九十七

 下通みち子は私をそっと抱き締め、ブラジャーとパンティをつけ、身仕舞いを整えた。
「中日球場で待ってます。日本シリーズは二十九日から三十一日まで中日球場です。とても緊張してます。思い入れの解説なんか入れられなくなりますから」
 もう一度名残惜しそうに私を含んだ。私も彼女の下着に手を入れ大きなクリトリスに触れ、膣に指を入れた。
「ああ、キリがなくなります、あ、だめ……」
 私はみち子を抱き寄せ、ベッドに横たえるとスカートをまくり上げて下着を剥いだ。すぐに挿入する。四度目の交わり。
「あああ、死ぬほど好き! 郷さん、愛してる、愛してる、イク!」
 私を抱き締める腕に男のような力がこもる。私はその腕を振りほどき、彼女の性器がすっかり見えるように自分の上体を起こして突き上げる。
「あああ、気持ちいい! イ、イク、イクウウ!」
 ついにスキーン液を迸らせた。
「みち子、とうとう出たよ!」
 何のことやらわからず、みち子は私が射精したと誤解し、膣をさらに収縮させて高らかな声をあげた。私は動きつづけ、みち子の連続のアクメにしばらく浸ってから思い切り吐き出した。
「ググッ、イックウウ! き、きき、気持ち、気持ちいい! イクウウ!」
 どの女よりもスピードのある愛液を吐き出す。包皮の遮りがないせいか、私の陰毛よりも高く臍のあたりに迸出する。圧力があって、温かく、快い。
 どんな高潮もやがて鎮まる。陰茎の根もとにティシュを添えるとき、腹の下に平穏になった浜辺が見える。その浜辺の岩陰から精液が流れ出る。
「……ごめんなさい。出たって、私のことだったんですね。恥ずかしい。何が起こったんでしょう」
「射精したんだよ」
「射精!」
「女の射精。あんまり気持ちよすぎると、オシッコ穴のすぐ横にある小さな穴からスキーン液という愛液を吐き出すんだ。男の精液の成分も混じってるけど、少し甘みがあって無臭、サラサラの液体だよ。ぼくの女はたいてい吐く」
「恥ずかしいですけど、うれしい。……詳しいんですね」
「取り柄がかぎられてるから」
「まあ、ふふふ」
 下通は上半身を起こし、ティシュを添えてもまだ精液が出てこないことを訝しがり、下腹を掌で押して流れ出させ、三本の指でこそいで舐めた。それからゆっくり丁寧にティシュを使った。少女のように愛らしい仕草だった。
「不思議な味。飲みこむのがたいへん」
 微笑みながら言うと、あらためて私のものを含み、唇と舌で清潔にする。
「一足先にスコアラーたちといっしょに芦屋駅から電車で帰ります。あしたの試合の下調べがありますから」
「いつもよく記録を調べてるものね」
「好きな仕事なので、当然のことです」
 みち子は今度こそしっかりと下着をつけ、身なりを整え、髪を撫でつけた。舌を絡めて長いキスをすると、ドアからニッコリ振り返り、胸を張って廊下へ出ていった。こんな日常を送りながら私は何をしているのかと思う。カズちゃんをいただきとする麗しき女たちはこんな私と死ぬと言う。死なせないために、ほんとうに下通みち子の示唆したやり方でうまくいくのなら、そうするしかない。
 ―男雛と女雛。
 生まれてたった十年で宿命の伴侶と出会ったということだ。その宿命をなおざりにすることばかりしてきた。しかし、そういう宿命をあるときは等閑に付し、あるときは痛切に胸に刻みつけながら、北村和子と強い絆でつながっているという思いをいよいよ深めてきた。ただ、その思いをどう行動に表わせばいいのかわからない。私は、別れる理由のない人間を切り捨てられない。一人ひとりの悲嘆に暮れる顔を思い浮かべてしまう。そうなると、多を切り捨てて少に報いるという英断はとても下せない。
 ―官女?。
 英断を下さなければ、からだの悦びに微笑む何人もの女を抱くことになる。生きる目的がそれだけになっているようだと感じることもある。しかし、官女? そう感じたことがないのだ。切り捨てるべき女は、もっと身近に、視線に圧力をこめて見つめなければ真価を発見できない人びとだと感じる。家に帰れば膝の出たズボンか古びたワンピースでも着て、洗濯したり、子供を叱りつけたりしている女が、よく見ると顔立ちがよく、お仕着せを着るとけっこう女らしく見えるのに気づく。そんなふうな人びとだと感じるのだ。節子にしても、最初見たときに白衣を着ていなかったら、あれほど夢中になったかどうかわからない。しかし北村和子は―着ていた服すら思い出せない。お仕着せなど着る必要のない、視線に圧力をこめる必要もない女だったということだ。
