八十八

「ドラゴンズ、守備練習終了でございます」
 全員ベンチに駆け戻る。トンボが入る。ライン引き。
 応援団の鳴り物がよく響く。レフトスタンドで阪神タイガース応援歌『六甲おろし』が唄い上げられる。明確な声で聞いたのは初めてのことだ。黄と黒の縞模様の法被を着た男たちが音頭をとっている。

  六甲おろしに 颯爽と
  蒼天翔ける 日輪の
  青春の覇気 うるわしく
  輝くわが名ぞ 阪神タイガース
  オウ オウ オウオウ 阪神タイガース
  フレ フレフレフレ

 ぴたりと唱和する。みごとだ。消化試合にわざわざ出かけてきて熱心に応援する奇特な観客たち。まじめに盛り上がっている。中が腕を組み、
「昭和十一年に作られたプロ球団最古の歌だ」
 私は応える。
「古関裕而作曲。作詞は、人生の並木路の佐藤惣之助。どちらも天才ですが、古関裕而は大天才です。紺碧の空、巨人軍の歌、栄冠は君に輝く、長崎の鐘、イヨマンテの夜、ドラゴンズの歌、君の名は、東京オリンピック・マーチ」
「へえ、オリンピック・マーチも!」
 一枝が驚く。私は歌声のつづく六甲おろしに耳を澄ました。球団旗が三本振られている。
  
  闘志溌溂 起つやいま
  熱血すでに 敵をつく
  獣王の意気 高らかに
  無敵のわれらぞ 阪神タイガース
  オウ オウ オウオウ 阪神タイガース
  フレ フレフレフレ
 
  鉄腕強打 幾千(た)たび
  鍛えてここに 甲子園
  勝利に燃ゆる 栄冠は
  輝くわれらぞ 阪神タイガース
  オウ オウ オウオウ 阪神タイガース
  フレ フレフレフレ

 きっちり三番まで唄った。感激した。応援歌というのはなんと旗幟(きし)鮮明なことだろう!ライトスタンドや一塁スタンドにも興奮が伝わっていき、それじゃと言うわけで、上着だけライトブルーのユニフォームを着てドラゴンズ帽子かぶった団旗持ちが一人、太鼓打ちが二人、呼子を咥えて姿勢正しく立つ。曇り空が高く白い。『ドラゴンズの歌』が湧き上がる。

  青雲(あおぐも)高く 翔け昇り
  龍は希望の 旭(ひ)に踊る
  おお溌溂と 青春の
  君は闘志に 燃えて起つ
  晴れの首途(かどで)の 血はたぎる
  いざ行け われらのドラゴンズ

  歓呼を浴びて 打ちまくる
  球はみどりの 風に飛ぶ
  おお名を惜しむ 若き胸
  君の火を吐く 殊勲打に
  肩に腕(かいな)に 誇りあれ
  いざ打て われらのドラゴンズ

  明るき空に こだまして
  凱歌とどろく 雲の果て
  おおほとばしる 感激に
  君が目指せる 栄冠も
  微笑みたたえて 近づきぬ
  いざ勝て われらのドラゴンズ

