九十四

 四回裏から板東登板。三塁側スタンドの割れんばかりの拍手。板東英二という男が長年中日ドラゴンズの看板選手だったことがわかる。板東の投球練習。両手を高く広げる独特の投球フォーム。木俣のミットがいい音を立てる。板東はときどきスタンドを見上げる。感無量のようだ。場内放送が流れる。
「このマウンドが板東投手の引退登板となります。板東英二投手は、昭和三十三年に、伝説の魚津高校対徳島商業延長十八回再試合のほかに、地区大会では高知商戦十六回と高松商戦二十五回の延長戦を戦い抜いた鉄腕でございます。昭和三十四年中日ドラゴンズに入団してから実働十一年、四百三十五登板、七十七勝六十五敗、奪三振七百四十八、防御率二・八九。堂々たる成績を残されました。阪神球団は、板東投手の引退を心から惜しむとともに、引退後のご活躍を祈念しております。板東投手、長いあいだご苦労さまでございました」
 場内盛大な拍手と歓呼。ファースト千原から江藤に守備交代。千原は二打席で替えられてしまった。木俣が二塁送球をし、ボールが内野を巡って、大股でマウンドに寄っていった江藤から板東に手渡された。
 六番池田がバッターボックスに入る。振りのするどいかなりの強打者。外角カーブでセカンドゴロに仕留める。拍手。伊藤幸男ストレートで三振、拍手。川藤内角シュートでサードゴロ、盛大な拍手。
 五回表。中、外角のストレートにチョンと合わせてサードライナー。高木、フォアボール。江藤、小さなカーブにヘッドアップして三振。江島フォアボール。木俣サードゴロ。
 五回裏。安藤フォアボール、田淵真ん中高目のストレートをキャッチャーフライ、カークランド、ライト前ヒット、辻セカンドゴロ、ゲッツー。
 板東は、打者七人、被安打一、三振一、フォアボール一の無失点に抑え、四対五のままマウンドを降りた。大歓声と拍手の中、水原監督と握手したあと、ベンチ全員と握手をした。半田コーチが、
「板東さん、ナイスピッチングよ。すばらしい!」
「サンキュー、ベルマッチョ」
 板東はふたたび場内放送でホームベース前に呼ばれ、名古屋から駆けつけた下通と、阪神球団代表の中年の背広男から大きな花束を渡された。四方のスタンドに向かって帽子を上げる。キラリと涙が光ったように見えた。
 古株の本多コーチがマイクを手に賞賛の言葉を述べる。痛い肘を抱えて長年投げつづけた、どんなときもチームを明るくするムードメイカーだった、権藤博と同様、コーチ職でなければ球団に残らないという潔い退団だ、という言葉で締めくくった。そのあと板東本人が感謝の言葉を述べたが、おちゃらけたものだった。
「オールスターのとき、ホテルのサウナで汗流しとったら、長嶋選手が入ってきて、こりゃ先輩後輩の上下関係を示す絶好のチャンスやと思って、そのままじっとしとった。長嶋茂雄という男が人の顔を覚えんちゅうことを知らんかったから、いつか気づいて挨拶するやろうと思ってずっと黙っとるうちに茹でてまって、脱水症状を起こして救急車で緊急搬送されたわ(場内ドヤッという爆笑)。それまで比較的長嶋を抑えておったんやが、そのとき以来何を考えているのかわからんようになって、打ちこまれるようになった。それで引退が早まったんや」
 ふたたび爆笑。板東は四方ににこやかに手を振り、ペコペコとお辞儀をすると、花束を抱えてベンチに戻った。ドッカと腰を下ろし、四方から伸びてくる手と握手しながら、
「これ、新幹線で持って帰るわ。足木さん、しばらく活けといて」
 江藤が、
「足木マネはおらん。いまアメリカたい」
「アメリカ?」
「ドジャースにくっついて、広報の勉強をするげな」
「球団の宣伝やな。マネージャーが宣伝活動まですることになったんか。時代も変わってきたな。ま、何でも勉強するのはええことや。器の足りとらんやつは器を大きくせんといかん。ワシもおんなじや。じゃ、みなさん、ワシ失礼するわ。これからはラジオやテレビでドラゴンズの応援するでな。がんばってちょうよ。日本シリーズからは、東海ラジオの放送席に座るで」
「ご苦労さまでした!」
 みんなで立ち上がって礼をする。板東は花束を抱えて立ち上がると、下通と阪神球団の男に挟まれてもう一度グランドに上がり、スタンドに手を振りながら、チラともこちらを見ないで、三塁ベンチ脇の正面ゲートにつながる通路から出ていった。イベントが終わったあと、五、六分かけてトンボとライン引きが入る。
 六回表、一点リードで江夏が出てきた。一点を守り切るのでなく、二、三点追加して勝ち切るつもりだろう。投球練習の速球がうなりを上げている。田宮コーチの大声。
「ヒシ! 外角よく見ていけよ!」
 菱川、ツースリーから外角シュートをしっかり打ち返して、強烈なファーストライナー。
「ヒェー、惜しい!」
「見えるよ、見えるよ!」
 太田、ツーツーから真ん中高目渾身のスピードボールに空振り三振。一枝、ツーワンからシュートを空振り三振。見えないのだ。板東の代打伊藤竜彦、変化球にやられて三球三振。
