七十六

 睦子が菱川に、
「みなさん、金田投手に遠慮したわけじゃないですよね」
 ズバリと尋いた。菱川が、
「とんでもない。シャカリキになってぶつかりました」
 太田が、
「金田さんは絶好調でした。あれは打てません。打ったのは木俣さんと神無月さんだけです」
 千佳子が星野に、
「金田さんを越えるピッチャーになってくださいね」
「心がけだけはそのつもりでいます。いまのところ月とスッポンですが」
「金田さんはもう投げないんですか」
「さあ、そういうことはぼくにはサッパリ……」
 江藤が、
「四百勝の会見はしたばってんが、引退会見したわけでなかけん、もう何回か投げるんやなかね。引退試合は来年のオープン戦やろう」
 カズちゃんが、
「あしたは、朝は冷えこむそうですよ。日中は二十度になるって。連戦の疲れが溜まってるでしょうけど、がんばってくださいね」
「がんばります。十一日から十五日まで名古屋におられる思うだけで気がラクですけん、疲れは吹っ飛びます」
 太田が私に、
「あしたのダブルヘッダーは二時半開始です。うちはのバッティング練習開始は十一時半から、広島のバッティング練習開始は十二時半からです。二時まで両チームの守備練習」
「わかった。十一時までにはロッカールームに入る」
 千原が江藤に、
「半田コーチは日本シリーズのリハーサルメンバーでいくと言ってますけど、水原監督は残りの巨人戦以外は俺たち控えをぶつけるつもりだと思います。控えは生き残りをかけてるんで、新宅さんや吉沢さんみたいに辞退はしませんから、負けがこんで迷惑をかけるかもしれません。よろしくお願いします」
 江藤が、
「よしゃ、おたがいがんばらんばな」
 コンコースの大時計が八時四十分になろうとしている。三々五々タクシーに乗りこむ選手たちに手を振って別れる。菅野がしみじみ、
「水原監督という人は、常に勝ち負けは二の次なんですね。見どころのある選手全員にチャンスを与えたうえでの勝利を目指す。消化試合に入る前からその傾向はありましたからね。菱川さんの言うとおり、打ち勝つのはたいへんです。今年もし神無月さんがいなかったら、きっとBクラスだったでしょう」
「チャンスを与えてだめなときは、きびしく切り捨てる人でもあるよ。だからみんな必死になる」
「そうでしょうね。じゃ私、鯱のほうへいってきます」
 ガレージからクラウンに乗って出ていった。
 イネと幣原が、お帰りなさい、と式台に手を突く。百江やメイ子や千鶴や優子や丸たちもぞろぞろ出てきた。あわただしい平和の中に戻ってきた。トモヨさんと直人とカンナは寝てしまったようだ。アヤメの遅番はまだ帰っていない。彼女たちは九時に仕事が終わって後片づけをして北村に帰るとだいたい九時半を過ぎるくらいで、たまたま遅くまで起きている住みこみの賄いにおさんどんをしてもらいながら、遅番のトルコ組に混じって座敷の食卓で夕食をとる。賄いが寝てしまっていたら、冷蔵庫を開けて、用意してある残り物を食ったり、自分で調理して食ったりする。そうする女がほとんどだ。今夜はソテツたち住みこみ組が大勢起きているので、夜遅い女たちは大助かりだ。女将といっしょに素子や三上や近記の顔が覗く。
「おかあさん、番割り表、終わった?」
「一応な。あしたおまえ細かく見といてや。アイリスは土日休みやろ」
「うん、ゆっくり見とく」
 カズちゃんは居間の水屋から新しいお守りを出して私に渡した。少し大きめで、飾り布で包み縫いがしてあった。
「はい、これムッちゃんから、熱田神宮のお守り。彼女のアイデアで、ちょうど二十人分のあそこの毛を入れてあるわ。開けたら効力なくなるわよ」
 女将が、
「男が戦いに出るときのお守り。うちのも入っとるよ。霊験が強いほうがええやろ思って」
 百江が、
「シラガは私と文江さん。わざとにそうしたんです。どうせ見ないでしょうから」
「ありがとう。はい、これ、いままでのお守り」
 睦子に渡すと、睦子は茶を飲んでいた女将に手渡した。
「大事にしまっときましょうわい。むかし、戦地に出かける男どもはたいてい持っていったようや。女の毛じゃないとだめなんよ。女にはタマがないんで、弾に当らないというゲン担ぎやから」
「いままでも一つか二つしかデッドボールがなかったけど、これからはまったくなくなりますね」
 睦子が、
「まちがいないと思います。いままでずっと持っててくれたんですね」
「ユニフォームの尻ポケットに入れるのを一度も忘れたことがなかった」
 ソテツとキッコがコーヒーをいれてくる。カズちゃんが、
「お腹すいてる?」
「ぺこぺこ」
「じゃ、みんなと食べて」