         †
 十一時。ファンの群れに揉みくちゃにされながら、新大阪へ向かう阪神バスに乗りこみ、竹園旅館の玄関を出る。窓からハツに手を振る。人混みの後ろに微笑みながらひっそりと立っていた。
 十二時十六分ひかり。グリーン車一両ぜんぶを中日ドラゴンズで占拠して帰名する。球団規約というわけではないが、ファンに取り囲まれても、新幹線内、駅、飛行場、ホテルの内部など公共の場所では応答しなくてよいという冷やかな不文律がある。だから、球場の周囲やホテルの出入り口以外では、ほとんどのファンが恐れをなして近寄ってこない。歩行路でも遠くから見つめたり喚声を上げたりするだけだ。
 水原監督の隣に座っていた宇野ヘッドコーチが立ち上がる。
「今シーズンも余すところ三試合となった。九月十四日に優勝を決めて以来、二十二試合もの消化試合を戦ってきた。十七勝五敗。じつによくやった。ここまで百四勝十八敗五分け。去年が五十勝八十敗だったことを考えると、まさに大躍進、いやミラクルだ。しかし奇跡と思いたくない。個々の努力の賜物だと思いたい。いくばくか奇跡の要素があるとするなら、わがチームが奇跡的な努力家に巡り会えたことだろうな。神無月郷。大げさではなく、彼を掌中の珠のごとく愛で、慈しみながら、天草四郎に随うように結束してやってきた。たしかに荒ぶる者たちの中に紅顔の美少年が紛れこんだという要素もある。美しいものに人はひれ伏したくなるからね。しかしそれ以上に、彼の奥ゆかしく、かつ激しい気性はもちろん、その努力する姿に感銘を受けたからにほかならないと思う。戦いの現場にくると彼は、バッティングも守備もあまり練習しない。生きたボールでないからだと説明する。自宅でも球場でも、生きたボールを打つための基礎訓練をする。ランニング、筋トレ、素振り、ダッシュ、ほとんど日々欠かさない。しかもやりすぎないようにする。持続こそすべてという哲学だ―これにわれわれは大いに影響を受けた。これまで似たようなことをやってきた者も、その量と質と持続に磨きをかけた。そうして基礎体力がついた結果、何が起きたか? 生きたボールに反応する敏捷性が増し、ミスが大幅に減った。ノーエラーの選手が金太郎さんはじめ五人もいる。去年十八個もエラーした修ちゃんがたった一個、十二個だった慎ちゃんも一個。要するに失策を原因にするつまらない失点が減ったわけだ。それから、ホームランが大幅に増えた。気力が充実しているので、ほとんどチャンスでのホームランだ。それが大量点につながった。きみたちは野球選手としての完成の域に近づいている。それも統率役あってのことだ。金太郎さんは、何もわれわれに働きかけない。ただそこにいるだけで統率している。われわれは彼の努力を模範とし、その人柄に対する尊敬を精神的支柱としながら、これからも努力しつづけよう」
「オー!」
 水原監督が、
「来年金太郎さんが一本しかホームランを打てなくてもだよ」
「オー!」
「コーチャーズボックスにいるとね、内野手のいろんなボヤキが耳に入ってくる。愉快でしょうがない」
 太田コーチが、
「大洋のファーストの中塚がね、うちの猛攻が止まなかったとき、一塁スタンドの少年と掛け合い漫才みたいなことをしてたよ。達ちゃんがバッターボックスにいたときだな。何点入ると思う? と尋くと、少年が、三点と答えた。そしたら達ちゃんがスリーランホームランを打ったんだ。中塚は、ウヒョホホーって、帽子取って少年にお辞儀してたよ。近藤昭仁はホームラン出るたんびに、ワーッと叫ぶしね」
 水原監督が、
「松原くんが、お祭り始まっちゃいましたよって言うから、セーフティあるからね、と注意したら、中くんがセーフティバントした」
 車中に爆笑が湧いた。私は、
「外人は何か言いますか」
 宇野ヘッドコーチが、
「アトムズのファーストのチャンスが、サードの丸山がエラーしたとき、ナイスプレーでした、コンセントレーション、て言ってたな」
 またまた爆笑。水原監督が、
「その丸山が、冷蔵庫の中で野球やってるみたいだな、チャップイ、チャップイって」
 さらに爆笑。太田コーチが、
「広島のバント男の古葉が、モリミチがバントしたとき、バントなんかすんなよ、十点差でって怒鳴ってた」
 笑いが止まない。楽しくて仕方がない。
「さあ、めしですよォ」
