八十二

 主人が新聞を押してよこした。 
「動きだしましたね。週刊ポストも連載を開始しましたよ」
 主人がため息をつきながら言う。

 
永易永久失格処分
 十一日パリーグ理事会は、敗退行為の事実が発覚後、行方不明になっている永易将之(ながやすまさゆき)投手(27)を練習不参加による統一契約書不履行で、永久失格処分とすることを決定した。なお十三日のパリーグ定例理事会、および十四日のコミッショナー委員会においても、ほかの疑わしい選手の処分に関して協議することになっている。


 菅野が、
「流行りですね。神無月さんの小説連載の影が薄れますよ。きょうはもう第五回目ですよ」
 五百野の紙面を覗きこんでいる。
「永易ってどういう選手ですか」
 私が訊くと菅野は、
「電電近畿時代に社会人の花形だった男です。ノーヒットノーランはするわ、延長二十二回は投げるわ、頑丈な速球派で有名でした。三十七年に東映に入って、二年間芽が出ず、三十九年にサイドスローに転向してから十勝、その後泣かず飛ばず、去年西鉄にきて四勝。今年は二勝かな。よほど金に不自由していたんでしょう」
 田中勉の暗い顔と豪快なフォームを思い出した。私たち三人の食事が用意される。アジの開き、目玉焼き、海苔、おしんこ、ワカメと豆腐の味噌汁。オーソドックスで美味。私はだれにともなく、
「そういう金って、道に落ちてる金と同じですね。見つけた人が子供と大人では、反応がちがいます。まずどちらも見つけたとたん、思わずあたりを窺います。子供はドキドキしますが、どんな金額でも案外抵抗なく拾ってポケットに入れます。大人は百円や千円ならポケットに入れますけど、三十万、五十万は、落とした人の気持ちを考えて、結局警察に届け出るか、あたりの人に疑われそうだと思うと拾わずに放っておくでしょう。あれと同じ気持ちだとすると、金を受け取った人って、子供のまま大きくなっちゃったということなのかなあ。子供は天真爛漫な物欲のかたまりです。人は大人になるほど複雑な物欲に振り回されて純真さを失う。その代わりに無欲になる、と言うより、無関心になる。永易たちはそうなれなかった」
 女将が、
「大人は欲がなくても、生活があるから、魔が差すこともあるやろねえ。周りの人たちが生活を感じんようにしてあげんと追い詰められるわ」
 主人が、
「そんな格好いい話やない。飲み代と遊び代やで。生活に困って受けとったわけやない。神無月さんの言うとおり、物欲にまみれたガキのまま大きなったんや」
 その話はそれ以上だれも深追いせずに止んだ。ごちそうさまをした睦子と千佳子が、新聞に貼りついて夢中で五百野を読みはじめた。
「カンナを見てこよう」
 トモヨさんに目配せして、離れにカンナの顔を見にいく。直人は庭に出て菅野の素振り指導を受けている。トモヨさんは廊下で、
「郷くん、いま私、穿いてないんです。もし疲れてなかったら」
「きのうの夜したばかりだから、ビンビンだよ」
「特異体質ですものね。お伺いを立てやすいです。うれしい」
「やっぱりそんな感じがしてた。さっき、トモヨのからだじゅうに〈やる気〉があふれてたから、ひょっとしてあのパンティ穿いてるんじゃないかって」
「すみません。ここしばらくご無沙汰でしたから、ずっと穿かないままでいました。穴開きは恥ずかしくて、ちょっと……」
 トモヨさんは寝室に蒲団を敷き、仰向けに横たわるとスカートを脱いで大きく股を広げた。美しい襞がぬらぬら光っている。口をつけようとすると、
「オマメちゃんはいいですから、すぐ」
 挿入する。
「ああ、ひさしぶり、うれしい、ああ、郷くん、気持ちいい!」
 いつもどおりに心地よく締まっている。
「トモヨは名器中の名器だから、こすったらすぐイッちゃうよ」
「はい、私もすぐ!」
 トモヨさんは五、六秒で連続のアクメに入り、何回か強く気をやったあと、渾身のオーガズムで私の射出を受けた。律動を含めて三分とかからなかった。引き抜き、トモヨさんが新しい痙攣にふるえているあいだにクリトリスを舐めて、アクメのとどめを刺す。鼻面に大量の愛液がかなり強く当たった。
「うれしいな、思い切り出してくれて」
「……恥ずかしい。あ、お顔にいっぱいかかって。ちょっと待ってください」
 トモヨさんは懸命に起き上がり、濡らして絞ったタオルを持ってきて、私の顔を拭った。私はタオルを受け取って裏返しにし、トモヨさんの太腿に垂れている精液を拭った。