 歌が止んだところで、下通のスターティングメンバー発表の声。最近では、観客たちは彼女の特異なアナウンスに好奇の耳を立てるようになってきた。
「すばらしい応援歌の交換、聞き応えがございました。ありがとうございました。どちらの応援歌も、今年おん齢六十歳、中日ドラゴンズ水原監督と同様還暦を迎えられました古関裕而氏の作曲でございます。古関氏は、大阪タイガースの歌、巨人軍の歌、ドラゴンズの歌などプロ野球チームの応援歌ばかりでなく、若鷲の歌をはじめとする多数の軍歌、かの有名な早稲田大学応援歌紺碧の空、甲子園行進曲栄冠は君に輝く、ファンファーレも高らかなオリンピック・マーチ、さらには長崎の鐘、イヨマンテの夜、君の名は、といった流行歌にいたるまで、種々彩々の作曲をなさった鬼才でございます。今年その功績を讃えられ、紫綬褒章を拝受なされました。卒爾(そつじ)ながら両チーム応援歌の解説をさせていただきました。失礼いたしました」
 大喝采、大歓声。
「それではただいまより、中日ドラゴンズ対阪神タイガース二十二回戦を開始いたします。両軍のスターティングメンバーを発表いたします。先攻阪神タイガース、一番センター川藤、背番号45……」
         †
 一時半試合開始。
 小野と鈴木皖武の投手戦になった。五回まで小野は肩の調子がいいのか速球が走り、阪神を散発四安打に抑え、右のサイドハンドの鈴木も下から浮き上がる速球で、中日を散発四安打に抑えた。ホームランは一本ずつ。初回の藤田平の十九号ツーランと、五回裏江藤のレフト中段に突き刺さる六十七号ソロ。その間、私はレフトフライ、レフトフライ。七回裏ツーアウト、大歓声の中勇んでバッターボックスに入ったが、センターフライに終わった。
 二対一、一点ビハインドの九回裏。高木、セカンドゴロ。ワンアウト。私はベンチを出ないで江藤のバッターボックスを見つめる。太田が、
「この一年、神無月さんは予想したよりもたくさん勝負してもらえましたね。きょうも三打席全勝負です。来年もだいじょうぶそうです。スペンサーが敬遠攻めに遭ったとき、遺した言葉があります。日本人はとにかく対立を避ける、そしていつも微笑している、他人と楽しく付き合おうと思っているからじゃない、怖がっているのを隠しているだけのことだ、ものごとにチャレンジするのは自殺行為に等しいと思っている、だから野球でも、ピッチャーがバッターに向かって投球するとき、その場しのぎのことしか考えない。ただしい意見です。―四年前に言ったことですけど、たった四年間で、いえ、この半年間で日本のプロ野球は神無月さんのおかげでガラリと変わりました。スペンサーよりも怖い神無月さんと堂々と勝負するようになった」
 江藤、深いセンターフライ。ツーアウト、ランナーなし。私に打順が回ってきた。水原監督のパンパンが激しくなり、ベンチの怒声が大きくなる。きょうヒットを打っているのは、中、江藤、太田、菱川の四人。私は三のゼロだ。三本とも意外なほど伸びる外角ストレートを打ち損ねて、レフトフライ二本、センターフライ一本。チームのために最善を尽くすという考え方からすれば、シングルヒットでもいいからとにかく塁に出て、木俣のバッティングに賭けるというところだろうが、木俣が長打を放つという保証はない。きょうの木俣も速球にやられてまったく当たっていない。それなら自分が最大の成果を上げられる打撃をする。つまり、ツーアウトのここはホームランを打ってまず同点にするしかない。
 鉦、笛、太鼓、旗、金太郎コール。心がまとまったので美しく調和して聞こえる。鈴木皖武との過去の対戦をもう一度思い起こす。ライトへホームラン、ライト前ヒット、レフト犠牲フライ、きょうはレフトフライ、レフトフライ、センターフライ。ホームラン以外はほとんど外角攻めだ。ホームランを打ったボールは何だったか。……下から浮き上がるカーブだった。浮き上がってから落ちる。初対決のときの鈴木はそのカーブ一辺倒で押してきた。きょうも外角一辺倒だ。
 初球、外角遠いストレート。ぎりぎりストライク。九回なのに球速が衰えない。なるほど、それできょうは外角ストレート一辺倒というわけか。ボックスの左前へいざる。打つ瞬間に右足でラインを踏むつもりだ。田淵が私の爪先をじっと見ている。
「危ねえなあ……」
 ポツリと言う。瞬間、カーブでのけぞらせにくるとわかった。サイン交換が終わり、鈴木が振りかぶったとたん、右前へいざった。きょう初めての大きなドロップカーブが落ちてくる。
「やめて!」
 田淵が叫ぶと同時に振り出した。食った! 長谷川コーチがバンザイをする。観衆がオオオーと声を合わせる。
「くそゥ!」
 田淵の声が背中を追ってきた。白球がライト看板のはるか上を越えていくのが見えた。同点になっただけなのに、水原監督はまるで私が決勝ホームランでも打ったかのように跳びはねて抱きつく。江藤が、一枝が、木俣が、負けの消えた小野が、第二戦の先発の星野秀孝も、あしたの先発の小川も抱きつく。
「神無月選手、百五十七号のホームランでございます」
 歓声と怒号の中、木俣が打席に立つ。ツーツーから外角カーブを引っ張って左中間を抜く二塁打。歓声が静まらない。菱川、初球の内角シュートをレフトオーバーの二塁打。あっという間にサヨナラ勝ちになった。二対三。三時二十分試合終了。試合時間一時間五十分。小野完投。十五勝目。
 ロッカールームで半田コーチがバヤリースを大盤振舞いする。
「グッジョブ、グッジョブ! みなさんすばらしいネ!」
 水原監督が、
「第二試合はまちがいなく江夏でくる。負けていいよ」
 第二試合の先発予定のサウスポー星野秀孝が、
「全力で抑えます。今季の江夏はそれほど調子よくないので、打ち勝ってください」
 高木が、
「おまえ勝てば何勝目だ?」
「十三勝目です」
「そんなに勝ってるのか!」
「はあ、たまたま」
 江藤が、
「二十勝の大台に載せるのは、今年は無理ばってんが、ようやった。とにかく一試合一試合がんばらんばな」
「はい!」
「まんいちのリリーフはだれね」
「俺です!」
 伊藤久敏が手を挙げた。
「勝ったら何勝目だ」
「七勝目です」
 私は、
「伊藤さんは三年前のドラフトですよね」
「うん、二次ドラフトの二位」
「左の速球派たい。一年目から三十登板ぐらいしたんやろう」
「はい。去年まで一勝しか挙げられませんでした。でも今年は―」
 中が、
「花開いたね」
「それほどのものじゃありませんが、ポチポチ勝てるようになりました。みなさんのおかげです。ありがとうございます」
 一枝が、
「金太郎さんに礼を言え。次の試合も打ってくれるだろう。秀孝が打たれて勝ちが回ってきたら漁夫の利だ」
「お願いします!」
 伊藤は私から始めて一人ひとりに頭を下げた。星野秀孝が、
「たぶん打たれません」
「それでもけっこうです。投げられれば」
 と伊藤久敏が頭を下げたので、ベンチじゅう大笑いになった。グランドから六甲おろしが流れてきた。