 控え選手たちが米原の駅弁を配る。近江牛大入り弁当とステーキ弁当が二十個ずつ用意されている。好みのほうを受け取る。私は江藤と並んで近江牛。向かいの席の菱川と太田はステーキ。もりもり食う。とにかくプロ野球選手は食いに食う。通路隣の一枝が、
「俺、去年の十三本から十六本に増えたんだよ。残り三試合、ホームラン狙いでいくよ」
 千原が、
「俺は十四本から八本だ。出場機会が減ったからね。そのくせ三振が多いから、ますます出してもらえない。去年百二十三試合で七十五個、今年八十二試合で四十八個」
 高木が、
「俺もけっこう三振するけど、四十から六十だな。慎ちゃんくらいだね。修ちゃんと達ちゃんが七十くらいだろ。金太郎さんは?」
「九個です」
「化け物だ。だれから食らった?」
「五月に大洋の高橋重から初三振、五月の末に広島の外木場、六月にアトムズの渋谷、阪神の江夏、八月に江夏に二個目、九月の末に阪神の伊藤幸男、江夏に三個目、十月に広島の大石と阪神の吉良、その九つです」
 江藤が、
「吉良は余計たい。遠慮したんやろう」
「それはありません。いつも全力です」
「へいへい、おっしゃるとおりでごぜえやす」
 一枝が、
「金太郎さんでも江夏から三振するというのを聞くと、ホッとするね」
 中が、
「修ちゃんは〈記録〉保持者だものね」
「へいへい、おっしゃるとおりでごぜえやす。あしたからホームラン狙い!」
 高木が、
「あしたの巨人はだれだ」
 木俣が、
「実質、金やんの引退試合らしいぞ。気の毒だけど、敬意を表して、打ちこんじゃおう」
「ワシは打たん。了解してくれ」
 江藤が言う。私は、
「江藤さん、金田さんが好投できるなら引退する必要はないでしょう。好投できないから引退する、それが理の当然です。遠慮は武士の情けじゃありません。真剣に勝負することこそ武士の情けです。全力で打ちましょう。……ぼくの目では、金田さんはまだまだ大した実力の持ち主に見えるんです。全力でぶつからないと悔いが残りますよ」
「……たしかにのう、そうかもしれん」
 菱川が、
「引退を強いられてるという噂もありますよ。四百勝に合わせて今年の登板数を少なくしたって」
 太田が、
「引退間近というのは確かなんでしょうけど、力は大して衰えてないということは大いにあり得ますよ」
 江藤が、
「わかった、全力でいこう。引退試合は来年春のオープン戦やろう。うちと当たるとよかばってん。全力でいくけん」
 本多コーチが、
「あしたのうちの先発は外山です。よろしく。おそらくこちらも引退試合になります。全力で打ちこまれますよ」
「うへ、打撃戦か!」
 高木が残酷な声を上げる。外山と二軍仲間の松本忍が、大きいからだを小さくして弁当を食っている。プロの図式はどこまでも残酷にでき上がっている。


         九十八 

 昼の二時を回ったばかりの名古屋駅ホームはいつもの出迎えであふれていた。松本や外山を囲む世界とは正反対の明るくまぶしい世界だ。菅野と睦子と千佳子たちがいて、松葉会の連中がいる。ふっくらと肥った文江さんも迎えに出ていた。菅野が私のダッフルバッグを担ぐ。この図だ。私が僥倖で得たもの―。うらやましそうに眺めている外山たちに胸が痛む。監督やコーチや選手たちをタクシー乗り場まで送っていく。歩きながら一歳年上の外山と二歳年上の松本に語りかけた。
「外山さん、松本さん、あしたは千載一遇のチャンスです。ほとんどのチームが引退間近の金田のには遠慮しても、あなたたちには遠慮しないでぶつかってくる。おかしいでしょう? 権威者に遠慮しても、遠慮した人間の正義感は損なわれないし、自分に嫌悪感も湧かないということなんですよ。しかし、そんな戦いの姿勢は、せっかく戦いを勝ち抜いて権威を得た人に失礼です。一生懸命がんばってきた人に失礼です。一人の人間が権威を得るのはたいへんなんです。並ひととおりの苦労じゃない。敗北の恐怖感を抑え、坦々と努力を積み重ねるしか方法はなかった。そうやって彼らは権威を得てきた。しかし、鍛えあげたものが崩れていくときは、そういう彼らだからこそ、すみやかに、いさぎよくその権威を捨てようとするはずです。―単純な考えですが、がんばってさえいれば敗北の恐怖感は胸の奥深くに押しこめられます。恐怖感を押しこめないかぎり、坦々と、落ち着いて努力はできません。あしたは自分が抱えこんできた不安や恐怖感をかなぐり捨てて、全身全霊、努力の権化にぶつかってください。逆に彼らの抑えこんでいた不安や恐怖感が浮き出してくるはずです。ぼくたちも全身全霊、援護射撃をしますからね」