「ありがとうございます」
 トモヨさんは屈んで私のものを含み、きれいに舐め取った。立ち上がり、箪笥から下着を出して穿き、スカートを穿いた。私も下着をつけ身じまいをした。トモヨさんは私の手を取り、ベビーベッドの置いてある部屋へいく。まん丸な顔をしたかわいらしいカンナが眠っている。
「お人形さんだね。すばらしい偶然がたくさん起こりますように」
 カンナにキスをしたかったが、目覚めさせるのが怖いので、頬にそっと指を触れるだけですませた。トモヨさんと座敷に戻り、庭から走りこんできた直人に、
「さ、直人、いこうか」
「うん!」
 玩具のバットとボールを持ち、牧野公園へ。トモヨさん、菅野、睦子、千佳子がいっしょについてくる。大きなスカートのトモヨさんは、すがすがしい顔でベンチに腰を下した。直人がバットを構え、私がゴムボールを持ち、菅野と女二人が守備についた。そっと下から投げてやると、フライになったり、ゴロになったり、ぎこちないがきちんとバットに当てる。
「いいぞ! 見どころあるぞ!」
 直人はキャッキャと声を上げて喜ぶ。
「さ、思い切り振れ、強く振れ」
 えい、えい、と振る。私を越えて飛ぶボールもある。睦子たちが楽しそうに拾う。
「よーし、未来のホームラン王だ。さあ、もっといけ」
 バラバラとマイクとカメラが近づいてきた。
「スーパールーキー神無月選手、ちょっといいでしょうか」
「朝日新聞です。連載小説について少しお話をお伺いしたいんですが。ものすごい反響ですよ」
「うちもお願いします。デイリースポーツの××といいます。来季の抱負をお聞かせください」
「日刊スポーツです。日本シリーズの抱負とか、年俸大幅アップの感想もお願いします」
「週刊ベースボールの××です。十四日の試合後、インタビューできますか。今回の八百長問題の感想をぜひ」
 直人がポカンと立っている。私は思わず大声を上げた。
「えーい! 何がお話だ。人の不運についても、自分の未来についても考えたことなんかないんだ。ただラッキーでここにこうしている人間が、しかつめらしく語ることなんか一つもないよ。せっかくの楽しい団欒がめちゃくちゃだ。あんたたちには他人の状況を観察する眼がないのか。お断りだ。消えてくれ。さ、帰ろ、帰ろ」
 直人の手を引き、さっさと公園の外へ歩み出す。トモヨさんや菅野や睦子たちも小走りについてくる。後ろで声が聞こえる。
「水原さんの言う怖い性格って、こういうこと?」
「たしかに、けっこう凶暴だな」
「まったく。バット事件のときはほんとに怖かったからね」
「団欒なんて、言うことがちょっと年寄りくさいんじゃない」
「マスコミ嫌いとは聞いてたけどさ―協調性に欠けるな。えらそうだよ」
「団欒て、あれまさか家族じゃないよね」
「まさか。スポンサーの北村席の人たちでしょう」
 振り返らずに、みんな早足で門へ急いだ。菅野が、
「場所を整えた正式なインタビューなら受けますよね」
「時間が許せばね。ああいう鉄面皮は嫌いだ。こういう対応がシャクなら、好きなだけこき下ろせばいい」
 千佳子が、
「神無月くんのことを知らないのよ。ちやほやされて舞い上がってる若造だと思ってるんじゃないかしら。ほいほいインタビューを受けるような」
「激励されたら高揚するけどね。ちやほやと激励はちがう。激励なら素直に受ける。激励に値するほどのホンモノかどうかは、少なくとも三年やってみないとわからない。一年や二年じゃ、まだまだマグレの要素が多いからね」
 菅野が、
「マスコミのすることは、ちやほやか、クサシか、そのどちらかでしょう。まじめな激励はまずない。三年間好成績を残したとしても、激励は期待できません」
「ちやほやだろうね。とにかくぼくは、褒めそやしでは気持ちが昂ぶらない。そんなことで気分を昂ぶらせるのはみっともないし、そういう性格じゃないから」
 トモヨさんが、
「こんなふうだと、夜しか表に出られないわ」
 睦子が、
「だいじょうぶです。郷さんのマスコミ嫌いがすっかり広まってるみたいだし、へたに刺激すると怖い人だってわかってもらえたでしょうから」
「直人、途中で終わっちゃって、ごめんね。今度からは庭でやろう。ボールが池にポチャンと入っちゃったら網で掬えばいい」
「うん!」