 コーヒーを飲みさして座敷にいき、もぐもぐやっている素子たちに混じる。メイ子とイネと幣原がおさんどんをする。キンキの煮つけ。煮汁の味がすばらしい。
「ああ、北村のめしはうまいなあ!」
 ホウレンソウのおひたし、ワカメと豆腐の味噌汁、茄子の糠漬け、どんぶりめし。満点。座敷の隅で金魚が元気そうに泳いでいる。しばらく見つめる。
「きょうは素子、遅い晩めしだね」
「六時半まで文理栄養学校の一日見学をしてきたから、ちょっと疲れてまって。さっきまで食欲湧かんかった」
「どうだった」
「きれいな学校やった。カリキュラムがすごいわ。びっくりした。二年間で五十一科目。働いてられんてわかった」
 カズちゃんが、
「がんばってね。四年後にはアイリスに二人栄養士がいることになるわ。アヤメにはいま栄養士が二人いるから肩を並べられるわね。それより、キョウちゃん、八百長問題でたいへんそうじゃないの」
「うん。小川さんも取調べを受けたようだね。オールスター明けだったって。大井の八百長オートレースに何も知らずに巻きこまれたみたいで。結局シロだったから無罪放免。ドラゴンズはだいじょうぶだよ。強いチームに八百長話はもち上がらない」
 イネが、
「ナガヤスって男が行方不明だって、夕刊に載ってらったよ」
「何があっても対岸の火事だ。深刻に考えることはないさ。まじめに真剣に生きてる人間は火事を起こさないよ。ただ、小川さんみたいに火事に巻きこまれる人は気の毒だ」
「ほんだね。みんなグルになって八百長なんかでぎるはずねェすけ」
「野球は特にね。簡単なボールを投げて打たせる、それがうまくいかなければフォアボールを出して、打たれちゃったらエラーして、バッターになったら三振してなんてことをつづけてたら、いっぺんにバレてしまう。今回にしても、西鉄の選手たちは金を受け取ったけど、八百長そのものはうまくいかなかったみたいだね。暴力団と金絡みで付き合ったということに対してお仕置きされた感じかな」
 近記が、
「暴力団の名前とか、どういうやり方で八百長をしたのかとか、どうして八百長したことが洩れたのかとか、いずれぜんぶハッキリするんでしょうか」
「その三つはとても肝心なところだね。そういうところは、エロ映画のボカシみたいにぼやかして、お仕置きの結果だけを発表するはずだよ。暴力団絡みの事件は百パーセントうやむやになる。政治家、警察、企業上層部、マスコミ、その四つはヤクザとお友だちだからね。それを合わせてぼくはひそかに〈五者〉と呼んでるんだけどね。要するにヤクザ絡みだけじゃなく、五者絡みの事件はすべてうやむやになるということなんだ。ひょっとしたら裁判所もお友だちで、六者かもしれないと思ってるけどね。それはともかく、五者が仲良しなことだけは確かだと思う。よくマスコミは怖いと言うけど、マスコミの影響を受けた庶民の攻撃が怖いんじゃない。たぶん庶民ができるのは嫌がらせだけで、徹底して叩かずにいずれ忘れてくれる。怖いのは、五者の協力関係だ。彼らはいじめるんじゃなくて、仕事を奪ったり生活を奪ったりして社会から弾き出す。彼らにまとまって攻めてこられたら確実に潰される。でもぼくたちには強力な〈一者〉が味方についてる。だから簡単に潰されることはない。とは言っても、ものごとにぜったいはないから、ぼくはいつでも彼らに潰されることを覚悟してるよ。ああ、うまかった。ごちそうさまでした」
 カズちゃんがカラカラと笑った。
「一つの国が、二十歳の青年に完全に見抜かれちゃってるわね。キョウちゃんが潰されることを覚悟してる〈彼ら〉には、ヤクザという一者は入ってないけど、その一者とお金絡みの付き合いをしたら、四者が嫉妬して袋叩きにするわよ。そういうときの袋叩きはすさまじいから、ヤクザの力でも助けられない。でも、キョウちゃんが一者とお金絡みの付き合いをすることは百パーセントないから、袋叩きの危険性も百パーセントないことになるわね。安心していましょ」
 千佳子が、
「どうして袋叩きにするんでしょうか」
「金銭関係は五者のお友だち同士だけのものだから、素人が入ってくるのは怪しからんというわけ。とにかくお友だちじゃない人は、五者にお金をあげたり、五者からもらったりしちゃいけないのよ。五者同士ならいいけど」
 睦子が、
「今回名前が出てくる人はみんな潰されるんですね」
「そう。マスコミがほじくり出す、警察が捕まえる、政治家が追い討ちをかける、企業上層部がクビを切る、助かるのはヤクザだけ。結局素人がいい目を見ようとした罰よ。身から出た錆。とにかく、キョウちゃんの言うとおり、私たちには対岸の火事ね」
 アヤメやトルコの遅番組とほとんど同時に、主人が菅野といっしょににこやかな顔で帰ってきた。