         八十九
 
 第二試合。対阪神二十三回戦。四時試合開始。
 阪神は田淵の代わりに江夏専用キャッチャー、ダンプ辻恭彦(やすひこ)が入り、セカンドには江田昌司(だれだっけ?)の代わりに安藤統夫(もとお)が入った。中日は第一試合とまったく変わらないメンバー。
 星野秀孝は八回表まで、打者二十九人、被安打四、三振四、フォアボール一、自責点ゼロ。一人で抑えこんだ。ドラゴンズは十一安打で十二点取った。
 一回裏、ヒット二本とフォアボールで満塁。江夏の調子が悪い。叩きつけるような腕のスイングがない。汗をグッショリかいている。風邪でもひいたのかもしれない。私は彼の初球真ん中の小さなカーブをライト中段に打ちこんだ。百五十八号グランドスラム。すぐさま江夏は金本秀夫(だれだ?)に交代した。江藤が、
「江夏は防御率一位がかかっとるけんな。いまのところ一・七点台たい。傷の浅いうちに引っこめんば。十敗もしとるばってんが、中日以外のチームにはほとんど二点も取られとらん」
 私は三回、五回と、金本からライト場外へ百五十九号ツーラン、スコアボード右下へ百六十号スリーランを打ってことごとく掃除し、木俣が四十七号、四十八号と二本のソロで追い討ちをかけた。私から始まった七回の四打席目は、みんな凡打で流そうとした。私はライトフライを打ったが、木俣と菱川のゴロの球足が強すぎて、サード大倉とセカンド安藤の連続エラーを誘った。大男の金本に代わって、これまた大男の吉良修一、今季初登板のようだ。もうだれがだれやらわからない。太田、一枝、とすべて思惑どおりの外野フライ。
 ゼロ対十一の八回裏、ツーアウトから江藤が欲求不満を解消するように、吉良に六十八号ソロをぶちかました。彼のイラ立ちはよくわかったので、水原監督もベンチも喝采した。私は長居無用とばかり〈慎重に〉空振り三振をした。キャッチャーのダンプ辻が私に、
「吉良にはええ思い出になったやろ。ありがと。おいら、名古屋の西区出身なんだよ。高校は瑞穂区の享栄商業だけどね。名西と聞いて以来、あんたの大ファンだ」
 と小さく声をかけて去った。きょう初対面の金本と吉良は、二人とも百八十センチ以上のゴロリとした大木で、太田の話では、どちらもゼロ勝ピッチャーということだった。球質にもコントロールにもまったく見どころはなかった。最後の守備に向かいながら中に訊いた。
「一勝もできずにプロを引退するピッチャーて、どのくらいいるんですか」
「ほぼ四割だね。勝てるピッチャーはすぐやめない。勝てないピッチャーはすぐやめる」
 九回表を伊藤久敏が三人で抑えて、ゼロ対十二で六時二十三分試合終了。チーム百二勝目、星野秀孝十三勝目。江夏は十一敗目を喫した。試合後みんなでドッとベンチにふんぞり返った。インタビューは水原監督が断った。
「あしたも昼の試合なので、選手を早く帰して休ませます。インタビューは、あさって十六日の甲子園でゆっくり受けます。勝てばね」
 まだ六時半を回ったばかりだったが、このまま球場にいても何ほどの休息もとれないので、ロッカールームに引き揚げたあと、めいめい勝手に帰宅した。駐車場までの道は相変わらず混雑していたが、一時期のような剣呑な雰囲気はまったく感じられなかった。
         †
 北村席は夕食の真っ最中だった。カズちゃんも節子たちもいる。直人がステージ部屋でプラスチックのバットを振り回している。主人が、
「ホームランのペースが戻ってきましたな」
「はいどうにか。ホームラン以外が凡打なので、いま一つです」
「きょうはラジオしかやってなくてね、第一打席で江夏からホームランを打ったのを聞いて安心して見回りにいきました。帰ってきて聞いたら、三打席連続というじゃないですか。百六十号。いったい何本までいくんですかね」
「百六十五本前後でしょう」
「打てるうちに打っておかないと、王に追いつかないということでしょう? 王は十年目の今シーズンで四百号いきますよ。四十本平均。あと八年で七百二十本。神無月さんが来年から九十本ずつ打てば、七年以内に追いつくでしょう」
「……追いつくことに大した意義を感じないなあ」
「でしょうね。そうくると思いました。王が百六十号を打ったのは入団六年目の、五十五本を打った年ですよ。追いつくどころか、神無月さんは一年目ではるか先へいってます」
