六十四

 快晴の空が曇ってきた。街ゆく人びとを眺める。鉢巻のようなヘアバンドを締め、植物柄の色とりどりのシャツを着たヒッピースタイルがまず目につく。幅広のネクタイ、ブーツ、半袖のホンコンシャツ、パンタロン、ローファー、ミニスカート。長髪の男たちと短髪の女たち。東京も名古屋も広島も変わらない。角刈りで、年じゅうユニフォームを着て暮らせることを幸福に思う。
レコード店で足を止める。ジャンピング・ジャック・フラッシュ、ヴィーナス、ワイルドでいこう。うるさい。ビートルズ以来、洋楽はうるさくなった。ルイ・アームストロングのこの素晴しき世界、B・J・トーマスの雨に濡れても。二枚のEP盤を買う。これでも飯場時代のポップスに比べれば名曲ではない。クマさんも遠い長野の地で嘆いているだろう。
袋町公園を過ぎて世羅別館へ。二時間のあいだにファンの数が数倍にふくれあがっている。玄関で立ち往生していると、一枝と太田が飛び出してきて、ガードするように館内へ押しこむ。太田が、
「また散歩ですか。何ごともなかったですか」
 松のやでトンカツを食ってきたことを言う。
「色紙を一枚書いた。しつこい人はいなかった」
 一枝が、
「女のファンには気をつけろよ。ホテルの部屋まで押しかけるやつがいるからな。とにかく近寄ってくる女はだめ。思い定めた女とスマートに遊べば、芸能メディアに追いかけられることもない」
 置きベンチに坐っていた高木が、
「金太郎さんはシラッとしてるから心配ないよ。ファンとの距離をちゃんと保ってる。ファンの中には、サインをもらえないと暴言を吐くやつがいるし、サインしてもオークションに出しちゃうやつもいる。大半は誠実じゃない。金太郎さんの事件みたいに、逆恨みして刃物で襲うこともあるしな。まあ、あの事件のおかげで、プロ野球全体で警備員を増やす傾向が出てきたんだけど」
「江藤さんたちは?」
「仮眠。きのう遅くまで飲みに出てたから」
 正午。出発まで三時間半ほどある。ロビーでもう一度新聞を読む。『カープ哀史』という記事があった。

 終戦直後、日本には多数のプロ野球チームが存在していたが、野球王国広島にはなかった。市民たちの嘆きは深かった。……昭和二十四年四月、広島にプロ野球チームが誕生すると聞き、市民たちは大いに歓んだ。……正力松太郎の提唱で、アメリカの例に倣って二リーグ制……初期のカープの実情は目を覆うほど酷かった。予定していた資金調達がうまくいかなく……ユニフォームは揃えられず、ボールは縫い直して使い、選手が泊まる正規の宿舎もなく、風呂は水浴び、給料すらまともに支払えない状態。プロ野球チームとは言いがたい貧乏球団だった。
 破れユニフォームを着て、ファンからカンパを募ったり……他球団の有力選手をカープに入団させるために、カープファンがその選手の自宅前に坐りこんだこともある。……カープが勝つと豆腐を無料で配る豆腐屋、タダで試合を観るために、球場の外の便所の汲み取り口から侵入するファン、いくらなんでもやりすぎだろうと思われるが……県や市が金を出さないなら仕方がないと、石本監督は後援会を作って球団の運営資金を募ることにした。そのために磯田や長谷川といった選手たちが会員たちの前で流行歌を歌ったり、サインボールを投げたり……。
 続々と後援会ができ……急場をしのいだ。……カープがどれほど愛されているかがよくわかる。……原爆に打ちのめされた広島がここまで活気づいたのもカープのおかげ……カープが負けつづけると、カープ愛ゆえに暴言を吐いて……。
 球団旗の横七本の線は広島市の七つの川を表わし、CARPの赤文字は緋鯉を表す。……大人五十円、子供十円の入場料…………カープが勝つことは、ピカドンに勝つこと……ピカドンの病気で苦しんでいる人たちに勇気を与える……。広島市民にとって野球は、たかが野球ではないのである。


 広島市民のカープに対する執着の強さが、どういう経緯ででき上がったものか理解できた。広島カープは、原爆という地獄の苦しみを乗り越えてきた人たちを鼓舞する象徴的な存在なのだ。それは、愛と呼ぶよりも、宗教と呼ばれるのにふさわしい。
 大時計が十二時半を指している。私も仮眠をとることにした。
         †
 二時間ほど寝て起きる。頭と目が軽い。歯を磨く。きちんとユニフォームを着こむ。窓辺に立ち、ぼんやり市街地を眺める。