 六回裏。左腕水谷則博登板。江島の代わりに私がレフトの守備につく。当たっている江島が気の毒な気がするが、監督命令なら仕方がない。これで二打席確実にバッターボックスに立つことになる。ひょっとしたら三打席立つかもしれない。則博の練習ボールが走っていない。残り四回を投げ切るのは危ない。
 六時五分前。甲子園球場がたそがれてくる。カクテル光線が強くなる。きちんと眼鏡を鼻柱に押しつける。
 江田に代打吉田義男。いい当たりのショートゴロ。一枝難なくさばいてワンアウト。江夏、外角カーブをうまく流してセンターに近い左中間を抜く二塁打。川藤の代打山尾送りバント。ツーアウト三塁。この作戦に利点はない。と思った瞬間、安藤が一塁の前へセーフティスクイズをした。ツーアウトで深い守備位置をとっていた江藤はあわてて突っこみ、ボールを弾いた。江夏生還。江藤ボールを拾って二塁へ送球。間一髪安藤セーフ。こんな手があったとは! 阪神ファンが狂喜する。四対六。
「カッセ、カッセ、田淵!」
 田淵あっさり敬遠。ドラゴンズのピッチャーが今シーズン初めてする敬遠だろう。負けている接戦。仕方のないことだと納得する。消化試合とは言え、二連敗はできない。闘う姿勢を問われる。
「カッセ、カッセ、カークランド!」
「カッセ、カッセ、モンジロー!」
 カークランドはワンワンからセンター前へ痛烈なヒットを放った。二塁ランナー安藤生還できず。ツーアウト満塁。胸が躍った。
「カッセ、カッセ、ダーンプ!」
 則博が打たれたらもう若生和也しかいないというのがチーム事情だ。そんなことはどうでもいい。これまでもともと手薄な投手力で戦ってきたのだ。水谷則博も若生和也も取られるだけ取られればいいと思った。
 外角カーブ、外角カーブ、瞬く間にツーボール。もう少し内に入ったらレフトへくる。辻はこねて打つので、なかなか上に上がらない。くるならライナーだ。私はバックホームに備えて、守備位置を少し前にとった。カーブが真ん中に入った。きた! ラインドライブしてワンバウンド、ツーバウンド。安藤生還。ノーバウンドのバックホーム。菱川がしゃがんだ背中の上を一直線にボールが木俣のミット目がけて吸いこまれていく。鈍足の田淵はあわてて三塁へ戻る。喚声がうねる。四対七。ツーアウト満塁のまま。江藤がマウンドに駆け寄り、則博の尻をポンと叩く。則博はニッコリ笑った。池田、浅いセンターフライに倒れる。チェンジ。江藤が、
「則、すまんかった。取り返してやるけんな!」
 バント処理のミスを謝っている。則博はびっくりしたようにグローブを振った。
 七回表。ドラゴンズの歌。六甲おろしに比べて声の圧力が低い。員数の問題だろう。先頭打者の中、粘りに粘ってフォアボール。高木、江夏の速球に押されてセカンドフライ。走りかけていた中がゆっくり戻る。江藤、外角に落ちるシュートで空振り三振。ツーアウト一塁。
 湧き上がる金太郎コール。勇躍バッターボックスに向かう。すんなり敬遠。私に対する江夏の初めての敬遠だ。江夏はマウンドから私に、スマン、というふうにひょいと左手を挙げた。どうしても最終戦の勝利投手になりたいようだ。しかし強い願望は墓穴を掘るのが常だ。水原監督がひっそりと立って一塁上の私を見つめている。ツーアウト、一、二塁。木俣、内角高目の速球を振って三振。
 七回裏。大倉三塁ファールフライ。吉田センター浅いライナー。江夏ファーストゴロ。
「さ、いくぞ!」
「ヨ!」
「ホレ!」
「トリャ!」
 八回表。菱川、外角小さいカーブに仕留められて三振。太田も同じく速いカーブで三振。一枝、高目のストレートをこすってショートフライ。敗色きわめて濃厚。
「これで終わったて思うのは甘か。ぜったい逆転しちゃるけんな。勝たせたる。則博安心せい」
 八回裏。江藤はファーストミットをパンパン叩きながら守備位置へ走っていった。ライトスタンド全体で六甲おろしの大合唱。わんわんと響く。水谷則博続投。二点取られただけだ。まだまだいける。大倉、一、二塁間のゴロ、江藤捕って則博にトス。ワンアウト。吉田、レベルスイングでセカンドライナー。高木から始まるボールが軽やかに内野を巡った。江夏三振。
 九回表。水谷則博にピンチヒッター出ず。水原監督は三点差を逆転して則博を勝たせる気でいる。そう思うと、則博の背番号45の背中に何かやってくれそうな雰囲気が滲み出てきた。左バッターボックスに入り、バットを短く持って小さく構える。初球カーブ、ワンバウンド。辻がそれでいいそれでいいと江夏にうなずいている。二球目外角小さなシュート、ストライク。三球目、江夏が振りかぶったとたん、
「ノリ、男になれ!」
 江藤が叫んだ。その一瞬、則博は内から外へ逃げていくカーブを素人くさいスイングでひっぱたいた。
「よっしゃァァァ!」
 ベンチ全員が立ち上がる。打球は低い弾道で左中間へ伸びていき、ラッキーゾーンの三日月形にすぼんだ隙間へ飛びこんだ。水原監督が頭上で激しく手を拍っている。則博は少し背中をすぼめるようにダイヤモンドを回る。なんだか恥ずかしいのだろう。江夏から打てた生涯にたった一本のホームランかもしれない。水原監督とそっとタッチ。尻をそっと叩かれた。みんな江藤たちといっしょにホームベースへ飛び出していく。