 二人で声を出して虚心に笑い合う。ユニフォームを脱ぎ、直人の頭を撫ぜてから、シャワーを浴びにいく。頭を洗い、カズちゃんにからだを洗ってもらう。
「このあいだ新聞記者に怒鳴ったこと、直人が憶えてなきゃいいけど」
「すっかり忘れてバット振ってるじゃないの。でも、ああいう姿は一度見せておくのがいいのよ。父親の怖さが心の奥に残るわ。大きくなれば、その怖さの底に澄んだ正義があることもわかる」
 そんなものだろうか。何かを思い出すときは……頭に精確な幻灯機があるわけではないので、脳に映し出される事実が歪められることもある。希望や羞恥が入り混じって画像が歪むのだ。記憶はあてにならない。憶えている体験はどれも輪郭がおぼろげで、ホンモノとは思えない。
「暴力的な父親と記憶されなければいい。暴力的な言動は、康男に目覚めさせられたぼくの本質だ。本質はできるだけ曝したくない」
「だいじょうぶよ。暴力のための暴力じゃないから」
 新しいジャージに着替える。菅野と睦子と千佳子といっしょに食卓につく。睦子が、
「あしたも千佳ちゃんと二人でいきます。青森市営球場よりもお客さんが少し多いくらいで、とてもすがすがしいんです」
 菅野が晩酌をしていた主人に、
「きょうは観客二万四千人というところでしたかね。みんな江夏を待ってましたから。あしたは一万人を切るでしょう」
「レギュラーを適当に出すから、一万を切ることはないんでにゃあ?」
「一万人は神無月さんのファンと見ればそうでしょうが、神無月ファンも消化試合まではなかなか気が回らないですよ。あしたはもう江夏が投げないので一万人はきません。二線級ピッチャーを相手に中日がパッカパッカ打つだけです」
「たくさんホームランが観られそう」
 睦子が喜んだ。
         †
 節子とキクエを連れて、カズちゃんとメイ子と百江といっしょに則武に帰った。居間のソファに落ち着き、コーヒーを飲みながら五人で四方山の話をした。カズちゃんが、
「忙しい仕事の中で時間をとって逢いにくるのってたいへんでしょう。ありがとう、節子さん、キクエさん」
 節子が、
「とんでもない。逢いたい一心で夢中で逢いにきてるんですから。医師の当直は、日勤のあと、そのまま朝まで交代制で居残るだけで単純です。看護婦は日勤、準夜勤、深夜勤の三交代制になっていて、準夜勤のまま当直を引き受けることもあるから、ちょっと複雑なの。ふつうの病院の日勤は朝の八時から夕方の四時まで、準夜勤は四時から十二時、深夜勤は十二時から八時までなんですけど―」
 キクエが、
「日赤は八時半開始で、三十分ずつずれてます。申告して代わってもらうこともけっこう融通が利きます」
 カズちゃんが、
「おたがい忙しくなっちゃったわね。キョウちゃんも大忙しだし。とにかくいまのキョウちゃんとは、夏の日帰り遠足ぐらいしかできなくなっちゃったということね。何かのまちがいで妊娠でもすれば、忙しさの質がちがってくるでしょうけど」
「ぜんぜん別物になりますよね」
 キクエが言う。
「そう、仕事で忙しいんじゃなくて、みんなで協力し合う忙しさね。妊娠した当人も周囲もそれにかまけることになるでしょう? 子供が生まれる前には、無事生まれることを願ってソワソワ、生まれたら生まれたで、健康に育つのを願ってソワソワ。私としては、北村にソワソワ忙しくしてるお母さんが三人ぐらいいてもいいと思うのよ。家の中があわただしくて、キョウちゃんどころじゃなくなっちゃうから、キョウちゃんもかえって気楽に仕事ができるんじゃない?」
 メイ子が、
「でも、だれも子供は産みたがらないですよね。節子さんとキクエさんは、神無月さんオンリーでしょう。ほかの女の人もほとんどそう。私は神無月さんの子供がほしいです。でもこれ以上は産みすぎって感じ。ついこのあいだまで三上さんがほしいって言ってましたけど、考え直したようだし、このごろでは幣原さんが冗談ぽい顔でほしいって言ってます」
 節子が、
「幣原さんは高齢でしょう」
 百江が、
「四十二です」
「出産のときにまんいちのことがあるのはいやだわ」
 キクエが、
「成り行きにまかせましょうよ」
 カズちゃんが節子に、
「子供を産むには何歳ぐらいがいいの?」