 江藤が後ろから私の肩を抱いた。水原監督が目を潤ませながら私の腕を取った。本多コーチが、
「ありがとう―」
 とひとこと言った。中が、
「第二、第三の秀孝が出てくるといいね」
 菱川が、同期の千原に、
「俺たちも第二第三の江藤さんを目指さないとな」
「そうだな……」
 高木が、
「外山、松本、おまえらへたすると、引退試合でなくなるぞ」
「はい!」
 タクシー乗り場に明るい笑い声が立ち昇った。監督たちを見送り、江藤たちを見送った。
 だだっ広いコンコースを菅野と睦子と千佳子と北村席へ戻っていく。いつかいこうと思っていた早川浴場にもいっていない。この通路には床屋もある。そこにもいっていない。クリーニング屋もあるが利用していない。道すがら菅野が、
「ステージ部屋に専用棚を作って、トリオのアンプとパイオニアのプレーヤー、それからソニーのテープデッキを置いたんですよ。スピーカーはサンスイにしました。二十万円ほどかかりましたが、いい音を出します」
「スピーカーはステージの両脇?」
「はい。山口さんのギターを聴きましょう。コンテストの記念盤とスタジオ録音の二種類が手に入りました」
「いいね、聴こう」
 千佳子が、
「四時に直ちゃんが帰ってきます。あわただしくなるので夕食のときがいいと思います」
「わかった」
 門に一家の盛大な出迎え。報道関係者の姿はない。私を門まで無事に送り届けた組員たちが帰っていく。主人がカンナを抱いたトモヨさんと庭石を歩いてきて、
「たった三打席のために遠征してきましたなあ。しっかり休んだから、ここにきて力があり余っとるでしょう。三連戦で何発いきますかなあ」
「三発以上いきたいです」
 座敷に落ち着くと、文江さんが、
「スクラップブックゆうやつ、私も作るようになったわ。野球のことはようわからんから、五百野をな。毎日泣いとる。キョウちゃんは、小さいころからああやって生きてきたんやねェ。初めて葵荘で遇ったときに感じたとおりの子やった」
「小説だから、作り話もあるよ。事実でなく、こしらえた真実として読んだほうがいい」
「真実?」
「人間はこう生きるべきだ、こう生きるのが美しいということ。個人の信念みたいなものだから、正しいかどうかはわからない」
「ふうん、そういうもんかいね。深いんやね」
「……単純だよ」
 賄いたちがコーヒーを出したり茶菓子を出したりする。座敷が賑やかになる。主人がもう神無月さんをこっちにいただきますよという表情で、スクラップブックを開き、
「百五十八号を打たれた江夏が言っとります。管理野球とか、組織野球とか、俺は考えない。チームワークなんてものを考えてたら、野球はできん。神無月くんとは真っ向勝負する、それが俺の責任ある仕事やと信じて勝負して打たれた。悔いはない。ただ次の日の最終戦でチームを勝たせたいという俺らしくない気持ちが出た。三点リードしとったところから自分の責任で、一点逆転されるところまでいっとったからね。一点でも取られるとチームの勝利が遠ざかると確信したからね。それで敬遠した。敬遠は俺の美学じゃなかった。野球人として美しくなかった。降板したら、すぐ追加点喰らって負けた。勝負しとけば、負けても悔いはなかったのにな。神無月くんには最高の球を投げて勝負したかった。残念や」
「すてきですね。ぼくは三振九個のうち、三つを江夏にやられてます。彼は三振を取れるピッチャーです。それが美学なら、そうすべきだった。プロが自分の才能を発揮しないでチームのためになんてやってると、結局チームを負けさすことになる」
「神無月さんに学ぶべき点はと訊かれて、コツコツ基礎訓練しとること、と答えとります。ピッチャーの基本はキャッチボール、その延長がブルペンで、ブルペンの延長がマウンドや。バッターの基本は素振り。ただ漫然と素振りをするんやなく、目的意識を持って素振りをする。六コースの素振り、屁っぴり腰の素振り、片手素振り。耳に入ってくる彼の基礎訓練はすべて俺のピッチングの心構えに役立つ。その話を聞いてからというもの、ぼんやりキャチボールや投げこみをすることがなくなった。神無月くんは最高のプロ野球選手ですよ。人びとに努力する心を与える存在や。プロ野球選手はグランドで、プロってすごいんだ、ということを見せつけんといかん。その基礎訓練を神無月くんは絶やさないということです」