 ―水をください。
 だれかにいとしまれたにちがいない肉体が、最後にそんな身も蓋もない切迫した言葉を搾り出して滅んでいった。似島も、袋町小学校も、現実に起こったことだ。しかし、その一瞬の死は、偶々目撃し、幸か不幸か生き延びて、思い出すことができる人にだけ起こったできごとなのだ。目撃しなかった人には、それは知識であり架空の物語だ。
 私は滅んだ人びとに心寄せて悼むことができない。たしかに、刹那に滅んでいった人の苦しみを想像することはおぞましい。しかし、それは恐怖であって、哀悼ではない。彼らの顔も声も仕草も知らないので、哀悼として結晶しない。
 親族や恋人や知人の一瞬の死を目撃し、たまさか生き延び、思い出すことしかできない人間には、彼らの滅びを忘れるための感情操作が必要だ。私がキンタマ兄弟の滅びを忘れたように―。まず、滅んだ人間はわが身に起こったことの重大さを認識できなかったという事実に安堵すること。次に、彼らは生き延びた者の生命欲を掻き立てるために、身を挺して凄絶な死にざまを示したのだと信じて感謝すること。そのうえでがんばって、生き延びたみずからの命を長く健やかに生きること、夢見心地で生きること、愛にまみれて生きること。おそらくそういう生き方の中には、滅んだ者を自分から切り離して社会的に意味のある象徴にすることは含まれていない。その種の象徴化の感情操作には、健全さや、夢見心地や、愛といった個人的没頭がない。宗教的な救済を求める社会的な同化だけがある。
 広島カープも同じだと思える。カープは、創設時は、教団宗教的なものではなく、もっとファンの肌に近い、個人的な存在であったはずだ。遠い宗教的な偶像ではなかったはずだ。無理やり原爆からの復興の象徴として社会的意味を与えられていなかったはずだ。単純な娯楽の種を祭壇に祀り上げてはいけない。広島カープにかぎらない。プロ球団の成員一人ひとりは、ただ野球という娯楽が好きで、野球で遊んでいるだけなのだ。人生はすべて偶然だから、だれかの人生を左右するような宿命的な役割を自分たちが担うとは思っているプロ野球選手はいない。彼らはたぶんこう思っている。
 ―自分たちを観る人びとは、純粋に自分たちの技量を愛で、自分たちにあこがれ、将来の夢を託し、生活のエネルギーにできればそれでじゅうぶんだと考えているだろう。だから、政治的な思惑に利用されたり、国民的なイベントの象徴にされたり、精神的救済の偶像にされたりしないように、明るく、わがままで、破天荒な個人の集合体に徹して行動しよう。
         † 
 四時前、ロッカールームでわいわい雑談。高木が、
「日野、ときどきおまえがショートに代わることがあるだろ。送球が逸れるんだよね。修ちゃんはまずない」
 日野が、
「すみません。きちんと投げようとしちゃうんですよね」
「真ん中に送球しようとするから逸れるんだよ。適当でいいんだ。相手がどんな送球でも捕ってくれると信頼するわけだ」
「はい。でも、適当に投げられないから困るんですよ」
「失敗して、図々しくなればいい」
 田宮コーチがカープうどんをすすりながらスターティングメンバーを告げる。一番センター江島、二番セカンド伊藤竜彦、三番ファースト千原、四番レフト葛城、五番キャッチャー木俣、六番サード徳武、七番ライト江藤省三、八番ショート日野、九番ピッチャー水谷寿伸。関西方面帯同の本多コーチが微笑みながら、端の席にいた松本を見やると、松本は立ち上がり、
「松本忍です。きのう、来季戦力外を正式に言い渡されました。きょう一イニング投げさせてもらうことになってます。引退試合になります。精いっぱい投げます。どうか援護のほど、よろしくお願いいたします」
 拍手していいのかどうか迷っていると、江藤が、
「よし! 満員の球場で最後を飾れてよかったな」
 江藤は太田から耳打ちされ、にわか知識を入れる。
「育成で入ってこの三年間よくやった! 四勝七敗か。立派なもんたい。それば勲章と思うて、来年から、どんな仕事に就いてもがんばれよ」
 その言葉が誘い水になって、盛大な拍手が上がった。私は、
「三年間でどのくらい投げたんですか」
「去年まで登板数五十一、投球回数百十一回、被安打数九十六、被本塁打十一、与四死球二十九、奪三振六十一、防御率二・七九です」