「水谷則博選手、今シーズン第二号のホームランでございます」
 揉みくちゃ。ひっぱたき、蹴り、ヘッドロック。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
 と言いながら則博はベンチへ逃げ帰った。半田コーチのバヤリース。
「いただきます!」
 ベンチのコーチ、選手全員と握手。五対七。田宮コーチが、
「ナイスバッティング! よくぞ江夏から打った。よーし、つづいていけ! 勝ちにいくぞ!」
 中、食いこんでくる内角シュートに詰まりながらレフト前に落とす。着火した。高木ようやくセンター前にゴロのヒット。二試合目にしてきょう初ヒット。江藤が手に砂をすりつけ、意気揚々とバッターボックスに入る。静かに構える。惚れぼれする。これほど自然体の構えを知らない。初球、胸もとすれすれのストレート。真後ろに倒れこむ。江藤は色めき立つベンチを手で制し、ふたたび構えを決める。クローズドスタンス。
 わかりやすい伏線は江夏らしくない。彼は真正な勝負を捨てない。単純で愚かな伏線を企(たくら)まない。内角でのけぞらせて外角で打ち取る? そんなことを江夏はやらない。そんな目論見のために、これまでどれほど大勢の選手がケガをし、恐怖心から成績を落とし、ついには再起不能に陥ったか。海の向こうでは死人さえ出たこともある。高木は二度堀内にやられた。ほとんど立ち直ったいまでも、脆く三振してしまうのはそのせいだと私は思っている。江夏の胸もとは意図的なものではない。コントロールミスだろう。江藤にはわかっている。それでも江藤はクローズドに構えた。
 二球目、もう一球胸もとへ速球。すばらしいストライク。今度こそ真正な伏線だ。江藤確信を持ってクローズドのまま。三球目、外角へ速いカーブ! ハッシと打つ。
「これもいったァ!」
「ヨ、ホ、ホーイ!」
 ギューンと打球はドライブして伸びていき、ライトポールのすぐ内側のラッキーゾーンに飛びこんだ。省三がベンチを走り出る。みんな走り出る。江藤、水原監督と握手、尻ポーン。大先輩に蹴りやヘッドロックはない。八対七。逆転!
「江藤選手、六十九号のホームランでございます」
 慣れ切ってしまってだれも騒がないが、この数字はふつうではない。私の数字も、来年からは自分でさえ信じられない伝説になる。ここでソロホームランだと二点差で終わってしまう。ホームランはない。二点差などすぐ逆転されてサヨナラだ。喚声を無視してヒットを狙う。勝ちにいくと田宮コーチが宣言した以上、大差をつけるしかない。まだノーアウトだ。木俣の長打に賭ける。
 金太郎さん、金太郎、天馬ァの大歓声。ここでピッチャー交代! 
「阪神タイガース、選手の交代を申し上げます。江夏に代わりまして、ピッチャー若生智男、ピッチャー若生、背番号27」
 後藤監督は、このまま江夏に投げさせていても勝ちはないと踏んだのかもしれない。江夏は肩を落としてマウンドを降りた。恐ろしく速いと思うボールは、きょうは一球も投げなかった。やっぱり肘の具合が万全ではないのだ。さびしい背中が目に焼きついた。


         九十五

 デンスケの初球、外角シュート。そのまま押っつけて打ち返すとフラフラとホームランになる可能性が高いので、無理やり引っ張り、右中間へ低いライナーを打つ。うまく抜けて二塁打になった。二塁ベース上から木俣にピースサインを送る。木俣がうなずく。もちろんホームラン狙い。セカンドの吉田義男が、
「長い攻撃だなあ。腰が痛くなったわ」
 と言って両脚のストレッチをする。若生智男はマサカリを警戒して、四球目まで内角低目のシュート一本槍。ワンスリー。ショートの安藤が、そこへ飛んでくると踏んで三遊間寄りに守備位置を変える。いくら低目嫌いの木俣でも、三球、四球とつづけられれば目が慣れる。五球目内角シュートをエイヤッと掬い上げた。あっという間に甲子園のレフトスタンド中段までぶっ飛んでいった。百四十五メートルは飛んでいる。これで決まった。私は木俣と並んで、水原監督の尻ポーンの洗礼を受けた。フラッシュの瞬きが心地よい。
「木俣選手、五十一号ホームランでございます」
 六点とって十対七。三点差では心もとないけれども、たぶんだいじょうぶだろう。安藤が怒鳴っている。
「またきょうも日光の手前か!」
 中に訊く。
「何ですか、日光の手前って」
「今市という宿場町のことだよ」
「イマイチ、ですか」
「そう、詰めが甘いと言いたいんだろう」
 菱川はフォークに何とかバットの先を引っかけてセカンド吉田義男の前へ転がしたが、イージーゴロでさばかれる。ワンアウト。
「よっしゃ、ワンアウト!」
 田淵の声だ。太田も外角カーブを打ってセカンドゴロで凡退。二人が悩んであしたから素振りに精を出す姿が浮かぶ。一枝フォークを掬い上げてセンターフライ。
 九回裏。やはり若生和也の登板だった。若生対決。