「お、神無月さん、お帰りなさい。九十八勝、百五十四号、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
 食卓が賑やかになる。タバコの煙もほうぼうで立ち昇る。私は主人に、
「鯱の面接は二人合格ですか」
「一人合格、家計の苦しい女です。子供二人。助けてやらんとあかん。一人は不合格。もと大企業の勤め人、独身、貯金たっぷり。小金を貯めてブティックでも開くつもりできたんですわ。お金に困っとらん人はまじめに働かん。サイドビジネスでやられちゃ困るんです。バンスも百万要求したんで驚いてまった。それ持ってトンズラでもされたら目も当てられん」
「雇った人のバンスは?」
「十万です。涙を流して喜んどりましたわ。しっかり働くでしょう」
 キッコが、
「あたし、三十万やったで」
「おまえは身一つで困っとったからな。よう稼いで、モト取らしてくれたわ。ありがと」
「こっちこそありがとうでっせ。まだ、バンス残っとったのに、学校までやらしてもろうて」
「和子と神無月さんの頼みやからな。事情が事情や」
 菅野が、
「じゃ、社長、私帰ります。神無月さん、朝八時でいいですか」
「あしたは球場で走ります」
「オッケ。じゃ、あさってからということで。あしたは十時半にここを出ましょう」
「よろしく」
 百江も菅野といっしょに帰宅の挨拶をする。
「送ってもらえるそうです。一足先に帰ってます」
 と、うれしそうな顔でカズちゃんとメイ子に頭を下げた。百江がすでに則武に越してきていることにふと思い当たった。カズちゃんが、
「百江さん、お風呂お願いね。先に入っちゃってて」
「はい、わかりました」
 彼らが帰ると主人が、
「あと十試合。五勝五敗ですかね」
「そのくらいでしょう。あと二勝で百勝か。百勝は区切りがいいですね」
「百勝、二十五敗、五分け。百割る百二十五で……」
「ちょうど八割ね」
 カズちゃんが答える。千佳子が睦子に、
「今年のスクラップブックも、あと十試合ね。日本シリーズが終わったらダンボールにしまわないと」
「私、切抜きが少ないから、年末にまとめて見せてね」
「ワシのほうが詳しいで。いつでも見せたる。お、九時半か。おい、風呂入って寝よ」
「はい。じゃみんな、お休み」
 主人と女将が立ち上がる。彼らにつづいてソテツとイネと幣原がお休みなさいを言い、廊下へ去った。釣られるように千佳子と睦子、優子と丸信子も立ち上がった。
「お休みなさい」
「お休み」
 カズちゃんと素子とメイ子とキッコが残った。カズちゃんが、
「ビール、ちょっと飲もうか?」
 みんなうなずく。素子が、
「キョウちゃん、疲れた顔しとるわ。ちょこっと飲んで、寝てまえばええが」
 キッコが、
「あしたのダブルヘッダーからはずっと名古屋なんやろう」
 私は顔の前で手を振り、
「十六日は甲子園でダブルヘッダー。十五日の昼間の試合が終わったらすぐ甲子園へ移動の強行軍。十七日に帰ってきたら、十八、十九と巨人戦。最終戦は二十一日の広島戦」
「わあ、たいへんやね」
 メイ子が冷蔵庫から持ってきた瓶ビールをみんなについで乾杯する。
「うまい!」
 しっかり冷えているので、喉と胃袋に沁みる。二本のビールを空にして、五人立ち上がる。キッコが、
「お休みなさい」
「お休み。勉強、適当にね」
「はい、気を抜かんでやるわ」
 廊下に去った。


         七十七

 カズちゃん、メイ子、素子、私の四人で夜の路に出る。
「素子も越してきたの?」
「お姉さんに言われたときうれしかったけど、やめたわ。頭の中がキョウちゃんでパンクしてまうで。ちゃんと仕事をして、勉強もしっかりやるにはアイリスの二階がいちばんええ。お姉さん、あたし学校に入るまで、アイリスにちゃんと勤めるからね。二年勉強したらまた二年ちゃんとアイリスの喫茶部に勤める。免許とってもアイリスやアヤメの厨房には入らんよ。ホールに出る」
「だめ。私といっしょにお料理の研究をしないとだめよ」
「……でも、コーヒーももっと研究したい」
「すきなだけ研究すればいいでしょ。とにかく、料理学校の勉強が先」
「うん、しっかりやるわ」
 素子とはアイリスの前で別れた。口づけは誘い水になるので、小鳥のキスもしなかった。
「カズちゃんと寝る」
 メイ子が、
「そうしてください。お嬢さん、ずっと待っていたんですから」
 メイ子が応える。待っていなくても、私はカズちゃんだけを求めている。私にはカズちゃんしかいない。カズちゃんにはだれよりも深い愛が詰まっている。私は生まれてから彼女にしか遇わなかった。
 百江が風呂上りのサッパリした顔で式台に迎えに出た。