「立派なものですね。二イニングに一個は三振を取ってる」
「得意球がカーブしかなくて……。育成でいっしょに入った森田は、去年退団しました。私はおととしまで、名古屋中央高校の定時制にかよいながらファーム暮らしをつづけ、ようやく契約にこぎつけました。初勝利のときのキャッチャーは新宅さんでした。今年も八月十四日の対アトムズ十八回戦で三イニング投げさせてもらいましたが、三ホームラン喰らって六安打六失点でした。防御率も三点台に落ちました。きょう一イニングでも投げさせてもらえれば五十二登板です。これ以上防御率を落とさないようがんばります」
 やはり拍手する内容ではなかった。
 ドラゴンズのバッティング練習開始。参加せず、数日分のランニングを取り戻すつもりでひたすらフェンス沿いに走る。三種の神器も同じ気持ちで。
 高木に頼んで、三塁側ファールゾーンでキャッチボールを入念にやる。十メートルから。
「最初から、からだを大きく使って」
「はい」
「最初小さく投げると、小さくからだを使うようになっちゃうからね」
 初めて聞く知恵だった。腕を大きく振って軽投する。
「そうそう。捕球は片手取り。両手を使う必要はないよ。理由は同じ。からだを大きく使える。捕ったら一歩前へ」
「はい」
 十球投げる。二十メートルに伸ばす。手首に力が入りはじめる。すばらしいボールがくる。高木は捕球するたびに、ヘイ! とか、サ、コイ! とか叫んでいる。私もまねをする。こういうことを学びたかったのだ。十球投げる。
「次、捕ったら、ワンステップ!」
「はい!」
 十球投げる。
「低いボールで! ワンバンになってもいいぞ!」
「はい!」
 肩と肘も使う。
「ウホー、超スピン、コワ!」
 十球力強く。高木のグローブがいい音を立て、高木からも強烈なボールが返ってくる。
「オッケー、おしまい! 肱の高さ、肩のライン、バッチシ。教えることなし!」
「しっかり教わりました!」
「バズーカの肩だな」
 ざわめきに振り向くと、コーチ、レギュラー陣が遠巻きに取り囲んで、真剣な目で見つめていた。
 スタンドが立錐の余地のない満員になっている。三万一千人。諸所で広島の球団旗が揺れる。ドラゴンズのフリーバッティングが終わり、広島の守備練習が静かにつづくあいだに、選手食堂にいき、中、高木とカープうどんを食う。トッピングは、きつね、肉、天ぷら、ぜんぶ載せ。煮こんだ牛スジ肉がうまい。タレもコクのある甘辛さで好みだ。
「よし、いくか」
「はい」
 ドラゴンズの守備練習。参加せず、ベンチから千原、伊藤竜彦、葛城、徳武の連繋プレーを眺める。中に訊く。
「カープの誕生は昭和二十五年ですけど、広島球場はいつですか」
「寄付金が集まるのに時間がかかって、昭和三十二年の夏にでき上がった。内野席は一層でかなり殺風景な球場だったけど、全体的に広い感じがしたな。翌年内野スタンドはネット裏と同じ高さにでき上がった」
 江藤が、
「審判の名前ば扇形のフィールドのそれぞれの位置に埋めこんどるのはおもしろかろう。現在の打者はランプで、走者はランプの外側を囲むネオンで教える」
 高木が、
「スコアボード棟の中は蒸し風呂状態だから、係員はいちばん外側のパネルを外して涼むんだ」
 ラッパ、鉦、笛の音が聞こえだす。メンバー表交換。先発投手発表。
「中日ドラゴンズ水谷寿伸投手は、三十八試合目の登板、四勝零敗でございます。広島カープ白石静生投手は、三十六試合目の登板、十一勝十三敗でございます」
 一枝が、
「あらあ、きょうも白石だ」
 江藤が、
「きのうのリリーフは肩慣らしやったんやな。五、六回まで金太郎さんがおらんけん、大量点取るのは無理やろう」


         六十五

 対広島二十三回戦。六時半の気温十八・一度。きのうと同じくらい強い風がセンターからやや右に向かって吹いている。広島カープの先発メンバーは一番から、レフト井上、セカンド古葉、センター山本浩司、ライト山本一義、ファースト藤井、サード興津、キャッチャー田中尊、ピッチャー白石、ショート今津。
 中田球審のプレイボール。江島が打席に入った。初球、二球目、トントンと外角カーブでストライク。三球目、外角シュート。バットの先に引っかけてセカンドゴロ。ん? なんだ、いまの打ち方は。同じコンビネーションで伊藤竜をセカンドゴロ。やっぱり甘かった。千原、シュート、シュート、カーブでショートゴロ。黒い雲が頭上にかかる。