 来年は山中が引退し、大場、外山、松本の戦力外通告は本決まりだろう。門岡も若生もこの先大してもたないような気がする。小川と小野は高齢だ。大事に使っても、いつガタッとくるかわからない。第一線に立てるのは星野秀孝ぐらいのもので、土屋と水谷則博はもう少し飛躍が必要だ。最低二人のいいピッチャーをドラフトで獲ってもらわないと来年の優勝は危ういだろう。……やはり中日ドラゴンズの今年の優勝は奇跡だったのかもしれない。
 阪神は一番からの打順。川藤、初球空振り。若生和也のボールが切れているようだ。二球目、振り遅れが幸いしてセカンドオーバーのポテンヒット。あれ? 安藤痛烈なピッチャーライナー。若生が弾いてボールが一枝の前へ転がる。送球できず。あれれ? 田淵、波打つバットで叩きつけてサードゴロ。よし、ゲッツーだろう。きょうはすでに一仕事終えているのでこれでいいわけか。負けている試合で、これでいいということはない。サードの前でわずかにイレギュラー。おろろ? 菱川うまく掬い上げたが三塁ベースに飛びこんでタッチするのがやっと。川藤封殺。ワンアウト、一、二塁。二点差が危うくなってきた。
 爪楊枝のウィリー・カークランド。初回に豪快なスイングで百三十何個目かの三振を喫した。ダントツの三振王だ。しかしつづく二打席でセンター前ヒットとホームランを打っている。
 彼はバットを高く左肩の上に掲げ、ダウンスイング気味に猛スピードで振り下ろす。今朝ロビーで読んだ新聞に『神無月飛距離の秘密―じつはダウンアッパー』という記事がカークランドを引き合いにして載っていた。神無月は単純に下から掬い上げるアッパーブローではなく、叩き下ろすダウンブローである。《バットが寝て入ってこずに縦に入ってくる》というシンプルなものではなく、独特に手首を寝かせて振り出されるダウンアッパーで、バットの最下点より手前でインパクトを迎え、そこからの下降軌道でボールに回転を与える。ヘッドスピードが尋常でないので、ボールが前に飛ぶスピンも尋常でなくなる。純粋なダウンスイングでは利き肩が前に出て、その反動で引き腕がゆるんでしまうので力のモーメントが効かず、スイングのブレにつながる。神無月のスイングはカークランドのそれに似ているが、カークランドとちがう点は、先天的なバットコントロールのよさで三振を免れているところだと説明していた。私にはよくわからない理屈なので、イメージを放棄した。
 そんなわけでいま、カークランドの打席を興味深い目で見ている。初球、高目のスピードボール、ファールチップ。当たればピンポン球だ。なるほど振り下ろすように見えて、インパクトの瞬間にレベルになったバットがボールをカットしている。二球目同じコースをまたバックネットへファールチップ。そうか、基本的に私と同じ〈下打ち〉なのだ。下降軌道に乗らない高目を打ち損じてしまうのは引きつけすぎているからだ。私は高目をどう処理していたっけ? レベルに振り出しながら、手もとではなくベースの手前で芯を食わせる。なるほど、カークランドがよく三振する原因は、引きつけすぎて振り出しが遅れるからだとわかった。
 阪神応援団が四人、五人と一塁ベンチの上に乗り、腕を振りまくる。警官が引きずり降ろそうとして小競り合いになっている。三球目、若生は木俣が立ち上がるほどの高さに速球を投げた。空振り三振。ツーアウト。
 辻、高目をしっかり捨ててフォアボールで出る。ツーアウト満塁。池田、浅い守備の私の前へヒット。バックホームするも、安藤だけは生還。十対八。大倉、フォアボール。ふたたびツーアウト満塁。阪神ファンがフェンスの金網によじ登りはじめた。
 吉田義男、高目のカーブを美しいレベルスイングで叩いてショートゴロ。ゲームセット。水谷則博七勝目。
 一塁側の観客がグランドに雪崩れこんできた。カメラマンや記者たちが大挙して走ってきて三塁ベンチ前に防壁を作る。三塁側の観客も飛び降り、中日の選手を護るために三塁ベンチ前へ走る。私も笑いながら三塁ベンチに向かって走った。
「これはいけません、これはいけません! 危険な状態です!」
 中継アナウンサーの叫び。私には危険に見えなかった。ファンの顔がだれもかれもゆるんでいたからだ。三塁ベンチに侵入しようとする者はなく、ただひたすらグランドを駆け回っている。騒ぎの中、もちろんインタビューなどやっていられない。
 まだ七時十五分を過ぎたばかりだ。活気にあふれた賑わいだ。私たちはベンチに腰を下し、カメラマンや記者や警備員たちに前方を守られながら、このめずらしい喧騒を眺めた。阪神ベンチはすでにほとんど空だ。田淵がぼんやりグランドを見つめている。
 何人かの少年が三塁ベンチ前の人垣を縫ってやってきて、一人が私に帽子をくださいと言うので、一も二もなく与えた。江藤は、自分がライトスタンドに打ちこんだホームランボールを差し出した少年に快くサインする。この子が阪神ファンのスタンドから逃げ出ためには、騒ぎに便乗するしかなかったのだろう。高木や木俣や中たちは色紙にサインする。太田と菱川、一枝や江藤省三は声をかけられないのでさびしそうにしている。子供たちが去っていくと水原監督が防御壁になっている警備員たちの背中を見つめ、