「お帰りなさい。お風呂できてます」
 まるで御殿山の再現だ。百江がトシさん、メイ子が雅子、素子が法子、カズちゃんと私が住人。キッチンテーブルに落ち着く。コーヒーを出す百江を見つめながら、
「部屋は片づいた?」
「はい、すっかり。四日、五日の土日、二日がかりで菅野さんと、千佳子さんや睦子さんや優子さんたちが手伝ってくれました。十二畳の部屋なんて夢のようです」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんの寝室は机部屋にしたわ。いままでの寝室を百江さんに使ってもらうことにしたの。私と寝室が隣同士のほうが便利だし。下のジムの隣部屋も使ってね。人が使ってくれたほうが傷まないから。息子さんたちが遊びにきたときも便利でしょ」
「はい、ありがとうございます。とても広いベランダがありますし、ベランダから見下ろすガレージ裏のお庭も広くて、花や木がいっぱい……天国です」
「家はいつ取り壊すの?」
「十二日だそうです。土地売却の件は、旦那さんがぜんぶ取り計らってくれました。一生困らないだけのお金が入ります。お部屋代とお食事代は払わせていただきます」
「何言ってるの。みんなで適当にコチョコチョ出し合えばいいことでしょ。仲良く暮らしましょ」
「はい」
 メイ子が百江の肩を抱いた。
「きょうは離れでいっしょに寝ましょう。ときどき私も十二畳のほうで寝せてね」
「はい」
         †
 風呂で温まったからだを深夜の寝床で抱き締め合う。
「二階と一階、百江とメイ子はいったりきたりして仲良くできるね」
「そうね。出勤もほとんどいっしょだし、毎日が楽しくなるでしょう。椿町の家、ほんとにさびしそうだったから。……キョウちゃん、もう死ぬことは考えてない?」
 乳房を握っている私にカズちゃんが言う。
「また生き死にの話? ぜんぜん考えてないよ」
「よかった。……キョウちゃんが、心を鬼にして、一人ひとり、ゆっくり切り捨てようとしている雰囲気がときどきするの」
「そんなことをするつもりはぜんぜんないよ。そう見えるのは、ぼくが自分のことをダメ人間に感じてるときじゃないかなあ。ぼくの周りの人間が気の毒になって、自分の存在にイヤケが差すことがある」
「一徹者ね。十年間ちっとも変わらない」
「……カズちゃんが生きてるかぎり、ぼくは生きるよ。それだけは頑固に貫き通す」
「私だけのためじゃないの。ほかの女の人たちのために、いつまでも生きてほしい。キョウちゃんが私のことをむかしからいちばん愛してくれてることは、よくわかってるわ。ほかの女の人たちにそこまでの気持ちになれないことも。それでも、キョウちゃんを愛する女の人たちの気持ちは私に負けないくらいよ」
「からだだけなら、思い出になるのに」
「からだだけならね。でもみんな、心も並じゃないの。ふつうの女は自分がいちばん思われてる女でないと、心が離れていくものよ。からだの記憶も薄れていくわ。でも彼女たちは心からキョウちゃんを愛してるから、からだを忘れても心が忘れないの。青森の秀子さんも羽島さんもみんなそう。逢えばもちろんからだを思い出すでしょうけど、それにこだわってるわけじゃないわ。キョウちゃんを愛すること、できれば愛されること。それだけを思ってるの。ムッちゃんも千佳ちゃんも、北村席のみんなが―」
「うれしいな。おたがい早く年をとりたいね。年をとって、愛情以外のたくさんのことに飽きてしまいたい。幸福な愛情だけにすがって、百歳まで生き延びたい」
「ええ、そうしましょう。……ある日帰ってきたら、キョウちゃんが死んでる。そんなこともしょっちゅう考えるのよ。そのときはすぐそばにいくから、さびしがらないで待っててね」
「うん」
「キョウちゃんが遠征から生きて帰ってくると、叫びたくなるほどうれしい。うれしくてセックスどころじゃなくなっちゃう」
「ぼくもそうだ。きょうはこのまま抱き合って寝よう」
「ええ、きょうはそういう気分ね」
 気分だけでからだはそうはいかなかった。
          †
 十月十一日土曜日。六時に目覚める。カズちゃんはいない。部屋の温度計は九度。最近いちばんの冷えこみ。三十分だけ暖かい蒲団で二度寝をしてスッキリする。
 快晴。庭で三種の神器。家の外壁に足を立てかけて倒立腕立て五回、三セット。だいぶ腕のだるさが取れている。ジム部屋に入り、大鏡の前で素振り、九コース、二十本ずつ百八十本。
 排便。柔らかい、形のある快適な便。シャワー、歯磨き、洗髪。キッチンへ。二人でせっせと朝めしの用意をしている。三人でテーブルにつく。スクランブルエッグと厚切りハムのステーキ。力が貯まる。きょうは菅野がランニングにこない日だ。十時半にクラウンで中日球場へ連れていってもらうことになっている。メイ子が、