「うれしいですね。友だちになれそうだ。康男に似た雰囲気がある」
 文江さんが、
「それでは私、夕方の授業があるで帰ります。キョウちゃん、気が向いたら遊びにきてや」
「うん。巨人二連戦のあとにいく。待ってて」
「はい。じゃ、みなさん、失礼します」
 立ち上がり、辞儀をして帰っていった。女将が、
「もう文江さん、すっかりだいじょうぶやね。ほんとによかった。せっかくもらった命やもの、みんなで大事にしてやらんと」
「千佳子、いつだったか百江と散歩したとき、那古野に〈ハセコーヒー〉っていう気になる喫茶店があったんだ。ローバーで連れてってくれないかな」
「はい、いきましょう!」
 主人が、
「あそこは中日が優勝した昭和二十九年にできた店ですわ。モルタルの民家ふうの古くさい店でしてな」
 女将が、
「あのあたりは桜通商店会やろ」
「おお。細々とやっとる店が多い。ハセはがんばっとるな。終戦後東京で修行してきて三十歳くらいで店出した」
「お嫁さんと子供を連れて帰ってきたって聞いとるで。もう高校出るくらいやろ」
「さあな。コーヒー一本の口数の少ない男でな、退屈すると思いますよ。一杯飲んだらはよ帰ってきてください」
 菅野が、
「直人を迎えにいくまで一時間ありますから、セドリックでいきましょう。私も気になってた店なんですよ」
「じゃワシもいくわ」
 女将が笑った。
         † 
 則武のガードをくぐり、那古野の変則四差路を西高の方向へ進む。
「この通りは有名な中村郡道です」
 一筋目を指で示す。
「走ったことがあります」
「一人で?」
「はい、菅野さんと走らない予定の日に、こっちではなくガードの向こうをね。自転車屋が多いなと思ったくらいで、町並は見なかったな」
「名駅から西の中村区は、浅野先生の家みたいな板壁の二階家が多いんですが、駅の東の西区は、礎を高くした石垣の蔵が多くなります。堀川の氾濫に備えてね。江戸の大火で町並が整備されて、特にこの那古野のあたりにはシケミチが通されました」
 睦子が、
「シケミチ?」
「四間道と書きます。約七メートルですね。飛び火を避けるためです」
 その解説で思い出した。西高のころ、一度カズちゃんときて、このあたりの歴史を説明してもらったことがある。助手席の主人が、
「ここいらは桜通商店街の一部なんやが、どの通りも変わったなあ。ボロ家ばかりだったんが、マンションとビルばかりになった」
 二筋目の道へ市電レールを横切って右折する。右折して十秒、すぐハセコーヒーがあった。シミだらけのモルタルの二階の壁に、大きくHASE COFFEE。純喫茶のたたずまいの店でかなり大きい。ドア横の壁に、営業時間午前七時半~午後六時半、と書かれたタイルが貼りつけてある。
「朝七時半というのもすごいけど、夕方六時半で閉店というのもすごいなあ。銭湯の営業時間もすごいし、名古屋が俗な都会じゃないという証拠だ」
 店前の道端に駐車し、鈴(リン)を鳴らしてドアを入る。
「いらっしゃいませ。おお、北村さん、おひさしぶり」
 折につけて商店会同士でよしみを通じている知己なのだろう。派手な笑顔のない、オールバックにした四十代の男だ。ほかに店員がいないところを見ると、一人で切り盛りしているようだ。
「神無月さんが気にかかるゆうんで、いっしょにきたわ。散歩の途中でこのあたりを通ったらしい」
「ほう! このかたが高名な神無月選手ですか。美丈夫やなあ。北村席さんにおられるとは聞いとったが」
 何人かの常連客たちがしばしざわつく。タクシーの運転手ふうや、家族連れ、散歩老人らしき人たちが仰天したようにこちらを見つめる。
「ほんものやが!」
「きれいやなあ!」
「からだはゴッツイで」
 睦子たちにも視線を移し、その美しさにも目を瞠っている。大きな明かり窓がいくつもある清潔そうな店だ。使いこまれたカウンター席の茶器棚に並んだカップ類の見映えがすばらしい。高円寺の寿司孝のようなテレビは置いていない。ラジオも鳴っていない。客の息づかいだけが聞こえる。一徹な店主のようだ。千佳子と睦子が微笑みながら見回す。
「コーヒー一杯飲んだら帰りますわ。うまいブレンドいれたって」
「はいはい」
 年季の入った焦げ茶の角テーブルに五人腰を下ろす。男は年代ものらしいミルで豆を挽く。名古屋は日本有数の喫茶王国で、県民は喫茶店にいくことを生活習慣の一つにしていると、カズちゃんのコーヒー関係の本で読んだことがある。