「プロ野球選手とファンとの距離感は不思議なものだね。きみたちのずば抜けた身体能力も、並々ならぬ努力や精神力も、まったくもって彼らにはないもので、その意味できみたちは彼らにとって遠く離れた存在なんだが、メンタマ飛び出るほどチケットの高いコンサートホールじゃなく、安い入場料の球場で毎日姿を見られるし、近づけばサインももらえるし、運よくタッチすることだってできるから、とても親しい存在に思えるんだね。そこでノシノシ近づいてくる。ただ、テレビに出ている芸能人はほぼ百パーセント顔を知ってるけど、プロ野球選手は新聞を賑わすごく一部の顔しか知られてない。芸能人に近づいてサインをもらえることはまずないが、プロ野球選手なら可能だ。それで知らない顔を無視して、少しでも知っている顔に近づいてしまうんだよ。サインを求められないからって気落ちしちゃだめだ。きょうの板ちゃんみたいに、もっと大勢に知られる活躍をすればいいだけのことだから。私なんか、慶應時代からこちら何十年もサインを求められることなんかゼロだよ」
 ベンチもペンを動かしていた記者たちも笑う。
「少年から求められたら、かならずサインしてあげないとだめだよ。サインを求める気持ちは純粋なものなんだ。みんなが持っているからほしいというわけじゃないし、もらっためずらしいサインを人に見せて自慢したいわけでもない。ただ自分のためだけに、自分が一人でそっと眺めて幸せに浸るためだけに、金太郎さんが大事にしてた森徹のホームランボールみたいに、心を暖めるためだけにほしいものなんだよ。この機械化された殺風景な時代に、とても人間らしい行いだ。それに応えるきみたちは、きわめて心温かい存在ということになる。さあ、引き揚げよう。今夜は出かけたいところへ出かけなさい。あしたは名古屋でゆっくりくつろいで、あさってからの巨人戦に備えよう」
「オェース!」
 厳重な警戒の中、三塁側フェンスのあいだに切られた通路からアルプススタンド下の回廊を抜けて、選手用バス駐車場へ向かう。ちゃんと松葉会の連中が人垣の前に立っている。彼らが辞儀を返せないことはわかっているが、あえて頭を下げる。誤解して警備員が礼を返しファンが喚声を上げる。グランドに乱入したときの騒然とした雰囲気は、いま目の前で喚声や嬌声を上げている人びとにはない。
 バスの窓からファンたちに手を振る。ここに群がっている彼らは何者だろう。一年前までは私の目の前にいなかった人びとだ。小学校中学校の通学路にはもちろん、高校大学の構内にも野球場にもいなかった。とつぜんプロ野球の球場に現れ、押し寄せてきた人びと。
 ツタの絡まる阪神甲子園球場の四階建の外壁を見上げる。美しい。この球場でついいままで野球をしてきたことが信じられない。千年小学校の校庭からエンゼル球場へ、そして青森市営球場から神宮球場へ、どんどん豪華な建造物に入っていき、ついに日本一美しい甲子園球場に入りこんだ。真青な芝と、焦げ茶の土を見下ろす鉄傘と、ライオンの照明塔を目に浮かべる。森林のような観客席、小高いピッチャーズマウンド、小ぎれいなダッグアウト、ファールゾーンとラッキーゾーンにある二つのブルペン。しかしすべてを足し算しても、少年時代にあこがれた中日球場にかなわない。春のオープン戦で、とうとう中日球場にたどり着いたとき、私は闇の中に座る映画館の観客のような気持ちになり、子供のころスタンドから眺めた光景を記憶のスクリーンに映し出してなつかしんだ。中日球場以外の球場ではそれがかなわなかった。
 目の先を路面電車の明るい窓が通る。尾頭橋まで市電がきていた憶えはあるが、小山田さんたちと乗った記憶はない。江藤に、
「中日球場まで市電がきてましたよね」
「おお、八幡(やわた)西通か尾頭橋やったな」
 八幡西通は聞いたことがなかった。
「中日球場がいちばんですね。心から野球に没頭できる」
 私は江藤に言った。
「甲子園はうるさかな。でっかくて、人が多すぎる」
 そういうことではない。中が、
「主役がお客さんの感じだね。私らはサル山のサル」
 そういうことでもない。私は微笑しながら、
「小学校の固い土の校庭から、十年かかって中日球場にたどり着いたとき、心から感激しました。あこがれの球場で、十年前にウグイス嬢のアナウンスでしか知らなかった人たちと、いまいっしょに野球ができる。夢が実現しました」
 涙が流れてきたので、私は頬を拭いながらバスの通路を歩いていって、選手たち一人ひとりと握手した。みんな驚き、そしてすぐさま目を潤ませて握手を返した。菱川が、
「俺もいいんですか」
 私は笑い、
「菱川さんはぼくが高校一年のときに入団した人なので、アナウンスの中にはいませんでした。でも、新聞記事で読みました。みんなが練習しているグランドの外れで、大の字に芝生に寝そべっている菱川さんです。大物のサボリ屋と書いてありました。強烈に記憶に残りました。いっしょに野球ができてうれしいです」
「こっ恥ずかしいな。天狗になってたころですよ。それキャンプ地の記事です」
