質があるようだと上に認めてもらったからでしょう。俺たちの何倍も努力しても認められずに、五年も十年も二軍にいる選手もざらにいるんです。俺たちだってそういうレベルの人の気持ちはしっかりわからないかもしれない。でも何カ月にせよ二軍を経験した人間なので多少わかるんです。一軍レギュラーというのは、九割方、最初から二軍をスルーした天才ばかりですよ。独自の鍛練なんて言われても、本人はピンとこないと思います。好きでやってることでしょうからね。二軍からなかなかな上がってこれない人に、努力すれば一軍の固定メンバーのようになれると励ますのは酷です。レギュラーたちの鍛練は、上昇志向に脅されてイヤイヤやる努力じゃないですから。もともと上にいるんですよ。……独りよがりに自分を信じるんじゃなく、野球が楽しいと感じるようになったら、そして、鍛練が楽しいと感じるようになったら、多少の見こみがある、といった程度の励ましに留めておかないと、へんな希望を持たせることになります。うまくいかないときの挫折感も並でなくなります。野球をやるのを愉しんでいた秀孝が、たまたま神無月さんに素質を認められて、上もそれに気づいて登用した。秀孝は、十年二軍でやってもあれこれ愉しんでいたと思いますよ。菱さんにしたって、サボリ屋で有名でしたけど、バッティングに対する惚れこみようと研究の熱意は尋常じゃなかった。そこは変わらずに、走ったり筋トレしたりの基本鍛練も楽しむようになったということでしょう」


         六十三

 江藤がもう一度腰を落ち着け、
「それはコーチじゃ教えられんことばい。二軍はたっぷり試合をやるっちゃけん、ちんまい技術なんかへたに教えんたらいけん。実戦で自分なりに身につけていけばよか。試合を愉しんでやっとるやつを見つけたら、要所要所で、おまえは一軍の素質があると褒めてやる、それがコーチの仕事ばい。それしかできん。きっちり努力しとるやつはよう見かけるばってん、愉しんどるやつは滅多におらんけんのう」
 伊熊が、
「愉しむというのは、何を愉しむんですか」
「その質問がすでにおかしかもんたい。ピッチャーならバッターを打ち取ること、バッターならボールをうまく捉えること。そのために技術と体力を鍛えること。わかっとろうが」
 日野が、
「それ、ぜんぶ、才能が必要じゃありませんか?」
「ちゃう。そんなもん必要なか。プロにくるやつはみんな才能がある。そのうえで才能をなくさんよう、鍛えて、もっと上の成果ば愉しむったい。星野は二軍時代、スピードボールとパームで打ち取ることば愉しんどったばってんが、コントロールが悪かけん、ようフォアボールば出しよった。じゃけん、ピッチングコーチがそればっかり気にしよった」
 菱川が、
「大友工コーチですね」
「むかしのコーチはだれでんそんなもんばい。で、一軍に送りこまんかった。ピッチャーはスピードボールが投げらるう才能があればよか。コントロールの悪かとは、かえって武器になるばい。金太郎さんのひとことで、コーチ連中がそれに気づいたわけたい」
 日野が、
「とにかく才能がなければ愉しめませんね」
「ごちゃごちゃぬかすな。おまえ、巨人戦の初打席、見逃し三振やったろ。なんで当てにいかんとか。二打席目はツースリーまで待って三塁フライ。三打席目はフォアボール。そんなもん手柄でなか。次の巨人戦でヒット一本。それが手柄や。きょうの広島戦は、ようバットを出しとった。球に当てようとするようになった。凡打しても楽しかったやろう」
「はい……」
「当て方を愉しんで研究するようになったら、才能が鍛えられたゆうことばい。未来があるかもしれんぞ」
「あのう、当て方を楽しむというのは……」
 日野がくどく訊く。
「工夫たい。工夫すればその結果を楽しめるやろが。おまえは、ぜんぶ当てにいっとるのは感心やが、何の工夫もなか。きょうより前の試合では、ファーストフライ、ピッチャーゴロ、センターフライ、三振、レフトフライ、サードゴロ二つ、セカンドライナー」
 菱川が、
「さすが記憶魔」
「注目して見とったけんな。何カ月か前、熱心に金太郎さんに打ち方か何か訊いとったくせに、お愛想か。今年何試合に出た?」
「十一試合です」
「たぶんあしたが最終試験や。三打数三安打。崖っぷちでそれができたら、才能は枯れとらん。もうしばらく生き延びられるかもしれん」
         †
 部屋に戻ると、カズちゃんから電話が入った。
「夜遅くごめんね」
「どうしたの?」
「素ちゃんが栄養学校に合格したから、一応伝えておきます」
「よかったね! おめでとうって言っといて。二年間、つらいだろうけど、がんばるようにって」
「学生としてしっかり勉強してもらうために、来年の四月から二年間、店の手伝いも禁止にしたの」
「当然そうしなくちゃね」
「じゃ、あしたから一週間、がんばってね。愛してます」
「ぼくも愛してる」
「お休みなさい」
「お休み」
 十二時半を回って、勢子からの電話。
「きょうはご苦労さまでした。途中から神無月さんが出てくると、アナウンサーの声が明るくなり、球場も華やぎました」
「そう、ありがとう。……セックスするだけでない関係でいたいけど、遠く離れているとなかなかね」
「いいえ、私はこれでじゅうぶんです。お顔を見ることができて、テレビで野球をする姿を観ることができて、こうして言葉を交わすことができて―もう何もいりません。これ以上のことを求めるのは強欲です」
 ふと、私と巡り合い、私に抱かれるようになった年たけた女たちの顔が一人ひとり浮かんだ。彼女たちにとって私との交情は初めての経験ではなかった。もし私が初めての男で、これほどの衷情を注いだ相手だったら、彼女たちがのちのちだれかを愛したときにその愛情表現が私の手で汚されていたことになる。彼女たちは私に注いだ愛情を思い返して苦しみ、遅かれ早かれ精神を病んでいたかもしれない。遅く巡り合ってよかった。
 私は奇跡的な幸運に感謝した。
 やがて浅い眠りに落ちた。薄ぼんやりとした意識の中で、私しか男を知らない女たちの顔が鮮やかに巡った。恐怖に近い感情が湧き、自分の犯した罪の深さに戦いた。私はこのまま眠りから覚めないようにと念じた。
          †
 明け方に目覚め、二度寝をして起きると十時だった。十月五日日曜日。晴。十八・四度。耳鳴りがはっきり聞こえる。枇杷酒でうがい。下痢便、シャワー、歯磨き。耳鳴りをこじり取るように耳垢をこそぐ。何も出てこない。
 ジャージを着、フロントに降りる。窓際のテーブルでスポーツ新聞を開く。レフトボールに打球が当たっている瞬間を捉えた写真が矢印つきで一面の片隅に載っている。フェンスから二十センチほど上の狭いネットに当たっていた。