「ふーん、神無月選手がとうとうちの店にきたわ。ありがたいな」
 サインを求めないのがうれしい。私は、
「あの、小倉トーストもください」
「私たちも!」
 千佳子が手を上げる。
「ゆで卵もつきますよ。かわいらしいお嬢さんがたですな」
「うちに住んどる名大生ですわ。法学部と文学部。神無月さんの学生時代の野球部のマネージャーやと」
 睦子が、
「追っかけです。私たち三人、青森高校の同級生なんです」
「ははあ、なんかおもしろそうなエニシですな。追々、お話聞いていきましょ」
「はい、ときどきコーヒーを飲みにきます」
 男は丁寧にフィルターでコーヒーを落としている。菅野はテーブルの上の星座占いのルーレットやピーナッツベンダーを触っている。十円入れると出てくるやつだ。子供連れのテーブルで、おさげの女の子が角張った瓶の牛乳を飲んでいた。めずらしいものを出す店だ。菅野が、
「昭和二十九年というと、東京タワーより古いですね。東京タワーは昭和三十三年ですから」
「はい、名古屋テレビ塔と同い年です」
 私は、
「このあたりは中小の企業ビルも多いですが、古い建物もポツポツありますね」
「ええ、海苔を扱う会社がようけ集まっとります。古い家には屋根神さまが乗っとることが多いです」
「何ですか、屋根神さまって」
「屋根の上に乗っとる小さな祠(ほこら)です。軒に乗っとれば軒神さまです。火事と疫病を防ぐ神さまですよ。江戸の名古屋は火事と洪水が多かったでね。屋根神さまは名古屋独特のもので、その中でも西区が圧倒的に多いんです」


         九十九
 
 店のオリジナルイラストの描かれた皿とカップでコーヒーが運ばれてきた。
「小倉はいま出しますからね。ハムトーストもうまいですよ。明治創業のスギモトのスモークハムを使ってます。いつか食べてみてください」
 小ぶりなカップのコーヒーをすする。色も濃く、強い苦味もあって、クラシックなストロングコーヒーだ。
「うまい!」
「おいしい!」
 吉祥寺の武蔵野にも劣らない味だ。遅れて出てきた三角切りの小倉トーストも、たっぷりの粒餡がまろやかで、極上の味だった。ゆで玉子は主人と菅野にまかせた。菅野は結局十円を入れて、極彩色の殻に包まれたピーナッツを取り出した。一粒食ってみたが、うまいものではなかった。客の一人が私に、
「あしたから阪急―近鉄四連戦ですよ」
 知らなかった。
「そうですか。どちらが優勢ですか」
「近鉄でしょう。二勝で優勝、阪急は三勝しなくちゃいけません」
「さすが三原や。監督二年目で優勝争いやもんな」
 私が気詰まりにしているのを見て、店主が主人に、
「椿さんのお祭りはどうやったですか」
「おととい、店の女たちが神明社に甘酒を呑みにいきましたわ。その日は駅西銀座も賑わいましてな。今年は中日優勝の大売出しで椿商店会ろてんやわんやでしたから、神社の祭りどころやなかったですよ。うちの商売には何の影響もありませんでしたがね。ハハハ」
 椿神社の甘酒祭りの話が出かかったところで、さ、と言って主人は腰を上げた。商店街関係の長話になると思ったのだろう。私は客たち全員と握手した。女の子は気持ち悪がって近寄らなかった。菅野は私たちを北村席に送り届けると、トモヨさんといっしょに直人を迎えにいった。
         † 
 四時を回って、菅野とトモヨさんに連れられて直人が帰ってきた。ソテツと千鶴が園児服を脱がせる。直人はぼんやりしていて、私に気づいても、おとうちゃんとも呼びかけない。
「ときどき咳が出て、少し熱っぽいんです」
 とトモヨさんが言う。菅野が、
「保育所で風邪が流行ってるらしいんですよ」
 菅野はその足で母子を日赤へ連れていった。
「四、五歳までは仕方ないわ」
 女将が言う。中番で帰ってきた百江が聞きつけて、
「男の子はほんとによく熱を出します。心配ないですよ」
 睦子が、
「弟は子供のころ何度も熱を出したんですけど、母が言ってました、男の子は二歳までに何回も熱を出すのがふつうだって。初めて出会うウイルスや細菌に対する抵抗力が女の子よりも弱いことが原因ですって。男の子ならだれでも通る道みたいです」
 厨房が忙しくなる。主人が、
「そろそろ、ベストナインが決まる時期ですな」
「何ですか、それは。よく耳にしますけど」