 二回からも白石は、力まずコースをつきながら、きのうとは打って変わって終始穏やかな表情で投げた。五回表終了まで打者二十一人、ヒットは木俣と伊熊と水谷寿伸に許さなかっただけで、ほかの全員に一本ずつ単打を打たれた。それでも散発六安打、無得点に抑えた。絶妙のピッチングだ。六回から大石弥太郎に代わった。
 広島は一回裏、井上が先頭打者ホームランで一点先取。その後は凡打を繰り返した。四回から水谷寿伸を受け継いだ松本は一回だけ投げ、打者五人、二安打、三振一で無得点に抑えた。五回から代わった門岡は八回までシャットアウト。
 中日は六回表から次々と代打を繰り出し、先発と入れ替えていく。六回の第一打者は五番葛城に代わる私だった。大石弥太郎は阪急からきて花開いたピッチャーで、去年の開幕投手だと長谷川コーチに教えられる。タコ踊り。彼とはこれまで三度対戦して、一ホームラン、二フォアボール。バタバタとしたフォームがうるさいけれど、ボールは素直な直球が多い。内角胸もと、ストレートで二球押し。ツーボール。三球目、脇腹目がけてやってきたカーブを、からだをくの字にしてよける。するどく曲がりこんでユニフォームをかすった。痛くないデッドボール。
 木俣の初球、外角遠く外れるストレート。ボール。その間に盗塁。バタバタ投げるので走りやすい。さあ戦闘開始とベンチが活気づいた。しかし、勝利の予感に盛り上がったのもそこまで。木俣セカンドフライ。大石は白石以上の絶妙なピッチングを展開した。コーナーを突いたストレートでカウントを整え、変化球でタイミングを狂わせて凡打に打ち取る。打者十九人、被安打四、敬遠一四死球二(すべて私)。二本のヒットは、八回に太田がライト前ヒット、九回表に高木の三十六号同点ソロ。その裏広島無得点で延長戦に入った。私は死球のあと、フォアボールと敬遠。死球のときを含めてそのつど盗塁をしたが、六回の盗塁は成功、八回は刺され、十回は成功したが残塁だった。
 広島は一対一の同点で迎えた十回裏、センター前ヒットで出た古葉を一塁に置いて、山本浩司が右中間を深々と破る二塁打を放った。古葉長駆生還。一瞬のうちのサヨナラとなった。門岡はサバサバした顔でマウンドを降りた。山本浩司が飛び跳ねながらチームメイトと抱き合っている。私たちはインタビューのないことにホッとしてベンチへ走り戻った。
 水原監督は春先に、四十敗ぐらいはすると言ったが、これからあと十三試合全敗してもそれはない。きょうが十六敗目、あと何敗するか楽しみになってきた。来年もこうだといいけれど。
 まだ八時四十五分。ヒーローインタビューは山本浩司が受けている。水原監督が、
「さあ、帰りますよ。きょうはゆっくり宴会です。金太郎さん、山口くんがイタリアのギターコンクールで優勝しましたね。おめでとうと水原が言っていたと、よろしくお伝えください」
「はい」
 江藤が、
「ワシらからもな」
「伝えます。レコード買ってあげてください」
「予約したっチ。タコたちにも予約させたくさ」
 水原監督が、
「私も予約しました。次のレコードも予約しましたし、十二月のコンサートのチケットも手に入れました」
「え、そんな予定があるんですか」
「二十四日と二十五日、豊島(としま)公会堂」
「いけるかも」
「出歩かないほうがいい。金太郎さんに東京は物騒だ。いずれ名古屋にも演奏旅行で回ってきますよ。あしたの飛行機は一時二十五分発、羽田到着二時四十分。羽田にはニューオータニのバスがきてます。羽田から四十分。三時半には着きます」
 通用口を出、ファンたちに揉みしだかれながら、今年最後の世羅別館の送迎バスに乗る。
「来年待っとるぞ!」
「西宮でも藤井寺でも応援いくけぇな!」
「日本一になれよ!」
「来年はカープをいじめんさんなや!」
 窓から手を振って出発。なぜか感無量。前方の席で監督コーチたちの話し声がする。
「足木くん、うまくやってるかな」
 長谷川コーチが、
「ドジャースに帯同するんでしたっけ」
「そう、帯同しながら広報の勉強をして、シリーズの前には帰ってきます」
「外人は引っ張ってきませんよね」
「今回はそれが主じゃないです。でも、わかりませんよ。もともと足木くんは渉外担当だし、外国人獲得に尽力してきた人でしょう。人を見る目は確かだ。彼の強い推薦があった選手は一度見てみないとね。私は見る目がないね。コンちゃんでわかったでしょう」