「十八歳から四十五歳までが出産適齢期と言われてます。十七歳ぐらいで骨盤形成が終わるので、十八歳ということになってるんです」
「ふうん、意外としぶといのね。幣原さん、四十二だからまだいけるでしょう」
 メイ子が、
「いつかお嬢さんとお話したことがあったんですよ。ソテツちゃん、もう産めるんじゃないかって」
 キクエが、
「産めます。十七歳ですから、しっかり骨盤ができてます」
 カズちゃんが、
「……みんな私と同じで、キョウちゃんを愛しすぎちゃってるから、子供まで頭が回らないでしょう。いっそのこと、私がエイッて産んでしまって、みんなを出し抜こうかしら」
 節子が目を丸くした。
「ほんとですか!」
「冗談よ。―キョウちゃんにあまり相手にされなくなったら、生きていても意味がないもの。わが子というのは、意味のない人生にもそれなりに意味づけしてくれるけど」
 キクエが、
「戦争未亡人なんかがそれですよね」
「ええ。でも、それじゃ、愛情にあふれた人生を満喫できないわ。子供そのものはかわいいから見捨てられないし、わが子となると身を捨てて夢中で育てなければいけないしね」
 節子が、
「未亡人や離婚したような人にかぎらず、ふつうに子育てしてる夫婦でも同じようなものです。子供がいると、愛する人を純粋に思う時間、愛する人に抱かれる時間、愛する人と生活する時間が削られます。ほとんどの女の人がそういう不満足な人生を生甲斐だと取りちがえてます。トモヨさんのように子供を産むことで、それまでの不本意な人生が解消される女の人は特別です。子供を産むことで新しい幸福な人生に踏み出すことができますから」
 キクエが、
「私の場合、キョウちゃんに遇うまでの人生は、平凡でしたけど不本意じゃなかったんです。大きな愛を知らなかっただけで、ごくふつうの人生でした。キョウちゃんを愛することで、ふつうの人生をほんとうに幸福な、確かなものにしてもらったんです。不足がないだけのふつうの人生には戻りたくありません」
 カズちゃんは腰を上げ、
「さ、そろそろ抱いてもらいなさい。メイ子ちゃんか百江さんをつけてあげましょうか。私は危ない日だからだめ」
 キクエが、
「ふたりともだいじょうぶな日です」
 カズちゃんとメイ子は式台の前の十畳の客部屋に蒲団を敷くと、お休みなさいと言って去った。百江はジム部屋の隣の風呂を立てにいった。
 最近、性欲が薄れてきた自覚が強い。交接の感覚に飽きたのではなく、最愛のカズちゃんの反応を除いて、女の生理的な反応に退屈しはじめたのだ。反応しているとき、脂肪の乗った腹や胸をじっと見つめることがある。快楽に歪む眉間を静かに見つめることがある。ただ、そういう変化を嫌悪してはいない。わずかでも性欲がなければ彼女たちと交接することはできない。わずかな性欲のおかげで勃起したら、今度はそれを持続するために好色の意識を保ちつづけなければならない。少しでも好色の意識が途切れると、たちまち萎縮する。一度カズちゃんにそのことを打ち明けたとき、彼女は朗らかに笑いながら、
「セックスはなるべく八方美人はだめよ。気に入った人、気に入らない人をちゃんと分けて気に入った人とだけするようにしないと。キョウちゃんの場合、そんなふうに冷たく吹っ切ることはできないわね。やさしい人だから。私にも責任があると思う。ここまでキョウちゃんの女の数が増えてしまったのは私のせいだから。いまさらみんなと別れなさいとも言えない。と言うより、キョウちゃんはスケールの大きな男として、あたりまえの生活をしてるのよ。肉体的に正常な男の相手は大勢になるに決まってる。なるべく、気に入った、ちゃんと興奮する相手にだけ奉仕してあげるようにしなさい。本と同じ。一冊の厚さに不安になる前に、ただ一ページ一ページ読めばいいだけ。みんなに奉仕しなくちゃいけないと思ってるから不安になるの。ふと雑念が入って気が逸れたら、そこで冷たくお終いにしなさい。女のからだなんてグロテスクなものなんだから、とにかく、求められてうまく勃ったら、目をつぶってすればいいの。入れてしまえばいっしょ。女はかならず気持ちよくなるし、そうなればキョウちゃんもかならず気持ちよくなる。女はぜんぶ最愛の女と思えるわ」
 節子とキクエが風呂から上がってくるのを待ちながら、蒲団に横たわった。