「プロ野球取材歴五年以上の新聞記者の投票で、守備位置ごとにその年最高だと思われる選手を決めるんですわ。日本シリーズ終了の二、三日後に発表されます。今年の受賞会場は名古屋観光ホテルです。ベストナインは昭和十五年に始まって、もう三十年になりますよ。初代三塁手は水原監督が選ばれました」
「監督が!」
「中日からは、ピッチャーとファーストとショートとサードは選ばれんでしょうな。小川さんはあんなことなければ確実やったのに。今年の小川さんは最多勝だけやね。ベストナインも沢村賞もおととし獲っとるからええでしょう」
「沢村賞はいつ発表ですか」
 千佳子もスクラップブックを開き、
「二十一日。中日の最終戦の日です。沢村賞は別格なんですよ。ベストナインのピッチャーとショートとサードは、高橋一三と藤田平と長嶋ということなんでしょうけど、ファーストは江藤さんじゃないでしょうか」
 主人が、
「ふつうはそうやけどね。ホームラン七十本近く打って、優勝に貢献したんやからね。ただ、江藤さんは去年までは外野でベストナインやったし、今年ファーストにコンバートされたばかりやからな。ファーストの守備力という点から考えてもまず……王というビッグネームは揺らがないでしょう」
 私は、
「いや、江藤さんがダントツで選ばれると思いますよ。この先何年もね。江藤さんの守備力はすごいんです。ショートにしても、連係プレーの華麗さを考えれば一枝さんが本線でしょう。菱川さんは常時出場じゃないし、コンバートされて日が浅いから無理ですね。そうでなくても長嶋の牙城は崩せない。ピッチャーとサードは仕方ないですね。かえすがえすも、小川さんが残念です」
「じつは、沢村賞は辞退するにせよ、ベストナインは辞退しないようにという厳命がオーナーから下ったようですわ」
「そうですか! それなら中日から八人ですね」
 座敷に笑いが満ちた。
「こんだけ神無月さんに贔屓されて、ドラゴンズの連中は幸せですな」
「贔屓じゃありませんよ。守備力のことを言うなら、華麗でない江藤さんも、華麗な一枝さんも、今年は一つしか失策してないんですよ。名手高木さんが十個です。ぼくの目にはエラーに見えないんですが、セカンドはきわどいプレーが多いのでエラーと判断されてしまうんでしょう。阪急に移籍した島谷が移籍前に八個も記録してます。移籍してからも十九個記録してます」
「なるほどね。それじゃやっぱり八人受賞かもしれん。いずれにしても快挙ですな。授賞式は一家で会場に詰めかけます。さあ、あしたから巨人二連戦です。一年間の総まとめの試合です。しっかり観にいきますよ」
 アイリス組が帰ってきた。カズちゃんが、
「あ、キョウちゃん、お帰りなさい。一週間ほどこっちね。二十五日は竹園に何時までにいけばいいの?」
「午後ならいつでも」
 メイ子が、
「二試合分のアウェイのユニフォームは、もう箱詰めしてあります。バットは?」
「五本」
 主人が、
「西宮とはかぎらん。あしたから近鉄―阪急の天王山四連戦や。近鉄が二勝、阪急が三勝で優勝。近鉄優勝なら大阪の藤井寺球場、阪急なら西宮球場。藤井寺なら春日旅館、西宮なら竹園旅館やな。球団広報からハガキがきとった」
「二十六日の試合開始が一時だから、どちらへいくとしても、二十五日なら何時でもいいね。江藤さんたちと団体行動をとるよ」
 食事中に直人がトモヨさんと菅野に連れられて日赤から帰ってきた。直人は赤い顔をしているが元気だった。カズちゃんが、
「どうしたの、直人!」
 トモヨさんが、
「保育所で風邪をうつされたみたいで」
 素子が、
「たいへんや! キョウちゃんみたいに中耳炎になってまうが」 
「だいじょうぶです。三十八度二分で、風邪ならふつうに出る熱ですって。咳を鎮めるお注射で、泣かなかったんですよ」
 私は直人に、
「痛くなかったか?」
「いたかった。がまんしたの」
「そうか、えらいぞ」
「食欲がないなら無理にあげないで、ジュースを飲ませてればだいじょうぶですって。あしたは重湯を作ってあげます」
 女将が、
「お風呂はええから、早く寝かせなさい。イネ、オレンジジュースと氷枕を作って」
 トモヨさんが、
「カンナにうつしたくないので、イネちゃん、今夜はカンナのベビーベッドの横で寝てくれる? 私は直人と二人、寝室で寝ますから」
「はい。三日ぐらいそうすべ。だども、奥さんがうつったらたいへんだ」
「予防注射してきたからだいじょうぶよ」
 母子が去っていく。イネが台所で氷をかいた。素子が心配そうに、
「うち、一晩、ここに泊まろうか? 氷作らんとあかんやろ」
 千鶴が、