 一瞬〈コンちゃん〉とはだれのことか思い出せなかった。本多二軍監督が、
「あれはコネ入学みたいなものですから」
「私の責任です」
 星野秀孝が江藤に、
「広報って何ですか」
「まあ、いろいろたい。マネージャーとしてのチームの面倒見やら、チームをうまく商品として売り出す仕事やらの。通訳もせんといけん」
 長谷川コーチの声が聞こえる。
「巨人戦、広島戦、阪神戦と、これからのクールはほとんどレギュラーオーダーになります。故障者が出ないかぎり、シリーズの固定メンバーを決めるのは、二十一日の最終広島戦ですね。巨人戦の三日間の先発予定は、星野秀孝、小川、門岡あたりですか」
 小川がコーチ連に、
「阪急の新しい情報、何かありますか」
 田宮コーチが、
「長池が三十七本で、ホームラン王当確だ。四十本は打つな」
「俺、おととしのオールスターでは、長池にスリーランを打たれた。王よりは抑えやすいけど苦手の部類だ」
 星野秀孝が、
「小川さん、ほかに苦手なバッターは?」
「矢野、岡村、森本、阪本、大熊」
「ほぼ全員ですね」
「とにかく長池だな」
 水原監督が小川に、
「近鉄は考えてないんですか」
「はい」
「どうして?」
「勘ですが、近鉄は強打のチームに弱いので、最終クールが阪急なのは残念賞だと思いますよ。たとえ出てきても、長池のいないチームは怖くないです。土井や永淵には打たれないから、作戦は要りません」
「心強いね。その勢いで頼みますよ」
「オス」
 九時過ぎから会食。今夜も豪華な食膳。ふぐ会席。刺身、唐揚げ、鍋、雑炊。満腹になった。会食後、外出する江藤たち一行に挨拶して部屋に戻る。小さな風呂に浸かり、虫の音のような耳鳴りを聴く。荷物整理。ロビーに降りて段ボール箱を北村席へ送る。あと十三試合。ラジオ・テレビの情報を一切遮断し、熟睡。
         †
 十月六日月曜日。八時起床。冷えこむ。窓の外は快晴。三種の神器。数カ月ぶりにふつうの排便、シャワー、歯磨き、洗髪。
 会食場で彩御膳。豪華な膳ではなく、納豆、ヒジキ、キンピラゴボウ、ゼンマイと油揚げの煮つけが食いたい。私たち仲良し組のおさんどんに園山勢子がついた。
「来年のオープン戦までお別れですね。首を長くして待ってます」
 江藤が、
「今年の夏はありがとうございました。似島は恒例にしましょう。年に一度は広か海が見たいけん」
「はい。計画しておきます」
 斉木がやってきて、
「お名残惜しいです。どうぞ半年間お元気でおすごしください。日本シリーズ、別館全員で応援しております」
「ありがとうございます」
 私たちと深く頭を下げ合うと、斉木は監督たちのテーブルへ回っていった。
         † 
 広島から羽田に向かう飛行機の中で、新聞を読んでいた中が、
「千葉の松戸市に《すぐやる課》を設置」
 星野秀孝が、
「なんすか、それ」
「ノロくさいお役所仕事の追放と書いてある。困っている市民を助ける精神、か。職員二人で発足というのがは弱いけど、黒沢の『生きる』の心意気だね。さっそく十六件の要望があったらしい。土木・清掃関係が九割、害虫駆除関係一割」
 太田が、
「水道栓が壊れてるとか、道路に穴が開いてる、スズメバチの巣がある、みたいなものですかね」
「だろうね。いつまでつづくかな。『生きる』で市役所員が言ってたけど、何もやらないことが役人の大事な仕事だというくらいだから」
 水原監督が、
「それを叱るために、聖徳太子のころから役人の心構えをくどくど説いてるからね。いつの時代も役人根性というのはどうにもならないものなんだよ」
 宇野ヘッドコーチが、
「たらい回し、杓子定規、時間厳守ですな。役人の健康と幸せを第一に考えたシステムですよ。日本人が公務員、公務員と言って、役人を大切にする気持ちがある以上、しょうがないですね」
 美男子本多コーチが、
「金太郎さん、何か毒舌聞かせてよ」
「ぼくの場合、給料取りの理想は土方とプロ野球選手ですから、ほかの職業の人のことは考えたことがありません」
「うん、きっとそうだろうね。じゃ、考えてもらおうかな。毒舌を何としても聞きたいからね。彼らはなぜ責務を全うできないんだろうね」