  
天馬スタンドに最敬礼
  
交代後二塁打(白石)三塁打(城野)本塁打(安仁屋)
  観客が笑いと拍手に沸いた。神無月が何のケレンもなくスタンドに〈謝罪〉のお辞儀をしたからである。
 ことのいきさつは―九回、神無月のホームラン性の打球が左翼フェンスに当たったという判定が、水原監督の抗議によって、ポールに当たった(左下写真)という判定に覆ったことに始まる。気の荒い広島ファンがいきり立ち、たちまち険悪な空気が球場全体を覆った。すでに二十点を奪われてはいたが、白黒はっきりさせなければすまない広島人気質に火が点いた。おおもんたれ(ほら吹き)、しごうしゃげたるぞ(しばきあげるぞ)、殺しゃげるぞ(殺すぞ)、という言葉まで飛び交うありさまだ。ポールに当たったとダメ押しの申告をしたのが自軍の井上ときてはなおさらである。
 九回裏の攻撃に入っても騒ぎが収まりそうもない。そこへきわめて真摯な神無月の敬礼である。守備についた神無月は帽子を取り、許してくれと言わんばかりにスタンドに深くからだを折った。一気に騒ぎが静まり、球場内に好意的な拍手と笑いが充ちた。井上よく言った、と叫ぶ客までいる。
 一転して後味のいい爽やかなゲームになった。怒りを収めて拍手喝采をした広島ファンばかりでなく、誤審をすぐに訂正した田代線審も爽やかだった。何より爽やかだったのは〈身を捨てて〉頭を下げた神無月当人である。六回の交代後の猛打は言うまでもなく、人心を鎮静させた神がかりの気配りのことだ。当たった当たらない、ヒットだホームランだと理を詰めて争ってもこうはいかなかっただろう。神無月の最敬礼には、おためごかしではない真心があふれていた。そうであったればこそ、一触即発の剣呑な広島球場に平和が戻ったのである。神無月郷という男、ひょっとして慈母神が地球に贈ったプレゼントかもしれない。