「あたしがやるわ。おねえちゃんは心配せんでええ」
 主人が、
「ただの風邪や。大げさに騒ぐな。あしたになったらケロリとしとるわ。トモヨにうつらんとええけどな。予防接種なんて、効き目あるんかいな」
 女将がデンとして、
「トモヨは頑丈やから、うつらん。うつっても一日で治る」
 千佳子がステージ部屋に立っていって、ステレオを点けた。スタジオ録音の美しいギターの旋律が流れ出す。山口が到達した音だ。カズちゃんが、
「山口さんね。すてき」
 A面はポピュラーな曲のようだ。愛のロマンス、アルハンブラの思い出、バリオスの森に夢見る、ビゼーの真珠採り、タレガのマリーア、グラン・ワルツ、ラグリマ。ときどきキュッと絃を滑る指の音が生々しい。技の冴えを感じる。みんな箸を止めてうっとり聴き入る。睦子が、
「山口さんの透き通った心が伝わってきます。十二月に千佳ちゃんと東京に聴きにいくのが楽しみ」
 私が、
「練馬の豊島公会堂だってね。水原監督に聞いた」
 カズちゃんが、
「きっとそこから全国ツァーが始まるんじゃないかしら」
 菅野がうなずき、
「名古屋公演が決まったら、切符をとらないといけませんね」
 カズちゃんが、
「交代交代で休みをとって聴きにいきましょ」
 百江に少し遅れて、優子、信子、キッコが帰ってきて食卓につく。近記れんと木村しずかと三上ルリ子はいない。この三人がいまどういう配置で北村席にいるのかよくつかめない。近記は八月からトルコを辞めてアヤメに勤めているはずだ。三上は厨房にいる。いやアヤメだったか。木村は九月から厨房に入って、ファインホースの電話番もしている。三人が順繰り電話番をしている様子もある。
 千佳子がレコードを止めたのを潮に、みんなひとしきり食事に精を出す。ブリの柚胡椒焼き、鶏の甘辛揚げ、豚肉の味噌漬け焼き、牛肉とゴボウのしぐれ煮、ナスの揚浸し、野菜サラダの大盛り。どれもこれもうまい。旅館の料理とは大ちがいだ。しっかり腹に溜めると、私はごちそうさまをし、レコードをB面に返す。ジャケットをじっくり見つめながら、スピーカーの前に肘枕で横たわった。ソルの月光。健児荘の短い廊下が浮かんだ。竜飛岬、堤川の草の土手、コーヒーメーカー、風呂屋、湿った暗い森、ヒメネスの詩、転入試験、グリーンハウス、コンバットマーチ。山口と歩んだ時間のことごとくが一つひとつ思い出された。女たちもやってきて横坐りになった。カズちゃんが、
「キョウちゃんに遇ってから、どんどん透き通っていった心。その集大成がこの音。友情と愛情の音。少し落ち着いたら、山口さん、キョウちゃんの詩にメロディをつけはじめるわ。コンサートで歌うかもしれない」
 千佳子が、
「いちばん最初は堤川かしら」
 睦子が、
「それとも、野辺地」
 カズちゃんが、
「詩を読みながら、ギターの伴奏という形かもしれないわね。……むかしから山口さんの心の底には、キョウちゃんが社会に適応できずに、詩人にも野球選手にもなれなかったとき、ギター一本でキョウちゃんを一生面倒見るという覚悟があったの。だから趣味でギターを弾いているわけにはいかずに、どうしてもプロにならなくちゃいけなかったの。当面その必要はなくなったわ。でもその気持ちはずっとつづいてるから、今度はキョウちゃんの文学的な名を高めようと努力することになるでしょうね。五百野でキョウちゃんの文名が高まることをだれよりも願ってるのは、山口さんよ」
 素子が、
「五回の連載が終わって、すごい反響らしいがや。スポーツ雑誌しか出版しとらんような新聞社から出さんと、文学専門の大手出版社から出したほうがよう売れるって、アイリスのお客さんが言っとった」
「ぼくは、自分の書いたものを初めて活字にしてくれた人たちに永遠に義理を立てる。東奥日報と中日新聞だ。新聞連載なんて、有名作家にしか頼まないものだ。それを名も知れないぼくごときに頼んだ。それほどの恩義を裏切ったら人間じゃない。よしのりがぼくの詩の原稿を持ちこんだとき、ペラペラめくるだけで歯牙にもかけなかったのは大手出版社だ。いったんそういうことをした以上、彼らはそのするどい鑑識眼に誇りを持ちつづけるべきで、いまさら節を曲げるのはみっともない。彼らのような〈目利き〉のいる出版社からはぜったい出版しない」
 キッコが、
「オトコやなあ」



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