「不正を行ないやすくするために、頻繁な異動をするからでしょう。あとのことは勝手にしろ、がモットーですね。慣れない人が後任ですから、責任はうやむやになります。後任が不正を暴いたとしても、身内の不始末は組織ぐるみで隠蔽するのでだいじょうぶです」
「出た! 気持ちがいいなあ。どうして隠蔽するんだろう。役人は人気者なんだから、正直にしていても庶民は辛抱するのに」
「不正というみっともない評判で自分のキャリアに傷をつけないためでしょう。大好きな試験に受かって手に入れたキャリアですから、個人的には大切なものなんです」
「いいぞ! たらい回しは?」
「怠惰な人びとが作り上げた由緒ある方針ですね。面倒くさいからだれかに回してしまえという責任放棄。だれにもまかせられないぼくたちのような肉体労働者からは、縁遠い習慣です」
「よ! 道路の掘り返しはどうだ」
「水道管、下水管、ガス管、すべて別々に掘り返し、埋め戻す。そのせいで道路がデコボコになって、再舗装の仕事が持ち上がる。ある種の社会福祉ですね」
「最高!」
 宇野ヘッドコーチが、
「金太郎さんで遊ぶなよ、本多ちゃん」
 機内が大笑いになる。


         六十六

 二時四十分。羽田に降り立つと、薄白い雲を刷いた青空。涼しい。腕時計を見ると二十一・二度。到着ロビーでファンの嬌声と記者団のカメラに取り囲まれながら歩く。警備がきびしい。
 ニューオータニに向かうバスの中で、高木が中に、
「柴田がきのう三百盗塁を達成しましたよ。利さんはいまいくつですか」  
「四月十二日の開幕戦に三百を達成してから、十九個目かな。三百十九。来年すぐ抜かれるね」
「俺は今年二十個で、二百を超えたばかりです。三百までは五年以上かかるな」
「柴田はまだ八年目だ。一年平均四十個。十五年で六百ぐらいいっちゃうね」
「徐々に衰えるとしても、五百はいきますね。しかし金太郎さんの盗塁は格好いいね。意識してないんだろうけど、ダイナミックだから目立つ。格好いいだけじゃなく、今年は盗塁王確定だ。五十個ぐらいいく感じだね」
 江藤が、
「金太郎さんはいまのところ四十二回成功させとるばい。盗塁死はきのうの一個のみ。柴田や利ちゃんより走っとる」
 水原監督がワハハハと笑った。
「高木くんはスラッガーに成長したが、もっと走ってもらうよ。膝の悪い中くんが十九個も走ってるんだからね」
「ほーい!」
「うちで走れるのは、あとは一枝くんだね」
「すみません、今年八個です」
「俺、一個」
 木俣が笑う。江藤が、
「ワシも一個たい」
 半田コーチが、
「来年はもっと走らないといけませーん。みんな足が速いのですから」
 一枝が、
「タコ以外はな」
 菱川が、
「太田は格好悪いですけど、意外と足速いんですよ」
 太田は、
「俺、来年十個いきます」
 ホテルの前もファンと記者の群れ。ほとんど全員足を止め、少年たちがロープ越しに突き出すノートにサインする。江藤や太田が大きな手で子供たちの頭をごしごしやる。あれができない。直人にならできる。心に微妙な分け隔てがある。
 四時。五階八号室に入り、すぐに詩織に電話をする。
「あ、神無月くん、ひさしぶり。きょうは広島の帰りでしょう?」
「うん。どう? リーグ戦の調子は」
「きのう法政に負けました。山中投手が四十六勝の日本新記録を作っちゃった。不名誉です。でも、去年の優勝は例外として、十年ぶりに五位になれそうです」
「この秋、東大はもう二勝も挙げてるんだって?」
「はい、五位の可能性が出てきました。入試中止のせいで新入部員がゼロだったので、東大だけは留年組が出場してもいいってことになって。水壁さんと棚下さんが残ってくれました。ベテランのがんばりのおかげです。今年は、キャッチャー棚下さんの活躍がすごいんです。二割九分、ホームラン二本。ベストナインに選ばれると思う。那智くんが頭角を現してきて、エースになりました。二勝とも彼が挙げた勝ち星です。早稲田の小笠原くんは復活しました。いま六大学の速球ピッチャーの五本指に上げられてます。東大の那智くんもその一人です」
「マネージャー辞めても、やっぱり気にしてるんだね」
「そうですね。どうしても」
 下通との文通の話が出る。
「月に一、二度やりとりしてます。神無月くんのことばかり書き合ってます。進振りで統合自然化学科に進学することが決まって、そこでスポーツ科学コースを採ることになりました。プロ球団広報への進路を考えているのは私一人です」