 目を拭いながら言う。一枝が、
「菱は俺と同期入団だ。俺は大学社会人ときて入団したから、七つ上だけどね。こいつは甲子園に三年連続で出場して、三年目には選手宣誓した男だ。並みの自信家じゃない。素行も酒癖も最悪のスラッガーというのが売りだったからな。その悪名だけで終わりそうなところを金太郎さんに救われたわけだ」
「そのとおりです。おととし、五十四試合出て二割六分というのが、これまで最高の成績でした。七十二打数十九安打、打点八。ホームラン二本。その二本とも満塁ホームランというので、なんかわかるでしょ? 星の巡りはいいけど、プロとしては箸にも棒にもかからない、そこらへんの町のチャンピオン。よく天狗になれたもんだ。去年なんか、五十八試合も出させてもらったのに、八十九打数十五安打、一割七分、ホームラン一本、三振二十五個です。カスですね。今年、頭のてっぺんから足の裏まで生まれ変わりました」
 私は席に戻った。
「いい話だね」
 最前列の水原監督がしみじみうなずいた。田宮コーチが、
「菱、バッティング自体は具体的にどう変わったんだ?」
「きょうも新聞に載っていたでしょう、神無月さんのダウンアッパー。あそこまで分析できませんでしたし、とてもまねのできる技術じゃないのであきらめましたけど、その代わり、高目打ちと外角打ちを学びました。手もとに呼びこまない打法を盗んだんですよ。それまでは力だけで打ってました。百八十三センチ、八十五キロもあるので、少々詰まってももっていけるって甘えがありました。結局、低打率。神無月さんを見て驚いた。ほとんど臍中心の縦ラインでなく、高いボールはそのまま、低いボールはからだを沈めて正確に右肩のラインで打つ。で、俺もからだを高くしたり低くしたりしながら左肩のあたりで芯を食わせるような素振りを何千回もやったんです。まったく詰まらなくなりました。ボールが勝手にぶっ飛んでくんです」
 太田が、
「俺もです。周りを見たら、呼びこんで打つのは流し打ちのうまい中さんだけで、あとの人たちは内角も外角も前肩のラインで叩いてました。ただ神無月さんのバットコントロールはまねできません。先天的なものです」
 私は、
「中さんにかぎらず、ぼく以外の人たちは臨機応変に呼びこんで打つことができます。ぼくは呼びこまないんです。呼びこむあいだに相手のボールをじゅうぶん変化させ切って思うつぼにはまってしまうという不安があるんです」
 一枝とともに菱川と同期の千原が、
「刺しこまれるというやつか。刺しこまれないためには、猛烈なバットスピードが必要になる」
「はい。臍の前だとそういう無理をしなくちゃいけなくなるので、結局手首や腰を痛めます。バットスピードは引き肩のところでボールを捉えるためだけに必要で、振り遅れを解消するために必要なんじゃありません。ただ、引き肩よりも前で捕まえるとファールになりやすいので、あくまでも引き肩のあたりです」
 江島が、
「そう言えば、神無月さんはほとんどファールを打ちませんね」
「ファールになりそうなボールは見逃します」


         九十六 

 水原監督が、
「いまの話のすごさがわかったら、若手はどんどんまねしなくちゃいけないよ。省三くんも伊熊くんも」
「古株もまねしますよ、まねできるものならね。……大天才の技術は一代かぎりのものだと思いますよ。だからこそ神無月くんの存在価値があるわけだし」
 新宅が言った。その言葉にも水原監督は満足げにうなずいた。
 真っ黒い空の下、でき立ての国道43号線をいく。オレンジ色の路灯がビーズ玉のように連なっている。標示板だけが明るい。来年細かいところも完成して全通だと森下コーチが言う。甲子園から竹園までのこの道も、今年はこれで最後だ。バスの窓からネオンの少ない宵闇を眺める。
 芦屋高校前の信号から右折し、延々とつづく夜のケヤキ並木の道を走る。阪神線の高架をくぐり、宮塚公園を過ぎ、市電の走る国道2号線を横断し、国鉄の高架をくぐる。駅前通りを左折して跨線橋のたもとで降ろされる。
 八時半。荷物をフロントに出し、シャワーを浴び、ブレザーを着て、一階の会食場へいく。江藤たちはじめほとんどの選手たちは外食に出ていた。テーブルについていたのは水原監督と一軍コーチ陣、トレーナー陣、本多コーチと彼が引き連れてきた選手たち、その三卓だった。鏑木たちのテーブルに下通が座っていた。私もそのテーブルについた。
「あら、うれしいです、同席できて。神無月選手、きょうはご苦労さまでした」
「ありがとう。二試合で三回打席に立っただけです。下通さんが板東さんに花束を贈るためにわざわざ甲子園にくるなんて、びっくりしましたよ。板東さんうれしそうでしたね」
「私から志願したんです。十一年前のデビューからずっと板東さんの名前をアナウンスしてきましたから。板東さん、意外と若くて、まだ二十九歳なんですよ」
「ええ、知ってました」
 私は池藤に、
「二回、ノーヒットはすごいですね。とても投げられる状態じゃなかったんでしょう?」