         九十

 十月十五日水曜日。六時四十五分起床。曇。十二・七度。八時から日勤の節子とキクエは、幸せに満ちた顔で朝食を食べた。カズちゃんが、
「きのうキクエさんが言ってた〈不足がないだけのふつう人生〉って、つまらない?」
「キョウちゃんに遇ってしまったいまの私にはそうです。そういう人生を不幸だと感じます」
「節子さんも?」
「はい。心からそう思います。キョウちゃんの女の一人として、ふつうでなく暮らすことが最高の幸せです」
「キョウちゃんにとっては、これがふつうなのよ」
「わかってます。世間の人に理解されない人生のほうが、キョウちゃんにはふつうでしょうから。私たちも同じです。私もキクちゃんも、これがふつうだと思ってます。心が満たされてますから。ふつうでないというのは、世間的に満足していて、心が満たされていないことだと思います」
 メイ子が目頭を拭った。キクエが、
「どうのこうの言っても、世間が奇妙に思うのは単にセックスのことだけで、人間としての営みのことを考えればごく正常に暮らしていると思うわ。食べて、寝て、やり甲斐のある仕事をして生計を立ててますから。そう考えても、胸がときめくほど異常だと思うのは、和子さんとキョウちゃんの寛大さとやさしさです。その異常さがいつも生きる励みになってます。〈不足がないだけのふつう人生〉じゃないって」
 二人とも溌剌と二膳のめしを食った。メイ子が一足先にアイリスに出勤し、節子とキクエはカズちゃんと北村までいき、彼女が運転するローバーに送られて帰った。
         †
 菅野と桜通を泥江町までランニングのあと、筋トレ二十分。バーベル百三十キロゆっくり三回。三種の神器と素振りはオミット。
 九時半出発。名古屋での対阪神最終戦。一時開始のデーゲームだ。菅野が、
「四時に試合が終わったとしても、五時十八分のひかりに悠々間に合います」
「わかった。もっと遅くいく人たちがほとんどだろうから、一人旅だね。本を持っていこう」
 観衆七千七百人。菅野の言ったとおりだ。応援団の歌声が空に高く昇る。江藤は背中の張りを訴えてお休み。ベンチで声出し係。
「ただいまより中日ドラゴンズ対阪神タイガース二十四回戦を開始いたします。中日球場における今季対阪神最終戦です」
 川藤、安藤、ファースト田淵、カークランド、辻恭彦、池田純一、大倉、江田、ピッチャー植木。
「だれ、植木って?」
 太田が、
「平安で衣笠とバッテリーを組んでたサウスポーエースです。二度甲子園に出て、二度ともベストエイト。遅いカーブと小さいシュート。龍谷大からきたドラ二の新人です。今年十二登板、勝ちなしの二敗」
「バッティング練習になるね」
「はい」
 阪神は勝つつもりがまったくないようだ。中日は一番から、神無月、一枝、中、高木、木俣、太田、千原、菱川、ピッチャー小川の変則ラインアップ。初めての一番打者だ。わくわくする。盗塁を稼ごう。
 一回表。ライト線三塁打の川藤を置いて、安藤が九号ツーラン。田淵三振、カークランド三振、辻ピッチャーゴロ。二対ゼロ。適度のハンデだ。
 一回裏。私はさっそく敬遠気味のフォアボール。盗塁成功。一枝ドロンとしたカーブを見送り三振。二塁ベース上から球筋の観察。中ドロンとしたカーブをセカンドゴロ。高木低目のシュートを打ってショートゴロ。
 二回表。池田ファーストゴロ。大倉三振。江田三振。もう小川のエンジンが温まってきた。
 二回裏。木俣、ドロンカーブを叩きつけてレフト上段へ四十九号ソロ。よし、一つ変化球征服。太田、真ん中ストレートを打ってサードゴロ。千原、一球も振らずにフォアボール。何かある。二打席目が楽しみだ。菱川、外角ストレートを打ってライトライナー。小川真ん中高目のストレートを振って空振り三振。二対一。
 三回表。植木三振。川藤三振。安藤ライトフライ。