「この五日から七日まで、一年ぶりに浜松に帰ってきました。いちばん下の女の子が来年小学校に上がるので、いろいろ物入りになる父母に届け物をしてきました。お嬢さんが前もってランドセルやら何やかや送ってくださって、上の男の子二人にも冬服を買って送ってくれたんですよ」
 カズちゃんは聞こえないふりをしてテレビのニュースを観ていたが、
「一年に一回じゃ少ないわよ。もっといってあげなさい。キョウちゃんの遠征のときは暇なんだから」
「はい」
「テレビ、まだ白黒でしょう?」
「はい」
「カラーを入れてあげて。クーラーもね」
「はい、お嬢さんにそう言われていたので、ちゃんとしてきました。ありがとうございました」
「キョウちゃんのことはきちんと話したんでしょう」
「はい、北村席さんで賄いをして、その合間に神無月さんの家で女中をしてるって言ったら、あの神無月郷かって驚いてました。北村席の門前の様子は何度かテレビに映ったらしくて、ああここで働いてるんだなと安心してたそうです。そこへ神無月さんの女中ですから、賄いの中で出世したと思ったんですね。子供たちもうれしがってます。賄いが十何人もいると言ったら、びっくりしてました」
「今度帰るときは、キョウちゃんの色紙を持ってってあげなさい。男の子たちの励みになるわよ」
「そうします」
「メイ子ちゃん、三十いくつだった?」
「六月十九日で三十二になりました」
「まだまだ女盛りね。ほんとにこのまま北村に骨を埋めていいの? 再婚したい気にはならないの?」
「ちっとも! 私は神無月さんの女です。神無月さんがいなければ生きていけません」
「からだ?」
「もちろんそれは大事なことですけど……いちばん大事なことじゃありません」
「三十女はピークだもの。でも、そういうことじゃないのよね」
「はい。神無月さんが私のからだをとても喜んでくれるのがうれしいだけで、私のいちばん大事なものは、神無月さんのお顔を見たり、心を感じたりすることです」
「……キョウちゃんが死んだら?」
「その場で私も死にます」
「ほらね、キョウちゃん、やっぱり百まで生きないと」
「そうだね」
「何のことですか?」
「キョウちゃんは長生きしないと、人殺しになっちゃうってこと」
 メイ子は満面に笑みを浮かべた。
 カズちゃんとメイ子を送り出し、机に向かう。牛巻坂。何度目かの書き出し。二枚。そこでやめておく。ステレオをかける。
 ロビン・ウォード『ワンダフル・サマー』『ウィンターズ・ヒア』『マイ・フーリッシュ・ハート』『ボビー』
 ザ・フォー・シーズンズ『ラグ・ドール』
 フランキー・アバロン『ヴィーナス』
 シェリー・フェブレー『ジョニー・エンジェル』
 ブレンダ・リー『オール・アローン・アム・アイ』
 キャシー・カービー『フーズ・ソリー・ナウ』
 ザ・シレルズ『ウィル・ユー・スティル・ラブ・ミー・トゥモロー』
 パリス・シスターズ『アイ・ラブ・ハウ・ユー・ラブ・ミー』
 ビーチ・ボーイズ『サーファー・ガール』
 至福の三十分。クマさんと野辺地の時代。この時代以外のメロディは、血管の中を流れないで、脳味噌の表面に知識となってこびりつく。
 九時四十分、北村席へ出かけていき、ユニフォームに着替える。直人は出かけたあとだった。女将がカンナを抱いている。やがて保育所から菅野とトモヨさんが戻ってきた。
「土曜日は二時までの自由通園なんです。いかなくてもいいんですけど、いきたいと言ったときにはいかせるようにしてます。少しでも遊びたいでしょうから」
「二歳って何も憶えてないんだよね。さびしいな」
「郷くんも憶えてない?」
「かけらみたいなものはあるね。女の子を突き飛ばしたとか、三輪車なくしたとか。要するにゼロだよ。鮮やかになるのは四つ、五つからだな。三つ子は魂があるらしいけど、魂を手に入れた記憶はないね」
 球場に同行する睦子と千佳子が降りてきた。
「きょうは帰ってきたら、睦子の部屋を見学させてもらうよ」
「はい!」
 期待に頬が赤らむ。ソテツが弁当を持ってきてダッフルに入れる。
「アサリとシメジの炊きこみごはんです。甘辛の鶏肉と、ゆで卵を添えておきました。鈴木監督からまた眼鏡が一つ送られてきました。きょうかけますか」
「いや、もったいない。お母さんの水屋に入れといて。あ、それからお父さん、ぼく、この半年で足が二、三ミリ大きくなったんです。二十九センチを履いたほうがいいと思うんです。いままでのスパイクで不自由ないんですが、甲が少しきつい感じがするんで。東京のフジのマスターへ連絡するようカズちゃんに言っといてください」