 菅野が、
「この月末に、小さな滑り台を入れますよ。二年ごとに、それに並べて大きな滑り台にしていきます。カンナちゃんも使えるようにね。来年は砂場をしつらえますし、四歳ぐらいになったら、ブランコも作ります。わざわざ公園にまでいかなくても退屈しないようにしないと」
 睦子が、
「北村席の庭はものすごく大きいから、子供の野球なんか楽々できますね」
 私は、
「そうだ、菅野さん、百二十グラムのバットリング買っといてください。いちばん軽いやつです」
「はい。素振り用ですね」
「うん。重たいのはだめ」
「わかりました。あしたの朝、届けます」
「カズちゃんが帰るときに渡しといて。きょうはこのまま則武に帰るから。あしたはランニングお休み。寝てます」
「了解」
「おとうちゃん、やきゅう」
「お、そうだった、さあたっぷりやろう」
 みんなで公園と同じ位置についた。
         †
 腹がへっていなかったので、昼めしを断り、則武へ戻る。百江もメイ子も仕事に出ている。ふと殊勝な気持ちになり、風呂の壁やシャワーの把手に黴取りスプレーをかける。洗濯籠に入っていた衣類や下着を洗濯機に入れて回す。
 カズちゃんの書棚の長谷川四郎の作品集全四巻に手をつける。いまのところ『鶴』しか読んだことがない。『シベリヤ物語』のページを繰る。軍隊もの。退屈。同じ軍隊ものでも、安岡章太郎の『遁走』のようなユーモアがない。一時間ほど読んで放棄する。これまで全集を尻切れにしたことがないので、少々気が滅入る。風呂の黴取りの泡をシャワーで流し、浴槽を専用洗剤で磨き、これもシャワーで流す。洗濯機にへばりついている下着やタオルを籠に取り出し、庭に干す。こういう生活は嫌いではない。青空が高い。取りこみも快適だろう。各部屋に掃除機をかけ、バケツに浸した雑巾で窓敷居を拭き、廊下にも雑巾がけをする。百江やメイ子の手が行き届いているので、雑巾が汚れない。
 快適な軟便。ついでにシャワー。フィルターコーヒーをいれ、小型ポットに詰める。鉛筆を何本か削り、牛巻坂に取りかかる。先回のテンションを取り戻すことができないので、あらためて一行目から始める。
 母、寺田康男、滝澤節子、西松建設の社員たち……。私の周囲を彩った人びとに対する贔屓目を捨て、起きたこと、話されたことだけを書こうとする。そこから浮き上がってくる思いを静かに味わい、多少、事実に潤色を加える。感想や意見めいたものを書きこまないようにする。事実とそのわずかな変形物のみを坦々と記していきさえすれば、それらの共振で、動き回る登場人物の心模様が勝手に波立つ。思わぬ発見だ。
 あっという間に、夕暮れの気配が窓辺にただよう。十二枚書いた。四時。あわてて洗濯物を取り入れる。丸めて居間の畳へ放り出し、十三枚目に取りかかる。胃が鳴った。朝めしを食ったきり、何も腹に入れていない。コーヒーで胃が重くなっている。
 鉛筆を擱(お)き、もう一度カズちゃんの書棚にいって、和田芳恵という作家を手にとる。『塵の中』。読み出したとたんに、胸が早鐘を打った。
 売春婦が身請けされるのではなく自廃する話だが、からだを売っても心は売らない女の心意気が通俗的でなく描かれていて、トモヨさんや素子を髣髴とさせた。


         八十三

 読み終えると六時半だった。カズちゃんと百江とメイ子が帰ってきた。
「はい、菅野さんから百二十グラムの鉄の輪。どうしたの。ごはん食べにこないから、私たちも帰ってきちゃったわよ。どうせ机で夢中になってたんでしょう」
「うん」
 メイ子が、
「わあ、お風呂、ピッカピカ! 洗濯物まで!」
「こら、大の男が女のパンティなんか洗濯して、みっともないわよ」
「気分よかったよ。腹へった」
「たまには外で食べましょ」
「いいね」
 下駄を履き、眼鏡をかける。四人浮きうきと駅前に出る。
「何にする?」
 これといって食いたいものがない。笹島のガード下の、カウンターだけの小汚いラーメン屋に入る。客が多いので、百八十三センチの背を縮めながら、カウンターの隅に四人で坐る。ワンタンメンと餃子とどんぶりめしを注文する。
「ワンタンなんてひさしぶり」
 カズちゃんがはしゃぐ。女たちはワンタンと餃子を注文する。店主も客も、女たちに隠れて端の席で首を縮めている私に気づかない。安心して黙々と食い、ゆっくり平らげ、満腹になる。これで夜中までもつ。