 三回裏。私ドロンカーブをセンター前ヒット。一枝セカンドゴロゲッツー。盗塁しないとかならず痛い目に遭う。反省。中ライト前ワンバウンドの痛烈なヒット。高木今季二度目のセーフティバント。中の膝を考えてのこと。三塁前の小飛球になってアウト。
 四回表。田淵、どこまでも高く舞い上がるレフトスタンドへの十九号ソロ。カークランドファーストライナー。辻ライト前ヒット。池田の初球、ダンプ辻走る。木俣驚いて送球したが高く逸れてセンターへ転がった。辻三塁へ。池田右中間を破る二塁打。辻生還。大倉サードゴロ。江田三振。四対一。
 四回裏。木俣、初球を高々とバックスクリーン左上へ五十号ソロ。二打席連続。四対二。
「ここからヨ、ここからヨ!」
 半田コーチのキンキン声。水原監督のパンパン。ベンチこぞって、ヨ、ホ、ヨー!
 ピッチャー交代。石床(いしどこ)という見知らぬ選手だ。太田が投球練習を見つめながら、
「プロ入り四年目。一勝もありませんでしたが、今月十二日の大洋戦で初勝利を挙げました」
 オーソドックスなストレートピッチャー。宇野ヘッドコーチが、
「ドラフト元年のドラ一だ。阪神が鈴木啓司を蹴って獲ったほどの男だよ。シュートが切れる」
 かまわず打ち砕く。太田、〈切れない〉シュートを追っつけて、木俣と同じバックスクリーンへ三十号ソロ。四対三。千原、外角のドロンカーブを引張りぎみにライト前へ痛烈なヒット。なるほど、一球も振らずにしっかり打ち返す方法を考えていたのだ。菱川、切れないシュートをレフト看板へライナーでぶち当てる三十八号ツーラン。逆転、四対五。始まった。 
「好きなだけバッティング練習しとけ! あと五試合しかなかぞ!」
 ベンチ最前列の江藤の声。小川三遊間のヒット。鉦、太鼓、笛、球団旗。七千七百人の金太郎コール。初球、スピードの乗った打ちごろのカーブをライト場外へ叩き出す。百六十一号。水原監督と強いタッチ。ベンチはお祭り。さびしいスタンドも精いっぱいのお祭り。四対七。一枝レフト前ヒット。中、サードの頭へ高いバウンドの内野安打。大倉が一塁へ送球する間に一枝は三塁を陥れた。ノーアウト一塁、三塁。静かな高木が、
「ウリャ!」
 と叫んでウェイティングサークルを出る。美しい構えから、ガシ! よしゃ! 左中間を真っ二つに破る二塁打。一枝生還。中も一塁から懸命に走って頭からホーム突入。田淵タッチ。アウト! 大歓声が上がる。田宮コーチが、
「膝だいじょうぶか!」
「すっかりオッケー!」
 OKではなさそうな用心深い歩き方だ。打者一巡。木俣レフトライナー。太田、高く舞い上がるレフトフライ。チェンジ。一挙七点。四対八。
 ストレートの走りだした石床に攻めこまれ、五回裏、六回裏と三者凡退。私はバットを折るセカンドハーフライナー。
 七回裏、高木、今度もセーフティバントを決めて出塁。木俣ワンワンから内角高目のカーブを左中間へ五十一号ツーーラン。きょう三本目。四対十で店仕舞い。と思ったら、太田フォアボール、千原ライト前ヒットとつづいて、新幹線の時計が気になりだした。菱川ライト前ヒットで太田生還、四対十一。ノーアウト一、三塁。ここでピッチャー吉良に交代。きのうは〈慎重〉に三振してやったが、きょうはまだ七点差だ。容赦しない気持ちでいく。二時三十五分。新幹線はじゅうぶん間に合う。小川、明らかにわざとらしい三振。私はどうしようかと迷ったが、やはり打とうと決める。
「打っちゃうんですか?」
 気配を察して辻が呟いた。
「はい。ここまで点差があれば、三振もホームランも同じでしょう。じっくりボールを選んでフォアボールで出たりしたら、試合が長引きます。おたがい、きょう甲子園へ移動ですから、チャッチャといきましょう」
 初球の外角シュートをひさしぶりの屁っぴり腰でレフト最前段に打ちこむ。監督はじめ、もうタッチのみでだれもはしゃがない。移動のことが気になっている。下通の声だけが明るく冴えわたる。
「神無月選手、百二十五試合目、百六十二号のホームランでございます」