「ほい、わかった。ミズノにも電話しとくわ。ところで、ワシは巨人戦まで観にいかんから、きょうは菅ちゃんと、名大ペアやな」
 千佳子が、
「阪神三連戦もそうさせてもらいます」
「三連戦は中日球場やけど、十六日のダブルヘッダーは甲子園へいかんとあかん。だれも観にいけんわ」
 私は菅野に、
「移動はどうなってます?」
「十五日の試合は一時からですから、終わるのが四時として、夜六時くらいの新幹線ですね」
「広島でなくてよかった。芦屋までなら三時間で着く」
「九時過ぎに着いて、翌日は二時からのダブルヘッダーということになります。その日は泊まって、十七日に帰ってくる、と。十八日から二十五日まではずっと名古屋です」
「そしていよいよ日本シリーズか」
「はい。芦屋にでかけていくことになります」


         七十八

 テーブルに金田の記事を載せた新聞が置いてある。読む。 

    
金田偉業達成! 前人未到四百勝 
  国鉄と巨人で二十年 巨人ナインが胴上げ

 巨人対中日二十四回戦、金田正一投手は2―7で五点リードの五回、城之内邦雄投手に代わりマウンドへ。木俣の一点適時打、江島の一点適時打、神無月の百五十三号ソロを含む三点を失ったものの九回まで投げ切り、プロ通算四百勝を達成した。その瞬間、ベンチから巨人ナインがマウンドに集結。金田は驚いた表情で制止したが、結局祝福の胴上げをされた。
「チームメートの好意を素直に受けたよ」
 プロ野球二リーグ制元年に入団して今季で二十年目、十四年連続二十勝、三百六十五完投、世界最多の四千四百九十奪三振。数々の超人的な記録を打ち立て、この日四百勝目の白星にたどり着いた。国鉄時代、弱小チームのエースとして〈天皇〉と呼ばれたかつてのワンマンは、この日も口が大きくなる。
「ワシの記録を抜くやつはおらん。それはワシがいちばんよく知っとる。恐ろしい記録を残した。しかし、ほとんどだれも注目しない。だれもできないから見向きもしないんだよ」
 ―ほかの投手と比べて何が秀でていたと思いますか。
「自己管理の努力だな。遊びに溺れることがなかったからな」
 四百勝目のウィニングボールを握り締めながら殊勝さを取り戻し、
「神無月くんのホームランはいい記念になった。あそこまでライナーで飛ばされたのは生まれて初めてだ。最高のプレゼントだったよ。それから、記録のかかった試合に投げさせてくれた川上さんの気遣い。いやあ、ほんとに巨人にきてよかった。ワシは果報者だ。監督とチームメートのおかげで大記録を達成させてもらったよ」
 と感謝の言葉を口にした。


 巨人にきてよかった? どう考えていいかのぼんやりしてしまう。大投手の謙虚すぎる言葉だ。ほかのチームに移籍していたら、確実に四百五十勝は挙げていただろう。私は何よりも、肘の痛みに耐えて投げつづけた気力を称讃するばかりだ。肘が痛くなかったら……震撼とする。
         †
 ローバーミニがクラウンの前をスイスイ走る。クラウンには蛯名と配下二名が同乗している。私は後部座席の蛯名に、
「田中勉に八百長を頼んだ暴力団員て、どこのどいつですか」
「森岡組の準構成員で、藤縄という男です。森岡組は神戸山口組の三次団体です。子分の子分ですね。準構成員というのは組員じゃないんです。組と親しい付き合いをして、虎の威を借りて暴力沙汰を起こしたり、組の資金繰りを手伝ったりする野郎のことです。藤縄は、実質森岡組とも山口組とも無関係の男で、元暴力団員でもない。暴力団は八百長みたいなチンケなシノギはしませんよ。藤縄は牛乳屋兼金貸しの素人です。プロ野球選手に近づいて、三十万から百万の遊び金を渡し、試合に負けさせて野球賭博で金を稼ぐわけですが、テラ銭だけでかなり利益が出ます。そのアガリを森岡組に回して機嫌をとろうと思ったんじゃないですかね。……小川さんは危なかったんですよ。去年、足を痛めて不調のとき、南海の佐藤公博というピッチャーの紹介で世羅別館に藤縄が訪ねてきて、ヤオを頼もうとしたんだけど、渡そうとした金を突き返してるんです」
「小川さんの雰囲気を誤解して近づいたんでしょう。軽っこく見られそうだから。となると、田中勉が暴力団と結託してという話は眉唾ですか」
「はい。しかし、暴力団と親しくしてる藤縄のやったことだから、責任を問われれば森岡組がとらなくちゃいけなくなる。しかし、森岡組にしても身に覚えのないことなので、あくまで無関係と突っぱねるでしょう」
 菅野が、
「高給取りのプロ野球選手が、そんな素人にはした金チラつかされて、何を思って話に乗ったのかな。クビになって当然でしょ」