 店を出ると、駅の裏町のネオンが美しい。人間の発明した美しいものの筆頭だと確信する。ネオンの密集していない場所のほうへ戻っていく。企業の派出所のような建物や一般の民家を除いては、めぼしいものと言えば、ポリスボックス、私塾、千佳子のかよう国家試験予備校だけ。ネオンから遠ざかれば、日本中どの町も同じだ。高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻窪、吉祥寺、三鷹。新宿や池袋でさえ、駅前から遠ざかるとこんな感じだった。
 ネオンが繁栄の場所を知らせ、ネオンがまったく見えない人里離れた場所に天然の森や林がある。その中間の場所には、繁栄の寄生虫である人間が人工の森や林を造り、棲み家や商家を建ててひっそり息づいている。天然の山野には文明にあずからない野生動物が隠れ棲んでいる。人間が何百回何千回世代を繰り返そうと、この仕組みは変わらない。
「ネオンて、たしかにきれいだね。でも心のどこかに、美しいネオンを拒否する気持ちがある。都会のネオンは、大むかしは何だったんだろう」
 カズちゃんが、
「灯り提灯じゃないかしら。江戸時代より前は、宗教的な儀式やお祭りのときにしか使わなかったみたいけど、江戸時代からは照明器具としても使われるようになったって何かの本で読んだことがあるわ。江戸より前は、ハゼや漆の蝋を混ぜたペーストみたいな蝋燭を使ってたんだけど、江戸時代には松ヤニを混ぜて硬くしたから、急に普及したわけね。蝋燭は高価なものだから、農村部や山間部のような田舎では使わなかったのよ」
「お嬢さんはお化けですね」
 メイ子がカズちゃんの腕をとる。カズちゃんのほうが年上だったことをあらためて思い出す。百江は私の腕をとる。
「提灯をきれいだと思う人たちもいただろうね」
「明るいと感じた人たちは大勢いたでしょうね。でも、ネオンのように色とりどりできらびやかじゃないから、きれいだと思う人は少なかったでしょう。キョウちゃんはきれいだと思ったにちがいないわ。高島台の夜のホームに入ってくる電車の窓を見て、きれいだと思った人だもの。でもどこかで、ほんものの美しさだと思ってなかったのね。―わかるわ」
 カズちゃんは何でも憶えている。家に戻ると、百江が玄関の灯を消した。私はもう一度式台から玄関に降りて、戸の前の闇の中にたたずんだ。美しい人工が消え、天然のさびしい心が戻ってくる。その心のありようを光よりも美しいと感じた。
 空になったポットに新しいコーヒーを詰めてもらい、原稿用紙に向かう。女三人はキッチンテーブルで歓談している。さっきのいまなので、スムーズに鉛筆が動く。手は抵抗なく書き進むけれども、この美しい人工の光の文明の中で、あえて原始的な心の闇をほじくり出そうとする意味がわからないでいる。《意味》の病気が戻ってきている。考えても結論など出ない。
 文明はじゅうぶん美しい。心の闇もじゅうぶん美しい。どちらも書き記さなければならない。無機と有機を対比して意味を探ること自体、思考の定型化だ。定型化は停滞を引き起こす。文明に馴染み、しかも郷愁を軽視しない。そうすれば問題などないのだ。しかし私は生来、有機にしか適応できない。そして思考のジレンマに無理やり意義を見出し、その不器用さを苦悩しようとする知恵遅れだ。それでいいのかもしれない。いや、それしかない。知恵遅れのまま、私の心を極彩色(ごくさいしき)に染めた人びとを書き切ること、彼らにだけ届く文章を書くこと。この心をいつも意識するスローガンがほしい。マジックペンと画用紙を取り出し、

 
呼びかけよ

 と書いて机の前の壁に貼った。
         †
 十月十三日月曜日。十時。私の机の足もとに泊まった素子とともに目覚める。カズちゃんたちの姿はない。きょう素子はカズちゃんから特別休暇をもらっている。
「きのうのあたし、ようがまんしたでしょ」
「がんばったね」
「気も失わんかったよ。もう、最後までキョウちゃんとお付き合いできるよ。もう一人前の女や。来年は三十女。お姉さんの仲間入り」
「きょうも快晴だ。どこへいく?」
「大門や瀬戸は振り返らんことにしたの。新しいとこ」
「二人の歴史作りだね」
「うん。北陸につづいて、第二弾! と言うより、一日キョウちゃんといっしょにおることにした。そんなこといままで一度もあれせん。新しい歴史だが」