 マスコミの舌はすごい。
 あしたの試合後帰名する小野と山中が、のんびりコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。宴会場での朝食の時間は過ぎているので、フロントで斉木にお勧めの店を訊く。紙屋町二丁目のマツノヤと答えた。トンカツの店だと言う。
「小さな店ですけど、おいしいですよ。なんなら案内をつけましょうか」
「いえ、ぶらぶらいきます」
「そうですか。ここから歩いても十分ほどのところです。袋町公園を真っすぐいけば大通りに出ます。元安川の手前です。大通りに出たら人に尋いてください。昨夜はすばらしいパフォーマンスでした。簡単には引っこまない広島ファンが、ピタッと静まってしまいましたからね」
「タイミングがよかったんでしょう。じゃ、いってきます」
 小野と山中に挨拶をして表に出る。ファンがチラホラいて、うれしそうにシャッターを切る。菱川たち数人が、駐車場でバットを振っていた。江藤もいた。みんな没頭しているので声をかけなかった。
 袋町公園を過ぎて右折。すぐに左折して川筋を目指す。市電の走る大通りに出る。通りがかりの中年の男に、
「ここは何通りですか」
「リジョウ通り。鯉にお城と書きます。鯉城ちゅうのは広島城の別名です。もとは広島城の外堀から広島湾に西堂川ちゅう運河が通じておりましたが、市電の敷設で埋め立てられました」
「そうですか。その川で鯉がよく獲れたんですね」
「さあ、それはよく知りません。ただ、広島カープは城の名前からきてますわ」
「なるほど。ところで紙屋町二丁目というのは?」
「そのすぐ右の大きな交差点は本通と言います。そこを左折して一つ目の交差点が紙屋町二丁目の交差点です。どこにいきたいんですか」
「マツノヤという食べ物屋です」
「それなら、本通を左折して一本目の道を右折したらすぐあります。紙屋町までいく必要はないです」
「ありがとうございました」
 本通の交差点を左折すると商店街になっている。食い物屋、菓子屋、洋服屋、歯科、眼科クリニック、本屋、文具店、喫茶店。どこでも見かける街並だ。一本目を右折。右手にあった。松のや。たしかに小さな店構えだ。広島県民文化センターと看板を掲げた建物が目の前にある。
 陳列ケースを見てから、戸を引いて入る。清潔で広い。カウンター一枚、テーブル四卓。客は六分の入り。開いているテーブルに座る。壁に、朝四時から営業・年中無休という貼紙がしてある。ロースかつ定食七十グラム三百円、九十グラム四百円、百五十グラム七百円、豚汁定食三百円、ソーセージエッグ定食三百円。たまげた値段だ。安すぎる。
「ロースかつ定食、九十グラムをお願いします。どんぶりごはん大盛り」
「はーい!」
 カウンターの三人の店員がいっせいに応える。十分ほど待って、二十代の女店員が盆を運んでくる。五切れ。適度な量だ。キャベツこんもり。ポテサラ少々。めしはどんぶりに大盛り。具の少ない味噌汁。満点だ。トンカツソースをかけ、カラシを塗って食う。うまい。箸が止まらなくなる。店内の喧騒。
「根本さん、来年あるかや」
「松田オーナーが最下位でええ言うたんじゃけん、クビにはならんやろ」
「正直に最下位にならんでもよかろうに。しかし、いつ広島の天下がくるんじゃろのう」
 野球の話だ。箸の勢いのまま素早く食い終えた。水を流しこむ。ごっそさん、と小さい声で言って立ち上がると、
「オー! 神無月!」
 客が叫ぶ。眼鏡をかけてこなかったことに気づいた。
「ほんとじゃ!」
 レジで支払いをしているところへ客たちが立ってきて握手を求める。
「色紙、色紙!」
 年配の店員がカウンターから出てきて、女店員から受け取った色紙とマジックペンを差し出しながら最敬礼する。サインする。ブラッと寄って満点の味、松のやさんへ、と書く。
 ―馬鹿だ。
「ありがとうございました!」
 客が口々に、
「きのうは感動しました」
「ちゃんとボールに当たっとったもんなあ」
「今夜観にいきますき、がんばってつかあさい」
「広島球場の中日戦はきょうが最終戦ですけえ、盛り上がりますよ」
「がんばります。ごちそうさまでした」
 結局元安川筋へはいかず、市電やバスとともに紙屋町を歩く。灰に緑のツートンカラーの電車が美しい。白に赤、白にオレンジのツートンカラーも走っている。線路の入り組んだ模様がさらに美しい。交差点南東に第一広電ビルが建っている。三井系の看板がいくつか壁面から突き出している。共同開発でもしたのだろうか。遠くに広島城が霞んで見える。自転車が何台も走り過ぎる。快適な街だ。
 本通から袋町小学校へ。正門の外に白い立札が建っている。この小学校が被爆建造物である旨書かれている。爆心地からたった四百六十メートルの場所だったにも拘らず、唯一鉄筋コンクリートだった西校舎だけが外郭のみ原型をとどめて残ったらしい。木造校舎は一瞬にして倒壊、全焼した。疎開をしていなかった児童と教職員百余名が死んだ。いまはどちらの校舎も改築されている。
 被爆した直後の校舎のドアや窓が校内にそのまま展示されているようだが、見る気はしない。被爆した人たちの死にざまがいかに悲惨かは、すでに似島で〈学習〉した。記録として学習するどんな死も、実際にこの目で見たキンタマ兄弟の死ほどは胸に響かない。けいこちゃんの死さえ胸に響かない。実際に彼女の轢死体を目にしていないからだ。目にしていなければ、想像力云々以前に、それは架空の話だ。


消化試合その12へ進む

(目次へ戻る)