 下通の明るい声のような歓声は湧かず、足並みの揃わない拍手のみ。ゲップが出る感じなのだろう。どう思われてもいい。今年打てるところまで打っておこう。一枝ショートゴロ。中セカンドゴロ。四対十四。
「三人で終わらせるぞ!」
 八回表。小川が勢いよく飛び出していき、田淵とカークランドを三振、辻をサードゴロに抑える。すでに三振十個だ。
 八回裏。高木センターライナー。木俣ライトフライ。太田みごとな空振り三振。ベンチが喝采した。このピッチャーのボールにバットを当てないことのほうが難しい。
 九回表。時計は二時五十分。池田フォアボール。大倉サードフライ、江田、私へのフライ。吉良の代打藤田訓弘(のりひろ)三振。ゲームセット。小川は四回までに四点を献上したが、五回から九回まで打者十六人をヒット一本、無得点に抑え切って二十五勝目を挙げた。すごい男だ。下通のアナウンス。
「小川投手、本日の勝利で二十五勝目を挙げました。高橋一三投手の二十二勝を凌ぎハーラーダービーのトップがほぼ確定したものと思われます。また、中日ドラゴンズ、本日の勝利をもちまして、今シーズン百三勝に到達いたしました。二リーグ制開始以降の昭和二十六年の南海ホークスのシーズン勝率七割五分零厘は、九十六勝した時点ですでに抜いております。あと一勝すれば、一リーグ制時代の昭和十三年に大阪タイガースが記録した八割二分九厘を抜き去って八割三分二厘となり、日本新記録を達成することとなります。なお先回も申し上げましたが、南海ホークスが最高勝率を挙げた当時、試合数は百四十三でございました。百三十試合での歴代ナンバーワンは、水原監督率いる読売巨人軍が昭和三十年に記録した七割一分三厘、九十二勝三十七敗一分けでございます。その記録ももちろんすでに破っております」
 先刻承知のスタンドの暖かい拍手。バックネットを見ると菅野や睦子たちが拍手している。一塁スタンドの観客が、
「ごくろうさん! もうぜんぶ負けてええぞ!」
「小川、二十五勝おめでとう! 沢村賞は高橋一三にくれてやれ!」
「はよ甲子園へいって、のんびり負けてこい!」
「神無月、百七十号は巨人戦で打てよ!」
「中、江藤、あしたもゆっくり休養しろ! シリーズで打ちまくれや!」
「中日ドラゴンズ、バンザーイ!」
「バンザーイ!」
 全員でベンチ前からスタンドに手を振る。
         †
 北村席に戻ってシャワーを浴び、着替えをし、ブレザーを着る。直人を抱き上げてキスをし、ソテツの折箱弁当を入れたダッフルを担ぎ、バットケースを手に玄関を出る。主人と菅野とカズちゃんが新幹線ホームまで見送る。
「ユニフォーム一式は送ってあるから心配しないで」
「うん」
 主人が、
「この一日で遠征も終わりです。十八日から日本シリーズまで名古屋ですよ」
「うれしいですね」
「二十九センチのスパイク、フジの富沢さんとミズノのスポーツ部へ連絡しておきました。日本シリーズには間に合うでしょう」
「ありがとうございます」
 菅野が、
「最終戦の何回か、江夏が投げると思いますが、全力でぶつかってください。星野さんが現在百二十イニングで、あと五試合で、どうにか百三十イニングを超えそうです。防御率一・五九、江夏は一・七八。星野さんが最優秀防御率を獲れそうなんですよ」
「そうですか、全力で協力しなくちゃ」
 ふと振り返ると、中、高木、徳武、本多コーチが立っていた。本多コーチに松本忍と伊熊と江藤省三がくっついている。日野の姿はなかった。
「これはこれはみなさん、よろしくお願いいたします」
 主人に倣って私も最敬礼する。カズちゃんと菅野も笑って辞儀をする。徳武が、
「慎ちゃんや菱たちは遅い新幹線でいくらしい。ひとりでいく気だったのか。一人旅はさびしいぞ」
「はい。同行ありがたく」
 主人たちと握手してひかりに乗りこむ。窓から彼らに手を振る。グリーン車の七人旅。


(次へ)