「練習するぞ」
「見とる」
「本を読むよ」
「それも見とる。ぜんぶ見とる」
「じゃ、まずめしだ」
「はい!」
 二人で順に排便し、二人で風呂に入り、あり合わせの食材で作っためしを食う。スクランブルエッグ、冷蔵庫に残っていた切り干し大根、シラスおろし納豆、厚切りハム、豆腐と油揚げの味噌汁。
「うまい! 午後も作ってもらうよ」
「うん、あとで食材の買い物をしてくる」
 ジムに入る。素子は掃除、洗濯。
 日赤までランニングに出る。素子は自転車で前になり後ろになりながらついてくる。首で切り揃えた髪が風に吹かれる。ときどきスカートがあおられる。手で押さえる姿がなんともかわいらしい。
「愛してる!」
「私も!」
 一時間で戻って、一升瓶、倒立腕立て、素振り。きょうから百二十グラムのバットリングをつけて振る。スイングスピードを増したり、ふだん使っているバットを軽く感じるためではなく、バットの重さを利用して遠心力で振る感覚を確認するためだ。だから、四百グラムや五百グラムまで重くする必要はない。少し重いバットを力をこめず、遠心力を確かめながら振る。
 シャワーで汗を流し、クールダウン。読書をするために二階の勉強部屋の机に向かう。
「自転車でもけっこう疲れるわ。ふつうに走ったら死んでまう」
 素子は私の足もとで、きちんと蒲団に入って仮眠。
 高校時代以来、何度もめくりすぎて、表紙のなくなった種田山頭火句集を開く。五年間の手垢にまみれている。行脚姿のグラビア写真とともに代表歌のようなものが載っている。

 うしろすがたのしぐれてゆくか
 分け入っても分け入っても青い山


 刺してこない句だ。代表歌というのはこんなものだ。啄木の「われ泣き濡れて……」とか「かろきに泣きて……」と同程度。代表歌でないものの中に傑作がまぎれている。
 
 どうしようもない私が歩いている
 まっすぐな道でさみしい
 また見ることもない山が遠ざかる
 風の中のおのれを責めつつ歩く
 ここにひとりめしを食っている
 おちついて死ねそうな草萌ゆる


 刺し貫かれる。破格の句形の新鮮さに改めて目を瞠る。なんと孤独な! 涙が流れてきた。素子の寝顔を見る。生業になずみながら長く真性の操を守って生きてきた肉体に、ふつうの女よりも幼い冒険心が宿っている。その気骨が自分の都合を忘れさせ、思うままの言動をさせる。涙が慟哭に変わりそうになったので、目をつぶった。
 キッチンへいき、新聞を読む。八百長が疑われる直前のシーズンの西鉄の成績が報じられている。昭和四十二年、六十六勝四十四敗十分け、九ゲーム差二位。田中勉、十二勝十敗、防御率二・一七。四十一年度の二十三勝、奪三振王、防御率二・三四と比べれば全体的に見劣りするが、いい成績だ。まったく不審な点はない。それなのに中日にトレードされた。肘を痛めたからと伝えられているけれども、移籍先の中日でも十一勝を上げている。不審な動きを見咎められたせいかもしれない。しかし、永易は四十二年には東映にいたから、永易が田中に直接接触してコトを企んだとは思えない。東映内でも暴力団員が永易を仲介にして八百長を行なっていたと伝えられているので、たまたま永易に親睦の飲み会か何かに呼ばれて、そのときに暴力団員を紹介されたのではないか。
 去年四十三年は、チーム五十六勝七十四敗三分けで、五位に転落。永易は四勝五敗、防御率二・八三、永易に声をかけられたという与田順欣(よしのぶ)は四十二年度、十三勝十一敗、防御率二・四四、去年は九勝十三敗、防御率三・七七。疑惑の余地があるが、与田だけではなくどの投手も負けがこんでいるので、パッと見で八百長の有無は判断できない。結局永易が告白しなければ闇に葬られた事件だったということだろう。実際のところ、永易は八百長を三回敢行して、一回しか成功しなかったと告白しているから、与田や田中も似たようなものにちがいない。いや、一度も成功しなかった可能性のほうが高い。チームぐるみでやらないかぎり八百長をするのがいかに難しいかということだ。それを考えれば、こんなに上を下への大騒ぎになっていること自体、なんだか奇妙に思える。
 素子が起きてきた。
「買い物にいってくるね。何が食べたい?」
「外食しよう。車、乗っけてって」
「うん! どこいく?」