 蛯名は、
「そうですな。金というものでオトコを下げるようなことをするやつは下衆です。食い意地の張った遊び人は引っかけやすい。思わぬ遊び金というのは、どんなはした金でも喉から手が出るもんでね」
 私は、
「小川さんみたいな、お人よしの人が何人か無実の罪で引っ張られそうですね」
 蛯名は、
「まったく無実というわけでもないんでね。小川さんにしたって、藤縄に金を出されるところまで話がいっちゃってるから、隙があったわけですよ。田中勉にくっついて、ひょこひょこオートレースにもいってるしね。小川さんのように最終的に助かる人も出てくるでしょうが、実力のない選手はこれっきりですね」
 球場入りすると、ベンチ前に新聞記者が群がり、小川が沢村賞を辞退するという話でもちきりになっていた。水原監督が受賞するよう説得したがだめだったという。木俣が言うには、小川は記者たちに、
「辞退するも何も、候補にも上がらないですよ。沢村賞は、まじめな人格者に与えられる名誉の賞なんだ。警視庁まで呼び出されちゃったんです。禊(みそぎ)ですよ。ピュアな初心に戻らなくちゃ。ピュアな金太郎さんともう少し野球をやりたいんでね」
 と語っていたという。私はロッカールームにいって小川に、
「すてきですね。うれしいです」
「聞いたのか。沢村賞は張り切りボーイのときに獲ってるからもういいんだ。三十三歳のまじめ男が、三十五歳で少し腐りだした。よほど気を引き締めないと、グチャグチャになっちまう」
「きょうは先発ですか」
「第二試合な。二つとも勝つぞ」
「はい!」
 両軍の練習が終わった二時になって、たった五千三百人の観衆! あごが外れた。内外野のスタンドに老人のシミのように均等に貼りついている。大幸球場並だ。しかし、なんだかホッとする。野球そのものに没頭できるからだ。水原監督が、
「あと三十分もすれば二万人になるよ。第二試合は三万五千で満員。去年は十月に甲子園で二千五百人、後楽園で三千五百人というのがあったそうだよ。最下位の消化試合でもそれだけ入る。今年は中日の野球がおもしろすぎるからね。金太郎さんはこういうガラガラの球場好きなんだろう? 野球の音がよく聞こえるから」
「はい。ちょっとびっくりしましたけど」
「残念だが、満員になるよ。土曜日半ドンの数少ない会社の人たちが試合前練習のときからきてるんだね。彼らがあと三十分で三倍になる。子連れを入れたら四倍になる」
 第一試合は捕球音や打球音を快適に聞けそうだ。偵察隊がネット裏にびっしり居並んでいる。葛城が、
「阪急の真田コーチと関口コーチが見にきてるよ。二十一日の最終戦には西本監督一行がくるな」
 田宮コーチが、
「一塁ベンチの上に三原さんがきてる。コーチ連中も五人いる。近鉄はきょう試合がないからな」
 水原監督の言ったとおり、メンバー表交換のあと、かなりのスピードでスタンドが埋まりはじめる。太田が、
「試合開始までの正式のメニューです。守られることはほとんどありませんけど。それから、審判員のローテーションです。これはだいたい守られます」
 と言って、メモ用紙を差し出す。これが正式ならあらためて暗記することにした。

  開門まで        ホームチーム バッティング練習
  開門~試合開始四十分前 ビジターチーム バッティング練習
  メンバー表交換
  試合開始三十分前まで  ホームチーム 守備練習
  先発ピッチャー発表
  試合開始二十分前まで  ビジターチーム 守備練習
  試合開始五分前まで   各種イベント
  スターティングメンバー発表
  試合開始

  球審→控え→ライト線審→レフト線審→三塁塁審→二塁塁審→一塁塁審→球審


 たしかにほとんど守られていないと感じた。大学野球でもそんな感じがしていた。選手にとってはどうでもいいことだ。
 土屋の先発だった。中はきょうもセンターを江島にまかせて、ベンチの声出し役。広島戦から出場の約束は反故。あしたも危い。ライト太田の代わりに伊熊、サード菱川の代わりに江藤省三が入った。あとはいつものメンバーだ。下通の軽やかなアナウンス。遠征に出るといつも待ちこがれる声だ。