「あのあと、肘が痛え、肘が痛えってたいへんでした。マッサージで多少痛みは和らぎましたけど、しばらくは箸も持てない状態だと思います。先週オーナーから引退試合をやるようにとお達しがきて、ありがたい話やと、走りこみを五日ほどやって、投げこみなしで挑みましたから」
 鏑木が、
「板東さんはたしかに、オーナーの配慮をありがたがってはいたんですが、そこまでしてもらえるほど野球という世界で報われたとは思ってなかったんです。それで、芸能界を目指したわけです。一つの場所で報われんからといって止まってしまったらおしまいや、人の能力には優劣があるけど、能力が合うところでならかならず勝負ができる、大切なのはその場に出ることや、というのが口癖ですから」
 下通が、
「神無月さんに遇って心が決まったと言ってました。トップアスリートの身体能力というのは持って生まれた要素がほとんどだ、努力で埋められない圧倒的な差がある、でも知恵はそれほど人によって差が出てくるとは思えない、勉強によって補えるから。―プロ野球は速い球を投げるやつ、その球を打てるやつ、より遠くに飛ばせるやつがいる。そういう天性を持ったやつにはいくら練習しても届かん。入団してすぐわかった。サッサとあきらめてほかの道を見つけんといかん。そう思ってずるずる十一年やってきた。そして有無を言わさぬ人間に遇ってしまった」
 池藤が、
「高校野球までは、まあまあの体力と懸命な努力で通用します。プロ野球はちがうんです。努力やがんばりだけでは結果につながらない世界です。選手として報われる人は圧倒的に少ないでしょう。これだけやってもだめなのかと、特に二軍選手は思ってるはずです。人間は報われないとやってられません。だから毎年何百人もプロ野球をやめていきます」
 私は、
「これだけやってもだめなのかという気持ちに襲われること自体おかしいです。これほどやっても、というのは、自分が判断することとは思いません。巨人軍クラスの練習を人一倍やってもこれほどということにはなりません。やらなくてもいい。自分にあった練習をどれほどとも考えずに、ただコツコツやりつづける。報われないことをあたりまえに考えながらね。でないと、コツコツの努力が濁ります。努力には終着点がないんです。それだけ知っていればいい。やりつづけていると、あるとき不意に報われることがありますし、いつまでも報われないこともあります。がっかりすることじゃない。クビになったら、また別の道で努力しつづける。それが人生でしょう。板東さんは、ちゃんと花を持って帰られましたね?」
 下通が、
「はい。彼は愛妻家ですから。切り根を浸して持たせました」
「どんな奥さんですか」
「プロ野球人というのはがんらい秘密主義で、家族構成は謎のことが多いんです。家族ぐるみの付き合いというのはまずありません。高木さんや江藤さんや小野さんのような人はめずらしいです。ただ、板東さんのお嫁さんは大財閥の娘さんだということだけはわかっています。結婚の経緯はわかりません」
 隣のテーブルから美男子の本多コーチが、
「仲間同士で女性関係を洩らし合っても世間に知れないのは、みんなで秘密を守ってマスコミに洩らさないからだよ。言ってみれば、球界は一つの秘密結社だね。プロ野球選手はある種の英雄だ。英雄は色を好む。英雄の恥部をいちいち暴露してはいられない」
「八百長はだめなんですね」
「英雄の行為じゃないからね」
 水原監督のテーブルが、いいにおいのする鍋を炊いていた。まねをして、すき焼きコースを頼む。本多コーチたちは重箱弁当を食っていた。すき焼き鍋はうまくて、どんぶり飯をお替りした。下通がそれを見てうれしそうに笑う。
 食後、監督コーチ選手たちが打ち揃って姿を消したので、下通と六階のカフェバーにいった。いっしょにどうかと誘った池藤と鏑木は、あしたの朝早く名古屋に帰って、寮で待機しなくちゃいけないので、と断り、自室に退がった。
 つまみを五、六種類頼んでビールを飲んだ。
「トレーナーというのは昼も夜もないんですね」
「そうです。あしたの朝と言ってましたけど、トレーナーの仕事は午前の早い時間からでしょうから、きょうの遅い新幹線で帰りたかったんじゃないでしょうか。ただ、芦屋から新大阪まで東海道線の快速でも二十分、鈍行だと三十分かかりますから、十時ごろの最終の新幹線に乗るのは無理ですね。あしたの朝七時くらいの快速でいって、七時三十六分のひかりに乗れば、八時四十分くらいに名古屋に着きます。と言うより……私たちに気を利かせてくれたこともあったと思います」
「それは感じた」
「……目覚ましい活躍がキャンプから途切れることなくつづきましたね」
「入団したころは、少しばかり自信はあっても、むかしからあこがれてきた人たちと肩を並べてやっていけるんだろうかという不安のほうが大きかったけど、いまはそのころと比べものにならないほど自信がある」
「もともと自信なんかと関係のないところで生きてたように見えましたけど……。チームメイトと肩を並べてやっていこうと意識して努力した結果じゃないと思います。ただワクワクドキドキしてただけでしょう?」