「ロゴスキー。名鉄ビルの四階。名古屋でただ一軒のロシア料理専門店。一度いったような気がするだけで、どうもいってないみたいだから」
「わあ、すごい!」
「さ、ちゃんと上着を着て。ぼくもブレザーを着る」
「うん、すぐアイリスで着替えてくる。もっといい服に」
 電話案内でロゴスキーに電話する。店舗の移転先を教えられる。大きな店になったのだろう。書き取る。名を告げるのは面倒だったので、予約しなかった。十五分もして、素子は妖しいほどの美女になって戻ってきた。
「うお! きれいだなあ」
「えへへ。ひさしぶりにアイラッシュ引いてまった。厚化粧はしとらんよ。お姉さんが楽しんでらっしゃいって。席には寄らんと、ガレージから車だけ運転してきた。ガソリンは満タンやよ」
「食事のあとで、瀬戸までドライブしよう。むかしのことを忘れちゃいけないよ」
「うん!」
 移転先のメモを渡し、眼鏡をかけ、車庫入れしてあるローバーに乗りこむ。ひどく膝先が狭い。座席を後ろへ引く。素子は慣れた手つきでハンドルを切り返して走り出す。則武のトンネルをくぐり、桜通から大名古屋ビルヂングの裏手を通って一筋越える。茶色い縦長のビルの四階にロシア料理ロゴスキーの看板が見えた。
「案外小さいな。小山田さんたちに連れられていったのは柳橋のほうのロシア料理店だった。桟敷席のある大きな店だった。専門店とは言えないくらいの品揃えをしてた。ロシア料理店でなかったかもしれない。名鉄ビルじゃないし、うん、あれはロゴスキーじゃないな」
 車を駐車場に入れ、五脚の椅子の置かれた待合場所から、四、五人しか乗れないエレベーターで昇っていく。まったく読めないローマ字で店名が書かれた大ガラスの自動ドアを入る。予約なしなので、控えの空間で椅子に座って待つ。一時。営業開始は十二時からと書いてある。何人か煙草を吸っている。私たちを見て、周囲がざわつきはじめた。顔を合わせないようにする。遠慮してだれも話しかけてこないが、私にはまちがいなく気づいている。美しい素子のことは芸能人か何かと思っているようだ。正体の知れない芸能人には気さくに語りかけられない。昨夜のラーメン屋もそうだが、面倒を避けるためには美しい女性同伴に敵うものはないと痛感した。
 レジの向こうの店内の構えを眺める。裾はレンガ貼り、壁は波打たせた漆喰だ。次のかたと呼ばれて中に入る。桟敷席こそないが、思ったよりだだっ広く、六、七十卓はありそうだ。昼食どきなので混んでいるのだろう。壁のところどころに、ロシアの風景画が掛かっている。窪み棚には木彫りのマトリョーシカや鳥獣、布造りの人形、手芸品、マンドリン、絵馬や本まで飾ってある。しゃれた寒色のランプに照らされた二人用テーブルが十五、六卓、残りはすべて四人掛けか六人掛けだ。二卓ごとに白樺の大枝で仕切りがしてある。奥に宴会用の長卓があり、こちらとは長いレースのカーテンで仕切られていた。芸能人のサインなどはいっさい貼られていない。格式の高さを感じる。


         八十四

 お仕着せを着た白髪の男性外人にいちばん奥のテーブルへ案内された。水とメニューを置いていく。見回すとウエイターは中老以上のロシア人が多い。片言の日本語で紳士的な対応をするのが好ましい。卓の隅の小盆に香辛料、爪楊枝受けは小さなマトリョーシカだ。
「すてきやねェ。緊張してまうわ」
「いい雰囲気だ」
 メニューを開き、いちばん高い三千円のコースに決める。
「高!」
「金は使えるうちに使う。使う金がなくなったらジッとしてればいい」
 最初にまん丸いピロシキ、肉まんをあげたような味。塩を振り、マスタードつけて食うとなかなかうまい。つづけて出てきた黒パンにバターを塗って食う。これはうまい。
「おいしい!」
 素子がきれいな顔をくしゃくしゃにする。前菜。ロシアの漬物。ピクルスの塩辛味がいける。
「いい味。家庭じゃ作れんわね。お姉さんを連れてきて研究してもらおう」
 プロの目になっている。ボルシチ。大粒のポテトを掬って頬ばる。まずくはないが、レトルトふうの味。素子も何も言わなかった。つぼ焼きキノコ。この店ではないが、小山田さんたちと食った思い出の品だ。いや浅野に連れていかれたか? そんなはずはない。あのころの記憶が錯綜している。