 とうれしそうに語った。
「授業は正常に戻った?」
「はい。去年の末から細々と継続してきた講座もありますし、無期延期と言われてた講座も九月から再開しました。……五百野、傑作です」
「少年少女の読み物だよ」
「神無月くんの言ってることは中りだと思います。日本国の大人の文学賞には推されないでしょう。学者、インテリのために出版物のある国ですから。でも、でも国民の心に残る純文学として、燦然と文学史に残ります。まちがいありません」
 私は何も応えず、
「近況がわかってよかった。今度はオフになったら手紙を書く。……詩織がそばにいてくれることにずっと感謝してる。このごろチームメイトにも深い感謝を感じるようになった。ところで、山口のこと知ってる?」
「もちろん。友だちでいることに誇りを感じます。レコード、予約しました」
「彼のそばにもいつもいてあげてね。オフのファンクラブサイン会で会おう。じゃ、そろそろチームメイトと会食だから、このへんにするね」
「はい。忙しいのに、わざわざ電話ありがとうございました。声を聞けてうれしかった。愛してます」
「ぼくも。詩織に遇えてよかった。愛する人間に遇わない人生のほうがきっと百パーセントなんだろうけど、遇ってしまえば愛が百パーセントになる」
「ほんと。不思議ですね」
「不思議の中で生きられるだけ生きよう」
「はい」
「じゃ、さよなら」
「さよなら」
         †
 六時から『にいづ』にいって、うなぎを食った。美味。新幹線の生臭いゴムうなぎと段ちがいのうまさだ。ネネから電話がありそうな気がした。人生の喫緊の問題は、若い人間よりも老いた人間のほうが抱えている。残り少ない命を不安に思っている彼らに心を尽くさなければならない。
 部屋に戻ってテレビを点ける。新日本紀行、カラー放送。インターチェンジの町、滋賀県栗東(りっとう)町。名神高速道路の栗東インターチェンジの設置と、競馬のトレーニングセンターがあることで繁栄を約束された町。多くの企業進出で農村が都市化していく話題。すべては経済の話。重厚そうな話はすべて金に収斂する。興味もなくボーッと観る。八時。チャンネルを替えて、水戸黄門。東野英治郎、杉良太郎、横内正、中谷一郎。黄門さま、助さん、格さん、風車の弥七。勧善懲悪の非現実。こちらのほうがスッキリする。
 九時過ぎにやはりネネから電話がかかる。
「いま巨人―大洋戦の最中です。ちょっと遅くなりますけど、十一時過ぎにお訪ねしていいですか?」
「もちろん」
「あしたから二連休になるので、泊まりがけで訪ねたいんですけど」
「いいよ」
「朝早く、選手がたが起きる前に帰ります」
「わかった。ドアを開けとくね。ノックしないで入って」
 手持ち無沙汰になった。三階のジムを覗いてみる。
「あ、神無月さま、いらっしゃいませ」
 フロントの男が直立不動になる。
「遅いけど、ちょっと見学していいですか」
「どうぞ、ご遠慮なく。二十二時までですので」
 女子事務員をつけて館内へ送り出す。目を瞠るほど大きいサウナ室、Jの形をしたプール。
「これはプールというより、水着で入るぬるいお風呂です」
 カラオケの設備の整ったスタジオ。鍼灸マッサージルーム、ベッドを二つ置いてあるビューティサロン、日焼け用の器具が備えてある部屋、ゴルフレッスンの部屋、そしてトレーニングジムだった。どの室にもチームメイトは一人もいなかった。事務員が入会の案内をし始めたので、手でさえぎり、
「友人の練習の様子を見にきただけですから」
「中さま、高木さま、小川さまはフルタイム会員でございます」
「そうなの? 興味出てきたな。手続しようかな」
「ぜひ! どうぞこちらへ」
 そこへふらりと小川がやってきた。
「三十分ばかしやってくよ。おう、金太郎さん、入会か」
「はい。これから手続です。ニューオータニとは長い付き合いになりそうですから」
「暇なとき便利だぞ。じゃな」
「それじゃ」
 男子事務員に書式を渡され、書きこむ。入会金を一万円支払い、たちまち完了。
「朝七時から夜十時まで、営業時間中はいつでもご利用になれます。ジムウエア、ソックス、シューズ、水着、タオル類、ガウン、基礎化粧品、必要なものはすべて用意されております。せいぜいご利用ください。個人ファイルをお作りして、健康運動指導士等のインストラクターとともに運動プログラムを組むこともできます。会員専用のレストランもございます」