「うん、そうかもしれないね。……下通さんとは熱田神宮の小屋以来だね」
「はい、オールスター戦のすぐあとでした。三カ月ぶりです」
「辛抱した?」
「いいえ。純粋にからだが疼くということはないんです。郷さんにこうして逢うと、すぐに濡れてきますけど」
 三十分ほどでバーを引き揚げて部屋へいく。ベッドを前に二人全裸になる。並んで腰を下ろし、手をとって顔を見つめ合う。口づけをする。胸を吸う。下通はそっと私の背中を抱いている。
「舐めていい?」
「はい……」
 仰向けになって脚を開く。少し長い小陰唇を含み、剥き出しのクリトリスに舌をつける。
「あ、あ、……郷さん、私、ちょっと……」
「オシッコ?」
「はい、ビールが……」
「少しがまんして。風呂に入ろう。オシッコ見せて」
「え!」
「みんな最初そうするよ。ぼくも見せる」
「はい……」
 風呂にいき、バスタブの縁に腰かけさせる。見慣れた儀式。
「恥ずかしい……」
 あっという間に大きなクリトリスの下から迸り出た。太い一条になる。胸に受ける。温かい。水切りが始まったので、クリトリスを舐める。
「あ、オシッコがお口に、ああ、感じます、あああ、郷さん気持ちいい! イク、イクイク、イク!」
 タブに落ちないように背中を支える。陰阜を突き上げて痙攣する。水切りの途中だった小便がリズミカルに飛ぶ。痙攣はすみやかに止み、下通は姿勢を正した。にっこり笑う。
「不思議なことをなさるんですね。新鮮でした」
「今度はぼく」
 立ち上がり、屹立したものをみち子に示す。
「……すてき」
 勃起のせいで出にくくなっている小便を搾り出す。みち子の頭を越えて勢いよく高く飛び出した。彼女は中腰になって的になるように放水の前に顔を出し、つぶった目に受けた。水切りはすぐに止んだ。
「……ひとつ、世界を知りました。うれしい」
「お尻を向けて」
「はい」
 挿入する。
「ウ、すぐ!」
 動きつづける。
「あああ、すごーい! イク!」
 カズちゃんと同じように連続のアクメに入る。脇腹を収縮させ、緩め、尻を跳ね、尻を引いて脇腹を収縮させ、緩め、跳ね上げる。この動作の繰り返しに、どういう質量の幸福が詰めこまれているのかわからない。思想よりも濃い幸福が詰まっているのだと信じて、彼女の連続の反射を求めて腰を動かしつづける。そうして、熱い膣に締めつけられ、撚(よ)られ、たちまち自分の反射に近づく。
「みち子、イク!」
 強く腰を抱き寄せ、グンと吐き出す。
「郷さん! イ、クウウ!」
 数分痙攣がつづく。ほかの女よりも三倍も長い痙攣。いつまでもいつまでも膣がうねりつづける。
「……愛してます、郷さん、愛してます」
 痙攣の止んだみち子と唇を合わせながら湯殿にしばらく横たわっていた。
「すてき。二人、オシッコとおつゆまみれ」
「人間は水からできてるってよくわかる。つやがあって美しいものは、瑞々しいということもね」
「水があふれてきそうなほど新鮮だと、水も滴ると言います」
「水を水で流そう」
 シャワーを浴びる。下通がからだを洗っているあいだに頭を洗う。風呂を出て、からだをしっかり拭き合う。
 下通はベッドの脇に私を立たせ、バスタオルで尻の窪みまで丁寧に拭いた。さっぱりした皮膚と皮膚を合わせて、深更まで二度交わった。
 カーテンが明るむとともに二人同時に目覚め、歯を磨き、ベッドに横たわると、ようやく会話に入る。
「詩織さん、月に一度は手紙をくれます。私も書きます。二人とも郷さんのことばかり。人をこんなに愛せるのは精神衛生にとてもいいことだと思います。和子さんや素子さんのことも高貴な人たちだと書いてきます。私も心からそう感じます。……ほんとに不思議な男女関係ですね。郷さんは男雛さま、和子さんは女雛さま。私たちほかの女は官女一同。女性関係が重層しているというより、お雛さまと官女たちが老いも若きも立ち混じって自由に遊んでいる感じです。秘密にしなくちゃいけないことなのかしらと思いますけど、やっぱりいけないことなんでしょうね。お雛さまと官女はセックスしないものと思われてますから」
「いつか解消しなければならない関係だね」
「私もそう思います。女雛さまをもっとたくさんかわいがるべきだと思います。雛というのは、結婚した高家の男女の象徴なんですよ。私たち官女は側室です。半年、一年にいっぺんでもお情けをいただければ、それでみんな満足なんです。官女は高家の雑事も引き受けますけど、本質的にそういう役目です。立場をわきまえてます。と言うより、長く郷さんのそばにいて、見つめていたいというのが本音ですから」
「結婚したほうがいいのかな」
「和子さんが反対するでしょう。結婚式は実現しないと思います。でも、みんな心の底では郷さんと和子さんを夫婦だと感じてるはずです。このままの関係で、気が向いたときに私たちとセックスをすれば何の問題もないと思います。郷さんが私たちとセックスするのは、浮ついた気持ちからじゃないということを、和子さんも私たちもよくわかっていますから」



(次へ)