 つぼ焼きの器が熱いので気をつけるように素子に言う。中身は豚肉、タマネギ、マッシュルーム。スープ状のホワイトソースで味つけしてある。キノコの部分はパン。スプーンで押し崩し、落としこんで食べる。思い出のとおりまろやかな味だった。たしかに食った味だ。
 ネギマのような牛肉の串焼き。ポテトサラダつき。焼きタマネギが串の真ん中に刺してある。柔らかいだけで、可もなく不可もなく。最後にイチゴジャム入り紅茶。
「おいしかった! 最高の贅沢やったわ」
 素子はこの上なく満足したようだ。
「出発!」
 笹島からテレビ塔を通って今池へ。
「ここの河合塾で模擬試験受けたっけなあ。つい二、三年前なのに、もう十年も前のことみたいだ」
「まだ三年も経ってないんよね。いろいろあったから、長く感じるね」
 古出来町、大幸球場、引山を過ぎて一本道。
「素子との出会いは忘れられない」
「あたしも。あそこからあたしの人生が始まったから」
「楽しいくらい生意気な女だった」
「ごめんなさい」
「謝ることないさ。ほんとに楽しかったんだから。この道は?」
「363号線。真っすぐ瀬戸につながっとる。……きょう、あのパンティやから、どこでもできるよ。声かけてね」
「よし、かならず一回はして帰ろう」
「うん! ティシュ、ちゃんと持ってきたから」
「どれどれ。おお、いたいた」
 スカートの奥の湯溜まりを探り当てる。
「やん、事故起こしちゃう」
「すっかり寂れた道に出るまでは、おあずけだ。どこもかしこもけっこう繁華だから」
「ほうやね。早くさびしいとこに出んかな。ジンジンしてきた」
 矢田川に沿って走り、渡り、菱野トンネル北に出る。ここまでほぼ一時間。思い出話にこと欠かなかったので、あっという間の一時間だった。
「瀬戸駅まで、あと四、五分やよ」
 どこに菱野トンネルがあるのか姿がいっさい見えない。ただの賑やかな通りだ。小さな川を渡る。
「新瀬戸駅だったかなあ、憶えとらんわ」
「尾張瀬戸駅だったよ」
「なら右やわ」
 尾張瀬戸駅。
「おお、ここだった、ここだった。開けたなあ!」
「こうなってまうと、あのうなぎ屋、もう見つからんわ」
「そうだね。とにかく走ろう」
「うん。さびしい場所探して、一度してもらわんといかん。グショグショでおかしくなりそうやわ。愛しとるって大声出して、はよイキたい」
「そんなこと言うから勃ってきちゃった」
「うれしい! はよ、はよ」
 間近に見える丘のほうの上り坂に向かって走り出す。建てこんでいた住宅がすぐに疎らになる。カーブの多い道をひたすら登っていく。人家が途切れない。
「萎んでこん?」
「だいじょうぶ」
「どこまで人が住んどるんやろなあ」
 とつぜん緑の多い平地の駐車場に出た。五、六台の車が停まっている。その奥に鳥居が建っている。
「神社だよ」
 二人車を降りて、鳥居の前に立つ。窯神神社と彫られた石柱が立っている。
「何と読むんやろ」
「カマガミ、だろうね。ここは瀬戸だし、焼き物に因縁があるのかもしれない」
「萎んでまった?」
「うん。でもすぐ回復するよ」
 鳥居をくぐる。パラパラと十人ほどの男女がいる。
「あそこの後ろ―」
 石段の途中にある五メートルに余る石碑の背後が立木の密集した小森になっている。素子は私の足を急がせた。だれも登ってこない。途中のロープを跨いで入りこむと、小暗い茂みで、淡い光しか届いていない。素子は一本の樹のもとにしゃがんで勢いよく小便をした。
「便利だね」
「うん。ああ、ゾクゾクする。すぐ入れて」
 スカートをたくし上げ、尻を向ける。
「入れるよ」
「はい!」
 素子はバッグからハンカチを取り出して咥え、ティシュの束も右手に持った。両手を木に突き、尻を高く上げる。挿入する。
「ううーん、クモクエエ! クウちゃん、ウク!」
 ハンカチを咬んで口を閉じているせいで、イがウになる。
「イッて!」
「ああーん、ウクウウウ!」
 よほどの興奮していたのかうねりがすごい。
「あ、ウクウクウク、ウクウウウ!」
 尻が暴れるのでしっかりつかむ。
「ううう、だうじょぶ、ぜったう離れん」
 陰茎をしごき取るようにうねる。
「うう、くるすうう、もう……あかん、ウグ! あああ、離れんよ、離れんよ、がまんでうるよ、あああ、ウク!」
 たちまち近づいた。
「素子、イクよ!」
「うれすう! いっしょにウク、つよウク、つよウク、ウックウウウ!」