「ブラッときます。じゃ」
「ありがとうございました。あしたの巨人戦、がんばってください」
「はい、がんばります」
 部屋に戻り、またテレビを点ける。ニュースは観ないようにする。フジテレビ、夜のヒットスタジオ。司会は芳村真理と前田武彦。岸洋子が『或る夜のブルース』という歌を唄っていた。彼女はもう少しテンポの速い曲のほうが哀調を帯びて聞こえる。ゲストに北の富士が出演して、君を慕いてという歌を唄った。新川二郎のオリジナル曲だとすぐわかった。相撲取りは、声はソフトだが張りがないので欲求不満になる。チャンネルを替える。NHKも歌番組。ボーッと観ていたら、世界のワンマンショーという番組に替わった。消す。裸になり、仰向けになって目をつぶる。何ほどもしないうちに睡魔に襲われた。
         †
 全裸の女が寄り添う気配で目覚めた。
「ん? どのくらい寝てた?」
「いまきたばかりです」
 答えるネネに口づけをする。陰毛をさする。
「きょうの巨人戦はどうだった?」
「二対八で、大洋の勝ちでした。平松が完投しました」
 ネネは顔に跨って尻を向け、少し伸びた私のものを丁寧に舐める。ネネの肛門がそっくり見える。
「ホームランは?」
「重松と米田がソロホームラン。長嶋が八回にソロホームランを打ちましたけど、焼け石に水でした」
「米田?」
「二年目の中堅選手です」
「ああ、ショート守ってる、頬っぺたの痩せた背番号34」
 含もうとして、ウグと言って、口を離した。大きな尻たぼのあいだに指を滑らせてクリトリスを愛撫する。
「あ、神無月さん……」
 ビクンと尻を跳ね上げる。
「もうがまんできないので、入れちゃいます」
 自分の腰を私の腰まで滑らせていき、足首をつかんで膣口を落とす。そのままじっと動かずにうなだれている。微妙なうねりが始まる。尻を指先でやさしく撫ぜる。
「ああ、愛してます、い、イキます、あ、イク、イクイク、イク!」
 陰茎がキュンと締めつけられる。痙攣する尻を見つめながら腰を突き上げる。
「ああ、神無月さん、だめ、イク!」
 足首を握り締め、尻をすぼめる。突き上げる。
「だ、だめだめだめ、イックウウ!」
 膣が固く私を包み、蠕動する。
「愛してます、愛してます、あああ、またイク、イクイクイク、イクウウ! もうだめ!」
 抜いて離れた。仰向けになって痙攣するネネを眺め下ろしながら、覆いかぶさって挿入する。
「あああ、好き、神無月さん、好き好き……イク、うううーん、イクウウ!」
 尻を抱き寄せ、奥まで突き入れる。すぐに迫る。
「お、大きい、いっしょに、いっしょに、あああ、イイッ―」
 吐き出す。
「好きィ! イイックウウ!」
 口を合わせながら律動する。ネネも激しく陰阜を打ちつける。存分に痙攣し、数分してようやく鎮まったので、私は離れて仰向けになった。やがてネネは懸命に肘で起き上がって私の股間に屈みこみ、滲み出ている精液を舐め取った。
「おいしい。私のものも混ざってる。不思議な味」
 ネネはバッグを探り、小振りな弁当箱を取り出すと、割箸を添えて差し出した。開けて見る。白米の上に炒り玉子を敷き、ウインナと一口ハンバーグを載せてあった。うなぎはとっくに消化され、小腹がすいている。
「いただきます」
「どうぞ」
 ネネはホテルの茶をいれた。自分の弁当は鮭の握り飯といなり寿司だった。
「痩せた?」
「わかりました? このひと月、ずっとジョギング。神無月さんのために変身するの。いつまでもかわいがってくださいね。来月の下旬、一週間ほど北海道の息子に会いにいってきます。息子夫婦に招待されたんです。二十三日の日曜日からいってきます。ひと月ほどいってくる予定です」
「出産の手伝いじゃないの?」
「そうです。二人目。ますますお婆ちゃんになります。神無月さんがオフでいろいろ忙しくなる時期でよかった。きょうからオープン戦の季節まで、五カ月逢えなくなります。でも三月からはまた逢えるんですから、楽しみのほうが大きいわ。私のこと忘れないでくださいね」
「柴田寧々、四十六歳、忘れるはずがないよ」


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