「ご来場まことにありがとうございます。本日の試合は中日ドラゴンズ対広島東洋カープ、ダブルヘッダー、二十四回戦、二十五回戦でございます。まもなく二十四回戦を開始いたします。先攻は広島東洋カープ、一番レフト井上、背番号25、二番セカンド古葉、背番号1、三番センター山本浩司、背番号27、四番ライト山本一義、背番号7、五番ファースト衣笠、背番号28、六番サード興津、背番号10、七番キャッチャー水沼(この男は記憶しやすい柔和な顔をしている。ほとんどサインを出さず構えた位置を動かずにキャッチングをする。キャッチャーにしてはかなり足が速く、二塁打、三塁打をけっこう打つ。二割五分は遠そうだけれども、近いうちに田中や久保を凌いで正捕手になるのはまちがいない)、背番号39、八番ピッチャー大石(あごの長い大顔のタコ踊り。長谷川コーチに励まされて開花したと聞いている)、背番号19、九番ショート今津、背番号6。対しまして、後攻は中日ドラゴンズ、一番センター江島、背番号37、二番セカンド高木守道、背番号1、三番ファースト江藤慎一、背番号9、四番レフト神無月、背番号8、五番キャッチャー木俣、背番号23、六番サード江藤省三、背番号28、七番ライト伊熊(きょうこそ最終試合になるかもしれない)、背番号25、八番ショート一枝、背番号2、九番ピッチャー土屋、背番号26。審判は、チーフアンパイア原田、塁審は、一塁佐藤、二塁手沢、三塁竹元、線審は、レフト久保田、ライト田中、以上でございます」
 土屋は七回ワンアウトまで三振を七つ奪う好投を見せ、三回に今津を二塁に置いて山本浩司の左中間二塁打で取られた一点に抑えた。水沼にヒットを打たれたところで伊藤久敏に交代した。その間、六回裏まで、ドラゴンズはストレートの走っている大石に二安打五三振に抑えられ零点。私はショートライナー(わずかに曲がるパワーシュート)、見逃し三振(ボール一つ外れたと思って見逃した。ストレートだったので打てばよかったと悔やんだ)、センターフライ(パワーカーブに刺しこまれた)。ヒットを打ったのは江島と高木の二人だった。
 七回表ワンアウト、広島の攻撃。ピッチャー伊藤久敏。大石三振。今津ショートゴロ。
 七回裏。大石続投。一枝フォアボール。伊藤久敏三振。江島フォアボール。大石のコントロールが乱れてきた。高木センター前へするどく抜けるヒット、一枝還って一対一の同点。ワンアウト一、二塁。江藤、センターに抜けるかというセカンドゴロ、古葉うまくさばいて高木フォースアウト。江島三塁へ。ツーアウト一、三塁。
 きょう初めてチャンスの打席に立つ。中日球場独特の地鳴りのような歓声。二打席目の三振(今期八つ目)は、外角低目のストレートの見逃しだったが、ボール一つ外れているように見えた。原田球審は江藤の熊本商業の先輩で、十年ほど前まで阪急のピッチャーをやっていた人だ。微妙なコースはほとんどストライクにする。タコ踊りもそこを狙ってくる。見逃しは厳禁。
 一球目外角高目伸びのあるストレート、ボール。きょうは徹底して外角攻めだ。そして私はそれを打ち損なっている。これでは四番と言えない。水原監督のパンパンパン。何かを感じている。場内も静まり、水原監督と同じ何かを感じている。私は何も感じない。ただバッターボックスにたたずみ、次のボールを待つ。決してボックスは外さない。頭の中で内角高目の素振りをする。そこに轟(ごう)とストレートがくるイメージが消えない。二球目、外角低目のカーブ、ストライク。やっぱり内角にはこないか。三球目、外角高目のストレート、ボール。四球目外角高く遠く外れる速球。ボール。ワンスリー。
 ―神無月をフォアボールで出して満塁にすれば、次に強打者の木俣がいる。これまでノーヒットとはいえ、三割打者だ。打たれれば決勝点になりかねない。神無月で切るしかない。内角低目はやられる可能生が高い。目が慣れた外角は見切って手を出してこないだろう。このままだとフォアボールになる。内角高目のストライクで勝負。
 大石がそう考えているというのが私の読みだ。四球目、大石がダイナミックに踊る。やっぱりきた! 内角高目。ボールだ。しかし打つと決めている。腕を畳んでかぶせる。右肘を強く引く。刀で引き切る感じだ。食わない。少し芯の内側だ。ゆるいライナーがファールラインに向かって飛んでいく。
 ―切れるな!
 ライン上に落ちた。ライトの山本一義がすぐに追いつく。江島生還、江藤は三塁ストップ。水原監督が激しく拍手する。長谷川コーチと握手。一対二。火を点けた。ツーアウトだが押し切れるだろう。
 木俣、強烈なサードゴロ、興津が大きく弾く。広島のブルペンに転がっていく。江藤生還、私は二塁を回って三塁へ、木俣は二塁へ。一対三。ツーアウト二塁、三塁。
「何やっとんじゃー、オヤジー!」
「興津引っこめェ!」
 三塁側スタンドの気の荒い広島ファンから野次が飛ぶ。興津はエラーの多い三塁手だ。毎年十何個もエラーをする。ただホームランも十何本か打つので出場試合数は多い。



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