 ツンという快感とともに吐き出した。素子はハンカチを咬み締めて激しく痙攣し、喉を絞ってうめいた。
「ウググウウウ! ウクウウウ!」
 深く挿入して律動し、しばらく止みそうもないうごめきに亀頭をゆだねる。木洩れ陽の下で白い尻が妖しくふるえる。あたりは森閑としている。
「素子、愛してるよ」
 素子はハンカチを口から外して下に落とし、
「あ、あたしも! 死ぬほど愛しとる、うーん、もう一回イクウウウ!」
 腰が抜けそうになっているので抜いた。
「グ、イググ、クウ!」
 愛液が両足の間に飛んだ。ピュッ、ピュッ、と心地よさそうに飛ぶ。ティシュで股間を押さえるのを忘れている。尻に触れると達しつづけるので、少し離れ、素子の手から何枚かティシュを抜いて自分の性器を拭った。パンティのあいだの茶色い襞が収縮を繰り返している。尻の痙攣が間歇的になり、やがて止んだ。幹に沿って立ち上がるのを助け、こちらを向かせて口を吸った。
「ありがとう、キョウちゃん。愛しとる、どうしようもないほど愛しとる」
 ようやく素子の右手のティシュが自分の股間にいった。よく拭いてバッグにしまう。
「捨てていけばいいのに」
「キョウちゃんがせっかくくれたもの、捨てられんよ。ほんとはお腹の中にしまっておきたいのに」
 四戸末子とおなじことを言いながらスカートを下ろす。もう一人同じことを言った女がいた気がするけれども、忘れた。私は上空の葉群れを見上げ、深く呼吸した。
 二人で腕を組み階段を降りていく。何を祀っている神社だったのかもわからず、鳥居を出る。翁帽をかぶった男の銅像があったが、碑文も読まなかった。素子と結び合うことに場所を提供した神社。それだけが思い出になる。車を出し、坂道を引き返す。
「うなぎ屋は平地にあったね」
「ほうよ。もう一度、駅前に戻ってみよ」
 しばらくしてとつぜん道の傍らで車を停めた。
「どうしたの?」
「脚を動かすとズンズンする。オマメちゃんがイキそうになっとる。自分で触ってもすぐイッてまうけど、キョウちゃんやないといやや」
 後続車がないのを確かめ、股間に手を入れ、割れたパンティのあいだのクリトリスをそっとこすり上げる。
「ああ、キョウちゃんありがとう、あ、イク、イク!」
 グンと両脚を突っ張った。陰阜をしっかり握ってやった。五回、六回と小刻みな痙攣をして止んだ。抱きついてくる。
「キョウちゃん、死ぬほど好き! もうだいじょうぶ、サッパリしたわ。どうしてもキョウちゃんやないといやなんよ」
 ふたたび走り出す。
「……ごめんね、厄介なからだで」
「厄介なもんか、ご褒美をもらってるようなもんだよ」
 対向車が一台通り過ぎた。
「ついてたね」
「ほんとに。あの神社もついとった。神さまが応援してくれとる。イキ神さまや」
「しゃれ?」
「うん、シニ神の反対のしゃれ。殺す神さまと、イカしてくれる神さま」
「頭いい!」
 大声で笑い合う。駅前に出る。
「この橋を渡ったように思うけど、二年前は農道だったよね」
「あかんわ。これは無理や。帰ろ」
「うん、仕方ないね。田代って名前だったけど」
「ちょっと待とっって」
 素子は車を降りて、通りかかった中年の男に語りかけた。男は何やら手振りで、橋の逆方向を指差した。素子は走って戻ってきて、
「よう田代って名前思い出したわ。橋は渡らんと、このまま川沿いにいって、五本目の道を左折した右側やて。深川ゆうところ」
「ああそうか、深川神社という表示があったような……。駅もすっかり変わってしまったし、面食らっちゃったよね」
 車を出す。
「この二年で家が建てこんでまったけど、二年前は田んぼ道だったでしょう」
「田んぼと畑と雑木の道だった」
 川沿いの道をどんどん進む。商店をごた混ぜにした二階家が延々とつづく。一分も走らないうちに五本目の十字路になる。橋のたもとに深川神社の標示看板が立っている。左へハンドルを切ったとたん、深川神社の鳥居と石柱がそびえていた。
「ここやわ! ここを真っすぐやわ!」
 舗道は市松模様の煉瓦で整備され、まるで東京競馬場の帰り道のように、露店じみた商店がずらりと何百メートルもつづいている。二年前のようなバラックではない。
「オンボロの露店が生まれ変わってる―」



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